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UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

歴史のお勉強:昭和天皇の姑息な言いわけを諌めた初代宮内府長官・・

2024-03-21 01:00:20 | 日記
最近、先の大戦で敗戦した後、1948年(昭和23年6月)から宮内府(宮内庁の前身:注参照)の初代長官を務めた田島道治(みちじ)という人物が昭和天皇と交わした会話の記録である「拝謁記」の内容が公開され、内容の一部が2月8日の朝日新聞夕刊(「側近が記した「昭和」」と題された特集記事)に掲載されていました。以下はこの記事の一部を引用したものです。
(注)終戦時に6200人の職員がいた宮内省は戦後1500人に縮小され、宮内府を経て宮内庁に改編されました)

田島氏は皇室とは無縁の経済人であり、天皇と国民の距離を使づけるのが自分の任務と考えて、退位を求める国民の手紙を天皇に見せたことがあるそうです。

1949年2月10日の記録によれば、天皇はこの国民からの手紙を読んで「(太平洋戦争開戦の日、1941年12月8日の開戦の詔書において)朕が(私の)志ならんや(真意ではない)と言っていることなど(国民は)少しも読み分けてくれない(理解してくれない)」など不満を述べたそうです。

つまり、かつて「大元帥」であった天皇は、「あの開戦の詔書において、戦争を行うのは私の真意ではないと、ちゃんと言っているではないか(注参照)、そのことを国民は分かってくれない」と不満を述べたのです。自分に真意に反して軍人たちが勝手に戦争を始めたのだ、だから自分に責任はない、どうして退位しなければならないのか、とでも言いたかったのでしょうか・・・

(注:開戦の詔書の中で、天皇は「今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ」=「今や不幸にして、米英両国との戦争を開始するに至った、誠にやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない」と述べていることを指しています)

私は只々この屁理屈のような言い訳にあきれてしまったのですがに、このときの田島氏の対応は筋の通ったものでありました。田島氏は以下のように直言して、天皇を諌めたのです

田島氏はこの天皇の不満に対して以下のように応じたのです・
「陛下としてはそうお感じかもしれませぬが・・・日本には承詔必謹(しょうしょうひっきん=天皇の命には必ず従う)の風がありますし、『朕が志ならんや』は宣戦の詔書においては決まり文句であり、陛下の真意に背いてやむを得ず開戦の詔書を出すとは考えないのが普通です」と、 なかなか思い切ってはっきり天皇の弁解の言葉を否定しているのです。

つまりですね、「天皇よ、あなたはそのように感じるかもしれないが、日本では昔から『天皇の命令には必ず従わなければならない』ということになっているのですよ。そのうえ、「私の本意ではない」というのは戦争を始めるときの常套句、決まり文句に過ぎません。だから、天皇が自分の意思に反して開戦の詔書を発表することがあるなどと国民が考えないのは当然なのです」と天皇の姑息な言い訳をバッサリ切って捨てているのです。

確かに、日本に限らず、戦争を始めるときは、指導者は「これは我が国を守るための戦争だ、自衛のためなんだ、ほんとうは戦争なんかやりたくないんだ、意に反してやむを得ず戦端を開くのだ、正義のための闘いだ」と言った意味のことを必ず口にするのです。

たとえばあのプーチンさんだって「ほんまは戦争なんかしたくないんや、だけどウクライナを放置しとくと我が国はNATO諸国に包囲されてしまうやないか、だからやむを得ず戦争することにしたんや、本意じゃないのや、自衛のたなんや」というところでありませう。

だいたいにおいて、戦争を仕掛ける側はかならず「自衛のための戦争だ、だからやむを得ず戦端を開くのだ」と高らかに宣言するのが歴史の真実であるといってもよいでありませう。その証拠に、上記の昭和天皇による開戦の詔書でも、最後の部分に「ことここに至っては、帝国は今や自存と自衛のため、決然と立ち上がって一切の障害を破砕する以外にない」という意味のことが記されており、自衛のための戦争ということが強調されています。

 ただ、この宮内府長官の田島氏の言葉で天皇が十分に反省したかは、大いに疑問です。
今日の写真は1952年ごろの天皇の写真です。よろしければクリックしてご覧になってくださいませ

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たったの一夜で死者10万人、被災者100万人、焼失家屋27万戸という超大惨事を知っていますか?

