先日、沖縄から手紙が届きました。GGIは沖縄・普天間の基地のなかに若干の土地を所有しておりますので防衛省沖縄防衛局からの手紙か何かかなあと思ったのですが、そうではありませんでした。封筒の裏を見ますと、送り人の住所はなく隅っこに見落としそうな小さな字で「首里城」と記されていました。
えっ?何?首里城からって・・・どういうことなんだ・・・首里城は昨年十月末に炎上、焼け落ちてしまったはずだけれどと思いながら封を切り手紙を取り出しました。何かキツネにつままれたような気分でありました
拝啓
GGIさま、突然お手紙を差し上げ失礼いたします。私は昨秋焼失してしまいました首里城でございます。沖縄の本土復帰以来、永きにわたり普天間基地内に土地を所有していただき心から感謝申し上げます。今日は折り入って勝手なお願いがあり、失礼をかえりみずお手紙を差し上げるしだいです。
私どもの炎上後、消防局など関係者が火事の原因を懸命に調べてはいるものの、いまだに原因を特定するに至っていないようです。けれども、私どもは火事のほんとうの原因を科学的に突き止めることは無理であろうと考えております。と申しますのは、私どもは何かが原因の失火や放火などが原因で炎上したからではないからです。
実は、私どもは自爆したのです。すなわち、自分の意思で自ら炎上したのです。焼身自殺と申してもよろしいのですが、私の気持ちからすれば、正確には自爆攻撃というべきであろうと思っております
なぜ、私どもが昨年10月末に自爆することになったのか、その理由は沖縄の歴史の中に存在しております。ここで沖縄の、首里城の歴史について、簡単に少しおさらいしてみませう
首里城は1429年に建てられました。それから450年間、明治のはじめにいわゆる「琉球処分」によって日本政府により琉球国を廃止させられ日本の領土にされてしまうまでは、私ども首里城は琉球王国の政治や外交、文化の中心地でありました。城と称されてはいますが、決して軍事的意味合いを有するものではありませんでした。つまり、首里城は文化財としてもとても貴重な歴史的建造物であったのです。
しかし、先の大戦において、沖縄戦において、鉄の暴風と言われた米軍の猛攻撃のさなか艦砲射撃により炎上、焼失しました。米軍が首里城を攻撃対象としたのは、首里城の地下に日本軍の司令部が設けられていたからです。首里城は、皇軍と誇らしげに称されていた日本軍が城内に居なかったならば、米軍の攻撃にさらされ炎上することはなかったかもしれません。と申しますのは、米軍は本土大空爆を敢行した際、数多くの都市で無差別に空爆を行ったものの、古都であり貴重な歴史的建造物がある京都や奈良は爆撃しなかったからです。
このように琉球国のシンボルであった首里城は米軍の攻撃目標にされて炎上・消失したのですが、日本のシンボルともいうべき江戸城すなわち皇居は、あの一晩で10万人もが命が奪われて1945年3月10日の東京大空襲において、米軍の攻撃目標とはされませんでした。このため、皇居はほとんのど無傷、もちとん昭和天皇はじめ皇族も無傷でありました。GGIさん、お分かりでせうか、琉球国のシンボルであった首里城は日本の犠牲となって炎上したのですが、一方、先の大戦の震源地であり軍国日本のシンボルとも言うべき江戸城=皇居は無傷だったのです。
沖縄戦で私は炎上しましたが、沖縄が本土復帰したのち、1958年、守礼門を皮切りに再建が始まり、1992年11月、正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され、首里城公園として復元されるに至りました。しかし復元後も、私は二次大戦で自分が日本の皇居の、犠牲にされたのだという思いが消えず、そのことを胸に刻みつけて生きてきました。
本土復帰後、一坪地主のGGIさんも承知のとおり、米軍基地が極度に沖縄に集中するようになりました。すなわち、またしても沖縄が日本の犠牲になっているという状態が今日まで続いてきたのです。そして昨今は、基地を縮小すると言いながら、逆に新しい基地をつくるという日本政府と米国政府の合作による大詐偽がまかり通っています。ご存知のとおり、GGIさんが土地を持っておられる普天間基地を返すかわりに辺野古に新たな基地を建設しているのです。
かつての沖縄県知事、大田昌秀さんも、前知事の翁長雄志さんも、米軍基地の存在に強く異議を唱えていました。2018年10月に沖縄県知事に就任された玉城デニーさんも辺野古への基地建設に懸命に反対しておられますが、事態は一向に動きません。日本政府は、何が何でも建設する構えをくずさず、アメとムチで沖縄の人々に言うことをきかそうとしています。
