風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

先物

2005年11月08日 | 世相
昨日古い友人が訪ねてきてくれたので、つい昔のペースで酒を飲みました。
ちょっと前まで酒が残っていて、往生しました。

しばらく鳴りを潜めていたのですが、先物取引の勧誘がまたしつこくなってきました。
まず本人か本人の兄弟がぼくの高校の後輩だということで電話をかけてきます。←もちろんウソ
で、近所に来る用事があるから挨拶に来たいという手法です。

何年か前、見事に騙されて会ったわけですが、ぼくの後輩のはずなのに、高校の話は一切しません(笑)
勢いに任せて、とにかくしゃべるわけです。
勢いで契約してしまう人もいるんでしょう。
あくまでも契約を断ると、悲しそうな顔をします。
一契約いくらで、かなりの額の歩合を貰い損ねるからでしょう。

もう、気合だけで人様の金を分捕るという仕事ですね。
これだけ気合と情熱があれば、他のまともな仕事をしたほうが余程収入にも、出世にもなるだろうにと思いますが、
彼らはそうは思わないのでしょう。

今日も飛び込みで先物セールスマンが来ました。
物腰ですぐに先物セールスマンだと分かります。
名刺をくれたのたので、すかさず「先物でしょ?興味も金もないから話はいいよ」と言ってやりました。
そういう断りの話は耳を貸さないという彼らのマニュアルどおり、灯油がお勧めだとか何とか話し出します。
「話は聞かないよ」と3度はっきり言ったら、ようやく話をやめました。
では、名刺だけでも下さいと言うのですが、名刺は切らしていたので、名刺は切らしていると言いました。
彼の顔が少しびっくりしています。
多分ぼくが意地悪していると思ったのでしょう。
その時にちょうどお客さんが入ってきました。
彼は、机の上にあった彼の名刺をひったくるようにして取ると、店を出て行きました。

彼らが世の中をどういう風な目で見ているのか、少しだけ興味があります。
元気溌剌に、世の中にだぶついているお金を毟り取るということなんでしょうか。
彼らを見ていて、ちっとも不快にないのは、彼らに罪悪感がないからなのでしょう。
なんだかもったいないなぁとはいつも思います。
ぼくの扱っている商品を、彼らの情熱で売れば、彼らはすぐにでも金持ちになれるのに、と思います。

なかなか世の中は面白いです。
みな何かを過剰に持っており、何かが欠落しています。
具足円満への道のりはそれぞれ辛くて遠いものなのでしょう。
勘違いを積み重ねて、それでも一歩一歩前に踏み出していかなければなりません。
勘違いを勘違いと知るまでが長いんですね、これが。

ぼくなんかちょっと肩を叩けば、勘違いが肩からばさばさ地面に落ちます。
頭を叩けば、やっぱりばさばさ落ちます。
どこもかしこも勘違いだらけです。
勘違いで全身を簀巻きにしているようなものです。

ま、頑張りましょう。



白駒池

2005年11月07日 | 
木漏れ日眩しい白樺の林を抜け、苔むす古い杉の林を抜け、しんと静まり返った湿地を抜け視界が開けると、突然湖が現れる。
晩秋の風が湖面を銀色に波立たせている。
空には鉛色の雲が速い速度で流れ、今にも雪が降ってきそうな気配。
湖畔の朽ちかけた木のベンチに腰を下ろし、リュックからガスバーナーとコッヘルを取り出し湯を沸かす。
耳を澄ますと、時折吹く風に、梢に残った枯葉がかさかさ鳴る。

湯が沸き、カップにコーヒーの粉を入れ、湯を注ぐ。
冷え切った両手にカップの温もりが心地よい。
背中を伝っていた汗が急速に冷えていくのを感じながら、コーヒーをすする。

ここに来るのは何度目だろう。
来るたびに違う表情があり、違う感触がある。
ぼくの表情も心模様も、来るたびに違っているに違いない。
言葉の通じぬ同士、互いに風に吹かれている。
いつかぼくにも分かる言葉が風に乗って流れてくることを待っている。

言葉が流れてこないので、ぼくはあちこちに目を凝らす。
見落としがないようにと、目をさまよわせる。
葉をすっかり落としてしまった湖畔の黒い木々。
水辺に打ち寄せられた白々とした流木。
濁流のように流れる厚い雲。

