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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ベスト・オブ・ウィンナ・ワルツ 第1集/エシェベ&ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団

2010年01月04日 00時05分26秒 | クラシック(一般)
 うーん、懐かしいアルバムだ。ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団といえば、現在でも毎年正月になると日本にやって来て、ほとんどベンチャーズ並に日本の津々浦々でウィンナ・ワルツを演奏する「ニューイヤー・コンサート」をやっていているのだけれど、このアルバム1990年、アルフレッド・エシェベが率いていた頃に、確か日本資本で制作されたアルバムだった。カラヤンがニューイヤーに登場して以来、日本でも「新年にウィンナワルツ」というイベント人気がにわかに高まってきた時期でもあり、それに乗じて作られた、思えばかなりバブリーなアルバムであった。当時の私はカラヤン、アバド、クライバー、メータと立て続けにスター指揮者が登場し、以前にも増して華麗なるイベントへとイメチェンを遂げた本家ニューイヤー・コンサートの華やかさに、きっと煽られてしまっていたのだろう、このアルバムが出た前後数年間はお正月といえばこのウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団やウィーン・フォルクスオーパーの来日公演に、柄にもなくお洒落してけっこう通ったものだった。まさにバブルの時代、わが青春の80年代である(笑)。

 さて、このアルバム、ずいぶん久しぶりに聴いた。なにしろ近年、正月にウィンナ・ワルツを聴くとなれば、既に20年分はストックしたニューイヤーコンサートのライブ盤はあるし、カラヤンのスタジオ盤、ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団にしたところでボスコフスキーのアルバムと百花繚乱状態だったので、このアルバムのことはほとんど忘れていたといってもいい。先ほどから、新調したヘッドフォンで聴いているのだが、意外にも....などといったら失礼だが、実に素晴らしい演奏だ。例の2拍目と3拍目の間隔がちょいと長くなる、どちらかといえばウィーンのローカルなリズムに、ふんわりとしてちょっと厚ぼったいこれまたウィーン風なサウンドをベースにしつつ、そこに適度に現代的なスマート感を加味したその演奏は、いい意味で匿名性の高く、スタンダードな安定感があって、聴いて気持ち良いことこの上ないのである。シャープに弾けすぎない「こうもり」、この曲がワルツであることを再認識させる「オーストリアの村つばめ」、壮麗さが勝ちすぎない「美しく青きドナウ」、もっさりとしたところが逆にひなびた風情を感じさせる「ラデツキー」などなど、その楽しさはなかなかであった。明日にでもさっそくiTunesライブリに入れるとしよう。
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レオンガヴァレロ 歌劇「道化師」/カラヤン&ミラノ・スカラ座O

2010年01月03日 18時54分08秒 | クラシック(一般)
 ついでに録りためてあった「カラヤンの芸術」からもう一本。レオンカヴァルロの「道化師」である。私はこのオペラについては、漠然と「ヴェリズモ・オペラ」の先鞭をつけた作品くらいの予備知識しかなかったのだが、「ばらの騎士」のように3時間も上演時間のかからない、1時間15分ほどの作品ということもあって、「こういうのを観ようという気も正月の今くらいしかなかろう」と、気楽な気分で観始めた。もっとも、Wikiによれば『妻である女優の浮気に怒り、次第に現実と芝居との区別がつかなくなり舞台上で殺人を犯す老座長カニオの悲哀を描いている』といういかにもイタリア臭い愛憎劇なことが分かったので(そらーそーだよな、だから「ヴェリズモ・オペラ」なんだろうし)、始まってすぐさま「中身はあまり気楽じゃないかもしれんねー」とかちょっと後悔もしたのだが(笑)。

 第1幕はまず道化師の口上から、街にやってきた道化師一座を迎える喧噪、一座の女優にネッダに言い寄るトニオ、ネッダが愛するシルヴィオとの二重唱(これは美しい)と進んでいく。「カルメン」などでもそうだったが、カラヤンの演出はテレビ的なショットを軽快に積み重ねていくスタイルで、ほとんど舞台であることを感じさせない独特のものだ。妻の不貞を知った座長(ジョン・ピッカーズ)がそれでも道化師を演じなければいけない苦悩を歌った部分もドラマチックな美しさがある。
 第2幕は劇中劇がメインとなり、徐々に現実と劇を混同しはじめる座長のカニオが、やがてネッダを殺害するところがハイライトとなる。第1幕の後半と同様、ジョン・ピッカーズが重厚な歌と演技でドラマチックに演じている。オペラブッフェ的な音楽から次第にシリアスな音楽に変わっていくあたりのプロセスは(ここも歌手のアップを交互に切り替えていく非常にテレビ的演出だった)、カラヤンらしくオケを雄弁に語らせ、劇のいっそう迫真性をもたせている。

 という訳で、観終わって感じたのは、この種の情念に満ちた不倫愛憎劇でもって、どちらかの死で終わるカタルシスみたいところは、大昔のイタリア映画なんかでもお馴染みのパターンだが、このオペラにもそうした「イタリアっぽさ」を感ぜずにはいられなかったといったところである。ちなみに、「道化師」と並ぶヴェリズモ・オペラの双璧である、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」も「カラヤンの芸術」でオンエアされたものを録画してあるのだが、こちらはどんな内容なのだろう?。
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R.シュトラウス 楽劇「ばらの騎士」/カラヤン&VPO 他

