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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【質問】 第二バチカン公会議の全ての文書を捨て去らなければならないのか?

2007年07月31日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

【質問】 第二バチカン公会議の全ての文書を捨て去らなければならないのか?

【答え】
 第二バチカン公会議の文書は、3つのカテゴリーに分類できます。

* 一部の文書は受け入れることができます。何故なら、カトリックの教義と一致しているからです。例えば「司祭の養成について」の教令がそうです。

* その他の文書は曖昧です。つまり、正しい意味において理解することができますが、同時に間違った意味にもとれます。

* 一部の文書は、正統な意味において理解されることができません。今のままでの言い回しでは受け入れることができません。例えば『信教の自由に関する宣言』がこれに当たります。

 もしも聖伝の光に照らして解釈されるなら(ルフェーブル大司教の表現)、曖昧な表現は受け入れられることが可能です。
 第3のカテゴリーの文書は、その表現が改められない限り受け入れることができません。

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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

第三章
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 主観的権利、それとも客観的権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 拘束を伴わない探求?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 対話、それとも説教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真理の宗教? それとも偽りの宗教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 誤った諸宗教の有する権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の宗教の原則が認知されないことこそ「正常な」状態?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: すべての信教の自由が最良の制度?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教の真理から独立した法的秩序?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 信教の自由: どこまでが「正しい範囲」か?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教上の問題におけるすべての人間的権力による一切の強制からの免除?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 教導権に反する『信教の自由に関する宣言』?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 『信教の自由に関する宣言』かクァンタ・クラか?

聖ピオ十世「パッシェンディ」の内容と第二バチカン公会議後の改革

2007年07月31日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、
 教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日 の「改革者としての近代主義者」の内容と大変に似通っている次の事実を紹介します。

38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは充分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。

■ 彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。(聖ピオ十世)

◆ 1917年のカトリック教会法典では、神学校で聖トマス・アクィナスの神学を学ぶことが義務であった。
 1983年のカトリック新教会法典では、その義務が無くなっている。


■ [近代主義者によれば]「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいていかなる教義も記されるべきではありません。(つまり、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものだけを教義をして記すこと)」(聖ピオ十世)

◆ 1992年、新しい『カトリック教会のカテキズム』(1992年10月11日の使徒憲章『Fidei depositum』)。


■ 礼拝について彼ら[近代主義者]が言うには「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません。」もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。(聖ピオ十世)

◆ 1968年、叙階の秘蹟の新しい儀式が出される(1968年6月18日の使徒憲章『Pontificalis romani』)。

 1969年、新しいミサが出される(1969年4月3日の使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』)。

 1969年、新しい洗礼の儀式が誕生する(1969年5月15日)。成人洗礼の新しい儀式は1972年1月6日に出る。

 1969年、新しい婚姻の儀式(1969年3月)。さらに1990年に更に新しい婚姻の儀式が出ている。

 1971年、新しい堅振の儀式(1971年8月15日の使徒憲章『Divinae consortium naturae』)。

 1972年、新しい終油の秘蹟(1972年11月30日の使徒憲章、及び1971年8月22日の教令)。

 1973年、新しい悔悛の秘跡(1973年12月2日の教令)。

 1970年、新しい聖務日課(1970年11月1日の使徒憲章『Laudis canticum』、1971年4月11日の教令)。

 1969年、新しい典礼暦(1969年2月14日自発教令『Mysterii paschalis』)。

 1970年、新しい聖香油(1970年12月3日の教令)。

 1983年、カトリック新教会法典(1983年1月25日の使徒憲章『Sacrae disciplinae leges』)。

 1991年、新しい十字架の道行き(新しい十字架の道行きには14留の代わりに15留があり、様々な変更がある)。

 1998年、新しい払魔式(Exorcismus)

 2001年、新しい殉教録(2001年6月29日発行。この中に6538名の聖人及び福者の名前が掲載されている。そのうち約3分の1である1717名はヨハネ・パウロ二世によって列聖列福された)。

 2002年、新しいロザリオの祈り(2002年10月16日の回勅『Rosarium Virginis Mariae』)。

 日本語では、新しい「天にまします」(主祷文)と「めでたし」(天使祝詞)、使徒信経の訳がある。


■ [近代主義者によれば]ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。(聖ピオ十世)

◆ 検邪聖省が「信仰教義聖省」となる

 ルフェーブル大司教は検邪聖省で長く働いておられたブラウン枢機卿にこう質問をしたことがある。

 ルフェーブル大司教 「検邪聖省(Holy Office, Sanctum Officium)が教義聖省と名称を変えたことは、ただ名前が変わっただけの本質とは関係のない表面的なことなのでしょうか?それとも本質的な抜本的な変化だったのでしょうか?」
 ブラウン枢機卿 「本質的な変化です。全く明らかです。」

 実際に、信仰の法廷は「神学探究所」に変わった。例えば、「解放の神学」についてこの「神学」とその誤謬を明確に排斥するどころか、むしろ奨励する結果を生んでしまった。何故なら、信仰の法廷であるべきものが「神学研究所」に変わったからだ。カトリック教会は真理を持っているのではなく、「共に探しているところである」という態度に変わったからだ。

 従って、第二バチカン公会議後のローマは、誤謬を排斥しない。異端を異端だと言わなくなった。ただ、1年ほど沈黙を守るように、そして「この教えはカトリックの教壇で教えられるには相応しくない」と言われるだけとなった。そのために誤謬がカトリック教会内に自由に宣伝され、教えられるようになってしまっている。

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 主観的権利、それとも客観的権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 拘束を伴わない探求?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 対話、それとも説教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真理の宗教? それとも偽りの宗教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 誤った諸宗教の有する権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の宗教の原則が認知されないことこそ「正常な」状態?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: すべての信教の自由が最良の制度?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教の真理から独立した法的秩序?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 信教の自由: どこまでが「正しい範囲」か?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教上の問題におけるすべての人間的権力による一切の強制からの免除?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 教導権に反する『信教の自由に関する宣言』?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 『信教の自由に関する宣言』かクァンタ・クラか?

第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』に即したカトリック国家に対するローマ教皇庁の政策 バチカンの圧力によるコロンビア国家の世俗化、及びルフェーブル大司教とスイスの教皇大使アンブロジオ・マルチオニ司教とのベルンでの会話
第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』に即したカトリック国家に対するローマ教皇庁の政策 スペインの世俗化、及び聖座とイタリアとの間の新しい政教条約の承認

第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』(DIGNITATIS HUMANAE)日本語訳のみ
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和1と2
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和3と4
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和5,6,7.8
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 9,10,11
第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)羅和 第二部 12,13,14,15

カトリック新聞の「教皇ベネディクト16世 朝のミサはイタリア語」を読んで

2007年07月31日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 カトリック新聞の「教皇ベネディクト16世 朝のミサはイタリア語」を読んで

 カトリック新聞は「教皇ベネディクト16世 朝のミサはイタリア語 バチカン、ラテン語説を否定」という記事を発表している。しかし日本語で記事にすることってもっと他にありそうに思う。

 何故なら「教皇が個人的なミサをトリエント公会議の典礼でささげているとする説」を紹介したのは、「教皇ベネディクトは彼の個人的なミサで古い典礼書を使う」という外電ニュースをくわしく日本語で紹介したのは「護教の盾」さんぐらいで、聖ピオ十世会では軽く触れただけ、日本中でおそらく二人だけだったのに。そんなに重要だったのかな?と思った。もし重要なら、何故それほど重要だったのだろうか? 



【参考資料:カトリック新聞】

 教皇ベネディクト16世 朝のミサはイタリア語
 バチカン、ラテン語説を否定

 教皇ベネディクト16世は毎朝のミサをイタリア語で、現行のローマ・ミサ典礼書によって共同司式している、とバチカンの報道担当者が明らかにした。
 教皇が個人的なミサをトリエント公会議の典礼でささげているとする説は誤っている、と7月17日、教皇庁広報局長のフェデリコ・ロンバルディ神父(イエズス会)が語った。
 トリエント公会議ミサは第二バチカン公会議前のラテン語による典礼で、1962年に最後の改訂版ローマ・ミサ典礼書が公布された。
 教皇が7月7日、自発教令でトリエント公会議ミサについての規制を緩和して十日もたたないうちに、教皇が個人的に古い典礼でミサをささげてきたとする報道が相次いだ。
 「こうした混乱はおそらく、教皇が祭壇に向かってミサをささげている姿の映像によって起こったと思われるが」、教皇専用の礼拝堂では、「祭壇が壁に向かっていることによるためだ」とロンバルディ神父は説明した。
 礼拝堂の祭壇が壁に向かっているために、司式者たちは奉献文を唱える間、会衆に背を向ける事になる。朝のミサに参加する会衆は主に教皇の随員や教皇居室棟で働く修道女からなっている。
 ロンバルディ神父が言及した映像は、バチカンが4月16日に教皇の誕生日に合わせて公開したミサの模様。同神父はこの映像を制作したバチカン・テレビ・センターと、教皇庁広報局、バチカン放送の責任者を務めている。
 ロンバルディ神父はさらに、教皇の二人の秘書が毎朝、教皇と共同司式していることからも、「明らかに教皇が新しいミサ典礼書を使っていることが分かる」と付け加えた。トリエント公会議ミサは厳しく共同司式を制限しているためだ。
 国際的な会衆を伴う公のミサでは、教皇は第二バチカン公会議後のミサを主司式し、ほとんどの祈りをラテン語で唱えている。しかしローマ教区の行事としてささげられる「キリストの聖体」の祭日のミサでは、会衆が国際的でも、教皇はイタリア語で祈りを唱える。



■ もとのCNSの記事は次の通りです。
Vatican spokesman: Pope concelebrates daily Mass using current missal
By Cindy Wooden
Catholic News Service

VATICAN CITY (CNS) -- Pope Benedict XVI concelebrates his daily morning Mass in Italian using the current edition of the Roman Missal, the Vatican spokesman said.

