孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

過去の変化刺激に満ちた暮らしぶりよりも今の暇で退屈している暮らしのほうが私に最も相応しい形です。

2011年10月25日 | Weblog
私の毎日が暇で退屈していることに過疎地の独り暮らしだけが原因ではありませんで、この世に現われている結果形にあまり意識を遣わないこともあるし、またその人間関係やそのしがらみにも気を使わないし、しかも自分の事さえも成り行きませですから、日々の生活にあまりにも変化刺激がないことにも原因があります。

そして意識していることといえば完全真理の実践とその気付きが主ですから、日々の報道ニュースや天気予報さえ知る気になっていませんから、大雨で風が強くなってから台風が接近している事に気付くくらいですから、前々回の地震津波や前回の大災害も数日後に知ったことだし、その地震津波の被害や今回の原子力発電所の放射能漏れにもあまり関心がありませんでしたし、その後の台風による大被害もあとで聞いただけでその関心もありません。
それも10年も以前から地球も人類もおかしな事になると(水による洗礼を含めて)書いていただけに、そのように「なる様に成っている」その事実を知った程度で止まります。
そして関心がなくても伝わってくることに涙することになったり、もういい加減にすればいいのと思ったりしながら、世間で繰り広げられるそれら人間模様が私の学びや情報源にもなっています。

またテレビ番組も前もって「見たい」と思うものがないから、夜中の暇つぶしに何か探してただ見ているという感じですから、長編ドラマで始まりから最後まで「見たい」と思っていたのは「篤姫」「チャングム」くらいです。
とにかく企画演出されたドラマよりも現実事実を概ね知ることになるドキュメンタリー番組が私の学び情報源になりますが、それが少ないからテレビを観る時間も少ないわけです。

そして文書を書いているのに私は活字嫌いで新聞はテレビ欄とマンガと大見出し程度しか見ていませんし、それも何十年来後無沙汰しています。 また成人して以来図書館や書店に出向いたことも殆どありません。

そして何でも知りたがるやりたがることから過去は多趣味でして、特に先取り意識・感性があったことから、何かと時代の先端を歩いてきた思いがありますし、それも幾つか事業化したにも関わらず、それも自己満足だけに飽きたのか面倒くさくなったのか「どうでもいい」ことになり、また別なことに乗り換えるその繰り返しの結果からも言えるのですが、結局は空しく終わりましたから、それを繰り返さないためにも、今では普通の(暇つぶしの)一円パチンコに興じているだけです。

だから世間的なことには無関心で無趣味になった感じですから、自らが進んで出歩くことがないだけに、尚更に暇で退屈します。
そして何度も書いているように人間関係も必然ご縁の成り行き次第で接し合っていますから、そこででも暇なわけです。
だから日々の中では「食って」いる時に美味しいと感じる満足感があるだけです。
そして暇つぶしの退屈しのぎにブログを書き上げる時間が多いこととそれを書き上げた満足感があります。
またパチンコで大当たりが来たときに「来た!」と言う満足感が味わえています。

それだけに過去の変化刺激に満ちていたほうが退屈しないでいいし、俺が我がで自我を出して自己満足しそのプライドをしっかり持って暮らし、神や仏や愛の事を素知らぬ顔で暮らしていたほうが今よりよっぽどマシなのではと、ふと思うときがあります。

ところがそれだけに・・・
完全真理が説くところの人間関係の意識が調和したときのその触れ合いの素晴らしさ至福を思い浮かべることも出来るわけです。
しかもそれに似た「感謝」のキャッチボール体験、また何ら気にせずにありのままの「個性」を出し合うことで(損も得も無く)ただ互いが楽しい気分・ひと時を味わえる、そんな気付き体験もしていますから、横道にそれる事無く実践意識で暮らし、必然ご縁のお仕組みや調和・至福の時が来るのをただ待っているのです。

そして必然ご縁の成り行き次第が自分に最も都合が良い結果になっている事実がここにあるだけに(二度と過去には戻りたくない思いがあるだけに)、その無理のない普通のあるがままの自然体で暮らしていれば、真理で説くところの先行きが成る様になって現実化することに確信自信があるのです。

それが私の憶測推測では無くして、絶対に成るところの完全真理で言われているのですから、信じるか否かのその不信感も無く、その自信でもって実践しながらそれを待つことも出来るのです。

