幼い子供が親に「ダダをこねる」「我がまま」を言う事がありますが、その原因にあるのが子供の思いに親が否定反発したり、また親の思いを押し付けていたりする、その子供に対する親の駄々・我がままが出ていることになりますから、親子共にダダをこねる「お互い様」の関係になります。
なのに親の強権・強情で子供を押さえつけようとすれば、更にダダをこねて我がままが強情にもなります。
・・・この事を鏡現象と言われています。
ところが親が無理をしないで素朴に生きていたならば(貧しくても)余裕の時間があり、それだけ我が子に意識を注ぎますから、一緒に過ごす時間も増え、家の中で会話したり遊んだり、時々は散歩に出掛けたり、また子供が寝ているときにもその子の為に何かを手作りしたり思いやることも多くなり(寝返りで乱れた布団を掛けたりして)、常に子供を意識していることが多ければ子供は親に安心満足していますから、その分だけ親に素直になれることからして、その親に駄々や我がままを無理に通そうとはしないはずです。
また子供を一人の人間として見ていれば、親の思いを押し付けたのが原因で子供の自由が奪われて反発・不機嫌になっているのを見逃すはずもなく、またその押し付けで子供が困っているのに更に強引に親の我がままを押し付けることにはならないと思います。
・・・子供の自由を阻害すると、それが裏目に出て、今度は子供が原因で親の自由が阻害されるのです。
・・・それが鏡現象であり「お互い様」の関係にもなるのです。
ちなみに私が自由なのも妻や子供を自由にさせていた、その「お互い様」の関係があるからです。
しかし田舎暮らしを始めたことに妻は「貧乏くじを引いた」と裏切りに思って不満を持つことになりましたが、その「裏切り」もお互い様の関係になります。
それは妻と一緒に田舎暮らしをする事を望んで提案したのに、そんな貧乏じみたことや古びた家屋の不潔不快で不便な生活や親しい友達から遠く離れることがいやで街中に残る事を決めたのですから、(私方にすれば)私の思いに対する妻の裏切りでもあるわけですから、一方的な形ではなくして双方共に裏切った関係になるわけです。
・・・今は妻も夫を気にしないで暮らせる自由を十分に味わっていますから・・・未だに過去の感情の「わだかまり」が執着で残ってはいますが・・・無視する態度・無愛想・不機嫌さは消えています。
しかしそれでも妻はいつまでも私が一方的に裏切ったと言う片思いを持っていますが、それは妻の「私が正しい」というその思いを自己主張している形になるわけです。
だから「裏切られた」という人の一方的な言葉だけを「信じ」聞き入れるのは(お互い様ではなくて)偏った偏見意識になるわけです。
ところが名のある人が言えばそれを信じることになり、その裏切ったと名指しされる人を悪者に思うことになれば、それは不公平であり尚且つ(裏切りを言った人を含め)不完全意識になります。
また裏切った人や罪人を罰したがる意識は仕返し報復意識や正義感になります。
しかしこの世の「意識の世界」で(過去性を含めて)裏切りや罪を犯していない人は誰一人いません。
だから「お互い様」の関係なのです。
それなのに罪人を制裁すれば、その被害者が制裁を下した加害者の立場に逆転しますから、この世には矛盾があるのです。
その「お互い様」である事を悟れば皆が「おかげ様」の関係であることにも気付きます。
だから権威権力・先生先輩諸氏の名目ある人の「おかげ様」(恩や儀)だけではなくして、全ての人を陰で支えている全が「お蔭様」なのですから、自分に都合が良かった人達だけを「おかげ様」に思うのは特別差別意識の不完全意識にあたります。
そして絶対に自然界のおかげ様がなくては人間は生きていけません。
ところがその自然界は人間がいなくても実在で永遠に生きていけますから、人間と自然界とが対等な「お互い様」や「おかげ様」の関係とは言えません。
だから自然界は「愛・犠牲」と言われる訳ですから、その「愛・犠牲」を授かる人間に「お蔭様」の意識・感謝の心が必要なわけです。
その愛の犠牲で人間生きているのですから地球は「地上の天国」なのです。
それを地上の天国に思えないのであれば、その自然界の愛や犠牲を知らないままに、また人間関係のお蔭様やお互い様の実践もできないままに、その不完全な意識を持った人間・個人意識のままで人間を終える事にもなります。
