孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

個人意識だけに(何か失い不足することがあっても)己が自由にして楽に生きるのが根幹になります。

2013年08月16日 | Weblog
自由とか、無理をしない、欲張らない、執着しない、また不平不満に思わない等と世間一般的に言われている中に真理があるのに、それが一般的に言われているが為に何やら疎かにしているようです。

しかもそれら言葉がすべてに繋がっていますから、然るに言葉一つだけを取り上げることは限定になり不完全になります。

然るに不平不満も不安心配も恐れ怒りも嫉妬も仕返し報復から破壊意識にまで一連に繋がっていますから、例えば嫉妬にならなければ仕返しを思うことにもなりませんし、然るに不平不満も無かった事になります。

しかもその不平不満の元が先ほどの自由とか、無理をしない、欲張らない、執着しない等に繋がっていますから、然るに自由が無い、また無理をしている、また欲張っている、また執着していること等が不平不満の原因になるわけです。

更にその一連の中の一つでも無ければ全てが無かったことになります。
然るに真の自由があれば不平不満にはならないのです。

然るに不平不満になれば先ほどのように不安心配や恐れ怒りや嫉妬仕返しから破壊意識にまで繋がり表れてきますし、また欲張り無理し拘り執着することにも繋ながります。

然るに不平不満があれば然るに自由が失われるわけです。
然るに自由があれば欲張らなくなりますから不平不満にもなりません。

然るに「すべてはひとつ」が言われるわけですが、然るにその中で「自由」が根幹にあります。
だから自由なくして何も成りません、然るに不平不満にもなります。

然るに自由だと思っているだけでは何も成せません、だから実践行動が言われるわけです。
然るにその実践行動を阻害しているのが不完全意識のその人間関係にあるのです。

だったらどうすればいいのでしょう、
然るに「気にしない」「ほっとく」「成り行きに任す」しかありません。

然るに自由を得るのに多くを手放さなければならないのです。
然るに多く持っている人が多くを手放しますが、少しの人はその少しを手放すことで自由になれます。

ところが多くを持たない社会の下積みの人がその少しを何で後生大事に守っているのでしょうか、
それは自由よりも束縛制限支配&否定反発し合う不完全な人間関係を守ろうとするからです。

然るに自分に都合がいいように互いが頼りたがるその他力依存(信頼&絆)があるから、然るに不自由&不平不満があっても互いの関係が保たれ守れるわけです。
然るにその関係が人間として生きていく為には必要とさえ思っているところがあります。

ところがその自己優先が叶わなくなれば離縁離婚別居して自由に成りたがるわけですが、然るにそれが関係を断ち切る最後の手段となることからして裏切りに思えるわけです。

然るに国家社会の自由を書いているのではありません。
個人の自由、独自独歩の自由、己の中の魂&命&意識の自由を書いています。
だから人間の根幹になるわけです。

然るにその自由を牛耳っているのも人間関係なのです。
然るに自分を守ることで自由を手放す事になりますが、然るにその守りを手放してその自由が得られるわけです。

然るに「守る」ことも欲なのです。
然るに自由に成れば守る欲も無くなります。
然るに不平不満にもなりません。

然るに無理することも執着することにも絶対になりません。
だから「楽に」生きていけるのです。
然るに何か失い欠けるものがあっても、然るに自由にして楽に生きるのが人間人生の根幹になるのです。

然るに「楽しく生きる」ためには人間関係が自由平等調和にならない限り無理ですから、然るにその調和の人間関係になるまでお預けになります。

ところで前回の投稿で予言予知を書けば一気に訪れる人が増えるのも、然るに精神世界の中味よりも見える結果を知りたがる人が多いということです。
しかし今現れている結果が前兆であって、その前兆があるということはそれが此れから本格&重症になるのですから、然るに信じるか否かの予言予知よりも今を見ればその先も見えてくるのです。

然るに結果が出た後では既に手遅れだと書いているのです。
然るにその結果を繰り返さないためにも、また先々の結果を変えたければ、然るに自らの原因意識を変えるしかないのです。

自分さえ良ければの個人意識にピッタリの実践真理=自由にして楽に生きる。

2013年08月15日 | Weblog
不完全からして不完全しか生まれない、然るに不完全意識の人間が何を成しても不完全な結果しか出てきません。
然るにその結果が出て自己満足するか、それともその結果が出ずにして不平不満になる、然るにその苦楽の繰り返しで終わるだけに、
然るに前もっての思惑期待を持たずにして成り行きに任せた生き方のほうが呑気で気楽になること。