一坪地主のGGIさま、このようなあなたが地主になってくださってからも、残念ですが事態は何も変わっておりません。このままでは近い将来、変わる見込みはほとんど期待できません。かようなしだいで、かつての琉球国のシンボルであった私は悶々とした日々を過ごしていたのですが、昨秋、決意したのです。このままではどうにもならない、日本政府に押し切られてしまう、この事態を少しでも動かして沖縄の人々のお役に立ちたいと思い、自爆する決意を固め、10月の最後の日に自爆を決行したのです。
心ある沖縄の人々はおそらく私の炎上は自爆によるものであることを察してくださっておられるのではないかと思います。覚悟を決めて私は自爆炎上したのです。
しかしながら、私どもの炎上後、好ましからぬ事態が生じています。
私の自爆後、日本政府はすばやく「政府として、復元に向けて責任を持って取り組む」と宣言しています。予算措置も講じ、復元に向けて、2019年度内をめどに工程表の策定を目指すことを決めているとのことです。この日本政府の方針は、米軍基地に反対する、辺野古の基地建設に反対する沖縄の人々を懐柔することを意図したものであることは明明白白です。大きなアメをぶら下げたのです。
私は「沖縄の米軍基地・命!」だとする日本政府の姿勢に抗議して自爆したのです。日本政府に対する自爆攻撃に他なりません。ですから、私としまして、日本政府のおカネによって自分がこの世に復帰するつもりは毛頭ありません。日本政府のカネで首里城が復元されたとしても何の意味もありません。
ですから、沖縄のみなさま、沖縄の未来を憂えているみなさま、GGIをはじめとして一坪地主のみささま、米軍基地に反対しているみなさま、どうか日米政府が辺野古の基地建設を断念するまでは、決して私を再建しないでください。どうか、首里城再建のために日本政府に頼るようなことは決してしないでください。
最後に沖縄県知事、玉城デニー様に以下のようにお伝えくださるようお願いいたします。
「知事さんは私の自爆後に日本政府に再建の要請を行われたとのことです。しかしながら、日本政府におカネを出してもらうなどということを私は受け入れることに絶対にできません。辺野古の基地建設問題が解決されないまま私を再建するようなことは決してしないでください。もし再建されたならば私は再び自爆するでありませう」
2020年2月7日 昨秋自爆した首里城より
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・
今日の写真は炎上する首里城です(2019年10月31日夜)。時事通信さんの写真を借用しました
グッドナイト・グッドラック!
えっ?何?首里城からって・・・どういうことなんだ・・・首里城は昨年十月末に炎上、焼け落ちてしまったはずだけれどと思いながら封を切り手紙を取り出しました。何かキツネにつままれたような気分でありました
拝啓
GGIさま、突然お手紙を差し上げ失礼いたします。私は昨秋焼失してしまいました首里城でございます。沖縄の本土復帰以来、永きにわたり普天間基地内に土地を所有していただき心から感謝申し上げます。今日は折り入って勝手なお願いがあり、失礼をかえりみずお手紙を差し上げるしだいです。
私どもの炎上後、消防局など関係者が火事の原因を懸命に調べてはいるものの、いまだに原因を特定するに至っていないようです。けれども、私どもは火事のほんとうの原因を科学的に突き止めることは無理であろうと考えております。と申しますのは、私どもは何かが原因の失火や放火などが原因で炎上したからではないからです。
実は、私どもは自爆したのです。すなわち、自分の意思で自ら炎上したのです。焼身自殺と申してもよろしいのですが、私の気持ちからすれば、正確には自爆攻撃というべきであろうと思っております
なぜ、私どもが昨年10月末に自爆することになったのか、その理由は沖縄の歴史の中に存在しております。ここで沖縄の、首里城の歴史について、簡単に少しおさらいしてみませう
首里城は1429年に建てられました。それから450年間、明治のはじめにいわゆる「琉球処分」によって日本政府により琉球国を廃止させられ日本の領土にされてしまうまでは、私ども首里城は琉球王国の政治や外交、文化の中心地でありました。城と称されてはいますが、決して軍事的意味合いを有するものではありませんでした。つまり、首里城は文化財としてもとても貴重な歴史的建造物であったのです。
しかし、先の大戦において、沖縄戦において、鉄の暴風と言われた米軍の猛攻撃のさなか艦砲射撃により炎上、焼失しました。米軍が首里城を攻撃対象としたのは、首里城の地下に日本軍の司令部が設けられていたからです。首里城は、皇軍と誇らしげに称されていた日本軍が城内に居なかったならば、米軍の攻撃にさらされ炎上することはなかったかもしれません。と申しますのは、米軍は本土大空爆を敢行した際、数多くの都市で無差別に空爆を行ったものの、古都であり貴重な歴史的建造物がある京都や奈良は爆撃しなかったからです。
