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感染症の終わらせ方 小名木善行記事 WiLL2023/6

2023-05-04 08:57:40 | 本と雑誌
WiLL 2023年6月号の連載記事です。

縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
2019.06.25
の記事が引用されています。

元記事です:
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体の塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。

 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 ~大陸から多数の渡来があって弥生人が成立したとする説の影響を激しく受けていて、これが縄文人だと決めた遺伝子を持つ方々だけに限定したようです。
  通常の日本人のY染色体を調べたものには、大陸系の人と判定できる程の人って、ほとんど見かけないようでけど。
  まあ、大陸人と異なる遺伝子型なら、縄文人には違いないでしょう。
  ~先輩教授が全員、鬼籍に入らない限り直せないんでしょうが、後輩も自分たち先輩を否定できないだろうから永久に直らないかも。

 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 ~この推定も渡来弥生人ありの影響です。稲作も水田も縄文時代には始まっています。
  ~マジに多数の渡来人が来たら、たとえ豊作であっても飢饉が始まります。さらに秋以降に来てくれないと蓄えの
   食料も無いのです。1年分の食料(+種など)を持参して移民できると考えるのは脳天気というものです。
   近代・現代の移民・流民の常態を見てください。それが古代から変わらぬ実態なのです。
  水田稲作や備蓄が完成したと思われる江戸時代ですら、飢饉では多数の死者を出しています。飢饉を甘く見ないことです。
  昭和時代ですら、飢饉では子女の身売りでしのいでいたのです。


さて:
小名木氏の推理は、2500年前の人口減少は崇神天皇の時代の記紀に記す疫病が原因であるとしています。
長すぎる皇紀に従えば、2600年前が神武天皇です。
この長すぎる皇紀では10代の崇神天皇は皇紀563年(BC97~BC30)
あたりになるようです。すると崇神天皇は2037年前の天皇となり、年代が
大きくはずれます。よって皇紀が正しいとすると時代が合いません。

神武天皇はBC70年即位という研究があり、そちらによれば崇神天皇は西暦291年
あたりとなり魏志倭人伝、卑弥呼の時代にあたります。
 ~こちらでは、2600年前の飢饉は記紀にも残らない遙かに昔のことになります。

崇神天皇は神社の整理を行い、手水舎の設置浸透によってか疫病も収束したようです。
この時代、北九州は、邪馬台国その他の群雄割拠にありました。よって天皇支配下になら
存在した神社は北九州方面には未だ無かったと考えられます。
天皇の支配が及んでいない地域は疫病による人口減少が激しく、兵士の数の差もあって
天皇支配がすんなりと進んでいったとも考えられます。
 ~卑弥呼が祭られた時、そこに神社はまだ無かったのです。
  卑弥呼は巫女ではあっても神道の巫女ではなかったのです。
  巫女がいない神社は有っても神主がいない神社は、まずあり得ないのですから。
  ~現代でも一人の神主が地域全部の神社の神主を兼ねていたりします。

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