完全真理は完全で事実・真実を説いていますから「信じる」必要がありません。
だから「知る」ことから始まりその「終わり」もありませんから、知り続ける事になります。
そして知った事を実際に実践しなければ確信悟りに至らないままに止まることにもなり、その次を知ることにもなりません。
すなわち知識として知った事を実践して「気付く」ことからもまた新たに知ることにもなりそれが悟りにもなっていくのです。
だから知り続けて、そして実践し続けて、そして気付き続けることで完全真理が説くところの事実・真実が確信自信・悟りになるのです。
だから宗教真理と違いますから完全真理が説く神を信仰する形には絶対になりません。
だから神を偶像化する必要もありませんし、その偶像の神々に祈願することもありません。
また宗教のような聖書経典も形式もありませんからそれらに束縛制限されることになりませんから到って<自由>です。
まして布教活動に出向いたり、施しを受ける托鉢に出かけたり、堂々巡りの行脚や艱難辛苦の荒行修行も必要ありません。
あるのは良い悪いで判断していることの矛盾を日々の生活の中で気付く事です。
それで完全なる宇宙・神・愛の真実を知ることになりその実在を確信・悟る事になるのですから到って簡単楽ちんです。
ところが楽ちんなだけに、忙しい日々の生活の中で実践意識を持ち続けて、より完全真理を知り続け、より実践し続け、より気付き続ける事に、あまり意識が使われていない時・時間が多くなる可能性があることです。
また身近な仲間がごく限られていることやその仲間内が揃って同じ行動をすることもないし、定期的に一同に揃う形式的なこともないことからして、己一人の独自独歩に実践していく事になるから、どうしても実践意欲が失せて油断していることが多くなるのです。
すなわち朝や昼や夕べにお祈りすることも無く、身近な仲間が寄り集まり会話したり布教活動や慈善奉仕活動をすることもなく、特別に祝い願う記念日もなく、その「自由」にやれる分だけ意識が束縛されていませんから、完全真理のことやその実践のことが日々の生活の中に隠れてしまって忘れている時や意識することが忘れているときが多いことです。
しかも完全真理を学び知りそれを実践している事を世間に知られたくない思いから隠している人もいることです。
・・・自慢げに世間に見せびらかす(アピールする)ことでもないが、隠すほどの事でもないと思います。
そうすると一般的には信仰宗教のほうが熱心になれる要素があります。
だから日々の日常生活を犠牲にまでして信仰に取り組む人が多いのです。
そして知らない事を知ったことが喜びや自信になっているから人様を勧誘したがるのです。
ところがそうなってしまうと関心のない世間では特別に見えますから忌み嫌う人や不信感を持たれることにもなっています。
完全真理もカルト的な要素があるから似たり寄ったりですが、形式的なことがないだけに普通の自然体で実践できます。
その形式的なことがないだけにやはり日々の生活の中の実践意識が主になります。
それでも形式的な「形」があるほうが熱心になれるのは確かなようです。
だからか耕栄さんの講演会には熱心な人たちが多く新人がごく少ないのです。
そして形式的なことが少ないだけにその新人が定着することも少ないのです。
そんなことからしてどうしても独自独歩になるのです。
そして知ることと気付くことは一体ですから、その気付き知る実践から自信確信・悟りに至るしかありません。
そこで「結果と原因」は同じですから、その結果よりも「原因」に意識を使うことです。
だから結果であるこの世を気にすることよりも、その結果になった原因である人間の「意識・命」の真実を知ることです。
そうなればあらゆる結果が「どうしようもなく」て「どうでもいいこと」になり、それらに執着しませんから、日々が成り行き任せで気楽に生きていけるようにもなりますから、それがまた自ずと自己縮小につながり、何の無理をすること無く楽ちんで成る様になっていくのです。
そしてその後のことも宇宙・神に任すしかありません。
何故なら自分で何とか出来る事なら遠い昔にその結果が出ているはずです。
その結果が出ないで矛盾する不完全なままに生きているのですから、我々では「どうしようも」ないわけです。
だから自分に出来る事を無理なくやるだけやって、あとは(天運)宇宙・神に全託することになるわけです。
そしてその時の己の意識のあり方がその方向性を決めるのですから、全てが己の意識次第と言うことです。
だから宇宙・神のお仕組みに任すことになるが、前もって祈願することでもないわけです。