2024-03-12 01:02:25 | 日記
昨日、3月11日は東日本大震災・東電福島原発の大事故から23年ということでテレビや新聞ネットなどでは関連ニュースがたくさん報じられていました。また、最近は東電福島原発の事故に関連して、能登半島地震と原発あるいは原子力防災の問題が報じられることも少なくなく、一方においてウクライナにおける戦争、パレスチナ・ガザ地区での戦闘についてのニュースも依然として続いています。

これらはいずれも多数の人々の生命に関わる出来事でありますので、さかんに報道されるのは当然のことなのですが、私が「おや、それでいいの?」などと思ったのは3月10日のことでありました。「今日は史上稀にみる大惨事がかつてあった日、日本の現代史において忘れることができない日であるけれど、新聞もテレビもこの大惨事のことにはほとんど触れていないなあ」と思ったのでありました。

若い方々には無理もないことですが、先の大戦(太平洋戦争)についてなにがしか記憶がおありの方あるいは関心をお持ちの方であれば、そうかあ、3月10日と言えば・・・あの数百機の米軍爆撃機B29により一夜にして東京の街が灰燼と帰し破壊されつくされ10万人もの人々が命を失った、いわゆる「東京大空襲」があった日であると思い出されることでありませう。ところが3月10日付けの、日本を代表する新聞と自負している朝日新聞、東京大空襲に関する記事は最後のページの左の隅っこに「空襲が残した心の傷今も・・・ウクライナ少女に重なった79年前の私」と題された,個人の体験談を記した記事だけでありました。

困りますねえ朝日さん、東京大空襲は史上稀にみる大惨事・大虐殺ですよ・・・何回か前の日記で「十年ひと昔なのだ、だから福島原発事故から10年経って、世論調査では原発再稼働への賛否が逆転してしまい賛成の方が多くなってしまったのだ」と書きましたが、敗戦は79 年前ですから、朝日さんよ、79年前のことなんかもう昔も昔も大昔ということなのでしょうか?

朝日さん、ご存知でしょうが、おさらいのために東京大空襲がどのくらいの大惨事あったか、簡単に数字を挙げておきませう。

1945年3月10日の未明に開始された米軍のいわゆる世界最初の「絨毯爆撃」(=徹底した無差別空爆)により,一晩で約10万人もの人々が焼死や窒息死させられ、罹災者は約100万人、焼失家屋は約27万個・・・何日も何カ月も、あるいは何年もかかってのはなしではりません、たったの一晩でこのありさまでした・・・(しかし皇居は無傷でした)・・・

これらの数字を最近のできごとにおける死者の数字と比べてみませう
・能登地震による死者238人
・東日本大震災の死者:原発事故関連死を含めて約2万5000人
・パレスチナ・ガザ地区におけるイスラエル軍の攻撃による死者:昨年10月7日~今年3月11日の約5カ月間に約3万9000人
・ロシアによるウクライナ侵攻による死者:両国とも戦死者などの正確な数を公表していないので確かなことは言えませんが、侵攻開始から今日までの二年間で、両国の死者は6万~8万ぐらいか・・・

これらの数字と比べますと、東京大空襲の一晩で10万人という数字がいかに凄まじい数字であるであるかが、東京大空襲は文字通り史上稀に見る大惨事そのものであることが分かるでありませう。広島・長崎への原爆投下による死者数に匹敵するレベルのものです。「空襲」という名の「無差別空爆」は人道に反しています。無差別の空爆はテロ行為そのものです。すなわち戦争犯罪です。「帝都」東京をはじめとして日本全土の主要都市に対する無差別空爆を指揮した米軍のカーチス・ルメイ中将は後に、「米国が負けていたら、私は戦犯になっていただろう」と述懐しています・・・

今日の写真はわが庵の1等応接室の壁に貼ってある「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」と題された、空襲により焼失した区域を表示した東京都の地図です。クリックしてご覧になってください赤色で示されているのが消失区域です。地図の中心部が皇居であり、お堀の内側は焼けてないことがわかります(米軍を意図的に皇居を空爆しなかったものと考えられます。もし米軍が皇居を空爆していたら、歴史は大きく変わったかもしれません・・・)。

