孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

必然ご縁から初物を先駆けたことが全て「確かな結果」となり続け、今は「此れしかない!」に到っています。

2011年10月31日 | Weblog
幼い頃から遊んで楽しむことばかりしていたことから学業不振で定時性高校に通い卒業し総合食品問屋に就職することになりましたが、そこで食品業界初の(今では名だたる商品になっている)新食品の販促を手がけたことがあるように、私は初物に恵まれることが多いので、家業の米屋を継いだ時にも日本<初>のネットワークビジネス「スワイプ」(アメリカの洗剤)に取り組んだ経緯があります。

その当時の国産洗剤は泡立ちがよくて量的に多く見える形が消費者に良い洗剤に思われていた関係から、洗剤の中に石灰粉を混ぜれば泡立ち良くなるし見栄えの量も増やせたことから、そのインチキまがいが一般的でした。
しかもその泡立ちが良いことが洗濯の邪魔をしているばかりか洗剤カスが付着して水洗いが長くなり、しかもその残留物が黄ばみの原因にもなっていたのです。
しかしそのスワイプの濃縮洗剤によって日本の洗剤の常識が改革されて(意識改革されて)現在のタイプが新たな常識となった事実があります。

またアメリカ製の低価格で高品質で安全性の高いサプリメントの「個人輸入」ネットワークビジネスも先駆けましたが、それが国内のサプリメントの品質と価格に大きな影響を与えたのも事実です。

また(ファバラのように)分析成分は一般的なのに摩訶不思議な効果効用、すなわち奇跡的結果が出る特殊多機能性健康食品のネットビジネスにも取り組みました。
それが縁となり次には宇宙エネルギーの浄水器にも取り組みました。

その洗剤にしろ、サプリにしろ、特殊健康食品や浄水器もそうですが、ビジネスで儲けることよりも製品に興味を持ったことから始まったことなのです。 だからネットワークを構築することよりも愛用者を増やすために始まったようなものですから、その愛用者が増えたことで収益になったのは事実ですが、その愛用者から感謝されたことになってもクレームになったことは一度もありません。

その愛用者を募るのに難点があったのは、濃縮洗剤も個人輸入も奇跡現象が起きる宇宙エネルギー関連も先駆けだけに一般的に馴染みがなくて不信感を持った人には詐欺まがいに思われますし、少し興味を持った人であっても、その馴染みのない説明をしていること事態が売らんかな主義に思われて不信感を持たれたり、またねずみ講に思われるのがいやで、主に掲示板の情報公開・情報交換でそれら商品を紹介して、それが理解できる人に限られましたが、北海道から沖縄まで様々な会員と多くのご縁がありました。

そして誰もが摩訶不思議なことに興味を持つタイプだったのも事実ですから、その中には私とご縁があった霊能者の「想念の世界」にまで付合いが続いた人も多いのですが、ビジネスと関係ない耕栄さんの完全真理になってからは離れ離れになりました。
・・・摩訶不思議なことにつながる中に歯医者さんが多かったこととロシアの名前が出てくることが多いのも不思議でした。

そんな目新しい初物(第一次のパソコンや釣りブームの先駆けから初期のアクアラング潜水や水中撮影やVTR撮影など)に先んじて取り組みながらも同時に摩訶不思議な世界をもずーッと紹介している形になっています。
そして目新しい初物や外国産に違和感を持つものや、摩訶不思議をインチキカルトに思う人がいたことや、その反対に飲んで良かった、使ってよかったと喜ぶ人がいた過去と同じように、このブログでも目のウロコが落ちたと喜ぶ人や知ってよかったという人が現れていますので、過去から現在までも相変わらずに同じことが続いている格好にもなっています。

と言うわけですが、それらに共通点や一貫性が有って、しかもあれこれと様々なことに取り組んできたことやその取り組みの中で見てきた様々な人間模様(欲望とその人間関係)が今回の完全真理で活かされているのも確かな事実です。
そして絶対とも言える良い結果を出せる代物であっても、それが世間になかなか認めてもらえなかった苦い?思いを経験しているだけに、その不信感に満ちた人間性にも違和感があるし、それが、何で知りたがらないの?何でやろうとしないの?につながってもいるのです。

そして別件で付け加えたいのが、否定反発を含めた「執着」です。
何でそこまでやるの?何でそうなるの?何が得でそこまでするの?何で簡単に終わらせないの?
何でゴタゴタ言うの?何で面倒くさい事を言うの?何で自分でやらないで人に押し付けるの?何で人様まで巻き込むの?
大したことでもないのに何で嫌がるの?何で怖がるの?何で~やったこともないのに?

しかしこのブログに訪れる人は何でも知りたがるタイプだと思います。
そして感性的に気付き目覚めた人も多いのではないでしょうか。
それが必然ご縁のお仕組みのレールに乗ったことになります。

過去も現在も個人意識丸出しの私ですから、それだけに自分が知って良かったことは人にも勧めたくなるのも道理があります。
しかも、知って始めた事が終わる頃には次の新たなことが見つかったりする、その繰り返しの道のりが今の完全真理につながり、それが言葉通りに絶対の完全を解いているのですから、此れしかない!となったのも当然のことです。

しかもその完全真理が説く中にある自己縮小の道のりを(必然ご縁の仕組みで)いつの間にやら無理なく既に始めていたのですから、それが完全真理の理解力の助けにもなり、その実践の必要性も納得確信できるわけだし、またいつの間にやら「しがらみ」から離れる結果になったことで此れまでの不完全な人間関係にも気付き、私としてはまったく申し分のない状況立場になっていたのですから、たとえ名だたる神様に必死に祈願しても此れほどまでは絶対に無理だったことでしょう・・・

その必然ご縁のお仕組みの数々を実際に体験してきただけに・・・欲張り無理したり捜し求めることが無くても、ただ自分にできる事をしていると、必然ご縁で先方から来る格好になる・・・その成り行き任せにすることにも自信があるのです。
そしてそのお仕組みが起きればそれが実際にアリガタイことになっているし、前もって思惑期待しているわけでもないことから、そのお仕組みがたとえ起きなくても、そのままが続くだけですから、それはそれで十分なわけです。
だから必然ご縁のお仕組みが訪れることは(前もって望んでいたことではないだけに)(大した事をしていないだけに)私には「おまけ」みたいなものです。

とどのつまり、何かにつけ欲張らなければ特別な過不足の思いを持つことも無く、それが当たり前の普通になりますから、不平不満も自己満足も無く(苦楽も無く)穏やかに暮らせることです。
その穏やかに暮らすことがどうしても出来ないのであれば、その苦楽を精一杯味わっていればいいのです。
それも「成るようになる」だけですから、それが神仏の性でも人様の性でも無く、その自己責任を自らが納得済みで背負い込めばそれで済むことであり、その死して後の事も成るようになるだけです。