孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自由&気楽であれば孤独感や不信感や正義感や価値観からの喜怒哀楽が出てこなくなります。

2013年08月28日 | Weblog
基本的に自由が無ければ真の精神世界で生きていることにはなりません。
ところがこの世の人間関係に自由がありませんから、その人間関係から離れた孤独が必然になります。
然るに人間関係が束縛制限支配関係にあることや自分に都合が悪いことは否定反発排除したがるその不自由が伴うことを学び合うのもその人間関係からです。

然るに不完全なこの世で真の精神世界に身を置くには自由&孤独&独自独歩の自力が必然だが、然るに巷の不完全な偽りの精神世界には不自由&不平等&他力依存が必然になっています。
然るに大勢の人が集り共に助け合い励まし合うが裏では欲張り競い合います。
然るに束縛制限支配し合ったり否定反発排除することにもなります。

ところが自由&孤独にも裏がありますから、それが孤独感にもなり然るにそれが不自由していることにもなります。
然るにその孤独感を癒すためには趣味嗜好娯楽に親しんだりその仲間の人間関係を求める事にもなります。

ちなみに田舎暮らしの中で絵画音楽陶芸彫刻から小物の創作手作りや料理やパン焼き野外パーティなどで親交を深めたりしている事例があることも承知していますが、それらが例え自由意識であってもその苦楽・喜怒哀楽が伴い精神が乱れます。

然るに私はヤギやニワトリを飼育したり自家菜園を嗜みましたが、然るに余計なことに無理してそれがストレスになっていたことに気付きました。
然るに相当な労力と金銭物質の浪費と無駄で終わりましたが(未だにその残骸後始末に苦労していますが)、然るに当時のストレスからは開放されています。

しかし以前に増して暇で退屈するようになりました。
然るに食ってばかりも寝てばかりもいられません。
然るに仲間との人間関係が必然になることも悟りました。

然るにそれが信仰宗教に人が集る原因でもあります。
また小グループのサークルやコロニー的な類があるわけです。
それでも人が集れば良いことも悪いこともあります。
然るに人間関係の欲が叶っても(自由平等調和がありませんから)精神の安定は望めません。

だからその人間関係に束縛制限や否定反発の無い自由意識とお陰様とお互い様の調和意識を持った者同士&仲間が集まることになれば申し分ないわけです。

しかしそれも無理ならば、然るに自力と自信の精神力の孤独と自由からして独自独歩に生きていくしかないわけです。
然るにそれでは片手落ちの不完全なことは承知の上のことです。

しかし不完全な矛盾のあるその欲絡みの人間関係を気にしないままに(巻き込まれないままに)然るに自由でもって気楽に生きていけますから、孤独感や不信感や正義感や価値観やの苦楽&喜怒哀楽で生きることにもならずにして、然るにそれが精神の安定&安心安全にもなり、然るに心に余裕が出てきての精神世界の気付きからしても、然るにその精神力&自信と自力でもってして独自独歩に歩んでいけるのです。

然るに不完全意識の人間である以上は(欲張り無理することにならない)孤独にして自由になれるその独自独歩の気楽な生き方しか他にはないと確信しています。