この地図は敗戦直後に地図製作会社の社員が足を棒にして歩き回って調査したうえで作成したもであり当時のGHQ(連合軍総司令部)もこの地図を購入したそうです。東京は何度も繰り返し空爆されていますので焼失区域は3月10日の大空襲による焼失区域だけを示したものではありません。3月10日の大空襲では、主に皇居の東側に位置する下町の区域が爆撃にさらされ炎上しました。

3月10日の未明、米軍爆撃機の大群は、まずはじめに爆撃目標である地域の周囲に円周を描くように爆弾を投下して炎上させて、住民を円周の外側に逃げられないようにしてから、円周内の地域に次々に焼夷弾などを落とし、焼き尽くしたのでありました・・・。

ある爆撃機のパイロットは眼下に燃え広がる東京の街を目にして、僚機のパイロットに無線で「すごい、きれいだ!まるでマンハッタン(の夜景)みたいだ!」と叫んだという話が伝えられています・・・

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我が庭は、襟裳岬ではないけれど、何もない春なのです・・・

2024-03-09 00:52:42 | 日記
三月になりましたが春はまだ名のみ、風の寒さでございます
春だというのに我が庭は、きれいさっぱり、なにもございません

今日の写真は春だというのに何もない我が庭を撮ったものです。何の変哲もない写真ですが、お暇な方はクリックしてご覧になってくださいませ

過日、この何もない我が庭をぼんやり眺めておりましたら、むかしむかし「襟裳の春は何もない春です~」と森進一が熱唱していた歌があったなあ、と記憶が戻ってきました。以下に一番の歌詞だけを記しておきます。なかなかいい歌であり、私も好きでした

歌:森進一
作詞:岡本おさみ
作曲:吉田拓郎

北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由のわからないことで 悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙りとおした 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

私は若かりし頃、ノー天気そのものだったころ、襟裳岬には行ったことがないのですが、北海道の大地で四年間ほど結果的にはほぼ無為に過ごしてしまったこともあって、この歌が好きです

ところで我が庭は春だというのになぜ何もないのでせうか?

それはわが湖都のシルバー人材センターのオッサンたちのせいであります。わが庭は普段はほぼ雑草の園なのですが、年に一度、年末ごろにこのオッサンたちに剪定してもらうことにしているのですが、昨年末いつまでたっても剪定に来てくれる気配がありませんでした。それで電話して「予約しておいたけれどいつ来てくれるんだ」と聞きましたら「予約は入ってないですよ、今予約されても、混んでいますから来年の二月末か三月になります、それに今年かららい2割料金を値上げしています!」という返事・・・それでは遅すぎるなあ、雑草だらけの状態を放置しておくわけにはいきませんので「いつでもいいから、とにかくきてくれ」と頼んでしまいました

いつになることやらと思っていましたら、意外に早く、2月の6日にやってきました。4人でやてきて、午前8時から午後3時まで、せっせと何でもかんでも剪定したり、「兵(つわもの)どもの夢の跡」である草々を電動草刈り機でなぎ倒していきました。おかげさまで、満開であったわが愛する水仙さんたちまでもが、あっけなくなぎ倒されてしまいました・・・・

かようなしだいで我が庭は何もない春になってしまったのでございます。写真でご覧のように我が庭、一見したところ何もないですが、実はその地下にはいろいろなものが埋まっているのでございます。と申しますのは、写真に写っております我が庭はほぼすべてが人工の土地なのです。元はわが淡海すなわちびわ湖であったのです。ところが、半世紀以上前、1兆円もが投入されたという「琵琶湖総合開発」という名の国の環境破壊政策により湖が埋め立てられて、その結果わが庭が誕生したのです(湖を埋め立てた県から押し売りされたのです)

ですから、わが庭の地下には宝物すなわち建築廃材などの産業廃棄物がどっさり埋まっているのです。それに猫の遺体やイタチ君の遺体なども埋まっているのです。わが庭で静かに生を終えたノラ猫君やイタチ君を私が葬ってあげたのです・・・・

