Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 12月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


12月
私たちの主の御降誕を感謝と賛美を以て迎えましょう。
意向:私たちのために人間となり生まれ給うた天主イエズス・キリストをますますよく知る
実践すべき徳:清貧
守護の聖人:聖フランシスコ・ザビエル

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 12月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
          午後4時半 ミサ聖祭
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月9日(主)待降節第2主日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月10日(月)待降節の平日(3級)紫
          午前6時半 ミサ聖祭

  12月21日(金)使徒聖トマス(2級祝日)赤
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午後9時 クリスマスの朝課 
  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午前0時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月2日(主) 待降節第1主日(1級)紫
          午前9時  ミサ聖祭
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月3日(月) 証聖者聖フランシスコ・ザビエル (宣教地日本では1級祝日) 白
          午前7時 ミサ聖祭
          午前7時45分 ミサ聖祭

  12月23日(主) 待降節第4主日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半[!ミサの開始時間にご注意下さい!]  ミサ聖祭

  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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LGBTの夢

2018年10月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、ミサの後で新大阪から新幹線に乗ってウトウトしていると夢を見ました。

夢の中で雑誌を手に取っていました。2019年に創刊されたこの雑誌「新嘲19」をパラパラめくると、LGBTやその他の人々が義論をしていました。

LGBTというのは、天主が創造した世界よりも別の世界を作り上げようとする活動家たちが最近作った言葉で、「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー lesbian, gay, bisexual, and transgender」という英語の頭文字をつなげて出来ています。意味は「同性だけで、あるいは男女どちらとでも性行為をする、あるいは性を転換した人々」をひっくるめて呼ぶ言い方です。


雑誌「新嘲19」の特集は、毒川綱吉が「自分は犬と結婚したい」と主張したところ、国会議員の杉内山脈が「生産性がない」と発言したことから端を発していました。

或るLGBTの人は、毒川の「イヌとの結婚」という主張に対して、LGBTは架空の話しではない、犬と結婚したいと思う人々などいるわけがない、柳田國男の『遠野物語』とは違う、本物の生身の人間の問題だ、一緒にされると困る、という主張していました。


毒川がこれらに対する反論を載せていました。毒川の主張は次のようでした。

犬と結婚することを望む人の存在を、「生産性がない」という暴力的な言い方で否定することは危険だ、
犬と結婚することを心の病気だということを聞き、食も通らないほど傷ついた、
あまりにも常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちている、
性の多様性に関する世の中の認識は、漸進的に変えていかなければならない、
不当な差別で他人を傷つけているような議論は、これは言論ではない、と感じる、
イヌとの結婚で少子化につながる、社会が崩壊する、というのは子供を産むかどうかで人を選別する危険な優生思想だ、しかし、犬と結婚しても実際に人間の子供を持ち育てるカップルもあり得る、
イヌと恋に落ちて同棲しているケースは実在している、ただ見えていないだけだ、
犬と人との結婚はおかしいと差別的な発言をする人々には、厳しいペナルティーを科す法律を作るべきだ、
などのように、
自分たちは傷ついた、偏見だ、危険だ、差別だ、
という自己中心的で、かつ主観的な主張を唱えていました。


もう一つの記事は、輪廻転生を信じ守護霊と交信すると主張している広川隆子によるものでした。広川隆子は、ついに人間がイヌと結婚することが法律化される日が来ると反論しています。

広川隆子は、犬と人との結婚に反対する論として、「生物学的にヒトの遺伝子とイヌの遺伝子とがあって、ヒ・ヌ遺伝子もイ・ト遺伝子もない」などというふざけた表現に、心が痛んだ、
人間の性は自分で選び、自分の嗜好が尊重される「権利」がある、
そのことは、LGBTも、イヌとの「結婚」も、一夫多妻制も、とどのつまり「自然に従うのではなく、自分が決定する」という原理ですべて同じだ、
つまり、超人思想である、
松下幸之助も税金を一千万円以上払えば、一夫多妻でも何でも自由に結婚が出来るようにすべきだと言っていた、
国会で多数決で法が通過すれば、自然に反しても全てを人間が決めても良い、
例えば、重力がない、ということが国会で法として通過すれば、そうなるのだ、
外国でもそのような動物との結婚について法律が作られつつあるから日本もそれに乗り遅れないようにすべきだ、と。


別の記事もあり、結婚制度を見直そうと主張する外国人タレントのカール・レーニンによれば、
人間はとどのつまり物質で機械だ、
自分は自動車と酒が好きだ、自動車と酒と結婚したい、自動車に自分との子供を育てたい、
と主張していました。


金正銀は「我々の作戦」という題の記事を書いていました。
「イヌとの結婚」を法律化させるためには、徐々に進めていくべきである、
結婚について、まず価値観の転換を図るべきだ、
まず相対主義を導入し、変わらない真理など存在しないと思い込ませる、
次に悪は必ずしも悪ではない、いろいろな見方がある、と刷り込ませる、
更に、悪は善である、と思わせる、
最後に、善は悪であると信じさせる。

価値転換を結婚について導入すると同時に、法律でも規定させていく、
まず、差別反対を唱えて、人々の情に訴える、
次に、自然に反する性行為も、いろいろな見方があり必ずしも悪ではない、と思わせる、
近親相姦も、獣とも、全ては「自由」だ、自由は善だ、自由に反対することは悪だ、と繰り返せ、
と論説していました。

それを読みながら、そういえば、第二バチカン公会議後のカトリック教会でも価値観の転換を信徒たちに徐々に植え付けていったことや、その価値観の転換の印として徐々にミサを変えていき、カトリック的な要素を取り除いていったことが考えました。


夢の中でこの雑誌を読んでいて、イエズス・キリストの御言葉を思い出しました。
「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを。そこで、もう二人ではなく一体である。人は、天主がお合わせになったものを離してはならない」(マテオ19章)と。

また聖パウロの言葉も思い出しました。
「不正の人は天主の国を嗣げないことを、あなたたちは知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、食欲な人も、酒飲みも、讒言する人も、略奪する人も、天主の国を嗣がない。」(コリント前書6章)

地震、台風、津波、などの自然の恐ろしさを知っている私たち日本人は、自然には逆らえない、逆らったらしっぺ返しが来る、ということをよく知っているはずだ、と思いました。

旧約時代に、ソドムとゴモラの人々は、天主を信じず、自分たちの情欲に従って生活し、性的倒錯の罪などを犯すことを当然のこととしていたために、天から硫黄と火が降ってきて滅ぼされたと記録に残されていることを思い出しました。

もしかしたら、秋田の聖母が警告された「もし人々が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしております。そのとき、大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くが死に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」とはこのことなのか、とふと思いました。

この雑誌から目を上げて見ると、目が覚め、新幹線の中にいる自分に気がつきました。もう東京に到着します。夢で良かった!

そろそろ新幹線から降りる頃になって辺りを見回すと、周りにいる乗客たちは同じような夢を見続けて、目を覚ましていないような様子でした。

早く夢から覚めないと、多くの方々が、特に子供たちが、犠牲者となって苦しんでしまうだろうと危惧しつつ、私は下車の支度をはじめました。

【この記事はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。】

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

コメント (2)

ベネディクト十六世「公会議後の楽観主義こそが、偽りの楽観主義だ。修道院が閉鎖されつづけ、神学校が閉鎖されつづけている時、全ては順調だ!と。私は言う。いいえ!全ては順調ではない。」

2018年09月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖母の御誕生日です。おめでとうございます!

ルルドさんというハンドルネームの方からコメントを頂きました。

ルルドさんは、真っ白いご聖体がゴミ箱に捨てられているのを目撃されたのだそうです!きっと大きなショックだったと思います。

きっとルルドさんがおっしゃったように、誰かが新しいミサで受け取ってしまったご聖体をどうしたらよいかわからなくて捨ててしまったのでしょう!

中には埃だらけの汚いところに捨てられたホスチアもあるかもしれません。きれいな床なら良いけれども、塵と埃とゴミの中に捨てられたご聖体、とても拝領することのできる状態でないご聖体もあることでしょう。たった一つのご聖体が捨てられるだけでも大きな涜聖ですが、日本中で、どれほど多くのご聖体が粗末に扱われていることでしょうか!

