孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

欲張る心を喜んで迎えてくれるのは邪な動物霊が支配している精神世界にありがちなことです。

2013年08月11日 | Weblog
私は概ねにして単純&素直&真面目ですから人様も同じだという思いで接していますからその裏&不信感も出てきません。
然るに相手の言葉も素直に受けます。だから善意を遠慮しません。
しかし余りにも押し付けられると苦手です。

然るに自分の思いに無い(儀礼的な)言葉を出すことは未だに苦手です。
だから冠婚葬祭の儀礼的な挨拶から年末年始の言葉などの伝統風習の中の言葉は苦手です。
然るに愛しているとか、信じているとか、頼っているとかの言葉を(妻や我が子を含めて)人様に発した覚えはありません。

また悲運な出来事に執着している人を見てそれを哀れ気の毒に思うよりも早く立ち直ればいいのにという思いになりますが、それも何だかお節介に思えて、それに対応する適切な言葉が浮かんできません。
だから黙って成り行きを見るしかありません。

また人様が私のことをどう思おうが(私がそれを知ることが出来ないから)あまり気になりませんし、人づてに聞こえてきても気になりません。
然るに詮索推察する事にもなりません。

然るに気遣い配慮することが苦手です。然るに黙って好き勝手にさせています。
しかし相手が望んでいることであればそれに応えたい気持ちは十分あります。
それでも我欲の強い人は(それが取引先の代表であっても)(繰返されると)応じきれずに敬遠します、だからそれで取引が出来なくなっても平気でした。

然るに基本は「来るものは拒まず去るものは追わず」「成り行き任せ」で今日まで生きてきました。

然るに人様が発する言葉に裏があり欲絡みが隠れていることも判ってきました。
然るに見えない世界を見える姿形にしたりまた如何にもそれが事実が如くに説く人の中にも欲が隠れているのが判ってきました。

然るに神仏霊魂や過去の人を何らかの形にして現しているのも欲です。
然るに祈る願うの形も欲です。
然るに予めそのありがたい結果を説いてその実践行動を勧めることは「先に結果有り」の期待感を持たせて信じさせる陰謀策略です。

然るに見えない神仏霊魂に対して何らかの形で奉ること、然るに邪な意識の動物霊を神社仏閣で奉り祈願(願えば叶う如くに期待)させるのも、
また伊勢白山道なる者が三本線香を立てるとその御利益があるように説くのも、先に結果有りを説いてその信者を作る腹算用が隠れているかもしれません。

然るに「結果じゃないよ心意識だよ」の真実の精神世界にそぐわない教えになります。

しかしそれでもしっかり念を込めて祈願すれば何らかの結果が出るのも事実にありますが、然るにそれは一過性の結果ですからそれで一旦終わります。
然るに大元の原因意識は変わりませんから何度も繰り返す&リピート&信者になりやすいのです。

然るに欲張る心を喜んで迎えてくれるのは邪な動物霊が支配している精神世界にありがちなことです。
私が何でこんなことが書けるのか、然るに欲張ることを忘れているからです。

然るに自らが欲を出し始めるとそれを隠したがるのも人間の本性です。
だからそれを見定めることができるのも自らが欲を出さないことです。

然るに欲絡みの人間界で心穏やかに生きていくには欲を出さないことです。
だから人里離れた過疎地での単身生活が私には似合っているのです。