今日はなんか慌しい一日でした。
で、なにも書きたいことが思い浮かばないので、日めくりから。
「『聖なるもの』を見る視座がなければ、人間の尊厳という思想の根はできない」 A. アタイデ
A. アタイデという人物をぼくは知りませんが、その通りだと思います。
理屈や理論をいくら敷衍しても、人間の尊厳やら人権やらといった理念には辿りつかないと思います。
理念が法理論に基づくのではなく、法理論が理念に基づくべきであろうかと思います。
その理念が、恣意的な時代的・社会的制約を受けたドグマやイデオロギーであっては、非常に窮屈な法理論にならざるを得ません。
現代では、言うまでもなく、『聖なるもの』ということについて語るのは、非常に難しくなりました。
カミと呼ばれるものについて語ることは、とても神経を使います。
あくまでも個々人の意識に基づいて思想を構成すべきなのか、
あるいは個人の意識を超越した何らかの「聖なるもの」を想定して、思想を語ることが許されるべきなのか。
難しいですね。
語ることからさえも超越するのが「聖なるもの」なのですから。
いうなれば、個々人の制約された思想信条と、「聖なるもの」の音にならない語りかけとのせめぎあいが、この世なのでしょう。
で、なにも書きたいことが思い浮かばないので、日めくりから。
「『聖なるもの』を見る視座がなければ、人間の尊厳という思想の根はできない」 A. アタイデ
A. アタイデという人物をぼくは知りませんが、その通りだと思います。
理屈や理論をいくら敷衍しても、人間の尊厳やら人権やらといった理念には辿りつかないと思います。
理念が法理論に基づくのではなく、法理論が理念に基づくべきであろうかと思います。
その理念が、恣意的な時代的・社会的制約を受けたドグマやイデオロギーであっては、非常に窮屈な法理論にならざるを得ません。
現代では、言うまでもなく、『聖なるもの』ということについて語るのは、非常に難しくなりました。
カミと呼ばれるものについて語ることは、とても神経を使います。
あくまでも個々人の意識に基づいて思想を構成すべきなのか、
あるいは個人の意識を超越した何らかの「聖なるもの」を想定して、思想を語ることが許されるべきなのか。
難しいですね。
語ることからさえも超越するのが「聖なるもの」なのですから。
いうなれば、個々人の制約された思想信条と、「聖なるもの」の音にならない語りかけとのせめぎあいが、この世なのでしょう。