霊魂の救いのことよりも、この世で苦しむ人の物質的な救いや癒し・助けのことばかり。イエズス・キリストのご聖体への崇敬と礼拝よりも、人間の自由と尊厳のことばかり。

明らかに教会の軌道が逸れています。多くの人々が信仰の命を失いつつあります。

ルルドさんの言われるように、「ほかのすべてには門戸を開放する」、それは公認、それは公式の立場、それはしなければならない、しかし、その反対に「2000年間続く聖伝の教え」だけが否定され、閉ざされ、禁止され、異端視され、あたかも「破門」さたかのように取り扱われています。

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。「全ては順調ではありません!」

「主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。」(ベネディクト十六世

「公会議後の楽観主義こそが、偽りの楽観主義でした。修道院が閉鎖されつづけ、神学校が閉鎖されつづけている時、彼らは言います。"でも...何でもない。全ては順調だ!"と。... 私は言います。いいえ!全ては順調ではありません。」(ベネディクト十六世

カトリック教会は、火事のように火を出して燃えています。

「危ない!」「緊急事態だ!」「火事だ!」と救援隊が叫んで、火を消そうとすると、教会を違う方向に進めようとする人々から攻撃されます。

「消防士でもないのに何故火を消そうとするのか?許可もなく火を消すな!非合法だ!」(えっ!?人の命はどうなるのですか?全てが火で燃え尽きてしまいますよ!)

「たとえどんなに緊急時であっても、外国人の医者は医療行為をしてはならない!日本国内での医師免許もなく、緊急状態だからと言って人命を助けてはならない!応急手当もしてはならない!非合法だ!不法だ!」(え?見殺しにしろというのですか?)

「今が緊急事態だと言わなければ、火を消す許可を与えよう。今の状態が正常だと認識するなら、医療行為も行わせてあげよう。教会がこれから路線を変えていくのを「正常」だと言うのなら、合法にしてあげよう。云々。」(え?火災を認めずに、どうして消防活動ができるのですか?命の危険がないのにどうして救命活動をするのですか?)

だからといって、信仰を捨て変えても、教会の脱線に協力して良いのでしょうか?

脱線事故の当該列車に乗車していたJR西日本の社員2名が、職場に連絡をして、上司から出勤命令が出ても、犠牲者を見るに見かねず、出勤せずに救助活動をしていたとしたら、この社員は処罰を受けたでしょうか?いえ!彼らはJR西日本の名誉を救ったと称賛されるでしょう。上司は彼らに感謝することでしょう!

カトリック教会の歴代の教皇様たちや20の公会議が、不可謬権を行使して、綿々と断罪し、排斥し、間違いだと教え続けてきたことは、突然信じなければならないと「公式の教え」になったのだから、俺知らね、「従順」だよ、昔の異端が今の教えになったのだ、で良いのでしょうか?

オレ知らねぇよ、は出来ません。

私もマリア様の汚れなき御心の勝利の日が、いつか来ると思います。

将来、その時、カトリック教会は、教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたことを、私たちがやりつづけたことを感謝することでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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カトリック教会は、2000年間、公式に常に信じ、実践し、教え、愛し続けてきたことが突然禁止され、今までの路線を外れて走っている。何故、救助活動がないのか?

2018年09月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック教会は、今までの路線を外れて脱線して全速力で走っています。福知山線の脱線事故よりもひどい大惨事です。それについては「キリストの御体と福知山線尼崎脱線事故。緊急事態における日本スピンドルの社員達とJR西日本の「勤務」最優先。」をご覧ください。

 何故「脱線」かというなら、カトリック教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたことが、突然禁止されたからです。これが今までの軌道を外れたことでなくて何でしょうか?

 カトリック教会の歴代の教皇様たちや20の公会議が綿々と断罪し、排斥し、間違いだと教え続けてきたことが、突然「公式に」教えられ始めたからです。これが脱線でなくて何でしょうか?

 カトリック教会が、2000年間、公教要理で教え続け、全世界で信じ続けてきた教えが、突然、そうではないと「公式に」教えられ始めたからです。このために

 だから「信仰の霊的命の緊急救助活動」をしなければなりません。尼崎の近くの近隣住民がしたように、事故発生直後、すぐに現場へ駆けつけて救助にあたり、霊的な命を救わなければなりません。

 しかしなぜそうする人々の数があまりにも少ないのでしょうか? 私たちは二つの理由があるからだと考えます。

一つは、教会が軌道を外れて進んでいるということを認識していないから。言い換えると、あるべき線路を脱線してものすごい勢いで進んでいるということを、認識していないからです。このような人々は、第二バチカン公会議以後カトリック人口が事実上減少していること、神学校が空っぽになっていること、修道会が空っぽになっていること、それを知りつつも、なぜ多くの人々がばたばたと倒れているのか、電車が脱線してる結果だと言うことを認識していないからです。

もう一つは、脱線して進んでいるのは知りつつ、わざとそれを望んでいるからです。何故なら、そのような人々は、教会が軌道を外れて進まなければらないというイデオロギーを信じているからです。このような人々を、革新派とか、改革派とか、「進歩」派とかとも言います。

いずれにしても、彼らによれば教会は「正常」運転をしているからです。彼らは脱線事故は起こっていないと主張するからです。

信仰を守るために従順があるのが本当ですが、第一のグループは「従順」を守るために信仰を変えてしまったからです。軌道を外れたように見えるが、本当は外れていない「はずだ」、だから「脱線」という認識ができず、「正常運転でなければならない」、とするからです。

第二の革新派は、わざと脱線させているので「事故」ではないからです。

いずれにせよ「事故が起こっていない」のであれば、「緊急性」がないからです。緊急事態でもないのに、電車の「緊急ボタン」を押してはなりません。

 霊的に傷ついた多くの方々は、消防車と警察が来てくれるのを待っています。しかし、緊急でもないのに何故緊急車が助けにやって来るでしょうか? その間に、多くの人命が失われていきます。信仰を失っています。本当にカトリック教会を離れて行ってしまっています。

 そのような犠牲者がなんとかカトリック信仰に留まるように、愛徳の精神で助けなければなりません。

 聖ピオ十世会は、カトリック教会の危機的状況の緊急性を主張して、ただ愛徳をもって犠牲者の援助に当たっています。

 何故なら、カトリック教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたこと、これこそが、私たちの信仰の基準だからです。

 だから、私たちはカトリックとして留まるために、これを信じ続け、実践し続け、教え続け、愛し続けなければならないからです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考記事】
シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」


シュナイダー司教「教会がネオカテクメナート(新求道共同体)をロビー活動の圧力無しに深く客観的に調査する時が来る。その時彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされる。」
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キリストの御体と福知山線尼崎脱線事故。緊急事態における日本スピンドルの社員達とJR西日本の「勤務」最優先。

2018年09月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ブログ「一カトリック信者の日々想い」にある「キリストの御体」という秀逸な記事を読みました。

キリストが足で踏まれている。私たちの救い主が、苦しんでおられる。誰も助けようとしない。見て見ぬふりをしている。

規則だから。上の命令だから。勤務優先。信仰軽視。オレ関係ないから。

それを見て苦しんでいる人々もいます。傷ついた負傷者とは「目の前で 御聖体がないがしろにされているのを見ているうちにカトリック信仰を失いそうな危険に脅かされる傷つく人々、霊的に死にゆく人々」です。

せっかくイエズスさまがくださったカトリック信仰なのに、御聖体への冒涜により 信仰が失われる危険(霊的な負傷と死)にみんながさらされているからです。「典礼の崩壊」(ラッツィンガー枢機卿)に由来する信仰の危機です。

それを見て、見て見ぬふりをすることができない人々もいます。「教会は、軌道を外れつつある。脱線している。なんとか軌道修正が必要だ!」と。彼らは自分のできることをして人命を救おうと、信仰を守ろうとするのです。

しかし、「法律」「規定」「命令」の方を信条としているファリサイ的な人々は、苦しんでいる、傷ついた負傷者たちを避けて通るのです。「規則」だから。

この記事を読み、十年以上前に起こった事故を思い出しました。

十年以上も前に、尼崎近くで電車の脱線事故がありました。

事故発生直後、近隣住民は、すぐに現場へ駆けつけて救助にあたりました。素晴らしい!

死傷者があまりにも多く救急車のみでは搬送が追いつきませんでした。

負傷者たちは、警察のパトカーや近隣住民の自家用車などでも病院に搬送されました。

ところで、普通はトラックの荷台に人を乗せて公道を走ると道路交通法違反です!しかし、一刻を争う緊急事態です!人が死のうとしているのです!早く!何とか助けなければ!