Claims that the pope celebrates his private Mass using the Tridentine rite are incorrect, Jesuit Father Federico Lombardi told Catholic News Service July 17.

The Tridentine Mass is the Latin-language liturgy that predates the Second Vatican Council; it was last revised in the 1962 edition of the Roman Missal.

Less than 10 days after Pope Benedict July 7 issued his letter and norms providing greater opportunity for the celebration of the Tridentine Mass, news reports claimed Pope Benedict already had been celebrating the old rite privately.

"The confusion probably was caused by our footage of the pope celebrating facing the altar, which is due to the fact that the altar is against the wall" in the private chapel of the Apostolic Palace, Father Lombardi said.

With the altar against the wall, the concelebrants in the private chapel end up having their backs toward the congregation during the eucharistic prayer. The congregation at the morning Mass generally is made up of the pope's valet and the consecrated women who staff the papal apartment.

The images Father Lombardi referred to were released by the Vatican to coincide with celebrations of Pope Benedict's 80th birthday April 16. Father Lombardi heads the Vatican Television Center, which produced the footage, as well as serving as director of the Vatican press office and Vatican Radio.

Father Lombardi also said the fact that the pope's two private secretaries concelebrate the Mass with him each morning "obviously means he is using the new Missal," since the Tridentine Mass strictly limits concelebration.


At public Masses with an international congregation, Pope Benedict uses the post-Vatican II Mass with most of the prayers in Latin. However, on occasions such as the feast of the Body and Blood of Christ, which is considered a Rome diocesan celebration although there is an international congregation, the pope recites the prayers in Italian.

END

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

七月一日に行われた高山右近像祝別式(小豆島新聞より)

2007年07月31日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 七月一日に行われた高山右近像祝別式のニュースをお知らせします。(小豆島新聞2007年7月10日号より)

 待望の「高山右近像祝別式」は7月1日午後1時から土庄町小豆島カトリック教会前庭で溝辺修司カトリック高松司教区司教、浜口秀昭小豆島主任神父の祝別式が荘厳のうちに進められ、梅雨の晴れ間に恵まれ八〇余名が参列。
 特に大阪から高山右近研究会の池山和男、田中庸策、友永徳市、鍋島国士の皆さんの献身的奉仕で420年ぶり小豆島に高山右近が帰ってこられた。感激もまたひとしおであった。


●高山右近祝別式記念歌
 小豆島信徒代表浜野尚作
(注:典礼聖歌集の替え歌です)

○オリーブの風薫る島で
 人びとにはなされた
 めぐみの みことばを
 私たちにも聞かせて下さい。

○小豆島教会の庭に
 右近像凛と立つ
 ちからの みことばを
 私たちにも聞かせて下さい。

○二十四の瞳の島で
 弟子(十二人)たちをさとされた
 すくいの みことばを
 私たちにも聞かせて下さい。

○十字架を我が胸に抱き
 神は愛 主をたたえ
 いのちの みことばを
 私たちにも聞かせて下さい。


【参考資料】
このほど大阪の教会より土庄町のカトリック小豆島教会に高山右近像が移設されました。高山右近はキリシタン大名でしたが棄教せず一時小豆島に潜伏していた縁があるのでこの像が来ました。ついでに隣にあるキリスト教伝来記念碑の写真も掲載します。

或る画像掲示板 より

■高山右近像:キリシタン大名の銅像、大阪・玉造教会から小豆島教会に /香川【毎日新聞 2007年6月2日より】

 ◇十字剣持ち、りりしい姿 やっとこの地に帰って来てくれた

 香川県土庄町渕崎のカトリック小豆島教会に5月28日、戦国武将でキリシタン大名としても知られる高山右近(1552-1615)の銅像が設置された。

 信仰心の強い風土をもつ小豆島は隠れキリシタンゆかりの地でもあり、江戸中期ごろ、「小豆島八十八カ所霊場」ができる以前はキリシタンの島であり、右近潜伏の地でもあった。

 設置された銅像は大阪市中央区にあるカトリック玉造教会から移設された。高さ2メートル、重さ約250キロの立像。教会関係者ら約20人が見守る中、トラックからつり上げられ、慎重に台座に据え付けられた。

 銅像は10年ほど前に、兵庫県西宮市のカトリック関係施設から玉造教会へ移されたが、同教会にはすでに右近の像があったため、移設先を検討していた。大阪府高槻市の「高槻高山右近研究会」のメンバーや「小豆島キリシタン」研究家らの働きかけで、今回の移設が実現した。修復を終えた立像は十字剣をおさえるりりしい姿をしている。・・・

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

聖ピオ十世教皇の「パッシェンディ」(Pascendi Dominici Gregis)より

2007年07月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、
 今から丁度百年前に出された、聖ピオ十世教皇の「パッシェンディ」(Pascendi Dominici Gregis)を一部をご紹介します。
【参考】教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日


改革者としての近代主義者


38.さて、私はここで、改革者としての近代主義者について少し述べておかなければなりません。これまで述べてきたことから、このような人々が抱く刷新への熱情がどれほど強く、どれほど激しいものであるかは充分すぎるほど明らかです。カトリシズムの中で、かかる熱情の対象とならぬものは、実に一つとしてありません。

 彼らは哲学が、特に神学校において刷新されることを望んでいます。彼らはスコラ哲学が哲学史の単なる一章として種々の絶対的体系の中に位置づけられること、また「唯それのみが真でありかつ私たちの生きる時代に適合したものである現代哲学」が青少年に教えられることを望んでいます。

 さらに、彼らは神学の刷新を希求しています。合理的神学は現代哲学をその基礎とし、また実証神学は教義[発達]の歴史に基づいてなされるべきである、としています。

 歴史に関していえば、歴史は彼らの方法論ならびに現代的原理にしたがって書かれ、教えられなければなりません。教義とその進化は科学と歴史とに調和されねばならない、と彼らは力説します。

 「公教要理においては、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものをのぞいていかなる教義も記されるべきではありません。(つまり、刷新されたものおよび一般の人々の理解能力の及ぶものだけを教義をして記すこと)」

 礼拝について彼らが言うには「外的な信心の数は減らされ、これ以上それが増えることのないように手段が講じられなければなりません。」もっとも、彼らの中で象徴主義を信奉する一部の者は、このことに関しては、より寛容な姿勢を見せるのですが。

 彼ら近代主義の改革者は、教会の統治機構がその全ての部門において改革されること、特に規律および教義に携わる部局の改革を声を大にして唱えます。彼らは外部に向かっても、また内部においても、「教会の統治機構が、今やことごとく民主主義を志向する現代人の意識に合致されねばならず、したがって聖職者の中でも低い階級に属する者たち、さらには一般信徒にさえも同機構において何がしかの役割が与えられるべきであること、また、過剰に一点集中している権威もまた、分権化されねばならないこと」を強く主張しています。

 [近代主義者によれば]ローマ聖省、中でも特に図書検閲聖省ならびに検邪聖省も同様に改変されなければなりません。

 教会の権威は社会的および政治的な世界において、その行動方針を変えなければなりません。すなわち、政治的機構の外にありながら、自らをそれに適合させて、これに自らの精神を浸透させることを図るべきなのです。

 道徳に関しては、彼らは活動的な徳が消極的な徳よりも重要であり、その実践が、より奨励されるべきであるとするアメリカ主義者の原理を採り入れています。彼らは「聖職者が原初の謙遜と清貧とに立ち帰り、また思想と活動において近代主義の原理を認め受け入れること」を求めます。

 さらに一部の者は、プロテスタントの教師の教えに喜んで聞き入り、「聖職者の独身制の廃止」を望んでいます。こうなると、教会の中で彼らによって、彼らの原理にしたがって改革されるべきでないものが一つでもあるでしょうか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)つづき

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第二部「信教の自由の一般原則」の12,13,14、15の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。

12(教会はキリストおよび使徒たちの模範に従う) 福音の真理に忠実な教会は、信教の自由の原則が、人間の尊厳と神の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。教会は、師と使徒たちから受けた教えを長い世紀にわたって守り、伝えてきた。人間の歴史を通って旅を続ける神の民の生活の中には、福音の精神にあまりふさわしくない行動、または、それに反するものさえあった。しかし、何人にも信仰を強制してはならないというのが、教会の一貫した教えであった。

12. Ecclesia igitur, evangelicae veritati fidelis, viam Christi et Apostolorum sequitur quando rationem libertatis religiosae tamquam dignitati hominis et Dei revelationi consonam agnoscit eamque fovet. Doctrinam a Magistro et ab Apostolis acceptam, decursu temporum, custodivit et tradidit. Etsi in vita Populi Dei, per vicissitudines historiae humanae peregrinantis, interdum exstitit modus agendi spiritui evangelico minus conformis, immo contrarius, semper tamen mansit Ecclesiae doctrina neminem esse ad fidem cogendum.


 福音の酵素は、人間が時代を下るにつれて、しだいに人格の尊厳を一般に認め、宗教問題において、人間がいかなる強制からも自由でなければならないという確信が熟するために、長い間作用し、大きく貢献した。


 13(宗教団体の権利) 教会の利益、さらには地上の国の利益にかかわりをもち、いたる所において常に保護され、あらゆる危害から守られるべきものの中で、最も貴重なものは、教会が人類の救いの事業を遂行するために必要な自由を持つことである。実際、この自由は、神のひとり子が、自分の血をもってかち得た教会に与えた聖なるものである。確かに自由は教会に固有のものであり、この自由を攻撃する者は、神の意志に反して行動することになる。教会の自由は、教会と公権およびすべての社会秩序との関係の根本原理である。
 教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、またすべての公権の前で、自由を要求する。教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会としても、自由を要求する。
 そのため、信教の自由の制度が、単に口で宣言されまた法で定められるだけでなく、誠意をもって実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる。この自律性こそ、教会当局が社会において、主張し、要求し続けてきたものである。また、キリスト信者も他の人々同様、民法上の権利をもち、自分の良心に従って生活することを妨げられてはならない。したがって、教会の自由とすべての個人および団体に権利として認められ、かつ法的に定められるべき信教の自由とは互いに一致するものである。

13. Inter ea quae ad bonum Ecclesiae, immo ad bonum ipsius terrenae civitatis spectant et ubique semperque servanda sunt atque ab omni iniuria defendenda, illud certe praestantissimum est, ut Ecclesia tanta perfruatur agendi libertate, quantam salus hominum curanda requirat.[32] Haec enim libertas sacra est, qua Unigenitus Dei Filius ditavit Ecclesiam acquisitam sanguine suo. Ecclesiae sane adeo propria est, ut qui eam impugnant, iidem contra Dei voluntatem agant. Libertas Ecclesiae est principium fundamentale in relationibus inter Ecclesiam et potestates publicas totumque ordinem civilem.

