孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

予測した結果の「ありがとう」は自己満足や自惚れになりますが、自然体の<アリガタイ>は感謝だけです。

2011年10月16日 | Weblog
必然ご縁の成り行き任せに「欲」はありません。

しかしその欲があれば「成り行き任せ」にすることは絶対に出来ません。
そしてその欲な思い思惑・目的理想に向けて努力をしますが、その欲が絡んでいるだけに必ず無理をします。
それだけにその思いが叶わなかったときは、その落胆・失意から自分を責めたり、卑下したり、また時には言い訳正当化するために関わった人達まで巻き込んで何かと責め立てることになるかもしれません。

また例えその思いが叶ったとしてもそれは一時の自己満足で終わりますから、その自己満足の思いが水の泡の如く消えていきますし、それが無理をして成しただけに、その心の中には空虚・虚しさが漂いますが、それもなかなか気付けないものです。
それは無理をして成したと思う自己満足の副産物である自惚れや見栄が記憶にしっかり残っているからですが、それだからまた新たなことにチャレンジすることにもなりますが、今度はその思惑が外れる事にでもなれば前回の功績・自己満足と自惚れが記憶に残っているだけに前よりも大きなショックが伴います。

またそこで前回の見栄や自惚れを取り戻すための名誉挽回的に再挑戦する事になりますが、その事がうまい具合に行っても不具合であっても、その前回と同じような虚しさや見栄や自惚れのその繰り返しにしかなりません。
その内に疲れ果ててチャレンジできないようになって、皆から注目されなくなれば世間から消えた格好に思うようになり、そこで更に心の中に大きな空虚感が漂い、何ともしがたい精神状態に陥るかもしれません。

ところがそれでも世間に名が知れた人達が更なる自己満足のために形を変えて講演などで出てきていますが、それが人の為ならず有害物質(特別差別意識・不完全意識)を撒き散らしている事になっているとは誰も気付かないかもしれません。

そこで前頭に書いた「成り行き任せ」であれば、思い思惑・目的理想を掲げてまで欲張るその無理がないだけに自己満足や不平不満の繰り返しにはなりません。
また完全真理には結果形ではなくしてその原因意識の事を説いていますから、実践行動・形を示すために努力無理することではなくして、無理のない実践意識で「気付く」ことにありますから、その完全真理の理解力やその実践力を問われる事はあります。

そこでその理解力や実践力のために無理があれば、やはり途中で挫折することになったり、また途中で止まったままになったりして、ただ聞くだけの完全真理や信じるだけの完全真理になっている場合もあるようです。

その無理なく理解を深めたり実践意識を高めるのにも(欲を出さない)成り行き任せにして意識を開放していなければなりません。
すなわち日々の生活も忙しのにそれに欲まで出して真理に拘り執着しすぎても(熱中・熱心過ぎても)、それらに意識が縛られますから、結局は無理をしていることにつながります。

私の場合は必然ご縁の成り行き任せの呑気気ままな自由があるだけに、他ごとにあまり意識を使っていませんから、例え一日中完全真理が意識の中にあっても、それが退屈しないで済むことになっているし、また熱心・熱中・特別に執着しているわけでもなさそうだし、また生活のことで何ら思い悩むことも不安心配や恐れもなく、また真理のことで迷い混乱・思考錯誤したり葛藤することにもなりませんから、程よい思考性の刺激があっても精神的には疲れません。

ところで思い思惑・目的理想にしたことが己の努力・力で成ったときに「アリガタイ」という気持ちはありません、だから自分だけの満足やその自惚れになりますが、成り行き任せにしている中で、その成り行きの結果が(思ってもいなかったことになって)自分に都合の良い結果になれば(努力していないだけに)それは「アリガタイ」ことになります。
また人様から「思っても」いなかった優しさ思いやりを感じたときは「ありがとう」よりも「アリガタイ」気持ちになります。

だから概ね予測していた結果であれば「ありがとう」の自己満足・自惚れになりやすいが、予測もしていなかった「アリガタイ」には自己満足や自惚れには成り難いようです。
また同じく、人様から(特別な思いの)「情」を受けたときは「ありがとう」になりますが、ありのままの着飾らない「愛」を感じたときは「アリガタイ」ことになります。
ゆえに「愛」を感じたときはアリガタイになりますが、愛情を感じたときは(自己満足・自惚れの)「ありがとう」になっています。

だから「ありがとう」の感謝の気持ちも必要ですが、それが自己満足や自惚れになりやすいことから言えば、やはり(度合いの強い)「ありがとう」よりも(度合いが弱い)「アリガタイ」と感じられる「意識」になることが望まれるわけです。
だから思惑・予測・期待・願望(欲)が混じらない「成り行き任せ」、すなわち「思い」もよらないことになる必然ご縁のお仕組みに任せる、すなわち宇宙・神と調和した自然体の愛を感じて生きる事が望まれているわけです。

だから欲を出さなければ無理もしませんから、その結果が良くても悪くても(無理していないから)あまり気になりません。
すなわち無理していないと言う事は「良い悪い」でいちいち判断するような事を実際していないからです。
すなわち普通の当たり前の事しか意識にないのです。

そこで成り行き任せにすれば未練も執着もなくなり、また不平不満も出てこなくなりますから、それが不安心配や恐れ怒りにはなりませんので、いたって平常心のままに生きることになり、それが真坂の有事にも動揺・混乱することにもならずに済んで、その穏やかなままの人生を味わい深く楽しむ事が出来るかもしれません。