多数の負傷者を一度に搬送するため、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。道路交通法を目的は、人命保護にあります!道路交通法をまもったが為に人が死んだ、では元も子もないからです。そんな時、道路交通法の文言を出して、車を待たせて見殺しにすべきだ、と主張する方が狂っています。

負傷者の半数は近隣の人々がボランティア精神で、自分たちのできる手段で、医療機関に搬送しました。

特に激突したマンションから10mほど道を隔てたところに西門がある日本スピンドル製造株式会社は、異常な衝突音に気づいた社員20名がすぐに現場に急行し、救出作業を開始しました。

知らせを受けて事故現場を見た齊藤十内社長は、工場帰って、直ちに全ての操業停止を命令、全社員(約270名)を食堂に集め、全力を挙げて救助作業に当たるように指示しました。社員達は、工具や道具をもって現場に急行し、助けを求め、うめき声を上げる人たちを励まし励まししながら確実に救出していったのです。

なかなか救急車が到着しなかったところでは、日本スピンドルの社員達は、助け出した負傷者に応急手当をした後、自分たちのマイカーや、工場の大型トラックなど計15台で病院にピストン輸送しました。

負傷者には「がんばれ!」「きっと助かる、大丈夫」などと励まし、声をかけ続け130人以上を救助したのです!すごい!

一方、当該列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助より出勤!人命よりも規則!法と規則が何の為にあるのかその目的を理解しないファリサイ的な態度。これはマスコミで大きく報道されました。

ところで、カトリック教会の中でも、キリストの御体がないがしろにされている時、多くの人々がみんなで一緒にないがしろにしている時、少数ですが、霊的に苦しみ信仰の息の根が止まりそうで嘆き悲しむ人々に、緊急事態を鑑みて、「がんばれ!」と言う人々がいます。

少数ですが、彼らは「きっと昔からのカトリックの教えは復活する、聖伝のミサは今でも有効だ、大丈夫、カトリック信仰を保て!」と、公式に聖伝の教えの助けが来るまで、愛徳の精神で、緊急救命作業を行っているのです。

そのような人々に、心ない人々は「法律」「規律」「命令」の字面の方が大事だ!とファリサイ的な非難を投げかけています。しかし、だからと言って、見殺しにして良いのでしょうか?!オレ知らね、と逃げればすむのでしょうか?!無関心。逃避。護身。妥協。そうすれば、カトリック教会が良くなる、信仰が守られる、信仰の生命が保全されるのですか??!?まさか!

教会法の名前によって、ほったらかしはできません!そんなことはできません!!してはなりません!!教会法の存在理由は、霊魂の救いだからです。救霊こそが最高の法だからです。

聖ピオ十世教皇、我らの為に祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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第二バチカン公会議によるよりエキュメニカルな教会に向けて。信徒中心の教会。土着化の教会。過去からの断絶。

2018年08月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ローマの宣教聖省から東京大司教区に通知が届いて、東京にネオ・カテクメナートの神学校が設立されるそうです。それによると、東京大司教に何の相談も無く、バチカンが一方的に東京に設立するそうです。東京大司教様が、寝耳に水で驚いているということをニュースで読みました。

この意味は、日本は第二バチカン公会議の改革の成果であるカリスマ運動を十分に受け入れていないので、バチカンが主導して押し付ける、ということです。

それで、三十五年ほど前のことを思い出しました。

藤枝聖アンナ・カトリック教会でのことを。

藤枝カトリック教会は設立百周年を祝ったばかりのことでした。

私たちの心に深く根付いていた御聖体に対する愛と尊敬と信心が、つまりカトリックの伝統的な信仰が、新しく司教様から任命されて藤枝にいらした主任司祭によって根こそぎにされました。

キリスト教の「土着化」というイデオロギーの前に、「カトリック信仰の要請する論理的結論」は無視されました。

御聖体に対する信仰、真の現存という信仰は、理解されませんでした。

ただあったのは、従順、従順、従順。

そう決まったから。

「でも私たち、地元では、百年以上前からこうしております。」

「私たちの主の前で、膝をかがめるのが聖書の教えです。」

今までそうすべきだと教えられて、やり続けてきたことが、突然、禁止されたのです。

カトリック教会がずっと百年以上いつもやり続けてきたことをやると、突然、「教会を離れた」と言われるようになりました!一体どっちが?!

私はまだ学生だったのですが「別の教会を作ったら?」と主任司祭から言われました。一体どっちが?!

昔からの信仰を保とうとする人は「キリステ」られました。これが、聖伝をキリステる新しいキリスト教会、信徒中心の教会、土着化の教会でした。

カトリックの伝統的な信仰、つまり、聖伝の信仰を保とうとするが故に、教会から「離れた」ことになってしまいました。

それから時を経て、今では、御聖体拝領の時だけではなく、ミサの間跪くことが禁止されています。跪く人々は、一致を乱す、教会の交わりにいない人々、離れつつある人々、逆らう人々、です。

教会法はカトリック信仰を守る為に作られました。しかし、教会法の精神と目的によらず、新しいイデオロギーを押し付ける為に権威が使われました。

将来的には、もっと酷いことになるでしょう。例えば、ネオ・カテクメナートの道を公に批判する人々は、教会を離れている、逆らう人々、教皇様と一致していない人々、と。

おっと、今日の話題は、これではありません。

ネオ・カテクメナートの道は、信仰の観点から異端的だと指摘されて来ています。カリスマ運動的で、正統信仰から外れている、と。たとえバチカンがネオ・カテクメナートを「認可」したとしても。

ネオ・カテクメナートの道は、日本の高松教区で痛ましいトラウマを遺し、深い傷をつけてしまいました。苦々しい実りをもたらしました。実りを見て、日本に合わないことは、明らかです。

原因が同じならば、同じ結果になるでしょう。たとえバチカンが一方的に運営するにせよ、東京大司教区では、また同じような悲劇が繰り返されることでしょう。

それどころか日本全体(アジア全体)へとその同じ悲劇が広まり、大混乱となるでしょう。信仰の破壊が進んでしまうでしょう。

日本の司教様たちがバチカンに陳情しても、効果はありませんでした。

カトリックの信仰の観点から話すのでなければ、説得力を持たないことでしょう。

「バチカンが決めたことだから、仕方がないよ。信仰を変えないと教会から離れたことになるから。」

多くの人々は、教会の信仰がどんどん変えられるのをそうやって受け入れてここまでやって来ました。

しかし、改革はまだまだ続きます。終わりを知りません。信仰は変えられ、公教要理はますます変えられるでしょう。

カトリックらしさは失われ切り捨てられ、カトリック教会というよりは、エキュメニカル教会とならなければならないからです。

主よ、憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!
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トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、霊的花束をもってお祝い申し上げます。

2018年07月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、お祝い申し上げます。

先月、六月八日聖心の大祝日付けで、霊的花束として、ロザリオ1000環(大阪と東京の信徒ら有志から)を枢機卿様にお手紙でお送りしました。ご報告申し上げます。

同時に、次のような俳句(と言うより、俳句には今一つ足りないので、「俳八」)も寄せ書きしました。

季語は、六月末に枢機卿任命式があるので「枢機卿」、自分の司祭叙階銀祝が六月末にあるので「銀祝」、六月はイエズスの聖心の月なので「聖心」などを、アマチュア流にかってに「季語」としました。😅😓

アヴェ・マリア!
殉教の血に染まる地に生まれて、高山右近の地に働く大司教様が、イエズスの聖心の月に、使徒聖ペトロとパウロの祝日に枢機卿の赤い帽子を受けることを祝して。
大司教様の大阪で、司祭叙階銀祝の祝いを頂き、枢機卿になられるとの知らせを受けて、赤と銀が紅白のように重なって祝い、聖心への喜びの余韻を繰り返しつつ詠う。

紅(くれない)の
地(ち)から新たに
枢機卿

銀祝の
慶(よろこ)びぞ増す
逢坂(あうさか)に

祝されよ
千代に八千代に
聖心よ











おそらく大阪教区、また日本全国から大きな霊的花束が送られることと思いそれを期待します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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愛する兄第姉妹の皆様を、聖ヨゼフのノベナにご招待いたします

2018年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会アジア管区では、いつも3月には聖ヨゼフのノベナを3回お捧げする習慣があります。

愛する兄第姉妹の皆様を、聖ヨゼフのノベナにご招待いたします。

3月19日に聖ヨゼフにアジア管区を奉献するために、

第1回目(奉献の準備として)・・・3月1日から9日まで。
第2回目(奉献の準備として)・・・3月10日から18日まで。
第3回目(感謝のノベナ)・・・3月20日から28日までお捧げします。

特に天主の平和が聖母の汚れ無き御心を通して、私たちに与えられますように!
聖母の浄配なる聖ヨゼフにお取り次ぎを願うために!
聖なる四旬節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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仮想通貨は危険だ!「信仰」によって成り立つ「カルト」だ。本当の穴場はどこに?