In societate humana et coram quavis potestate publica Ecclesia sibi vindicat libertatem, utpote auctoritas spiritualis, a Christo Domino constituta, cui ex divino mandato incumbit officium eundi in mundum universum et Evangelium praedicandi omni creaturae.[33] Libertatem pariter sibi vindicat Ecclesia prout est etiam societas hominum qui iure gaudent vivendi in societate civili secundum fidei christianae praescripta.[34]

Iamvero si viget ratio libertatis religiosae non solum verbis proclamata neque solum legibus sancita, sed etiam cum sinceritate in praxim deducta, tunc demum Ecclesia stabilem obtinet et iuris et facti condicionem ad necessariam in missione divina exsequenda independentiam
, quam auctoritates ecclesiasticae in societate presse pressiusque vindicarunt.[35] Simulque Christifideles, sicut et ceteri homines, iure civili gaudent ne impediantur in vita sua iuxta conscientiam agenda. Concordia igitur viget inter libertatem Ecclesiae et libertatem illam religiosam, quae omnibus hominibus et communitatibus est tanquam ius agnoscenda et in ordinatione iuridica sancienda.


 14(カトリック信者に対する勧告) カトリック教会は「行って万民に教えよ」(マテオ 28・19)という神の命に従って、「神のことばが広まり、明らかになるよう」(2テサロニケ 3・1)たゆまず働かなければならない。
 そのため、教会は、何よりもまず、信者たちに、「すべての人のため、嘆願と祈願と感謝をするように望む……実際、それはよいことであり、すべての人が救われ、真理を知るようになることを望むわれらの神なる救い主の前によろこばれることである」(1テモテ 2・1~4)。
 しかし、キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに忠実に従わなければならない。実際、キリストの意志によって真理の教師であるカトリック教会は、真理であるキリストを告げ、正しく教え、同時に人間性に基づく道徳の原理をみずからの権威をもって宣言し、確証することがその任務である。さらに、キリスト信者は、教会外部者に対して懸命にふるまい、「聖霊において、偽りない愛と真理のことばをもって」(2コリ 6・6~7)生命の光を、全き信頼と使徒的勇気をもって、おのが血を流すまでに、広げるよう努力しなければならないのである。
 実際、弟子は、師キリストから受けた真理をいっそうよく知り、福音の精神に反する手段を排して、忠実にこれを伝え、勇敢に擁護すべき重大な義務を持っている。しかし、同時にキリストの愛は、愛と賢明と忍耐をもって信仰について誤謬あるいは無知の状態にある人たちにも接するよう要求する。したがって、命を与えることばであるキリストを宣べ伝える義務と、人間の諸権利と、自発的に信仰を受け、それを公言するように召された人は、キリストを通して神から与えられた恩恵の程度とを考慮しなければならない。

14. Ecclesia catholica, ut divino obtemperet mandato: ≪docete omnes gentes≫ (Mt. 28, 19), impensa cura adlaborare debet ≪ut sermo Dei currat et clarificetur≫ (2 Thess. 3, 1).

Enixe igitur rogat Ecclesia, ut a filiis suis primum omnium fiant ≪obsecrationes, orationes, postulationes, gratiarum actiones pro omnibus hominibus... Hoc enim bonum est et acceptum coram Salvatore nostro Deo, qui omnes homines vult salvos fieri et ad agnitionem veritatis venire≫ (I Tim. 2, 1-4).

Christifideles autem in sua efformanda conscientia diligenter attendere debent ad sacram certamque Ecclesiae doctrinam.[36] Christi enim voluntate Ecclesia catholica magistra est veritatis, eiusque munus est, ut Veritatem quae Christus est enuntiet atque authentice doceat, simulque principia ordinis moralis, ex ipsa natura humana profluentia, auctoritate sua declaret atque confirmet. Insuper Christiani, in sapientia ambulantes ad eos qui foris sunt, ≪in Spiritu Sancto, in caritate non ficta, in verbo veritatis≫ (2 Cor. 6, 6-7), lumen vitae cum omni fiducia[37] et fortitudine apostolica, ad sanguinis usque effusionem, diffundere satagant.

Etenim discipulus erga Christum Magistrum gravi adstringitur officio, veritatem ab Eo receptam plenius in dies cognoscendi, annuntiandi fideliter, strenueque defendendi, exclusis mediis spiritui evangelico contrariis. Simul tamen caritas Christi urget eum, ut amanter prudenter patienter agat cum hominibus, qui in errore vel ignorantia circa fidem versantur.[38] Respiciendum igitur est tum ad officia erga Christum Verbum vivificans quod praedicandum est, tum ad humanae personae iura, tum ad mensuram gratiae a Deo per Christum tributam homini, qui ad fidem sponte accipiendam et profitendam invitatur.


 15(結語) 現代人が、私的かつ公的に宗教を自由に信奉できることを望んでいること、信教の自由が多くの国の憲法の中ですでに市民の権利として宣言され、また国際的文書によっておごそかに認められていることは確かである。
 しかし、宗教的礼拝の自由が憲法によって認められているが、市民を宗教の信奉から遠ざけ、宗教団体の生活をきわめて困難で不安にしている政府もないではない。
 公会議は、現代のこのような喜ばしいしるしを快く迎える一方、嘆かわしい事実を憂いながら、告発し、すべての人が、特に人類の現状において、信教の自由がいかに必要であるかを慎重に考慮するように切に希望する。
 実際、すべての民族が、日とともにますます一体化し、文化と宗教とを異にする人々がいっそう強いきずなで互いに結ばれ、さらに、おのおのの責任感が盛んになりつつあることは明かな事実である。したがって、人類の間に平和的な関係と和合が確立され、強化されるためには、地上いたる所において信教の自由が効果的かつ法的な保護を受け、社会において宗教生活を自由に営む人間の最高の義務と権利とが守られる必要がある。
 万民の父である神の計らいにより、社会において人類が信教の自由の制度を忠実に守り、キリストの恩恵と聖霊の力とによって、崇高にして久遠の「神の子らの栄光の自由」(ロマ 8・21)へ導かれんことを。 この教令の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。私も、キリストから私に授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父とともに、これらのことを聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるに命ずる。

ローマ聖ペトロのかたわらにて
1965年12月7日
カトリック教会の司教 パウルス自署
諸教父の署名が続く

15. Constat igitur praesentis aetatis homines optare ut libere possint religionem privatim publiceque profiteri, immo libertatem religiosam in plerisque Constitutionibus iam ut ius civile declarari et documentis internationalibus sollemniter agnosci.[39] [941]

At non desunt regimina in quibus, etsi in eorum Constitutione libertas cultus religiosi agnoscitur, tamen ipsae publicae potestates conantur cives a religione profitenda removere et communitatibus religiosis vitam perdifficilem ac periclitantem reddere.

Illa fausta huius temporis signa laeto animo salutans, haec vero deploranda facta cum maerore denuntians, Sacra Synodus Catholicos hortatur, exorat autem homines universos, ut perattente considerent quantopere libertas religiosa necessaria sit in praesenti potissimum familiae humanae condicione.

Manifestum est enim cunctas gentes magis in dies unum fieri, homines diversae culturae et religionis arctioribus inter se devinciri rationibus, augeri denique conscientiam propriae cuiusque responsabilitatis. Proinde ut pacificae relationes et concordia in genere humano instaurentur et firmentur, requiritur ut ubique terrarum libertas religiosa efficaci tutela iuridica muniatur atque observentur suprema hominum officia et iura ad vitam religiosam libere in societate ducendam.

Faxit Deus et Pater omnium ut familia humana diligenter servata libertatis religiosae ratione in societate, per gratiam Christi et virtutem Spiritus Sancti adducatur ad sublimem illam ac perennem ≪libertatem gloriae filiorum Dei≫ (Rom. 8, 21).

Haec omnia et singula quae in hac Declaratione edicta sunt, placuerunt Sacrosancti Concilii Patribus. Et Nos, Apostolica a Christo Nobis tradita potestate, illa, una cum Venerabilibus Patribus, in Spiritu Sancto approbamus, decernimus ac statuimus et quae ita synodaliter statuta sunt ad Dei gloriam promulgari iubemus.

