孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

<俗世間と精神世界>は<結果と原因>その「結果は終わり原因は始まり」の関係になります。

2013年08月08日 | Weblog
人間は良い悪いで判断する矛盾意識でもって生きていますから、然るに良い悪いで判断して「良いとこ取り」したいわけですが、然るにそれが「欲」になるのです。
だから人間は皆<欲>で生きていることになるわけです。
然るにその欲を正当化しているのもこの世です。
だから皆が欲張りあっていても何とか一緒になって共に暮らせるわけです。

そして損することよりも得することが多い人ほど優れた能力の人にも評価されるわけですし、然るに自らが損することを承知の上で人の為に尽くせば善人にも評価されるわけです。
また意欲的に行動する人を褒め称えますがその行動が鈍感でうすのろだと役立たずにも思われます。
然るにその評価する尺度が人それぞれに異なっていて定ではありませんからその思いも様々に違ってきますが、ちなみに差別だと思った人の中にその差別があることになります。

そんな欲絡みの比較競争差別の人間関係の中で暮らしていれば面白いはずもありません。
そこで代替の趣味嗜好娯楽の変化刺激快感快楽で補う事になるのですがそれだけではやはり何か物足りなさ片手落ちを感じるのです。

然るにそれでも「無いよりマシ」的な感覚からしてそれらに依存することにもなっていますが、その感覚は慣れからして次第に麻痺していきますから、然るにより高度な感覚刺激を欲しがります。
然るに一昔前とは大違いになっています。

ちなみに私もその道を踏んで生きてきましたが、そんな趣味嗜好娯楽の自己満足だけでは心の隙間を埋めることは出来ませんでした。
すなわちいつも何かが足りないのです。
然るにそれが人間関係の中にあるのは確かなのですが、それが不完全なだけにその人間関係で満たすことが出来ないもの判ってきました。
それどころかその人間関係から虚しさまで味わうのですから事が足りる事になるはずは有りませんでした。

ところがそんな折、ふとしたきっかけからして仕組まれ続けてそれがいつの間にやら成るようになって、然るに過疎地で単身生活する事になったのですが、その人間関係&しがらみから離れたことからして私に都合が良かったのは、その人間関係の意識のずれから来る不都合不合理に巻き込まれることが消えたその快さでした。

然るに趣味や嗜好娯楽でもって楽しく生きることで(代替にして)人間人生を補おうとしていたことのその間違いに気付いたのです。
かと言ってもこの世の人間意識&人間関係は不完全ですから然るに私独りではどうすることも出来ません。

然るに私の力で人様をどうすることも出来ないのなら、然るにそれらのことはほっといて気にせずにして、然るに私自身の生き方&意識を変えるしかなかったわけです。

しかも巷の不完全な神仏霊魂の世界&信仰宗教は元より完全真理やそれを説く耕栄さんやファバラも期待できないことからして、然るに私一人の独自独歩で歩いていくことになったのです。

然るに人間関係の重要性を認識しながらも孤独にして生きているその矛盾がいつしか消えない限り、然るにそれまでは孤独と自由でもってして生きていくしかありません。

然るに俗世間と精神世界は結果と原因の関係になります。
然るに結果は終わりですが原因は始まりになります。
然るに結果である俗世間を大切に思えば原因である精神世界が疎かになります。
然るに結果を変えたければ原因である精神世界に身を置く事しかありません。

然るに一言付け加えれば
この世で結果を出してその跡を残すその繰り返しではなくして、人間として生まれたからにはその大元からして受け継いでいる愛意識&神意識に戻ることが私たちの役割使命であることは(始まりの原因のその結果となることは)確かです。