2018年01月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、或る方から仮想通貨についてどう思うかと質問を受けました。私は、その時マネーゲームだから「危ない」と思うと申し上げました。

 ところでこのブログをお読みの愛する兄弟姉妹の皆様の中にも、どう考えたら良いかと思う方々もおられるかもしれません。

 秋田日記のテレジアさんも記事をアップされていました

 仮想通貨(cryptocurrency)の問題点は、底支えするものが何も無い、実体の支えが無いということです。

 元来は紙幣は額面の金や銀(正貨としての金貨や銀貨)と交換するという保証の上に成り立っていました。これを金本位制と言いますが、これは1971年のニクソン・ショックをきっかけに有名無実化しました。金本位制が完全に終わったのは今からたった40年まえの1978年のことです。

 本位貨幣との兌換が保障されなくなった法定紙幣は、不換紙幣とも信用紙幣とも言われます。現在は、印刷された紙きれですが、しかし法定通貨には「有益さ」があります。何故なら、例えば「円」という単位の通貨で、物を購入したり、税金を納めたり、電車に乗ったりすることができるからです。

 しかし仮想通貨は純粋に「信じる」ことによって成立しています。この特定の仮想通貨の値段が将来上がるだろうと信じて賭けることによってです。この値段が上がれば上がるほど自分の確信が強まります。しかし、特定の仮想通貨に価値があるから値段が上がるのではありません。値段が上がるだろうと推測するから、投機するから、値段が上がるのです。つまり「バブル」です。

 ビットコインなどのようなその他いろいろの仮想通貨は「通貨」ではありません。何故なら、それを使って日常生活を送ることが普通はできないからです。ビットコインの「有益さ」として一部の人々によって使われていることは、政府のコントロールが効かないので、犯罪のためです。コンピュータをハイジャックしてその身代金としてよくビットコインが要求されます。

 今、ビットコインが最初に出てきたので有名ですが、誰かがコンピュータのプログラムを作って新しい仮想通貨を次々と作ったとしたら、ビットコインは特に特別なものではなくなります。スカイプが出てきたときは有名になりましたが、いまではラインやカカオトークやワッツアップなども出ています。ですからビットコインの流通量が決められて一定以上は増えないとは言うものの、その他の無限の別の「ビットコイン」らが登場してくるので、希少価値を持つことはありません。

 ビットコインは金のようだといっても、金が持っているような「有益さ」はありません(金のようにプレゼントすることができるぐらい、だそうです。)。価値がジェットコースターのように変動するので、ビットコインで支払いを受ける動機付けは高くなく、単価があまりにも高価で、使いにくいので、日常生活では使えません。

 仮想通貨はバブルで成り立っています。価値がある、価値が出る、という信仰(迷信?)によって成り立っています。カルトです。このカルトの信者は、ますます多くの信者を作ろうとします。何故なら、多くの人々が信じて買えば買うほど値段が上がるからです。欲望とどん欲のカルトです。

 しかし仮想通貨は、実体がないのですから、本当の価値はゼロです。「まだまだ上がる」と信じさせ、期待させる博打です。

 以上は、Peter Schiff の意見を参考にしました。

 愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞお気をつけください。

 賭けをするならここだ!という、確かな大穴場は、ただ一つだけしかありません。イエズス・キリストです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
ピター・シフは、ビットコインは0ドルになるだろうと警告しています。
Bitcoin is on the Road to $0, Says Peter Schiff:Peter Schiff, CEO of Euro Pacific Capital Inc., said that Bitcoin has "no value" and that it will drop along with other cryptocurrencies to a value of zero.

【参考資料】
キャッシュレス経済に向かっている現状について

日本は高額紙幣を廃止すべきである――そんな主張が、今年秋頃から海外を発端に相次いでいる。口火を切ったのはマクロ経済学の大家で米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授。自著で、5~7年かけて1万円札と5000千円札を廃止することで、「レスキャッシュ社会(現金割合の少ない社会)」を実現することを日本に提案した。

また、元イングランド銀行金融政策委員のウィレム・ブイター氏も、『日経新聞』(11月20日付)でロゴフ氏に賛同しつつ、高額紙幣を廃止し、半ば強制的に銀行に預金させることで日銀による集中管理型デジタル通貨に移行すべきと説いている。

昨年11月には突如、インドが1000ルピー(約1700円)紙幣と500ルピー紙幣を廃止したのも記憶に新しいが、このような高額紙幣廃止議論は世界で巻き起こっている。

米国で100ドル札が廃止となるか

ECBが15日に500ユーロ紙幣の廃止を非公式に決めた翌日の16日に、米クリントン政権下で財務長官を務めたローレンス・サマーズ氏は、ワシントン・ポスト紙に「100ドル札を廃止する時がきた」と題する記事を掲載した。米国で現金廃止を提唱するには、最適なタイミングである。欧州に続き米国、その先に日本での高額紙幣、1万円札の廃止に動き出す可能性が高くなった。

高額紙幣の廃止の議論は、ハーバード大学ケネディスクールのピーター・サンズ氏の論文を参考にしている。サンズ氏は、脱税を含む金融犯罪、テロリストや麻薬組織による資金の流れ、マネーロンダリング、汚職には高額紙幣が好まれて(紙幣の量と重さでは、高額紙幣の方が大金を動かせる)使われていると指摘し、有効な犯罪撲滅手段として、500と50 ユーロ札、1,000スイスフラン、100ドル札などの紙幣を廃止することが重要であると提唱している。
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主の御降誕から始まったノベナのミサを今日捧げ終えました。聖母の汚れなき御心が私たちにイエズスの至聖なる聖心を与えてくださる

2018年01月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日1月2日イエズスの至聖なる聖名の祝日、主の御降誕から始まった愛する兄弟姉妹の皆様の意向のためのノベナの9回のミサを捧げ終えました。感謝いたします。

「救いは主以外の者によっては得られません。この世において、われわれの救われる名はそのほかにはないからです。」

 ところでレネー神父様のクリスマスの素晴らしいお説教は、私たちに霊的な新しい息吹を与えてくれます。

それは、聖母の汚れなき御心が、私たちにイエズスを与えてくださる、イエズスの至聖なる聖心を与えてくださる、という事実です。

「天主は、まず童貞聖マリアに御子を与えられ、そのあと聖母を通して私たちに御子を与えられた。私たちがイエズスを見いだしたいと望むなら、まず祝されし童貞を見いだし、聖母を通してイエズスを見いだすのです。これは、羊飼いたちが行ったことです。「彼らはマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。福音書にある順番に気を付けてください。彼らはまずマリア様を見いだし、そのあと幼子イエズスを見いだしたのです。

ああマリアよ! ああ聖なる天主の御母よ、私たちが熱心に探し求めている御身のイエズスをお与えください! 私たちにはイエズスが必要なのです! 罪にまみれた私たちのこの世は、救い主が必要なのです。彼だけが「罪から民を救う」(マテオ1章21章)のですから。彼だけがそれを行うことができます。なぜなら、彼だけが聖であり、彼だけが主であり、彼だけがいと高き御者、キリストなるイエズスだからです! でも、彼の近くに行けるのは誰でしょうか? 

マリアを通して私たちにイエズスをお与えになることによって、やはりマリアを通して「天主は御子とともに他のすべてを私たちに下さらないはずがあろうか」。マリアを通して「私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた」のです。そして、聖母は天主の聖寵の御母となられたのです。

御身において、玉座の上のように、私たちは天主の上智である幼子イエズスを見いだします。多くの美しいご像が、御身をこの「上智の座」としています。私たちに、御身の膝の上に座っておられる天主の上智であるイエズスを見いださせ給え! 三人の賢者が御身を見いだして、「その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した」。彼らは星を見て喜びました。御身は、「正義の太陽」の到来を告知する私たちの暁の星であり、御身を見て、私たちは賢者たちとともに喜ぶのです、われらが喜びの源よ!

