Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 10月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


10月
ロザリオの月です。ロザリオを毎日できれば家族で唱えましょう。
意向:人々がイエズス・キリストを王として愛し従うため
実践すべき徳:沈潜
守護の聖人:聖シモンと聖ユダ・タデオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 10月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    10月5日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)緑 殉教者聖プラチドとその伴侶の記念
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月6日(初土)証聖者聖ブルノ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月14日(主)聖霊降臨後第21主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月15日(月)童貞聖テレジア(3級祝日)白
            午前6時 ミサ聖祭

    10月19日(金)証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白 ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月20日(土)証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白  ←司祭黙想会のためキャンセルとなります、何卒ご了承ください
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    10月7日(主) 聖霊降臨後第20主日(2級)緑  ロザリオの聖母の記念 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月8日(月) 寡婦聖ビルジッタ(3級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    10月21日(主) 聖霊降臨後第22主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    10月22日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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天主様に感謝します

2012年01月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 如何お過ごしでしょうか?ご無沙汰しております。

 こちらは、イロイロの修練院で聖イグナチオによる「30日の霊操」を終えてきました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。

7名の司祭と8名の修道士と1名の信徒が参加しました。食堂ではゴールドマン神父様の「翼の蔭」を読みました。シスター・ゾラナやシスター・ヴェロニックなどの祈りによる、祈りの力に大変感動しました。自由時間には、列聖証言集からの抜粋「証言者が知っていたリジューの聖テレーズ」を読みました。大感動!!聖テレーズを再発見しました!

 マニラでたまってしまった仕事を終わらせて、愛する兄弟姉妹の皆様に改めて、ご報告します。お祈りをありがとうございました。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第六十二章 あちらにもこちらにも、天主様はいらっしゃいます

2012年01月08日 | カトリックとは
第六十二章 あちらにもこちらにも、天主様はいらっしゃいます

あなたが今まで私の話をお読みになれば、非常に多くの殉教者が私の周囲にいたことを学んだことでしょう。ですが、私は彼らのいずれかが聖母またはイエズス様の出現を受けたことを聞いてはいません。それは、天主様があたかも中国の刑務所や労働収容所にほとんど注意を払っていないかのように見えました。数十年もの間、非常に多くの司祭と信者は、ミサを立てたり、それに与ることや、如何なる秘跡をも受ける機会がありませんでした。ミサや告白無しに、自分たちの信仰をどうして保つことができたのかと、多くの人々は私に問いました。実際には、それは非常に少数の人々しか気付くことが出来ない奥義です。

私たちは天主様の前で罪人ですが、私たちは自分の国や他人を怒らせることを何もしませんでした。私たちは真実の証人となるためだけに自由を失いました。私たちは天主様の名前のために迫害されました。どうして、慈悲深い天主様が、私たちをお忘れになることが有り得るでしょうか?天主様は全知全能であり、どこでも、そしていつでも私たちと共におられます。私が労働改造所にいた時、私はいつも、自分が殉教者の列に選ばれた人であり、もっとも祝福された一人だと思いました。私がどんなに侮辱されようとも、私が持っていた十字架がどんなに重くても、私はゴルゴタの丘に向かう準備が出来ていました。私が死ぬのならば、天主様は直ぐに私の目の前におられ、私が天国へ来るのを歓迎されるでしょう。労働改造所は私にとって、天国の予備校でした。もし、自分たちの苦行と祈りをイエズス様の犠牲と一体にするのならば、私たちは自分たちと他の人の霊魂を救うことが出来ます。どうして、そうせずにいられるでしょう?50年以上の後の現在、あわれな罪人である私はなお生き延びています。私は天主様が神であることを証明する最良の証人です。誰も天主様無しでは、苦しみの深い谷を切り抜けることは出来ないでしょう。とても強くて聖なる人でさえ、長年ものあの種の厳しい迫害を自分自身の強さでは耐えられないでしょう。間違いなく、私は小さき者の最も小さき者です。実際のところ、私が披露するようなものは何も持っておらず、天主様の御慈悲を褒め称えるばかりです。イエズス様無しには私は罪人であり、埃に過ぎません。

私の親友であるテレサは、私に素晴らしい出来事を語りました。彼女が上海で投獄された時、彼女は同じ牢屋内で女霊媒師と共に過ごしました。この女性は、彼女が何匹かの魔物に取りつかれており、死者と交信する霊媒になることが出来ると告げました。テレサは最初、冗談としては受け取りましたが、その経験は彼女に疲れと妨げを残しました。ある冬の日、霊媒師は十分な衣類を持っていなかったので、寒さで手に負えないほど震えていました。テレサは彼女を気の毒に思い、この女性に自分のコートを着せました。数秒の内に、その女性は大声で叫びました。牢獄内の誰もが、彼女に何が起きているかに驚きました。数分後、女性は静かになりました。彼女は、ここ数年の間、彼女の上に何匹かの魔物がいましたが、今彼女は彼らから自由になったとテレサに語りました。彼女は、コートに何か特別なものがあったかどうか尋ねましたが、当然のことながら、テレサは何も特別なものはない普通のコートだと言いました。その後、慎重に自分のコートをチェックし、驚いたことに、テレサは彼女の母親がコートの裏地の上に、茶色のスカプラリオの一部を貼り付けていたのを見つけました。彼女の母親を除いては、誰もその秘密を知りませんでした。スカプラリオは、刑務所の独房で大きな奇蹟を起こしました。何度も何度も時間をかけて私の友人に警告した女性は、進んで信者の一人となりました。あちらでもこちらでも、天主様と私たちの聖母は刑務所の独房におられました。天主様の祝福と御恵みは常に私たちと共にあります。