また不完全意識の人間関係を気にしなければ然るにその苦楽も味わないで済むことからして、然るに気楽な人間関係になります。

そして何よりも自由意識でなければ束縛制限支配&否定反発することになり楽しくも楽にもなりません。
然るにその代替に趣味嗜好娯楽の変化刺激&快感快楽を求める事になり、然るにその苦楽も味わうことになっています。

ところが自由にして生きることからして欲張ることが無くなる、然るに欲張れば自由が無くなる、その因果関係からして自由の大切さを知り、その自由をまっとうするには巷の不完全意識の人間関係を気にせずに独自独歩の自力と自信の精神力でもってして生きていくしかありません。
然るに他力よりも自力で生きることが多くなります。

その自由に生きるにも、欲張り無理する事無く、然るに拘り執着することも無くならなければ無理がありますので、然るに他力絡みで楽しく生きることよりも自力でもってして「楽に生きる」ことを意識して生きていかなければなりません。

そこで付け加えますが、過去の釈迦やイエスを超えたこの世で初めてといわれる山田耕栄さんの完全真理が説くその良い悪いで判断しないその実践には無理がありました。
然るにそれら人並み以上の優れた人智や感性や摩訶不思議の超能力や霊力からして思い考え閃き創作された宗教真理&理想目的を説くのではなくして、
然るに世間的には落ちこぼれで学力も教養もなく、然るに超能力があるわけでもない私が、その成り行きからして様々に味わいながらにして自らの生き様から導き出した感じがするその「楽チンにして生きる」その実践ならば、然るに誰でもが無理なく実践出来ます。

然るに理想目的の然るに教祖指導者さえも実践できない宗教真理ではなくして、然るに老若男女の誰もが心身からしてやる気になれば実践できるのです。
然るにその楽に生きる実践が無理となれば、然るにそれは欲張り無理をしているその証ですから、然るに教祖指導者にお伺いしなくても自らして気付くことができますから、然るに大勢の人が集まる余計な無駄も無理も無く、然るに独自独歩で歩んでいけるのです。

要するに人集め金集めの為に説く複雑難解な説教は元からして不要だったと言えるのです。
然るに人間本来内心に持っている「楽に生きる」ことを誰気兼ねなく正面に出して生きていれば、然るに人様がどうであれ、自らが欲張ることもなくなり、然るに自由さえも味わえるのです。

然るに自分さえ良ければの個人意識丸出しにピッタリの、然るに人様のためではなくして「自分の為」になる精神世界の真理です。
然るに日々実践し続けることも出来るのです。

しかしこの説明に違和感があるのは不完全意識なのに善人の振りをしたがる偽善者になりますので、然るに善人ぶって精神世界に係わる必要がないことも付け加えておきます。

生まれながらにして不完全意識を持っているのが人間です。
それを隠したがるのも欲が絡んでいるからです。
然るに自由にして楽に生きることが出来ないのです。

15年前の予言予知「水による洗礼」=水に係わる有事=水害や干ばつ&高潮や津波&大陸の水没

2013年08月14日 | Weblog
不完全意識が原因のこの世でもって何とか頑張ったところで今の生き様がそんなに大きく変わることはありません。
然るにピラミッド社会の底辺で居る事に何ら変わりはありません。

それでも落ちこぼれないように頑張るしかありません。
だから無理をせずに「楽に生きる」なんてことは無理があります。

そこで何とか頑張っていれば大丈夫に思いたいところでしょうがそうは簡単に問屋が卸してくれません。

然るに生まれれば必ず死にます、それが明日かもしれません、その死ぬ前に苦しみながら長らくベットに横たわる事になるやもしれませんし、然るに身近な人を迷惑な事に巻き込むことでしょう。

また日ごろ貴方の目の前で起きていることや世間で噂をされていることや新聞テレビで報道されていることが現実に我が身に及ぶ日が待ち構えています。
然るにそれを避けて通ることは出来ません。
それが意識が原因からしてその結果が出るこの世の現実です。

然るに予言予知でなくても前々から言われている食糧難やエネルギー不足が深刻になる日が日本にいつしか必ず来ます。

その予言予知の類ではありますが、然るに此れからは「水による洗礼」が多くなる、然るに水に係わる様々な有事が頻繁に起きると(水に縁ある)霊能者Kさんが言われて約15年になりますが(私も水に縁ある者と言われています)
まさにその通りになっているし然るに遠く離れた対岸(スマトラ)の地震が津波となって日本に深刻な被害をもたらすなんて思いもよらないことでしたので、然るに今や地震=津波となっています。

