Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

1.聖霊と聖母の汚れ無き御心とのもとに

2006年01月31日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


1.聖霊と聖母の汚れ無き御心とのもとに


1923年10月25日サンタ・キアラにある神学校に入学

 17才のマルセル・ルフェーブルは、同級生のアンドレ・フリ(Andre Frys)とジョルジ・ルクレルク(Gerorges Leclercq)と共にローマの旅を楽しんだ。やはり神学生の兄のルネ・ルフェーブル(Rene Lefebvre)は兵役の義務を果たしているため、また大の親友であるロベール・ルプートル(Robert Lepoutre)もアナプの神学校に入学したため、ローマに同行は出来なかった。ローマに近づくと3人は皆、窓に近づいて聖ペトロ大聖堂のドームを見つめた。「ほら!」と。マルセルは、永遠のと(天主のように)呼ばれているこの都市の歴史の一ページを書こうとしていることを、しかも何という偉大なページを書こうとしていることを知っているのだろうか ?


 3名の新入学生は、「守護の天使」役を務めたアンリ・フォックデー(Henri Fockedey)に導かれ聖クララ通り(ヴィア・サンタ・キアラ)に辿り着くと、神学校の入り口にうつむき加減でやさしいお顔の大理石の聖母にであった。この聖母はラテン語でTutela domus(家の守護者)と呼ばれていた。「守護の天使」の真似をしてマルセルもこの前に跪き、よく知るために勉強しますと少し祈った。だれ一人として、この聖母に一言挨拶して敬意を払わずに家を出入りするものはいなかったし、聖母は霊的に必ずその返事をしていた。続いてマルセルは自分の担当の先生に連れられて自分の部屋へと行った。自分の部屋と言っても2人で使うものであり、教区神学生や聖霊修道会の神学生、ヴァレー州(スイス)のサンモーリスの司教座聖堂参事会員(=カノン)など様々な地方と「軍隊」出身の220名の神学生を受け入れるために、全て2人部屋 となっていた。若いルフェーブルは、ラヴァル教区出身で1才年上のジョルジ・ピクナール(Gerogres Picquenard)と相部屋だった。



永遠のローマの中心で


 翌日の10月26日はローマをよく知るために一日が使われた。神学生たちは聖ペトロ大聖堂に行き、その建物の威厳、装飾と美術品、教会内部とクーポール(ドームの内部)の金の大きな文字で飾る根本的な文章を見ながら本当の「ローマ教皇論」を見いだしていた。多くの教皇や殉教者の聖遺物は、聖伝の最も雄弁な声であり、聖チプリアノと共に「司祭職の一致がそこから起源を持つこのペトロの座とこの主要教会 」をますます愛するようにと神学生たちを招いていた。


 帰り道には神学校近辺の通りに行き、教会の偉大な5つの大学がそろいに揃ってサンタ・キアラから5分以内のところにあることを理解した。


 フランス人神学校はなんと理想的な場所に位置していることか! ピオ9世の意向によって、青年たちを教義的ローマ精神に基づいて養成する、これがその使命であった。ピオ9世が1853年にこれを提案しさらに承認した時、聖霊修道会の手にこの運営が任された。では一体何故聖霊修道会に?


聖霊修道会


 聖霊修道会はある意味で2回創立された 。1700年頃、ブルターニュの青年クロード・フランスワ・プラール・デ・プラス(Claude-Francois Poullart des Places)は司祭になるためにパリに来ていた。パリと言ってもヤンセニスムの異端に犯されていたソルボンヌではなくイエズス会の大学で勉強していた。同窓生の中に見た悲惨に胸を打たれ、この24才の若き聖職者は1703年5月27日の聖霊降臨の日に「聖霊に捧げられ罪無く宿り給うた童貞聖マリアを呼び求める共同体と神学校 」を創立した。1709年に司祭に叙階され、1709年に30才で帰天。彼はその子らに謙遜、清貧、敬虔、教義の司祭という感動的な模範を残した。


 クロード・フランスワ・プラール・デ・プラスは、自分の「貧しい聖職者たちをローマ・カトリック教会の最も健全な教義の原理において高める 」ことを望んだ。若き創立者は自分の好きな標語として喜んでこう繰り返した。「敬虔ではあるが神学知識のない聖職者は、盲目な熱心を持ち、敬虔心のない博学な聖職者は、異端者、教会に反抗するものとなる危険に晒されている 。」


