Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。

2007年02月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


本来の意味での「信教の自由」



 人間の人格の尊厳は当の人が行なう選択と無関係に独立して存在するものでしょうか。


 この問いに満足のいく仕方で答えるにはまず、人間人格の存在論的 尊厳行為的尊厳とを区別することが必要です。と言うのも、人間がその自然本性によってそうであるところのものと、その同じ人間が自ら為す行為によって「成る」 ところのものとは別だからです。問いに対する答えはしたがって、この区別によることになります。


● 人間の人格の存在論的尊厳

 人間の人格の存在論的尊厳は、人間が持つ「知的自然本性」に、別言すれば、知性と自由意志とを備えた自然本性の高貴さに存します。かかる自然本性を持っているからこそ人間は本質的に、自らの創り主にして究極目的である天主を知るよう召されているのです。「霊操」の冒頭で聖イグナチオが用いている表現を借りて言えば、人は「天主を敬い、仕える」よう召されているのです。のみならず、人間は聖トマス・アクィナスが述べているように天の至福を享受することが可能な存在であり、またその段階に至る前には成聖の恩寵によって超自然的な正義に高められることが可能な存在です。


「ああ天主よ、主は尊き人性を創り、これを、より妙(たえ)なるものに改(か)え給うた」と、教会はミサの奉献の部で司祭に言わせています。


 人間の存在論的尊厳は天主に対する超越的な秩序付けに存していると言うことができます。かかる秩序付けは、いわば「天主からの呼びかけ」といった性格を帯びるものであり、人間がもつ真の天主ならびに真の宗教を探し求め、一旦見つけたならばこれに恭順する義務の基(もとい)となります。真理の認識と善の獲得とに存すると言うことができます。


 さらに、全ての人は同じ人間本性を有し、また完全に人間であることなしに当の本性を持つことはあり得ないため、人間の存在論的尊厳は、皆において同等であり、決して失われることができない、と言うことができます。


 しかしながら、原罪によって人間本性は人間に固有の諸能力 、殊に天主を認識する能力において深く傷つけられていることをここで思い起こさなければいけません。人間の自然的尊厳はしたがって全般的な低落を被ったのであり、洗礼の恩寵でさえ、これを完全には修復しません。


 さらに、創造主からそれぞれ異なった面で自然的な素質を与えられている種々の民族、国民は原罪によって同一の仕方で傷つけられたわけではありません。


 ある民族は知性の晦(くら)み、またある民族は意志の弱さによって、さらにまた別の民族は乱れた欲情的欲求に根を置く憎しみによって、最後に他の民族は、怒情的欲求能力における恐れによって特に傷つけられています。その結果、種々の民族間に、具体的な意味での人間人格の自然的尊厳における根本的不平等が生じます。



● 人間の行為的尊厳

 人間の「行為的尊厳」 とは、人間の本質的能力、すなわち知性と意志との行使に由来する尊厳を意味します。言葉を換えて言えば、人間においては自然本性の完全性に、その行動に由来する「付加的な」完全性がつけ加えられる、ということです。


 実際、人間のもつ諸能力は各々に固有な働きに秩序づけられており、したがって特定の能力の働きないし行動 の完全性は、その固有な目的に到達することに存します。この意味で知性の目的は真であり、意志の目的は善です。


 したがって、人間の行為的尊厳は、自らの行為をとおして真および善に傾注し、しかるのちに諸々の行為を善い、またアリストテレスの言葉を借りて言えば「迅速かつ容易で快い」ものにする種々の道徳的徳、ならびに超自然的注入徳を獲得することにあります。


 したがって、もし人が善から遠ざかり、誤謬および悪に固執するならば、自らの尊厳を失ってしまうことになります。当の人において善い行為は--たとえそれが必ずしも厳密な意味での罪ではないとしても-- 客観的に見て悪い行為に場所を譲り、また徳は早晩悪い習慣、すなわち悪徳に取って代わられることとなります。


「全能の天主、不節制によって傷つけられた人間の自然本性が、癒しの効果を具えた断食の弛(たゆ)まぬ実践をとおして原初の尊厳を取り戻すことを得しめ給え。」(聖木曜日の集祷文)