Romae, apud S. Petrum die VII mensis decembris anno MCMLXV.
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus
Sequuntur Patrum subsignationes [941-946]

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第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)第二部

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第二部「信教の自由の一般原則」の9,10,11の日本語訳とラテン語とを掲載します。

2 啓示に照らして見た信教の自由

II. Libertas religiosa sub luce Revelationis

9(信教の自由の教えは啓示に基づいている) 本バチカン教会会議が信教の自由に関する人権について宣言することは、幾世紀の経験によって、人間の理性にいっそう明らかになった人格の尊厳の要求に基づくものである。その上、自由に関するこの教えは、神の啓示に基づいているため、キリスト者は他の人々以上に、この教えを忠実に守らなければならない。実際、啓示は、宗教問題における外的強制からの自由の権利について断定していないが、人格の尊厳を十分に示し、人間が神のことばを信ずる義務を果たす時の自由をキリストが尊敬したことを表わし、また師キリストの弟子たちが、自分のすべての行動において、心に留め、守らなければならない精神を教えている。これらすべてが、信教の自由に関するこの宣言の教えの土台となる一般原則を明らかにしている。特に、社会における信教の自由は、キリスト教の信仰の行為と完全に一致するものである。

9. Quae de iure hominis ad libertatem religiosam declarat haec Vaticana Synodus, fundamentum habent in dignitate personae, cuius exigentiae rationi humanae plenius innotuerunt per saeculorum experientiam. Immo haec doctrina de libertate radices habet in divina Revelatione, quapropter eo magis a Christianis sancte servanda est. Quamvis enim Revelatio non expresse affirmet ius ad immunitatem ab externa coercitione in re religiosa, tamen humanae personae dignitatem in tota eius amplitudine patefacit, observantiam Christi erga hominis libertatem in exsequendo officio credendi verbo Dei demonstrat, atque de spiritu nos edocet, quem discipuli talis Magistri debent in omnibus agnoscere et sequi. Quibus omnibus principia generalia illustrantur super [936] quae fundatur doctrina huius Declarationis de libertate religiosa. Praesertim libertas religiosa in societate plene est cum libertate actus fidei christianae congrua.


 10(自由と信仰行為) 神のことばに含まれ、教父たちから常に説かれたカトリック教義の主要点の一つは、人間は自由意志をもって信ずることにより神に答えなければならない、ということである。したがって、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるよう強制されてはならない。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志による行為である。なぜなら、救い主キリストからあがなわれ、イエズス・キリストによって神の養子として召された人間は、父に引かれ、信仰の合理的な、そして自由な服従を神にささげなければ、自分自身を啓示する神に同意することはできない。そのため、宗教の問題においては、人間からのあらゆる種類の強制が除かれることが信仰の性質に完全に一致する。したがって、信教の自由の制度は、人々が拘束されずにキリスト教の信仰に導かれ、自発的に受け入れ、生活の全面にわたって、それを実践できるような環境を作るために少なからず貢献する。

10. Caput est ex praecipuis doctrinae catholicae, in verbo Dei contentum et a Patribus constanter praedicatum,[8] hominem debere Deo voluntarie respondere credendo; invitum proinde neminem esse cogendum ad amplectendam fidem.[9] Etenim actus fidei ipsa sua natura voluntarius est, cum homo, a Christo Salvatore redemptus et in adoptionem filiorum per Iesum Christum vocatus,[10] Deo Sese revelanti adhaerere non possit, nisi Patre eum trahente[11] rationabile liberumque Deo praestiterit fidei obsequium. Indoli ergo fidei plene consonum est ut, in re religiosa, quodvis genus coercitionis ex parte hominum excludatur. Ac proinde ratio libertatis religiosae haud parum confert ad illum rerum statum fovendum, in quo homines expedite possint invitari ad fidem christianam, illam sponte amplecti atque eam in tota vitae ratione actuose confiteri.


 11(キリストおよび使徒たちの模範) 神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々招いている。そのため、人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。実際、人間は自分の判断で行動し、自由を行使するが、神は自分自身が創造した人間の尊厳を考慮する。このことは、神が自分自身とその道とを完全に現したイエズス・キリストにおいて、弟子たちを忍耐強く招き、召し出した。もちろん、奇跡をもって自分の説教を裏づけ、確証したが、それは、聴衆に信仰を起こさせ、それを強めるためである。圧力を加えるためではなかった。なお、聴衆の不信仰を非難したことも確かであるが、それに対する罰は、審判の日まで神に残した。使徒たちを世に派遣するとき、「信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ 16・16)とかれらに言った。しかし毒麦が麦といっしょにまかれていることを認め、世の終わりに行なわれる収穫の時まで、どちらも成長するにまかせるよう命じた。政治的なメシアになり、力による支配者になることも望まず、自分が「仕えるため、多くの人のあがないとして自分の生命を与えるために」(マルコ 10・45)来た人の子であると言うことを好んだ。キリストは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる燈心を消さない」(マテオ 12・20)神の完全なしもべの姿で現れた。「セザルのものはセザルに返し、神の物は神に返せ」(マテオ 22・21)と、セザルに対する納税を命じ、公権とその諸権利を認めたが、はっきりと、その上の神の権利を尊重するように教えた。最後に、十字架上で、あがないのわざを成就し、人々に救いと真の自由とをもたらし、その啓示を完成した。キリストは真理に証明を与えたが、それを反対者に力づくで押し付けなかった。実際、その国は敵を打つことによって守られるのではなく、真理を証明し、これを聞くことによって打ち建てられ、十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展する。

11. Deus quidem homines ad inserviendum Sibi in spiritu et veritate vocat, unde ipsi in conscientia vinciuntur, non vero coercentur. Rationem enim habet dignitatis personae humanae ab Ipso conditae, quae proprio consilio duci et libertate frui debet. Hoc autem summe apparuit in Christo Iesu, in quo Deus Seipsum ac vias suas perfecte manifestavit. [937] Etenim Christus, qui Magister et Dominus est noster,[12] idemque mitis et humilis corde,[13] discipulos patienter allexit et invitavit.[14] Miraculis utique praedicationem suam suffulsit et confirmavit, ut fidem auditorum excitaret atque comprobaret, non ut in eos coercitionem exerceret.[15]

Incredulitatem audientium certe exprobravit, sed vindictam Deo in diem Iudicii relinquendo.[16] Mittens Apostolos in mundum dixit eis: ≪Qui crediderit et baptizatus fuerit salvus erit; qui vero non crediderit condemnabitur≫ (Mc. 16, 16). Ipse vero, agnoscens zizaniam cum tritico seminatam, iussit sinere utraque crescere usque ad messem quae fiet in consummatione saeculi.[17] Nolens esse Messias politicus et vi dominans,[18] maluit se dicere Filium Hominis qui venit ≪ut ministraret et daret animam suam redemptionem pro multis≫ (Mc. 10, 45). Sese praebuit ut perfectum Servum Dei,[19] qui ≪harundinem quassatam non confringet et linum fumigans non extinguet≫ (Mt. 12, 20). Potestatem civilem eiusque iura agnovit, iubens censum dari Caesari, clare autem monuit servanda esse iura superiora Dei: ≪Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari, et quae sunt Dei Deo≫ (Mt. 22, 21). Tandem in opere redemptionis in cruce complendo, quo salutem et veram libertatem hominibus acquireret, revelationem suam perfecit. Testimonium enim perhibuit veritati,[20] eam tamen contradicentibus vi imponere noluit. Regnum enim eius non percutiendo vindicatur,[21] sed stabilitur testificando et audiendo veritatem, crescit autem amore, quo Christus exaltatus in cruce homines ad Seipsum trahit.[22]


 キリストのことばと模範によって教えられた使徒たちは、同じ道を歩いた。教会の初めから、キリストの弟子たちは、強制や福音にふさわしくない手段によらないで、まず、神のことばの力によって、人々に主キリストを認めさせ、回心させるように努めた。彼らは力強く、「すべての人が救われて、真理を認めるようになることを望む」(1テモテ 2・4)神である救い主の計画をすべての人に説いた。しかし、同時に、弱い人たちに対しては、たとえかれらが誤っていても、尊敬し、そうすることによって「われわれひとりひとりが自分のことを神の前に報告しなければならないこと」(ロマ 14・12)、すなわち、自分の良心にだけ従う義務があることを示している。キリストと同じように使徒たちも、常に神の真理を証明しようと努め、非常に大胆に民衆と王侯との前で、「確信をもって神のことば」(使徒行録 4・31)を告げた。実際、かれらは、福音がこれを信ずる者にとって真に救いをもたらす神の力であると堅く信じていた。そのため、すべての「肉的武器」を軽んじ、キリストの柔和と謙虚の模範に従い、神のことばの神的力にまったく信頼して、このことばをのべ、神に反対する勢力をくじき、人々をキリストの信仰と、服従へ導いた。師と同様、使徒たちも国家の正当な権威を認めていた。聖パウロは「権威で神から出ないものはない」と教え、次のように命じた。「すべての者は上の権威に従わなければならない。……権威にそむく者は神の定めにそむく者である」(ロマ 13・1~2)。しかしそれとともに、神の聖なる意志に逆らう公権に反対することを恐れなかった。「人間に従うより、神に従うべきである」(使徒行録 5・29)。数えきれない程の殉教者や信者が幾世紀の間、全地にわたって、この道を歩いた。

Apostoli, Christi verbo et exemplo edocti, eamdem viam secuti sunt. Ab ipsis Ecclesiae exordiis discipuli Christi adlaborarunt, ut homines ad Christum Dominum confitendum converterent, non actione coercitiva neque artificiis Evangelio indignis, sed imprimis virtute verbi Dei.[23] [938] Fortiter omnibus nuntiabant propositum Salvatoris Dei, ≪qui omnes homines vult salvos fieri et ad agnitionem veritatis venire≫ (I Tim. 2, 4); simul autem verebantur debiles etiamsi in errore versabantur, sic ostendentes quomodo ≪unusquisque nostrum pro se rationem reddet Deo≫ (Rom. 14, 12)[24] et in tantum teneatur conscientiae suae oboedire. Sicuti Christus, Apostoli intenti semper fuerunt ad testimonium reddendum veritati Dei, abundantius audentes coram populo et principibus loqui ≪verbum Dei cum fiducia≫ (Act. 4, 31).[25] Firma enim fide tenebant ipsum Evangelium revera esse virtutem Dei in salutem omni credenti.[26] Omnibus ergo spretis ≪armis carnalibus≫,[27] exemplum mansuetudinis et modestiae Christi sequentes, verbum Dei praedicaverunt plene confisi divina huius verbi virtute ad potestates Deo adversas destruendas[28] atque homines ad fidem et obsequium Christi reducendos.[29] Sicut Magister ita et Apostoli auctoritatem legitimam civilem agnoverunt: ≪Non est enim potestas nisi a Deo≫ docet Apostolus, qui exinde iubet: ≪Omnis anima potestatibus sublimioribus subdita sit, ... qui resistit potestati, Dei ordinationi resistit≫ (Rom. 13, 1-2),[30] Simul autem non timuerunt contradicere potestati publicae se sanctae Dei voluntati opponenti: ≪Oboedire oportet Deo magis quam hominibus≫ (Act. 5, 29)[31] Hanc viam secuti sunt innumeri martyres et fideles per saecula et per orbem.