新しいエワ、新しいアダムの助け手として、御身は禁じられた実を食べるよう私たちにお与えになることはなく、いのちの木の実、すなわち十字架の実であるイエズスを私たちにお与えになります。これが、私たちが待ち望んでいる実であり、私たちは御身の嘆願を聞きます。「私のところに来なさい、私に願うあなたたち、私の実によって飽かされたいあなたたちよ」。

「御身を頼みとする者は幸せ。彼らは涙の谷を通り、一歩ずつ登る気持ちを固めていく」。ですから、この涙の谷において、私たちは御身に依り頼むのです。なぜなら、御身は、キリスト信者の助け、絶えざる御助けの御母であって、常に私たちが御子を見いだすように助けてくださるよう、私たちのために絶え間のない祈りをすることによって、準備なさっているのですから。

諸聖人は御子イエズスの御前に集まって永遠に感謝の賛歌を歌うこの祝されし日がやって来るとき、その感謝は、私たちを贖うためのご来臨という主のあわれみへの感謝ですが、また主が私たちのところへ御身を通して来られたという御身への感謝でもあります、ああ諸聖人の元后よ! 無原罪の御宿りから被昇天まで、御身は完全に主にお仕えになりました、ああ主のつかいめよ。

天国と永遠の平安への道において、聖なるロザリオの忠実な黙想を通して、私たちをこれに倣わせるよう取り成し給え、ああ平和の元后よ!」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭:本当の平和の条件と基礎

2017年12月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭について黙想してみました。





 最近のニュースによると、NPO法人「チャリティーサンタ」(東京)が今年の9月に調査したところ、103人の回答のうち10人に1人が、お金の余裕がないことなどが理由で子どもに「うちにはサンタは来ない」と伝えたことがあるそうです。

 この調査によると、クリスマス時期の気持ちを複数回答で尋ねると「楽しい」が58・3%でトップ。「子どものためにもっとやってあげたい」が56・3%、「お金がかかって大変」が42・7%と続いたとのことです。年収が低くなるにつれ「切ない」「しんどい」という回答が増えた、そうです。シングルマザーの3人に1人が、残念なことに「クリスマスなんてなければいい」と考えたことがあるのだそうです。きっと生活が大変なのだと思います。

 でも本来は、クリスマスとうのはサンタクロースの日でもなければ、「セールス」の日でもないし、「切ない」「しんどい」日でもないんです。

 「サンタクロースのクリスマス」なんて、なくてもいいけれど、「本当のクリスマス」はなければ困ります。

 何故なら、本当のクリスマスは、天主が人となって幼子としてお生まれになった日だからです。本当のクリスマスは、この全世界の創造という贈り物を超える、人間が天主と結びついたという無限の贈り物を頂いた日だからです。

 クリスマスは、天主が私たちを赦すために、私たちにご自分を贈り物として与えるために、人となって生まれた日です。だから世界中で祝っているのです。

 天皇陛下のお誕生日は私たちにとって大切な日ですが、クリスマスは天皇陛下のお誕生日よりももっと大切な日です。

 日本は、はやぶさという小惑星探査機を打ち上げましたが、それが地球に戻らせて大気圏再突入させました。これもすごいことですが、全宇宙を無から創造した天主が、私たちのうちに幼子としてお生まれになったというものすごい出来事を祝う日です。

 どのうちにもサンタは来ませんが、私たちのため天主は人となって来られました。

 それは、私たちの罪を赦すためです。私たちから罪の負債を取り除くため。私たちに代わって罪の償いを果たすため。十字架の苦しみを受けるためです。

 天主が人間を通してお働きになる、永遠が時においてお働きになる、天主が幼子の姿でお生まれになる、そんなことを聞くと、人々はつまずいて転んでしまいそうになるかもしれません。はい、何というつまずきでしょうか!

 聖性そのものであり罪がない天主が、極悪人のように苦しみ屈辱を受けて十字架に付けられる、何というつまずき!

 天主がパンの外見において真にましまし給う、なんというつまずき!

 天主が人間を通して不可謬の真理の教えを垂れる、なんというつまずき!

 天でも地でも罪を赦すことができるという天主の力を人間に与える天主、なんというつまずき!

 水によって洗礼を受けることによって、罪が全て洗われ赦される、なんというつまずき!

 人類の全ての罪を負って無罪であるにもかかわらず冤罪で死刑とされるためにお生まれになる天主、なんというつまずき!

 待降節第二主日の福音でイエズス・キリストはこう言いました。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 静けき真夜中、ベトレヘムで私たちの主は御母の元で安らかに眠っておられました。あたかも何も知らないかのように。

 ゲッセマニの園では、同じ主は苦悩のうちに祈られます。愛する三名の弟子達には、彼らが警備員であるかのように「目覚めて祈れ」と命じました。祈るイエズス・キリストには、罪の重みが私たちの主の上に重くのしかかります。人類の犯す公然の大犯罪と秘密のうちに犯される恥ずべき罪と全ての悪の行いをあたかもご自分が犯したかのように。主は、血の汗すら流し、真っ赤な血潮が滴り落ちます。

 三人の弟子達は眠りこけていました。エルサレムも眠っていました。起きていたのは、イスカリオトのユダと、主を捕らえようとする人々だけでした。あるいは、酒盛りで酔いつぶれつつ「天主なぞどこにいるのか」とうそぶく青年だけかもしれません。

 人々は疲れると眠ります。しかし心配事があると眠られません。使徒たちは、その時の重大さを知らなかったので、危険を知らなかったので、人類の罪の重みに気がつかずに、眠っていました。

 ペトロは剣を持って寝ていました。武装して、しかし、寝ていました。物理的な敵の攻撃に警戒してはいましたが、罪については心配していませんでした。

 弟子たちが「主よ、ごらんください。ここに剣が二ふりあります」というと、主は「もうよい!」とおおせられました。Domine, ecce, gladii hic duo. Sed Ipse dixit illis ; sufficit. 私たちはペトロのようなのかもしれません。物理的な活動さえすれば良い、と思っていたとしたら。

 どうして人間は兄弟同士で戦争をするのでしょうか?何故なら、人間は父なる天主にたいして罪を犯すことによって戦いを挑んでいるから。天主の創った自然に反する法律を作ろうとしているから。善と悪とを同じだとし、真理と誤謬も区別しないようにしているから。ニーチェの言葉に従えば、価値の転換(Umwertung aller Werte)を行い、悪はこれからは善と見なし、善を悪とみなそうとするから。

 天主の掟を無視し、家庭という聖なる家族制度は偽りの自由(放埒)によって汚され、子供たちは、十字架もなく救い主もなく天主の愛もなく、人間が罪を犯すことが自由であり人権であるという世界を作るようにと教えられているから。罪なき胎児を殺害するのが人権であるとうそぶいているから。そのような時、剣だけで足りるのでしょうか?

 聖ペトロはローマで殉教する直前にこう書きます。ローマが天主を忘れて生活していることを警告します。「かれら(=偽預言者・偽教師)の裁きは、古くからはたらきつづけ、その亡びは眠っていない。…かれらは知らないことがらをののしり、…けもののように、亡び、そして不義のむくいをうけるであろう。」(ペトロの後の手紙第2章)

その後、西暦370年、西ゴート族の王家に、ドナウ川河口でアラリックという子供が生まれました。だれもこの子供の歴史的な重大性を予見したものはいませんでした。アラリックは、ローマを3回包囲します。第3回目は410年8月24日、野蛮で凶暴な兵士たちがローマになだれ込み、ローマの富を強奪・略奪しました。多くの公共施設が略奪され、歴代皇帝の墓所が暴かれ、フォールム・ロマーヌムの複数のバシリカは破壊され、多くが捕虜となり、奴隷として売り飛ばされ、強姦・虐殺されました。

ローマ略奪の後、アラリックはアフリカ属州を征服しようと船舶にのり込みますが、突然死亡します(西暦410年、40歳)。ゴート族の古い慣習に従って、兵士たちはブゼント川の水を迂回させてアラリックの墓穴を掘り、永遠のローマを破壊した男を埋葬しました。

紀元前387年、ローマは、ブレンヌス率いるガリア人に侵略された以来、侵略されたことがありませんでした。800年の間なかったことが、想像もできなかったことが起こってしまったのです。ローマの驚きは、その体験した恐怖よりも遥かに大きいものでした。ローマの屈辱は、その驚きよりもさらに大きなものでした。聖エロニモは、ベトレヘムでそのニュースを聞いてショックで嗚咽します。

 私たちがいまもっている日本国憲法は、終戦直後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。

「日本国民は、…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

しかしそれとほぼ同時に、1948年7月13日、優生保護法によって、日本の母親の胎内の子供たちへの戦争が可決されました。自国民の子供たちへは、恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を認めませんでした。この子供たちが流した血の償いは誰かがしなければなりません。「剣をとる者は剣で亡びるのだ。」

金正恩が、大阪出身の高英姫を母として1984年1月8日に生まれたとき、だれも彼の将来を予見する者はいませんでした。21世紀のアラリックとなるのでしょうか?その様なことがありませんように!

