10年以上も前に娘夫婦が田舎暮らしの真似をし始めたことから私までが刺激され、それがきっかけで、私も仕事が無い日に遊びがてらに山の中に潜んでいたいと思うようになり、その構想の中では、広い竹薮の中でもいいから、小さな掘っ立て小屋を手作りし、そこにソファー兼用のベットを置き、夏は扇風機一つで冬は囲炉裏で焚き火をする程度にして、弁当持参で日中はほとんど野外活動で色々と創意工夫をしながら遊び楽しむ事を考えていました。
ところが娘家族が探していた廃屋が見つかったときには既に田舎暮らしの不便さからその意欲を失っていたので、それでは私が購入して、以前に構想していた事を実現させてみたくなり、仕事がない日に先ず廃屋の手直しから始めました。
それも遊びがてらに殆どが手作業でコツコツとやっていましたから、おおざっぱな日曜大工の真似事になりました。
また敷地の草刈や雑木の伐採も同じく、長カマと手斧と手ノコだけの手作業を楽しむ程度の道具でした。
ところが本格的に一泊二泊するようになったことから、廃品の流し台やガスレンジやオープントースターを置き、排便は取りあえずオイル缶に腰掛けてすることにしました。
そうしている内に宿泊することが多くなったことから、下隣のおばさんが田舎の風呂だけどよければと入浴のお誘いを受けました。
それがどんな風呂かはおよそ想像も出来ますから、内心ではお断りするつもりでしたが、県外の見知らぬ私を家の中にまで招くと言う先方の善意・親切を無碍にすることができないと思いそのお誘いに素直に従いました。
そのお蔭もあって、今までも着飾らない自然体に近いお付合いが(頂き物が多いが)ずーッと続いています。
また不気味で幽霊屋敷みたいな家屋を夜中まで手直ししたり、それもオンボロ廃品再利用していることや家財道具や電気製品も中古ばかりですし、また鬼が出るか蛇が出るかと思うような暗くて不気味な所や獣道がある草むらやヘビや毛虫やクモの巣や蜂の巣がある生い茂る草むらに平然と入って行ったり、オイル缶に腰掛けて排便するなどしている内に、自分に忌み嫌う・毛嫌い(否定反発)することが少ないこと、前もって期待することよりもぶっつけ本番が似合っていることなど、また自分の見栄やプライド・思い都合を抜きにして人様の親切を素直に受けることで相手側もまた素直に喜ぶことにも感じ気付いたのです。
そんな物不足・金不足の出発点から始まっただけに(過去の贅沢三昧が当たり前だったのに)オンボロでも必要なものが手元にあってそれを有意義に難なく使えることのありがたさや自らが自力で廃屋を手直しして「愛着」になれば古臭くても文句なしに親しみ楽しめることもわかりましたし、昔は当たり前だったその不便さを味わうことが面白くなったり、自分なりに創意工夫するその自力を使う喜び楽しさみたいなものが身にしみてきました。
それだけに新たに購入した近代兵器の草刈機やチェンソーや電子レンジのありがたさも十分に味わっています。
ところが一度便利なものを使い出すとそれが手放せなくなるのも良いとこ取り意識ですね。
だから余程の必要性がない限り快適便利を導入しないほうが素朴に生きられて(手作業が多くて)そのゆとりが楽しいことにもつながりますが、しかし日々を忙しく過ごしている人達には不向きな内容になります。
すなわち(前置きが長くなりましたが)・・・その過去の4や5や8や10が過ぎた暮らしに思え、それが無駄なことだったと気付き反省できることです。
だから寝泊りにも不自由しているフリーターやホームレスの人達にもこれ等のことが通じるかもしれません。
そして1や2も無くても、(食って寝て糞をするだけの生活でも)生きてさえいれば何とかなるという自力と自信があれば、その意識が必然ご縁を呼び込んでくる可能性が十分ありますから、その1や2に恵まれることにもなり、その1や2や3が「ありがたい」ことになれば、無理に4や5まで欲しがらないままに生きることになり、またその欲しがらない生活にも確かな自信が持てるようになるかもしれません。
