Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?

2019年07月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以前、巡礼者の小道さんは、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

ということを問うていました。

====引用開始====

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

====引用終了====

私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。

では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。

教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。

確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。

しかし、

例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

いえ、私たちには責任があります。

では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?

いえ、出来ません。

何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。

教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。

教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。

天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。

最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。

私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。

ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。

教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。

教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。

課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。

課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。

教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。

これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。

ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。

彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」

「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」

「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。

「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」

カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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喜べ、花嫁でない花嫁よ!純潔なる童貞女よ!(アグ二・パルセネ) Ἁγνὴ Παρθένε

2019年07月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。

とても知性的で素晴らしい訳です。

この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。

リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。

ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?

花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?

バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?

聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?

という単純な疑問です。

ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。

では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?

Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε

Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)

Νύμφη 花嫁よ

Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。

この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。

では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?

聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。

聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。

一体どういうことでしょうか?

ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。

つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。

だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。

そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。

内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

純潔なる童貞女よ!

純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]

天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]

熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]

私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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「ローマ・ミサ典礼書は、トリエント公会議の教令に基づき、公布され、・・・無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世 1969年4月3日「ミサーレ・ロマーヌム」)

2019年07月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「西方キリスト教世界の存亡は「ラテン語伝統ミサ」の存続にかかっていると思う。」という記事を書かれていて、私もその通りだと思いました。

教会建築、教会音楽、教会美術、その他全ての天才的な芸術の源は、ラテン語の聖伝のミサのためにあったからです。

聖人の聖徳、殉教者の剛毅、童貞女らの純潔、正統教理、崇高な倫理は、ラテン語の聖伝のミサによって養われてきたからです。

「ローマ・ミサ典礼書は、さきに、...トリエント公会議の教令に基づき、1570年、私の先任者聖ピオ五世によって公布されたものでありますが、それが同じ聖なる教会会議を通じて、キリストの全教会に広く行き渡った多くのすばらしい成果の一つであることは、衆人の認めるところであります。
 四世紀に亘って、ラテン典礼の司祭が、聖体のいけにえをこれを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は、地球のほとんど至る所に、これを携えていったのであります。また教皇グレゴリオ一世がその大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通して、無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります。」(パウロ六世 1969年4月3日使徒座憲章「ミサーレ・ロマーヌム」

この記事を巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんに感謝します!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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枯山水と濡れ枯山水(?)

2019年07月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

初来日のビルコック神父様とトマス神父様をお連れして、観光名所にお連れしました。

龍安寺の石庭 jardin sec、枯山水庭園に行きました。雨が降っていたのでjardin sec mouillé 濡れた枯山水庭園でした。


海遊館にも、濡れた「枯山水庭園」(?)のようなものを発見しました。



天主様の祝福が豊かにありますように!



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「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?兄弟的矯正 fraternal correction と本当の従順について

2019年07月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見して、
先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事を書きました。

巡礼者の小道さんは、この乖離の問題を「有限性と弱さを抱えつつもやはり私の良心は、自分の眼に「黒」に映っているものを「白」と言うことはできない。」という論考で、現実に目をつぶることはできない、とその悩みを打ち明けています。

つまり、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

あるいは「これは黒だ」と言うことが出来るのか?

==引用開始==

「これは『黒』だ」と叫んでやまない私の良心の声はどうなるのだろう。良心の声を、教導権や教区の教会権威の声の下に従属させることが即、教会を通して働く神の主権に恭順であるということなのだろうか。

「黒」は犯罪であり、隠蔽罪であり、組織的闇である。神が教会の教導権を通し主権的に働かれるという理念ゆえに、そして教区権威への恭順ゆえに、私が、この「黒」を「白」だと宣言するとき、「個」としての私は、正義なる神の前にはたして無罪なのだろうか、それとも有罪なのだろうか。恭順ゆえに、強いて自分自身を情報鎖国状態、霊的「北朝鮮」状態に置くことは、正義なる神の前に称賛されるべき行為なのだろうか、それとも糾弾されるべき誤った行為なのだろうか。

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

==引用終わり==

この問題の解決のために、先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事では、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦しました。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



まず、ひとつ区別しなければならないことは、何についてか?ということです。
何が自分の眼に「黒」に映っているものなのか?
何を「白」と言うことはできないのか?
ということです。

私たちが問題としている対象は、隣人の隠れた過失・隣人の行った行為の意図などのことではありません。
隣人が寝坊したのは、もしかしたら、私たちの知らない重大な理由があったかもしれません。お母さんが寝ずに子供の看病をして、朝起きられなかったのかもしれません。

そうではなく、
私たちがここでいう「黒」とは「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」であり、
客観的に判断できることです。

私たちが問題としているのは、明らかに客観的に「信仰に反すること・信仰が禁止すること」を「良いことだ」とすることができるのか?ということです。

聖パウロは聖ペトロに、愛徳の一つである「兄弟的矯正 correctio fraterna」を行いました。

ケファがアンティオキアに来たとき、私は面と向かってかれに反対した。かれに非難するところがあったからである。というのは、かれはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどであった。しかし私は、かれらが福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前でケファにいった。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人のようにせず、異邦人のように生活している。それなら、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」と。」
(ガラツィア2章)

もしも教皇様に、愛徳に押されて、尊敬を込めて、真理を語ったなら、「一致の敵」となるのでしょうか?真理を語ると「非国民」「非信徒」となるのでしょうか?

もしも私たちが、愛徳の故に、客観的な理由を説明しながら、毒を「毒だ」というと、敵になるのでしょうか?

「私があなたたちに真理を話したから、敵になったのか?」(ガラツィア4:16)

もちろん、私たちは、隣人の罪について判断したり宣伝したりする義務も権利もありません。

しかし、隣人が、或いは、長上が私たちに罪を犯すことを求めて来た場合、「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」が求められてきたとき、私たちは従わなければならないのか、ということです。

親が子供に「銀行に強盗に行って稼いでこい」と言ったら、はい、といって素直にその通りをしなければならないのか?ということです。親がやれと行ったからやっただけだ、自分には責任がない、ということは言えるのか?です。

もしかしたら、11歳の子供であれば、親に指示されて悪事を手伝うことになったとしても、刑事上の責任は負わされないかもしれません。しかし、大人が、成人が、指示されたからと言って悪事を行うことができるのでしょうか?

いえ、私たちは、自分の行った行為の責任を問われます。「従順」のために悪事を行うことは本物の従順ではありません。聖トマス・アクィナスは「信仰に関わることである時、長上たちに対して兄弟的矯正を行使することが出来る」と教えています。

兄弟的矯正 fraternal correction について、本当の従順について、ルフェーブル大司教は、こう言っています。

「読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。"では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(司教様公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の司教様の権威に抵抗しろというのか?)" では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記:
このことに関して、歴史家であるロベルト・デ・マテイ教授は『教会史における教皇制度に対する愛と教皇に対する抵抗』Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church, By Roberto de Matteiという本を出版しています。

Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church
著者 Roberto De Mattei
寄与者 Raymond Leo Cardinal Burke
出版社 Angelico Press, 2019
ISBN 162138456X, 9781621384564
ページ数 232 ページ
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「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?

