「日本国の歴史上」 の売り宣伝に卑弥呼を祭る神社が無いことを理由に卑弥呼はいなかった、
邪馬台国など存在しなかったとしていますので、ここでイチャモンを付けておきます。
「日本の誕生 長浜浩明著 WAC」 によれば、卑弥呼は天皇家とは一切の関係がありません。
~神社を造るのは神道であり、元は天皇家の宗教であると言い切って良いでしょう。
今でこそ日本人の宗教の様に思われていますが、天皇家と無縁の集団とは、宗教の実態が違うのです。
アイヌ人は明治まで日本人との関与は少なかったため神道とは無縁でしたから神社を造らなかったのです。
~コロボックル伝説みたいなのがあるようですから、縄文人とは全く違う宗教でしょう。
~アイヌ人が先住民族の縄文人を滅ぼしたと思われますが縄文人は天皇家とは無縁の人々だったはずだから
神社を造ることはなかったでしょう。もっとも縄文遺跡の木造家屋が神社とは程遠いものなので判定不能
でしょうけど。
~明治に大名以下の移住者が多数出ます。北海道の神社は彼らが造ったのです。
沖縄の神社も結構ありますが、時代は、全部が新しいようです。
~沖縄は、先祖は縄文人のようですが大和王朝とは関係は無いようです。
江戸時代に琉球王朝が鹿児島藩の支配下に置かれたのが最初で、天皇の支配が及んだのは明治時代からです。
天皇の直接支配が届きだしてから神社も造られるようになったんだろうと思います。
江戸時代に流民島に使われていた島はありますが、流民が神社まで造れたかは少し疑問です。
ついでに:
秋田県由利本荘市矢島町谷地沢には、神社も寺も、ありませんでした。
開拓入れても30戸にも届かない小さい集落だったのが理由かも。
でも、道祖神とか馬頭塚なども見かけませんでした。あったのは盗賊の墓を兼ねた塚のみ。
お寺は住職などを置かないと成立できませんし宗派があって面倒ですが、神社は、無人であっても良いと
開拓民が分祀して建立した神社を、開拓民がいなくなった後に、小さな社と大きな鳥居をどこかに
埋めてしまったのです(社も鳥居もコンクリート製でした)。
町あげての夏祭りは山車はいくつも出す・・・夏祭って神社には無関係だった?
こんな地域では、神社造って維持し続ける理由は無いです。
どこの地域にも神社があるという思い込みは捨ててください。
長浜氏は、大和朝廷の邪馬台国併合を垂仁・景行天皇(290~320)あたりに置いています。
大和朝廷の支配が北九州に及ぶまでには、邪馬台国は滅んでいたと思われます。
~大和朝廷は、邪馬台国の存在が魏志倭人伝に書かれていることを認知していたようですが、それが
どこにあったのか分からなかったのです。
現地近くの人々に聞き回ったことは確実ですが、誰の記憶にも残っていなかったということです。
~山や塚にだけ名前が残っているようです。後世の偽作か?
卑弥呼の属する集団が卑弥呼が生きている間に、神道に接する機会は金輪際無かったのです。
そしてその集団が大和朝廷支配下に下ったとしても卑弥呼を祭る神社は造らなかった=そこまで卑弥呼を敬う集団は
残っていなかったのです。
~卑弥呼を祭る神社が無い=卑弥呼はいなかったというのは時代の宗教の伝搬を無視した暴論です。
でも卑弥呼は、巫女をやらされるような宗教集団にはいたようでは、あります。
これが、縄文人に共通な宗教だった可能性はあります。
でも、邪馬台国にしろ、奴国にしろ、そして熊襲や隼人にも神社を造るような宗教は持っていなかった
のです。
~卑弥呼の墓とされる古墳もあるようですから、そこが発掘調査されたら何か出てくかもです。
天皇支配下にあった・なった集団には神社を造り先祖を祭る習慣が伝わったのです。
一方、大和朝廷と対立する集団には、墳墓、塚、陵などを造ることはあっても、
神社を造ることはなかったから先祖の口伝が残る程度だったのです。
~口伝などは、天皇家の指示で造られた各地の風土記で残されることになりました。
卑弥呼の口伝が残らなかったと言うことは戦いで負けて全滅してしまい、忘れ去られるほどの
年月が経過していたからというのもありそうです。
秦始皇帝を祭っているのは、日本に流れてきた弓月氏が秦氏と改名し、自分たちは秦始皇帝の
子孫であると吹聴して祭ったのが理由でしょう。
まったく無関係の人を祭ったのではないのです。
