風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

2005年11月12日 | スピリチュアル
このところ少年少女による異様な事件が立て続けに起こっています。
詳細を知れば、少年少女の心の闇が覗けるかというと、そうはいかないとぼくは思います。
テレビのレポーターやらコメンテイターやらがいくらほじくっても、殺意の在り処は見つけることができないでしょう。

こういう異様な人間の造形は、ドストエフスキーが鬼気迫る才能を発揮しました。
「罪と罰」のスヴィドリガイロフや「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフなどという、
地獄の闇から抜け出てきたような人間を描き出すのがとてつもなくリアルで上手でした。

絶望と虚無による殺人というのは、怨恨や金銭がらみなどによる殺人よりもはるかに闇が深いです。
虚無的人間は、自己存在の「試し」として、人を殺すことがあります。
他者の生命を断ち切るという行為に参加することにより、自己の生命を確認できるかのような幻想を持ちます。
そこに、憎いとか、どうしたいとか、感情的なものは介在しません。
殺す手ごたえ、それ自体が目的化されるのです。

昔から虚無的な人間というのはいましたが、15,6の少年や少女がかくも底なしに虚無的になってしまうところに、
現代社会の病理があります。

動機がないままに人を殺せるというのは、生命の実感というものを完全に失った状態です。
他者や万物は記号の羅列に過ぎず、自分の存在と全くリンクしていません。
母親でさえ、空気と同じ浮遊物に過ぎません。
浮遊物が、あれこれと自分に干渉してくることに堪えられなくなります。

これ以上ないというくらいに、不愉快な話です。
そういう息子や娘の動向や性向を察知できなかった親も親だと思うのですが、
なんにせよ、薄気味の悪い話です。
聞くところによると、母親を毒殺しかけた娘の父親はパチンコ好きで、
母親は娘を医大に行かせたかったらしいです。
伝聞でこういうことを言うのもなんですが、それぞれの心がばらばらになった家族像が目に浮かびます。

日常のそこかしこに光の届かない深遠が口を開き始めたという気がします。
長年に渡って、大切にすべきものを大切にせず、倫理的感覚を失くし、宗教的な感受性を捨ててきたツケが、
これからの時代に巡ってくるような気がしてなりません。

そのような闇の波動に引き付けられないようにしなければなりません。
難しいことではありません。
「自分がよければよい」という態度は、闇の引力に抗する力がもっとも弱い態度です。
逆に、他人の笑顔に奉仕する態度は、闇の引力は及びません。
一生懸命他人に奉仕しているときに、虚無が忍び込む隙間はなくなります。
与える者と、与えられる者が共に笑う時、そこには光しかありません。

自然の懐へ飛び込むと、そこかしこに光溢れる光景が見られます。
森にも、海にも、野原にも、生命が躍動し、雲が流れ、本物の光が反射しています。
この少年や少女たちは、蛍光灯の光の下で、スイッチ一つで再生可能なバーチャルの世界で生きてきたのでしょう。
陳腐なもの言いですが。
都会は陳腐を嫌います。
陳腐を嫌って、新奇をてらったまがい物に囲まれ、大本を失い続けています。
陳腐なものに魂を込めたとき、本道になります。
家族の関係でも、作物を作るのでも、商売をするのも、工夫は要りますが、なんら新奇なやり方である必要はありません。
古来からの、陳腐な教えが、いざという時に役に立つ時が多いのです。

嫌な時代だからこそ、光の道を歩み続けようとする人たちは、いよいよ輝いて生きなければなりません。
虚無の闇の溺れかけた人たちにも、はっきり見える道しるべとならなければなりません。

大袈裟な言い方ですが、でも、それしか道はないような気がします。







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