「知性が誤った考えに固執する場合、また意志が悪に執着する場合、このいずれの能力もその完全性に到達せず、かえってその生来の尊厳を失って低落するのです。」(教皇レオ13世回勅『インモータレ・デイ』Actus II p.39 / PIN 149)
http://www.vatican.va/holy_father/leo_xiii/encyclicals/documents/hf_l-xiii_enc_01111885_immortale-dei_en.html



「人格(ペルソナ)はどこからその尊厳を得るのでしょうか。人間の人格は、その完全性に由来します。しかるに、人間の人格の完全性は真理の認識と善の獲得とに存します。そして、これこそ「唯一真の天主であるあなた、またあなたのお遣わしになった者であるイエズス・キリストを知る」(ヨハネ17章3節)ことに他ならない永遠の生命の端緒です。したがって、誤謬に固執するかぎりにおいて人間の人格は、その尊厳を失います。・・・(中略)・・・誤謬はその本性上、たとえ主観的な意味においてはそうでないにしても、客観的な欺瞞(ぎまん)です。さらに、主のみ言葉をとおして、私たちは「嘘をつくとき、自ら自身からそれを引き出す」かの者[サタン]を知っています。 それなら、ある人が自らの知性および自由を[客観的に見て]正しく用いていない場合、それがたとえ当人の責任によらないにせよ、この人の人格が尊敬に値するということができるでしょうか。 人間の尊厳はまた、善へと秩序づけられた意志の正しさにも由来します。しかるに誤りは罪を生みます。最初の罪人となったかの女は「蛇が私をだましたのです。」と言いました。この真理は、誰の目にも全く明らかなことです。婚姻の聖性に関する誤謬--かかる聖性は人類にとってきわめて大きな関心事ですが--に関する誤謬が招く結果を考えてみるだけで、このことを確認するのに充分でしょう。宗教における婚姻についての誤謬は、徐々に一夫多妻制、離婚、産児制限へと、すなわち人間の尊厳の喪失--殊に女性の側において--へとつながります。」
(ルフェーブル司教第2ヴァチカン公会議書記局に提出された発言草稿 1976年11月26日, " J'accuse le Concile ", Editions Saint-Gabriel, 1976, p.40]


結論:人間人格の尊厳は、当の人格をその行動において考察するかぎりにおいて、真理および善に傾注することに存します。真理の外には真の尊厳は存在しません。

 


● 尊厳と自由

 行動の面における人間の尊厳は、実効的に真および善に傾注することにあります。したがって、当の傾注において行動の自由もしくは当の人の具体的な自律は、たとえ望ましいものではあるとしても、人間の尊厳の本質的要素ではありません。行動の自由を祭り上げ、これを行為的尊厳の本質とするのは、[教導権によって]排斥されている誤謬に他なりません。かかる誤謬は人間の傲慢心をあおり立て、「唯一の」教師であるキリストの教えをとおして外から受けとった真理、またこれを受け容れないものに対する天主の懲罰 -「信じない者は亡ぼされる」(マルコ16章16節)-の怖れによる拘束と共に受けとった真理への謙虚な恭順を捨てさせます。


「社会問題に関するシヨン主義者のあらゆる誤謬の根には、彼らの人間の尊厳についての誤った観念があります。彼らによると人間は、強く、啓蒙され、自立した良心をもち、主人ないしは教師を必要とせず、ただ自分自身にのみ従い、最も重大な責任をも引き受け、これをとどこおりなく完遂することのできるようになった時、初めて「人間」の名に値するものとなるのです。このような大言壮語によって人の自尊心をあおり立て、あたかも[実体のない]夢のように、光も導きも助けも与えずに、幻覚の領域へと導くのです。
(教皇聖ピオ10世書簡『我が使徒的職務』Actus V p.132 / PIN 445)
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_10_notre_charge_apostolique.html

 


結論: 「人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しません。なぜなら、自由は真理によって制御[規制]されるかぎりにおいて善いものであり、真の自由となるからです。主は『真理はあなたたちを自由にする』と仰いましたが、それは『真理はあなたたちに自由を与える』ということを意味します。
(ルフェーブル大司教 上記引用箇所)


============

クリックで応援して下さい。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!


●聖ピオ十世会韓国のホームページ
http://www.sspxkorea.wo.to/


●トレント公会議(第19回公会議)決議文
http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini_index.html


●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html


●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/dqpt1.html


●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 【質問】松浦悟郎司教さまが... | トップ | 19世紀の教皇たちはこぞっ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。