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE) つづき

2007年07月27日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE)の第一部「信教の自由の一般原則」の5,6,7,8の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。

 5(家庭における信教の自由) すべての家庭は、固有の、本源的権利をもつ社会として、親の指導の下に、その宗教生活を自由に営む権利を持っている。それで、親は、自分の宗教的信念に基づいて、子女が受ける宗教教育の種類を決定する権利を持っている。したがって、学校あるいは他の教育機関を真の自由をもって選択する親の権利が、公権によって認められなければならない。この選択の自由が、直接にも間接にも親に不当な負担がかけられる理由となってはならない。なお、子女が親の宗教的信念に一致しない授業への出席が強制されたり、宗教教育を完全に除去したただ一つの教育制度を押しつけられたりすれば、親の権利は侵害される。

5. Cuique familiae, utpote quae est societas proprio ac primordiali iure gaudens, competit ius ad libere ordinandam religiosam vitam suam domesticam sub moderatione parentum. His autem competit ius ad determinandam rationem institutionis religiosae suis liberis tradendae, iuxta suam propriam religiosam persuasionem. Itaque a civili potestate agnoscendum est ius parentum deligendi, vera cum libertate, scholas vel alia educationis media, neque ob hanc electionis libertatem sunt eis iniusta onera sive directe sive indirecte imponenda. Praeterea iura parentum violantur, si liberi ad frequentandas lectiones scholares cogantur quae parentum persuasioni religiosae non correspondeant, vel si unica imponatur educationis ratio, ex qua formatio religiosa omnino excludatur.


 6(信教の自由を保護する義務) 社会の共通善は人間が、いっそう完全に、いっそう容易に自己完成に到達できるような社会生活の諸条件の緩和である。そして、これは、特に、人格の権利と義務の保護にある。そのため市民も、社会的団体も、公権も、教会その他の宗教団体も、共通善に対するおのおのの義務によって、おのおのに固有の方法で、信教の自由の権利を守るよう注意する必要がある。

6. Cum societatis commune bonum, quod est summa earum vitae socialis condicionum, quibus homines suam ipsorum perfectionem possunt plenius atque expeditius consequi, maxime in humanae personae servatis iuribus et officiis consistat, cura iuris ad libertatem religiosam tum ad cives tum ad coetus sociales tum ad potestates civiles tum ad Ecclesiam aliasque communitates religiosas spectat, modo unicuique proprio, pro eorum erga bonum commune officio.

 人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。

Inviolabilia hominis iura tueri ac promovere ad cuiusvis potestatis civilis officium essentialiter pertinet.[6] Debet igitur potestas civilis per iustas leges et per alia media apta efficaciter suscipere tutelam libertatis religiosae omnium civium, ac propitias suppeditare condiciones ad vitam religiosam fovendam, ut cives revera religionis iura exercere eiusdemque officia adimplere valeant et ipsa societas fruatur bonis iustitiae et pacis, quae proveniunt ex fidelitate hominum erga Deum Eiusque sanctam voluntatem.

 国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合にも、すべての市民と宗教団体とに信教の自由の権利が認められ、尊重されなければならない。

Si attentis populorum circumstantiis peculiaribus uni communitati religiosae specialis civilis agnitio in iuridica civitatis ordinatione tribuitur, necesse est ut simul omnibus civibus et communitatibus religiosis ius ad libertatem in re religiosa agnoscatur et observetur.

 要するに、公権は社会の共通善に属する市民の法律上の平等が、宗教的理由によって、公的または私的に侵害されないよう、また市民の間に差別が設けられないように配慮する必要がある。

Denique a potestate civili providendum est, ne civium aequalitas iuridica, quae ipsa ad commune societatis bonum pertinet, unquam sive aperte sive occulte laedatur propter rationes religiosas, neve inter eos discriminatio fiat.

 それゆえ公権は、暴力または脅迫その他の手段によって、市民に対して、特定の宗教の信奉または放棄を強制したり、あるいは、だれかがある宗教団体に加入し、またはそれから脱退することを妨げることは許されない。まして、人類全体、またはある地方、一定の集団において、宗教を撲滅しあるいは弾圧するために暴力を用いられることは、それがどのような形であっても、神の意志と個人および家庭の神聖な権利に反する行動である。

Hinc sequitur nefas esse potestati publicae, per vim vel metum aut alia media civibus imponere professionem aut reiectionem cuiusvis religionis, vel impedire quominus quisquam communitatem religiosam aut ingrediatur aut relinquat. Eo magis contra voluntatem Dei et contra sacra personae et familiae gentium iura agitur, quando vis quocumque modo adhibeatur ad religionem delendam vel cohibendam sive in toto genere humano sive in aliqua regione sive in determinato coetu.


 7(信教の自由の限界) 信教の自由の権利は、人間社会において行使される。したがって、その権利の行使は、ある抑制的な規定の下に置かれる。

7. Ius ad libertatem in re religiosa exercetur in societate humana, ideoque eius usus quibusdam normis moderantibus obnoxius est.

 すべて自由の使用にあたって、個人的、社会的責任の道徳原理が守られなければならない。すなわち、個人も社会団体も、他人の権利と他人に対する自分の義務とすべての人の共通善とを考慮すべき道徳的義務を負わされている。正義と愛とをもってすべての人に接しなければならないからである。

In usu omnium libertatum observandum est principium morale responsabilitatis personalis et socialis: in iuribus suis exercendis singuli homines coetusque sociales lege morali obligantur rationem habere et iurium aliorum et suorum erga alios officiorum et boni omnium communis. Cum omnibus secundum iustitiam et humanitatem agendum est.

 なお市民社会は、信教の自由の口実の下に起こりうる弊害に対して自衛権をもっているため、それを保護するのも、特に公権の任務である。しかしこれは、独断的に、あるいは、不当に一派の利益をはかるためではなく、客観的な道徳原理に一致した法規に従って行なわれなければならない。このような法規は、すべて市民の権利の有効な保護と、権利の平和的調和維持すなわち、真の正義に基づく秩序正しい共存と、公徳の正しい遵守とによって要請される。これらすべては、共通善の根本要素を成し、公の秩序の概念にはいる。社会において完全な自由の習慣が守られ、人間にできるだけ大きな自由を認め、必要な場合と必要な程度だけ制限すべきである。

Praeterea cum societas civilis ius habet sese protegendi contra abusus qui haberi possint sub praetextu libertatis religiosae, praecipue ad potestatem civilem pertinet huiusmodi protectionem praestare; quod tamen fieri debet non modo arbitrario aut uni parti inique favendo, sed secundum normas iuridicas, ordini morali obiectivo conformes, quae postulantur ab efficaci iurium tutela pro omnibus civibus eorumque pacifica compositione, et a sufficienti cura istius honestae pacis publicae quae est ordinata conviventia in vera iustitia, et a debita custodia publicae moralitatis. Haec omnia partem boni communis fundamentalem constituunt et sub ratione ordinis publici veniunt. Ceterum servanda est integrae libertatis consuetudo in societate, secundum quam libertas debet quam maxime homini agnosci, nec restringenda est nisi quando et prout est necessarium.


 8(真の自由尊重の育成) 現代人は種々の圧力を加えられ、自分の自由な判断を失う危機にさらされている。しかし、他方では、多くの者が自由を口実に、いっさいの従属を退け、正当な服従を軽んずる傾向を持っている。

8. Nostrae aetatis homines varia ratione premuntur et in periculum veniunt ne proprio libero consilio destituantur. Ex altera autem parte non pauci ita propensi videntur, ut specie libertatis omnem subiectionem reiciant ac debitam oboedientiam parvi faciant.

 そのため、本バチカン教会会議は、すべての人、特に、教育の任に当たる人たちに次のことを勧める。道徳的秩序を尊重して、正当な権威に従い、真の自由を愛する人間、すなわち、自分の考えで真理に照らして物事を判断し、責任感をもって自分の行動を決定し、すべて真実かつ正当なことを達成することに努め、他人と快く協調する人間の養成に努めることである。

Quapropter haec Vaticana Synodus omnes hortatur, praesertim vero eos qui curam habent alios educandi, ut homines formare satagant, qui ordini morali obsequentes legitimae auctoritati oboediant et genuinae libertatis amatores sint; homines nempe, qui proprio consilio res in luce veritatis diiudicent, activitates suas cum sensu responsabilitatis disponant, et quaecumque sunt vera atque iusta prosequi nitantur, operam suam libenter cum ceteris consociando.

したがって、信教の自由は人間が社会生活において自分の義務を果たすにあたり、より強い責任をもって行動することに寄与し、またそれを目的としなければならない。

Religiosa igitur libertas etiam ad hoc inservire et ordinari debet, ut homines in suis ipsorum officiis adimplendis in vita sociali maiore cum responsabilitate agant.

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【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE) 3と4

2007年07月26日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の信教の自由に関する宣言(DIGNITATIS HUMANAE)の第一部「信教の自由の一般原則」の3と4の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。


3(信教の自由および人と神との関係) 神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法が、人間生活の最高の規範であることを考える者にとって、上に述べたことは、いっそう明らかに現わされている。神は、人間が神の摂理のやさしい計画によって、不変の真理をよりよく認めることができるように、自分の法に人間をあずからせている。したがって、人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探求する義務と権利をもっている。

3. Quae clarius adhuc patent consideranti supremam humanae vitae normam esse ipsam legem divinam, aeternam, obiectivam atque universalem, qua Deus consilio sapientiae et dilectionis suae mundum universum viasque communitatis humanae ordinat, dirigit, gubernat. Huius suae legis Deus hominem participem reddit, ita ut homo, providentia divina suaviter disponente, veritatem incommutabilem magis magisque agnoscere possit. Quapropter unusquisque officium ideoque et ius habet veritatem in re religiosa quaerendi ut sibi, mediis adhibitis idoneis, recta et vera conscientiae iudicia prudenter efformet.