圧倒的に意味を含んでいながら、ぼくにはその意味が分からない。
もどかしいままに、ぼくの体は冷え切っていく。

ぼくはコーヒーをもう一杯飲もうかどうかを迷う。
目的地はまだ遠い。
あと二山越えなければならない。
風が時折強く吹く。
枝と枝が擦りあう音がする。

今度もまた言葉を聞き損ねた。

と、ぼくは突然気がつく。
言葉を聞こうとしているだけで、ぼくからは何の言葉も発していないことに。

ぼくは湖面を、木々を、空を、ぼくが見ているつもりだった。
でも、ぼくが湖から、木々から、空から見られていたのだ。

ぼくは苦笑いをして、立ち上がり、リュックにガスバーナーとコッヘルとカップを仕舞う。
最後にもう一度、湖面を見る。
音も立てず銀色に波立たせていた。












メディア

2005年11月05日 | 世相
今朝は一週間ぶりの滝行でした。
水の冷たさに体が慣れるまで、少し時間がかかりました。
これから冬に向けて、週一日ではだめかもしれません。

で、フランスでの暴動、8日経っても収まらず、1200台の車が破壊され、身体障害者の女性が焼き殺されたそうです。
移民の鬱積したストレスが暴発しているのでしょうが、事件の詳細はどこかで報道されましたか?
いろいろな問題を含んでいますよね。

・パリとその近郊での暴動を治安当局が一週間以上にも渡って収めることができないという事実
・移民と地元住民との軋轢
・警察権力の移民に対する対応
・発端となった事件の詳細
・女性が殺された理由

パリだったら特派員も大勢いるだろうし、ロンドンからもすぐ行けるだろうし、
どうして事件の詳細が伝わってこないのか、不思議というか、相変わらずというか・・・

殺人が主体ではなく、車の破壊ということが主体だとすれば、
武器を持った暴徒ではなく、一般市民が暴れているのでしょう。
ぼくがジャーナリストなら、張り切ってパリ市警と暴徒にインタヴューを取りに行くんですけどね。

北朝鮮に亡命して昨日帰国した女性のテレビ朝日のインタヴューも見ましたが、
その女性の異様さに加えて、インタヴュー自体からして明らかに異様ですよね。
そもそもなぜ亡命したのかという理由も聞かないし、コメンテーターは歯切れが悪いこと甚だしいし。
監禁状態にあったという当の女性に、数ヶ月前、あの北朝鮮でテレビ朝日は独占インタヴューしているし。
監禁状態の女性に日本の一民間テレビ局がインタヴューを許すような北朝鮮ではないことは誰でも知っていることなのですが。
なにもかも、水面下で取り決められた茶番だともろ分かりです。

ま、いつものことですけど。

それから、ネット上では、関西のジェンダーフリー論者の女性が、地元民の涙ながらの制止の懇願を振り切って、
女人禁制の奈良県天川村の大峰山に登頂したことが話題になっています。
後でお互いに話し合いをしようと取り決めておいて、地元民がその場を離れた隙に目を盗んで登頂したのだそうです。

大峰山は修験道のメッカで、1300年ほど前から女人禁制を貫いてきました。
男でも奥駆けと呼ばれる修行には、壮年の男でも命の危険が付きまとう厳しい山です。
己の煩悩と命懸けの戦いを挑む修験の山に、なぜ禁制だからという理由だけで、彼女らは結界を破ってまで
山に入らなければならないのでしょうか。

宗教に合理性を求めるほうが無理というものです。
その実、宗教を知れば知るほど深い合理性がある気づくこともあるのですが、
頭から宗教なんて迷信だと思っている人に、どんな説明も通用するわけがありません。
また説明する必要もありません。
違法行為をしない限り、信条信教の自由を「お互いに」尊重するのが民主主義です。

策略ばかりです。
政治的な策略を暴くのがマスメディアの特性だろうに、メディア自ら策略を弄する姿が目に付きます。

正々堂々した議論からしか、正々堂々とした民意は育まれるわけがありません。
何を報じ、何を報じないのかはメディアの特権です。
その特権を独占的に利用して、民意を操ろうとして恥じない勢力が予想以上に根深くあちこちの団体やら組織に巣食っています。
ここではこれ以上書きませんが。






コーヒー

2005年11月04日 | 雑感
コーヒーをマグカップで一日5-6杯は飲みます。
それほど飲みたいとも、おいしいとも思わなくなったのですが、惰性で飲みます。
昔、中東あたりでコーヒーが飲まれ始めたときは、コーヒーは滋養強壮の薬でした。
カフェインなのどに対する耐性が弱かったであろう人たちが、初めてコーヒーを飲んだときは、
今で言うところの覚醒剤みたいな効き目があったのかもしれません。