2010年01月03日 15時23分24秒 | クラシック(一般)
 しばらく前にNHKのBSのプログラム「カラヤンの芸術」というシリーズ(フィルム時代に残した彼の映像が大量にオンエアされた)での1本。カラヤンが振るオペラで十八番といえば、なんといってもR.シュトラウスの「ばらの騎士」か「こうもり」だろうが、これはほとんど幻と化していた1960年のザルツブルク祝祭大劇場の杮落とし公演を映像である(DVDでも出ているようだ)。
 私はそもそもR.シュトラウスが苦手の部類だし、この「ばらの騎士」もLD時代に一度挑戦したことがあったのだが、3時間を越える長さや艶笑劇風な雰囲気に違和感を感じ、その良さがさっぱり分からないまま、途中で放棄してしまったことがあったのだが、これだけ「音楽的お膳立て」が豪華絢爛に揃った演奏なら話は別....とばかりに録画してあったものを、新年ということもあり、こちらの気分がゆったりしている今なら(笑)、「あれから大分年月もたったことだし、存外楽しめるかも」という期待を込めて観てみた。

 舞台は非常に豪華である。1960年の舞台の映像化だが、コンサートの中継というより、明確に映画化という意図した作品なので、ライブソースに併せて映像は別撮りしたらしく、こと映像に関してしては専門のスタッフが腕をふるい、カメラ・アングルや構図など、実に完成度の高い仕上がりになっている。とにかく落ち着いて観ていられる。少なくとも、後年カラヤン自ら演出したものなどに比べれば、スタンダードな良さに満ち満ちていることは確かだ(モノラルだが音質も非常に良好で、この時期のカラヤンらしく実に俊敏にR.シュトラウスの音楽を演奏しているのもよくわかる)。
 出演陣もこれも十八番なシュワルツコップの元帥夫人を筆頭に、オットー・エーデルマン、アンネリーゼ・ローテンベルガー、クルト・エクヴィルツ、ジュゼッペ・ザンピエーリなどなど、ちょい役ですら、今では「伝説の人」が続々と出てくるのは楽しい。有名なシュワルツコップの元帥夫人は、なるほど「若い男にうつつを抜かしているはいるが、そろそろ自らの寄る歳を感じないではいられない」という微妙な設定を実に巧みに演じている。第一幕のモノローグ以降など、一歩間違えば「単にお盛んな年増女が何を気取ってるんだ」みたいな感じないでもないと思うのだが(笑)、その高貴な容姿といい、凜とした歌唱といい、ほとんど下世話な雰囲気を感じさせず、微妙な女心を格調高さを湛えているのはさすがで、やはり十八番なだけはあると納得。また、ローテンベルガーの溌剌としたゾフィー役もチャーミングで好印象、エクヴィルツのスケベ心と俗物根性満開のエーデルマン役も楽しい。

 ただ、まぁ、おとそ気分で漫然と観ている分にはいいんだけど、これを存分に楽しめたかといえば、やはりそうでもない。第1幕の後半や第3幕のラストの哀しさなど、確かに心に染みるもの美しさがあるし、第2幕の銀のばらの贈呈の場面と二重唱だとか有名なワルツの場面などは楽しめたが、とにかく長い。音楽が時に瀟洒過ぎて「もう、ごちそうさま」みたいなになってしまうこともしばしばだった。やはりこれだけ古典的な舞台設定に、この妙に豊満な響きな音楽つくと、ちと違和感がないでもない感じか....まぁ、R.シュトラウスのマジックが効かない私故の印象なのかもしれないが。
 それにしても、このストーリー考えてみれば凄い。表向きモーツァルトの時代の設定でありながら、基本的には「若い男が逢瀬を重ねる人妻が、相手となる男が他の若い女と結ばれるのをお手伝いして、自分はそろそろ恋愛の現役を引退する年齢だと感じる」みたいなものだろうが、ドラマはいきなりダブルベッドで始まっちゃうことではあるし(笑)、ベルクの「ルル」みたいなエグさとは無縁だが、やはりこういう「苦み」というのは、これで20世紀のオペラゆえの味だろうと思った。
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ニューイヤー・コンサート 2010/プレートル&VPO

2010年01月01日 22時20分14秒 | クラシック(一般)
 本年のニューイヤー・コンサートは、一昨年に続きフランスのジョルジュ・プレートルが指揮を担当、マゼール、メータ、ムーティといった常連組を除けば、これに2回以上登場するのは、クライバーとアーノンクールくらいだから、プレートルという指揮者は日本での認知度に低さに比べ、ウィーンではたぶん絶大な人気があるのだろう。
 今回は第1部のトップに「こうもり」という、ウィーンを象徴するような曲を持ってきたところに、この外国人指揮者の登場2回目という余裕を感じさせる。演奏も非常に快調で、プレートルは現在85歳とのことだが、なにしろその指揮振りが若々しい、こういうのを「老いてなお矍鑠」というのであろう。79歳でこのステージに登場したカラヤンのことを思い出してみても、それ自体直接音楽に関係ないことだしても、やはり凄いことである。なにしろ指揮台のイスを持ち込まず立ちっぱなしなのだ(ついでに暗譜だ)。