邪馬台国など存在しなかったとしていますので、ここでイチャモンを付けておきます。
「日本の誕生 長浜浩明著 WAC」 によれば、卑弥呼は天皇家とは一切の関係がありません。
~神社を造るのは神道であり、元は天皇家の宗教であると言い切って良いでしょう。
今でこそ日本人の宗教の様に思われていますが、天皇家と無縁の集団とは、宗教の実態が違うのです。
アイヌ人は明治まで日本人との関与は少なかったため神道とは無縁でしたから神社を造らなかったのです。
~コロボックル伝説みたいなのがあるようですから、縄文人とは全く違う宗教でしょう。
~アイヌ人が先住民族の縄文人を滅ぼしたと思われますが縄文人は天皇家とは無縁の人々だったはずだから
神社を造ることはなかったでしょう。もっとも縄文遺跡の木造家屋が神社とは程遠いものなので判定不能
でしょうけど。
~明治に大名以下の移住者が多数出ます。北海道の神社は彼らが造ったのです。
沖縄の神社も結構ありますが、時代は、全部が新しいようです。
~沖縄は、先祖は縄文人のようですが大和王朝とは関係は無いようです。
江戸時代に琉球王朝が鹿児島藩の支配下に置かれたのが最初で、天皇の支配が及んだのは明治時代からです。
天皇の直接支配が届きだしてから神社も造られるようになったんだろうと思います。
江戸時代に流民島に使われていた島はありますが、流民が神社まで造れたかは少し疑問です。
ついでに:
秋田県由利本荘市矢島町谷地沢には、神社も寺も、ありませんでした。
開拓入れても30戸にも届かない小さい集落だったのが理由かも。
でも、道祖神とか馬頭塚なども見かけませんでした。あったのは盗賊の墓を兼ねた塚のみ。
お寺は住職などを置かないと成立できませんし宗派があって面倒ですが、神社は、無人であっても良いと
開拓民が分祀して建立した神社を、開拓民がいなくなった後に、小さな社と大きな鳥居をどこかに
埋めてしまったのです(社も鳥居もコンクリート製でした)。
町あげての夏祭りは山車はいくつも出す・・・夏祭って神社には無関係だった?
こんな地域では、神社造って維持し続ける理由は無いです。
どこの地域にも神社があるという思い込みは捨ててください。
長浜氏は、大和朝廷の邪馬台国併合を垂仁・景行天皇(290~320)あたりに置いています。
大和朝廷の支配が北九州に及ぶまでには、邪馬台国は滅んでいたと思われます。
~大和朝廷は、邪馬台国の存在が魏志倭人伝に書かれていることを認知していたようですが、それが
どこにあったのか分からなかったのです。
現地近くの人々に聞き回ったことは確実ですが、誰の記憶にも残っていなかったということです。
~山や塚にだけ名前が残っているようです。後世の偽作か?
卑弥呼の属する集団が卑弥呼が生きている間に、神道に接する機会は金輪際無かったのです。
そしてその集団が大和朝廷支配下に下ったとしても卑弥呼を祭る神社は造らなかった=そこまで卑弥呼を敬う集団は
残っていなかったのです。
~卑弥呼を祭る神社が無い=卑弥呼はいなかったというのは時代の宗教の伝搬を無視した暴論です。
でも卑弥呼は、巫女をやらされるような宗教集団にはいたようでは、あります。
これが、縄文人に共通な宗教だった可能性はあります。
でも、邪馬台国にしろ、奴国にしろ、そして熊襲や隼人にも神社を造るような宗教は持っていなかった
のです。
~卑弥呼の墓とされる古墳もあるようですから、そこが発掘調査されたら何か出てくかもです。
天皇支配下にあった・なった集団には神社を造り先祖を祭る習慣が伝わったのです。
一方、大和朝廷と対立する集団には、墳墓、塚、陵などを造ることはあっても、
神社を造ることはなかったから先祖の口伝が残る程度だったのです。
~口伝などは、天皇家の指示で造られた各地の風土記で残されることになりました。
卑弥呼の口伝が残らなかったと言うことは戦いで負けて全滅してしまい、忘れ去られるほどの
年月が経過していたからというのもありそうです。
秦始皇帝を祭っているのは、日本に流れてきた弓月氏が秦氏と改名し、自分たちは秦始皇帝の
子孫であると吹聴して祭ったのが理由でしょう。
まったく無関係の人を祭ったのではないのです。
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