食って寝て糞をしながらにして生きている中にも気になる事が色々と有りませんか、何たって姿形や結果&見栄や世間体を気にするのが人間ですから。
だから身だしなみを整えるにも猛暑が厄介ですね。
然るに私は猛暑も雨も風もまた予定の時間も過ぎ行く時間も気にしなくていい生活ぶりです。
また単身だけに身近な人に気を使いません。
然るに何事も自由です。
ところが皆さんは身近な人が心配になることも多いはずです。
然るに夫や妻や我が子となれば余計に心配事が増えます。
然るに何か不信な気配があれば尚更です。
また先行きの収入や然るに病気や怪我や然るに老後も大いに気になります。
然るにここで事細かく書かなくても不安心配の種はいくらでもあります。
ところが食って寝て糞をしながらにして生きているだけでもアリガタイと思えるようになればすべてが解決します。
然るに不安心配は贅沢病です。
然るに(昔ほど)日々を生きていくことさえも難しいご時勢があったのは事実ですから。
ちなみに縄文時代に特別だったことが弥生時代にはそれが当たり前になり、その弥生時代で特別だったことがその先に時代に当たり前になり、然るに江戸時代で特別が明治で当たり前になり、然るに昭和で特別だったのが現在ではそれが当たり前になっていることがたくさんあります。
然るに昔ほど生きるために一生懸命だったのに、然るに近年になるほど楽しく生きることに一生懸命になったのです。
ちなみに私が幼少の頃は戦後だけに食糧難でしたし一家に一台の自転車さえ無くて人力車や馬車が行きかう時代でしたが然るに今はどうでしょう。
然るにテレビや冷蔵庫や洗濯機や炊飯器などの電化製品が特別だった時代があります。
然るに私が過疎地で貧租な暮らしをしているつもりですが、ところがどっこい過去では特別だった電気製品は揃っていますし、然るに食うことには困っていませんから、然るに幼少の頃よりも贅沢な暮らしをしていることになります。
だからこれ以上欲しがらなくても十分すぎるほど持っているのです。
なのに何で特別な価値観のあるものや趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽を欲しがるのでしょう。
然るに心が満たされていないからです。
然るにそれを私の事例に当てはめれば、
物質金銭や衣食住やの生活環境が原因ではなくして、得手勝手な意識の人間関係が大きく影響しているのです。
然るにそれを神仏霊魂の世界や宗教真理や神懸りの超能力や霊力を含めた精神世界に求めるも無理なのです(何度も書いているので省略します)
然るに(他力に頼ることではなくして)自分の生き様を変えるしかないのです。
然るに結果を重視する俗世間から離れて精神世界に身を置く覚悟がなければ自分を変えることには無理があります。
然るに結果の俗世間を離れて原因の精神世界で生きることになります。
ところがしかしそれも人間関係が大きく邪魔をしますから、然るにその得手勝手な人間関係を気にしないで独自に生きていく必要があります。
それが無理ならばやはり巷の祈り願う宗教や言うだけの真理に身を置くことしかありません。
そして人集め金集めに加担する事になるやも知れません。
それとも未だ他にも道があるかもしれないと探し尋ねるその繰り返しをするしかありません。
となるとそれは見せ掛けの精神世界になりますから、然るに何らかの一過性の結果が出て満足しても、然るにその原因意識が変わったわけではありません。
然るに何らかの結果を求めることは欲張りになると自覚していない限りにおいては人の集る所へ出向く事になります。
然るに見えない精神世界を見える形にしていること自体が欲絡みなのです。
ちなみに皆が不完全意識の人間界だけに、
然るに釈迦やイエスが如くに人を大勢寄せ集め引き連れて精神世界を説く者よりも悟りを開いた仙人が如くにして世間に目立つ事無く一人静かに精神世界に身を置いているほうが本来のあり方に思えるようになったわけです。
だから身だしなみを整えるにも猛暑が厄介ですね。
然るに私は猛暑も雨も風もまた予定の時間も過ぎ行く時間も気にしなくていい生活ぶりです。
また単身だけに身近な人に気を使いません。
然るに何事も自由です。
ところが皆さんは身近な人が心配になることも多いはずです。
然るに夫や妻や我が子となれば余計に心配事が増えます。
然るに何か不信な気配があれば尚更です。
また先行きの収入や然るに病気や怪我や然るに老後も大いに気になります。
然るにここで事細かく書かなくても不安心配の種はいくらでもあります。
ところが食って寝て糞をしながらにして生きているだけでもアリガタイと思えるようになればすべてが解決します。
然るに不安心配は贅沢病です。
然るに(昔ほど)日々を生きていくことさえも難しいご時勢があったのは事実ですから。
ちなみに縄文時代に特別だったことが弥生時代にはそれが当たり前になり、その弥生時代で特別だったことがその先に時代に当たり前になり、然るに江戸時代で特別が明治で当たり前になり、然るに昭和で特別だったのが現在ではそれが当たり前になっていることがたくさんあります。
然るに昔ほど生きるために一生懸命だったのに、然るに近年になるほど楽しく生きることに一生懸命になったのです。
ちなみに私が幼少の頃は戦後だけに食糧難でしたし一家に一台の自転車さえ無くて人力車や馬車が行きかう時代でしたが然るに今はどうでしょう。
然るにテレビや冷蔵庫や洗濯機や炊飯器などの電化製品が特別だった時代があります。
然るに私が過疎地で貧租な暮らしをしているつもりですが、ところがどっこい過去では特別だった電気製品は揃っていますし、然るに食うことには困っていませんから、然るに幼少の頃よりも贅沢な暮らしをしていることになります。
だからこれ以上欲しがらなくても十分すぎるほど持っているのです。
なのに何で特別な価値観のあるものや趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽を欲しがるのでしょう。
然るに心が満たされていないからです。
然るにそれを私の事例に当てはめれば、
物質金銭や衣食住やの生活環境が原因ではなくして、得手勝手な意識の人間関係が大きく影響しているのです。
然るにそれを神仏霊魂の世界や宗教真理や神懸りの超能力や霊力を含めた精神世界に求めるも無理なのです(何度も書いているので省略します)
然るに(他力に頼ることではなくして)自分の生き様を変えるしかないのです。
然るに結果を重視する俗世間から離れて精神世界に身を置く覚悟がなければ自分を変えることには無理があります。
然るに結果の俗世間を離れて原因の精神世界で生きることになります。
ところがしかしそれも人間関係が大きく邪魔をしますから、然るにその得手勝手な人間関係を気にしないで独自に生きていく必要があります。
それが無理ならばやはり巷の祈り願う宗教や言うだけの真理に身を置くことしかありません。
そして人集め金集めに加担する事になるやも知れません。
それとも未だ他にも道があるかもしれないと探し尋ねるその繰り返しをするしかありません。
となるとそれは見せ掛けの精神世界になりますから、然るに何らかの一過性の結果が出て満足しても、然るにその原因意識が変わったわけではありません。
然るに何らかの結果を求めることは欲張りになると自覚していない限りにおいては人の集る所へ出向く事になります。
然るに見えない精神世界を見える形にしていること自体が欲絡みなのです。
ちなみに皆が不完全意識の人間界だけに、
然るに釈迦やイエスが如くに人を大勢寄せ集め引き連れて精神世界を説く者よりも悟りを開いた仙人が如くにして世間に目立つ事無く一人静かに精神世界に身を置いているほうが本来のあり方に思えるようになったわけです。