今夜はどうでもいい話になってしましました。これで失礼いたします

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誰も見ない某政党の見苦しいポスターの上に、無断でナワリヌイ氏の遺影を貼りつけ追悼するの記・・・

2024-03-02 00:29:22 | 日記
先日の日記に記しましたが、去る2月16日にプーチン氏の最大の政敵、ロシアで最も著名な反政府活動家であり、前日まで元気であったアレクセイ・ナワリヌイ氏が北極圏にある刑務所で「突然獄死」しました。ロシアから出国し外国にいるナワリヌイ夫人はプーチンに殺されたと訴えています。

同氏の遺体は亡くなってから8日後にようやく母親に引き渡され、いま関係者らにより葬儀の準備が行われています。しかし葬儀を無事執り行うことができるかは定かではありません。海外のメディアによりますと、当初2月29日に行う予定でしたが、29日にはプーチン大統領による年頭の大演説が行わるからという理由で当局から待ったがかかったようであり、モスクワの街頭での外国メディアのインタビューに、ある若い女性は「プーチンは生きているナワリヌイを恐れていましたが、彼が死んでからでも恐れているのです」と答えていました。

今日3月1日のBBCニュースによれば、ナワリヌイ氏の葬儀は今日の午後8時(日本時間)にモスクワ南部の教会で行われることになっているものの、すべての葬儀会社が断っているため、霊きゅう車を用意することができず、困っているとのことです。また、葬儀を主宰する関係者は、葬儀に参加しようとする人々に、当局の動きなどに十分注意するようにと呼びかけているそうです。このような険しい状況ですから、果たしてナワリヌイ氏の葬儀をが無事執り行うことができるかどうか危ぶまれます・・・

かような次第でありますので、私はモスクワから遠く離れた淡海の湖畔で、個人的にナワリヌイ氏を追悼することにいたしました。と申しましても大げさなことではありませぬ。我が街角に、いつ貼られたのか定かでなく、いつまでも街角に貼りっぱなしになっている、某政党の美観を損ねる見苦しいポスターが貼られていますので、そっとこのポスターに接近し、この見苦しいポスターの上に、某政党関係者には無断で、A3の大きさにコピーしたナワリヌイ氏の遺影(BBCニュースから無断借用、街頭でナワリヌイ氏の遺影に花などが供えられている写真)を2枚を貼りつけたのでありました。

今日の写真は某政党のポスターの上に私が勝手に貼り付けたナワリヌイ氏の遺影を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧になってくださいませ。よっぽどの暇人でないとこのナワリヌイ氏の遺影を眺めたりはしないでありませう・・・でも、それでもいいのです・・・遺影を飾ることに、なにがしの意義なきにしもあらずだからです・・・

と、ここまで書いたところで、先ほど、3月2日の午前零時半ごろBBCニュースを見てみましたら最新ニュースとして、葬儀は現地時間の午後二時から三千人ほどの市民が集まって警官隊の厳重な監視のもと、無事盛大に行われ、葬儀が終わってから、墓地まで多くの市民が反戦を声をあげながら行進したなどと、何枚もの写真を添えて詳細に報じられていました

BBCは『ラウラ・ゴッツィ欧州記者は、人々が行進しながら「戦争反対」、「プーチンなきロシア」、「ロシアは自由になる」といったスローガンを叫んでいたと報告。ロシアでは通常、こうしたスローガンが書かれたボードを持っているだけで逮捕されるが、人々はこの日、この機会に勇気づけられているようだと伝えた』と報じています。

なお、3月2日付の続報によれば、91人の参列者が逮捕されたとのことです。

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十年ひと昔というけれど・・・原発への賛否があっけなく逆転するの記

2024-02-22 00:38:27 | 日記
「十年ひと昔」という言い回しがありますね。世の中の移り変わりが激しいことのたとえであり、何か大きな出来事があっても十年もたてばそれはもう昔の話・・・といった意味ですが、これはなかなか的を得たと申しますか含蓄のあることばであります。とにかく人間という生き物は、もちろん私も含めて、忘れっぽいと申しますか、都合の悪いことはさっさと忘れたがる生き物であります。これは昨今「裏金」問題で世をお騒がせしている自民党の国会議員の先生方に限ったことではありませぬ。下々の私たち国民のみなさんも例外ではないということを、つい最近私はつくづく実感いたしました。

