完全真理を学び知れば、無理をする自己拡大をやめて、無理のない自己縮小の実践をする事になるのですが、その自己縮小で気楽に生きればいいものを、それでは物足りなく思えるのは、やはり完全真理を深く理解できていないことに原因があるようです。
またその完全真理を深く学び知っているのに、その自己縮小の実践が出来ないのは、やはり自信と自力が少ないからでしょう。
また気楽に生きてもいいという事を知らなければ当然気楽に生きる事をしませんが、しかし完全な宇宙・神・愛を説くその完全真理によって無理のない素朴な生き方も善しとしているのに、それなのに何でそれを実践しないのか不思議に思えるのですが、それは理解力や実践力の欠如だったり、宗教のように信じるか否かで捉えていたりするからでしょう。
また中には理解力も自信も自力も有るにはあるが、しかしその実践するのに支障をきたす人間関係に戸惑い踏み切れないでいる人もいるでしょうが、しかし本心から人様の事を思ってのことではなくして、やはり(真実は)自分の都合や自分に足らないその弱さを考えてのことなのに、それを偽り、それを正当化して、言い逃れや責任転換している場合もあります。
何故なら、自分さえ良ければの個人意識・利己主義・自己中心で自分勝手にずーっと生きているのに、何で今更人様の事を本心で思いやるようなことになるのでしょうか。
まして不完全な人間関係にあるところの否定反発・排除したがる意識やその不信感も十分に持っているし、また相手を自分の思い通りにしたがるその束縛制限支配関係からいえば、やはり自他共に何かと不自由・不平等・不一致・不調和があるのは事実ですし、またそれで何かと不機嫌になったり無理強いされたり邪魔立てされたり不都合な目にあっているのに、その原因の主である相手の人の事を何で本心から思いやることが出来るでしょうか。
そして何かと個人感情の愛情やその恩や儀を持ち出すのも、それも自分の思い通りにしたがる不完全意識から出ていることですから、人様の事を思いやってのこととはなりません。
何故なら、本心から人様の事を(純粋に)思っているのであれば、その人に対してわざわざ恩着せになる愛情を口に出してみたり、また過去の愛情や恩や義をわざわざ持ち出すはずもありません。
また人間誰しもやりたいことは何としてもやりたい筈です。
だから完全を説く完全真理が理解できて実践をやる気になったのであれば、何としてもやり続けることが出来るはずです。
しかし途中でやる気をなくするということは、元々から中途半端でやる気になっていなかったということにもなります。
しかし完全真理に取り組んでいる手前があるから、それでは落伍者に思われてカッコ悪く恥をさらす事になるから、その対面を保つためにまだまだやる気になっているように見せ掛けている場合も多いと思います。
ちなみに自分に出来ない事をやる気になる人はいません。
・・・しかし言葉巧みに仲間を集めて他力を使う事を考えたりもします。
そしてそのリーダとして仲間の上に立ちたがるものです。
その仲間の上に立てない事を知っている人が(その実力のない人が)自らが仲間を集めてまでやる気になることはありません。
・・・せいぜい口に出して言うだけの口出しアイデアで止まります。
ゆえに本気で「やる気」がある人であれば、身近な人達の顔色を伺う事無く、また仲間内の人達の有様模様を伺う事無く、すなわち人様の事を気にする事無く、その自信と自力で<独自独歩>の歩みが出来るはずです。
それでも自分さえ良ければの個人意識を持っているのは事実ですから、それを変に誤魔化したり隠し立てしないで、そのままに正々堂々と「自分の為」にしている実践であってもかまわないのです。
そして、その無理のない素朴で楽に生きることの実践に対して、他の者が如何に言おうが、それも、その人の個人意識丸出しの自分の都合・判断から出ていることですから、どっちもどっちの「お互い様」になるのですから、人の事を気にしてやる気を落とすことなくやりたいようにやればいいのです。
だから、あえて自分が悪ぶる事無く、また体裁よく良心を見せ掛けて良い子ぶる事無く、誰にも遠慮気兼ねすることなく、正面から当たり前の如くに、消すことが出来ない個人意識丸出しのままに、自分にやれる事をやりたいように(自由に)やればいいのです。
誰もが「どうする」こともできないし、また「どうしようもない」不完全な世の中の形やその人間関係をまったく気にする事無く、独自独歩で気がねなく、我が道を歩んでも(自力・自己責任で)何ら問題はないのです。
そして、あの世の完全な宇宙・神・愛を悟ることになり、また同時にこの世の不完全をも悟ることにもなれば、それが自分の為だけではなくして、それが(陰ながら)人様や宇宙万物の「意識・命」の為にもなることなのです。