2019年06月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見しました。

巡礼者の小道さんは、デイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の意見の対立を、「頭」と「心」の乖離と表現しています。

つまり、「現代カトリック教会のありのままの姿の現実」と「その現実から目を背けたくなるような心」との対立です。

「マキャリック」「ビガーノ大司教の証言」「中国・バチカン暫定合意」という醜い情報と、それらの情報は「フェイク・ニュース」「虚偽」であるに違いないとしたい心情との断絶です。

「教皇の不可謬の特権」に反しているように見える現実に目を向けることと、「教皇は不可謬であるから、すべてが正しいはずである、正しくなければならない」という心の思い・理論との対立・乖離です。

アタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等は現実に目をつぶることが出来ずに発言した。
しかしそのような発言は、聖霊が、教導権を通し、教皇を通し、教会を正しく導かれるという大原則とどのように両立できるのか?
アームストロング師やB神父様のように、教皇フランシスコが何をしようとも何を言おうとも、教皇の教説の言うこと為すことはいかなることであれ全て正しい、と強く擁護することが理論上、正道ではないのか?
この現実と理論の間の乖離・相剋は、どう説明できるのか?
私の理解が正しければ、これが巡礼者の小道さんの疑問です。

これは、巡礼者の小道さんだけの疑問ではなく、多くの方々の疑問でもあります。

【第一の陣営】

アームストロング師やB神父様のように「心」の側に立つ第一の陣営の「保守派」の方々は、次の前提の上に立って主張しています。

■「真正なるカトリック教徒」であるためには、教皇の不可謬性を信じなければならない。それがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。
教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、必ず真理であり良いものでなければならない。

ところで、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、教皇によって認可されたことだ。

■だから、
「第二バチカン公会議は神の御心のうちに開催された会議であり、過去の公会議との完全なる連続性の内にあり、信頼に値するものである」と信じなければならない。

従って、
第二バチカン公会議の教えと実践は、ヨハネ二十三世からフランシスコに至る教皇らによって認可を受けたものである限り、必ず真理であり善でなければならない。

もしも教えや改革に問題がありうるとすれば、それは第二バチカン公会議の教えの正しい理解をしていなかったか、或いは、正しい適用をされていなかったからだ。


【第二の陣営】

ところで、ある一部の人々は、いわば「頭」の側のことを直視し、現実を見つめようとします。第二の陣営としましょう。【しかしこれはアタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等の立ち位置ではありません。念のため。かれらは第二の陣営と別の立場を取っています。


第二の陣営にいる人々は、アームストロング師やB神父様と同じ前提からスタートします。

■「真正なるカトリック教徒」であるために、教皇は不可謬性を信じるがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。

教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、全て必ず真理であり、全て必ず良いものでなければならない。

しかし、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、単なる「正しい理解をしていない」ことでもなく「正しい適用をされていない」ことでもない。第二バチカン公会議の教えのそれ自体に、必ずしも真理ではないこと・善ではないことが存在している。第二バチカン公会議の教えや改革には問題がある。

従って、
■間違っている第二バチカン公会議のようなものを認可した教皇らは、真の教皇ではあり得ない。

この陣営に属するような人々を、セデヴァカンティスト、教皇聖座空位主義者と呼んでいます。

教皇聖座空位主義者と呼ばれる人々によれば、真の教皇はピオ十二世が亡くなって(1958年)以降存在しない、とされます。つまり現在に至るまで、教皇聖座は空位だ、ということです。

【これら二つの陣営は、信仰に反する主張に陥っている】

しかし、この両者の結論は教会の危機に対する答えたろうとするものですが、両者とも信仰に反するものとなっています。

何故なら、「保守派」の結論は「第二バチカン公会議の教えそのものは良いものでなければならない」ですが、しかし実際は第二バチカン公会議の新しい教えや実践(たとえば、信教の自由、エキュメニズム、女性の侍者、諸宗教の共同の祈り)は、第二バチカン公会議以前には教導権によって排斥され、間違っていると断罪され続けてきたものだったからです。

何が「正統」か、何が「異端」か、どこまで「許される」か、どこまで「行き過ぎ」か、これらについてはカトリック教会が過去、不可謬の判断を下しています。私たちは、自分の意見ではなく、カトリック教会の不可謬の教えにそのまま従うまでです。

羊たちはみな、羊飼いを認めながら、羊飼いのやっている悪しきこと(教会が過去に断罪したこと)に従うことは出来ないのです。

また、「聖座空位論」の結論は「第二バチカン公会議以後の教皇らは真の教皇ではない」ですが、教会の本質的な特徴(教会の不可崩壊性(indefectibility)、使徒継承性、可視性など)を否定することになるからです。

【二つの陣営の誤りの原因】

この両者の立場における誤りの原因は、「教皇の不可謬性」のドグマを誤解しているところにあります。

教皇の不可謬性を正しく理解するなら、「真の教皇は、不可謬権を行使しようと特別に行動を起こす時、悪しき教えや実践を認可することが出来ない」となります。

何故なら、第一バチカン公会議によって規定された教皇の不可謬権の行使のためには条件が付けられていて、教皇の不可謬権とは教皇において恒常的に現実態において機能しているカリスマ(得能)ではないからです。

キリストが聖ペトロとその後継者らに与えた「誤りから守られるという」特権は、「地上でつなぐ、あるいは、地上で解く」時に機能するように与えられたからです。「地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。」(マテオ16章)

アタナシウス・シュナイダー司教は、教皇の不可謬性を正しく理解されております。

ところで、いかなる教皇も過去50年にわたり不可謬権を行使しようとしませんでした。

第二バチカン公会議を開催し閉会した教皇らは、第二バチカン公会議を司牧公会議として、いかなる教義決定をもすることを避けました。従って、第二バチカン公会議は不可謬性を帯びることがない公会議となりました。

第二バチカン公会議のような公会議は以前にはありませんでした。つまり世界中の司教たちが教皇とともに集いながら、いかなる教義も定義しようとせず、誤謬を排斥しようともしなかった公会議です。

第二バチカン公会議の新しい教えや実践を含めて、教皇の全ての教えと実践とを、区別せずに、それら全てに不可謬性を拡張し延長しようとすることによって、二つの謬った態度が結果しました。

一方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は悪であると考えることは出来ない、とする態度。

他方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は、真の教皇に由来しない、とする立場です。

ところで、

(教皇が認可したことなので)第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は全て正しく良いことに違いない、とする態度、あるいは

(第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は間違っているので)それを認可するような教皇は本物の教皇ではない、とする態度、

それしかないのでしょうか?

私たちは、どう考えたら良いのでしょうか?

