孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

必然ご縁の成り行き任せ、お蔭さまとお互いさまとアリガタイと犠牲、当たり前と特別、無理⇔執着に関して

2011年10月19日 | Weblog
私が車を運転していて、それが安全運転であれば「当たり前」のことですから<特別>ではありません。
ところが交通信号に従わなければ「特別」な事をしたことになります。
それがパトカーに見つかって罰金を払う事になれば、それも当たり前の事になります。
しかしそこで言い逃れ・言い訳・正当化しようとすれば、それは嘘偽りであり、その自己主張であり、そして「執着」であり、特別な事をしていることになりますから、それが成り行き任せにしているとは決して言えません。

また過疎地だけに殆ど車も人も通らない細い山道で脱輪することもあるのですが、そこで創意工夫して難を脱すればそれは「自力」で成した事になりそれが喜びにもなります。
ところが自力だけではどうしようもないときに、(運良く)必然ご縁で過疎地の山道を通りかかった建設工事車両のお蔭で助けてくれれば、思わぬ出来事だけに「アリガタイ」ことになり、その人に自ずと「ありがとう」と心をこめた感謝の気持ちが出てきます。

この運が良かったことも偶然では無くして必然のご縁で仕組まれたことですから、その必然ご縁の成り行きで「成る様になった」ことになります。

そこで感謝された人も嬉しい気持ちになりますが、その先方さんが私が大変困っているところを「助けた」と思えばそれが自己満足・自惚れにつながりますが、自分に出来る簡単な事をしたまでと思えれば自己満足・自惚れにならずにして、その私の素直な感謝を気分よく受け止めるくらいで、それで一旦終わります。
・・・逆に私が手助けをすることになっても、それと同じ事が言えます。

また同じく細い山道の積雪のために大きく脱輪したときには馴染みの自動車整備業者に頼んで解決しましたが、依頼したことを快く受けて頂いた感謝の気持ちと合わせてその作業代金を支払うことで、そこで一旦終わります。
そしてその関係は、作業した先方の犠牲とその代金を払った私の犠牲との関係から「お互いさま」「お蔭さま」になります。

しがらみから離れた孤独が多いだけに(それもお蔭さまですが)毎日が暇で退屈していますが、それも成り行き任せにしていたら、ご縁がご縁につながる(連続の)必然ご縁が起きて今は牛舎にエサやりに出かけていますが、単純作業でミスる事もなく平常心で従事していますから、いたって気楽に仕事が出来ますし、オーナーが何かと気遣ってくれることも嬉しいので気に入って仕事をしています。
・・・しかし今年のハエの異常発生には困りました。

この事例に関しても、私が前もって何かの仕事を捜し求めたわけでもなく、また無理な仕事をしているわけでもなく、また臭い汚いと毛嫌いすることが無かっただけに従事している仕事であり、また雇用条件などで欲張り頑張っているわけでもなく、また自分に出来る事を淡々とやっている今の事実があるだけですが、この先の事どうなるかは判りませんが、それも成り行きに任せていますから、どうでもいいような余計な事や無駄な事を考えないままに、今の自分にやれる事をただやり続ける事が出来ればそれで十分なわけです。
・・・だから此れまでに関しても、必然ご縁の成り行き任せで、何の欲も無理も執着もありません。
・・・またオーナーと私が共に犠牲を払っていますから、犠牲に関しては「お互いさま」の関係になります。
・・・またこうしたご縁があったことを共に喜び合っていますから「アリガタイ」ことであり「お蔭さま」の関係にもなっています。

そしてそのオーナーに前もって言っていることですが、私の作業中の事故や作業車両を乗り回すオーナーの不注意で私が怪我をしても、その怪我をするということ自体が「私の意識」が原因で起きている事故ですから・・・「執着」したり「しがらみ」を残さないためにも・・・それはすべて私の自己責任で終わらせますから、そのオーナーに心配無用と伝えていますし、またオ-ナーに関わる冠婚葬祭やお見舞いお祝い事に私が関わらないことの自らの意識(方針)も前もって伝えています。

また家族親戚にも同様な事を前もって伝えていますから、長年関わる人の冠婚葬祭やに行った事もなく、また私が何処で何が起きようとも(病気・怪我・事故・被災・被害・死亡など)それは全て私の自己責任だから自力で解決するし、万が一私が被害者で死亡してもその加害者を含めた人様を巻き込んでまで解決する事がないように伝えております。

また自己責任を超えたことがあれば私からお願いすることがあるかもしれないが、その願いを無理に聞き入れてくれなくても、私は成る様になるから大丈夫と常に言っていますので、その時までは互いに何ら口出し干渉しないままに生活し、余計な事に気遣ったり心配したりしなくてもいいことになっています。 だから電話が掛かることも往来もごく限られています。

そしてこれ等の事に最も理解を示しているのが同じ完全真理の道を歩む(嫁いだ)娘です。
その娘は私の妻が居残る家屋を(娘夫婦が)潰して二世帯住居を新築して、その娘家族(他家の農家の長男である旦那さんが入り婿同然になりましたが)と妻が同じ屋根の下で一緒に暮らしています。
それも「成るようになった」ことですから、娘夫婦孫達家族も妻も私も何ら問題なく必然ご縁が続いています。
・・・それが面白い事に・・・娘と旦那さんと私の妻が過去性では三角関係の因縁があるそうです。