孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

真理の理解力・実践力・意識力や守り意識に関係なく、欲さえ無ければ事と次第が自然と進んでいくのです。

2011年10月18日 | Weblog
完全真理の実践不足は理解力不足にあります。
その理解力不足にも実践不足があります。
だから理解力不足も実践不足も同じになります。

その原因には色々とありますが、先ずは「知り」たがっていないことにあります。
そして知りたがっていないという事は「やり」たがっていないことにもなります。
ところが「知り」たがり「やり」たがっているのにそれが進んでいなければ必ず言い訳正当化しているはずです。

例えば、自分さえ良ければの個人意識を持っているからには《人を押し退けても》「やり」たがるはずです。
だから「やり」たいのに「やって」いないのは、元を探れば自分の都合が優先されているからです。
そして「やって」いると言ったからにはその手前がありますから、やっているように見せ掛ける必要から、知った真理の言葉を言うだけや講演会に聞きに行くことで自他共に誤魔化したがります。

また知っている真理の言葉を使うときや講演会を聞きに行くときになれば、その時だけは仕事や家族やまた身近な仲間内を押し退けてもやりたがる人がいますが、それなのに、肝心要の確かな実践だけは遠慮して踏み止まっている人もいるでしょう。

その理解力や実践力の未熟さに関係なく、知りたがる、やりたがる事が続いている限り大丈夫です。
またこの世は「意識の世界」ですから(意識で生きていますから)、完全真理を意識しているその意識力によってその違いが出てきますが、それも意識し続けていれば何ら問題ありません。

すなわち理解力・実践力・意識力の未熟さの尺度よりも「やり続け」ているその意識が肝要なのです。
とは言っても、その力量・尺度の違いが実際の生活意識にもつながっていますから、その違いが外見的な生活様式に現れているし、内面的な感情や精神にも現れているはずです。

だから理解力・実践力・意識力の違いが現実の中に現れているはずです。
そして「気付く」ことも質的にも量的にも違っているはずです。
そして更に、その気付きの力量・尺度が理解力・実践力・意識力の違いにもなっているはずです。

だから知りたがるやりたがる意識があれば気付く事も多くなりますから、未熟であっても大丈夫なわけです。
ただ自分の都合が優先されるときは「守り」意識(守り意識も欲です)が出ているからです。
その守り意識を無くしていかなければどの道中途半端になる可能性が大きいようです。

だから理解力・実践力・意識力・守り意識に関係なく、結局のところ自我・欲さえ無ければ事と次第が自然と進んでいくのです。
その為に自己縮小して素朴に生きる事が言われているわけです。
その為にも宇宙・神・愛の仕組みに任せた、必然ご縁のお仕組みに従っていればいいのです。

すなわち「成り行き任せ」に出来るという事は<欲>が絡んでいないと言うことにもなるのです。
そして無理がなくて「楽ちん」なのですから「誰もが実践」できるはずなのです。
だから「信じるか否か」の真理でも無く、また実践する気になれば誰でもが実践できる真理なのです
またこの世で(此れより優る真理が出てくるはずもないことから)最初で最後となり、必ず完結する<完全>な真理なのです。