 聖霊神学校でこの教義的な敬虔によって養成された司祭たちは、自分の司教区に戻るか或いはグリニョン・ド・モンフォールのマリア会に入会していった。しかし彼らの中にはカナダ(1732年)、コチンシナやセネガル(1770-1790年)などの外国宣教に出発した。


 フランス革命(1789年)後、共同体は聖座によって修道会として認可され、9つの植民地特に西インド諸島のアンチル列島とセネガルに優れた聖職者たちを与えた。神学校はローマ的でカトリック的な思索の中心となった。歴史家のロルバシェル(Rohrbacher)、カトリック教会法学者のブイー(Bouix)、教父学のミーニュ(Migne)、古文学のドン・ピトラ(Dom Pitra)などは、この神学校の出身者である。さらにドン・ゲランジェ、モンシニョール・パリジ、グセ枢機卿、ルイ・ヴイヨなどもここに来てローマの教えの光のもとで時代の諸問題を取り扱った 。


 1847年、修道会は貧血のように元気がなくなっていた。その時、天主の御摂理はプラール・デ・プラスの古い幹に、リベルマンという接ぎ木の新しい血を輸血したのだった。



リベルマン神父、マリアの聖なる御心、聖クララの家


 ヤコボ・リベルマンは1802年4月11日にサヴェルヌのユダヤ教ラビの息子として生まれ、1826年クリスマス・イブに洗礼の恵みを受けた。洗礼名としてフランスワ・マリ・ポールをもらい、後にこう言う。「聖なる洗礼の水が、ユダヤの私の頭を流れるとその瞬間、私は今まで憎んでいたマリア様を愛していた 。」


 パリの、次にはイシーにあるサンスルピスの神学校に入学し、リベルマンは自分の持っていた炎で神学生たちのグループを燃え立たせた。彼は、アフリカに「最も蔑ろにされた黒人たちのもとに」使徒の軍隊を派遣するという計画を抱いていた。


 ローマによって激励され、てんかんが奇跡的に治癒し、リベルマンは1841年司祭に叙階された。彼は自分の最初の「マリアの聖なる御心の宣教者たち」をアフリカのセネガルとガボンに派遣した。聖霊修道会の司祭たちが同じ大海の地にいるということが、リベルマン神父をして考えさせた。1848年自分の組織を聖霊修道会に統合させ、その時「聖にして汚れ無きマリアの御心を呼び求める聖霊修道会」という名前を戴いた。


 リベルマン神父は4年後の1852年2月2日に帰天している。翌年、ピオ9世教皇の呼びかけと選びに答えて聖霊修道会はローマにフランス人神学校を創立した。神学校は1854年聖クララ会の古い修道院に移され、聖クララの家は知的かつ霊的な(pietas cum scientia)活動の中心となった。そのため当時としてはまれなことであったがレオ13世は1902年これに教皇庁立神学校という称号を与えた。続いて1904年、ル・フロック(Le Floc'h)神父は、アルフォンソ・エスバック(Alphonse Eschbach)神父の手から教義的なローマ精神というたいまつの炎を受け取った。


 

(つづく)

 

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始めに

2006年01月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

マルセル・ルフェーブル大司教

―地上に降った宝石エコンを作った男―
From "Marcel Lefebvre" by Msgr. Bernard Tissier de Mallerais, Clovis, 2002.


 


始めに

 ルフェーブル大司教、カトリック信者なら、いやキリスト教に関係のない方でも少し興味がある方は聞いたことがある名前かもしれない。しかし名前だけだろう。マルセル・ルフェーブル(1905年生-1991年没)は主にアフリカで働いた宣教師、司教、教皇使節だったから、ほとんどの日本の方とはなじみが薄いかもしれない。


 マルセル・ルフェーブルは、ピオ11世の在位のローマのフランス神学校の神学生であり、1929年に司祭に叙階された。ローマのグレゴリオ大学では2つの博士号を獲得した。若きルフェーブル神父は宣教師になることを望み聖霊修道会に入会し、1932年にはアフリカのガボンに派遣された。将来のアフリカの現地人司祭の養成に力を尽くした。その後アフリカのオゴウエ河沿いのジャングルを宣教し、シュヴァイツァー博士の友ともなる。


