tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

平成という時代:アメリカとの関係で見れば2

2018年01月06日 13時55分09秒 | 経済
平成という時代:アメリカとの関係で見れば2
 前回述べましたように、平成が始まって1、2年の間に起きた大変化、1990年の株価暴落、1991年の地価神話の崩壊は、すでに1985年の「プラザ合意」の段階で準備されていたことだったのです。
 一国の為替レートが、基軸通貨に対して2倍に切りあがっても、それでもなお、まともな経済を維持するなどという事は出来るはずがありません。

 日本の場合、円高と共に進むコスト高に気付くのが5年ほど遅れたのは、当時の「新・前川レポート」などで強調された「内需拡大」の美名のもとに、政府・日銀によって(アメリカの指導の下)金融緩和が実行され、金融緩和による「バブル経済の宴」に酔い、その間、真の問題に気付かずにいたからです。

 しかしバブルは何時までも続くことはありません。そして、バブル崩壊とともに起きたことは、2つの経済収縮過程(デフレーション)の併存でした。
 このブログではそれを「 ダブルデフレ」と呼びました。

 当時多くの人は、この不況はバブル崩壊のせいだと考え、「失われた10年とか20年」と言われるほど長いものになるとは思っていませんでした。しかし結果的には平成24年まで、平成という時代のほとんどを不況にしてしまうような影響力をもつものになったのです。
 その初期段階をダブルデフレと呼んだ理由は、
① 地価の下落をベースにした資産デフレが急激に進行したこと
② 日本が世界一と言われるほど高物価の国になってしまったこと(物価を下げないとやっていけない)
この2つのデフレ要因が同時に進行することになったからです。

 経過を見ますと株価は1998年末がピーク(39,000円)で、90年から暴落、93年の17,000円で一度止まります。
 地価(日本不動産研究所:市街地地価指数)は、1991年の110をピークに94年90台に下がりその後は緩やかな下げに転じます。

 つまり、地価高騰をベースにした資産バブルは3年ほどで価格水準が半分以下になるという急激な資産デフレで「一応の」整理を終えたのです。
 しかし2倍の円高で、ドル建てで2倍になった日本の物価やコスト(太宗は人件費)は、資産価格の様に急激に下げることはできません。これには10年以上の時間がかかりました。

 余計な話をしますと、1990年に、地価暴落の引き金になった土地融資の総量規制の通達を出した時の銀行局長の土田正顕にあるパーティーでお会いした折り「土地バブルの崩壊は私のせいだと言われて往生してます」とこぼされ、「土田さんはまともなことをやっただけで、悪いのはバブルを起こした方ですよ」などと慰めた事を覚えています。

 今でも「バブルの崩壊が日本経済を長期不況に陥れた」と考えている方は少なくないようですが、資産バブルだけでしたら、3年ほどで片付いたでしょう。本当は平成の長期不況の真犯人は、アメリカ主導の「プラザ合意による円高」だったのです。

 この調整には、図式的に言えば、日本が毎年1%ほど物価を下げ、日本を取り巻く国際価格が毎年2~3%ほどインフレで、日本の物価と国際価格の差が、年に数%縮小したとしても十数年でようやく日本の物価が国際価格の水準になるという気の遠くなるようなプロセスが必要だったのです。
 この競争力回復のためのコストダウンのプロセスが、 日本の経験したデフレの正体だったという事です。