金正恩にはクリスマスを目の敵にしています。ニュースによると、2016年、金正恩はクリスマスを祝う行事を公式に禁止しました。その代わりに国を挙げて1919年12月24日生まれの、祖母の金正淑(キム・ジョンスク)の誕生日を記念しています。

天主教では、人々は天主イエズス・キリストを全てに越えて愛します。しかし、共産主義国家では人民は共産党に忠誠を誓わなければなりません。金正恩は、祖父の金日成を崇拝することを望んでいます。


 Vigilate et orate.「目覚めて祈れ」と主は言います。Vigilate とは「目覚めていなさい」「外的に警戒していなさい」ということです。

 Orate とは「祈れ」「内的に武装していなさい」ということです。ペトロは剣だけに信頼して、祈りを怠ってしまいました。外的な活動は、よく祈りよりも大切にされがちです。肉体上の敵は剣や銃や戦車やミサイルなどの軍事力で勝つことができます。しかし精神的な悪は、祈りと十字架でなければ勝てません。「祈りが一体何の役に立つのか?」ペトロはそう考えて剣を手にとって安心して眠りました。

 北朝鮮は、大陸間弾道ミサイルを開発し、核弾頭を大量に生産しようとしている、米ドル紙幣や中国の紙幣を偽造し、インターネットでハッキングし不正に資金を調達している、だから北朝鮮の耳を剣で切り落としてしまえばよい、金正恩を排除すればよい、と。それで全てが解決すると思っていたとしたら、私たちはペトロのようなのかもしれません。問題はもっと根の深いところにあります。

 罪こそがこの世での最大の悪であること、ルターの宗教革命も、ボルシェヴィキ革命も、戦争も、罪の結果であること、それを知ってこそ私たちは本当の平和への道を歩み始めることができます。革命も戦争も、私たちの生活態度の結果が熟した時に生じるものだからです。

 材木に熱をかけると炭になって火を出すように、天主の掟に反して人々が生活すると、その結果が社会全体に現れます。重力に逆らってみようとして高いところから飛び降りたとしても、怪我をするのは人間の方です。天に向かってつばを吐けば、その結果は自分に返ってきます。天主に悖って、自然の秩序に刃向かって行動すれば、苦しむのは人間です。天主の掟に逆らうことによって、天主の掟を破壊することはできません。そうすることによって破壊されるのは自分自身です。

 自分の蒔いたものを刈り取らねばなりません。天主に対して戦争を起こせば、人間は戦争を望んでいなかったにもかかわらず戦争を呼び起こしてしまいます。

 いたずら坊主を父親が叱ってビンタするように天主が私たちを罰するのではありません。何故なら、いたずらとビンタは、必ず起こるという因果関係がないからです。

 しかし、雨が降るとどうしても大地がぬれるというように、天主に背くとどうしても人間が罰を受けるのです。天主無しに、人間の力だけで平和な世界を築き上げることができるという幻想のうえに、この世界を作ろうとしているがゆえに、戦争を起こしてしまうのです。

 聖父なる天主を認めないところに、どうして人間が互いに愛すべき兄弟であることを認めることができるでしょうか。兄弟ではなく「人間は人間にとってオオカミである」とホッブスは言ったではないでしょうか。天主という土台を切り崩しつつ自分の住む世界が崩壊していっても、自分であたりに毒をばらまきながらそこから汲む飲み水が苦くなっても、そのことを天主に文句を言うべきではありません。

 地獄が罪の結果であるように、戦争も罪の結果です。

 ゲッセマニの園に、ユダがやって来ます。武装してやって来ます。司祭長、律法学士、長老たちからおくられた人々が、剣や棒をもってついてきます。裏切り者は、「私がくちづけするのがその人だ。捕えて厳重にひいていきなさい」とあらかじめ合図しました。

 愛情のしるしの接吻は、キリスト教の歴史におけるトロイの木馬でした。現代では、「人類の一致のため」「世界平和のため」という名目で、キリストが否定されています。「メリー・クリスマス」の代わりに「幸せな休暇」と言い、カトリックの聖伝のミサの代わりにエキュメニカルな礼拝式が取って代わろうとしてます。

 「天主が悪を許すわけがない」というのは、一般に広まっている大きな誤解です。悪の存在を見て、人々は「天主は一体どこにいるのか?」と冒涜しあざ笑う人々がいます。何故私は交通事故にあったのか?何故私はこんなに不幸な目に遭っているのか?何故私はこんなに苦しんでいるのか?俺がいったい何をしたのか?俺は苦しまなければならないような悪いことはしていないぞ!俺のやってきたことはすべて正しい!苦しみたくない!

 イエズス・キリストの十字架の左に付けられた盗賊は、自分を十字架から解き放ち、自分がまた働くことができるようにさせることが救い主の証拠であると主張しました。「もしもおまえがキリストなら、自分を救い、俺たちを救え!」(ルカ23:39)

 私たちが繁栄を満喫しているとき、人は天主について疑問に思いません。天主のしなければならない義務は、私たちが思い通りの人生を送ることができるようにすることであると考えているのかのようです。

 不幸なとき、天主を信じるという人でさえも、天主の存在を疑うかのような態度をとってしまうかもしれません。天主とは、あたかも私たちのこの世の成功を叶えてくれなければならないものであると考えているかのようです。

 この世の成功と、天主の性質とを一緒くたにするということは、悪には天主の力が及ばない、悪があることは天主が負けたことだ、と誤解することに起因しています。しかし、私たちの主は言います。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 最後の晩餐の後、かんらん山に向かいつつ、私たちの主は弟子達にこう預言しました。「今夜、あなたたちは、みな、私についてつまずくだろう。"私は牧者を打ち、そして羊の群れは散る"と書かれてあるからだ。」

 天主の全能は、ご自分の御旨を果たそうとしない道具でさえも使って自分の目的を果たすことができる全能です。天主は、遙かにより大いなる善のために、時には悪が起こるのを許可するほどの全能をお持ちです。聖パウロは言います。「罪が増したところには、それ以上に恩寵はあふれるばかりのものとなった。」

 ローマ人の百夫長は、十字架の上で息絶えた私たちの主、天主の子羊であるイエズス・キリストの心臓に槍を貫き指します。ユピテルとマルスの神々を信じていたこの軍人は、その時イエズス・キリストについて「この方は天主の子だ」と叫びます。その天主の子の御受難の記録はトリノの聖骸布に残されています。

 ベトレヘムで天主が幼子として生まれた時、天使たちは大喜びで歌を歌いました。
天の軍勢の大群が「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和」と天主を賛美しました。

 何故なら、私たちがうけるべき罰を全て自分の身に引き受けるために天主が赤子となって生まれたからです。救世主がお生まれになったからです。私たちが受けるべき苦悩を受けるために、私たちに本当の平和を与えるために、お生まれになったからです。

 私たちが、本当のクリスマスに戻るとき、イエズス・キリストを真の天主として信じ、礼拝し、希望し、愛する時、この世界に平和が戻ります。

 ミサ聖祭で司祭が聖変化の時、御聖体を奉挙します。その時、私たちは使徒聖トマスのようにこう言います。「わが主、我が天主なり!」と。ミサ聖祭で司祭が御聖体を私たちに示す時、洗者聖ヨハネの言葉を繰り返して、こう言います。見よ、天主の子羊を!Ecce Agnus Dei!

 馬草おけに横たわる幼子は聖母によって布に包まれましたが、十字架から下ろされたイエズス・キリストは聖母によって聖骸布に包まれました。

 願わくは、聖母よ、私たちが幼きイエズスを心から迎え入れることができますように助けてください。願わくは、私たちが主のおっしゃったとおり、自分の十字架を日々になって主の御後を歩むことができますように。

 ベトレヘムのクリスマスとゴルゴタの聖金曜日とミサ聖祭の挙行は、一致します。ベトレヘムの幼子とトリノの聖骸布とミサ聖祭の御聖体は一致します。

 東京では、明日、朝8時半からトリノの聖骸布の展示と、御降誕の前日のミサがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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マルコによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年05月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! 聖マテオによる福音の朗読、数名の方々が感謝して下さり、より多くのファイルをご紹介することを励まして下さった方々がいました。大変うれしく思います。調子に乗って、マルコによる聖福音の朗読もご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マルコによる聖福音の朗読

マルコによる聖福音の朗読 第一章
マルコによる聖福音の朗読 第二章
マルコによる聖福音の朗読 第三章
マルコによる聖福音の朗読 第四章
マルコによる聖福音の朗読 第五章
マルコによる聖福音の朗読 第六章
マルコによる聖福音の朗読 第七章
マルコによる聖福音の朗読 第八章
マルコによる聖福音の朗読 第九章
マルコによる聖福音の朗読 第一〇章
マルコによる聖福音の朗読 第一一章
マルコによる聖福音の朗読 第一二章
マルコによる聖福音の朗読 第一三章
マルコによる聖福音の朗読 第一四章
マルコによる聖福音の朗読 第一五章
マルコによる聖福音の朗読 第一六章


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御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale.

