孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

矛盾のこの世が続く限り人間関係本来の真価価値が味わえません。

2013年08月07日 | Weblog
幸せでもないが不幸でもない、だから満足しているようでも不満でもない、しかしそれだけで生きている価値が味わえている。

私がそんな思いでいられるのは欲張らなくなったのが原因に思えます。
然るに価値観が薄れてきていることからしてその真価価値を見ることが(意識することが)出来るようにもなりました。

然るに食べたいときに食べられること、寝たいときに寝ることが出来ること、
然るに安心して食べられるし安心して寝ることが出来てしかも安全で健康で生きていれることが基本にあるからでしょう。

だからスーパーへ買い物に行って美味しそうなスイカやブドウや桃が並んでいると一度くらいは食したい気にもなるが、しかし他に食べるものが前もってあるから今は必要ないとしてそのままに通り過ぎます。
だからフルーツと言えば豊富に出回っているバナナが定番です。
後は果樹100%の各種ジュースが定番です。

そして刺身より焼き魚が好きですからサバやサンマが定番ですが、半額になったカツオのたたきや旬のイカナゴのボイルを時たまに買うことがあります。
然るに一人だと調理するのが面倒だから(主に炊飯だけで)半額になったお惣菜や弁当が定番ですし、それ以外はうどん玉や食パンや牛乳に豆乳に野菜ジュースが定番です。

然るに不平不満を持つと代替の満足を欲しがりますが、その何かを欲しがることが欲ですから、然るに不満が出なければ欲張る必要が無くなるのは確かです。
然るに不満と欲は表裏一体なのです。

その不満が何処から出るのか、然るに皆と同じでは納得できずにいるからです。
然るにそれが特別意識というものです。
然るにそれが明るさ笑顔や微笑が消える原因でもあります。

然るに「笑う門には福来る」と言われるのですが、ところが何でか不満を言うほうが何かと得をするように思い違いしている人がいるのです。
然るに何かで得を(不純な見返り期待を)したいから不機嫌な不満顔をしているようなものです。

すなわち幼子のように私をかまって欲しい、私の思い通りにして欲しい、私を慰めて欲しい、癒して欲しい等と欲しい欲が出るのです。

然るにそれが赤子や幼子でもないのに(何とかして欲しいと)他力依存や他力本願になっているのです。
然るにそれが自力の無さ、自信の無さ、精神力の無さにつながっています。

それなのに何で正々堂々と自分の愚かさを表に出す形の不満を言うのでしょう。

それは他力依存が正当化されて然るに当たり前に思っているからです。
然るにそれが正しいとさえ思っていますから、当然の如くに主張堅持誇示執着したがるわけです。

しかしながら他力依存で得することがあってもその裏が必ず出て困ったことにもなっているのです。
然るにそれが神頼みであれ神懸りであれ超能力や霊力であれ人並み以上の能力であれ、それを出す方も受ける方も(双方共に)欲絡みだと気付いていないのです。

然るに「私は正しい」ことをしているとして見せたがるし、またそれを見たがる人もいるし、また何かと期待したがるわけですが、それが欲だと気付かないのです。

然るにその裏が出て困ったことになった時に裏切りが言われるわけです。
然るに私が正しいからして双方が裏切り関係を言うのです。
然るに双方共に愚かな意識&邪な意識&欲張りな意識心の持つ主だと見せ示す形になっています。

然るに皆が皆その欲張りですから、然るに人の集まるところは要注意なわけですが、それに加担して馴染んでしまうと危険にさらされます。

然るに矛盾するこの世の中で大勢の人が集ったことで皆が自由と平等と調和の安心安全があった事実事例はありませんから、然るに反対の比較競争差別や諍い争いや抗争戦争侵略にもなるわけです。

そんな矛盾のこの世が続く限り人間関係本来の真価価値が味わえません。

然るに偽善の裏切り関係の喜怒哀楽が伴う、その矛盾する人間関係を味わうだけで人生が終わりますが、皆さんはそれで大丈夫なのでしょうか、
然るに自力と自信でもってして一人静かに暮らしているほうが自由で気楽で省エネ楽チンで安心安全なのは何でなのでしょうか、

然るに自問自答する価値はあります。