何年も前に、私に起こった他の出来事がありました。私が最初に米国に来たとき、私はチャイナタウンに住んでいました。私は毎朝ミサに行き、私の家から教会までの距離は遠くはありませんでしたが、通りの多いランプがありましたので、近道として、橋まで3層を歩いて登らなければなりませんでした。道が真っ直ぐではっきりとはしていなかったので、非常に少数の人しかそこを通りませんでした。私の隣人の多くは、多くの人が物を盗まれてある人は殺されたので、そこの上を歩くのは余りにも危険だと私に言いました。彼らはそこを通らないように何度も何度も私に警告しました。私が安全な道を通る場合、教会に行くのに40分多くかかります。私が近道をするつもりではなかったら、有り難いと思うでしょう。私がほとんど頂上まで歩いていた日まで、何事もなく日々は過ぎました。突然、不穏な人影が私の視界に入ってきました。一人の裸のラテン系アメリカ人が、私から10歩以内のところにいました。彼は空腹のライオンのように非常に荒っぽく見え、私は自分が何をすべきか全く途方にくれました。もし私が走れば、彼が私を捕まえるのとても簡単だったでしょう。どこへ行くにも私はいつもロザリオを持ち、可能な限り多くロザリオの祈りを唱えました。私の信条は、ロザリオが武器の中で最も強力であるということです。そのような緊急事態で助けを求めても、誰も来ないでしょう。その非常に重要な時に、私の思考は速く回り、私は自分の右手から左手にロザリオを持ち替えて、とても熱心に十字架の印をしました。

彼は震え始めました。私は一歩一歩とペースを保ちつつ、彼に近づきました。その人はとても怯えたので、私の顔を見るのを避けるために、一歩一歩と後ずさりしました、そして、踵を返してすぐに走り去りました。教会に着いた後、私はイエズス様の前に跪きましたが、どのように天主様に感謝してよいか分かりませんでした。実際のところ、私は単なる特別な力も持たない罪人でした。あのランプで起こったことは、全く強力な十字架の印によるものでした。何が起きようとも、悪魔は救いの印であるこの偉大なシンボルを恐れます。天主様は十字架の上で私たちをお救いになりました。何が起こったかを見て下さい。ロザリオの祈りを唱えることと、十字架の印をすることの他に、私は何もしていませんでした。私はイエズス様と、私たちの祝福された御母であるマリア様によって守られました。天主様に完全な信頼を置いているならば、あなたにも同じく奇蹟が起こるのです。実際に、天主様はこちらにもそちらにもおられます。どこにでもいらっしゃいます。いつでも、私たちの祈りにお応え下さるように準備されています。

-完-





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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第六十一章 いくつかの興味深い日々

2012年01月07日 | カトリックとは
第六十一章 いくつかの興味深い日々

私たちは天主様の子どもです。私たちの人生で起こるすべては天主様の御摂理であり、そして何も偶然ではありません。天主様は私たちが生まれる前でさえも、御自分の私たちへの愛をお示しになるために、私たちに起きることを何でも計画されました。ところが、私たち人間はしばしば霊的的な知恵に欠けており、天主様の御意向の謎をはっきりと理解することは出来ません。多くの人は不平を言い、ある少数の人は生き続ける勇気さえも無くしてしまいます。

 私が若い頃、私が唯知っていたのは、イエズス様は私たちのために十字架でお亡くなりになり、そしてなお御聖体の中におられることでした。天主様と私の距離はとても遠いです。その当時、天主様がどれほど深く私を愛されたか気が付かなかったほど、私は世俗的でした。

今、私の人生の後の段階で、天主様は私の人生で起こった多くの素晴らしいことを通じて、私に大きな御慈悲をお示しになりました。私は、天主様の御節理がどんなに素晴らしいか語ることが出来ます。

私は二度逮捕されました。一回目は九月八日で、二回目は九月十二日でした。それは私たちの聖母が、十字架に向かう途中の彼女の足跡に従うように、私を御選びになったことを意味しました。私は一九五五年九月八日の夜をはっきりと覚えています。私の大学の学長が、警察署からの私への逮捕状を示し、深いため息と共に私に言いました。「一九五五年九月三日付の書類を見なさい。なぜ、我々が君に伝えるのに五日遅らせたか分かるかね?我々は、君の「告白」を待っていた。君はあまりにも頑固だから、我々は君を刑務所に入れる他に選択肢が無い」再び彼は言いました。「警察署は我々が最善を尽くしていることを示すために、君のファイルにこの逮捕状を保管する」私は長年の間、どうして九月三日の日付が私に関わりがあるのか疑問に思いました。今年の聖ピオ十世の祝日まで、私は答えが分かりませんでした。

今年、私たちの小教区が私たちの守護聖人のための荘厳ミサを捧げた時、私は教会の伝統を守った聖ピオ十世教皇様の生涯を黙想していました。私たちの創立者であるルフェーブル大司教様が、私たちの守護聖人として聖ピオ十世を選んだ理由はそこにありました。また、九月八日の聖母の誕生の祝日は、教皇ピオ十世が近代主義を排斥した日でした。私たちの霊魂を救うために、私たちは近代主義と戦って私たちの信仰を守る必要があります。私たちの聖ピオ十世会は、司祭の養成という偉大な事業をしています。ミサは司祭の中心です。サタンは、神聖な伝統的ミサを攻撃するために、非常に力を尽くしています。悪魔は教会を破壊するために、ミサを変更する必要があることをはっきりと知っています。私たちは、どのような状況下でも妥協する余地が無いように、信仰を守って私たちの次の世代にそれを受け継がせなければなりません。私たちの大司教様の初期の働きが無ければ、現在ラテン語ミサは無かったでしょう。それは本当に素晴らしいことです!

三年前、私は聖ピオ十世によって、聖ピオ十世会第三会会員に選ばれました。 聖なるミサは私の生活の中心です。私はミサを愛するだけでなく、自分の残りの生涯を神聖な伝統的ミサに捧げます。ミサは最も強力な祈りであり、天国へのエレベーターです。神聖な伝統的ミサを失うのならば、私はむしろ他の全てを失ったほうがましです。これから、毎日のミサ無しには一日を過ごさないようにします。多くの人々が知っているように、中国の旧正月は(春節とも呼ばれます)一年で最も魅力的な中国人の祝日です。人々は通常、新年を祝うために七日から十日の休暇を取りますが、私にとって一九五一年の旧正月は、悲しくかつ幸せな一日でした。父がその日に亡くなったので私は悲しく、亡くなる数時間前にその父は洗礼を受けたので、私は幸せでした。その日に、私たちの聖母は父を天国に迎えられ、私たち家族全員にとって実に意味のある日となりました。

私の司祭である朱樹徳神父様は私に語りました。「あなたのお父さんは何と恵まれていることでしょう!レジオ・マリエのために苦しみましたが、今、天主様は直ぐに報いてくださいました。あなたはお父さんのために感謝のミサを依頼する必要があります」彼の死から数か月後、共産党政府はすべての企業の所有者に対する組織的攻撃を始めました。ですから、父はその死によって、働くための全ての物を失うという苦しみを免れたのでした。