 1947年、彼はピオ12世の命によって42才の若さにしてセネガルの司教となり、43才の時には既に教皇ピオ12世の代理としてフランス語圏のアフリカ諸国の教皇使節(教皇大使と実質的に同じ)に命じられた。マラケックからタラナリーヴへ、ダカールからガオへ、時々フランソワ・ミッテランと同席してアフリカの国々を駆け回りアフリカの現状をピオ12世に報告した。1948年から1962年まで、ルフェーブル大司教は植民地政策中止と独立の議論のまっただ中にいた。彼はアフリカの現地人による自立的カトリック位階制度を組織するのに力をつくした。彼の指導していた神学校の卒業生のうち3名が司教となっている。ダカールでルフェーブル大司教の指導は、「青少年を襲う物質主義や無神論に目を閉じるような旧弊、考えの狭さ、時代遅れで化石化した伝統主義と闘いながら前進する」ことを知らなければならない、だった。


 パリの教皇大使アンジェロ・ロンカリ、すなわち将来の教皇ヨハネ23世は、ルフェーブル大司教をしばしば教皇大使館に招き、ルネ・コティはルフェーブル大司教を大統領官邸エリゼ宮に招いた。シャルル・ド・ゴールはルフェーブル大司教に何度も相談し、アイルランドの大統領デ・ヴァレラはルフェーブル大司教のミサ答えをした。


 1962年には聖霊修道会という5000名以上の会員を有していた修道会の総長に選ばれた。ヨハネ23世は彼を教皇座の補佐、また第2バチカン公会議準備中央委員の委員に任命した。第2バチカン公会議の最中は保守派のリーダーであった。彼はアッジョルナメント(現代化)によって教会に生じつつある大きな亀裂をただ単に傍観していることはできなかった。彼は発言し、発言した。いわゆる「ルフェーブル効果」は進歩主義者の望む道程を覆した。


 自分の愛する修道会の自己破壊に同意することができず、1968年ルフェーブル大司教は総長の職を辞職した。63才、手に鞄1つを持って外に出た「失業司教」だった。そんな彼に神学生たちは、神学校の危機と司祭職の危機を感じて助けを求めた。「大司教さま、私たちにために何かして下さい。神学校を作って下さい!」ルフェーブル大司教はこの懇願が自分をどこに連れていくかを知っていただろうか? 一体どこまで? 若き神学生らに囲まれた老大司教はゼロからスタートする。そしてカトリック教会に認可を受けた司祭修道会を創立する。彼はすぐに5つの大陸ではたらく400名以上の司祭、200余名の修道者たちを子供に持つだろう。


 こんなルフェーブル大司教を世界的に有名にしたのは、異常気象で異常な暑さに見舞われた1976年のフランス、リールでのミサ聖祭だった。このミサ聖祭についてパウロ6世が「聖ペトロの鍵に対する挑戦」であると告発すると、世界中から400名余の新聞記者、ラジオ・テレビのニュースリポーターがこの聖伝のミサにつめかけて、彼を質問攻めにした。ソビエトのイスヴェスチア紙はパウロ6世に、反抗するルフェーブル大司教を黙らせるようにと要求した。フランスの首相であったジャック・シラクはルフェーブル大司教に「教会の長女であるフランスの名前によって」教皇と仲直りして欲しいと頼み込んだ。


 フランスの1976年「暑い夏」の12年後、ヨハネ・パウロ2世の主宰したアシジでの諸宗教の集いに「ノー」と言いルフェーブル大司教は4名の司教を聖別した。世界中のマスメディアは「鉄の司教」による「大きな引き裂かれ」を語った。


 マルセル・ルフェーブル、彼は一体何を求めていたのか。イエズス・キリストについて絶対的確信を抱いていたが故に、自分の行動に極めて強い確信を抱いていた男、おとなしいが大胆、柔軟であるが意志が強いルフェーブル大司教の秘密は何だったのか。名前は聞いたことはあるかもしれないが、その本当の人生と生きざまについてはほとんど知られていないルフェーブル大司教。・・・

 

 私は兄弟姉妹の幾人からからこのルフェーブル大司教について教えて欲しいと頼まれたことがある。私は、ルフェーブル大司教の建てたエコンの神学校をその神学生だった時に「天から地上に降った宝石」であると表現したことがあるが、それが何故かと聞かれたこともある。それに答えるために、幸いに2002年にはフランス語でルフェーブル大司教の伝記が出版されたので、ここで私はそれを日本語で伝えたいと思っている。もちろん質問に答えるためには、恐らくどんな大司教だったのか要点をかいつまんで短く説明すればそれでよいのだろう。JRの東京駅から地下鉄の南北線の本駒込駅までどうやっていくかを説明するためにわざわざ国土地理院の細かい地図を出して説明するのは愚かなことだ。路線図を見せて「ここで乗り換えて」と要点を説明すればよいはずだ。それと同じようにルフェーブル大司教のことを詳しく説明して何の意味があるだろうか?