 音楽も一昨年と同様、フランスの指揮者らしい垢抜けた流麗さがあり、「こうもり」という曲に満ち満ちているはじけるようなリズムも過不足なく伝えてくれていた。リズムの切れや推進力といった点でも、全く高齢を感じさせないのはさすがだ。第1部ではワルツ「酒、女、歌」は序奏部からきっちりと演奏、ワルツのリズムはさすがに角が丸めですいすい流れるていく感じなのは、フランスの指揮者故だろうが、一昨年同様、これはこれで悪くない。ついでにいえば「常動曲」の軽快なスマートさもこの曲にぴったりである。
 第2部は「ウィンザーの陽気な女房たち」からスタート。シュトラウスの曲ではないが、これもこのコンサートでは定番のひとつで、ウィーン風な旋律の美しさをスマートに歌い上げているのが印象的だ。「ウィーンのボンボン」(客席にロジャー・ムーアが居る!)、「シャンパン・ポルカ」、「朝の新聞」はけっこう渋い選曲だが、いずれも定番のひとつであろう。これまた非常に洗練され、滑らかな美しさが印象的な演奏であった。オッフェンバックの喜歌劇「ライン川の水の精」、ロンビの「シャンパン・ギャロップ」といった楽曲はこれはプレートルのお国柄を反映しての選曲。アンコールはこれも定番中の定番ポルカ「狩り」に始まり、お約束の2曲で締めくくられた。いずれもスマートで、洗練された愉悦感に満ちた演奏であった。

 という訳で、昨年の生真面目なバレンボイムとは対照的な軽妙洒脱なニューイヤーだったが、一昨年と比べてもよりプレートルがこのコンサートに馴染んでいる分、ウィーンらしさのようなものも期せずして、一昨年より感じられたし、全編に渡り安心して楽しめたといったところか。
 ついでにいうと、今回の中継ではいつもと違って、各部の冒頭にNHKの女性アナウンサーがさらりと紹介した後、ストレートにウィーンから中継をそのまま流していたが、これは歓迎である。例年、シュトラウスのことをろくに知りもしなそうなアナウンサーと場違いなゲストが出てきて、歯の浮くような賛辞を繰り返す座談会には辟易していたので、一部と二部の間は地元局が制作したとBGV風な映像でリハの風景だの、美人のバレリーナを眺めていた方が遙かに雰囲気あったし、楽しめたという感じだ。
コメント (4)
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ドボルザーク 交響曲第9番「新世界」/リッツィ&NHK交響楽団

2009年12月31日 20時18分37秒 | クラシック(一般)
 以前に書いたが、自分にとって年末の第9とはベートーベンのそれではなく、ドボルザークの「新世界」である。この曲の随所からあふれ出る望郷の念だとか、どんじり風な切迫感だのが、きっと帰郷ラッシュを迎え、いかにも押し詰まった今の時期に気分的に合っているだと思う....と、これもかつて同じところ書いた。で、例年は時に応じて新規に購入したCDの聴き比べが恒例だったのだが、今年のはちと趣向を変えて、「新世界」を視聴してみることにした。演奏はカルロ・リッツィが指揮するN響で、今年の前半にBSでオンエアされた第1641回定期からものだ。リッツィは初めて聴く人だが、1960年生まれのイタリア人とのことだ、年齢的には中堅といったところだろう。いかにもこの国の指揮者らしく、どうも専門はオペラのようだが、2005年のザルツブルク音楽祭で、急逝したマルチェッロ・ヴィオッティのピンチヒッターとして、「椿姫」を指揮して大成功したことで、一躍知名度を上げた人らしい。

 さて、このリッツィとN響による演奏だが、指揮者がイタリア人という当方の先入観も大きいとは思うが、伸びやかによく歌う旋律、シェイプするリズムに直線的な推進力といった、いかにもアバドやムーティらの後塵を拝する、いかにも現代のイタリア人指揮者による演奏という感じである。第1楽章は主題提示は譜面通りの反復して、メリハリはあるがドラマチックな盛り上がりはほどほどに、全体をプロポーショナルにまとめているという感じ。途中登場する愛らしい旋律や後半の金管を中心とした場面で、それぞれの楽器にきっちりと音楽的な役割を分担させようとしする、交通整理をするような指揮振りはまさにオペラ的である。第2楽章はイタリア指揮者ならやはりこうなるだろうという、この楽章の望郷の念を歌いまくって表現した演奏だ。指揮者のテンペラメント溢れる身振り手振りや、何故か美人がやけに多いN響でもアイドルのひとり(?)池田昭子のオーボエのソロなどを観ながら聴くと、この耳タコの旋律も新鮮な感興がある。

 第3楽章は古典的スケルツォというよりは、キリっとして直線的な演奏の流れの上で、短いシグナル風のモチーフが入り乱れることを強調したような演奏だ。この曲になさそうでけっこうあるモダンさのようなものが良く分かる解釈といえるかもしれない。トリオを経てスケルツォが回帰するあたりの間合いも良い感じ。どんじりの第4楽章はこれまでの主題を次々に再現し、突き進むような怒濤のような展開をする実にドラマチックな音楽だが、この演奏ではあちこちに風呂敷を広げない直線的な演奏でぐいぐい進んでいく、ややスリムな印象だ。フリッチャイとベルリンが組んだ、あの巨大な演奏を同曲のベストと思っている私としては、ちと低カロリーに思ってしまうところがないでもないが、今時あんな超高カロリーの演奏など誰もしないだろう。客観的に見れば、これはこれで十分にテンションに盛り上がっているし、素晴らしい演奏だと思う。という訳で、映像付きで観る「新世界」、音だけで聴くそれとは、ひと味違った感興があって楽しめた。
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ベートーベン 交響曲第9番「合唱付き」/マズア&NHK交響楽団