私の誕生日は五月四日の聖モニカの祝日です。天主様は、夫と息子の回心のために約三十年間祈ったこの偉大な聖人に倣うことをお望みになりました。結局は、彼女の祈りと苦行によって、彼女の息子は私たちの教会の偉大な博士となり、彼女の夫は回心しました。天主様にとって何も不可能なことはありません。私たちが天主様に完全な信頼を置きさえすれば、その御恵みは罪人の心を動かすことが出来るのです。

最愛の天主様、あなたが私をお呼び下さる時を知りません。間違いなく、それは私にとって最も重要な日となります。それがいつであろうと、私が深くあなたを愛し、私の霊魂が最もあなたを待ち望んでいる時であることを祈ります。私は安らかにあなたの腕で休むことができます。すべての出来事は天主様の御節理にあり、そしてそれは天主様の私への愛です。私は今、そして永遠にデオ・グラチアスを言います!


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第六十章 流れに気をつけて!

2012年01月06日 | カトリックとは
第六十章 流れに気をつけて!

天主様は無限の創造主です。最もよく構成されている神です。創世記は、天主様が秩序に満ちた方法で世界の万物を創造したかについて語ります。天主様が創造されたすべては良いものです。それが植物または動物であろうとも、成長し、生きるための方法を持っています。天主様が創造されたすべてのものは、その性質を持ち、そして他のものと協力して生活します。天主様は巨大な地球と、幾十億何百万もの数えきれない星が瞬く空を創造されました。宇宙はとても素晴らしいです。これら全ての天体を存在するように呼び出し、それぞれの軌道を導きつつ、宇宙でそれらを支えて維持する天主様は、すばらしく偉大であるに違いありません。何千種類もの植物、無数の鳥、魚、そして動物が調和を保って地球の上に住んでいます。私は科学、またミツバチやアリが非常に厳密でかつ組織的な生活を送るかについて、ほとんど知りません。それらは何と美しく、正確なことでしょう!天主様が創られたすべてのものは独自の性質があり、常に世界のバランスを保っています。

 ところが、今日では全てが変化しています。最近、私は数字に関するいくつかの謎を明らかにした数学者からこれをコピーしました。これは本当に素晴らしいです。

数字の謎

1 x 1 = 1
11 x 11 = 121
111 x 111 = 12321
1111 x 1111 = 1234321
11111 x 11111 = 123454321
111111 x 111111 = 12345654321
1111111 x 1111111 = 1234567654321
11111111 x 11111111 = 123456787654321
111111111 x 111111111 = 12345678987654321

私が米国に到着した後、スーパーマーケットに行きました。チキン、トウモロコシ、そしてとても大きくなったリンゴを見て、私は喜びました!私は徐々に、チキンはそれほどおいしくないことに気付きました。トウモロコシは良い香りが無く、さらにトウガラシは辛い味がしませんでした。すべてのこれらのいわゆる天然の作物は、再び不自然なものとなりました。あくなき欲の人間はより多くのお金を得るために、さまざまな方法で自分たちの作物を調たちする必要があります。彼らは、非常に急速に成長するように鶏や牛にホルモンや抗生物質を注入します。ほとんどの野菜や鶏肉は、彼らの天主様から与えられた本質を削除されるか変更されています。この国では、猫のほとんどは鼠を捕まえる方法がわかりません!猫は鼠を恐れています。彼らはよく首の周りをリボンか鈴で飾り、徹底的に甘やかされて育ち、非常に臆病で飼いならされたペットに過ぎません。

私は頻繁に、自分が今アメリカで今ローマ・カトリックであるということを忘れないように、自分自身で思い起こす必要があります。私たちの教会は二千年以上の歴史があります。これは、波と共に変わるような時間ではありません。古い教えを放棄して、新しいものに従ってはなりません。悪魔は常に狡猾であることに注意しましょう。悪魔が私たちの霊魂に悪い考えを植え付けるときはいつでも、それらの考えが適切な土壌と適度な気温を持つならば、それらは非常に速く成長します。この物質主義の世界では、私たちは楽な生活を送ることを好みます。私たちは気付くことすらなく、精神的なものより物質的なものを愛します。そして、私たちは少しずつ、近代主義と自由主義の攻撃を受けます。悪魔は直接私たちに「神を信じてはいけない」とは言いませんが、あなたにこう言うでしょう。「宗教は古すぎて、もはやそれ自身の重要性とは関係ない。あなたは新しいものに従順でなければならない。変化が唯一永続するものなのだから、あなたは新しい思想を受け入れる必要があります」耳を傾けてはいけません。新しい教えは僅か40年に過ぎません。実際に、現代の教会は変えられています。教会はその真実と伝統を失っています。どうして疑問に思うことなく、近代主義やこのアジョルナメント(適合)を受け入れることが出来るでしょう。私たちがこの道に傾くのならば、私たちは真実にはほど遠いです。

半世紀以上にわたり、中国で迫害が行われていますが、米国では別の種類の迫害があります。非常に多くの信者は、自分たちの信仰を失っており、それを知ることすらありません。この特別な試練に直面して、最高の武器はラテン語のミサに与り、毎日ロザリオを唱えることです。あらゆる状況下でルフェーブル大司教様を模倣し、信仰を保ちましょう。


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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十九章 水

2012年01月05日 | カトリックとは
第五十九章 水

誰もが、水は世界で最も必要なものであると知っていますが、灰と塵のように水は非常に低い位置に留まっています。水は自ら見せびらかすことが無いので、誰もが多くの注意を払うことはありません。私たちはしばしば、水を飲んだり、使うことを当然だと思っています。砂漠や雨が不足している土地のようないくつかの特別な地域のみ、人は水の価値に気が付きます。

ワインは水よりも貴重ですが、水はより重要です。洗礼の秘跡は水なしで施すことは出来ません。司祭は準秘蹟を祝福するために、水を使います。私たちの死後でさえ、私たちの体は水で司祭により祝福されます。私たちは教会に入るたびに、水で十字架の印をします。水。私たちは日常生活及び霊的生活の中で、水を必要とします。