然るに異常乾燥&水不足&干ばつ被害&豪雨水害土砂災害&高波高潮&国土水没や砂漠化も水の洗礼にあたります。
その水の洗礼だけではなくして人間の悪想念&闇意識、然るに不完全意識やその集合意識によって自然環境と人間関係の崩壊破壊がどんどん進むとも言われていました。

然るに私が仕組まれ続けて過疎地で暮らすことになったそのきっかけの中にその予言予知も含まれています。
然るに過疎地暮らしが予言予知を先取りした先覚者気取りから始まった部分もありますが、それがまさか完全真理の自己縮小の先取りになるとは思いもよらないことでした。

その自己縮小は過疎地暮らしを始めたことからしての「オマケ」ですから、然るに過疎地暮らしのきっかけとなった本命の「水による洗礼&悪想念&闇意識」はまだまだ続いています。
然るに私の先覚者意識がオマケではなくして「大当たり」になる可能性はまだまだあります。

然るに一生懸命にして築きそれを後生大事に守っていてもそれが「水」の泡如くに消える時&真坂の有事が遅かれ早かれ来るのです。

とにかく必然のご縁の仕組みからしての成り行きながらも私の先駆け意識からして始まったような過疎地暮らしからしてそれが完全真理の自己縮小に当てはまり、然るに「水」を得た魚の如くに書き続けているうちに、
いつしかそれが苦楽が伴うその楽しく生きることよりも、然るに自由&独自独歩にして不完全意識の人間関係で気苦労しないですむその気楽&楽チンに生きることが精神世界の本命とまで書くようになりました。

然るに「楽に生きる」実践ならやる気になれば誰もが実践出来ますから、然るに本物の実践になります。

然るに成り行きからして予期せぬオマケが付き、そのオマケからしてこれまた予期せぬ精神世界の本命に至ったのです。
然るに「水の流れ」が如くに自然体です。
然るに仕組まれながらにして宇宙の流れに沿っていることになります。

原因意識からして仕組まれ始まるその事実真実を味わえる本物の精神世界を書いています。

2013年08月13日 | Weblog
人が集ると欲が出てきますが、孤独だと欲が出てきません。
然るに無人島に漂着して一人だと必要とする物を奪い合うことにもなりません。
また人様に先を越される心配もない事からしてマイペースでいられます。

ところが人が集っているところには欲が渦巻いていますから、それに馴染めなくなって一人蚊帳の外になるとそれが孤独感にもなります。

然るに皆が同じ目的&結果を求めて集まるところであっても私は成り行き任せなことからして積極性が無くて目立たず一人静かにしていますから、然るに大勢の中で居ることで反対に孤独を感じることがあります。
だから私は人が集まるところは苦手です。

また無理の無いマイペースが似合っていますから急ぎ慌てることがありません、然るに私の出番はなく、必然からして呼ばれない限りその出番はありません。

ところが良いとこ取りから先取りした人達が手こずったり支障をきたしている時に(また別件の必然ご縁からしての成り行きで)私の出番が来た時に、私の持ち前の自力&創意工夫&能力が役立つ事になることは何度かありました。

然るにそんなにうまい具合に仕組まれると(私としては)必然ご縁の仕組みからして(私を前もって)その場に呼び出されていたのではないのかという(思いもよらない成り行きの結果だけに)(人前に出たがらないし自らして発言できない引っ込み思案の臆病だけに)そんな感覚がしたことは何度か有りました。

然るに欲張らないほうが何かとうまい具合に仕組まれる事実があるのです。
しかしその結果をただ喜ぶだけで終わったり、また偶然そうなったと思うから仕組まれたとは思わないだけです。


ところで欲張って得をしていると思っている人も居るかもしれませんが、この世は意識が原因のその結果ですから、然るに欲張って良かったことが災いになるときが必ず来るのです。

然るにそれが喜怒哀楽の仕組みなのです。

その喜怒哀楽を説く指導者宗教家でさえも、自らがその喜怒哀楽を味わないためにも世間に惑わされないためにも常に神に祈ったりまた始終精神修養鍛錬や修行まがいのことをし続けて押さえ込んでいるのです。
だから油断すると喜怒哀楽を味わうことになるのです。

