tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

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経済成長は何処へ行った(4) ダブルデフレの中で解ったこと

2019年06月20日 22時59分20秒 | 経済
経済成長は何処へ行った(4) ダブルデフレの中で解ったこと
 日本経済の変調は、プラザ合意による円高で始まりました。円高とは、ご承知のようにドル建て(国際標準)で、切上げ幅だけ「日本のコストと物価が同時に上がる」という事です。

 円レートが$1=¥240円から120円と2倍になったことで、アメリカでは日本車の値段は2倍になります。航空運賃はアメリカ切符を買えば従来通りですが、日本からアメリカに帰る切符を日本で買えばドルでは金額が2倍になります。当時は国際電話料金は高いものでしたが、日本からアメリカにかけるとアメリカから日本にかける場合の2倍の料金がかかります。

 競争力を失ったのは製造業だけではありません、賃金もドル建てでは2倍なったわけですから、サービス料金も日本ではドル建てで大幅高になり、日本のタクシー料金は、国際比較すれば、世界一高いといわれました。日本で2~3泊の旅行の予算で1週間の海外旅行は楽にできるとも言われ、海外旅行はブームになりました。

 製造業の工場も、日本人の消費行動も海外に流れ、国内は空洞化することになりました。国内経済活動は不振となり、経済成長率は次第にマイナスになっていきました。
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 こうしたことはすべて為替レートの変更、「円高」の結果です。
これを誰にもわかるように巧く説明することは結構難しいことで、tnlabo では「 為替レートとゴルフのハンディ」という形で説明してきました。
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 プラザ合意の後、(アメリカの意向を受けた)内需拡大政策で土地バブル経済になったため、バブルに浮かれ円高の恐ろしさは一時的に見えなくなったようです。そしてそれが見えてきたのはバブル崩壊後で、日本経済は改めて円高の苦難に呻吟します。

改めて、当時の経済成長率の推移を見てみましょう。

当時の経済成長率(1985ー2001)


この図からはいろいろな事が解ります。まず、198年代後半、バブルで地価や株価、ゴルフ場の会員権などが何倍にも高騰したのに、物価の上がり方は極めて小さいことです。総合物価(GDPデフレーター::成長率の名目と実質の差)の上昇率は年3%程度です。
 バブルを日常生活に必要な物やサービスの価格に転嫁することは、殆どなかったという事です。

 石油危機の経験から、日本人はインフレ嫌いになっていましたし、円高で世界一高くなった物価水準をそれ以上に上げることは日本経済の破滅と理解していたからでしょう。
 
 そして、この時点ではっきりしてきたことは、「地価を中心に資産価値が暴落する資産デフレ」と、「世界一高くなった一般物価が海外の価格水準に向けて下がる物価のデフレ」とが一緒に起きているという事でした。 いわば「 ダブルデフレ」です。

 この2つの値下げ(経済収縮圧力)のうち、土地はバブル前の水準まで下がれば多分下げ止まるでしょう。一方、物価の方は、日本の物価水準が海外の物価水準(例えば欧米諸国の水準)まで下がり続けることになるだろうという事です。

 2倍の円高で、物価も賃金も、国際比較すれば2倍になった日本です。物価を半分に下げるには賃金も半分に下げなければなりません。
 「この不況は容易には終わらない」ということがはっきりし、そこから企業も家計も、労働組合も経営者も、何年かかるかわからない、この円高で強いられたデフレをあらゆる手段の「コストカット」で乗り切る覚悟を固めることになるのです。

 長期にわたる、いわゆる「 デフレ不況」が常態になることは明らかです。 
 このあたりから、日本経済を担う経済主体(企業・労組・消費者)経済成長などとても見込めない長期デフレを覚悟したのではないでしょうか。

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