2009年12月31日 15時49分24秒 | クラシック(一般)
 この1月にSTBをハードディスク録画機能付きのものに新調して以来、リアルタイムでは観れないクラシックのソースや映画などを録画しては楽しんで来た。なにしろNHKはこういうソースのオンエアにかけては、さすがに国営という威信があるのか、N響の演奏会以外にも、特にオペラなどは豪華なプログラムが揃っていて、ついついあれもとオペラだの映画だのの長尺ソースを録画していくと、あっという間にハードディスクの容量を逼迫してしまう。録りためたソースをDVDに焼き、レーベル面をきちんと印刷してライブリ化という作業をまめにやればいいのだが、このところ息切れ気味なので、年末だというのにハードディスクの残り容量がかなり心許ないことになっている(なにしろダビング中は録画できないのがキビシイ)。さて、この残り少ないハーディスクのスペースをやり繰りしながら録画したのがコレである。この22日にやったらしい、N響によるベートーベンの第9だ。

 指揮はクルト・マズア、演奏前に流れたテロップによればこれが初客演となるそうだ。マズアは東ドイツ出身の指揮者で、個人的にはライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席を長く続けた、地味だが質実剛健な指揮者というイメージがあるけれど、東西ドイツが統一されてからはかのニューヨークフィルの首席に着任したりと、現在はかなりメジャーな指揮者のひとりとなっているようだ。そんなマズアを呼んでの第9だから、N響も張り切っている(ように見える)。いつもはどちらかといえばスリムで淡麗な演奏をする彼らだが、第1楽章の第一主題のところから既にかなり重厚なサウンドに一変しているように感じるのは、当方の先入観だろうか。
 この曲の前半の2つの楽章はリズムが素人聴きにもやけにおもしろくできていて、現代の指揮者はそのあたりをクローズアップして、この曲をモダンに聴かせたりすることが多いように思うのだけれど、この演奏は悠々迫らぬテンポ、ゴツゴツとした肌触りで、これはいい意味でいうのだが、オーバーにいうと「徐行する戦車」みたいなイメージの演奏になっているのはおもしろい。
 第3楽章はまさにドイツの田園風景が見えてくるような演奏。この楽章は一見平坦でしかもかなり長いので、前述のようなモダンな演奏だと、妙に均質で一本調子の演奏になってしまいがちなところもあったりするのだが、さすがに練達な指揮者のことだけはある、オーソドックスといえばこのくらいオーソドックスな演奏もないと思うが、田園風景の向こうにきっちり音楽が聴こえてくるから、飽きずに最後まで楽しめるのだ。

 続く、第4楽章は通常の編成に少年少女合唱団を加えた大所帯で演奏されるのが珍しい。ベートーベンの第9は、このやけに祝典的だが聴けば聴くほど、実はよくわからない楽章をどう料理するかにかかっている。宇宙的なスケールで展開し、あちらの世界に飛び出したまま終わるものもあるし、交響曲の枠組みをぎりぎりで堅持しつつマーラー的なロジックで演奏するものあり、また、あくまでも古典交響曲の異端児として、どちらかといえば質素に演奏するものなど様々である。マズアはこの3つ目のものだろうか、もちろん合唱団の迫力は録画で観ても豪華絢爛だが、音楽そのものは意外にも見識あるストイックを備えていたと思う。個人的にはこのくらいに質実な演奏の方が楽しめる。という訳で、久々にベートーベンの第9を楽しんで聴くことができた。
 それにしても、同曲を大晦日に聴くのは何年ぶりだろう?。いや、ひょっとして初めてかもしれないな(笑)。次は、ドボルザークの第9でも聴こうか。
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チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲/五嶋みどり,アバド&BPO

2009年11月22日 18時40分38秒 | クラシック(一般)
 今年の前半、ショスターヴィチのヴァイオリン協奏曲をあれこれ聴いている時に、購入したディスクにフィルアップされていることが多かったことや、何人かの演奏がテレビでオンエアされたこともあり、これを機会に「馴染みの曲」にしてやろうと、多少聴きはじめたところで頓挫してしまっていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だが、約半年ぶりに聴いてみた。前回はリーラ・ジョセフォウィッツがマリナーと組んだ90年代前半の演奏だったが、今回は五嶋みどりがアバドが指揮するベルリンをバックに演奏したものを腕組みしつつ、難しい顔をして(笑)、演奏がどうのというより曲そのものをじっくりと聴いてみた。自分用に曲の内容をメモっておく。

 第1楽章は、オーケストラの序奏が付き、やがてヴァイオリンの短いソロの後、第1主題が登場、この主題はソロからオーケストラとの絡みに中で発展していき、やがて大きなクライマックスを築く。第1主題が壮麗で男性的であるのに対して、第2主題は女性的で繊細である。第2主題では早くもヴァイオリンのソロに名技的な部分が登場して楽しい。オーケストラが力強く第1楽章を出すところ(6分あたり)からが展開部なのだろう。この展開部はオーケストラが奏でる第1主題にサンドイッチされた形で、ヴァイオリンは第2主題をメインにして、けっこうあっさりしている。
 カデンツァは3分近くもあり、ここでも第2主題が見え隠れする中、華麗なテクニックも盛り込まれた内容になっている。このカデンツァのムードをそのまま再現部に突入するが、序盤はしずしずと進めて、第二主題あたりから、テンションが盛り上がりはじめて、コーダで大きなクライマックスを築くという流れになっている。ヴァイオリンの華やかなテクニックもこの部分がハイライトという感じだ。

