孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

皆さんが大事に「守る」ほどに良い思いをしているわけでもないのに「何で」自己縮小が出来ないのでしょう。

2011年10月06日 | Weblog
歴史に名を残し大きな足跡を残したイエスや釈迦らの説く神であっても、それに従うもの従わないものとがいるように、宇宙・神の完全な真実を説く完全真理であっても同じです。
しかもそのイエスや釈迦の説く神に異論反論するものが出てきて、それらとはまた違った神を説くことが此れまでにありました。

ところがしかし、完全な真実の宇宙・神を説く完全真理は完全で絶対ですから誰も異論反論することは出来ません。
だったら皆がその完全真理に素直に従えばいいのにと思うのですが、そう簡単ではないところがあります。
その原因にあるのが、宇宙・神・愛の自然体の「あるがまま」よりも何らかの特別を望むところがあると、如何に完全であってもそれに従う事をためらうことにもなるし、それとはまた別な、自分の思い思惑理想に見合ったほかの道を探すことにもなるのです。

※完全な宇宙・神の成すがままに生きている自然界・宇宙万物は素直に従っていることになります。
それを宇宙の法則・自然の法則とも言っていますが、完全真理では「そのまま、このまま、あるがまま」に生きている事を示し、生きながらにして成仏している「即身成仏」とも言われますが、その「あるがまま」に生きている人は誰もいません。

とにかく今の私達個人意識の人間は宇宙・神・自然界のように「あるがまま」に生きることがどうやら気に入らないようです。
だから皆と比較競争して差を付けて特別になりたいのです。
だから宇宙・神を説く宗教などの形やその組織の中にも「特別意識」があり、その特別な人がそれ以上の特別を目指して、その形や組織の中でも競い合っているくらいですか、(絶対に)この世の中が自由平等平和になるはずもありません。

ところで、そんな不完全な世の中に愛想をつかしたような世間離れした生活をする中にも、やはり自らが良い悪いで比較判断してその良いとこ取りをしたがる思い・意識がありますから、結局のところ何処で何をしていても不自由不平等・不調和で生きている事に変わりはありませんが、しかし自己縮小しているだけに、時たま起こる自分が原因のその結果も自分が背負う自己責任だけで即決簡単に済みますし、また私と関わる人様がごく限られているし、そのしがらみもないだけに、それらの人様が原因で(しがらみが原因で)起きたその結果にまで私が「巻き込まれる」ことも殆どなくて、その分だけ平常心で暮らせることにもなっています。

そこで更に完全真理に従う生き方になればより自然的になり、何かと執着することも無理することも少なくなっていくことから、更に穏やかな精神状態で暮らすことが出来るようになります。

その平常心で穏やかに暮らすことを長く十分に味わうと、やはり過去の特別な生き方を望んでいたときの精神状態が如何に厳しいものだったのかが手に取るように判ってきました。
だから、今は刺激がなくて暇で退屈ばかりしていますが、それでも、他の(不完全な事柄)余計な事や無理な事で無駄になる事を出来る限りしないで、そままに成り行き任せにすることを意識しています。

だからこそ私が若い頃に完全真理を学び知り、そこで完全意識になれなくても素朴に生きる事を善しとして実践していたならば、その若い時代に今の心境・精神状態を実際に味わえていたことになるのですから、何でもっと若い時にと思うことにもなるのです。
・・・これも必然ご縁のお仕組みですが・・・

だからこそ完全真理を実践するに欠かせない自己縮小を素直に実践しないでいる人達にその素朴に生きる事を書いているのですが、過去の釈迦やイエスらにも従えなかった人たちが大勢いるように、此れだけは人それぞれですから仕方がないことになります。
しかしそれにしても「信じるか否か」を超えた(千に一、万に一を超えた)この世で最後となる<完全>絶対真理なのに「何で」素直になれないのか、もどかしい気もしていますが、その主な原因もやはり「守り」意識にあるようです。

それを私から言えば・・・皆さん(守るほどに)良い思いをしているわけでもないのに「何で」・・・となるわけです。
そして更に・・・今が良くても先も良いとは限らない不確かな世の中であることに加えて、更に、衣食住の無いあの世の(信じるか否かを超えた事実・実在の)「意識の世界」に通じることですよ・・・となるわけです。