私達人間は地球万物の頂点に立ちその自然界の犠牲によって生き長らえていますが、その生きる為に必要な物がすべて揃っていて、今は豊かな衣食住にも恵まれ快適便利な生活があるということは、私達は地球と言う「地上の天国」で生きているのです。
ところがそれでも不満に思い、もっと欲しいもっと欲しいと欲張っていますから、「地上の天国」には思えずにいます。
また人間関係でも「良い悪い」で判断することから比較競争し差を付け合う差別意識を持っているし、また否定反発・排除したり、また束縛制限支配したがることから言えば自由も平等もなく、またそれが原因で不信感も強く、それが守り意識にもなり、自分に都合の悪いものを排除することが正しいことに思えるようになり、それが「ばい菌」は殺しても良いという潔癖症を持つ事になったり、また悪者を排除するために魔女狩り・異端者呼ばわりしたり、それら敵対する者や悪者を排除成敗する正義感から人殺しや戦争や報復テロまで行われていますから、誰一人自由・平等・平和な「地上の天国」に思えている人は居いはずです。
その元々は宇宙・神が創った地上の天国だったのに、人間が「良い悪い」で判断する差別意識や特別になりたがる特別意識を持ったことから、この世の中が変な具合・不完全になってしまったのですから、その「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断することがなくなれば元の「地上の天国」に思えるようになるわけです。
このことを言い換えると、この地上の天国を地上の天国に思えない私達の不完全意識に、その不自由・不平等・不調和の苦楽・矛盾をしっかりと味わいさすことからして、その意識が原因・きっかけとなって必然ご縁が仕組まれ精神世界・完全真理に巡り会えることにもなり、その後に意識変わりをすることにでもなれば、元からある完全で豊かな自然界(地上の天国)の「ありがたさ」に気付くことにもなりますから、それらの矛盾・裏表をしっかり味わい知る為に元々から宇宙・神が仕組んでいた事だと言えるわけです。
またその「あるがまま」の完全な自然界を味わうだけでは物足りないようだから、そこで目玉・本命としてあるのが、「良い悪い」で判断して否定反発排除しない人間関係、また束縛制限支配しない自由な人間関係、また比較競争差別の無い人間関係、またお蔭様とお互い様の調和の人間関係によって、その自由平等と調和の人間関係から<至福>を味わえることです。
そのお蔭様とお互い様の関係の意識が無ければ自由も平等も調和もありません。
だからその為にも(良いも悪いもない)「すべてに感謝」出来る意識が必要になります。
しかしその実践が出来ないのも、自分さえ良ければの個人意識が邪魔をしているからです。
しかもその個人意識・良い悪いで判断する意識を無くする実践は到底無理ですから自己縮小していくしかありません。
その自己縮小も素朴に生きるとなると実生活に関わるだけに実践するとなると相当難しいものがあります。
と言うのも、皆が自己拡大している最中に相反する自己縮小を意識して独自独歩でやるのですから、よほどの決心が必要です。
それが無理だとなると、残るのは、見えるこの世の矛盾と見えないあの世の完全な宇宙・神・愛を知り尽くすことです。
それも知識・記憶だけでは、その時々の必然・必要とする時に感情的になったり精神が動揺したときに忘れてしまって、必然とする時に気付けないままに、その記憶した知識が役立たないままに終わるからです。
そこで記憶している知識を活かすためには、自他共に持っている、その矛盾する不完全意識の事実・実態を自らが味わうことで気付けば、その気付きが自覚悟りにもなっていきます。
そうなるにもやはり心・意識の余裕が必要ですから、生活そのものを意識することよりも、見えない世界・精神世界・完全真理を十分に意識して暮らす実践意識が必要になります。
それが実践意識を持つということであり、それで何かに気付くということが<実践>になるのです。
すなわち、あらゆる「完全」と「不完全」を知識記憶だけではなくして現実の生活の中で実際に気付くその実践しかありません。
またその気付くことでいつの間にやら自己縮小の方向に歩むことになっていれば、その気付きが本物になっている証でもあります。
またそうなればその自己縮小が更に進んでいき、やがて過去の自己拡大していた頃の苦楽・喜怒哀楽の繰り返しが虚しく愚かに思えるようになれば、その自己縮小が「本物」になっている証にもなります。
そして「すべてはひとつ」(皆が神)で特別がないこと、そして宇宙・神・地球・人類・万物皆がお蔭様とお互い様の関係で成り立っていること、すなわち何ら特別も差もないこと、皆がそれぞれの役割使命をあるがままに果たしているだけのこと、だからそれらの事を良い悪いで判断する必要もないことに気付けば、それによって自由・平等の調和意識を知る事になるのですが、しかし良い悪いで判断している事実があるだけに不完全意識に変わりはありません。
そこでこの世で完全意識になれそうになくても、それでも死に至るまで更なる自己縮小の実践をし続けるしかありません。
そしてあとは「あの世」のお仕組みに任すしかありませんが、(此れまでの自力・実践力・意識力次第によっては)この世の不完全とあの世の完全を知った人間の意識体となって、進化し続ける宇宙・地球の高次元の意識・命(意識体)として再び蘇ることになるかもしれません。