だから「知る」ことから始まりその「終わり」もありませんから、知り続ける事になります。
そして知った事を実際に実践しなければ確信悟りに至らないままに止まることにもなり、その次を知ることにもなりません。
すなわち知識として知った事を実践して「気付く」ことからもまた新たに知ることにもなりそれが悟りにもなっていくのです。
だから知り続けて、そして実践し続けて、そして気付き続けることで完全真理が説くところの事実・真実が確信自信・悟りになるのです。
だから宗教真理と違いますから完全真理が説く神を信仰する形には絶対になりません。
だから神を偶像化する必要もありませんし、その偶像の神々に祈願することもありません。
また宗教のような聖書経典も形式もありませんからそれらに束縛制限されることになりませんから到って<自由>です。
まして布教活動に出向いたり、施しを受ける托鉢に出かけたり、堂々巡りの行脚や艱難辛苦の荒行修行も必要ありません。
あるのは良い悪いで判断していることの矛盾を日々の生活の中で気付く事です。
それで完全なる宇宙・神・愛の真実を知ることになりその実在を確信・悟る事になるのですから到って簡単楽ちんです。
ところが楽ちんなだけに、忙しい日々の生活の中で実践意識を持ち続けて、より完全真理を知り続け、より実践し続け、より気付き続ける事に、あまり意識が使われていない時・時間が多くなる可能性があることです。
また身近な仲間がごく限られていることやその仲間内が揃って同じ行動をすることもないし、定期的に一同に揃う形式的なこともないことからして、己一人の独自独歩に実践していく事になるから、どうしても実践意欲が失せて油断していることが多くなるのです。
すなわち朝や昼や夕べにお祈りすることも無く、身近な仲間が寄り集まり会話したり布教活動や慈善奉仕活動をすることもなく、特別に祝い願う記念日もなく、その「自由」にやれる分だけ意識が束縛されていませんから、完全真理のことやその実践のことが日々の生活の中に隠れてしまって忘れている時や意識することが忘れているときが多いことです。
しかも完全真理を学び知りそれを実践している事を世間に知られたくない思いから隠している人もいることです。
・・・自慢げに世間に見せびらかす(アピールする)ことでもないが、隠すほどの事でもないと思います。
そうすると一般的には信仰宗教のほうが熱心になれる要素があります。
だから日々の日常生活を犠牲にまでして信仰に取り組む人が多いのです。
そして知らない事を知ったことが喜びや自信になっているから人様を勧誘したがるのです。
ところがそうなってしまうと関心のない世間では特別に見えますから忌み嫌う人や不信感を持たれることにもなっています。
完全真理もカルト的な要素があるから似たり寄ったりですが、形式的なことがないだけに普通の自然体で実践できます。
その形式的なことがないだけにやはり日々の生活の中の実践意識が主になります。
それでも形式的な「形」があるほうが熱心になれるのは確かなようです。
だからか耕栄さんの講演会には熱心な人たちが多く新人がごく少ないのです。
そして形式的なことが少ないだけにその新人が定着することも少ないのです。
そんなことからしてどうしても独自独歩になるのです。
そして知ることと気付くことは一体ですから、その気付き知る実践から自信確信・悟りに至るしかありません。
そこで「結果と原因」は同じですから、その結果よりも「原因」に意識を使うことです。
だから結果であるこの世を気にすることよりも、その結果になった原因である人間の「意識・命」の真実を知ることです。
そうなればあらゆる結果が「どうしようもなく」て「どうでもいいこと」になり、それらに執着しませんから、日々が成り行き任せで気楽に生きていけるようにもなりますから、それがまた自ずと自己縮小につながり、何の無理をすること無く楽ちんで成る様になっていくのです。
そしてその後のことも宇宙・神に任すしかありません。
何故なら自分で何とか出来る事なら遠い昔にその結果が出ているはずです。
その結果が出ないで矛盾する不完全なままに生きているのですから、我々では「どうしようも」ないわけです。
だから自分に出来る事を無理なくやるだけやって、あとは(天運)宇宙・神に全託することになるわけです。
そしてその時の己の意識のあり方がその方向性を決めるのですから、全てが己の意識次第と言うことです。
だから宇宙・神のお仕組みに任すことになるが、前もって祈願することでもないわけです。