アメリカに滞在しますと、それはもうひっきりなしにコーヒーを飲みます。
ベーコンエッグとトーストの朝食時に2-3杯、会社のデスクで2-3杯、街を歩いて一休みにまた1杯という感じです。
ぼくがアメリカにいた時に、ちょうどスターバックスが全米を席巻中でした。
それまでは、どこへ行っても同じ味のいわゆるアメリカンコーヒーばかりでしたが、
スターバックスが一気にヨーロピアンテイストのコーヒーを世の中に広めていました。

ぼくが語学を学んでいた大学のカフェテリアにも、スターバックスがありました。
街の食堂やカフェテリアでは、普通コーヒー一杯が5,60セントだったのに、
スターバックスのコーヒーは、2,3ドルしました。
立ち飲みなのにずいぶんと割高なコーヒーだったわけですが、それでも大繁盛していました。

Lサイズのカフェラテを買っては、授業中ちびちび飲んでいましたが、誰にも文句を言われませんでした。
ぼく以外のみなが内心どう思っていたのかは知りませんけど(笑)

それで、思い出すのは、ぼくが学生のころです。
喫茶店というのが健在で、何かといえば喫茶店で時間を潰しました。
名曲喫茶やジャズ喫茶も文庫本を読んだり、初めてのデートには欠かせないものでした。
二回目のデートはもちろん焼き鳥屋です(笑)

大抵は煮詰まったまずいコーヒーでした。
夏は冷房が効きすぎて不愉快になるのが常でした。
眉間にしわを寄せて、構造主義の本なんぞを読んでいるのが流行でした。
ぼくも真似してみましたが、ちっとも面白くないことに気がつくのに、そう時間はかかりませんでした(笑)
若くて、かわいいウエイトレスがいる喫茶店が繁盛したのは言うまでもありません。
でも、不思議なことに、実際にウエイトレスと付き合うようになったという話は聞いたことがありません。
気取ったバカ学生の底の浅い魂胆など、見透かされていたのでしょう。
無口で気取っているくせに、スケベというのは、古今東西度し難いものがあります。

そういうふうにして、ぼくはコーヒーを大量に呑みこんできたわけです。
だからどうしたという話でもないのですが。
カフェインに対する耐性は強いです。
コーヒーを飲んだら眠れないなんていうことはありません。

ちなみに、イタリア人のコーヒー(エスプレッソ)の飲み方はかっこいいです。
カフェのカウンターにさっとやってきて、エスプレッソを頼みます。
手際よく出されたデミタスカップのエスプレッソに砂糖を数杯入れ、シャカシャカかき混ぜます。
余計なことをは一切言わず、ぐっと一口で飲み干して、小銭をカウンターにおいて、風のように店を出て行きます。

哲学書を読んでいるフリをしたり、付き合っている女の子の悪口を言ったり、下らない噂話をしたりはしません。
足を組んで、ジャズに合わせてつま先をぶらぶらさせたり、腕を組んで意味もなく眉間にしわを寄せたりもしません。
ウエイトレスをデートに誘うシーンを何度も何度も頭の中でシミレーションしたりもしません。
コーヒーは風のように頼んで、風のように飲んで、風のように去っていくべき飲み物なのです。









無為

2005年11月02日 | スピリチュアル
このところ新しいお客さんがふらりと来ては買ってくれます。
ここ数年なかったことなんですが。
この流れが続くといいんですが。

毎日、自宅と店の神棚にお祈りします。
今までも商売繁盛を祈念してはいたのですが、なんか本気になれなかったのですが、
このところ本気で祈念していました。
商売から逃げると、そのほかすべてからも逃げるからくりになっていたからです。
また、例のごとく自らの幸運な流れを、自ら否定・放棄するようなことはせず、感謝で合掌します。

ある本で、自分の今生の課題を言い当てられ、かなり深く動揺していたところです。
なるほどなーと思うことしきりです。
なんという無駄な時間を過ごしてきたんだと痛切に思います。
でも、すべては必要不可欠の過程でもあったことを忘れてはいけないんです。
自分の都合や、快不快で、必要な過程を経ることを省くわけにはいきません。
目の前に与えられた階段を快活に登っていくことさえできたら、それでいいんです。
こんな階段は登りたくないだの、別にもっと快適な階段があるはずだの、余計な考えが多すぎるんです。