 私は水のように謙虚になりたいです。水は味が無く、そしてそれはコーヒー、紅茶やソーダなどの私たちにとって最高の飲み物となります。謙虚さは水のようです。家族の中、小教区、そしてどこでも小さいこと。最後の者は常に最初に来ます。私の主が容器に私を注ぐ時、それがどんな形状であろうとも、私は水のように従順になりたいと思います。私は容易にそして徹底的にその隅々まで行き渡り、天主様の御意志に完全に自分自身を従わせます。水や水の滴が悪の頑なさをすり減らすように、私は時間がかかろうとも水のように持続する力を持ちたいです。石が削られるその日まで、水の滴は少しずつ垂れて石の上に落ち続けます。天主様、私をこの水の滴にしてください。

水は強いとは思われていませんが、私はその水のように強くなりたいと思います。流れの中の水は、非常に穏やかに流れますが、ナイフや銃は海へのその容赦のない旅を断ち切ることは出来ません。水は着実に、川、海、そして大海へと進みます。私たちは、全く天主様により、そして天主様のために創られたことを覚えていて下さい。何物も天主様を礼拝することから自分を逸らさないようにと祈って下さい。

私は水のようになり、ちょうど水と同じように、必要に応じて自分の形を変えたいと思います。誘惑や試練が来れば、私は冷やされて何物にも負けない固くしっかりした氷になりたいです。人々が私を必要とする時、私は進んで蒸気になって暖かさを与えるか、蒸気機関として良く回ります。

罪人である私は、自分自身を汚れた水たまりであると表現出来ますが、私は清められて流れの中できれいな水と一緒になり、天主様の海へと注ぐように努力します。

私は普通の水と同じくらい平凡であることを願っています。私はむしろ、カラフルな液体石鹸のようになるよりは、普通の水になりたいです。人々は液体石鹸で一時的に輝くシャボン玉を吹くことは出来ますが、それは瞬く間に消えてしまいます。
二〇〇五年十二月六日


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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十八章 落し物と拾い物

2012年01月04日 | カトリックとは
第五十八章 落し物と拾い物

人間の歴史で、最初の「落し物と拾い物」はアダムとイブでした。彼らの原罪は、楽園の喪失をもたらしました。しかし、天主様は悪から善をもたらすことが御出来になる方です。そう、「幸運な原罪」は、私たちの救い主イエズス様と、私たちの祝せられた御母であるマリア様をもたらしました。次の「落し物と拾い物」は、イエズス様が12歳の時にいなくなり、神殿で見付かったと聖書で語られていることです。長い年月の間、なぜそれが喜びの第五玄義と呼ばれているのか、私は疑問に思っていました。実際には、ヨゼフ様と、原罪無くして宿られたイエズス様の御母であるマリア様2人にとって、非常に悲しいことでした。マリア様は天主様の最も完璧な被創造物です。ヨゼフ様は、全聖人たちの保護者として崇敬されます。二人はイエズス様の御降誕のために、たくさん苦しみました。彼らがベツレヘムに行った時、あらゆる不快感や悩みを進んで苦しもうとしていたことを、聖書は教えてくれます。ヘロデ王がイエズス様を探し出して殺すことを計画していた時に、天使が登われ、不平を言わずにエジプトに逃げるよう、ヨゼフ様に忠告を与えました。イエズス様が2歳の時、彼らはエルサレムに行きました。その帰路に、彼らは自分たちの一人息子を置き忘れ、イエズス様がいなくなっていることがわかりました(最も悲しい事に、彼らはイエズス様が、不合理なことは何もされない天主様であることを確信していたことです)。彼らは何か天主様がお怒りになる事していたかどうかを確かめようと、自分自身を検討しました。彼らは何の答えも見つけず、彼らは何故イエズス様は彼らにこのことをされたのか、不思議に思いました。彼ら2人の心は全く打ちひしがれてしまい、天使は彼らを慰めに来ませんでした。彼らが出来たことは、ただ探し求めることでした。

マリア様とヨゼフ様は涙でいっぱいでした。彼らは自分たちの命や全世界を失うことになっても、イエズス様を失うことは出来ませんでした。彼らは最悪の事態を恐れ、三日間、深い悲しみに沈んで耐えました。三日目に、マリア様が神殿でイエズス様を見つけたとき、彼女は言いました。「息子よ、なぜ私たちにそのようにしたの?御覧なさい、あなたのお父さんと私は、悲しみながらあなたを探したのですよ」彼は答えました。「どうして私を探したのですか?私が必ず父の家にいることを知らなかったのですか?」(ルカ2:48-49)

自分の限られた人間の思考の中で、なぜイエズス様がマリア様とヨゼフ様を軽く扱ったことを本当に理解出来ませんでした。もし、イエズス様が事前にその事を説明していたのでしたら、どうして彼の両親がイエズス様を拒否することが出来たでしょう?イエズス様は御降誕以来神であり、人間です。謙遜、貧困、そして迫害の内に生活されました。彼の口からは何の不平も無く、彼が十二歳にたちした時、自分自身が天主様の御子であることを宣言なさいました。マリア様とヨゼフ様は私たちのために、イエズス様が霊的な知恵を見つけるように代償を払いました。天主様の御摂理は何と素晴らしいのでしょう!彼らは偉大な神秘を理解するために、三日間苦しみました。その後、イエズス様は別の18年間にわたり、彼の母親と一緒に留まりました。

イエズス様が十字架につけられた時、彼の4つ目の最後の言葉は、「我が天主、我が天主、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)でした。イエズス様は、表面上は永遠の御父から見捨てられたかのように見えました。これはイエズス様の酷い苦しみの頂点でした。これは全く私たちの罪のためでした。私たちは天主様を見捨てましたので、永遠に天主様から拒まれ、離れ離れとなるのに値します。イエズス様は私たちに深い教訓をお教えになり、御自分の苦しみによって私たちのために永遠の命を見つけて下さいました。私たちはこの移ろう世界で何かを失わなければなりません。失うこととは、放棄したり、トラブルを受け入れるか、または苦痛に耐えたり、何かを得るための代償を払うことを意味します。私たちが払う代償はとても少ないですが、私たちは永遠のメリットを永久に得ることが出来ます。これは本当の掘り出し物です。