ところがそれでも不満に思い、もっと欲しいもっと欲しいと欲張っていますから、「地上の天国」には思えずにいます。
また人間関係でも「良い悪い」で判断することから比較競争し差を付け合う差別意識を持っているし、また否定反発・排除したり、また束縛制限支配したがることから言えば自由も平等もなく、またそれが原因で不信感も強く、それが守り意識にもなり、自分に都合の悪いものを排除することが正しいことに思えるようになり、それが「ばい菌」は殺しても良いという潔癖症を持つ事になったり、また悪者を排除するために魔女狩り・異端者呼ばわりしたり、それら敵対する者や悪者を排除成敗する正義感から人殺しや戦争や報復テロまで行われていますから、誰一人自由・平等・平和な「地上の天国」に思えている人は居いはずです。
その元々は宇宙・神が創った地上の天国だったのに、人間が「良い悪い」で判断する差別意識や特別になりたがる特別意識を持ったことから、この世の中が変な具合・不完全になってしまったのですから、その「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断することがなくなれば元の「地上の天国」に思えるようになるわけです。
このことを言い換えると、この地上の天国を地上の天国に思えない私達の不完全意識に、その不自由・不平等・不調和の苦楽・矛盾をしっかりと味わいさすことからして、その意識が原因・きっかけとなって必然ご縁が仕組まれ精神世界・完全真理に巡り会えることにもなり、その後に意識変わりをすることにでもなれば、元からある完全で豊かな自然界(地上の天国)の「ありがたさ」に気付くことにもなりますから、それらの矛盾・裏表をしっかり味わい知る為に元々から宇宙・神が仕組んでいた事だと言えるわけです。
またその「あるがまま」の完全な自然界を味わうだけでは物足りないようだから、そこで目玉・本命としてあるのが、「良い悪い」で判断して否定反発排除しない人間関係、また束縛制限支配しない自由な人間関係、また比較競争差別の無い人間関係、またお蔭様とお互い様の調和の人間関係によって、その自由平等と調和の人間関係から<至福>を味わえることです。
そのお蔭様とお互い様の関係の意識が無ければ自由も平等も調和もありません。
だからその為にも(良いも悪いもない)「すべてに感謝」出来る意識が必要になります。
しかしその実践が出来ないのも、自分さえ良ければの個人意識が邪魔をしているからです。
しかもその個人意識・良い悪いで判断する意識を無くする実践は到底無理ですから自己縮小していくしかありません。
その自己縮小も素朴に生きるとなると実生活に関わるだけに実践するとなると相当難しいものがあります。
と言うのも、皆が自己拡大している最中に相反する自己縮小を意識して独自独歩でやるのですから、よほどの決心が必要です。
それが無理だとなると、残るのは、見えるこの世の矛盾と見えないあの世の完全な宇宙・神・愛を知り尽くすことです。
それも知識・記憶だけでは、その時々の必然・必要とする時に感情的になったり精神が動揺したときに忘れてしまって、必然とする時に気付けないままに、その記憶した知識が役立たないままに終わるからです。
そこで記憶している知識を活かすためには、自他共に持っている、その矛盾する不完全意識の事実・実態を自らが味わうことで気付けば、その気付きが自覚悟りにもなっていきます。
そうなるにもやはり心・意識の余裕が必要ですから、生活そのものを意識することよりも、見えない世界・精神世界・完全真理を十分に意識して暮らす実践意識が必要になります。
それが実践意識を持つということであり、それで何かに気付くということが<実践>になるのです。
すなわち、あらゆる「完全」と「不完全」を知識記憶だけではなくして現実の生活の中で実際に気付くその実践しかありません。
またその気付くことでいつの間にやら自己縮小の方向に歩むことになっていれば、その気付きが本物になっている証でもあります。
またそうなればその自己縮小が更に進んでいき、やがて過去の自己拡大していた頃の苦楽・喜怒哀楽の繰り返しが虚しく愚かに思えるようになれば、その自己縮小が「本物」になっている証にもなります。
そして「すべてはひとつ」(皆が神)で特別がないこと、そして宇宙・神・地球・人類・万物皆がお蔭様とお互い様の関係で成り立っていること、すなわち何ら特別も差もないこと、皆がそれぞれの役割使命をあるがままに果たしているだけのこと、だからそれらの事を良い悪いで判断する必要もないことに気付けば、それによって自由・平等の調和意識を知る事になるのですが、しかし良い悪いで判断している事実があるだけに不完全意識に変わりはありません。
そこでこの世で完全意識になれそうになくても、それでも死に至るまで更なる自己縮小の実践をし続けるしかありません。
そしてあとは「あの世」のお仕組みに任すしかありませんが、(此れまでの自力・実践力・意識力次第によっては)この世の不完全とあの世の完全を知った人間の意識体となって、進化し続ける宇宙・地球の高次元の意識・命(意識体)として再び蘇ることになるかもしれません。