然るに私は無理の無い自由で呑気気ままな成り行き任せにしての楽チンからして、然るに欲が有っても出てこない状況になっているから欲張ることが無くなっているのです。

そして自由を得るのも、欲張らないようになるのも、楽に生きられるようになるのも、然るに<自力>が原因のその結果です。
然るに他力絡みの結果頼みの思惑期待絡みのそれら欲絡みで得られる結果ではありません。

然るに魅力ある、然るに魅せられる、然るに結果が先にある、その見せ掛けの精神世界ではなくして、
然るに一度の一過性の結果だけで終わらずにして、
然るに己の自力と自信の精神力からして仕組まれ続けて然るに成るようになるその事実真実を味わえる本物の精神世界を書いています。

「自由」になれば<欲>が出なくなる。然るに「欲」を出せば<自由>が無くなる。その因果があります。

2013年08月12日 | Weblog
このブログに書いているのを読んで巷の宗教真理が不完全であることを理解し、また神がかり奇跡やエネルギーグッズなどの摩訶不思議の結果が一過性であることなど知ったとしても、また結果じゃないよ心だよと知ったとしても、また人が集る所は欲絡みであることを認識しても、何処かで凄いのがあると聞けばそこへ出向いて行きたいことでしょう。

然るに精神世界を学び知るにも何がしの結果&御利益が期待できなければ関心を示さないのが大方の人です。
何でそうなるのか、然るに何がしの問題&悩みを抱えているから、それを精神世界に係わることで何とか出来れば&何とかなれば&然るに何とかしたい欲絡み、然るに原因意識に気付き知ることよりも先に結果を見極めたいのです。

ちなみに私の場合は摩訶不思議の水がご縁からして霊能者&水神&竜神様ご一行がその水を見聞するためにわざわざ私方へ尋ねて来られたことからしてその霊魂&想念の世界につながり、然るに知らないことを知りたがる私の性分からして結果的に神仏霊魂の精神世界に係わることになったのです。

然るに必然ご縁の仕組みの成り行きからしていつの間にやら始まりいつの間にやら本格的になりながら、然るに現在に至っているのですから、こんな事例からして精神世界に身を置く事になった人はまず居ないと思います。

ところが更に仕組まれて完全真理にご縁があり、しかもそこで自己縮小が説かれるに至る前から既に私の生き様が小さく生きる形になっていたのですから、こんな希少な事例の人もまず居ないと思います。

また更に(成り行きからして)柵から離れた孤独の自由を味わうことからして、いつの間にやら欲張る必要が無くなったのも摩訶不思議の仕組みの結果&奇跡だと思います。
すなわち「自由」になれば<欲>が出なくなる。
然るに「欲」を出せば<自由>が無くなる。
この因果関係を実際に我が身でもって味わっていることは(私にすれば)思いもよらない奇跡になるわけです。


然るに自由なくして何が得られるでしょう。
然るに自由が無ければ楽にも楽しくもなりません。
しかも互いが牛耳あっているしそれを喜ぶ輩が上にも背後にもいるのです。

然るに精神世界の多くを知らなくても己の中に否定反発し合わない&束縛制限支配し合わない自由意識を見い出すのが本来の精神世界なのです。
然るに本物の精神世界に目覚めることができるのです。

然るにありがたい凄い結果が期待できる教祖指導者が出てきても自由なくしては役立ちません。

そこで再三再度<自由>の必要性を自問自答してください。
そして自由のありがたさを実感してください。

欲張る心を喜んで迎えてくれるのは邪な動物霊が支配している精神世界にありがちなことです。

2013年08月11日 | Weblog
私は概ねにして単純&素直&真面目ですから人様も同じだという思いで接していますからその裏&不信感も出てきません。
然るに相手の言葉も素直に受けます。だから善意を遠慮しません。
しかし余りにも押し付けられると苦手です。

然るに自分の思いに無い(儀礼的な)言葉を出すことは未だに苦手です。
だから冠婚葬祭の儀礼的な挨拶から年末年始の言葉などの伝統風習の中の言葉は苦手です。
然るに愛しているとか、信じているとか、頼っているとかの言葉を(妻や我が子を含めて)人様に発した覚えはありません。

また悲運な出来事に執着している人を見てそれを哀れ気の毒に思うよりも早く立ち直ればいいのにという思いになりますが、それも何だかお節介に思えて、それに対応する適切な言葉が浮かんできません。
だから黙って成り行きを見るしかありません。

