UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

八月十五日:「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」・・・

2019-08-17 01:37:13 | 日記
8月15日朝、これから台風がやって来そうというお天気でしたが、当地は雨はまだ降っておらず風が少し強い程度、終戦記念日であるとともにお盆でもありますのでGGIは墓参りにでかけました。JRの駅の近く、国道1号線沿いの高台にある墓地にわがファザーが眠っているからです。年に一度の大早起き、午前3時半に就寝、午前6時半に起床、と申しますのは墓地でカㇳリック教会の神父さんによる墓前礼拝が午前8時から行われるからです。

台風来襲を理由に墓前礼拝をさぼろうかなと思ったのですが、今年はカトリックの信仰があったわが父没後50年にあたりますので、わが兄弟に恩を着せるために、遺族を代表して礼拝に参加したのでありました。カトリック教会では神父さんがよく代わられるようであり、今年は韓国人の若い神父さんでした。いつも墓前礼拝でお会いする教会の長老役というのでせうか世話役というのでせうか、温厚な人物に「今年で50年になります」と申しまたら、「そうですか、私の父が亡くなってから62年になます。そのころ(昭和32年)はまだ土葬でした」という返事、これは驚きでありました・・・

礼拝はほんの半時間ほどで終了、炎暑の中、蝉の声に包まれながらノロノロと歩いて帰宅、シャワーを浴びて簡単に朝食、大早起きだったので眠気に襲われ目が覚めたらお昼、テレビで戦没者追悼式の中継をしていました。

安倍首相のあいさつは毎年ほぼ同じ、昨年の原稿を引っ張り出してチョコチョコと手直しするだけなのでありませう。とにかく彼のあいさつ、広島と長崎の式典でもそうでありましたが、巧言令色の典型、形式ばかりで心がこもっておりませぬ

「・・・先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで、無残にも犠牲となられた方々。今すべての御霊に・・・」

この一節を聞くたびに、GGIは「おいおい、それはちょっと違うのじゃないか、多くの日本人を死地に追いやったのは、「無残にも犠牲」となることを強いたのはどこの誰だったかという反省がまったくないではないか・・・そのことにまったく触れずに、とってつけたように「今、すべての御霊の霊前にあって御霊安かれと心よりお祈り申し上げ」られてもなあ・・・・

もちろん「犠牲となった」ことの直接的な原因は交戦国である米国をはじめとした連合国の軍事的行為です。しかしながら、まったくあたり前のことでありますが、先の戦争を仕掛けたのは日本、日本があの歴史上稀に見る愚かな戦争を始めなければ、多くの市民や兵士が「無残にも犠牲となられる」ことはなかったのです。

あの史上ほかに例のない、はじめから勝つ見込みが皆無の史上まれに見る無謀で愚かな戦争を開始し主導したのは当時の日本の指導部です。指導部というのは具体的には天皇と彼を取り囲む軍の首脳部です。天皇は戦争を指導したのか否か、歴史学的に明らかでないという見方もありますが、GGIの考えでははっきりしています。

「軍人勅諭」において、明確に「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と高らかに宣言されているからです。これは「戦争を指導するのは汝ら軍人ではなく大元帥であるところ朕である」という意味に他なりません。ですから、先の大戦を軍人勅諭に基づいて天皇が主導したと考えるのが自然です。

「軍人勅諭」というのは、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜した勅諭」であるとされています。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』と称されるものです。内容は平たく申しあげれば軍人としての心得です。これを下敷きにして東条英機により「戦陣訓」なるものがGGIがご生誕になった1941年(太平洋戦争開戦の年)に公布されています。

などと書きますと話がドンドン脱線しそうになりますので「軍人勅諭」の話はこのへんでやめにしますが、軍人勅諭にある「朕」という言葉でGGIは「そういえば『朕』を主題にしたなかなか優れた強く印象に残る絵画作品があったなあ、と思いだしました。

