Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:対話、それとも説教?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 対話、それとも説教?

『信教の自由に関する宣言』 3
「真理は人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自らが発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。」

【問題点 3】 第二バチカン公会議は、これらの手段を列挙することを通して、真理の発見にあたって、「自由な探求」が教えを説く者の言葉に耳を傾けることよりも、人間の本性に適合した方法であると教えているのか。すなわち、教会による教え、両親から子供への信仰の伝達、一言で言えばカトリック教育よりも人間の本性に適った方法であると教えているのか。

【問題点 4】 交流ならびに対話、とりわけ「真理探究の面で互いに協力する」という表現を通して第二バチカン公会議は、たとえばイスラム教徒と対話するカトリックの宣教者が、当の交流を通して真理、すなわち宗教に関わる真理の探求において助力を受けると教えているのか。あるいはまた、当の宣教者は、かかる真理に到達するために、彼の話し相手と等しい道のりを経なければならない、と教えているのか。

【疑問点 7】 自由な探求並びに対話に関する第二バチカン公会議の教えは、宣教的使徒職を目しているのか。もしそうなら、当の教えは聖パウロの次の教えと相容れるのか。「それなら、彼らは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう。」(ローマ人への手紙 10章 14-15節)使徒たちが派遣されたのは、対話するためだったのか。それとも宣教するためだったのか。(マルコ 16章 15-16節参照)非カトリック者、あるいは異教徒を前にして、「対話しましょう。あなた方の宗教には救いに至らせる諸々の価値が見出されますから」と言うのは、「これ以外の名においては救いは与えられません」(使徒行録4章12節)というよりもより真実、かつより効果的なのか。


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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論
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