また人様が私のことをどう思おうが(私がそれを知ることが出来ないから)あまり気になりませんし、人づてに聞こえてきても気になりません。
然るに詮索推察する事にもなりません。

然るに気遣い配慮することが苦手です。然るに黙って好き勝手にさせています。
しかし相手が望んでいることであればそれに応えたい気持ちは十分あります。
それでも我欲の強い人は(それが取引先の代表であっても)(繰返されると)応じきれずに敬遠します、だからそれで取引が出来なくなっても平気でした。

然るに基本は「来るものは拒まず去るものは追わず」「成り行き任せ」で今日まで生きてきました。

然るに人様が発する言葉に裏があり欲絡みが隠れていることも判ってきました。
然るに見えない世界を見える姿形にしたりまた如何にもそれが事実が如くに説く人の中にも欲が隠れているのが判ってきました。

然るに神仏霊魂や過去の人を何らかの形にして現しているのも欲です。
然るに祈る願うの形も欲です。
然るに予めそのありがたい結果を説いてその実践行動を勧めることは「先に結果有り」の期待感を持たせて信じさせる陰謀策略です。

然るに見えない神仏霊魂に対して何らかの形で奉ること、然るに邪な意識の動物霊を神社仏閣で奉り祈願(願えば叶う如くに期待)させるのも、
また伊勢白山道なる者が三本線香を立てるとその御利益があるように説くのも、先に結果有りを説いてその信者を作る腹算用が隠れているかもしれません。

然るに「結果じゃないよ心意識だよ」の真実の精神世界にそぐわない教えになります。

しかしそれでもしっかり念を込めて祈願すれば何らかの結果が出るのも事実にありますが、然るにそれは一過性の結果ですからそれで一旦終わります。
然るに大元の原因意識は変わりませんから何度も繰り返す&リピート&信者になりやすいのです。

然るに欲張る心を喜んで迎えてくれるのは邪な動物霊が支配している精神世界にありがちなことです。
私が何でこんなことが書けるのか、然るに欲張ることを忘れているからです。

然るに自らが欲を出し始めるとそれを隠したがるのも人間の本性です。
だからそれを見定めることができるのも自らが欲を出さないことです。

然るに欲絡みの人間界で心穏やかに生きていくには欲を出さないことです。
だから人里離れた過疎地での単身生活が私には似合っているのです。

人間は結果で生きているのではなくして、大元の原因となるその「意識で生きている」のです。

2013年08月10日 | Weblog
以前に書きましたが、結果を出したがっている人や結果を求めている人の意識は既に精神世界にあらずにして、然るに欲絡みの俗世間を意識していることになります。

然るに結果は過去のことですからもう既に(祭りは)終わっているのです。
然るに終わっている祭りを始め直すことはできないのです。

だから終わって過去のことになっていることを(祭りを)を意識するよりも(執着するよりも)新たに仕切り直すその始まりがなければなりません。
然るにそれが「今を生きる」ことになります。
然るにその反対が「死んだも同然」になるわけです。

然るに人間は結果で生きているのではなくして、大元の原因となるその「意識で生きている」ことになるわけです。
然るに結果が大事ではなくして原因意識の有り様が重要なわけです。

ところで皆さんは精神世界を何によって学び知りましたか。
然るに私は精神世界に無頓着でしたから巷の常識化された伝統風習の中での神仏霊魂を敬い尊び祈り願うことに違和感を持ちながらもそれらが記憶に残っていることや、また娯楽性の映画に描かれた宗教的な題材が真実となれば然るにそれが私には違和感となって記憶に残っていたのです。

然るに精神世界を学び知るために生きていたのではなくて生活を楽しむために生きていたのは事実です。
ところが60代にして霊魂や想念の世界を説く霊能者にご縁があり、そこで信仰宗教の過ちを知ることになりましたが、然るにそれらは私の違和感が間違いではなかったことからしてその精神世界に我ながら自信を持つことになったわけです。
然るに精神世界を学び知ったのではなくして己の中のことを確認&自覚納得したことになるのです。

そして完全真理にご縁があったときもそれが再確認になってそして奥行きが見え始めるきっかけにもなりました。
ところが奥行きが理解できるほどに完全性が求められますから、然るに今の人間では実践は無理だろうとなったわけです。

