孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自分さえ良ければの個人意識にピッタリの実践真理=自由にして楽に生きる。

2013年08月15日 | Weblog
不完全からして不完全しか生まれない、然るに不完全意識の人間が何を成しても不完全な結果しか出てきません。
然るにその結果が出て自己満足するか、それともその結果が出ずにして不平不満になる、然るにその苦楽の繰り返しで終わるだけに、
然るに前もっての思惑期待を持たずにして成り行きに任せた生き方のほうが呑気で気楽になること。

また不完全意識の人間関係を気にしなければ然るにその苦楽も味わないで済むことからして、然るに気楽な人間関係になります。

そして何よりも自由意識でなければ束縛制限支配&否定反発することになり楽しくも楽にもなりません。
然るにその代替に趣味嗜好娯楽の変化刺激&快感快楽を求める事になり、然るにその苦楽も味わうことになっています。

ところが自由にして生きることからして欲張ることが無くなる、然るに欲張れば自由が無くなる、その因果関係からして自由の大切さを知り、その自由をまっとうするには巷の不完全意識の人間関係を気にせずに独自独歩の自力と自信の精神力でもってして生きていくしかありません。
然るに他力よりも自力で生きることが多くなります。

その自由に生きるにも、欲張り無理する事無く、然るに拘り執着することも無くならなければ無理がありますので、然るに他力絡みで楽しく生きることよりも自力でもってして「楽に生きる」ことを意識して生きていかなければなりません。

そこで付け加えますが、過去の釈迦やイエスを超えたこの世で初めてといわれる山田耕栄さんの完全真理が説くその良い悪いで判断しないその実践には無理がありました。
然るにそれら人並み以上の優れた人智や感性や摩訶不思議の超能力や霊力からして思い考え閃き創作された宗教真理&理想目的を説くのではなくして、
然るに世間的には落ちこぼれで学力も教養もなく、然るに超能力があるわけでもない私が、その成り行きからして様々に味わいながらにして自らの生き様から導き出した感じがするその「楽チンにして生きる」その実践ならば、然るに誰でもが無理なく実践出来ます。

然るに理想目的の然るに教祖指導者さえも実践できない宗教真理ではなくして、然るに老若男女の誰もが心身からしてやる気になれば実践できるのです。
然るにその楽に生きる実践が無理となれば、然るにそれは欲張り無理をしているその証ですから、然るに教祖指導者にお伺いしなくても自らして気付くことができますから、然るに大勢の人が集まる余計な無駄も無理も無く、然るに独自独歩で歩んでいけるのです。

要するに人集め金集めの為に説く複雑難解な説教は元からして不要だったと言えるのです。
然るに人間本来内心に持っている「楽に生きる」ことを誰気兼ねなく正面に出して生きていれば、然るに人様がどうであれ、自らが欲張ることもなくなり、然るに自由さえも味わえるのです。

然るに自分さえ良ければの個人意識丸出しにピッタリの、然るに人様のためではなくして「自分の為」になる精神世界の真理です。
然るに日々実践し続けることも出来るのです。

しかしこの説明に違和感があるのは不完全意識なのに善人の振りをしたがる偽善者になりますので、然るに善人ぶって精神世界に係わる必要がないことも付け加えておきます。

生まれながらにして不完全意識を持っているのが人間です。
それを隠したがるのも欲が絡んでいるからです。
然るに自由にして楽に生きることが出来ないのです。