 私は、時間が経てば経つにつれて、カトリック教会のことをより多く知れば知るにつれて、人生経験が多くなればなるにつれて、いろいろな人々と会えば合うにつれて、ますます神学生時代の印象が確信に変わっている。マルセル・ルフェーブル大司教とは、地上に降った宝石エコンを作った男であると。


 だから、私はその質問に答えるために、私の確信を伝えるためにも、路線図を見せるのではなく、一緒に電車に乗って東京駅から本駒込駅までお連れしたいと思う。なるべく生き生きとしたマルセル・ルフェーブルの生きざまをその考えをその信仰を伝えたいと思う。これにはしばらく時間がかかるだろうが、少しずつこれをしたいと思っている。しばらくご忍耐をお願いしたい。


2006年1月28日


トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)


 

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このブログ・スペースの意味

2006年01月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


何故こんなブログを?
 2005年は聖ピオ十世会創立者のマルセル・ルフェーブル大司教様の生誕百周年の年でした。私は是非ともその機会を使って、ルフェーブル大司教様のお姿を日本の兄弟姉妹の皆様にお知らせしたいと思っていました。

 何故なら、
(1)言葉の壁が厚くあるためにルフェーブル大司教様についての情報が日本語ではあまりにも少ないから。
(2)ルフェーブル大司教様のことがよく知られていないので、多くの誤解と偏見が横行しているから。
(3)この誤解は、ルフェーブル大司教様が擁護してきたカトリック教会の聖伝の教え、教皇様たちの教えの誤解にも繋がり、ひいてはカトリック教会の教えそのものを誤解することへと関係があるから。
(4)日本ではよく「第二バチカン公会議以前は、教会はこんなに悪かった、第二バチカン公会議後、それが善くなった」とよく批判を聞かされることはあるけれども、それらの批判はほとんどの場合、歪曲され誇張され色眼鏡をつけられて語られており(いわば「第二バチカン公会議以前の教会」にかれこれ二十年近くどっぷり身を置くものとして、私にはそうとしか聞こえない)、誤解の根が深いから。

 そのために、ルフェーブル大司教様が何をしてきたのか、何を考えてきたのか、何を言ってきたのか、行ってきたかの事実を伝えたい、そうすることによってルフェーブル大司教様のみならずカトリック教会の聖伝の信仰と教えとを伝えたいと願ってきました。そのために一番良いことは、ティシエ・ド・マルレ司教様がフランス語で出版したルフェーブル大司教様の伝記をお知らせすることだと思われました。
 何故なら、それによって
(1)ルフェーブル大司教様の生きざまが分かるから。
(2)神学論文などよりも、ずっと取っつきやすいから。
(3)時代背景も重なり、理解に幅が出てくるから。
(4)そして何よりも日本の多くの兄弟姉妹から「ルフェーブル大司教様のことをもっとよく知りたいので教えてほしい」と依頼されていたから。

 それをするとてもよい機会がルフェーブル大司教様生誕百周年だったわけです。かなり前から準備していったつもりですが、しかし結局、この「事業」は、私の仕事が遅いために間に合いませんでした。少しずつでもできたところだけでも兄弟姉妹の皆様にご紹介しようと思っていたのですが、それさえもすることができませんでした。

 そこでアドバイスを戴き、今度はブログのスペースを借りて少しずつ皆さんにお知らせすることにしました。
 何故なら、
(1)メルマガで送信すると、文字化けしてしまうことがよくあるが、ブログの形式ならばそれが防げるから。
(2)ブログの形式にすると、メルマガを送信したり掲示版に書き込みをしたりする感覚で掲載できるので、文章を書くだけで、レイアウトなどに余分な時間がたくさんとられないと思われるから。
(3)時間が経っても過去にやったものなどが既にここに保存されており、将来の整理のためにも、コンピューターの具合でデータが消失してしまった時のためにも、やりやすくなる道具となると思われるから。とくにこれは長期計画の事業なので有益であると思われるから。
(4)この形式だと、少しでも良いから毎日、作業を進めようと言う励みになると思われるから。
 等々の理由(これ以外にもある)のためです。

 というわけで、これからルフェーブル大司教様の伝記を兄弟姉妹の皆様に少しずつではありますが、ご紹介していきたいと思います。ご愛顧をよろしくお願いします。

 そして、このブログに関わる全ての活動を聖母の汚れ無き御心に謹んでお捧げいたします。

雪の東京にて。
童貞殉教者聖アグネスの祝日に

聖アグネス、我らために祈り給え。
聖母の汚れ無き御心、我らのために祈り給え。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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