不毛なことというのは人生の中にはひとつもありません。
不毛な考えというのはあります。
ないものねだりと、愚痴です。

道を楽しく歩くか、不平を言って歩くか。
その違いしかありません。
正しい道とか間違っている道という区別はありません。
全く同じ道を歩いているのに、不平を言って地獄道にする人があり、
感謝の念で心豊かな極楽道にする人がいるだけです。

狡猾なぼくは、そういうことは知っていました。
で、考えたわけです、知恵のない頭で。
歩かなければ、不平も出ることがないし、感謝をいちいちすることもないんじゃないか、と。
要するに、じっと無為のなかにとどまれば、善悪、幸不幸の際限のない桎梏から逃れることができるんじゃないかと。

その上、無為は一見無欲に似ているものだから、なおさらたちが悪かったです。
無為というのは、もっとも傲慢なものが選択する賢しらな地獄道です。
自分は安全圏にいて、他者の好意と恩恵を貪るだけなのです。

どうやら、そこから抜け出す時期が来たようです。
特別、正確やすることを変えるとかいうことではありません。
ただ、心から気がつけばいいのでした。

気がつけば、目の前に道が広がっています。
目をやれば、空は広がり、道端には花も咲いて、人々が行きかいます。
そういうものに目をやらないできただけなのです。

やれやれ、です。





水ぶくれ

2005年11月01日 | 雑感
今朝はなぜか目が早く覚めました。
朝刊も読んでしまい、テレビもつまらないので、暇をもてあましました。
と、今日は月初めであることに気がつき、神社にお参りに行きました。
先月もこんな感じで、朝、自然に目が覚め、神社に行ったような記憶があります。
ぼくにとっては自然に早く目が覚めるというのは記憶に残すべきことなのです(笑)

で、たまに早朝の街を車で走りますと、世の中では早くから人々が働いているのがわかります。
ぼくと生きている時間のサイクルが違う人々がこんなにもいることに、いつもちょっと驚きます。←バカ
毎朝、朝日を浴びて仕事に向かう人は、昼頃から、のそのそ店に出る人間とはおのずから考え方が違ってくるでしょう。
長年染み付いた生き方の時間のサイクルというか、リズムを変えるのはなかなか大変です。
習慣を変えるから考え方が変わるのか、考え方を変えて習慣を変えるのか。
どっちでももいいのですが、早起きするたびに、朝日を浴びるのは気持ちいいなぁーとは思うのです。

それにしても、後二月で今年も終わりです。
無駄に年月を繰り返すこと、鬼の如しです。
こんなものだとこの年月を快く受容するか、もっと建設的に生きるか、はっきりしろと言いたいです。>おれ

と、そういうわけで、自宅と店の榊と米と水と塩を取り替え、祝詞を上げました。
こういうところは大いにぼくも進歩しました。

来年には、四国で展示会をすることになりました。
山口方面でも、なんか動くかもしれません。
こうして、人が話を持ってきてくれるのを待っているだけなんですが。

四国といえば、お遍路です。
多分一番札所くらいは回って来れそうです。

人生が水の流れだとしたら、どこをどんな形で流れようとかまわないんですが、澱んではだめですね。
お花畑の中を流れたいとか、高いところを流れたいとかはあんまり思わないんです、ぼくは。
ただ、窪みに溜まって、澱んでしまう癖があるんですね。
澱んで、日向ぼっこというのを好むんです。←あはは

そういえば、ぼくは四柱推命によると、「水」だらけらしいです。
どんな信念も思考も流れ出てしまいます。←大袈裟
こういう偏った要素を過分に持つ者にとって重要なことは、お互いに補えるパートーナーということらしいです。
人の情熱やら、誠意やらに「水」を差してばかりいないだろうかと、ちょっと心配です。
でも「炎」だらけの人と一緒になったら、お互い殺しあって壮絶なことになりそうです。

「水」「土」「金」「木」「炎」がバランスよく配置されるような、人との関係、社会とのかかわりを持てれば、
幸せということらしいです。
水は熱がないと世界を循環しません(海→雲→川)。
木は土と水がなければ生存できません。
木は金属で切られて、有効活用され、薪になり、炎になります。
金属は土を炎で熔かされて生成されます。
すべては持ちつ持たれつです。

水ぶくれ野郎は、そこの所を大いに反省・留意しながら生きていかねばなりません。