このように琉球国のシンボルであった首里城は米軍の攻撃目標にされて炎上・消失したのですが、日本のシンボルともいうべき江戸城すなわち皇居は、あの一晩で10万人もが命が奪われて1945年3月10日の東京大空襲において、米軍の攻撃目標とはされませんでした。このため、皇居はほとんのど無傷、もちとん昭和天皇はじめ皇族も無傷でありました。GGIさん、お分かりでせうか、琉球国のシンボルであった首里城は日本の犠牲となって炎上したのですが、一方、先の大戦の震源地であり軍国日本のシンボルとも言うべき江戸城=皇居は無傷だったのです。
沖縄戦で私は炎上しましたが、沖縄が本土復帰したのち、1958年、守礼門を皮切りに再建が始まり、1992年11月、正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され、首里城公園として復元されるに至りました。しかし復元後も、私は二次大戦で自分が日本の皇居の、犠牲にされたのだという思いが消えず、そのことを胸に刻みつけて生きてきました。
本土復帰後、一坪地主のGGIさんも承知のとおり、米軍基地が極度に沖縄に集中するようになりました。すなわち、またしても沖縄が日本の犠牲になっているという状態が今日まで続いてきたのです。そして昨今は、基地を縮小すると言いながら、逆に新しい基地をつくるという日本政府と米国政府の合作による大詐偽がまかり通っています。ご存知のとおり、GGIさんが土地を持っておられる普天間基地を返すかわりに辺野古に新たな基地を建設しているのです。
かつての沖縄県知事、大田昌秀さんも、前知事の翁長雄志さんも、米軍基地の存在に強く異議を唱えていました。2018年10月に沖縄県知事に就任された玉城デニーさんも辺野古への基地建設に懸命に反対しておられますが、事態は一向に動きません。日本政府は、何が何でも建設する構えをくずさず、アメとムチで沖縄の人々に言うことをきかそうとしています。
一坪地主のGGIさま、このようなあなたが地主になってくださってからも、残念ですが事態は何も変わっておりません。このままでは近い将来、変わる見込みはほとんど期待できません。かようなしだいで、かつての琉球国のシンボルであった私は悶々とした日々を過ごしていたのですが、昨秋、決意したのです。このままではどうにもならない、日本政府に押し切られてしまう、この事態を少しでも動かして沖縄の人々のお役に立ちたいと思い、自爆する決意を固め、10月の最後の日に自爆を決行したのです。
心ある沖縄の人々はおそらく私の炎上は自爆によるものであることを察してくださっておられるのではないかと思います。覚悟を決めて私は自爆炎上したのです。
しかしながら、私どもの炎上後、好ましからぬ事態が生じています。
私の自爆後、日本政府はすばやく「政府として、復元に向けて責任を持って取り組む」と宣言しています。予算措置も講じ、復元に向けて、2019年度内をめどに工程表の策定を目指すことを決めているとのことです。この日本政府の方針は、米軍基地に反対する、辺野古の基地建設に反対する沖縄の人々を懐柔することを意図したものであることは明明白白です。大きなアメをぶら下げたのです。
私は「沖縄の米軍基地・命!」だとする日本政府の姿勢に抗議して自爆したのです。日本政府に対する自爆攻撃に他なりません。ですから、私としまして、日本政府のおカネによって自分がこの世に復帰するつもりは毛頭ありません。日本政府のカネで首里城が復元されたとしても何の意味もありません。
ですから、沖縄のみなさま、沖縄の未来を憂えているみなさま、GGIをはじめとして一坪地主のみささま、米軍基地に反対しているみなさま、どうか日米政府が辺野古の基地建設を断念するまでは、決して私を再建しないでください。どうか、首里城再建のために日本政府に頼るようなことは決してしないでください。
最後に沖縄県知事、玉城デニー様に以下のようにお伝えくださるようお願いいたします。
「知事さんは私の自爆後に日本政府に再建の要請を行われたとのことです。しかしながら、日本政府におカネを出してもらうなどということを私は受け入れることに絶対にできません。辺野古の基地建設問題が解決されないまま私を再建するようなことは決してしないでください。もし再建されたならば私は再び自爆するでありませう」
2020年2月7日 昨秋自爆した首里城より
なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・
今日の写真は炎上する首里城です(2019年10月31日夜)。時事通信さんの写真を借用しました
グッドナイト・グッドラック!