この問題の解決のために、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦します。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



私たちは、教皇の不可謬性とは何かを正しく理解しなければなりません。

確かに、天主の御摂理が許可したことにより、天主の真の教会は今まで体験したことがなかったような苦しみを経験しています。キリストの神秘体の受難です。

ちょうど、聖金曜日に十字架の上で私たちの主イエズス・キリストが死の苦しみを受けたように、キリストの神秘体であるカトリック教会も流血の苦しみを受けその姿は変わり果ててしまいました。しかし、真の教会のまま残ります。

しかし、教皇座空位論を信奉する人々は、カトリック教会の傷を、癒やすために告発すると言うよりは、馬鹿にしあざ笑い不信を呼び起こさせるために告発します。

教皇座空位論者は「これが本当の教会ではあり得ない!」「天主が真の教会にこのようなことが起こることを許すわけがない!」と主張するために、告発します。


【いろいろある教皇座空位論】

教皇座空位論とは、1970年代に作られた新しい間違いです。しかし、教皇座空位論者らの間で、互いに理論がバラバラで(何故、いつ、どうやって教皇の職務を失うのか、など)、またその主張の内容(どの教皇から真の教皇ではないのか、など)もバラバラです。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは、教皇となる前から異端者だったので、真の教皇ではない、とされます。

別の教皇座空位論は、公会議後の教皇らは、有効に教皇として選ばれて真の教皇たちだったけれども、公の異端を唱えることによって、教皇の職を失った、と主張します。

ある教皇座空位論によれば、異端の罪によって、教皇は自動的に教皇職を失う、とします。

他の教皇座空位論は、真の教皇は異端に陥ることがあり得ない、と言います。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは「質料的に教皇」だった(法的に教皇職についているだけ)が「形相的な教皇」ではなかった(本物の実際の教皇ではなかった)とされます。

他方で、そうではなく、全く教皇でもなんでもなかった(「教皇コスプレ」)、と主張する教皇座空位論もあります。

ある教皇座空位論者は、パウロ六世は新しいミサを全世界に正式に公式に押しつけた、と主張しますが、そうではなかったと言う別の教皇座空位論者らもいます。

第二バチカン公会議後にできた新しい叙階の秘蹟、司祭叙階や司教聖別の典礼様式や形相は、無効だと主張する教皇座空位論者もいれば、それに同意しない論者もいます。

第二バチカン公会議を特別教導権による不可謬の行為だったと主張する教皇座空位論者もいれば、そうではなく、第二バチカン公会議は通常普遍教導権の力によって不可ビュうだった、とする教皇座空位論者もいます。

ある教皇座空位論者によると、最後の真の教皇はピオ十二世だったと信じています。別の教皇座空位論者は、1878年レオ十三世から「反教皇」が出た、と言います。

教会の不可崩壊性(indefectibility)を守るために、自分たちの「教皇」を「コンクラーベ」で選んだ教皇座空位論者らもいます。

【教皇座空位論者らの共通点】

互いに矛盾しているいろいろな教皇座空位論がありますが、教皇座空位論者らに共通していることは、だれが真の教皇でだれがそうでないかというのは、(教会の公式な判断に委ねるのではなく)カトリック信徒個人が自分で決めることだ、とする態度です。

何故このように違うのでしょうか?何故なら、教皇座空位論とは、プロテスタント主義(自由解釈・個人解釈)の誤りの基礎を持っているからです。

教皇座空位論には、主に3つの議論があります。

1)最近の教皇らは異端者だったので、真の教皇ではありえない。

2)第二バチカン公会議以降、教皇とされてきた人々は、真の教皇であればすることができないことを行ったので、真の教皇ではありえない。

3)パウロ六世によって認可された新しい司教聖別の典礼様式は無効である。従って、新しい典礼様式によって司教聖別された司教ら(ベネディクト十六世、フランシスコ)は、真の司教ではない。従って、彼らは真の教皇ではない、何故なら司教ではないものがローマ司教ではあり得ないからだ。

最初の「異端者なので」と、第三の「真の司教ではないので」という議論は、「何であるか」という存在の理由によって、教皇ではないと主張します。

第二の「真の教皇であればすることができないことを行ったので」という議論は、行動の理由によって真の教皇ではないと言います。

ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』TRUE OR FALSE POPE? Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors by John Salza and Robert Siscoe は、この三つの議論に答えます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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霊魂らの救いは最高の法(新教会法典1752条)Salus animarum suprema lex. 「違法」とはどういうことか

2019年06月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「違法」とはどういうことかを考えてみます。

●法に従うということは、もちろん、カトリック信徒にとって大切なことです。人間の定めた法であっても、正当な長上が定めた法は、天主の代理者として定めたものだからです。

ところで「違法」というのは「法」に反していることですが、天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、どちらに従わないと「違法」となるのでしょうか?

例を挙げて考えてみます。

中国では現在子供を二人より多く産むことが禁止されています。もしも中国人のカトリック信徒が天主の掟に従い、3人目以降こどもを生むことは「違法」でしょうか?
もちろん違います。それは善いことで、合法です。

もしも、中国のカトリック信徒が、国法に従うために堕胎をしたら、あるいは人工的に産児制限をしたら、これは「合法」でしょうか? いえ、罪であり、違法です。

天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、私たちは天主の法に従う義務があります。

●イエズス・キリストも、法とは人間の善のためにあることを教えています。たとえ天主の法であってもそうです。

「安息日に、イエズスは麦畑をお通りになった。弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめた。すると、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしています」といったので、イユズスは、「ダヴィドが、供のものといっしょに、空腹だったときにしたことを、あなたたちは読んだことがないのか。かれは、天主の家にはいって、司祭たち以外の人は、かれもまた供のものも食べてはならない供えのパンを食べた。また安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならないと律法にしるしてあるのも、読んだことはないのか。私はいう。神殿よりも偉大な者がここにいる。"私がのぞむのは、あわれみであって、いけにえではない"とはどういう意味かをあなたたちが知っていたなら、罪のない人を咎めることはしなかったであろう。じつに、人の子は安息日の主である」とお答えになった。」(マテオ12章)

「イエズスがここを去って、かれらの会堂におはいりになると、片手のなえた人がいた。そして人々は、イエズスを訴えようとして、「安息日に病気を治してもいいのですか?」とたずねた。イエズスはかれらにむかって、「あなたたちの中に、一匹の羊をもっている人がいて、羊が安息日に穴におちたら、ひき上げないでおくだろうか?人間は羊よりもはるかにすぐれたものである。だから、安息日に善を行なうのはよいことだ」とおおせられ、そしてその人にむかって「手をのばせ」とおおせられた。その人が手をのばすと、治って、もう一方の手と同じようになった。」(同)

イエズスのなさったことは、一見、外見上は「違法」でした。しかし、中身は善であり、「合法」でした。

●日本でも、おなじようなことがありました。福知山線尼崎脱線事故が起こったとき、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。

しかし、事故を起こした列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助活動をしたら「違法」「規則違反」となるのでしょうか?「命よりも規則が大事」なのでしょうか?!

