孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間は結果で生きているのではなくして、大元の原因となるその「意識で生きている」のです。

2013年08月10日 | Weblog
以前に書きましたが、結果を出したがっている人や結果を求めている人の意識は既に精神世界にあらずにして、然るに欲絡みの俗世間を意識していることになります。

然るに結果は過去のことですからもう既に(祭りは)終わっているのです。
然るに終わっている祭りを始め直すことはできないのです。

だから終わって過去のことになっていることを(祭りを)を意識するよりも(執着するよりも)新たに仕切り直すその始まりがなければなりません。
然るにそれが「今を生きる」ことになります。
然るにその反対が「死んだも同然」になるわけです。

然るに人間は結果で生きているのではなくして、大元の原因となるその「意識で生きている」ことになるわけです。
然るに結果が大事ではなくして原因意識の有り様が重要なわけです。

ところで皆さんは精神世界を何によって学び知りましたか。
然るに私は精神世界に無頓着でしたから巷の常識化された伝統風習の中での神仏霊魂を敬い尊び祈り願うことに違和感を持ちながらもそれらが記憶に残っていることや、また娯楽性の映画に描かれた宗教的な題材が真実となれば然るにそれが私には違和感となって記憶に残っていたのです。

然るに精神世界を学び知るために生きていたのではなくて生活を楽しむために生きていたのは事実です。
ところが60代にして霊魂や想念の世界を説く霊能者にご縁があり、そこで信仰宗教の過ちを知ることになりましたが、然るにそれらは私の違和感が間違いではなかったことからしてその精神世界に我ながら自信を持つことになったわけです。
然るに精神世界を学び知ったのではなくして己の中のことを確認&自覚納得したことになるのです。

そして完全真理にご縁があったときもそれが再確認になってそして奥行きが見え始めるきっかけにもなりました。
ところが奥行きが理解できるほどに完全性が求められますから、然るに今の人間では実践は無理だろうとなったわけです。

然るにそれを言い当てた感じになってそこで自己縮小が言われ始めたことからしてそれが私には「水を得た魚」の如くになって現在があります。
それを言い換えると精神世界&真理を知る以前からして既に自分の中にあった違和感や新たな違和感を含めて、それらの違和感の更なる気付きを含めてその確かな真実事実を表に出しても問題にはならないと確信して今日に至っています。

然るにあの世&霊界、然るに輪廻転生&生まれ変わり&始まり終わるその繰り返しがこの世に有ると思うならば、然るにその原因意識&精神世界に我が身を置くことしかないこと、
しかしあの世は無くしてこの世限りと思うならばこの世の結果をまっとうして死すればいいだけです。

その何れを選ぶにしても各々の自由ですが、然るに欲張る者は結果的にこの世もあの世も自らの意識が原因からして辛いことになるのは確かです。
然るに私の過去で欲張って良かったことよりも現在の欲張らないで生きているほうが穏やかで落ち着きがあって然るに安心安全で然るに過不足も無くて丁度いい具合になっています。

然るに残るは必然ご縁のその人間関係だけですが、然るに欲張らなければ何の問題も有りません。
だから現在一番縁の深い牛舎のオーナーにしても人間関係は良好です。

然るに己の中に欲があってもそれを表に出さないで(人に押し付けないで)自らの責任&自力でやればいいのです。

然るに精神世界は外にあるのではなくして自らの中にあることなのです。
だから他力ではこの世とあの世の精神世界に通用しないのです。