 真理は、人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自分が発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。そして、認識した真理に、個人的な承認をもって堅くそれに同意しなければならない。

Veritas autem inquirenda est modo dignitati humanae personae eiusque naturae sociali proprio, libera scilicet inquisitione, ope magisterii seu institutionis, communicationis atque dialogi, quibus alii aliis exponunt veritatem quam invenerunt vel invenisse putant, ut sese invicem in veritate inquirenda adiuvent; veritati autem cognitae firmiter adhaerendum est assensu personali.

 しかし、人間は自分の良心を通して神法の命令を知り、そして認める。それで、自分の目的である神に到達するには、すべての行為において、忠実に自分の良心に従わなければならない。したがって、自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。実際、宗教の実践は、その性質上、第一に、人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為にある。このような行為は、単なる人間的権力によって命じられたり、妨げられたりしてはならない。人間の社会性そのものが、内的敬神の行為を外部に表現し、宗教の分野で他の人と交わり、団体的に宗教を奉じることを要求する。

Dictamina vero legis divinae homo percipit et agnoscit mediante conscientia sua; quam tenetur fideliter sequi in universa sua activitate, ut ad Deum, finem suum, perveniat. Non est ergo cogendus, ut contra suam conscientiam agat. Sed neque impediendus est, quominus iuxta suam conscientiam operetur, praesertim in re religiosa. Exercitium namque religionis, ex ipsa eius indole, consistit imprimis in actibus internis voluntariis et liberis, quibus homo sese ad Deum directe ordinat: huiusmodi actus a potestate mere humana nec imperari nec prohiberi possunt. Ipsa autem socialis hominis natura exigit, ut homo internos religionis actus externe exprimat, cum aliis in re religiosa communicet, suam religionem modo communitario profiteatur.

 したがって、正当な治安が保たれる限り、社会における宗教の自由な実践を人間に拒むことは、人格と、神が人間のために立てた秩序を傷つけることになる。

Iniuria ergo humanae personae et ipsi ordini hominibus a Deo statuto fit, si homini denegetur liberum in societate religionis exercitium, iusto ordine publico servato.

 なお、人間が自分の判断によって、私的または公的に自分を神に関係づける宗教行為は、その性質上、地上的、現世的秩序を超えるものである。そのため、公権の本来の目的は現世的共通善を配慮することにあり、当然市民の宗教生活を認め、奨励しなければならないが、宗教行為を指導または妨害することができると考えるならば、公権の限界を超えていると言わなければならない。

Praeterea actus religiosi, quibus homines privatim et publice sese ad Deum ex animi sententia ordinant, natura sua terrestrem et temporalem rerum ordinem transcendunt. Potestas igitur civilis, cuius finis proprius est bonum commune temporale curare, religiosam quidem civium vitam agnoscere eique favere debet, sed limites suos excedere dicenda est, si actus religiosos dirigere vel impedire praesumat.


 4(宗教団体の自由) 各個人が持つ宗教問題における自由、すなわち、強制からの免除は、団体的に行動するものにも認められなければならない。実際、人間と宗教そのものとの社会性に基づいて宗教団体が要求される。

4. Libertas seu immunitas a coercitione in re religiosa, quae singulis personis competit, etiam ipsis in communi agentibus agnoscenda est. Communitates enim religiosae a sociali natura tum hominis tum ipsius religionis requiruntur.

 したがって、このような団体は、正当な治安の要求が傷つけられない限り、固有の規則によってその団体を治め、最高の神を公に礼拝し、団体員の宗教生活の営みを助け、教えをもって養い、また団体員が自分たちの宗教的原理に基づく生活の向上のための協力機関を促進するなどの自由を享有する権利を持っている。

His igitur communitatibus, dummodo iustae exigentiae ordinis publici non violentur, iure debetur immunitas, ut secundum proprias normas sese regant, Numen supremum cultu publico honorent, membra sua in vita religiosa exercenda adiuvent et doctrina sustentent atque eas institutiones promoveant, in quibus membra cooperentur ad vitam propriam secundum sua principia religiosa ordinandam.

 また宗教団体は自分に固有の聖職者の選択、教育、任命、転任について、国外に存在する宗教上の長上、および宗教団体との連絡について、宗教建造物の建築について、必要な財産の獲得と使用について、俗権の法的措置または行政処分によって妨害されない権利を持っている。

Communitatibus religiosis pariter competit ius, ne mediis legalibus vel actione administrativa potestatis civilis impediantur in suis propriis ministris seligendis, educandis, nominandis atque transferendis, in communicando cum auctoritatibus et communitatibus religiosis, quae in aliis orbis terrarum partibus degunt, in aedificiis religiosis erigendis, necnon in bonis congruis acquirendis et fruendis.



 なお宗教団体は、自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っているしかし、信仰を広め、習慣を取り入れる場合は、強制もしくは不当な、あるいはあまり正しくないと思われる説得などのすべての行為を避けなければならない。無教育者あるいは貧困者に関する場合、特にそうである。そのような行動方法は、自分の権利の乱用、他人の権利の侵害と考えなければならない。

Communitates religiosae ius etiam habent, ne impediantur in sua fide ore et scripto publice docenda atque testanda. In fide autem religiosa disseminanda et in usibus inducendis abstinendum semper est ab omni actionis genere, quod coercitionem vel suasionem inhonestam aut minus rectam sapere videatur, praesertim quando de rudioribus vel de egenis agitur. Talis modus agendi ut abusus iuris proprii et laesio iuris aliorum considerari debet.

 さらに、宗教団体が、社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力を自由に発揮することを妨げられないことも、信教の自由に属している。最後に、人間が自分自身の宗教心に動かされて、自由に集会を持ち、教育的、文化的、慈善的および社会的団体を作る権利も、人間の社会性と宗教の性質そのものに基づいている。


Praeterea ad libertatem religiosam spectat, quod communitates religiosae non prohibeantur libere ostendere singularem suae doctrinae virtutem in ordinanda societate ac tota vivificanda activitate humana. Tandem in sociali hominis natura atque in ipsa indole religionis fundatur ius quo homines, suo ipsorum sensu religioso moti, libere possunt conventus habere vel associationes educativas, culturales, caritativas, sociales constituere.

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【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(DIGNITATIS HUMANAE) 1 と 2

2007年07月26日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア! 

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の信教の自由に関する宣言(DIGNITATIS HUMANAE)の第一部「信教の自由の一般原則」の日本語訳とラテン語とを掲載します。リンク先をクリックすると、そこについての疑問および問題点に飛びます。

信教の自由に関する宣言
DIGNITATIS HUMANAE

司教 パウルス
神のしもべのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

宗教問題における社会および市民の自由に対する
個人および団体の権利について

PAULUS EPISCOPUS
SERVUS SERVORUM DEI
UNA CUM SACROSANCTI CONCILII PATRIBUS
AD PERPETUAM REI MEMORIAM

DECLARATIO DE LIBERTATE RELIGIOSA
DIGNITATIS HUMANAE
DE IURE PERSONAE ET COMMUNITATUM
AD LIBERTATEM SOCIALEM ET CIVILEM IN RE RELIGIOSA

AAS 58 (1966) 929-946


1(序文) 現代において、人々は人格の尊厳を(DIGNITATIS HUMANAE personae homines hac nostra aetate)日増しに意識するようになっている。また、強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。同じように、個人や団体の正当な自由の領域が大きく制限されないように、公権の法的限定を要請している。人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、人間精神の価値、特に、社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、教会の聖なる伝承と教説を探求し、そこから、古いものと常に一致した新しいものを引き出す考えである。

1. DIGNITATIS HUMANAE personae homines hac nostra aetate magis in dies conscii fiunt, atque numerus eorum crescit qui exigunt, ut in agendo homines proprio suo consilio et libertate responsabili fruantur et utantur, non coercitione commoti, sed officii conscientia ducti. Itemque postulant iuridicam delimitationem potestatis publicae, ne fines honestae libertatis et personae et associationum nimis circumscribantur. Quae libertatis exigentia in societate humana ea maxime respicit quae sunt animi humani bona, imprimis quidem ea quae liberum in societate religionis exercitium spectant. Ad has animorum appetitiones diligenter attendens, sibique proponens declarare quantum sint veritati et iustitiae conformes, haec Vaticana Synodus sacram Ecclesiae traditionem doctrinamque scrutatur, ex quibus nova semper cum veteribus congruentia profert.

 それで、聖なる教会会議は、まず第一に、人間が神に仕えながら、キリストにおいて救われ、そして幸福になれる道を神自身が人類に知らせたことを宣言する。われわれは、この唯一の真の宗教が、カトリック的、使徒的教会の中に存続すると信じる。主イエズスは使徒たちに、「行って万民に教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守らせよ」(マテオ 28・19~20)と言って、この宗教をすべての人に広める任務を教会に託した。一方、すべての人は、真理、特に、神とその教会に関する真理を探求し、それを知ったうえは、それを受け入れ、そして守る義務がある。

Primum itaque profitetur Sacra Synodus Deum Ipsum viam generi humano notam fecisse per quam, Ipsi inserviendo, homines in Christo salvi et beati fieri possint. Hanc unicam veram Religionem subsistere credimus in catholica et apostolica Ecclesia, cui Dominus Iesus munus concredidit eam ad universos homines diffundendi, dicens Apostolis: ≪Euntes ergo docete omnes gentes baptizantes eos in nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti, docentes eos servare omnia quaecumque mandavi vobis≫ (Mt. 28, 19-20). Homines vero cuncti tenentur veritatem, praesertim in iis quae Deum Eiusque Ecclesiam respiciunt, quaerere eamque cognitam amplecti ac servare.