上司から禁止されたとしても命を大切にするのが、法の精神です!

命の危険を見ながら助けないものは、犯罪に問われます。たとえば自殺をしようとしている人を見て止めなければ、自殺幇助罪に問われます。あるいは、自動車事故を起こしたにもかかわらず、負傷者を救護せずその場を去ることは、救護措置義務違反の罪に問われます。

●もちろん、自分の司教区の司教や教区の司祭の命令や指示に従うことは当然良いことであり、カトリック信者はそうすべきことです。

しかし、自分の司教区の司教、教区の司祭の命じられることが、教皇の命じられることと矛盾していたら、どちらに従うべきでしょうか?


具体的に言えば、例えば引退教皇ベネディクト十六世は、すべてのカトリック司祭は聖伝のミサ(トリエント・ミサ)を捧げることが自由にできる、一度も禁止されたことがない、とされましたが、ある司教がそれは今でも禁止されているとおっしゃって事実上禁止する場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか? 

もしもベネディクト十六世に従ったがために、ある司祭が自分の司教様から処罰を受けたら、それは司祭が「違法」ミサをしたからでしょうか?

また或る司祭が、ベネディクト十六世に従って聖伝のミサを捧げたが為に、自分の司教様からミサを捧げることが禁止されたとしたら、これに従わなければならないのでしょうか、それともベネディクト十六世に従い続けることが出来るのでしょうか?

聖ピオ十世会は、聖ピオ五世の勅令「クォー・プリームム」に従って、すべての司祭が義務的に捧げるべきであり、捧げる自由を永久に持つ聖伝のミサを捧げ続けていたが為に、非難されるようになりました。法的に一度も禁止されたことがなかったにもかかわらず、聖伝のミサが事実上禁止されたとされたからです。

●あるいは、もしも、教皇様の発言がイエズス・キリストの教えと矛盾している場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか?

たとえばある日、ある教皇がイスラム教にもなかなか良いところがあるのでイスラム教徒はカトリック信者に改宗する必要はない、とおっしゃったとします。

私たちの主が使徒たちにおっしゃったことは聖書にもありますのでご存知のことと思います。
「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16章)
「まことにまことに、私はいう。水と霊とによって生まれない人は、天の一国には、はいれない。」(ヨハネ3章)
初代教皇の聖ペトロも言います。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(使徒行録4章)

この場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか。
もちろん、天主に従わなければなりません。

●新しいミサの時、カトリック信仰と反することが実践され、教えられている。

日本では、ミサ中は「立つ」「座る」を基本的な姿勢とする、日本ではパンとぶどう酒の聖別の時「立ったまま手を合わせる」、と規定されています。

御聖体には、あたかもイエズス・キリストが現存していないかのように、突っ立っていることが要求されています。跪くことは事実上禁止されています。

エキュメニズムの名目で、諸宗教の行事を取り入れることが勧められています。禅もあるし、プロテスタントとの合同礼拝も可です。「あっちこっちのミサ」もあります。

インカルチュレーションの名目で、カトリックとは全然関係の無いことがミサにおいて行われています。

大阪ではサンダルが祭壇に奉献されておかれたし、バンブーダンスもあります。

これは「合法」ミサなのでしょうか? 

司教様がしても良いと言ったことは、カトリック信仰に反しても全て「合法」なのでしょうか?

しかし、教会法は、私たちのカトリック信仰を守らせるためにあり、信仰のための奉仕のためにあります。

教会法にはこうあります。
「霊魂らの救いは最高の法である」(新教会法典1752条)
Salus animarum suprema lex. CIC (1983), can. 1752

●だれかがカトリック信仰に違反することを行わせるなら、私たちにはそれに従ってはなりません。

聖パウロはこう言っています。
「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

倹邪聖省のオッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世教皇にこう報告しています。
「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。「全ては順調ではありません!」

カトリック信仰を守るためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

永遠の救霊のためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

「天主をおいて、あなたたちに従うことが、天主のみ前に正しいことかどうかは、あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使徒行録4章)

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ヨハネによる聖福音の朗読(日本語)MP3録音ファイル:Audio files of the Gospel of Saint John (Japanese)

2019年04月27日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! 
マテオによる聖福音の朗読
マルコによる聖福音の朗読
ルカによる聖福音の朗読
の続きとして、ヨハネによる聖福音の朗読ファイルもご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ヨハネによる聖福音

ヨハネによる聖福音 第一章
ヨハネによる聖福音 第二章
ヨハネによる聖福音 第三章
ヨハネによる聖福音 第四章
ヨハネによる聖福音 第五章
ヨハネによる聖福音 第六章
ヨハネによる聖福音 第七章
ヨハネによる聖福音 第八章
ヨハネによる聖福音 第九章
ヨハネによる聖福音 第一〇章
ヨハネによる聖福音 第一一章
ヨハネによる聖福音 第一二章
ヨハネによる聖福音 第一三章
ヨハネによる聖福音 第一四章
ヨハネによる聖福音 第一五章
ヨハネによる聖福音 第一六章
ヨハネによる聖福音 第一七章
ヨハネによる聖福音 第一八章
ヨハネによる聖福音 第一九章
ヨハネによる聖福音 第二〇章
ヨハネによる聖福音 第二一章
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ノートル・ダム大聖堂が炎と煙に包まれたところに、世界中の誰もが象徴的な価値と意味を見いだした : 教会も受難の時「キリストの花嫁を見よ Ecce Ecclesia」

2019年04月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
天の元后喜び給え、アレルヤ!
Regina Caeli, laetare, alleluia!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

復活の主日には、大阪で聖伝のミサを行いました。
ミサの前に4名の方々が洗礼の恵みを受けました、天主様に感謝!
32名がミサ聖祭に与りました。
ミサが終わった後、受洗記念と復活祭のお祝いの小さなパーティーが催されました。

聖週間にパリのノートル・ダム大聖堂(聖母大聖堂)の火事がありました。

フランスでは非常に頻繁に同様な事件が立て続けに起きています。

コメントに書き込んでくださった方が教えてくださいました。ニューズウィーク2019年4月17日の記事によると、2018年の1年だけで「フランスにある4万2258の教会のうち875が破壊され」ました。「キリスト教に対する攻撃は2018年だけで1063件に上った。」「1日に2件のペースで、フランスの教会は冒涜されている。」(*注)

「公開されたファチマの第三のメッセージ」と呼ばれているもののヴィジョンが現実のものとなってしまう大きな苦しみの始まりのように思えます。

デ・マテイ教授がとても深い分析(「The Church is burning 教会が燃えている」)をしています。パリの聖母大聖堂はシンボルである、と。もちろんそれ自体が文化遺産であり、価の付けられないほどの芸術的な価値があります。それだけではありません。誰にとっても、パリのノートル・ダム大聖堂は、キリスト教世界の象徴、西洋の良心の象徴、信仰の遺産の象徴、ヨーロッパのアイデンティティーの象徴、フランスの歴史の象徴です。バチカンの聖ペトロ大聖堂の次に人々が訪れる教会です。