 第2楽章は三部形式、管楽器による序奏に続いて独奏ヴァイオリンが美しい旋律を奏でる。スラブ的な哀感を感じさせるものだが、私は交響曲第4番の第2楽章を思いだした。中間部はほのかにムードも明るくなり、多少の動きも見せる。やがて第1主題が回帰すると、決然としてオーケストラが主導して第3楽章へ移行する。この第3楽章は定番のロンド・ソナタ。主題は民族的なエキゾチックなムードと特徴的なリズムが特徴、第2主題はユーモラスな表情を見せる。これが交互に登場し、起伏も動と静をくっきりと対照して、熱狂的なフィナーレへ向かっていく。
 ちなみに第2楽章と第3楽章はふたつ合わせても第1楽章より短い。こうした極端に頭でっかちな構成は、協奏曲にはありがちなパターンだけれど、どうも第1楽章さえ聴いてしまえば、後はオマケみたいに感じがしないでもない。この曲など第2楽章と第3楽章は繋がっているので、長大な第1楽章に対してこちらはふたつ合わせて第2部みたいな感じなのかもしれないが....。
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バッハ 無伴奏チェロ組曲/藤原真理

2009年11月22日 11時13分52秒 | クラシック(一般)
 半年くらい前、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」を何種類かの演奏で集中的に聴き込んでいた頃に、無伴奏ヴァイオリンの次は当然チェロの方....とばかりに購入しておいたもの(他のシュタルケルのSACD、あとリン・ハレルのものも購入してあった)。バッハ作品の目録番号(BWV)ではヴァイオリンの方にナンバリングされているので、たぶん同じ頃作曲されたのだと思う。全6曲のセットというのをバッハは好んだようだけれど、このあたりの作品としての量感、無伴奏というストイックなスタイルなどなど、ヴァイオリンの方と共通した佇まいである。もっとも命名されているタイトルがヴァイオリンの方はソナタとパルティータに対して、こちらは組曲となっていてその由来がどこから来ているのか、浅学の私にはよくわからない。

 実際に聴いてみると、やはりチェロという低い音域の楽器ゆえなのだろう。同じ無伴奏とはいえ、ヴァイオリンの時のような孤立無援的な緊張感は-表向き-それほど強くなく、非常にゆったりとして「和む音楽」に聴こえる。こんなこといったら詳しい人に怒られるかもかもしれないけれど、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」と「無伴奏チェロ組曲」って、実質的な音楽内容はけっこう似たようなものなのだろうと思う。ただ、こちらはヴァイオリンのようなシャープな美しさにかわって、やはりチェロ特有な低音の安定感をベースにして、時にちょっとユーモラスだったり、鈍重だったりするチェロの音色やフレーズか表に出てきている分、圧倒的に耳障りがいいのが特徴だと思う。例えばちと高級な芸術イベントの会場でBGM的な音響として使うなら、おそらくこの曲は最高度にその機能すると思う(そういう場所で「無伴奏ヴァイオリン」の方をBGMに使ったら、おそらく音的に客の注意を引きすぎてだめだ-笑)。

 全6曲(聴くにの約2時間かかる)をBGM的に一通りきいてみたが、前述のとおりどれもゆったりとして楽に聴き通せる。2番と5番が短調になっていてこれがいいアクセントになっていているのもいい。5番の方は「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」の2番みたいな荘重な雰囲気があるし、6番はおなじくパルティータの3番風な明るさ、リズミカルさがあり(他と違い高い音域をつかっているようにきこえる)、これもけっこう印象的だった。
 ともあれ、今は三連休のど真ん中、関東的でもそろそろ暖房入れないと過ごせない気候になってきたが、ちと生暖かい部屋でリラックスしたBGMとして使うのはいい音楽だ。買い込んである他の演奏も聴かなければなぁ....。
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チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲/ジョセフォウィッツ,マリナー&アカデミーCO

2009年06月02日 23時36分38秒 | クラシック(一般)
 今は死語だろうが、アナログ盤時代には「メン・チャイ」という言葉があった。メンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のカップリングのことである。アナログ期にはこうした定番の組み合わせがあり、これの他だと「運命/未完成」なんかがそうだったと思う。アナログ盤の収録時間の関係でAB面分けて収録するには短すぎるような名曲が、組み合わされて定番化したんだろうが、CD時代になると78分という収録時間に併せて、こうした組み合わせも一新された結果、「メン・チャイ」という言葉は死語になったという訳だ。それにしても、今にして思えば、チャイコフスキーのこの曲などよくぞ片面にカッティングしたものだと思う。

 気になって調べてみたら、チャイコフスキーで35分、メンデルゾーンで30分は優にかかるではないか、当時、ロックの方ではたいてい片面の収録時間は20分前後だったから、25分なんか収録したら音が悪くなるといわれていたから、35分というのはいかにも詰め込み過ぎだ。恐らくカッティング・レベルをかなり小さくして収録していたのだろうが、いったいどんな音で鳴っただろう?、もっともクラシックならあまり気にならないレベルだったのかもしれないが。それにしたって、記憶によれば当時、カラヤンがフィルハーモニアを振ったモノラル盤で、ドボルザークの「新世界」とチャイコフスキーの「悲愴」を片面づつに収録した恐るべきレコードなんかもあったから(このカップリングだとCDにだって収録できまい-笑)、35分くらいは序の口だったのかもしれないが。

 さて、チャイコのヴァイオリン協奏曲である。80年代前半に私は当時のメンチャイのレコードの1枚や2枚は必ず購入しているハズなのだが、何を購入したのかまったく記憶にない。なので、この曲もほとんど初めて聴くに等しいのだが、たまたま先般聴きまくったコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲で、ムターとプレヴィンが組んだアルバムに併録(というかコルンゴルトがおまけでチャイコがメインなんだろうけど)されていたせいで、ここ二週間くらいウォークマンで良く聴くようになってきたし、これまた奇遇にも庄司紗矢香がラ・フォル・ジュルネ音楽祭で弾いた演奏だの、この4月にヤンセンがN響の定期に出演した時の演奏だのを視聴できたせいで、けっこう身近に感じてきたところだ。