2017年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月1日、勤労者聖ヨゼフの祝日です。聖母の月が始まりました。5月は、シュテーリン神父様が日本に来られます。5月3日から5日までは秋田巡礼です。

 5月の初金と初土に大阪で、5月7日(主日)は東京です。
今回は、ドイツで最初に聖ピオ十世会の修道士となったクラウス修士(Br. Klaus)も来日される予定です。

 5月は、都合により、聖伝のミサはこの一回だけになってしまいました。(予定されていた5月21日は、フェレー司教様のマニラ訪問のためにフィリピンにいなければならなくなりました。)愛する兄弟姉妹の皆様の多くが聖伝のミサにお越しになることをお待ちしております。

 ところで、御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale. 復活祭から聖霊降臨後の土曜日(三位一体の主日の直前の土曜日)までの特別の期間を「復活節」と呼びます。

 カトリック教会は、大祝日には、七日プラス一日の、八日間(オクターヴ)付きで祝います。例えば、聖霊降臨や御降誕祭がそうです。復活祭もそうです。しかし復活祭の場合、大祝日中の大祝日なので七日プラス一日、復活祭のオクターヴ(第八日目)が終わるその日から数えて、さらに、七日掛ける七プラス一日(7x7+1)の五〇日の間、更に祝います。五〇は旧約聖書によると大きな喜びを象徴する数です。

 御復活祭が始まる前の季節はバビロン捕囚の七十年に例えられ、七旬節があります。七旬節の間、私たちはアレルヤを歌うことが出来ません。逐謫・流刑にあったようです。

 復活節にはアレルヤが追加されます。絶え間ないアレルヤの歌は、天国にいるかのようです。あたかもユダヤの民がバビロンから、乳と蜜の流れる約束の地に戻ってきたかのようです。御復活直後のイエズスも、弟子達の前で蜜を食べます。復活の主日の直後の主日には聖ペトロの書簡の言葉が響きます。「新たに生まれたみどりごのように、それによって救いに成長するために、まじりのない霊的な乳をのぞめ。」

 復活節の間(聖霊降臨の主日とその八日間を除いて)ミサ聖祭では司祭は喜びの白の祭服を着ます。復活の栄光の白、幼子のような汚れのない白、乳よりも白い輝きです。

 イエズス・キリストは、ご自分の血によってみどりごである私たちを養って下さいます。十字架の上での死によって、ご自分の羊の群れに命をお与えになります。御復活によって、道を迷って失われた羊である私たちに赦しと慰めと導きを与えます。聖ペトロはその書簡で言います。「あなたたちは、羊のように迷っていたが、今はあなたたちの霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである。」私たちは全て、イエズス・キリストの元に群れをなさねばなりません。

 イエズス・キリストの生まれる二〇〇〇年前、異教の中から天主はアブラハムを選び、アブラハムから偉大な民を作り上げました。この民は、天主によって聖化され、天主のために聖別されました。

 ユダヤ民族が偉大なのは、アブラハムに由来するからではなく、この民からイエズス・キリストが生まれるべきであったからです。ユダヤの民は、祝された天主の御一人子なるイエズス・キリスト、約束された贖い主の故に特別なのです。

 天主はこの民を特別に愛し、保護し、この民から人類の贖い主と、贖い主の御母、使徒たちが生み出されました。ユダヤの民は、キリストにおいて、人類のために偉大な善を運びもたらしたのです。なんと祝された民でしょうか!

 しかし、残念なことに、ユダヤの民は書かれた律法と預言に不忠実でした。残念なことに、ユダヤの民は、救いの実体であるキリストよりは、印と陰にこだわっていました。イエズス・キリストを信じず、イエズス・キリストを拒否してしまいました。

 キリストは霊的に全世界を自分の元に集めようとしました。しかし、残念なことに、ユダヤ教は全世界の政治的な支配を求めていました。ユダヤ教は、霊的な救い主の代わりに、政治的なこの世的な救い主を求めます。

 イエズス・キリストは、全世界の民族を霊的に統治することを臨んでいます。イエズス・キリストは、霊的な救い主です。そこで、この復活節 Tempus Paschale の間、イエズス・キリストの昇天があります。私たちの祖国は天国にあることを教えるために。イエズス・キリストの統治が霊的であると教えるために。イエズス・キリストは、ご自分の霊、聖霊を私たちに送ります。聖霊によって教会を統治するように。新しい霊的なイスラエルであるカトリック教会の霊的な指導の下に、諸国が合い互いに助け合うように、望まれます。

さて、お便りを頂きましたので、ご紹介させて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは! お久しぶりです🙂 もう少しで 秋田巡礼ですね!

 昨夜 マテオによる聖福音の日本語の朗読を拝聴いたしてました、ありがとうございます。この朗読ファイルは、「天主様」で統一されていて、バルバロ訳の聖書も開いて時々聖書にも目を通しながら聴きました。貴重です。神父様のお声 若いです。時折ワンちゃん🐕の鳴き声が聞こえました、最後の28章になりましたら 「待て!おあずけ!」となりましたゆえ、神父様に御礼とお願いのメールを差し上げております。28章の件 どうぞよろしくお願い致します。また 神父様の聖書の朗読を 他のもお願い申し上げます。

 少し前のことですが、「イエズス・キリストが死なれた日は」(4月13日)にては、その説明を読みすぐに、神父様の説明と照らし合わせて 聖書の四つの福音書を開いてじっくりと読んでみました。過ぎ越しの食事をとる日が 共観福音書とヨハネ福音書において、ずれがあるというところです。そう言われてみると本当にそうです、自分が何も考えずに聖書を読んでいることをあらためて知らされています。これまで自分はそのような違いにも気づかないで聖週間を過ごしてきたのだなとわかりました。十二人の弟子たちや一般民衆と、上流階級・司祭階級・衆議所などというような人たちでは、過ぎ越しを異なる日に行っていたということを とてもくわしくご説明いただいて、・・まだ私は十分には理解できていないように思いますが・・感謝申し上げます。聖ヨハネは神殿に魚を卸していて、司祭職の人達の習慣にもよく精通していたのだという説明が思い出されました。また、用意日という言葉が福音書の中にあることも、すっかり見逃して読み過ごしていることにも気づきました。(用意日のことを バルバロ訳以外の聖書では、準備の日と訳していました。)イエズス・キリストが死なれた日は、ユダヤ人にとって 天主の子羊を裂く時、過ぎ越しの食事の時であった。そして イエズス様におかれましては 同時にその日 すべてを成し遂げられ、御父からのみ旨をすべて終えられた(安息日)だったのかなと 想像しました。聖書を読むということは、とても奥深いことであると感じさせられました。いつもご指導ありがとうございます。今年の四旬節は おかげさまで 聖書に親しむようになれたことも、とても嬉しく思っております。(ヨハネ福音書の公教要理の宿題もご報告したいともっていましたが・・・後ほどに。)

神父様の4月8日のお説教を読ませていただいて、悲しみ苦しみと喜びのコントラストをずっと思っていました。民衆からの栄光と司祭長からの冒涜というコントラスト、聖金曜日と復活の主日のコントラスト、十字架と復活というコントラスト、というお話がレフレインのように響いてきていました。

 枝の主日でも、その民衆がホザンナと歌って喜び歓迎したこととイエズス様の悲しみの両方が歌われましたが、その意味はこのお説教の中で話されていることと同じかもしれないと思いました。地上的な物事しか見えない時は、悲しみ苦しみ辱めの面だけ浮かび上がりますが、聖寵をいただいて天上のことまで見やる視野をいただけるなら、そこ(悲しみや苦しみ)に喜びや永遠の幸福が透けて見えるようになるということかなと 感じました。

ファチマで 三人の子供たちは天国からいらした光り輝く聖母マリア様を見たと同時に地獄の光景も見させられた、とあります。光と影、そして永遠とこの世。美しい典礼、グレゴリア聖歌や素晴らしい彫刻や絵画、それらは、天主様の栄光を讃えるために作られたと感じることがあります。(先日 美容院で渡された雑誌の中にミケランジェロのピエタの写真があり、ミケランジェロのマリア様の理解の仕方がなんて素晴らしいんだろう感動してしまいました)。わたしがカトリック教会の扉を叩いたのも、永遠という言葉がきっかけになっていたことを思い出します。人間の心の奥底には、永遠への憧れが息づいているのでしょう。天国からいらっしゃったマリア様の美しさと地獄の恐ろしさの対比の中で、ファチマの子供たちは永遠を思い信仰を生きたのですね。

そして4月16日のお説教では、力強い励ましをいただきました。イエズス様が復活されたことを受け入れることを選ぶ人は少ないかもしれません。特にこの日本では! イエズス様が復活されてマリア様が天の元后であることを信じる人・知る人はほんのわずかで、家族がカトリック信者でない人は孤独に信仰生活を送ってます。復活祭の主日のお説教をUPしていただいて、お説教を読んで 復活の喜びをようやく味わいました。ありがとうございます。一人でも多くの人に その喜びが伝えられますように 祈ります。