ノートル・ダム大聖堂が炎と煙に包まれたところに、世界中の誰もが象徴的な価値と意味を見いだしました。ゴシック様式のノートル・ダム大聖堂が、天に高くそびえているのは、カトリック教会を象徴しています。パウロ六世は1972年に「サタンの煙が天主の聖殿に入り込んだ」と宣べましたが、煙に包まれたノートル・ダム大聖堂はその言葉を思い出させました。教会の上層部を焼いてしまいました。教会の尖塔も焼け落ちて、新しいミサの祭壇の下に落ちました。デ・マテイ教授は、教会の高位聖職者たちのことを象徴していると言います。

聖ルイが高額の値で買い取った、私たちの主の茨の冠の聖遺物は天主の御摂理で救い出されました。聖ルイ王は、1239年この聖遺物をパリに迎え入れるとき、裸足で麻で出来た簡単なトゥニカだけを着て行列でそれを運びました。この聖遺物を保管するために、サント・チャペルという最高傑作の教会を建てました。

聖週間に私たちは私たちの主の御受難を黙想しました。茨の冠を被せられ、鞭を打たれた私たちの主を、ピラトは群衆の前に見せて「この人を見よ Ecce Homo」と言います。現在、教会も受難の時を生きています。「キリストの花嫁を見よ Ecce Ecclesia」、傷つき、姿を変えた、人類の教師・救いの手段の唯一の保管所・平和の元后・聖なる教会を見よ、と。

レムナント紙のマイケル・マット氏によると、ノートル・ダム大聖堂の最高先端にあった雄鶏(オンドリ)は、尖塔が焼け落ちても焼けずにほぼそのままで落ちて残ったそうです。


Photo Credit

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この雄鶏の中には、茨の冠の聖遺物の一部と、聖ディオニジオと聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物も入っていました。オンドリ(le coq)はフランスがガリアと呼ばれていた昔からフランスの象徴でもあります。聖伝のミサ聖祭の祭壇も聖母のもとで焼けずに残ったこと、尖塔の雄鶏が残ったこと、これも深い象徴の意味があると信じます。



十字架の苦しみを受けた私たちの主イエズス・キリストが復活されたように、キリストの花嫁であるカトリック教会も、美しく復活すると、聖母の御取り次ぎにより信じています。

良き復活節をお過ごしください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

(*注)
2015年6月15日には、ナントの聖ドナシアン大聖堂の修復工事中、やはり屋根が火事になっています。修理は2021年に終わるそうです。



2018年7月31日レンヌの聖テレジア教会の火災



2019年1月16日、グルノーブルの聖ヤコボ教会の放火事件



2019年2月6日、タルヌのラヴォル司教座大聖堂の破壊行為と火災



今年3月(ニューズウィークの記事には昨年とありますが実は今年つまり2019年3月)には、サン=シュルピス教会が放火され、放火と同じ週には、他に11の教会が破壊行為に遭いました。

2019年3月2日、パリの聖ドニ教会の破壊事件


photo credit

2019年3月18日、パリの聖スルピス教会の放火事件


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LGBTの夢

2018年10月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

先日、ミサの後で新大阪から新幹線に乗ってウトウトしていると夢を見ました。

夢の中で雑誌を手に取っていました。2019年に創刊されたこの雑誌「新嘲19」をパラパラめくると、LGBTやその他の人々が義論をしていました。

LGBTというのは、天主が創造した世界よりも別の世界を作り上げようとする活動家たちが最近作った言葉で、「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー lesbian, gay, bisexual, and transgender」という英語の頭文字をつなげて出来ています。意味は「同性だけで、あるいは男女どちらとでも性行為をする、あるいは性を転換した人々」をひっくるめて呼ぶ言い方です。


雑誌「新嘲19」の特集は、毒川綱吉が「自分は犬と結婚したい」と主張したところ、国会議員の杉内山脈が「生産性がない」と発言したことから端を発していました。

或るLGBTの人は、毒川の「イヌとの結婚」という主張に対して、LGBTは架空の話しではない、犬と結婚したいと思う人々などいるわけがない、柳田國男の『遠野物語』とは違う、本物の生身の人間の問題だ、一緒にされると困る、という主張していました。


毒川がこれらに対する反論を載せていました。毒川の主張は次のようでした。

犬と結婚することを望む人の存在を、「生産性がない」という暴力的な言い方で否定することは危険だ、
犬と結婚することを心の病気だということを聞き、食も通らないほど傷ついた、
あまりにも常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちている、
性の多様性に関する世の中の認識は、漸進的に変えていかなければならない、
不当な差別で他人を傷つけているような議論は、これは言論ではない、と感じる、
イヌとの結婚で少子化につながる、社会が崩壊する、というのは子供を産むかどうかで人を選別する危険な優生思想だ、しかし、犬と結婚しても実際に人間の子供を持ち育てるカップルもあり得る、
イヌと恋に落ちて同棲しているケースは実在している、ただ見えていないだけだ、
犬と人との結婚はおかしいと差別的な発言をする人々には、厳しいペナルティーを科す法律を作るべきだ、
などのように、
自分たちは傷ついた、偏見だ、危険だ、差別だ、
という自己中心的で、かつ主観的な主張を唱えていました。


もう一つの記事は、輪廻転生を信じ守護霊と交信すると主張している広川隆子によるものでした。広川隆子は、ついに人間がイヌと結婚することが法律化される日が来ると反論しています。

広川隆子は、犬と人との結婚に反対する論として、「生物学的にヒトの遺伝子とイヌの遺伝子とがあって、ヒ・ヌ遺伝子もイ・ト遺伝子もない」などというふざけた表現に、心が痛んだ、
人間の性は自分で選び、自分の嗜好が尊重される「権利」がある、
そのことは、LGBTも、イヌとの「結婚」も、一夫多妻制も、とどのつまり「自然に従うのではなく、自分が決定する」という原理ですべて同じだ、
つまり、超人思想である、
松下幸之助も税金を一千万円以上払えば、一夫多妻でも何でも自由に結婚が出来るようにすべきだと言っていた、
国会で多数決で法が通過すれば、自然に反しても全てを人間が決めても良い、
例えば、重力がない、ということが国会で法として通過すれば、そうなるのだ、
外国でもそのような動物との結婚について法律が作られつつあるから日本もそれに乗り遅れないようにすべきだ、と。


別の記事もあり、結婚制度を見直そうと主張する外国人タレントのカール・レーニンによれば、
人間はとどのつまり物質で機械だ、
自分は自動車と酒が好きだ、自動車と酒と結婚したい、自動車に自分との子供を育てたい、
と主張していました。