実際に、「落し物と拾い物」は、皆さんの人生で起こります。人はそれらを失うまで、多くの物事の価値が分りません。多くの人々は病気で倒れるまで、健康が何であるかを知りません。自由な国で、我々はストレス無く教会に行き、人々はそれを当然であると考えています。もし、いつの日か迫害が来るならば、人はこの自由の本当の意味が何であるかを知るでしょう。私にとって、大きな「落し物と拾い物」は、いくつか私の人生にありました。毎回何かを失うたびに、私はより多くを見付けました。私が逮捕された時、私は全く自分の自由を無くしました。私は家族を失いましたが、同時に私は、天主様と語り合う自由な時間を見付けました。私は自分の健康を失ったとき、自分の本を書くための多くの時間を見付け、そして自分の精神生活上の健康を得ました。自分のノヴス・オルドの友人である聖職者と信者を失ったとき、ルフェーブル大司教様を見つけました。「落し物と拾い物」に気付くのは、ほぼありふれたこととなっています。

とにかく、「落し物と拾い物」の連続が、私たちの人生となります。それらは留め金のようなものです。ある物はこの方向を指し、他の物は反対方向を指します。このようにそれらは、私たちの霊魂が失われるのを防ぐために用いられる留め金となります。

イエズス様は、「たとえ全世界を得たとしても、己の霊魂を失ったらそれが何になるであろうか?」(マルコ8:36)と聖書で仰せになりました。地獄では全てが失われますが、天国では全てが見つかります。失くすことと、見つけることが、地球上の私たちの生涯であり、この世で私たちは自分たちの霊魂を以外の全てを失うことが有り得るのです。この世では、私が将来何を失うことになるか分りません。それが何であれ、私は天主様にそれを進んで御捧げします。私は自分の罪のため、この世の罪のために、イエズス様の苦しみと共に犠牲となります。親愛なる天主様、今もそして永遠に、あなたの御摂理を褒め称えることをお許し下さい!
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十七章 マッチを擦る

2012年01月03日 | カトリックとは
第五十七章 マッチを擦る

私が一九四九年に洗礼を受けたばかりの時、私は上海の君主堂で毎日朝のミサに与りました。 この教会は、壮大な聖歌隊と熱烈な侍者のために非常に有名でした。合唱団は十人以上おり、そのうちの何人かは音楽学校からのプロの歌手でした。大祝日の日に、彼らは神聖なだけでなく芸術的でもあった四部合唱を歌いました。私たちは荘厳ミサには十四人より多くの侍者がいました。ほとんどの侍者は手に香炉を持ち、同じ高さでそれら全てを振りました。それは本当に壮大な光景でした。伝統的なラテン語のミサを捧げる司祭がいました。信者は礼儀正しく健全な人々でした。なんと私はこの聖なるミサを味わったことでしょう!しかし、良い時代は長く続きませんでした。共産主義者が中国を掌握した後、一九五五年に嵐の襲撃がやって来ました。私たちの司教様、そして多くの司祭と信者は投獄され、ミサと全ての教会の活動は無くなりました。神聖なミサは、刑務所で私たちの夢にしか現れませんでした。信仰を保つために、ある熱心な信者の親はミサ典書を読み上げ、子供が霊的ミサに与るように導きました。

私が一九八四年に上海に戻った時、迫害は依然として続いていました。何人かの司祭は信者の家に来て、ミサ、すなわち新しいミサを捧げました。失望したことに、典礼は古いものとはかなり異なっていました。私たちは真実が真実であることを知っています。それは決して変わりません。私たちの教会で何が起こったのでしょう?なぜ彼らは基本的な典礼を変えたのでしょうか?私は本当に、典礼の変化に戸惑いました。中国はルフェーブル大司教様の名前を聞くどころか、第二バチカン公会議について何も知りませんでした。誰も私に答えを与えることが出来ませんでした。

兄の申請により、私は一九八九年に中国を去りました。飛行機の中で、私はアメリカに着くことに関して多くの甘い夢を抱いていました。その時から、私は自由の国にいると考えました。そこにはもはや迫害はありませんでしたので、私は再び逮捕されるのを心配する必要はありませんでした。二十六年の悪夢は終わりました。私は、自分の「失われた楽園」、すなわち泉であり、自分の命の源である伝統的なラテン語ミサに与るための教会を見つけることを期待しました。私はそれ無しには生きられませんでした。私が到着した後の翌日、私は躊躇せずに近くの教会に行きました。私は教会に入った途端、非常に多くの人々が自分たちの手に御聖体の拝領を受けていたのを見ました。それは新しいミサであるに違いありませんでした。前の晩に、兄は私にこう告げました。「美玉、郷に入れば、郷に従えだ。この国のカトリック教徒の大多数は、自分たちの手に御聖体の拝領を受ける」私は盲目的に兄の指示に従いましたが、私の良心は穏やかではありませんでした。ミサが大きく変更された理由を、私はしばしば司祭に尋ねました。誰も私の質問に進んで答えようとはしませんでした。私は毎朝ミサに与りましたが、自分があまり恩寵を得ていないのが分かりました。驚いたことに、一部のノヴス・オルドの司祭は、葬儀で流暢にロザリオの祈りを唱えることが出来ませんでした。彼らが毎日ロザリオの祈りを唱えていないからでしょうか?ある時、司祭がミサを捧げていた時、彼は単に自分の好きな祈りを唱えていただけでした。別の時間に、私は非常に大きな教会で、ミサのために一人だけでいました。「あなたしかここにいないから、私がミサを捧げる意味はありません」私は彼に頼みましだ。「神父様、私は癌患者です。今日は化学療法を受けるために病院に行きます。私は自分を強めるために御聖体拝領をする必要があります」結局、同情が勝って、彼はミサを捧げました。

数年後、友人の一人であるデービッドが私に率直に聞きました。「どのように御聖体拝領をするのですか?」私は「手で」と答えました。すぐに、彼は断固として述べました。「それは冒涜です」その夜は眠ることは不可能でした。私は泣きに泣きました。私は天主様のために何年も苦しんできましたが、今私はそのような大罪を犯すのでしょうか?翌朝、私は舌で御聖体拝領を受けましたが、司祭は私に怒鳴りました。「あなたの手はどこですか?」カリフォルニア州アルカディア天使の聖母の教会で、デービッドが聖ピオ十世会に私を連れて行った時、私は教会に入った途端に我が家に戻ったと感じました。私は自分の少女時代の教会に戻っていました。ミサは神聖で、司祭の説教は強力でした。ここでは、教会は全く五十年前の教会と同じでした。何と私は祝福されていたでしょう!私たちの大司教様は肩に失われた羊を背負い、聖化への道に私を導いて下さいました。