然るにそれを言い当てた感じになってそこで自己縮小が言われ始めたことからしてそれが私には「水を得た魚」の如くになって現在があります。
それを言い換えると精神世界&真理を知る以前からして既に自分の中にあった違和感や新たな違和感を含めて、それらの違和感の更なる気付きを含めてその確かな真実事実を表に出しても問題にはならないと確信して今日に至っています。

然るにあの世&霊界、然るに輪廻転生&生まれ変わり&始まり終わるその繰り返しがこの世に有ると思うならば、然るにその原因意識&精神世界に我が身を置くことしかないこと、
しかしあの世は無くしてこの世限りと思うならばこの世の結果をまっとうして死すればいいだけです。

その何れを選ぶにしても各々の自由ですが、然るに欲張る者は結果的にこの世もあの世も自らの意識が原因からして辛いことになるのは確かです。
然るに私の過去で欲張って良かったことよりも現在の欲張らないで生きているほうが穏やかで落ち着きがあって然るに安心安全で然るに過不足も無くて丁度いい具合になっています。

然るに残るは必然ご縁のその人間関係だけですが、然るに欲張らなければ何の問題も有りません。
だから現在一番縁の深い牛舎のオーナーにしても人間関係は良好です。

然るに己の中に欲があってもそれを表に出さないで(人に押し付けないで)自らの責任&自力でやればいいのです。

然るに精神世界は外にあるのではなくして自らの中にあることなのです。
だから他力ではこの世とあの世の精神世界に通用しないのです。

昔ほど生きるために一生懸命だったのが近年は楽しく生きることに一生懸命になったのです。

2013年08月09日 | Weblog
食って寝て糞をしながらにして生きている中にも気になる事が色々と有りませんか、何たって姿形や結果&見栄や世間体を気にするのが人間ですから。
だから身だしなみを整えるにも猛暑が厄介ですね。
然るに私は猛暑も雨も風もまた予定の時間も過ぎ行く時間も気にしなくていい生活ぶりです。

また単身だけに身近な人に気を使いません。
然るに何事も自由です。

ところが皆さんは身近な人が心配になることも多いはずです。
然るに夫や妻や我が子となれば余計に心配事が増えます。
然るに何か不信な気配があれば尚更です。
また先行きの収入や然るに病気や怪我や然るに老後も大いに気になります。
然るにここで事細かく書かなくても不安心配の種はいくらでもあります。

ところが食って寝て糞をしながらにして生きているだけでもアリガタイと思えるようになればすべてが解決します。
然るに不安心配は贅沢病です。
然るに(昔ほど)日々を生きていくことさえも難しいご時勢があったのは事実ですから。

ちなみに縄文時代に特別だったことが弥生時代にはそれが当たり前になり、その弥生時代で特別だったことがその先に時代に当たり前になり、然るに江戸時代で特別が明治で当たり前になり、然るに昭和で特別だったのが現在ではそれが当たり前になっていることがたくさんあります。

然るに昔ほど生きるために一生懸命だったのに、然るに近年になるほど楽しく生きることに一生懸命になったのです。

ちなみに私が幼少の頃は戦後だけに食糧難でしたし一家に一台の自転車さえ無くて人力車や馬車が行きかう時代でしたが然るに今はどうでしょう。
然るにテレビや冷蔵庫や洗濯機や炊飯器などの電化製品が特別だった時代があります。

然るに私が過疎地で貧租な暮らしをしているつもりですが、ところがどっこい過去では特別だった電気製品は揃っていますし、然るに食うことには困っていませんから、然るに幼少の頃よりも贅沢な暮らしをしていることになります。

だからこれ以上欲しがらなくても十分すぎるほど持っているのです。
なのに何で特別な価値観のあるものや趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽を欲しがるのでしょう。
然るに心が満たされていないからです。

然るにそれを私の事例に当てはめれば、
物質金銭や衣食住やの生活環境が原因ではなくして、得手勝手な意識の人間関係が大きく影響しているのです。

然るにそれを神仏霊魂の世界や宗教真理や神懸りの超能力や霊力を含めた精神世界に求めるも無理なのです(何度も書いているので省略します)
然るに(他力に頼ることではなくして)自分の生き様を変えるしかないのです。

然るに結果を重視する俗世間から離れて精神世界に身を置く覚悟がなければ自分を変えることには無理があります。
然るに結果の俗世間を離れて原因の精神世界で生きることになります。
ところがしかしそれも人間関係が大きく邪魔をしますから、然るにその得手勝手な人間関係を気にしないで独自に生きていく必要があります。