金正銀は「我々の作戦」という題の記事を書いていました。
「イヌとの結婚」を法律化させるためには、徐々に進めていくべきである、
結婚について、まず価値観の転換を図るべきだ、
まず相対主義を導入し、変わらない真理など存在しないと思い込ませる、
次に悪は必ずしも悪ではない、いろいろな見方がある、と刷り込ませる、
更に、悪は善である、と思わせる、
最後に、善は悪であると信じさせる。

価値転換を結婚について導入すると同時に、法律でも規定させていく、
まず、差別反対を唱えて、人々の情に訴える、
次に、自然に反する性行為も、いろいろな見方があり必ずしも悪ではない、と思わせる、
近親相姦も、獣とも、全ては「自由」だ、自由は善だ、自由に反対することは悪だ、と繰り返せ、
と論説していました。

それを読みながら、そういえば、第二バチカン公会議後のカトリック教会でも価値観の転換を信徒たちに徐々に植え付けていったことや、その価値観の転換の印として徐々にミサを変えていき、カトリック的な要素を取り除いていったことが考えました。


夢の中でこの雑誌を読んでいて、イエズス・キリストの御言葉を思い出しました。
「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを。そこで、もう二人ではなく一体である。人は、天主がお合わせになったものを離してはならない」(マテオ19章)と。

また聖パウロの言葉も思い出しました。
「不正の人は天主の国を嗣げないことを、あなたたちは知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、食欲な人も、酒飲みも、讒言する人も、略奪する人も、天主の国を嗣がない。」(コリント前書6章)

地震、台風、津波、などの自然の恐ろしさを知っている私たち日本人は、自然には逆らえない、逆らったらしっぺ返しが来る、ということをよく知っているはずだ、と思いました。

旧約時代に、ソドムとゴモラの人々は、天主を信じず、自分たちの情欲に従って生活し、性的倒錯の罪などを犯すことを当然のこととしていたために、天から硫黄と火が降ってきて滅ぼされたと記録に残されていることを思い出しました。

もしかしたら、秋田の聖母が警告された「もし人々が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしております。そのとき、大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって、人類の多くが死に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」とはこのことなのか、とふと思いました。

この雑誌から目を上げて見ると、目が覚め、新幹線の中にいる自分に気がつきました。もう東京に到着します。夢で良かった!

そろそろ新幹線から降りる頃になって辺りを見回すと、周りにいる乗客たちは同じような夢を見続けて、目を覚ましていないような様子でした。

早く夢から覚めないと、多くの方々が、特に子供たちが、犠牲者となって苦しんでしまうだろうと危惧しつつ、私は下車の支度をはじめました。

【この記事はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。】

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ベネディクト十六世「公会議後の楽観主義こそが、偽りの楽観主義だ。修道院が閉鎖されつづけ、神学校が閉鎖されつづけている時、全ては順調だ!と。私は言う。いいえ!全ては順調ではない。」

2018年09月08日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖母の御誕生日です。おめでとうございます!

ルルドさんというハンドルネームの方からコメントを頂きました。

ルルドさんは、真っ白いご聖体がゴミ箱に捨てられているのを目撃されたのだそうです!きっと大きなショックだったと思います。

きっとルルドさんがおっしゃったように、誰かが新しいミサで受け取ってしまったご聖体をどうしたらよいかわからなくて捨ててしまったのでしょう!

中には埃だらけの汚いところに捨てられたホスチアもあるかもしれません。きれいな床なら良いけれども、塵と埃とゴミの中に捨てられたご聖体、とても拝領することのできる状態でないご聖体もあることでしょう。たった一つのご聖体が捨てられるだけでも大きな涜聖ですが、日本中で、どれほど多くのご聖体が粗末に扱われていることでしょうか!

霊魂の救いのことよりも、この世で苦しむ人の物質的な救いや癒し・助けのことばかり。イエズス・キリストのご聖体への崇敬と礼拝よりも、人間の自由と尊厳のことばかり。

明らかに教会の軌道が逸れています。多くの人々が信仰の命を失いつつあります。

ルルドさんの言われるように、「ほかのすべてには門戸を開放する」、それは公認、それは公式の立場、それはしなければならない、しかし、その反対に「2000年間続く聖伝の教え」だけが否定され、閉ざされ、禁止され、異端視され、あたかも「破門」さたかのように取り扱われています。

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。「全ては順調ではありません!」

「主よ、あなたの教会は、しばしば、今にも沈みそうな船、あちこちからあいた穴から浸水してくる船のようです。あなたの麦畑もまた、よい麦よりも毒麦のほうが多いように見えます。あなたの教会の、汚れた衣や顔に驚かされます。」(ベネディクト十六世

「公会議後の楽観主義こそが、偽りの楽観主義でした。修道院が閉鎖されつづけ、神学校が閉鎖されつづけている時、彼らは言います。"でも...何でもない。全ては順調だ!"と。... 私は言います。いいえ!全ては順調ではありません。」(ベネディクト十六世

カトリック教会は、火事のように火を出して燃えています。

「危ない!」「緊急事態だ!」「火事だ!」と救援隊が叫んで、火を消そうとすると、教会を違う方向に進めようとする人々から攻撃されます。

「消防士でもないのに何故火を消そうとするのか?許可もなく火を消すな!非合法だ!」(えっ!?人の命はどうなるのですか?全てが火で燃え尽きてしまいますよ!)

「たとえどんなに緊急時であっても、外国人の医者は医療行為をしてはならない!日本国内での医師免許もなく、緊急状態だからと言って人命を助けてはならない!応急手当もしてはならない!非合法だ!不法だ!」(え?見殺しにしろというのですか?)

「今が緊急事態だと言わなければ、火を消す許可を与えよう。今の状態が正常だと認識するなら、医療行為も行わせてあげよう。教会がこれから路線を変えていくのを「正常」だと言うのなら、合法にしてあげよう。云々。」(え?火災を認めずに、どうして消防活動ができるのですか?命の危険がないのにどうして救命活動をするのですか?)

だからといって、信仰を捨て変えても、教会の脱線に協力して良いのでしょうか?

脱線事故の当該列車に乗車していたJR西日本の社員2名が、職場に連絡をして、上司から出勤命令が出ても、犠牲者を見るに見かねず、出勤せずに救助活動をしていたとしたら、この社員は処罰を受けたでしょうか?いえ!彼らはJR西日本の名誉を救ったと称賛されるでしょう。上司は彼らに感謝することでしょう!

カトリック教会の歴代の教皇様たちや20の公会議が、不可謬権を行使して、綿々と断罪し、排斥し、間違いだと教え続けてきたことは、突然信じなければならないと「公式の教え」になったのだから、俺知らね、「従順」だよ、昔の異端が今の教えになったのだ、で良いのでしょうか?

オレ知らねぇよ、は出来ません。

私もマリア様の汚れなき御心の勝利の日が、いつか来ると思います。

将来、その時、カトリック教会は、教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたことを、私たちがやりつづけたことを感謝することでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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カトリック教会は、2000年間、公式に常に信じ、実践し、教え、愛し続けてきたことが突然禁止され、今までの路線を外れて走っている。何故、救助活動がないのか?