作者は香月泰雄という洋画家(1911~1974年)です。安倍首相と同じく山口の人です。1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。敗戦の1945年、ソ連に抑留され、シベリアの収容所で強制労働に従事。1947年、シベリア抑留から引き揚げています。

シベリアに抑留されていたときの過酷な体験を後に絵画作品に表しており、一連の作品は「シベリア・シリーズ」として知られています。シベリア・シリーズ57点の多くが彼の没後遺族により山口県へ寄贈されており、1979年開館の山口県立美術館に展示されているそうです。

GGIはずいぶん以前のことですが、京都市立美術館で「シベリア・シリーズ」を観たことがあります。極寒の地で強制労働で次々に倒れて命が尽きていった兵士たちを題材にしたものが多いのですが、過酷な記憶だけではなく、ときにはシベリアの自然の美しさも描いています。抽象画を思わせる独特のスタイルも印象的です。

この一連の作品のなかでいまでもGGIの記憶に残っているのは「朕」と題された作品です。GGIはこの作品の題名は「天皇」であったように記憶していたのですが、あらためて画集で調べてみましたら「朕」でした。軍人勅諭で高らかに「汝ら軍人の大元帥である」と宣言しているあの「朕」でありました。

大きな作品でありました。162㎝×116㎝。黒い色調でおそらく死に逝く兵士たちと思われる何人もの人物の顔が画面全体に描かれています。

今日の写真はこの作品を撮ったものです(「香月泰男画集~太陽の賛歌~」:2004年、小学館)。よろしければクリックしてご覧くださいませ。

画面中央の白く描かれている部分は「軍人勅諭」が記されている紙片を意味しているのではないかと思われます。そこには死者の顔が透けるように描かれており、この写真ではよくわかないのですが、軍人勅諭を意味する白い紙の部分には、「朕」、「大元帥」、「鴻毛」、「股肱」といった言葉が刻むように記されいます。

画集では、この作品に以下の一文が添えられています。

「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民族のため、国家のため、朕のため、などと美名をでっちあげて。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちていく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風で、もったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所二ソアル・・・・朕ハ大元帥ナルソ、サレハ朕ハ・・・・朕ヲ・・・朕・・・朕の名のため、数多くの人間が命を失った。」

また、軍人勅諭には「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」という一節がありますが、上官たちはこの一節を悪用して、「上官である自分の命令は天皇の命令だ」とうそぶき、公然と下級兵士に暴力をふるい、いじめ抜きしごきを加え、下級兵士たちの命を危険にさらしたのです(この悪しき伝統は姿を変えて戦後、学校での部活やとりわけ大学の運動部などに受け継がれ下級生いじめや下級生へのしごきとなっているのです)

また、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節がありますが、この一節のために数多くの兵士たちが勝つ見込みがまったくない戦闘で投降することを許されず、次々に「全員玉砕」させられました。また、サイパンや沖縄などで多くの民間人が軍から強要され「自害」しました

また軍指導部が戦争に際しての基本である兵站を軽視したために、半数以上の兵士たち、100万人以上の兵士たちはロクな装備も与えられず、「現地調達」であるとして食料も補給もされなかっため、敵軍の銃弾に倒れる前に病と飢えで死んでいったのです。

アベ君、お分かりですか。このような愚か極まる精神主義の塊であり空疎な言葉の羅列に過ぎない「軍人勅諭」や「戦陣訓」の結果、多くの兵士が市民が「無残にも犠牲になられた」のですよ。これらの事実から目をそむけたままでは、「御霊安かれと心よりお祈り申し上げる」ことができるはずはないのです

また、外地で亡くなった兵士たちの政府による遺骨収集は遅々として進んでいなのですが、アベ君、未だに収集されていない100万人以上もの兵士の遺骨について、あなたは式典で「ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります」と述べています。アベ君よ、まことに残念ながら、この挨拶はあくまでも言葉だけに過ぎず、あなたがほんとうに未だに放置されている100万人もの兵士の遺骨収集に全力を尽くすとは多くの国民は信じることができないでありませう。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック!

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