人間として「食って寝て糞をして」生きていかなくてはなりません。
それだけに衣食住が必要になりました。
しかしその衣食住に関して言えば、過去ほど貧していたのは事実にあります。
そしてその貧したままでも「生きて」いくことに支障が無かったのも事実です。
だから「食って寝て糞をする」ことが普通で当たり前の事になります。
ところがそれでは不足に思ったことから、その普通とは違う「特別」を欲しがる事になりました。
そして衣食住の充実を思い考えそれを成してきましたが、それは特別を目指していたことであって普通とは違います。
普通とは過不足の無いことですから、そこで前もって思い考え理想目的を持っこともなく、ましてそれを無理に成すこともせずに、ただ必然ご縁の成り行きに任せ続けて、(無理のない)新たな必然ご縁で与えられ得るまで待つことになります。
ところで、その時代ごとに衣食住が進化発展してきましたが、その時々の時代のそれ以前の(過去の)衣食住に満足したままが長く続いてそれが普通になっていた時もありました。
ところがその時代のその時の満足した普通がいつの間にやら普通に思えなくなって、その普通とは違った特別を欲しがることの繰り返しで現在に至っているのも事実です。
※だから「今の普通」は過去では「特別」(満足)だったのです。
例えば現在ではタマゴやバナナは当たり前の普通になっていますが、過去では貴重な特別だった時があります。
だから「普通」には何ら不足な部分はないけれども、それが過去では特別な<満足>にあたるのです。
それを厳密に言えば、普通はそのままの事実なのですが、それを良い悪いで考えるからには、不足か満足か普通かに区別されます。
そこで普通を不足に思うのも変ですし、それを満足に思うのも変ですから、そこで普通は普通であって差のある特別ではないと理解することが適切になるわけです。
だから普通ではない差のある特別な事をすれば、普通ではないだけにその苦労が伴い、その苦労が伴って良い結果になれば、普通のことではないだけに特別な自己満足になるわけです。
それが悪い結果になれば苦労していただけに失意・自責・不平不満にもなるのです。
そして宇宙・神はあるがままに(当たり前の普通に)実在しているから特別では無いのです。
だから宇宙・神の全知全能の愛も特別では無いのです。
だからあるがままに実在していることが普通でありそれが愛なのです。
だから特別に思える愛は愛では無いのです。
それが私達人間から出ていればそれは個人の思い・感情から出ていることから愛情と言われるのです。
その愛情が普通(愛)ではないことは事実ですから、その普通でないからにはそれを不足に思うか満足に思うしかありません。
しかもその判断は各々の個人の判断に任されますから、その尺度の違いや差のある不確かなのが愛情なのです。
そこで完全真理に付随して説くところの「自己縮小」が必要になるわけです。
すなわち、不足でも満足でもない普通(愛)のままに生きていけばいいのです。
そして生きるために「食って寝て糞をしている」ことが普通であって、それ以上の過ぎた望みは特別だと自覚できれば、自己縮小で消えていく形や物に未練も後悔も無く執着することにもなりません。
それを簡単に言えば、過去に満足していた、その過去の満足に戻るだけなのです。
そしてそれより特別な満足があっても、それに執着しなければそのままになりますから、やがてその(過去の)満足が不足でも満足でもないただの「普通」に思えるようになるのです。
そして普通のままの生活の中で何事が起ころうとも「お互いさま」「お蔭さま」の事実しかありませんから、それに執着しなければそれが大きな不平不満にも自己満足にもならずにして、普通の平常心の思い意識で生きていくことになりますから、その普通が続くことにもなるのです。
そして「お蔭さま」「お互いさま」の関係に気付けば、それに気付いた人達同士の意識同士の触れ合いの中で「至福」の思いを味わったり、普通に思える自然界がアリガタイ「お蔭さま」に思えるようにもなっていくのです。
それだけに衣食住が必要になりました。
しかしその衣食住に関して言えば、過去ほど貧していたのは事実にあります。
そしてその貧したままでも「生きて」いくことに支障が無かったのも事実です。
だから「食って寝て糞をする」ことが普通で当たり前の事になります。
ところがそれでは不足に思ったことから、その普通とは違う「特別」を欲しがる事になりました。
そして衣食住の充実を思い考えそれを成してきましたが、それは特別を目指していたことであって普通とは違います。
普通とは過不足の無いことですから、そこで前もって思い考え理想目的を持っこともなく、ましてそれを無理に成すこともせずに、ただ必然ご縁の成り行きに任せ続けて、(無理のない)新たな必然ご縁で与えられ得るまで待つことになります。
ところで、その時代ごとに衣食住が進化発展してきましたが、その時々の時代のそれ以前の(過去の)衣食住に満足したままが長く続いてそれが普通になっていた時もありました。
ところがその時代のその時の満足した普通がいつの間にやら普通に思えなくなって、その普通とは違った特別を欲しがることの繰り返しで現在に至っているのも事実です。
※だから「今の普通」は過去では「特別」(満足)だったのです。
例えば現在ではタマゴやバナナは当たり前の普通になっていますが、過去では貴重な特別だった時があります。
だから「普通」には何ら不足な部分はないけれども、それが過去では特別な<満足>にあたるのです。
それを厳密に言えば、普通はそのままの事実なのですが、それを良い悪いで考えるからには、不足か満足か普通かに区別されます。
そこで普通を不足に思うのも変ですし、それを満足に思うのも変ですから、そこで普通は普通であって差のある特別ではないと理解することが適切になるわけです。
だから普通ではない差のある特別な事をすれば、普通ではないだけにその苦労が伴い、その苦労が伴って良い結果になれば、普通のことではないだけに特別な自己満足になるわけです。
それが悪い結果になれば苦労していただけに失意・自責・不平不満にもなるのです。
そして宇宙・神はあるがままに(当たり前の普通に)実在しているから特別では無いのです。
だから宇宙・神の全知全能の愛も特別では無いのです。
だからあるがままに実在していることが普通でありそれが愛なのです。
だから特別に思える愛は愛では無いのです。
それが私達人間から出ていればそれは個人の思い・感情から出ていることから愛情と言われるのです。
その愛情が普通(愛)ではないことは事実ですから、その普通でないからにはそれを不足に思うか満足に思うしかありません。
しかもその判断は各々の個人の判断に任されますから、その尺度の違いや差のある不確かなのが愛情なのです。
そこで完全真理に付随して説くところの「自己縮小」が必要になるわけです。
すなわち、不足でも満足でもない普通(愛)のままに生きていけばいいのです。
そして生きるために「食って寝て糞をしている」ことが普通であって、それ以上の過ぎた望みは特別だと自覚できれば、自己縮小で消えていく形や物に未練も後悔も無く執着することにもなりません。
それを簡単に言えば、過去に満足していた、その過去の満足に戻るだけなのです。
そしてそれより特別な満足があっても、それに執着しなければそのままになりますから、やがてその(過去の)満足が不足でも満足でもないただの「普通」に思えるようになるのです。
そして普通のままの生活の中で何事が起ころうとも「お互いさま」「お蔭さま」の事実しかありませんから、それに執着しなければそれが大きな不平不満にも自己満足にもならずにして、普通の平常心の思い意識で生きていくことになりますから、その普通が続くことにもなるのです。
そして「お蔭さま」「お互いさま」の関係に気付けば、それに気付いた人達同士の意識同士の触れ合いの中で「至福」の思いを味わったり、普通に思える自然界がアリガタイ「お蔭さま」に思えるようにもなっていくのです。