博多は 太閤町割りが 今の7流に繫がっていると 前に書きました。
秀吉と千利休についての詩があるので 読んで戴ければと 思います。
躙り口(にじりぐち) ー 千利休の独白
お世継ぎ鶴松さまを授かられてからの
てんか様は
いよいよ専横が目に余り
病弱な弟君の秀長公のお諌めだけが
その行動の歯止めとなる有様
茶と云うより茶道具を好んだ信長公に
共にお仕えし
羽柴殿、宋易公、と呼び合った仲だったが
近頃は宋易の諫言にもご癇気
天下統一の最後の牙城、
小田原城を攻め落としてからは
生来の戦好きが唐御陣へと向かわせた
北の政所が頼みとされた秀長公のご逝去の今
もう誰も関白殿を止めることはできない
「内々は宋易へ
公儀はこの秀長へ」
一介の茶坊主に過ぎない宋易の政への干渉は
治部殿を始め周りの者達の反感を買い
秀長公亡き後一気に噴出した不満が
讒言(ざんげん)となり
関白殿の逆鱗に触れた
妻共々贔屓に与った
大政所・北政所のおとりなしで
平身低頭で許しを乞えば
命までは取られなかったろう
増長していく羽柴殿の頭を
下げさせたくて拵えた
躙り口だったが
いつしか関白様は
亭主しかしなくなり
普段のお茶室への出入りは
貴人口から立ったままとなった
思えば
宋易が 信長公に
お仕えしたのは
丁度、今の関白殿の年頃だった
信長公に10年、
羽柴殿に10年。
たかが茶道具一つに
鉄砲より、一国より
高い値をつけた事もある
武力で押さえ込まれた
自由都市・堺の
誇り高き商人としての
報復でもございます
仰せのまま
宋易は腹を切りまする
私は羽柴殿が
好きでございました
文字通り
刎頚の友と相成っての
奢れるてんか様への
最後の諫言にございます
躙り口とは お茶室の客としての外からの入り口で 畳半畳ほどの大きさです。
膝をつき躙って入室します。
お茶室は もともとは武士の密談に使われていました。 帯刀のまま這入れないように 入り口が小さくなったのです。 二心が無いのを 示す為 部屋も小さくなっていきます。
伊達政宗だけは 帯刀を許されました。 東北で謀反を起こしましたが 花押に針の穴をあけて 穴の無い書状は自分の書いたものではないと しらをきり通したので 何時殺されるか 解らないと思っていたのです。 何故か秀吉は そんな正宗を可愛がります。 正宗の血液型はB、 秀吉のO型とは相性がいい、O型は B型のお守りがうまいそう。 正宗が十字架を背負って白装束で 秀吉に許しを乞いに行った、 そんな事も秀吉は 面白がったようです。 ホントかいな?
信長の血液型もあの風貌から Bと思われます。 秀吉はB型の人が 得意だったのですね。
信長の元では 宋易の方が位は上でした。 天下を取った秀吉は O型の習性として 自分より上の存在は許せなかった。 何としてでも宋易に 頭を下げさせたかった。 子供のようにいちゃもんをつけまくる。 秀吉50才 宋易70才。 隠れ棲んでいた京都の家の周りを 3000人もの兵士で取り囲んだ秀吉に あきれ果てた宋易は もういい充分生きた と思ったのでしょう。
秀吉は2度 宮中で茶会を開きます。 あの純金のプレハブ茶室は その為に作られました。 勿論得意満面の秀吉に 宋易も供を乞われます。
利休というのは 禅僧としての位を上げる名です。 参内するには 宋易の名では 位が低かったのです。
血液型がO型の人は トップに立つと 独走・驀進する傾向があります。 元々
横の関係が苦手、 上下関係にしたがります。 O型の人は 目の上のたんこぶ的
存在を どんなに偉くなっても 排除しないで 大事にして下さい。
O型の人と良い関係を保ちたい人は 決して下手に出ない、子分にならないように。
風呼 でした
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