それが完全真理で言うところの「意識改革」だと思います。
ところが娘家族が探していた廃屋が見つかったときには既に田舎暮らしの不便さからその意欲を失っていたので、それでは私が購入して、以前に構想していた事を実現させてみたくなり、仕事がない日に先ず廃屋の手直しから始めました。
それも遊びがてらに殆どが手作業でコツコツとやっていましたから、おおざっぱな日曜大工の真似事になりました。
また敷地の草刈や雑木の伐採も同じく、長カマと手斧と手ノコだけの手作業を楽しむ程度の道具でした。
ところが本格的に一泊二泊するようになったことから、廃品の流し台やガスレンジやオープントースターを置き、排便は取りあえずオイル缶に腰掛けてすることにしました。
そうしている内に宿泊することが多くなったことから、下隣のおばさんが田舎の風呂だけどよければと入浴のお誘いを受けました。
それがどんな風呂かはおよそ想像も出来ますから、内心ではお断りするつもりでしたが、県外の見知らぬ私を家の中にまで招くと言う先方の善意・親切を無碍にすることができないと思いそのお誘いに素直に従いました。
そのお蔭もあって、今までも着飾らない自然体に近いお付合いが(頂き物が多いが)ずーッと続いています。
また不気味で幽霊屋敷みたいな家屋を夜中まで手直ししたり、それもオンボロ廃品再利用していることや家財道具や電気製品も中古ばかりですし、また鬼が出るか蛇が出るかと思うような暗くて不気味な所や獣道がある草むらやヘビや毛虫やクモの巣や蜂の巣がある生い茂る草むらに平然と入って行ったり、オイル缶に腰掛けて排便するなどしている内に、自分に忌み嫌う・毛嫌い(否定反発)することが少ないこと、前もって期待することよりもぶっつけ本番が似合っていることなど、また自分の見栄やプライド・思い都合を抜きにして人様の親切を素直に受けることで相手側もまた素直に喜ぶことにも感じ気付いたのです。
そんな物不足・金不足の出発点から始まっただけに(過去の贅沢三昧が当たり前だったのに)オンボロでも必要なものが手元にあってそれを有意義に難なく使えることのありがたさや自らが自力で廃屋を手直しして「愛着」になれば古臭くても文句なしに親しみ楽しめることもわかりましたし、昔は当たり前だったその不便さを味わうことが面白くなったり、自分なりに創意工夫するその自力を使う喜び楽しさみたいなものが身にしみてきました。
それだけに新たに購入した近代兵器の草刈機やチェンソーや電子レンジのありがたさも十分に味わっています。
ところが一度便利なものを使い出すとそれが手放せなくなるのも良いとこ取り意識ですね。
だから余程の必要性がない限り快適便利を導入しないほうが素朴に生きられて(手作業が多くて)そのゆとりが楽しいことにもつながりますが、しかし日々を忙しく過ごしている人達には不向きな内容になります。
すなわち(前置きが長くなりましたが)・・・その過去の4や5や8や10が過ぎた暮らしに思え、それが無駄なことだったと気付き反省できることです。
だから寝泊りにも不自由しているフリーターやホームレスの人達にもこれ等のことが通じるかもしれません。
そして1や2も無くても、(食って寝て糞をするだけの生活でも)生きてさえいれば何とかなるという自力と自信があれば、その意識が必然ご縁を呼び込んでくる可能性が十分ありますから、その1や2に恵まれることにもなり、その1や2や3が「ありがたい」ことになれば、無理に4や5まで欲しがらないままに生きることになり、またその欲しがらない生活にも確かな自信が持てるようになるかもしれません。
それが完全真理で言うところの「意識改革」だと思います。