風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

課題

2005年11月11日 | スピリチュアル
人の持って生まれた運命の流れに従って人は生きます。
と、書きますと、運命というとなんか定まったレールの上を歩くのかという疑問がもたれますが、そうではありません。
前世のカルマの解消としての課題を与えられた上で、それぞれの人生の出来事がそれぞれの人にとっての解決すべき課題として、
次から次へと立ち現れてくるという意味での、運命です。
と、書きますと、前世ってなんだ、カルマってなんだという話になるんでしょうけれども、省きます。
ひとつの仮説としての話として聞いてもらえればいいかと思います。

人間関係で悩む人、自己実現で悩む人、お金で悩む人、家族で悩む人、欲で悩む人、その人の持つカルマの傾向、
現実問題に立ち上がってくる課題の傾向というのは、人それぞれにあります。

どうしてだか、自分を不幸にするようなタイプの異性に何度も懲りずに引き付けられてしまう人。
世間から身を引いて、引きこもりがちな人。
人を信じられない人。
意味もなく権威的なものに反発を感じる人。
その逆に、権威的なものに頼りたくなる人。
生きていることがすぐどうでもよくなってしまう人。
自分勝手に物事を処理しようとしてしまう人。
自分の感情を抑制できない人。
逆に、感情をそのまま表現できない人。

あげていけば、人の数だけそれぞれの人が持つ課題の傾向というのがあります。
それが前世のカルマとかいうものではなく、遺伝とか、幼少期の育てられ方だとか、人間関係のトラウマだとかという捉え方で、
人間性の傾向を捉えようとするのが心理学なのでしょうが、何でもかんでもそれぞれの持つ人間性の傾向が、
幼少期の遺伝だとか環境だとか人間関係に帰納できるとは思いません。
帰納できるようなこともあるにはあるのですが、そういう遺伝を受け、体験を幼少期にするということを自体が、
ぼくはカルマ的なものだ思うわけです。

そういう意味で、近頃は「前世療法」などといって、退行催眠などの方法を使って、
過去生まで記憶を辿り、今生の課題を認識することなどが試みられるようになりました。

こういう試みのベースとなる考え方は、生命というのは、魂の進歩のための舞台装置であるというか、
目に見えない生命エネルギーが、その進化のために、より粗雑な物質界で自らを挑戦させるためのもの、といえるかもしれません。

言うまでもなく、現世にはいろいろなタイプの苦悩、苦しみ、悲しみというのがあります。
それを乗り越えれば、人は新たな精神的境地を得ることができますが、
乗り越えられなければ、己自身の生を、あるいは他者を、世間を恨んだり呪うこともあります。
普通に生きていれば、いやおうなく次から次へと不幸の種となるようなことはやってきますが、
人間的に成長するにつれて、不幸な種になりえるような種を、幸福の種に転化でるような知恵や能力がついてくるのも事実です。

こういう考え方から言えば、解脱というのは、現世において不幸の種となるべきものが一切消えた
意識のあり方を言うのかもしれません。

物事は、心の持ちようでどうにでも見れるのは周知の通りです。
で、その心の持ちよう、心の傾向というものがどこから来るのか、というのが分からないと、
なかなか心のあり方というのは変えられるものではありません。

自らの心の傾向を知り、なぜその心が次々と課題を必要とするのかを知り、
課題を乗り越えた先に何があるのかを知りたいと思うわけです。

ぼくが何を言いたいかというと、こういうことは、求めれば、知りたい時に知れるようになっている気がするということです。
求める気持ちがない時に、あるいは必要ではないときに、こういう情報は無価値かもしれませんし。

なんかこの辺りの情報が、このところ急速に流れ込んでいるものですから、ちょっと書いてみました。
書名などの具体的な情報にかんして知りたい方は、メールくだされば。

torut21@mail.goo.ne.jp