世界にいる沢山の信者を見てください。彼らはまださまよい、真実を渇望しています。彼らは泉と池を探していますが、先頭の羊が正面の池に水を飲むためにその頭を伸ばしていないため、彼らは先頭の羊に従うよりは、むしろのどが渇いて死んでしまいます。何と悲しいことでしょう!聞いて下さい!ローマで教会の鐘が鳴ります。それは、教皇様が部分的に司祭に伝統的なミサを捧げる許可をしたことを告げました。実に伝統に回帰するための大きな一歩です。長年にわたって、平坦な道ではありませんでしたが、現在は門が少し開いています。私はそのニュースを知って興奮していました。

ラテン語ミサを進んで捧げる司祭は、さらに多くなるでしょうか?ラテン語ミサを捧げるように司祭を後押しする信者は、さらに増えるでしょうか?どうして、私の夢には未だ大きな問題が残っていることに、私たちが気付かないでいられるでしょう?ミサは最も完璧な犠牲です。それは私たちの罪の赦しであり、私たちの霊魂の救いです。私たちは、より多くのミサが必要です。ルフェーブル大司教様に感謝。大司教様無しには、私たちは伝統的なミサを持つことは出来なかったでしょう。世界の全ての司祭が、あらゆる時代のミサを捧げる日が出来るだけ早く来るのを、私はなんと待ち望んでいることでしょう。ところが、残念ながら現実はもっと深刻です。

私は十歳の時、アンデルセンによって書かれた物語「マッチ売りの少女」を読んだのを覚えています。非常に寒い大晦日に、少女が路上で非常に空腹で凍えていたものの、彼女は自分のエプロンのマッチ以外には何も持っていませんでした。誰もが貧しい少女に気を留めませんでしたが、それでも彼女は自分の夢をあきらめませんでした。どうしたら、彼女は自分の夢をかなえることが出来たのでしょう?彼女は一つの方法を見付けました。彼女はエプロンから何本かのマッチを取り出して、寒さと暗闇を追い払い、灯りを点けるためにマッチを擦りました。マッチが燃えていた時、彼女は美しいクリスマスツリー、おいしい料理、そして天国の彼女のおばあちゃんを見ました。このようにして、彼女は自分の悲惨な生活を忘れました。翌朝、人々は少女の亡骸を見付ました。小さなマッチの売り子は、彼女の顔に笑みを浮かべて、飢えと寒さで死んでいました。彼女は自分の死まで自分の夢がありました。
 
 ええ、私は陽気な教会の鐘が鳴るのを聞きますが、世界は暗くて寒いです。多くの人々は、はっきりと真実を見ることが出来ません。あわれな罪人である私には、この世に光をもたらすものは何もありません。私は、マッチしか持っていなかったこの小さな女の子のようになれたらと思います。それは、とても小さな灯りしか与えることが出来ませんが、まだ無いよりはましです。私は自分が他人に、より多くの光と少しの暖かさを与えるように、燃えるろうそくになりたいと思います。様々な病気で苦しみながら、私は自分の拙い祈りを天主様に御捧げします。私は、多くの司祭がノヴス・オルドのミサを捧げることを止め、トリエント・ミサに回帰することを切に願います。そして、より多くの信者が天国への道を歩むでしょう。

中国人には、星火燎原(小さな火花も広野を焼き尽くすことが出来る)ということわざがあります。もし、私たち一人一人が自分たちの手にマッチを燃やすのならば、私たちは自分自身の熱意をもって他人を燃え上がらせることが出来ます。天主様と他人を愛するという大きな火は、きっともうすぐ現れます。私たちの大司教様は最初の戦いに勝利していますが、私たちを待っているまだ多くの戦いがあります。天主様と私たちの天の母は、私たちが最後に勝つことを保証されます。自分自身の努力を通して、今すぐマッチを擦ってみましょう。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十六章 伝統的な信仰は何と貴重なことでしょう!

2012年01月02日 | カトリックとは
第五十六章 伝統的な信仰は何と貴重なことでしょう!

今日は、愛の祝日である御聖体の祝日です。イエズス様は私たちの霊魂の救いのためにお生まれになりました。そして、私たちが恐れること無く天主様に近づくようお招きになるために、飼い葉桶で普通の幼子のように誕生されたのです。何とイエズス様は謙遜でしょう!イエズス様は最後の晩餐での御聖体の秘跡を制定され、完全に私たちに御自分をお与えになりました。何と今日の続唱は美しいのでしょう。「ラウダ・シオン!この日の為に羊飼いは、我らを養いかつ救うために、時の終わりまで血と肉を与えて下さった・・・」それは単なる祈りはなく、単なる典礼でもありません。それは現実です。ですが、どうして私のあわれな罪人の心は、岩のように頑ななのでしょう?私は長い間、全ての物を水の中に沈んだ川の中の石のように、当たり前であると捉えていましたが、やはり内側はとても乾いていました。 

一九九七年に私が乳癌を患っていた時、私の親戚や多くの友人の皆は、大きな同情を示すように見えました。私は労働改造所で多くの歳月を過ごしていました。そのような苦しい経験や欠乏の後に、私が休んだほうがいいのは言うまでもありません。しかし、別の戦いがそこにやって来ました。最初の戦いのために、私はイエズス様に従う道を選びました。私は進んでカルワリオへの狭い道を登りました。自分の夢の中ですら、激しい嵐が終われば虹が現れないことはないだろうと考えたことは全くありませんでした。道理で、私の周りの家族や友人皆が、それが何故私に起こったか全く理解できなかったのも不思議ではありません。彼らは私をとても残酷に扱ったことで、天主様を非難しました。私は、「本当に天主様を愛しているの?」と自問しました。もし愛しているのならば、それは純粋であり、どんな「もし」の条件も必要とはしません。時がいつ来ようと、条件が何であろうと、私は天主様を何よりも愛します。私は天主様の恩寵と共に天主様のために苦しんでいるものの、それは全く天主様の私への賜物です。私は無であり、天主様は全てです。私は過去を当てにすることは出来ません。天主様は常に、そしてこの瞬間に、私たちを見ておられます。人生は長い道のりです。
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最後の最後まで天主様を愛する人だけが、自分の霊魂を救うことが出来ます。私にとって、自分の青春は過ぎ去りました。私はお皿の魚のようです。真中の部分がもう食べられてしまっています。なぜ、私は若い頃に自分自身を完全に天主様に御捧げしたのに、自分のために小さな尾ひれを残すでしょうか。私は自分の言葉を撤回することは望まず、私は自分の言葉を態度で示したいと思います。

