tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

「教育勅語」昔と今

2017年03月18日 17時39分32秒 | 社会
「教育勅語」昔と今
 森友学園の幼稚園での教育勅語暗唱の様子をTVで見ました。
 私の時代は幼稚園では教わりませんでしたが、小学生の6年間を通して、いろいろな式の度に校長先生が恭しく読む「教育勅語」を、頭を垂れ、周りの生徒(自分も含め)の鼻水をすする音とともに聞き、いつの間にか暗唱できるようになっていました。
 今考えてみれば、「朕惟うに我が皇祖皇宗国を肇むること・・」という出だしは、神話から取ったものだという事は誰でも知っています。

 本当の日本は縄文時代の1万何千年で日本列島に閉じ込められた多様なDNAが混血から純血化し、日本人の原型が作られ、その後中国大陸や朝鮮半島などからの移民の流入があり、「倭国大乱」などという戦いの時代を経て、千数百年前に大和朝廷が誕生するというのが日本の起源だと皆知っています。
 
 現人神であった天皇が、人間宣言をされ、国民の統合の象徴になられ、神話に立脚した日本の歴史や国家観は、合理的なものに置き替わりました。
 教育勅語でよく問題になる「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」も「天壌無窮の皇運」が適切でないという事になったのでしょう。

 勿論「富国強兵」の明治の時代でも(明治23年発布)「教育に関する勅語」ですから、良いことがたくさん書いてあります。 「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦愛和し、朋友相信じ、恭倹己を持し・・」誰も文句はつけられないでしょう。

 しかし世の中は往々教えの通りには行きません。総理と籠池氏は「朋友相信じ」かと思ったら、全く違うようですし、籠池氏はどう見ても「恭倹己を持し」ていないようです。
 どう見ても信奉する教育勅語が人格や行動に繋がっていないように見えます。

 1948年に、排除・失効が確認された「教育勅語」が、亡霊のように現れ、今日の政治的混乱の一因となっているのはなぜなのでしょうか。
 亡霊というのは、あくまで亡き者を、人間が意識の中に作り上げているものでしょう。亡霊が恐ろしいのではなく、問題は亡霊を作り出している人間にあることは明らかです。

 宗教の源には、それぞれに神話があるのでしょう。神話は神話でそれなりの意味を持つことは誰も認めるでしょう。しかし、神話を現世に持出すのは、何らかの「意図」があることが多いようです。
 人類が積み上げてきた現代の知識と知恵を、より信頼することの方が、より良い明日を創ることにつながるようです。