誰もが「知らない」事を<知り>たがる人にもってこいのブログです。

2011年10月25日 | Weblog
私が牛舎の牛さんにエサやりしていますが、その牛のお腹が空いていれば稲わらを大変美味しそうにしかも大量に食べますが、短期に肥えさす為に高カロリーの配合飼料を食うだけ食わす成牛になると稲わらを多く食べません。
すなわち稲わらだけで満足していた仔牛に配合飼料を与えだすとその配合飼料が当たり前になり、そして出荷前の成牛になると目の前に多くの稲わらがあってもそれをあまり食べようとせずに配合飼料を与えてくれるまで寝て待つようになります。

だからお腹を満たしてくれる美味しい物に変わりはなくても、それ以上に美味しい物を与え続けると以前のものが不味い物になり、その美味しい物しか食べようとしなくなるのです。
・・・だから美味しく食べさすためにあの手この手を使って少しでも配合飼料を多く食べさすことになります。

それら動物達も自然界の犠牲・恵みにより生きていますが、家庭や動物園や畜産業などで飼育されだすと、その生きる事に有り余る余裕が出てくることになり、お腹を満たす満腹だけでは納得し無くなり、新たに満足感と言う価値観を求めるようになり、より高級な物、より新鮮な物、以前より味が良くなった物、また関わる関係者まで選り好みするときもあります。
だから人間も同じく食って寝て糞をする(衣食住の)中にも、それらを満たしくれる価値観を望むようです。

そのものの価値・普通よりも、それより上のものを得たがる特別意識・価値観によって地球も人間もおかしくなってきたのですが、その価値観に縛られない生き方を実践している人も増えているようにも思えるのですが、それも世間の負け犬で終わりたくない思い、そうするしか仕方がなかった部分、余儀なくそうなってしまった部分があることから、それを旨く隠す為の言い訳正当化の見せ掛けの部分が多く感じられます。
すなわち、見える結果形ばかりを気にして、その大元の原因である意識にあまり関心を持っていないようだからです。

ところが真坂の有事などから人間として生きるための衣食住に事欠くことになれば、それを辛抱しながら何とかして生き抜く事を考えますから、その時々の必然ご縁から何か必要なものが与えらればそれで十分に満足する事になります。、
・・・イワシよりタイの方がいいといって空腹なのに(価値観から)そのタイが与えられるまで待ち続ける人はいないと思います。
だからその時々の必然ご縁で成るようになるその生き方でも何ら問題なく生き続ける事が出来るのが事実にありますが、ところがその成るようになっている中に価値観が入ることになると、同じ価値のもの(衣食住)で大して不都合がないはずなのに、(その姿形などから判断して)(普通とは思わずに)不満と満足の矛盾する区分け・思い分けることにもなっています。

その真坂の有事によって不自由することが多くなりますが、その不自由していたことが少しでも補われることにでもなれば(その時は)それで十分喜び感謝になっていたのに、その補われることが次第に多くなるにつれ選り好みすることも多くなり、またその選り好みから外れることにでもなればその強い不満や不信感をぶちまけ撒き散らす人も増えてきます。
しかも時が経つにつれ次第に「雨やんで傘を忘れる」ような結果にもなっている意識の人が多くなります。

何かにつけ飽食の国と飢餓の国が話題に出ます。
また開発途上国の物不足や人材不足があります。
貧困差別や人種差別もあります。
戦争やテロや核問題もあります。

しかし「どうしようも」ありません。
どうにかなる問題ならもう既に解決していてもおかしくありません。
ところが既にお先真っ暗な闇に覆われているのです。
それが事実なのです。
ただ気付いているか否かだけです。
また神仏祈願・他力本願の人が「私の信じる神に任せておけば大丈夫」とばかりに変な自信を示して、しかも人を惑わし誘っている場合もあるようです。

だから「どうにもならない」それら結果ばかりを意識しないで、その結果の大元の原因である私達の意識に関心を寄せない限り、全てが堂々巡りで空回りするだけです。
私達の身近な問題も同じでして、「どうにもならない」その結果形に意識を使うのではなくて、自らの意識次第で「どうにか成る」その「意識の世界」精神世界を知ることです。

そうなると「どうにもならない」事を学び知るだけではなくて、それら空回りし繰り返されている無駄なことが無駄では無くなり、それらすべてを活かすことが出来るし、それによって「何とか成る」方向に歩んでいくことになるのです。
しかも人様の事を気にすること無く独自独歩で歩いていけるのですから何の無理もありません。

その為のブログですので関心のある方、とくに知らない事を「知り」たがる人にもってこいのブログになっています。