2018年09月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック教会は、今までの路線を外れて脱線して全速力で走っています。福知山線の脱線事故よりもひどい大惨事です。それについては「キリストの御体と福知山線尼崎脱線事故。緊急事態における日本スピンドルの社員達とJR西日本の「勤務」最優先。」をご覧ください。

 何故「脱線」かというなら、カトリック教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたことが、突然禁止されたからです。これが今までの軌道を外れたことでなくて何でしょうか?

 カトリック教会の歴代の教皇様たちや20の公会議が綿々と断罪し、排斥し、間違いだと教え続けてきたことが、突然「公式に」教えられ始めたからです。これが脱線でなくて何でしょうか?

 カトリック教会が、2000年間、公教要理で教え続け、全世界で信じ続けてきた教えが、突然、そうではないと「公式に」教えられ始めたからです。このために

 だから「信仰の霊的命の緊急救助活動」をしなければなりません。尼崎の近くの近隣住民がしたように、事故発生直後、すぐに現場へ駆けつけて救助にあたり、霊的な命を救わなければなりません。

 しかしなぜそうする人々の数があまりにも少ないのでしょうか? 私たちは二つの理由があるからだと考えます。

一つは、教会が軌道を外れて進んでいるということを認識していないから。言い換えると、あるべき線路を脱線してものすごい勢いで進んでいるということを、認識していないからです。このような人々は、第二バチカン公会議以後カトリック人口が事実上減少していること、神学校が空っぽになっていること、修道会が空っぽになっていること、それを知りつつも、なぜ多くの人々がばたばたと倒れているのか、電車が脱線してる結果だと言うことを認識していないからです。

もう一つは、脱線して進んでいるのは知りつつ、わざとそれを望んでいるからです。何故なら、そのような人々は、教会が軌道を外れて進まなければらないというイデオロギーを信じているからです。このような人々を、革新派とか、改革派とか、「進歩」派とかとも言います。

いずれにしても、彼らによれば教会は「正常」運転をしているからです。彼らは脱線事故は起こっていないと主張するからです。

信仰を守るために従順があるのが本当ですが、第一のグループは「従順」を守るために信仰を変えてしまったからです。軌道を外れたように見えるが、本当は外れていない「はずだ」、だから「脱線」という認識ができず、「正常運転でなければならない」、とするからです。

第二の革新派は、わざと脱線させているので「事故」ではないからです。

いずれにせよ「事故が起こっていない」のであれば、「緊急性」がないからです。緊急事態でもないのに、電車の「緊急ボタン」を押してはなりません。

 霊的に傷ついた多くの方々は、消防車と警察が来てくれるのを待っています。しかし、緊急でもないのに何故緊急車が助けにやって来るでしょうか? その間に、多くの人命が失われていきます。信仰を失っています。本当にカトリック教会を離れて行ってしまっています。

 そのような犠牲者がなんとかカトリック信仰に留まるように、愛徳の精神で助けなければなりません。

 聖ピオ十世会は、カトリック教会の危機的状況の緊急性を主張して、ただ愛徳をもって犠牲者の援助に当たっています。

 何故なら、カトリック教会が2000年間、公式に、常に信じ続けてきたこと、実践し続けてきたこと、教え続けてきたこと、愛し続けてきたこと、これこそが、私たちの信仰の基準だからです。

 だから、私たちはカトリックとして留まるために、これを信じ続け、実践し続け、教え続け、愛し続けなければならないからです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考記事】
シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」


シュナイダー司教「教会がネオカテクメナート(新求道共同体)をロビー活動の圧力無しに深く客観的に調査する時が来る。その時彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされる。」
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キリストの御体と福知山線尼崎脱線事故。緊急事態における日本スピンドルの社員達とJR西日本の「勤務」最優先。

2018年09月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ブログ「一カトリック信者の日々想い」にある「キリストの御体」という秀逸な記事を読みました。

キリストが足で踏まれている。私たちの救い主が、苦しんでおられる。誰も助けようとしない。見て見ぬふりをしている。

規則だから。上の命令だから。勤務優先。信仰軽視。オレ関係ないから。

それを見て苦しんでいる人々もいます。傷ついた負傷者とは「目の前で 御聖体がないがしろにされているのを見ているうちにカトリック信仰を失いそうな危険に脅かされる傷つく人々、霊的に死にゆく人々」です。

せっかくイエズスさまがくださったカトリック信仰なのに、御聖体への冒涜により 信仰が失われる危険(霊的な負傷と死)にみんながさらされているからです。「典礼の崩壊」(ラッツィンガー枢機卿)に由来する信仰の危機です。

それを見て、見て見ぬふりをすることができない人々もいます。「教会は、軌道を外れつつある。脱線している。なんとか軌道修正が必要だ!」と。彼らは自分のできることをして人命を救おうと、信仰を守ろうとするのです。

しかし、「法律」「規定」「命令」の方を信条としているファリサイ的な人々は、苦しんでいる、傷ついた負傷者たちを避けて通るのです。「規則」だから。

この記事を読み、十年以上前に起こった事故を思い出しました。

十年以上も前に、尼崎近くで電車の脱線事故がありました。

事故発生直後、近隣住民は、すぐに現場へ駆けつけて救助にあたりました。素晴らしい!

死傷者があまりにも多く救急車のみでは搬送が追いつきませんでした。

負傷者たちは、警察のパトカーや近隣住民の自家用車などでも病院に搬送されました。

ところで、普通はトラックの荷台に人を乗せて公道を走ると道路交通法違反です!しかし、一刻を争う緊急事態です!人が死のうとしているのです!早く!何とか助けなければ!

多数の負傷者を一度に搬送するため、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。道路交通法を目的は、人命保護にあります!道路交通法をまもったが為に人が死んだ、では元も子もないからです。そんな時、道路交通法の文言を出して、車を待たせて見殺しにすべきだ、と主張する方が狂っています。

負傷者の半数は近隣の人々がボランティア精神で、自分たちのできる手段で、医療機関に搬送しました。

特に激突したマンションから10mほど道を隔てたところに西門がある日本スピンドル製造株式会社は、異常な衝突音に気づいた社員20名がすぐに現場に急行し、救出作業を開始しました。

知らせを受けて事故現場を見た齊藤十内社長は、工場帰って、直ちに全ての操業停止を命令、全社員(約270名)を食堂に集め、全力を挙げて救助作業に当たるように指示しました。社員達は、工具や道具をもって現場に急行し、助けを求め、うめき声を上げる人たちを励まし励まししながら確実に救出していったのです。

なかなか救急車が到着しなかったところでは、日本スピンドルの社員達は、助け出した負傷者に応急手当をした後、自分たちのマイカーや、工場の大型トラックなど計15台で病院にピストン輸送しました。

負傷者には「がんばれ!」「きっと助かる、大丈夫」などと励まし、声をかけ続け130人以上を救助したのです!すごい!