それが無理ならばやはり巷の祈り願う宗教や言うだけの真理に身を置くことしかありません。
そして人集め金集めに加担する事になるやも知れません。
それとも未だ他にも道があるかもしれないと探し尋ねるその繰り返しをするしかありません。

となるとそれは見せ掛けの精神世界になりますから、然るに何らかの一過性の結果が出て満足しても、然るにその原因意識が変わったわけではありません。

然るに何らかの結果を求めることは欲張りになると自覚していない限りにおいては人の集る所へ出向く事になります。
然るに見えない精神世界を見える形にしていること自体が欲絡みなのです。

ちなみに皆が不完全意識の人間界だけに、
然るに釈迦やイエスが如くに人を大勢寄せ集め引き連れて精神世界を説く者よりも悟りを開いた仙人が如くにして世間に目立つ事無く一人静かに精神世界に身を置いているほうが本来のあり方に思えるようになったわけです。

<俗世間と精神世界>は<結果と原因>その「結果は終わり原因は始まり」の関係になります。

2013年08月08日 | Weblog
人間は良い悪いで判断する矛盾意識でもって生きていますから、然るに良い悪いで判断して「良いとこ取り」したいわけですが、然るにそれが「欲」になるのです。
だから人間は皆<欲>で生きていることになるわけです。
然るにその欲を正当化しているのもこの世です。
だから皆が欲張りあっていても何とか一緒になって共に暮らせるわけです。

そして損することよりも得することが多い人ほど優れた能力の人にも評価されるわけですし、然るに自らが損することを承知の上で人の為に尽くせば善人にも評価されるわけです。
また意欲的に行動する人を褒め称えますがその行動が鈍感でうすのろだと役立たずにも思われます。
然るにその評価する尺度が人それぞれに異なっていて定ではありませんからその思いも様々に違ってきますが、ちなみに差別だと思った人の中にその差別があることになります。

そんな欲絡みの比較競争差別の人間関係の中で暮らしていれば面白いはずもありません。
そこで代替の趣味嗜好娯楽の変化刺激快感快楽で補う事になるのですがそれだけではやはり何か物足りなさ片手落ちを感じるのです。

然るにそれでも「無いよりマシ」的な感覚からしてそれらに依存することにもなっていますが、その感覚は慣れからして次第に麻痺していきますから、然るにより高度な感覚刺激を欲しがります。
然るに一昔前とは大違いになっています。

ちなみに私もその道を踏んで生きてきましたが、そんな趣味嗜好娯楽の自己満足だけでは心の隙間を埋めることは出来ませんでした。
すなわちいつも何かが足りないのです。
然るにそれが人間関係の中にあるのは確かなのですが、それが不完全なだけにその人間関係で満たすことが出来ないもの判ってきました。
それどころかその人間関係から虚しさまで味わうのですから事が足りる事になるはずは有りませんでした。

ところがそんな折、ふとしたきっかけからして仕組まれ続けてそれがいつの間にやら成るようになって、然るに過疎地で単身生活する事になったのですが、その人間関係&しがらみから離れたことからして私に都合が良かったのは、その人間関係の意識のずれから来る不都合不合理に巻き込まれることが消えたその快さでした。

然るに趣味や嗜好娯楽でもって楽しく生きることで(代替にして)人間人生を補おうとしていたことのその間違いに気付いたのです。
かと言ってもこの世の人間意識&人間関係は不完全ですから然るに私独りではどうすることも出来ません。

然るに私の力で人様をどうすることも出来ないのなら、然るにそれらのことはほっといて気にせずにして、然るに私自身の生き方&意識を変えるしかなかったわけです。

しかも巷の不完全な神仏霊魂の世界&信仰宗教は元より完全真理やそれを説く耕栄さんやファバラも期待できないことからして、然るに私一人の独自独歩で歩いていくことになったのです。

然るに人間関係の重要性を認識しながらも孤独にして生きているその矛盾がいつしか消えない限り、然るにそれまでは孤独と自由でもってして生きていくしかありません。

然るに俗世間と精神世界は結果と原因の関係になります。
然るに結果は終わりですが原因は始まりになります。
然るに結果である俗世間を大切に思えば原因である精神世界が疎かになります。
然るに結果を変えたければ原因である精神世界に身を置く事しかありません。