四旬節の前の準備の期間から、四旬節を良く過ごせるようにと大小斎や犠牲と祈りをよくできるようにと、そして 受難節のなかでの喜びと苦しみ悲しみのコントラストを強く意識させていただきました。大小斎も 四季の斎日や決められている日以外にも家族の協力もあり、たくさんお捧げできましたことを感謝しています。おかげさまで わたしは今年 復活の喜びの意味をよりよく黙想できたように思います。神父様ご指導ありがとうございます。

 今朝 復活節の主日の朝に わたしは マリア様の“イエズス様の復活”を待つ愛のことを黙想していました。イエズス様が最初に復活のお姿で現れてくださったのは 御母マリア様であったとのことを お説教でも触れてくださいました。受胎告知によって喜びだけでなく天主様への愛と人々の救いのために苦しむことを受け入れた聖マリア様の汚れなき御心は、聖土曜日に十字架上で苦しみと悲しみの中で罪に打ち勝ち死と地獄に勝って復活されたイエズス・キリストを待ち望む喜びに満たされていたことを 思いめぐらしました。マリア様は、喜びの中で実は苦しみをも受け入れられたということとコントラストするかように、深い悲しみ苦しみの中でも希望を失うことなく喜びを待ち望まれていたということを、今年ははっきりと理解できたように思います。(ロザリオでもこうしたことを思いめぐらしながら祈れて感謝です。2015年6月28日のブログ Ecce ancilla Domini Fiat! 大好きです。)勝利された主イエズス・キリストと いつもともに歩めますように。汚れなき御心のマリアに助けられ、いつも喜びに満たされていますように。

長々と乱文を書き連ねてしまいまして 失礼をお許しください。
秋田巡礼に一人でも多くの方が参加されますよう 私も微力ながらお祈りします。秋田のマリア様の警告は とても現実的です。胸が痛みます。
秋田の聖母 我らを憐れみ給まえ!

聖マリアの汚れなき御心のうちに!アレルヤ!

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ブログにマテオ様による聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介して下さってありがとうございます!

既にCDにして食事の時や、車の運転時などにずっと聞かせて頂いているのですが、この音源のおかげで福音書に接する機会がとても増えて、内容もよく知ることが出来て、とても嬉しく思っております!是非、さらにご紹介して頂けると、新約聖書に接する機会が皆さん増えられてとても良いのではないかなぁと思います!小野田神父様の朗読もとても聞きやすいです(o^^o)♪

デオ・グラチアス!アレルヤ!


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マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

今回は、マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介いたします。これは愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが約十年ほど前に新約聖書を全て朗読して録音した時のものです。

もしも好評であれば、準備ができ次第、愛する兄弟姉妹の皆様に新約聖書の録音ファイルを、さらにご紹介していきたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マテオによる聖福音の朗読


マテオによる聖福音 第一章
マテオによる聖福音 第二章
マテオによる聖福音 第三章
マテオによる聖福音 第四章
マテオによる聖福音 第五章
マテオによる聖福音 第六章
マテオによる聖福音 第七章
マテオによる聖福音 第八章
マテオによる聖福音 第九章
マテオによる聖福音 第一〇章
マテオによる聖福音 第一一章
マテオによる聖福音 第一二章
マテオによる聖福音 第一三章
マテオによる聖福音 第一四章
マテオによる聖福音 第一五章
マテオによる聖福音 第一六章
マテオによる聖福音 第一七章
マテオによる聖福音 第一八章
マテオによる聖福音 第一九章
マテオによる聖福音 第二〇章
マテオによる聖福音 第二一章
マテオによる聖福音 第二二章
マテオによる聖福音 第二三章
マテオによる聖福音 第二四章
マテオによる聖福音 第二五章
マテオによる聖福音 第二六章
マテオによる聖福音 第二七章
マテオによる聖福音 第二八章

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モーゼとキリスト

2017年03月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

旧約のモーゼはキリストの前表でした。モーゼは選ばれた民イスラエルの救い主、指導者、養育者、教師となることを天主に選ばれました。
ファラオとの対決の後、過ぎ越しの夜、過ぎ越しの子羊を屠って食した後、モーゼはエジプトの奴隷状態から選民を解放します。
モーゼは、天主に命じられた通り、杖を持った手を挙げて、紅海を二つに割り、その中を、天主の民を、足を濡らせずに歩いて渡らせます。
彼は、民を砂漠の中で導き、マンナという天からのパンで養い、岩から水を湧き出させて乾きを癒やさせます。
モーゼは、過ぎ越しの50日後(過ぎ越しの後に命じられたとおりした40日間の断食の後)、シナイ山の上で、石に刻まれた天主の十戒を受け、これを民に与えます。天主と親しく語らい、イスラエルの仲介者であり、取り次ぎ者でした。民の弱さとかたくなさを堪え忍ぶ特別の忍耐が必要でした。

天主御父によってこの世に送られたキリストは、新しいイスラエルである贖われた人類の救い主、指導者、養育者、教師として、地獄の勢力(ファラオ)と戦います。
過ぎ越しの夜、キリストは、新しいイスラエルを罪の奴隷状態(エジプト)から解放します。イエズス・キリスト御自身が、屠られ、食される天主の子羊でした。
キリストは、天主の民を、洗礼という紅海を通して渡らせ、ご自分もその先頭に御受難という紅い海を通り抜けました。
キリストは、私たちをこの世の砂漠の中で導き、私たちを天からのパンであるご自分の御聖体で養い乾きを癒やして下さいます。
シカルというサマリアの町にあったヤコブの泉のかたわらで、サマリアの女にイエズスはこう言います。「この水をのんでもまたかわきをおぼえるが、私の与える水をのむ者はいつまでもかわきを知らないだろう。私が与える水は、その人の中で、永遠の命にわき出る水の泉となる」と(ヨハネ4章)。

またイエズスは、カファルナウムの会堂で、こうもおおせられました。「まことにまことに私はいう。天からのパンをあなたたちに与えたのはモイゼではない。私の父が、天からのまことのパンをあなたたちにくださるのだ。天主のパンは、天からくだって、世に命を与えるものである。(…)命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることがなく、私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう。(…)まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天からくだるパン、それを食べる人は死なない。天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である。(…)まことにまことに、私はいう。人の子の肉を食べず、その血をのまなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終りの日にはその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。(ヨハネ6章)

キリストは、復活の後50日目に、私たちに聖霊を送り、愛の掟を肉の心に刻んで下さいました。
イエズス・キリストは、大司祭として、天主御父と親しく語らい、しかも、私たちの弱さとかたくなさを堪え忍ぶ特別の憐れみと忍耐とで、私たちのための仲介者として、天で御父に取り次いでくださっています。
復活祭は近づいています。天主なる「モーゼ」イエズス・キリストは、私たちをして「エジプト」から解放してくれます。
復活祭に私たちに与えられる、天から下る生けるパンイエズス・キリスト!それが私たちに与えられるために、私たちの主はどれほどの苦しみと悲しみと辱めを甘受しなければならなかったことでしょうか!

復活祭には、新たな心で主の御聖体を受けることが出来るように良く準備しましょう!ファチマの天使が教えてくれたとおり、次の意向で御聖体拝領を御捧げいたしましょう。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

シスタールチアは、1931年8月29日にこう言っています。彼女はその当時24歳でしたが、私たちの主イエズス・キリストが来られて彼女に話しかけられたとき、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパ、ロシアそして世界の回心のために祈っていました。主はこう言われました。

「あなたはそれらの国々の回心のために祈ることによって私を非常に喜ばせる。そしてあなたはそれらの哀れな国々の回心を求めることによって大いに私を慰めている。『マリアの甘美なる御心がロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いでありますように』と言うことによって私の御母にしばしば願いなさい。」

では、私たちも御聖体拝領の時にこう祈りましょう。
「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え!」

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
Jacinta’s own preferred ejaculatory prayer was: “Sweet Heart of Mary, be my salvation!”

On August 29, 1931, Sr. Lucy said: “As I was asking God for the conversion of Russia, Spain and Portugal, it seemed to me that His Divine Majesty said to me: ‘You console Me very much by asking me for the conversion of those poor nations. Ask it also of my Mother frequently, saying: Sweet Heart of Mary, be the salvation of Russia, Spain, Portugal, Europe and the whole world. At other times say: By your pure and Immaculate Conception, O Mary, obtain for me the conversion of Russia, Spain, Portugal, Europe and the entire world. Make it known to my ministers that if they follow the example of the King of France in delaying the execution of my request, they will follow him into misfortune. It will never be too late to have recourse to Jesus and Mary.’”
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ルフェーブル大司教様の伝記の出版準備中

2016年07月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様

ルフェーブル大司教様の伝記を出版する準備を進めています。

出版のために、祈り、クチコミ、宣伝などしてくださることができましたら、大変幸いに存じます。

愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご援助を、感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父
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