一方、当該列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助より出勤!人命よりも規則!法と規則が何の為にあるのかその目的を理解しないファリサイ的な態度。これはマスコミで大きく報道されました。

ところで、カトリック教会の中でも、キリストの御体がないがしろにされている時、多くの人々がみんなで一緒にないがしろにしている時、少数ですが、霊的に苦しみ信仰の息の根が止まりそうで嘆き悲しむ人々に、緊急事態を鑑みて、「がんばれ!」と言う人々がいます。

少数ですが、彼らは「きっと昔からのカトリックの教えは復活する、聖伝のミサは今でも有効だ、大丈夫、カトリック信仰を保て!」と、公式に聖伝の教えの助けが来るまで、愛徳の精神で、緊急救命作業を行っているのです。

そのような人々に、心ない人々は「法律」「規律」「命令」の字面の方が大事だ!とファリサイ的な非難を投げかけています。しかし、だからと言って、見殺しにして良いのでしょうか?!オレ知らね、と逃げればすむのでしょうか?!無関心。逃避。護身。妥協。そうすれば、カトリック教会が良くなる、信仰が守られる、信仰の生命が保全されるのですか??!?まさか!

教会法の名前によって、ほったらかしはできません!そんなことはできません!!してはなりません!!教会法の存在理由は、霊魂の救いだからです。救霊こそが最高の法だからです。

聖ピオ十世教皇、我らの為に祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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第二バチカン公会議によるよりエキュメニカルな教会に向けて。信徒中心の教会。土着化の教会。過去からの断絶。

2018年08月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ローマの宣教聖省から東京大司教区に通知が届いて、東京にネオ・カテクメナートの神学校が設立されるそうです。それによると、東京大司教に何の相談も無く、バチカンが一方的に東京に設立するそうです。東京大司教様が、寝耳に水で驚いているということをニュースで読みました。

この意味は、日本は第二バチカン公会議の改革の成果であるカリスマ運動を十分に受け入れていないので、バチカンが主導して押し付ける、ということです。

それで、三十五年ほど前のことを思い出しました。

藤枝聖アンナ・カトリック教会でのことを。

藤枝カトリック教会は設立百周年を祝ったばかりのことでした。

私たちの心に深く根付いていた御聖体に対する愛と尊敬と信心が、つまりカトリックの伝統的な信仰が、新しく司教様から任命されて藤枝にいらした主任司祭によって根こそぎにされました。

キリスト教の「土着化」というイデオロギーの前に、「カトリック信仰の要請する論理的結論」は無視されました。

御聖体に対する信仰、真の現存という信仰は、理解されませんでした。

ただあったのは、従順、従順、従順。

そう決まったから。

「でも私たち、地元では、百年以上前からこうしております。」

「私たちの主の前で、膝をかがめるのが聖書の教えです。」

今までそうすべきだと教えられて、やり続けてきたことが、突然、禁止されたのです。

カトリック教会がずっと百年以上いつもやり続けてきたことをやると、突然、「教会を離れた」と言われるようになりました!一体どっちが?!

私はまだ学生だったのですが「別の教会を作ったら?」と主任司祭から言われました。一体どっちが?!

昔からの信仰を保とうとする人は「キリステ」られました。これが、聖伝をキリステる新しいキリスト教会、信徒中心の教会、土着化の教会でした。

カトリックの伝統的な信仰、つまり、聖伝の信仰を保とうとするが故に、教会から「離れた」ことになってしまいました。

それから時を経て、今では、御聖体拝領の時だけではなく、ミサの間跪くことが禁止されています。跪く人々は、一致を乱す、教会の交わりにいない人々、離れつつある人々、逆らう人々、です。

教会法はカトリック信仰を守る為に作られました。しかし、教会法の精神と目的によらず、新しいイデオロギーを押し付ける為に権威が使われました。

将来的には、もっと酷いことになるでしょう。例えば、ネオ・カテクメナートの道を公に批判する人々は、教会を離れている、逆らう人々、教皇様と一致していない人々、と。

おっと、今日の話題は、これではありません。

ネオ・カテクメナートの道は、信仰の観点から異端的だと指摘されて来ています。カリスマ運動的で、正統信仰から外れている、と。たとえバチカンがネオ・カテクメナートを「認可」したとしても。

ネオ・カテクメナートの道は、日本の高松教区で痛ましいトラウマを遺し、深い傷をつけてしまいました。苦々しい実りをもたらしました。実りを見て、日本に合わないことは、明らかです。

原因が同じならば、同じ結果になるでしょう。たとえバチカンが一方的に運営するにせよ、東京大司教区では、また同じような悲劇が繰り返されることでしょう。

それどころか日本全体(アジア全体)へとその同じ悲劇が広まり、大混乱となるでしょう。信仰の破壊が進んでしまうでしょう。

日本の司教様たちがバチカンに陳情しても、効果はありませんでした。

カトリックの信仰の観点から話すのでなければ、説得力を持たないことでしょう。

「バチカンが決めたことだから、仕方がないよ。信仰を変えないと教会から離れたことになるから。」

多くの人々は、教会の信仰がどんどん変えられるのをそうやって受け入れてここまでやって来ました。

しかし、改革はまだまだ続きます。終わりを知りません。信仰は変えられ、公教要理はますます変えられるでしょう。

カトリックらしさは失われ切り捨てられ、カトリック教会というよりは、エキュメニカル教会とならなければならないからです。

主よ、憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!
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トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、霊的花束をもってお祝い申し上げます。

2018年07月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

トマス・アクイナス前田枢機卿様の枢機卿任命を喜び、お祝い申し上げます。

先月、六月八日聖心の大祝日付けで、霊的花束として、ロザリオ1000環(大阪と東京の信徒ら有志から)を枢機卿様にお手紙でお送りしました。ご報告申し上げます。

同時に、次のような俳句(と言うより、俳句には今一つ足りないので、「俳八」)も寄せ書きしました。

季語は、六月末に枢機卿任命式があるので「枢機卿」、自分の司祭叙階銀祝が六月末にあるので「銀祝」、六月はイエズスの聖心の月なので「聖心」などを、アマチュア流にかってに「季語」としました。😅😓

アヴェ・マリア!
殉教の血に染まる地に生まれて、高山右近の地に働く大司教様が、イエズスの聖心の月に、使徒聖ペトロとパウロの祝日に枢機卿の赤い帽子を受けることを祝して。
大司教様の大阪で、司祭叙階銀祝の祝いを頂き、枢機卿になられるとの知らせを受けて、赤と銀が紅白のように重なって祝い、聖心への喜びの余韻を繰り返しつつ詠う。

紅(くれない)の
地(ち)から新たに
枢機卿

銀祝の
慶(よろこ)びぞ増す
逢坂(あうさか)に

祝されよ
千代に八千代に
聖心よ











おそらく大阪教区、また日本全国から大きな霊的花束が送られることと思いそれを期待します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父
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