然るに一言付け加えれば
この世で結果を出してその跡を残すその繰り返しではなくして、人間として生まれたからにはその大元からして受け継いでいる愛意識&神意識に戻ることが私たちの役割使命であることは(始まりの原因のその結果となることは)確かです。

矛盾のこの世が続く限り人間関係本来の真価価値が味わえません。

2013年08月07日 | Weblog
幸せでもないが不幸でもない、だから満足しているようでも不満でもない、しかしそれだけで生きている価値が味わえている。

私がそんな思いでいられるのは欲張らなくなったのが原因に思えます。
然るに価値観が薄れてきていることからしてその真価価値を見ることが(意識することが)出来るようにもなりました。

然るに食べたいときに食べられること、寝たいときに寝ることが出来ること、
然るに安心して食べられるし安心して寝ることが出来てしかも安全で健康で生きていれることが基本にあるからでしょう。

だからスーパーへ買い物に行って美味しそうなスイカやブドウや桃が並んでいると一度くらいは食したい気にもなるが、しかし他に食べるものが前もってあるから今は必要ないとしてそのままに通り過ぎます。
だからフルーツと言えば豊富に出回っているバナナが定番です。
後は果樹100%の各種ジュースが定番です。

そして刺身より焼き魚が好きですからサバやサンマが定番ですが、半額になったカツオのたたきや旬のイカナゴのボイルを時たまに買うことがあります。
然るに一人だと調理するのが面倒だから(主に炊飯だけで)半額になったお惣菜や弁当が定番ですし、それ以外はうどん玉や食パンや牛乳に豆乳に野菜ジュースが定番です。

然るに不平不満を持つと代替の満足を欲しがりますが、その何かを欲しがることが欲ですから、然るに不満が出なければ欲張る必要が無くなるのは確かです。
然るに不満と欲は表裏一体なのです。

その不満が何処から出るのか、然るに皆と同じでは納得できずにいるからです。
然るにそれが特別意識というものです。
然るにそれが明るさ笑顔や微笑が消える原因でもあります。

然るに「笑う門には福来る」と言われるのですが、ところが何でか不満を言うほうが何かと得をするように思い違いしている人がいるのです。
然るに何かで得を(不純な見返り期待を)したいから不機嫌な不満顔をしているようなものです。

すなわち幼子のように私をかまって欲しい、私の思い通りにして欲しい、私を慰めて欲しい、癒して欲しい等と欲しい欲が出るのです。

然るにそれが赤子や幼子でもないのに(何とかして欲しいと)他力依存や他力本願になっているのです。
然るにそれが自力の無さ、自信の無さ、精神力の無さにつながっています。

それなのに何で正々堂々と自分の愚かさを表に出す形の不満を言うのでしょう。

それは他力依存が正当化されて然るに当たり前に思っているからです。
然るにそれが正しいとさえ思っていますから、当然の如くに主張堅持誇示執着したがるわけです。

しかしながら他力依存で得することがあってもその裏が必ず出て困ったことにもなっているのです。
然るにそれが神頼みであれ神懸りであれ超能力や霊力であれ人並み以上の能力であれ、それを出す方も受ける方も(双方共に)欲絡みだと気付いていないのです。

然るに「私は正しい」ことをしているとして見せたがるし、またそれを見たがる人もいるし、また何かと期待したがるわけですが、それが欲だと気付かないのです。

然るにその裏が出て困ったことになった時に裏切りが言われるわけです。
然るに私が正しいからして双方が裏切り関係を言うのです。
然るに双方共に愚かな意識&邪な意識&欲張りな意識心の持つ主だと見せ示す形になっています。

然るに皆が皆その欲張りですから、然るに人の集まるところは要注意なわけですが、それに加担して馴染んでしまうと危険にさらされます。

然るに矛盾するこの世の中で大勢の人が集ったことで皆が自由と平等と調和の安心安全があった事実事例はありませんから、然るに反対の比較競争差別や諍い争いや抗争戦争侵略にもなるわけです。

そんな矛盾のこの世が続く限り人間関係本来の真価価値が味わえません。

然るに偽善の裏切り関係の喜怒哀楽が伴う、その矛盾する人間関係を味わうだけで人生が終わりますが、皆さんはそれで大丈夫なのでしょうか、
然るに自力と自信でもってして一人静かに暮らしているほうが自由で気楽で省エネ楽チンで安心安全なのは何でなのでしょうか、

然るに自問自答する価値はあります。