 この曲はいわゆる「4大ヴァイオリン協奏曲」のひとつではあるし、チャイコだけあって華麗さという点では随一の仕上がりだと思う。ムターのアルバムのカップリングがそうだったせいもあるけれど、コルンゴルトの同曲の華麗さと共通するような感じもするのがいい。今回聴いたジョセフォウィッツという女流の演奏は、ムターのような威風堂々としたところもないが、流麗でクセのないスムースなところがよくも悪しくも特徴なように感じた。そういえば、ハーンも演奏も既に購入済みだが、彼女はどうこの曲を料理しているのだろう。
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ヒラリー・ハーン・プレイズ・バッハ

2009年05月20日 23時52分16秒 | クラシック(一般)
コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を視聴して大ファンになってしまったヒラリー・ハーンの17歳のデビュー・アルバムがコレ。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」からパルティータは2番と3番、ソナタが3番という3曲をピックアップして1枚のアルバムとして構成しているが、これはなかなかうまい構成だ。この全6曲に渡る無伴奏は最後の2曲....つまり3番のソナタとパルティータは長調で、残りが短調で構成されているのだが、そこから一番華やかで明るいパルティータの3番をアルバム・トップにもってきて、シャコンヌをフィーチャーした短調で重厚なパルティータ第2番を真ん中、そして最後は再び長調で軽快なソナタ第3番で締めくくると流れなのである。短調の曲が真ん中に来ることによって、アルバム全体がひとつの大きな3部構成の曲のようになっているのだ。

 「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」は何度か聴いていくと思うのだが、この全6曲は全体を俯瞰しつつ聴くと、重厚でシリアスな最初の4曲(特に「シャコンヌ」をピークに)から、徐々に明るく、そして最後には晴れ晴れと終わるような、例えばマーラーの5番みたいな、つくり私が慣れ親しんだあまたのロマン派の音楽のような流れに勘ぐって聴けないこともないと思うのだが、ここではハーンは17歳のデビュー作ということで、華やいだムードを重視、かつ難曲の「シャコンヌ」をフィーチャーしつつ、選曲盤ということで、過去の大巨匠たちとの直接対決は避ける....みたいな細心の注意を払った感じがするのである。
 「曲順なんか替えたところで、なんだというのだ」「勘ぐり過ぎ」みたいに云う人もいらっしゃるだろうが、それでも多分このアルバムはそこまで考えて作られたのだろうと思う。ハーンが作ったこれまでのアルバムは、協奏曲などが特にそうだがカップリングなど知的センスが感じられるユニークなものが多いし、このアルバムでもそんなセンスが出たのだろうと思う(もっとも、彼女自身の選曲なのかどうかはわからないが....)。

 さて、演奏だが17歳で既に完璧な「ヒラリー・ハーンの世界」である。精密機械のような精度でディーテルまで克明に演奏しつつも、全体としては流れるようなフォルムを持った例の演奏ぶりである。例えば「シャコンヌ」などなんと17分もかけて演奏しているが、特に遅いとも、弛緩した印象を感じさせず、ある種アポロ的な美しさを感じさせるのは実に彼女らしいく、あまたの「シャコンヌ」に伍しても立派に自己主張した演奏だと思う。もっとも、そういう演奏なので、ロマン派的な情念だとか、重厚でシリアスな佇まいなどをこの曲に期待する向きには、ちとあっけらかんとして軽すぎる印象を受けるだろうなぁとは思う。ちなみに両端におかれた長調のソナタとパルティータはハーンらしさが全てが良い方向に作用した演奏でこれは文句なしだと思う。「ソナタ」の中に配置されたシャコンヌのように破格なほど長い訳ではないが、それでも十分に長大な「フーガ」など、完璧に弾ききっていて痛快、さすがだハーン!。
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イョラン・セルシェル ギター・リサイタル

2009年05月14日 23時39分29秒 | クラシック(一般)
 5月12日に放送され、録画済みだった「イョラン・セルシェル・ギター・リサイタル」を今夜観た。曲目は「無伴奏チェロ組曲の1番と2番 ホ短調 BWV1008」と、私が目下もっとも頻繁に聴く曲「シャコンヌ」、そしてアンコール2曲という構成である。番組もとは、NHKのBS Hiで朝の6時からやっているクラシック倶楽部という番組だが、 N響を中心とした交響楽団の演奏会をメインとした「BSシンフォニー・アワー」に対して、こちらは室内楽だの声楽だのを中心とした小ホールの演奏会がメインのようだ。最近はこんなところまで録画する範囲を広げしまうと、なんだか「観るために録る」というより「録るために録る」みたいに録画が本当に目的化してきているようで少々可笑しい。

 さて、このイョラン・セルシェルというギタリストだが、もちろん初めて観る(聴く)人である。なんでもスウェーデン出身の54歳、11弦ギターを弾くのが特徴で、調べてみると天下のグラモフォンから何枚か出しているようので、リュートを模した11弦ギターだからルネッサンス&バロック期の音楽専門という訳でもなく、シューベルトだのビートルズ集なども出しているので、たぶんその世界では有名な人なのだろう。取り上げた曲は「無伴奏チェロ組曲」のギター版については、原曲そのものを知らないのでなんともいいかねるが、「シャコンヌ」は最近聴きまくっているせいもあって、これだけはじっくりと視聴してみたが、「シャコンヌ」のギター版は先日も書いた山下和仁にとは180度違うベクトルの編曲、演奏で、その対照振りはかなり興味深いものであった。