去る2月20日の朝日新聞に掲載されていた世論調査の結果を示すグラフを偶然目にして、ああ、十年ひと昔って、このことなんだ!と思わず納得してしまったのです。

今日の写真は朝日の世論調査の結果を示すグラフを撮ったものです。世論調査の内容の中に、原発の再稼働に賛成か否かを問う一項目があり、2013年~2024年の調査結果が折れ線グラフで示されています。この十年あまりの間の賛否の割合の推移がグラフで示されているのです。ぜひ写真をクリックしてご覧になってください。

福島第一原発で大事故が起きてから2年後の2023年には原発再稼働に反対の人が過半数の58%を占めており、賛成の人は28%に留まっていました、ダブルスコアで反対の方が多い・・・・ところが2013年から10年後の昨年すなわち2023年には反対と賛成が逆転!・・・再稼働賛成が過半数の51%、反対が過半数を割って42%・・・今年すなわち2024年は反対派さらに減って35%・・・・これはまさに「十年ひと昔」の見本とも言うべき現象?です!

私はあきれて、この見事な逆転ぶりにあっけにとられて、しばらくポカ~ンとしばらく口をあけっぱなしにしておりました

あの2011年3月11日からの数日間、テレビに映し出される次々に原子炉で水素爆発が起きる様子をかたずをのんでご覧になっていた方も多くおられることでしょう。あのときは、大半の方が、原発ってやはり怖い、もう原発なんか、こんな危険なものなんかいらない・・・と思ったのではないでしょうか。ところが十年余を経てこのありさま・・・当時の政権、民主党の菅首相は、福島原発の大事故を振り返って「もう限界、これ以上圧が上がってついに2号機の格納容器が吹っ飛んだら人口が密集する首都圏にまでも放射能の被害という破局的な事態に・・・ところがある時点から圧力が急に下がり始めた・・・まさに神のご加護と思った」とその著書に記しています。そのくらいの危機だったのですが・・・

このグラフを見ますと、2020年ごろまでは、賛否の割合に大きな変化はありません。反対は55~58%ぐらい、賛成は28~29%あたり、ところが21年以降は激変、21~23年にかけて賛成は19%も激増、反対は11%も激減、23年には賛成がついに過半数を占めるにいたっています。反対は今年24年には35%にまで減っています。グラフを見ておりますと、今後これ以上賛成が増えることはないかもしれませんが、反対はこれからもさらに減り続けるのではないかと思ったりします・・・

「十年ひと昔」あるいは「のど元過ぎればなんとやら」とは申しますが、どうしてこんなことになったのでありませうか・・・その理由は定かでありませんが、要するに「時代が変わった」あるいは「変わりつつある」ということでありませう・・・

しかしながら、このたびの能登大地震は原発推進の動きに冷や水を浴びせるものでありました。志賀原発は幸い大きな被害を免れましたが、これは単にラッキーであったに過ぎないかもしれないからです。かつて北陸電力がこの度の地震の震源のすぐ近くに位置している玖珠に原発を計画していたことがありましたが(住民の反対で計画は撤回されました)、もし玖珠に原発が建設されていたならば何が起きたか分かりません・・・能登では漁港のあった場所の海底が3~4メートルも隆起したそうですが、原発の敷地の地面全体が何メートルも隆起したりしたら、いったいどうなるでしょう、それこそ福島原発事故を上回る破局的な大惨事に・・・道路が寸断され能登の人々は逃げ場を失ったまま放射能の雨・雪にさらされ・・・

そうならなかったのは、原発がある志賀ではなく玖珠が震源に近かったのは、単なるラッキーに過ぎないと私は思うのですが・・・・でも原発の関係者は素知らぬ顔です。原子力規制委員会もこの機会に今後の規制の在り方を考え直すという雰囲気ではなく、「原子力防災は自治体の仕事」とまるで他人ごと、政府も原発規制や原子力防災のあり方を根本的に見直すことはまったく考えていない様子・・・

ああ、わが日本は「十年ひと昔」であると同時に「十年一日」であるとでも言うべきでしょうか・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
グッドナイト・グッドラック!