癌を患うことは私のせいではありません。私の最愛の御父である天主様は、それが起こるよう御ゆるしになりました。私が単「テ・デウム」を歌うために跪くと、彼らは私あざけって笑いました。「あなたの神はどこですか?あなたはそんなに長い時間苦しんだのに、最終的に癌を患った。何故まだ神を信じているのか?私は自分の指で私の心臓を指示して言いました。「天主様は私の中心に位置しています。天主様はどこにでもおられます」ええ、私は天主様の御名のために苦しみましたが、私が癌を患っているからという理由だけで、天主様が私の世話をされていないというわけではありません。もし、天主様が御望みになれば、奇蹟が起こります。そうでなければ、私は何も失いません。「私にとって、生きる事とはキリストで、死ぬことは得る事です」

私は天主様の御摂理により、今日まで生き延びました。私の過去の結果とは何でしょう?私の苦い過去は、私のために再びカトリックの伝統に戻るという贈り物をもたらしました。私は、この二十六年間を不遇の歳月、すなわちいつか私を聖ピオ十世会第第三会会員として受け入れるように準備するための一種の修練院であると考えました。天主様は、御自分の娘となるように私が自己を否定し、この世を否定し、そして私たちの親愛なるルフェーブル大司教様がそうされたように、イエズス様に従うことを望んでおられます。私が働いていた時、自分の時間と労力の全てを費やしても、最低の給料しか受け取れなかったことで常に不平をこぼしました。天主様は御自身の計画を御持ちでした。私の病気には、目的があったでしょうか?私に「苦は楽に在り」という自分の本を書く時間と労力を見つけられるようにしたのは癌でした。

二〇〇三年十二月八日、私は聖ピオ十世会第第三会会員として請願を立てました。第第三会会員となることは、ルフェーブル大司教様に進んで従うことを意味しました。これから後しばらくの間、あるノヴス・オルドの司祭と信者は、私に関する多くの噂を広めました。誰もが真実を受け入れるのではありません。彼らが真実を受け入れていないので、確実に真実に逆行します。クレネのシモンは十字架の道において、異邦人の間で最も勇敢な方でした。私はマグダラのマリアを模倣する価値がないとしたら、十字架の重荷とローマの兵士や盲目な群集がイエズス・キリストに与えた侮辱を分かち合うために、進んでクレネのシモンに従うでしょう。私はカトリック教会の伝統に戻り、幸運にも御聖体の奉仕者や説教台で書簡を読むことを免れます。私にとってそのような虚栄は何になるでしょう?イエズス・キリストの側に立つためには、常に少数派であることです。真実は真実です。真実は民主的な意思決定ではありません。それは数字とは何の関係もありません。

天主様は私たちの生活の最高のデザイナーです。どこに行くでも天主様は私の手を握られ、私は山を登って谷を降り、そして海を越えて行きました。私は二回、致命的な癌を患いました。昨年、私の癌が再び胸骨まで広がっているのを、CTスキャンや生体検査によって発見しました。最初の内は、天主様が私を呼び戻される時ではないかと思いました。もしそうでしたら、天主様は私が天主様に御捧げした物に利子をつけてお返しになるほど親切であるということです!私は引き換えによって多くを得ました。私は惜しむ事無く行く準備が出来ていました。しかし今回、ルフェーブル大司教様は大きな奇蹟を叶えることにより、伝統的な信仰を私が維持するために奨励する印を与えて下さいました。何という祝福でしょう!私たちの大司教様に祈り、彼の遺髪に接吻しました。私の癌は、わずか十日以内に抑制出来るようになりました。私の医者は言いました。「あなたは薬を服用しているが、まだ誰もあなたのように早く治癒した事は無かった。私はそれが奇跡であることを言わざるをえない」私は芸術家が絵を描いているのを観察したことがありますが、なぜ彼らがこちらを黒く塗り、そしてそちらを白く塗ったのか戸惑いました。彼らが絵を描き上げて初めて、私はそれが野原を疾走する馬か何かだということが分かったのです。私の人生は、多くの様々な出来事で同じ様な過程を経ました。天主様は御自身の聖心を御存じでしたが、天主様と協力するように私にお求めになりました。私は小罪という水漏ればかりのとても小舟の中にいます。私はこの小舟を漕いで天国の港に向かいます。この小舟が沈まないことを保証するための最善の方法は、船を軽くして可能な限り荷物を下すことです。時間は、私たちに何の躊躇する余裕をも持たせません。私たちは今そうしなければなりません。

トリエント・ミサの典礼と共に、伝統的なカトリックの信仰は強さの源であり、恩寵の泉です。そして、何世紀にも渡ってそうでした。それは全ての教皇様のミサであり、そして全ての聖人のミサです。天主様に天主様を捧げるのは、天主様なのです。私たちが数えきれない恩寵を得られるあらゆる犠牲の中で最も強力です。これは生命の泉です。私たちは、他に何を望めるでしょう?天主様に感謝!ルフェーブル大司教様に感謝!


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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天主イエズス様の御降誕と新年のお慶びを申し上げます

2012年01月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主イエズス様の御降誕と新年のお慶びを申し上げます。

旧年中はご愛顧、ご愛読をありがとうございました。

今年も、愛する兄弟姉妹の皆様に善き新年をお祈り申し上げます。私たちが天主イエズス様をますます愛する新年を。イエズス・キリストの十字架を愛し望み受け入れ担う新年を。罪と罪の機会を避ける本当に幸福な新年を私たちの主イエズス・キリストに祈り求めます。
聖母マリア様に願い求めます。聖ヨゼフ様の御取次を願います。
すべてを天主イエズス様を愛するために、すべてを聖母マリア様を愛するために、すべてを聖ヨゼフ様にならって御捧げすることができますように!