 同時に、聖なる教会会議は、このような義務が人々の良心に達して、これを束縛すること、また真理がやさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせないことも宣言する。ところで、人間が要求する信教の自由は、神を礼拝するという自分の義務を果たすにあたって、市民社会におけるいっさいの強制からの免除に関するものである。そのため真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する個人および団体の道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教説はそのまま変わりがない。なお、教会会議は、信仰の自由を取り扱うにあたって、人格の不可侵の権利と社会の法的秩序に関する最近の諸教皇の教えを展開する考えである。

Pariter vero profitetur Sacra Synodus officia haec hominum conscientiam tangere ac vincire, nec aliter veritatem sese imponere nisi vi ipsius veritatis, quae suaviter simul ac fortiter mentibus illabitur. Porro, quum libertas religiosa, quam homines in exsequendo officio Deum colendi exigunt, immunitatem a coercitione in societate civili respiciat, integram relinquit traditionalem doctrinam catholicam de morali hominum ac societatum officio erga veram religionem et unicam Christi Ecclesiam. Insuper, de hac libertate religiosa agens, Sacra Synodus recentiorum Summorum Pontificum doctrinam de inviolabilibus humanae personae iuribus necnon de iuridica ordinatione societatis evolvere intendit.

1 信教の自由の一般原則
I. Libertatis religiosae ratio generalis

2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言するこの自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。

2. Haec Vaticana Synodus declarat personam humanam ius habere ad libertatem religiosam. Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites. Insuper declarat ius ad libertatem religiosam esse revera fundatum in ipsa dignitate personae humanae, qualis et verbo Dei revelato et ipsa ratione cognoscitur. Hoc ius personae humanae ad libertatem religiosam in iuridica societatis ordinatione ita est agnoscendum, ut ius civile evadat.

 すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであり、自分の尊厳のゆえに、真理、特に、宗教的真理を探求する本性にかられ、また道徳的に義務を負わされている。そして、真理を認めた場合、これにとどまり、真理の要求にしたがって自分の全生活を規正する必要がある。しかし、人間は、心理的に自由であるとともに、外的強制を免れなければ、自分の本性にかなった方法で、この義務を果たすことはできない。したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。

Secundum dignitatem suam homines cuncti, quia personae sunt, ratione scilicet et libera voluntate praediti ideoque personali responsabilitate aucti, sua ipsorum natura impelluntur necnon morali tenentur obligatione ad veritatem quaerendam, illam imprimis quae religionem spectat. Tenentur quoque veritati cognitae adhaerere atque totam vitam suam iuxta exigentias veritatis ordinare. Huic autem obligationi satisfacere homines, modo suae propriae naturae consentaneo, non possunt nisi libertate psychologica simul atque immunitate a coercitione externa fruantur. Non ergo in subiectiva personae dispositione, sed in ipsa eius natura ius ad libertatem religiosam fundatur. Quamobrem ius ad hanc immunitatem perseverat etiam in iis qui obligationi quaerendi veritatem eique adhaerendi non satisfaciunt; eiusque exercitium impediri nequit dummodo iustus ordo publicus servetur.

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ワンガヌイ(ニュージーランド)の聖伝ドミニコ会のシスター

2007年07月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ワンガヌイ(ニュージーランド)の聖伝ドミニコ会のシスターがたをご紹介致します。

Schul-Dominikanerinnen in Wanganui (Neuseeland) より


































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「敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」聖伝のミサ

2007年07月25日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世「スンモールム・ポンティフィクム」)聖伝のミサの写真をご紹介します。

Die uberlieferte, lateinische Messe より





















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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳

通常と通常外

2007年07月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 カトリック新聞は聖伝のミサに関する教皇自発書簡の、Ordinary を主要とか通常と、また extraordinary を通常外と訳した。
 だから新しいミサを「主要形態」とし、聖伝のミサを「通常外の表現」とした。

 さて、聖伝によれば、御聖体を配る Ordinary minister 司祭、Extraordinary minister は主任神父の許可を得て助祭だ。つまり通常の聖務者は司祭、特別役務者は助祭だ。助祭は通常外役務者だとも訳されてもいい。
 では、カトリック中央協議会は、新しく平信徒に御聖体を配らせようとして、平信徒が Extraordinary minister であるとされた時、何と訳しただろうか? 特別聖体奉仕者? 通常外聖体奉仕者? いや、Extraordinary を訳さなかった。あたかも普通、通常であるかのように、単に「聖体奉仕者」とした。日本カトリック中央協議会は、聖伝のミサに関する自発書簡を日本語に訳さないだろうけれど、もしも、訳すことがあるなら、Extraordinary をどう訳すだろうか?
 日本の司教様たち、神父様たちのために祈ろう。
 聖母よ、我らのために祈り給え。

本当の一致と本当の分裂

2007年07月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 カトリック新聞の教皇自発書簡に関する梅村司教様の記事を読んだ。カトリック教会において、本当の一致の原理は何なのか? カトリック教会を分裂させるものは何なのか?
 カトリック教会を一致させる原理は、カトリック信仰なのか? それとも、七福神さえ飲み込む混宗的エキュメニズムなのか?
 そのようなエキュメニズムに交わらないことは、分裂的なのか?
 聖ペトロに由来すると教皇様たちが証言してきた聖伝のミサを捧げ続けることが分裂をさせることなのか?
 使徒継承の聖伝が「廃止された」というプロパガンダを拒否して聖ピオ5世の大勅書を信じてきたことが分裂的なのか?
 カトリックの聖伝を信じていることが分裂的なのか?

 梅村司教様に聞いてみたい。聖ピオ5世の教え、グレゴリオ16世の教え、レオ13世の教え、ピオ9世の教え、聖ピオ10世の教え、ピオ11世の教え、ピオ12世の教えを全て信じていることが分裂させることなのか?と。
 時と場所によって変わらない真理は存在するのか?と

モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」

2007年07月20日 | ミサ聖祭
 モンシニョール・クラウス・ガンバー(Monsignor Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」The Reform of the Roman Liturgy (Die Reform der roemischen Liturgie の英訳) を読んで

 クラウス・ガンバー師は、1919年4月23日生まれ。1948年6月29日レーゲンスブルクで司祭叙階。叙階後司牧に従事していたが病気のため司牧活動ができなくなる。
 1957年、レーゲンスブルグに「典礼研究所(Institute of Liturgical Science)」を創立し所長となり、1989年6月2日に70歳で亡くなるまで、所長として活動。

 所長ガンバー師は、神学博士であり後に哲学名誉博士号を贈られている。1958年、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員となり、1965年教皇付き司祭となり、1966年に教皇付き秘密チェンバレイン(secret chamberlain)となる。

 ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版へラッツィンガー枢機卿は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言った。

「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造(falsification)に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。・・・」

"What happened after the Council was something else entirely: in the place of liturgy as the fruit of development came fabricated liturgy. We abandoned the organic, living process of growth and development over the centuries, and replaced it--as in a manufacturing process--with a fabrication, a banal on- the-spot product." (Cardinal Joseph Ratzinger)

 クラウス・ガンバーは、聖伝主義者と呼ばれるような人では全くなかった。(Klaus Gamber was neither a traditionalist at any price, nor one who could come to terms with the perhaps too hastily introduced reforms of the liturgy after the last council.

 そのガンバー師は「ローマ典礼の改革」の第三章で「トリエント・ミサ Tridentine Mass」も「聖ピオ五世のミサ Mass of St Pius V」も厳密な意味では存在しないという。何故なら、トリエント公会議の結論として、新しいミサが創造されたわけではないからだ。「聖ピオ五世のミサ」とはローマ・クリアのミサ典書(Missale secundum consuetudinem Romanae Curiae)以外の何でもないからだ。このミサは、数世紀も前からずっとローマで行われており、ローマ以外でも多くの西欧の国々にフランシスコ会士たちによって広められた。聖ピオ五世によってなされた変更は、専門家にしか分からないほどごく僅かでしかない。

 モンシニョール・ガンバーは断言する。「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入した。

 新しい条文が法律(たとえば刑法)に加えられたとしても、それによって刑法が廃止されることにもならないように、新しい祝日が加えられたことによっていわゆる「トリエント・ミサ」がなくなったことにはならない。1570年に発布された「トリエント・ミサ」が1604年以後、いろいろな祝日を加えられたが、祝日の導入によって「トリエント・ミサ」或いは「聖ピオ五世のミサ」は34年で終わったというのは詭弁に過ぎない。

 クラウス・ガンバーは新しいミサの現代典礼様式(Ritus Modernus)に対して「ローマ典礼様式」(Ritus Romanus) と正確に言わなければならないと言う。ローマ典礼様式はその重要部分が、四世紀、より正確に言うと、教皇ダマソ(在位366-384年)の時代に少なくとも遡ることができる。教皇ジェラジオ(在位492-496年)の時代には、大聖グレゴリオ(在位590-604年)が手を付けた僅かな変更を除いて、現代にまで伝えられている形のミサ典文であることが確認できる。五世紀以来、教皇たちはただ一つのことを要求してきた。それはローマ典文を使わなければならないということであった。何故なら、教皇たちの理由は、使徒聖ペトロに由来するものだからだ。しかしその他の部分に関しては、地方の教会の習慣が尊重された。

 聖ピオ五世はローマで使われていたミサ典書を修正して(聖人の祝日の数を減らして)それをローマ・ミサ典書として出版しただけだった。聖ピオ五世は、ローマ・ミサ典書を全教会に強制しなかった。もしも或る司教区、あるいは或る修道会が、ただ200年以上別の典礼様式をする習慣があるなら、それを尊重した。

 しかし、今では、私たちの足元に瓦礫を見つめている。トリエントミサの瓦礫ではなく、あれほど長い期間にわたって成熟まで発展し成長してきた古代ローマ典礼様式の瓦礫である。
"... and we now contemplate at our feet the ruins, not of the Tridentine Mass, but of the ancient Roman Rite which had developed and grown to maturity during that long period." (p. 26)


