第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)
1.聖霊と聖母の汚れ無き御心とのもとに
1923年10月25日サンタ・キアラにある神学校に入学
17才のマルセル・ルフェーブルは、同級生のアンドレ・フリ(Andre Frys)とジョルジ・ルクレルク(Gerorges Leclercq)と共にローマの旅を楽しんだ。やはり神学生の兄のルネ・ルフェーブル(Rene Lefebvre)は兵役の義務を果たしているため、また大の親友であるロベール・ルプートル(Robert Lepoutre)もアナプの神学校に入学したため、ローマに同行は出来なかった。ローマに近づくと3人は皆、窓に近づいて聖ペトロ大聖堂のドームを見つめた。「ほら!」と。マルセルは、永遠のと(天主のように)呼ばれているこの都市の歴史の一ページを書こうとしていることを、しかも何という偉大なページを書こうとしていることを知っているのだろうか ?
3名の新入学生は、「守護の天使」役を務めたアンリ・フォックデー(Henri Fockedey)に導かれ聖クララ通り(ヴィア・サンタ・キアラ)に辿り着くと、神学校の入り口にうつむき加減でやさしいお顔の大理石の聖母にであった。この聖母はラテン語でTutela domus(家の守護者)と呼ばれていた。「守護の天使」の真似をしてマルセルもこの前に跪き、よく知るために勉強しますと少し祈った。だれ一人として、この聖母に一言挨拶して敬意を払わずに家を出入りするものはいなかったし、聖母は霊的に必ずその返事をしていた。続いてマルセルは自分の担当の先生に連れられて自分の部屋へと行った。自分の部屋と言っても2人で使うものであり、教区神学生や聖霊修道会の神学生、ヴァレー州(スイス)のサンモーリスの司教座聖堂参事会員(=カノン)など様々な地方と「軍隊」出身の220名の神学生を受け入れるために、全て2人部屋 となっていた。若いルフェーブルは、ラヴァル教区出身で1才年上のジョルジ・ピクナール(Gerogres Picquenard)と相部屋だった。
永遠のローマの中心で
翌日の10月26日はローマをよく知るために一日が使われた。神学生たちは聖ペトロ大聖堂に行き、その建物の威厳、装飾と美術品、教会内部とクーポール(ドームの内部)の金の大きな文字で飾る根本的な文章を見ながら本当の「ローマ教皇論」を見いだしていた。多くの教皇や殉教者の聖遺物は、聖伝の最も雄弁な声であり、聖チプリアノと共に「司祭職の一致がそこから起源を持つこのペトロの座とこの主要教会 」をますます愛するようにと神学生たちを招いていた。
帰り道には神学校近辺の通りに行き、教会の偉大な5つの大学がそろいに揃ってサンタ・キアラから5分以内のところにあることを理解した。
フランス人神学校はなんと理想的な場所に位置していることか! ピオ9世の意向によって、青年たちを教義的ローマ精神に基づいて養成する、これがその使命であった。ピオ9世が1853年にこれを提案しさらに承認した時、聖霊修道会の手にこの運営が任された。では一体何故聖霊修道会に?
聖霊修道会
聖霊修道会はある意味で2回創立された 。1700年頃、ブルターニュの青年クロード・フランスワ・プラール・デ・プラス(Claude-Francois Poullart des Places)は司祭になるためにパリに来ていた。パリと言ってもヤンセニスムの異端に犯されていたソルボンヌではなくイエズス会の大学で勉強していた。同窓生の中に見た悲惨に胸を打たれ、この24才の若き聖職者は1703年5月27日の聖霊降臨の日に「聖霊に捧げられ罪無く宿り給うた童貞聖マリアを呼び求める共同体と神学校 」を創立した。1709年に司祭に叙階され、1709年に30才で帰天。彼はその子らに謙遜、清貧、敬虔、教義の司祭という感動的な模範を残した。
クロード・フランスワ・プラール・デ・プラスは、自分の「貧しい聖職者たちをローマ・カトリック教会の最も健全な教義の原理において高める 」ことを望んだ。若き創立者は自分の好きな標語として喜んでこう繰り返した。「敬虔ではあるが神学知識のない聖職者は、盲目な熱心を持ち、敬虔心のない博学な聖職者は、異端者、教会に反抗するものとなる危険に晒されている 。」
聖霊神学校でこの教義的な敬虔によって養成された司祭たちは、自分の司教区に戻るか或いはグリニョン・ド・モンフォールのマリア会に入会していった。しかし彼らの中にはカナダ(1732年)、コチンシナやセネガル(1770-1790年)などの外国宣教に出発した。
フランス革命(1789年)後、共同体は聖座によって修道会として認可され、9つの植民地特に西インド諸島のアンチル列島とセネガルに優れた聖職者たちを与えた。神学校はローマ的でカトリック的な思索の中心となった。歴史家のロルバシェル(Rohrbacher)、カトリック教会法学者のブイー(Bouix)、教父学のミーニュ(Migne)、古文学のドン・ピトラ(Dom Pitra)などは、この神学校の出身者である。さらにドン・ゲランジェ、モンシニョール・パリジ、グセ枢機卿、ルイ・ヴイヨなどもここに来てローマの教えの光のもとで時代の諸問題を取り扱った 。
1847年、修道会は貧血のように元気がなくなっていた。その時、天主の御摂理はプラール・デ・プラスの古い幹に、リベルマンという接ぎ木の新しい血を輸血したのだった。
リベルマン神父、マリアの聖なる御心、聖クララの家
ヤコボ・リベルマンは1802年4月11日にサヴェルヌのユダヤ教ラビの息子として生まれ、1826年クリスマス・イブに洗礼の恵みを受けた。洗礼名としてフランスワ・マリ・ポールをもらい、後にこう言う。「聖なる洗礼の水が、ユダヤの私の頭を流れるとその瞬間、私は今まで憎んでいたマリア様を愛していた 。」
パリの、次にはイシーにあるサンスルピスの神学校に入学し、リベルマンは自分の持っていた炎で神学生たちのグループを燃え立たせた。彼は、アフリカに「最も蔑ろにされた黒人たちのもとに」使徒の軍隊を派遣するという計画を抱いていた。
ローマによって激励され、てんかんが奇跡的に治癒し、リベルマンは1841年司祭に叙階された。彼は自分の最初の「マリアの聖なる御心の宣教者たち」をアフリカのセネガルとガボンに派遣した。聖霊修道会の司祭たちが同じ大海の地にいるということが、リベルマン神父をして考えさせた。1848年自分の組織を聖霊修道会に統合させ、その時「聖にして汚れ無きマリアの御心を呼び求める聖霊修道会」という名前を戴いた。
リベルマン神父は4年後の1852年2月2日に帰天している。翌年、ピオ9世教皇の呼びかけと選びに答えて聖霊修道会はローマにフランス人神学校を創立した。神学校は1854年聖クララ会の古い修道院に移され、聖クララの家は知的かつ霊的な(pietas cum scientia)活動の中心となった。そのため当時としてはまれなことであったがレオ13世は1902年これに教皇庁立神学校という称号を与えた。続いて1904年、ル・フロック(Le Floc'h)神父は、アルフォンソ・エスバック(Alphonse Eschbach)神父の手から教義的なローマ精神というたいまつの炎を受け取った。
(つづく)