すばらしい教会が、常に天主イエズス様が君臨される教会が日本に与えられますように!ただ天主様の御憐れみにより頼みます。

「幼きイエズス様を抱く聖母マリア様を導きたもうた聖ヨゼフ様、極寒の汚れた家畜の洞窟をイエズス様とマリア様のために少しでも快適になるようにしつらえてくださった聖ヨゼフ様、私たちの心は、日本はその洞窟よりも貧しく罪に汚れたものですが、どうぞ清めてください。イエズス様とマリア様をお連れください。」


愛する兄弟姉妹の皆様の上に、新年の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
追伸。12月に日本で購入した、中野剛志著「TPP亡国論」を読みはじめました。大変面白く興味深く読んでいます。しかし、明日から黙想会ですから続きは後ほど読みたいと思います。日本のために、愛する兄弟姉妹の皆様のために、たくさんお祈りしたいと思います。天主様の祝福が豊かにありますように!!
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十五章 今

2012年01月01日 | カトリックとは
第五十五章 今

私が中国上海の高等学校で英語の文法を教えていた時、単純現在形の使い方を生徒に教えるのが最も困難な部分だと思いました。生徒だけではなく私自身が混乱してしまいました。もし、何かが今起きているのでしたら、私たちは現在進行形を使わなければなりません。単純現在形は事実か、常にまたは頻繁に発生する何かのためにのみ使われます。

それから、私の思い出に単純現在形を用いて、「ローズは私たちの心の中で生きている」と言うのを私が亡くなった後に望んでいます、と友人に語りました。私は小さな女の子の時から、「今」の意味に戸惑い、「今はいつなの?」といつも聞きました。私はどんな答えにも満足しませんでした。私の知る限り、「今」は過去と未来の間に存在します。私たちは、過去から今を知ることが出来ますし、今から将来を待ち望みます。木の年輪、私たちの顔のしわは、私たちに時間を知らせます。時間は存在するのですから、「今」も同様に存在するに違いませんが、どれくらいそれはこの世に留まるのでしょう?

一秒、一分、または一日とか、誰も明確な答えを与えることは出来ません。私たちが「今」という時、それはもう過ぎ去っていますので、私たちは今を捕えることはありません。どうして私たち人間は、今を扱うこと無しに現実の生活を送られるのでしょう?地球はいつも回転し、時計はいつもかちかちと時を刻むので、私たちが住んでいる世界には時間があることを思い出させてくれます。「今」は秒ごとに過ぎ去り、全てが変化していますので、最終的に全ても過ぎ去ります。幸せか苦しみであろうとも、それはここ地球上では永遠に留まりはしません。地獄では時計は止まっていて、そこには終わりのない恐ろしい拷問が常にあります。天国で天使たち、全ての聖人は永遠に天主様を賛美するために楽しく歌っています。この世の乗客である私たちは、反対側に到着するための橋を渡っています。誰も我が家としてそこに留まる為に、橋の上に家を建てることはありません。私たちの目的地はこの橋の上ではありません。

たとえ、非常に豪華か魅力的であっても、脇の景色に気を取られてはいけません。私たちは、この橋を反対側に渡らなければなりません。私たちの人生は一方通行で、往復ではありません。私たちは、自分たちの人生のためのリハーサルを決して持ってはいません。ですから問題なのは、私たちが永遠の罰を避けて永遠の喜びを得るために、どのようにして一時的な時間を私たちが使えるかです。

 なぜそれほど多くの人が、証聖者、殉教者、そして聖人となったのでしょう?彼らはこの世の苦しみの実際の価値を知っており、世俗的な喜びは非常に短い間しか続かないことを知っていたからでした。聖アロイジオ・ゴンザガのモットーは「永遠にとって、これは何であるか」です。小さな聖人であるマリア・ゴレッテイは、むしろ大罪を犯すよりも、殺されるほうを選びました。彼らは、この世の苦しみがとても早く過ぎ去るのを知っていました。私たちを恐れさせるものは永遠の罰です。全ての聖人は、あらゆる状況の下でも天主様を愛するために、全ての「今」を掴んでいました。

私たちそれぞれは、イエズス様と私たちの苦しみのみで天国への切符を買わなければなりません。苦しみと幸せは同じ家族です。幸せは常に苦しみに伴います、苦しみのない幸せは、チョコレートでコーティングされた毒のようなものです。味は甘くても、やはりそれは毒です。多くの人々がカジノで幸せを求めます。最初のうちに勝った人たちは、自分たちがさらに多く勝つだろうと考え、非常に興奮します。もし、彼らが負けた場合は、彼らは次のゲームに勝つだろうと思います。しかし、現実はしばしば反対です。ドリンクやアルコールを取ることで楽しみを味わう人は、とても短い間しか楽しみを味わえません。彼らに本当の幸せがあるのでしょうか?絶対にありません。イエズス様は天国への道を示すために、十字架につけられた後になって初めて復活されました。私たちも、永遠の幸せを得るために、進んで今苦しまなければなりません。

私たちは、過去を取り返そうと奮闘しつつ、過去に生きるべきではありません。過ぎたことは、過ぎたことにしましょう。もし、自分の過去が良ければ、私はそのために天主様を賛美します。もし、私が罪を沢山犯した場合、私は天主様の御慈悲にこれらの罪を委ねることが出来ます。私は自分の罪よりも、はるかに上の天主様の御慈悲を信じています。私は自分の人生からそれらを焼灼するように、天主様の御慈悲を希い、何の希望も無く後悔に後悔するだけでいたくはありません。それは、毎分の「今」を無駄にします。天主様はいつも私たちの今の瞬間に、私たちを見ておられます。

私たちは未来に生きるべきではありません。未来は不確実ですし、明日は分からないからです。ですから、私は期待に期待して、待っているだけでは生きられません。これから来る全てを天主様の御摂理に委ねましょう。私が扱わなければならないのは、今の毎秒です。秒ごとの「今」はユニークであり、そして毎日は非常に特別です。私たちは自分たちの人生に、再び同じ日、同じ瞬間を持つことはないでしょう。聖人となる事は、私たちがどれ位長生きしたかや、どれ位裕福であるかというのではなく、どれ位私たちが天主様を愛し、人を愛するのに「今」を十分に活用したことだけによるのです。
今は天主様を賛美する時であり、私の霊魂を救う時であり、そして他人を助ける時です。今とは許容される時間です。今、イエズス様が私の肩に置いて下さった十字架を背負わせて下さい。フィアット、フィアット、最後の最後である「今」まで、私の死の「今」まで。

ロサンゼルスで病床から
二〇〇五年五月二十六日


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