 セルシェルのギターは11弦ということもあると思うが、その音色が素朴で落ちついており、それに合わせるかのようにセルシェルも一音一音丹念に音を紡いでいくという印象である。前半のハイライト部分も夜叉の如きテンションで盛り上がるというよりは実に落ちいた表情に終始していて、作品を通じて自分の世界を開陳するというよりは、学究肌のミュージシャンによくあるように作品の姿をありのままに伝えるというか、作品に奉仕するタイプのミュージシャンのようであった。弾いている姿もけれん味のない自然体で、実に誠実そうな風情であり、観ていてすがすがしい気持ちになった。アンコールには母国の民謡だの、ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド....」だったりしたが、これまた浮き足だったところのないしっとりしたもので、この音楽家の誠実さがよく伝わったものだったように思う。
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バッハ シャコンヌ/エドナ・スターン

2009年05月01日 23時16分45秒 | クラシック(一般)
 おもしろい趣向のアルバムである。バッハのシャコンヌを3つのピアノ編曲版で楽しめるもので(オマケでヴァイオリンによる原曲も最後に入っている)、エドナ・スターンという若手の女流ピアニストが弾いているのだが、個人的に一番興味をそそられたのはブラームスによる左手による編曲だ。恐らく有名な作品だったのだろうが、大のブラームス党である私もバッハ作品の編曲となると、興味の範疇の外だったのか、これまで全く知ることがなかった。ブラームスという人は作品番号がついていないピアノ練習曲とかにも、けっこう看過できない作品があったりするのだが、この作品もそういう部類なのだろう。

 で、このブラームス編版だが、左手一本にしてはかなりよく出来ている....というか、そもそもヴァイオリン・ソロの曲なのだから、物理的な条件としては片手くらいでも、曲を再現するには十分といったところなんだろう。聴こえない音はないし、これはこれで紛れもない「バッハのシャコンヌ」になっていると思う(これがどう弾いてバッハになってしまう....バッハのバッハたる所以か)。ついでに原曲を律儀にトランスクリプションしていくのはいかにもブラームスらしい生真面目さが感じられるし、ブゾーニ版のでは大きく盛り上がった前半のクライマックスでも、片手だから出来なかったのか、そうしなかったのは、よくわからないけれどそこにブラームス的な節度が感じてしまうのは、私の贔屓目が過ぎるだろうか?。

 一方、エドナ・スターンのためにルドルフ・ルッツという人が編曲したヴァージョンだが、さすがに新しい編曲だけあってモダンな響きに満ち満ちている。冒頭からしてまるで印象派のような柔らかい響きの和音から始まる。さすがにシャコンヌの構造そのものまでは変えていないようだけれど、ブゾーニのようなはハイな熱狂はなく、終始、低カロリーでクリーンなムードで進んでいく。女性が聴いたら喜びそうな柔らかいタッチ、お洒落な雰囲気が特徴の編曲といえようか。
 ちなみにエドナ・スターンという女流ピアニストだが、ブゾーニ版であんまり肩を怒らせることなく、落ち着き払った演奏をしているあたり、この人の特徴かもしれない。ちなみにこういうアルバム作るくらいだから、テクニック的にも素人耳にも十分な上、全体に極めて安定していているから安心して聴いていられる。
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ダウランド リュート作品全集/ヤコブ・リンドベルイ

2009年04月28日 23時24分49秒 | クラシック(一般)
 山下がギターで弾く「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」を聴いていたら、なんだか強烈にギターとかリュートの音楽を聴きたくなってしまったので、とるものもとりあえず、ブリリアントから出ているダウランドの「リュート作品全集」を購入してきた(4枚組で2500円....相変わらず安い。こういう時にブリリアントのセット物というのは、ほんとうにありがたい存在である)。
 何度も書いている通り、クラシックといっても、聴くのはもっぱらロマン派以降の音楽であり、古典派はほとんどとおり一遍、それ以前のバロックだの古楽とかいうと、ほとんど未知の世界という感じなので、このダウランドという人がいつ頃の人で、どんな特徴のある音楽をやっていたのか....などということは、ほとんど全く知らない。ただ、10代の中盤頃だったか、ひょんなことからダウランドの作品を数曲ほど聴いていたことを思い出し、その記憶を頼りにこれを購入してきた訳である。

 いろいろ調べてみると、ダウランドはバッハよりほぼ一世紀近く遡った時代の人らしいのだが、頼みの綱(?)のwikiなどにもあまり詳しいことは記述されておらず、バロック音楽に分類されるべき人なのか、ルネッサンス期の音楽として捉えるべき人なのかも、実はよくわからないままだ。まぁ、「頭でっかちに音楽を聴きたがるのはオレの悪い癖」とばかりに、あれこれ考えずに聴いてみたところ、久しぶりの「あぁ、コレコレ」状態で(笑)、現在ニコニコしながら堪能中である。
 こういう音楽については、無知なせいか、「ひなびている」「素朴」「メロディック」くらいの形容しか思い浮かばないのだが、いわゆるクラシックとはちょいと違った、開放的で即興的な音楽だと思う。情感、旋律美みたいな点も、なにやら浮世離れしたいにしえの世界にタイムスリップしたような感覚があってこれが実にいい。明日は休みなせいもあって、思わず酒がすすんでしまう。ちなみに、前述の昔聴いた曲もさっそくディスク1に4曲ほど入ってたのもうれしいところだった。
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バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(ギター版)/山下和仁