だからそれらを学び知り気付くためにも無理のない素朴さが必要なわけです。
なのに親の強権・強情で子供を押さえつけようとすれば、更にダダをこねて我がままが強情にもなります。
・・・この事を鏡現象と言われています。
ところが親が無理をしないで素朴に生きていたならば(貧しくても)余裕の時間があり、それだけ我が子に意識を注ぎますから、一緒に過ごす時間も増え、家の中で会話したり遊んだり、時々は散歩に出掛けたり、また子供が寝ているときにもその子の為に何かを手作りしたり思いやることも多くなり(寝返りで乱れた布団を掛けたりして)、常に子供を意識していることが多ければ子供は親に安心満足していますから、その分だけ親に素直になれることからして、その親に駄々や我がままを無理に通そうとはしないはずです。
また子供を一人の人間として見ていれば、親の思いを押し付けたのが原因で子供の自由が奪われて反発・不機嫌になっているのを見逃すはずもなく、またその押し付けで子供が困っているのに更に強引に親の我がままを押し付けることにはならないと思います。
・・・子供の自由を阻害すると、それが裏目に出て、今度は子供が原因で親の自由が阻害されるのです。
・・・それが鏡現象であり「お互い様」の関係にもなるのです。
ちなみに私が自由なのも妻や子供を自由にさせていた、その「お互い様」の関係があるからです。
しかし田舎暮らしを始めたことに妻は「貧乏くじを引いた」と裏切りに思って不満を持つことになりましたが、その「裏切り」もお互い様の関係になります。
それは妻と一緒に田舎暮らしをする事を望んで提案したのに、そんな貧乏じみたことや古びた家屋の不潔不快で不便な生活や親しい友達から遠く離れることがいやで街中に残る事を決めたのですから、(私方にすれば)私の思いに対する妻の裏切りでもあるわけですから、一方的な形ではなくして双方共に裏切った関係になるわけです。
・・・今は妻も夫を気にしないで暮らせる自由を十分に味わっていますから・・・未だに過去の感情の「わだかまり」が執着で残ってはいますが・・・無視する態度・無愛想・不機嫌さは消えています。
しかしそれでも妻はいつまでも私が一方的に裏切ったと言う片思いを持っていますが、それは妻の「私が正しい」というその思いを自己主張している形になるわけです。
だから「裏切られた」という人の一方的な言葉だけを「信じ」聞き入れるのは(お互い様ではなくて)偏った偏見意識になるわけです。
ところが名のある人が言えばそれを信じることになり、その裏切ったと名指しされる人を悪者に思うことになれば、それは不公平であり尚且つ(裏切りを言った人を含め)不完全意識になります。
また裏切った人や罪人を罰したがる意識は仕返し報復意識や正義感になります。
しかしこの世の「意識の世界」で(過去性を含めて)裏切りや罪を犯していない人は誰一人いません。
だから「お互い様」の関係なのです。
それなのに罪人を制裁すれば、その被害者が制裁を下した加害者の立場に逆転しますから、この世には矛盾があるのです。
その「お互い様」である事を悟れば皆が「おかげ様」の関係であることにも気付きます。
だから権威権力・先生先輩諸氏の名目ある人の「おかげ様」(恩や儀)だけではなくして、全ての人を陰で支えている全が「お蔭様」なのですから、自分に都合が良かった人達だけを「おかげ様」に思うのは特別差別意識の不完全意識にあたります。
そして絶対に自然界のおかげ様がなくては人間は生きていけません。
ところがその自然界は人間がいなくても実在で永遠に生きていけますから、人間と自然界とが対等な「お互い様」や「おかげ様」の関係とは言えません。
だから自然界は「愛・犠牲」と言われる訳ですから、その「愛・犠牲」を授かる人間に「お蔭様」の意識・感謝の心が必要なわけです。
その愛の犠牲で人間生きているのですから地球は「地上の天国」なのです。
それを地上の天国に思えないのであれば、その自然界の愛や犠牲を知らないままに、また人間関係のお蔭様やお互い様の実践もできないままに、その不完全な意識を持った人間・個人意識のままで人間を終える事にもなります。
だからそれらを学び知り気付くためにも無理のない素朴さが必要なわけです。