風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

無為

2005年11月02日 | スピリチュアル
このところ新しいお客さんがふらりと来ては買ってくれます。
ここ数年なかったことなんですが。
この流れが続くといいんですが。

毎日、自宅と店の神棚にお祈りします。
今までも商売繁盛を祈念してはいたのですが、なんか本気になれなかったのですが、
このところ本気で祈念していました。
商売から逃げると、そのほかすべてからも逃げるからくりになっていたからです。
また、例のごとく自らの幸運な流れを、自ら否定・放棄するようなことはせず、感謝で合掌します。

ある本で、自分の今生の課題を言い当てられ、かなり深く動揺していたところです。
なるほどなーと思うことしきりです。
なんという無駄な時間を過ごしてきたんだと痛切に思います。
でも、すべては必要不可欠の過程でもあったことを忘れてはいけないんです。
自分の都合や、快不快で、必要な過程を経ることを省くわけにはいきません。
目の前に与えられた階段を快活に登っていくことさえできたら、それでいいんです。
こんな階段は登りたくないだの、別にもっと快適な階段があるはずだの、余計な考えが多すぎるんです。

不毛なことというのは人生の中にはひとつもありません。
不毛な考えというのはあります。
ないものねだりと、愚痴です。

道を楽しく歩くか、不平を言って歩くか。
その違いしかありません。
正しい道とか間違っている道という区別はありません。
全く同じ道を歩いているのに、不平を言って地獄道にする人があり、
感謝の念で心豊かな極楽道にする人がいるだけです。

狡猾なぼくは、そういうことは知っていました。
で、考えたわけです、知恵のない頭で。
歩かなければ、不平も出ることがないし、感謝をいちいちすることもないんじゃないか、と。
要するに、じっと無為のなかにとどまれば、善悪、幸不幸の際限のない桎梏から逃れることができるんじゃないかと。

その上、無為は一見無欲に似ているものだから、なおさらたちが悪かったです。
無為というのは、もっとも傲慢なものが選択する賢しらな地獄道です。
自分は安全圏にいて、他者の好意と恩恵を貪るだけなのです。

どうやら、そこから抜け出す時期が来たようです。
特別、正確やすることを変えるとかいうことではありません。
ただ、心から気がつけばいいのでした。

気がつけば、目の前に道が広がっています。
目をやれば、空は広がり、道端には花も咲いて、人々が行きかいます。
そういうものに目をやらないできただけなのです。

やれやれ、です。