すなわち、始まりがどうであれ「終わり良ければすべて善し」となるのです。
またその完全真理を深く学び知っているのに、その自己縮小の実践が出来ないのは、やはり自信と自力が少ないからでしょう。
また気楽に生きてもいいという事を知らなければ当然気楽に生きる事をしませんが、しかし完全な宇宙・神・愛を説くその完全真理によって無理のない素朴な生き方も善しとしているのに、それなのに何でそれを実践しないのか不思議に思えるのですが、それは理解力や実践力の欠如だったり、宗教のように信じるか否かで捉えていたりするからでしょう。
また中には理解力も自信も自力も有るにはあるが、しかしその実践するのに支障をきたす人間関係に戸惑い踏み切れないでいる人もいるでしょうが、しかし本心から人様の事を思ってのことではなくして、やはり(真実は)自分の都合や自分に足らないその弱さを考えてのことなのに、それを偽り、それを正当化して、言い逃れや責任転換している場合もあります。
何故なら、自分さえ良ければの個人意識・利己主義・自己中心で自分勝手にずーっと生きているのに、何で今更人様の事を本心で思いやるようなことになるのでしょうか。
まして不完全な人間関係にあるところの否定反発・排除したがる意識やその不信感も十分に持っているし、また相手を自分の思い通りにしたがるその束縛制限支配関係からいえば、やはり自他共に何かと不自由・不平等・不一致・不調和があるのは事実ですし、またそれで何かと不機嫌になったり無理強いされたり邪魔立てされたり不都合な目にあっているのに、その原因の主である相手の人の事を何で本心から思いやることが出来るでしょうか。
そして何かと個人感情の愛情やその恩や儀を持ち出すのも、それも自分の思い通りにしたがる不完全意識から出ていることですから、人様の事を思いやってのこととはなりません。
何故なら、本心から人様の事を(純粋に)思っているのであれば、その人に対してわざわざ恩着せになる愛情を口に出してみたり、また過去の愛情や恩や義をわざわざ持ち出すはずもありません。
また人間誰しもやりたいことは何としてもやりたい筈です。
だから完全を説く完全真理が理解できて実践をやる気になったのであれば、何としてもやり続けることが出来るはずです。
しかし途中でやる気をなくするということは、元々から中途半端でやる気になっていなかったということにもなります。
しかし完全真理に取り組んでいる手前があるから、それでは落伍者に思われてカッコ悪く恥をさらす事になるから、その対面を保つためにまだまだやる気になっているように見せ掛けている場合も多いと思います。
ちなみに自分に出来ない事をやる気になる人はいません。
・・・しかし言葉巧みに仲間を集めて他力を使う事を考えたりもします。
そしてそのリーダとして仲間の上に立ちたがるものです。
その仲間の上に立てない事を知っている人が(その実力のない人が)自らが仲間を集めてまでやる気になることはありません。
・・・せいぜい口に出して言うだけの口出しアイデアで止まります。
ゆえに本気で「やる気」がある人であれば、身近な人達の顔色を伺う事無く、また仲間内の人達の有様模様を伺う事無く、すなわち人様の事を気にする事無く、その自信と自力で<独自独歩>の歩みが出来るはずです。
それでも自分さえ良ければの個人意識を持っているのは事実ですから、それを変に誤魔化したり隠し立てしないで、そのままに正々堂々と「自分の為」にしている実践であってもかまわないのです。
そして、その無理のない素朴で楽に生きることの実践に対して、他の者が如何に言おうが、それも、その人の個人意識丸出しの自分の都合・判断から出ていることですから、どっちもどっちの「お互い様」になるのですから、人の事を気にしてやる気を落とすことなくやりたいようにやればいいのです。
だから、あえて自分が悪ぶる事無く、また体裁よく良心を見せ掛けて良い子ぶる事無く、誰にも遠慮気兼ねすることなく、正面から当たり前の如くに、消すことが出来ない個人意識丸出しのままに、自分にやれる事をやりたいように(自由に)やればいいのです。
誰もが「どうする」こともできないし、また「どうしようもない」不完全な世の中の形やその人間関係をまったく気にする事無く、独自独歩で気がねなく、我が道を歩んでも(自力・自己責任で)何ら問題はないのです。
そして、あの世の完全な宇宙・神・愛を悟ることになり、また同時にこの世の不完全をも悟ることにもなれば、それが自分の為だけではなくして、それが(陰ながら)人様や宇宙万物の「意識・命」の為にもなることなのです。
すなわち、始まりがどうであれ「終わり良ければすべて善し」となるのです。