2009年04月22日 23時12分23秒 | クラシック(一般)
 こちらは山下和仁によるギター版。山下といえば80年代初頭くらいだったか、もの凄いテクニックを持った若手ギタリストとして、「展覧会の絵」「新世界」「火の鳥」といったオーケストラ曲を自ら編曲して一本のギターで弾いてしまうという、とんでもない試みでもって一世を風靡していた記憶があるけれど、このアルバムはその山下が無伴奏をソロ・ギター用に自身で編曲したものだ。調べてみたところ、15年前にも録音しているようなので、これは再録音ということになるが、前述のオーケストラを編曲したものはほとんど再録していないようだから、まぁ、スタンスの違いはあるとしても、これはやはり「特別かつ自信のあるレパートリー」なのだろうと思う。

 演奏はとても素晴らしい。このところソロ・ヴァイオリンに馴染みが出てきたとはいえ、やはり、緊張感がやたらと高い無伴奏ヴァイオリンの演奏というのは、軽く流している分にはいいが、ひとたび聴き込むんだりすると、こちらにも相当な緊張感を強いるところがあるが、無伴奏ギターとなれば話は別である。なにしろギターやリュートの音楽といえば、10代後半の頃にひょんなことから多少聴きかじってはいたし、もともと聴いていたロックやジャズの方は、ギターはいわずもがなな楽器であったので、聴いていてとにかく違和感がないし、身体に馴染んでいるので、この演奏の素晴らしさ、凄さがストレートに分かるという感じである。

 同じ曲でもヴァイオリンで聴くような緊張感はあまりなく、ある意味ギターというウォームで暖色系な音色でもって、この曲をちょっとひなびたバロック期のリュート音楽みたいな感じ楽しめるところがいい。もちろん弾いているのが山下であるので、早いところの指使いなど壮絶なものだが、それもあまりこれみよがしではなく、まさに必要に応じて表現方法のひとつとして使っているに過ぎないところがいい。そもそも、聴いていて素晴らしいと思わせるのは、むしろ音に隙間の多いゆったりとした曲の間だとか、歌い回しの格調高さだったりするのだ。つまり、優れて音楽的な演奏なのである。15年前の演奏がどんなものだったのか私は知らないが、きっとそれと比べても格段の成熟が感じられるのではないだろうか。

 ちなみにこのアルバム、やや多めの残響、大きめなギターの音像で収録されているが、SACDということで、マルチチャンネル層でも楽しめる。試しにAVシステムの方でマルチチャンネルを再生してみたが、残響が鳴りっぷりが一層リアルでナチュラル、ありきたりな表現だが、まるでそのホールにいるかのような錯覚を感じるほどで、その包み込まれるような質感は圧倒的である。
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バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ/ムローヴァ

2009年04月18日 23時50分50秒 | クラシック(一般)
 バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」だが、すっかり気に入ってしまい....などという感覚とはちと違うが、とりあえず興味はあれこれ感じで加藤知子の全曲版に続いて、ヤッシャ・ハイフェッツが50年代に入れた研ぎ澄まされたような緊張感が漂う演奏だとか、それより更に古いジョルジェ・エネスク(エネスコって今は書かないのか)のなんともロマンチックな情緒連綿たる演奏などもかじっているところだが、今週の後半に近くのショップで購入してきたのがこれである。

 ヴィクトリア・ムローヴァといえば、私の同世代の人だけあって、先日聴いたショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲では、今時の若手の演奏に比べ、一回り大きな風格があり、また成熟した女性らしい情感を感じさせたりもしたけれど、この演奏ではバロック時代の弓を使いピリオド奏法を採用、古い楽器にガット弦、低いピッチと、今流行(?)のピリオド・スタイルをとりいれての演奏らしく、ここではけっこうモダンなスタイルでバッハに挑戦といったところだろうか。

 なるほど、その前に聴いたものとは一聴して趣の異なる演奏である。ピッチが低いため総体的に音色は落ち着いているし、ヴィブラートが極端に少いピリオド奏法のせいか、表情はいかにもさらりとしている。全体に早めテンポですいすい進んでいく感じで、往年の演奏にあったようなシリアスで重厚な迫力だとか、曲が曲なだけにそういう思いを込めるのは当然だったんだろうが、「ヴァイオリンの聖典に挑む」的なものものしさがあまり感じられない演奏になっていると思う。あえて言えば、「普段着のバッハ」みたいな、親しみやすい印象といったところである。

 そういう演奏なので、いずれも長調で作られた3番のソナタとパルティータあたりはクリーンで流麗な歌い回と開放感などから、とても楽しめるものになっている。一方、先行する短調でつくられた各々2つのソナタとパルティータは、タブルストップ時の重厚感も控えめだし(ピリオド奏法と関係なるのかな?)、例えば「シャコンヌ」なども壮絶なドラマを期待すると、ちょいとはがらかされたような感じになるかもしれない(これを聴くと先日聴いた加藤知子の演奏がいかにシリアスで研ぎ澄まされたような緊張感に満ち満ちていたかよくわかる)。

 ともあれ、前回も書いたとおり、今の気分としてはあまり重厚でシリアス、かつ教義主義的なバッハというのはどうも遠慮したいので、こういうモダンでクリーン、緻密で緊張感もあるが独特の軽みを帯びた演奏というは歓迎だ。当分これをリファレンスとして聴こうと思う。
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