![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/40/281e0fcff7f7fdc390e7ee41de4cd2cf.jpg)
最近、坐禅をします。
ちょっと前までは15分位がやっとだったのですが、一時間位は坐っていられるようになりました。
結跏趺坐も10分位なら我慢できるようになりました。
だからと言って、別段心境に変化があったわけではないのですが。
ま、体がやっと坐禅できる体になったということです。
ぼくみたいな体の固い人が座禅を組むのは容易ではありません。
長い間、文字通り4の字固めを掛けられているような状態でした。
これはぼくとしては非常に大きな進歩です。
坐禅をしようと思えば、いつでも苦痛を恐れることなく、できるわけですから。
雑念がわらわらと沸きます。
かまわず、吐く息、吸う息に集中します。
ちょっと油断すると、また雑念が沸いています。
また吐く息、吸う息に戻ります。
すると、徐々に視界に焦点が合わなくなり、息だけの世界になります。
それだけのことなんですが、それだけでいいのが坐禅です。
もちろん、ほんの入り口にようやく辿りついたという感じです。
とにかく息だけの世界から離れないこと。
そんな感じでやっています。
自分の感情や、体の訴える苦情に耳を貸さないという点では滝行と一緒です。
滝行は一瞬の意識の集中が必要とされますが、坐禅は徐々に集中を集めていきます。
どちらも無念無想が理想的です。
無念無想の先になにかがあるもよし、なにもなくてもよし、という感じで座に坐り、滝に入ります。
人の頭の中は、ほうっておくとあっという間に雑念が跳梁跋扈します。
考えることより、考えないことのほうがはるかに難しいです。
ぐるぐるぐるぐると、いつまでもどうでもいい考えの断片が頭の中を駆け巡っています。
どうでもいいことはどうでもいいと認めるところから始めなければなりませんが、
どうでもいいと認めようとしないのが、雑念であり、感情です。
どうでもいいことに振り回されて時間を費やしてしまうのが、人の常です。
こうやって、いろいろ修行しなければ、無念無想になれないというのも本来的にはおかしな話ではあります。
子供のころ、森の中で昆虫を取ったり、川で魚を取っている時は、雑念もなにもなかったはずです。
カブトムシになりきり、鮎やドジョウになりきっていたはずなんですが。
自我が発達するにつれて、「分別」というやつが身に染み付いてくるんですね。
これをいったん解体しないと、対象と一体となるという境地は不可能になります。
厄介です。
坐禅をしたり、滝に打たれる自分とは何かなんてやりだしたら、それこそ分別の渦に飲み込まれてしまいます。
心と体が澄み切ったときに、おそらく自然が自分に入り込んでくるのだと思います。
自然を対象として見ているうちは、「分別心」で自然を見ていることになり、
人に「分別心」がある限り、自然は人の心に入って来れないのだと思います。
人と万物は本来一体であるという境地は、はるか遠くにありそうなのですが、この間近の心次第だということなのでしょう。
ちょっと前までは15分位がやっとだったのですが、一時間位は坐っていられるようになりました。
結跏趺坐も10分位なら我慢できるようになりました。
だからと言って、別段心境に変化があったわけではないのですが。
ま、体がやっと坐禅できる体になったということです。
ぼくみたいな体の固い人が座禅を組むのは容易ではありません。
長い間、文字通り4の字固めを掛けられているような状態でした。
これはぼくとしては非常に大きな進歩です。
坐禅をしようと思えば、いつでも苦痛を恐れることなく、できるわけですから。
雑念がわらわらと沸きます。
かまわず、吐く息、吸う息に集中します。
ちょっと油断すると、また雑念が沸いています。
また吐く息、吸う息に戻ります。
すると、徐々に視界に焦点が合わなくなり、息だけの世界になります。
それだけのことなんですが、それだけでいいのが坐禅です。
もちろん、ほんの入り口にようやく辿りついたという感じです。
とにかく息だけの世界から離れないこと。
そんな感じでやっています。
自分の感情や、体の訴える苦情に耳を貸さないという点では滝行と一緒です。
滝行は一瞬の意識の集中が必要とされますが、坐禅は徐々に集中を集めていきます。
どちらも無念無想が理想的です。
無念無想の先になにかがあるもよし、なにもなくてもよし、という感じで座に坐り、滝に入ります。
人の頭の中は、ほうっておくとあっという間に雑念が跳梁跋扈します。
考えることより、考えないことのほうがはるかに難しいです。
ぐるぐるぐるぐると、いつまでもどうでもいい考えの断片が頭の中を駆け巡っています。
どうでもいいことはどうでもいいと認めるところから始めなければなりませんが、
どうでもいいと認めようとしないのが、雑念であり、感情です。
どうでもいいことに振り回されて時間を費やしてしまうのが、人の常です。
こうやって、いろいろ修行しなければ、無念無想になれないというのも本来的にはおかしな話ではあります。
子供のころ、森の中で昆虫を取ったり、川で魚を取っている時は、雑念もなにもなかったはずです。
カブトムシになりきり、鮎やドジョウになりきっていたはずなんですが。
自我が発達するにつれて、「分別」というやつが身に染み付いてくるんですね。
これをいったん解体しないと、対象と一体となるという境地は不可能になります。
厄介です。
坐禅をしたり、滝に打たれる自分とは何かなんてやりだしたら、それこそ分別の渦に飲み込まれてしまいます。
心と体が澄み切ったときに、おそらく自然が自分に入り込んでくるのだと思います。
自然を対象として見ているうちは、「分別心」で自然を見ていることになり、
人に「分別心」がある限り、自然は人の心に入って来れないのだと思います。
人と万物は本来一体であるという境地は、はるか遠くにありそうなのですが、この間近の心次第だということなのでしょう。
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