 「ローマ典礼の改革」の第4章では「教皇は典礼様式を変える権威をもっているか」という主題を扱っている。

 「典礼様式」と訳されるものは、ラテン語で ritus と言われているものだ。典礼様式の本質的要素を変えることは、その典礼様式全体を破壊することに等しい。これがマルチン・ルターがミサの典文を取り除き、聖変化の言葉と聖体配布の部分を変えたことによって宗教改革の時にやったことだ。明らかにこの変化は、たとえ伝統的な典礼形式が変わらずに続いたかのように見えたが(初期は、祭服や聖歌はそのまま残っていた)、ローマ・ミサを破壊した。聖伝の典礼様式が放棄されるやいなや、しかしながら、プロテスタント共同体において更なる典礼変化が加速化しだした。

 教皇聖ピオ十世がグレゴリオ聖歌をその原初の形に戻した時、或いはマイナーな聖人の祝日が主日に当たる時に、主日を優先させるようにして per annum 典礼暦を再導入した時、伝統的なローマ典礼様式とは断絶させたわけではない。

 同じように、教皇ピオ十二世が復活の徹夜祭の古代のローマ典礼を復興させた時、典礼様式を変えたわけではない。ヨハネ二十三世のもとで典礼法規(rubrics)の再構成が行われたが、それでも典礼様式の根本的な変化ではなかった。第二バチカン公会議閉会直後の1965年に出され、出されてから4年しかもたなかったミサの式次第も、典礼様式を変えるものではなかった。

 教皇は、使徒からの聖伝に基礎を持ち、数世紀にわたって発展してきた典礼様式を変える権威をもっているのだろうか? 過去、教会位階は典礼の形式に強い影響を与えてきたのではなかった。

 しかし、1969年の新しいミサ式次第の発表は、新しい典礼様式を創造した。言い換えると、聖伝の典礼様式は単に改正されたばかりではなく、むしろ完全に廃止された。そして数年後には、事実上、聖伝の典礼様式は禁止された。

 そのようなこと全ては次の疑問へと導かれる。そのようなラディカルな改革は教会の聖伝に従うものなのか? 新しい典礼様式を導入するという教皇の権威は、公会議の決定無しにそうする権威であり、それは教皇が教会においてもっている「完全で最高の権能(plena et suprema potestas)」(第一バチカン公会議)に由来する、と議論されうるかもしれない。第一バチカン公会議はこう言う。「全世界の教会の規律と統治に関することがらについて全教会に対して最高の裁治権( quae ad disciplinam et regimen Ecclesiae per totum orbem diffusae pertinent)DzS 3060(Dz1827)及び DzS 3064(Dz1831)」を持つ、と。第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)

 しかし規律(disciplina)ということは、ミサの典礼様式には全く関わらない。何故なら、教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べている事実があるからである。

 たとえば、教皇インノチェンチオ一世(在位402年-417年)は、エウグビノの司教に書簡をこう書いている。
使徒の頭であるペトロによってローマ教会に伝えられてきたもの、そして今においても守られているものが、全ての人々によって保守されなければならないこと、更にそこの何ものをも加えても或いは導入されてもならないこと、そのように(付け加えたり)する権威は誰にもなく、或いはその他の場所からの例に倣うように見えるようなことも(できない)。」(PL 20:552)

INNOCENTIUS DECENTIO episcopo Eugubino salutem.
2. Quis enim nesciat aut non advertat, id quod a principe Apostolorum Petro Romanae Ecclesiae traditum est, ac nunc usque custoditur, ab omnibus debere servari; nec superduci aut introduci aliquid, [Col. 0552B] quod auctoritatem non habeat, aut aliunde accipere videatur exemplum? praesertim cum sit manifestum, in omnem Italiam, Gallias, Hispanias, Africam atque Siciliam, et insulas interjacentes, nullum instituisse ecclesias, nisi eos quos venerabilis apostolus Petrus aut ejus successores constituerint sacerdotes. Aut legant, si in his provinciis alius Apostolorum invenitur, aut legitur docuisse. Qui si non legunt, quia nusquam inveniunt, oportet eos hoc sequi, quod Ecclesia Romana custodit, a qua eos principium accepisse non dubium est, ne dum peregrinis assertionibus student, caput institutionum videantur omittere.

 或いは教皇ヴィジリオ(在位538年-555年)は、ブラガの総大主教にこう書いている。

「従って、上記に述べた、そして天主の憐れみによって使徒継承の聖伝から私たちの受けたその典文の祈りの文書(=ミサ典文)を私は配置した」(PL 69:18)
Quapropter et ipsius canonicae precis textum direximus supradictum, quem Deo propitio ex apostolica traditione suscepimus.


 この理由だけからでも、典礼様式は「教会の規律と統治」というカテゴリーには入らない。更に付け加えることができるのは、カトリック教会法典を含めて、教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は一つも存在していない。事実、教皇にたった一つの地方の典礼の伝統を変える権威があるなどと述べているような文書は何処にも無い。このような権威が何処にも言及されていないことは、私たちのケースの議論を極めて強めてくれる。

 明らかに教皇の「完全で最高の権能(plena et suprema potestas)」には限界がある。たとえば、教義に関しては、教皇といえども普遍教会の聖伝に従わなければならない。つまりレランのヴィンチェンチオが言う通り「常に何処でも全てによって quod semper, quod ubique, quod ab omnibus 信じられていたこと」に従わなければならないのは、疑問の余地もない。事実、聖伝の典礼様式を廃止することは教皇の権威外である、と極めてはっきりと述べている権威のある著者らが何名もいる。

 従って、著名な神学者であるスアレス(Suarez 1617年没)は、やはり神学の権威であるカイェタノ(Cajetan 1534年没)を引用して「もしも教皇が自分の義務であるにもかかわらず、教会の神秘体と全き交わりを保たなかったとしたら、たとえばもしも教皇が全教会を破門したとしたら、或いはもしも教皇が使徒継承の聖伝として保たれてきた教会の典礼様式を全て変えてしまったとしたら」彼は離教的(schismaticus)となるだろうという立場を取っている。

 確実な史実によれば、パウロ六世がそうするまで、私たちが目前にしているような典礼形式における根本的な変化の型を導入した教皇はただの一人も存在していない。事実、典礼において教皇によって導入された極めて小さい変化であったとしてもすぐに受け入れられたことは決してなかったということを私たちは述べなければならない。

 教皇大聖グレゴリオ(604年没)が、ビザンチン典礼様式に倣うために、パンを割く式をミサ典文()の終わりから聖体拝領の典礼様式の始めに移動することを決断したことがあった。そして、この小さな変更をローマの教会においてだけ導入した。しかし大聖グレゴリオ教皇は厳しく批判された。シラクサの司教への書簡の中で自分が導入したその小さな変化について弁明している。(PL 77:956) 大聖グレゴリオの改革がいろいろなところで完全に受け入れられるようになったのは八世紀になってである。

 しかも、ローマの指定巡礼教会において教皇司式の典礼のためだけに使われるミサ典書を編集しただけだった。ローマの小教区教会のためのミサ典書(Liber sacramentorum Romanae ecclesiae)でさえもなかった。大聖グレゴリオは「教会が一つの信仰を保っている限り、異なる典礼様式の習慣は教会を害しない (quia in una fide nihil officit sanctae Ecclesiae consuetudo diversa)」(PL 77:497 C)と言っていた。

 大聖グレゴリオの秘跡書(Sacramentarium)が後にローマ・ミサ典書(Missale Romanum)の基礎を形づくった。大聖グレゴリオがそれを強要したのではなかったが、聖ペトロへの崇敬からローマで使われていた典礼様式を皆が自然と真似るようになったからだった。

 例えば聖ボニファチオは、意味もないような些細なことでさえもローマからの指導を仰いでいた。しかし聖ボニファチオはローマ・ミサ典書を使っていたわけではない。彼はイングランド北部の大修道院で使われてたミサ典書を使っていた。そこの集祷文や序誦などはローマで使われていたものとは全く違っていたが、ミサ典文(Canon Missae)だけが同一であった。しかもこのミサ典文は大聖グレゴリオよりも前の時代の典文であった。

 全く確かなことは、教会改革を導入することが聖座の機能ではない。教皇の第一の義務は第一司教(episcopus = 監督者)として教会の聖伝、教義・道徳・典礼の聖伝を注意深く上から (epi-) 見張る (scopos) ことである。

 トリエント公会議に始まって、聖座の最高権威は典礼文を見直すことにまで広がった。つまり新しく印刷された版を点検し、新しい祝日のためのミサ固有文を導入するという小さな改正をすることである。これを聖ピオ五世が行った。つまり聖ピオ五世は、ローマと西欧の多くの地域で使用されていたローマ・クリアのミサ典書(Curiae Missale)を、ローマ・ミサ典書(Missale Romanum)として1570年に出版した。私たちは、聖ピオ五世によって出版されたのは「新しい」ミサ典書ではなかったと決定的に断言できる。

 1969年のミサ式次第は典礼様式を変えたのみならず、典礼暦年や諸聖人の祝日を大幅に変えてしまった。一つ二つの祝日を付け加えることは、それ自体としては、典礼様式を変えることではない。しかし無数を変更を導入し、聖伝の典礼形式は形を全く変えてしまった。

「現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに基因されなければならない。」 (p. 68)

「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面して versus populum 儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)

「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである(cum ad orationem stamus, ad orientem convertimur, unde coelum surgit: non tanquam ibi habitet et Deus, quasi caeteras mundi partes deseruerit qui ubique praesens est, non locorum spatiis, sed majestatis potentia ; sed ut admoneatur animus ad naturam excellentiorem se convertere, id est ad Deum)。』」


「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面した versus populum ミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)

「『牧者 The Pastor』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ Missarum Sollemnia』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもない nothing but a fairy tale ことが分かった』と。」

「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」

 ガンバー師は言う。聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する、と。

「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」
"the liturgical forms of Pope Paul VI created a de facto new rite... " (p. 39)

「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)

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