Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

9月のミサ聖祭は当初の予定より日程が変更になりました。

2013年08月29日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア!

 

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月のミサ聖祭は当初の予定よりたびたび日程が変更になりました。どうぞご了承ください。

【大阪


   9月13日(金)聖霊降臨後第16週の金曜日(4級平日)緑
          午後5時   ロザリオ及び告解
          午後5時半  ミサ聖祭

   9月14日(土)聖十字架の称賛(2級祝日)赤
          午前10時半 ロザリオ及び告解
          午前11時  ミサ聖祭


【東京】


   9月14日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会

   9月15日(主)聖霊降臨後第17主日(2級主日)緑:童貞聖マリアの七つの御悲しみの記念
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭
             ~昼食休憩~
          午後2時半頃 公教要理
          午後4時頃  主日の第二晩課

   9月16日(月) 殉教者教皇聖コルネリオ、殉教者司教聖チプリアノ(3級祝日)赤:殉教者童貞聖エウフェミアと聖ルチアとジェルミニアノの記念
          午前時   ミサ聖祭(※開始時刻にご注意ください。)

 

よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈り

2013年08月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月22日は、日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日です。聖母の汚れなき御心への奉献を更新いたしましょう。
 聖母の汚れなき御心については、「マニラの eそよ風」第398号に掲載されている、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中の「聖母のいと潔き聖心」のお説教をご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈

 いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。
 願わくは聖母、慈しみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。
 ああ、人々真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、御身の御心を悲しませ参らするなり。
 されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
 願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
 かくて、われらは同胞、相互にたすけはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、もって世界は、とこしなえに平和を楽しむにいたらんことを望む。
 願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
 天主の聖母、われらのために祈り給え。
 キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
 祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン


聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈
(1844年5月1日(マリア月の初日)キリシタン弾圧後に最初に再布教に来日したフォカード師が聖母の汚れなき御心に日本を捧げた時の祈り。来年2014年5月1日は、日本が聖母の汚れなき御心に奉献されて170周年。)

 ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公にまた公式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて「強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前1,28)」幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。
これを、那覇の港、アルクメ-ン号にて、1844年5月1日ミサの後に為した。

O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, purissimum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et amoris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub speciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro ; insuper vovens me, ubi aliquot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere incoeplâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeternamque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.


8月のミサ聖祭を天主様に感謝!

2013年08月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月11日の主日には、レネー神父様が東京で聖伝のミサを捧げられ、26名の方々がミサ聖祭にあずかるお恵みをいただきました。午後には、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連があることについてお話しくださいました。

 8月18日の主日には、大阪で28名の方々が聖伝のミサにあずかるお恵みをいただきました。午後には、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの司祭叙階20周年を皆様で祝っていただき、感謝でいっぱいです。

 今年の8月は、アジア管区長のクチュール神父様の特別のお計らいと許可で私はポーランドのチェンストホーバに巡礼に参りました。ポーランドの聖ピオ十世会の巡礼団は8月4日からワルシャワを発って歩き始めたのですが、私は10日にこれと合流し、チェンストホーバまで野宿をしながら歩きました。私たち巡礼団は、たとえ時間が掛かっても森の中や畑の中を通って歩き、自然に恵まれとてもすばらしい巡礼でした。空の百万の美しい星の下でずっとテントで寝起きした巡礼者には感服します。私の場合、田舎の農家の方が家のソファの上に寝泊まりすることを許され、その点ではだいぶ助かりました。この巡礼に呼んでくださった聖母マリア様に感謝します。明るい山、ヤスナ・グラの聖母マリア様の元に行き、そのお姿を見たときにはあたかも天国にいるかのようでした。170余名の方々が参加しました。ポーランドの良き多くの友人と知り合うことができて感謝します。また、ポーランド以外のチェコ、ベルギー、フランスなどの巡礼者とも巡り会えて感謝します。
 シュテーリン神父様のお計らいで、予想もしていなかった、コルベ神父様の創立したニエポカラヌフを訪問するお恵みをいただき汚れなき聖母マリア様、インマクラータに感謝します。
 今回の巡礼で、ポーランドのすばらしさについて垣間見ることが出来、天主様に感謝します。

 さて、8月の通常のミッションついて、次のようなご報告をいただきましたので、ご紹介します。

【8月11日の主日の報告】
レネー神父は今日のお説教で、昨日の聖ラウレンツィオの祝日と数日後の聖母
の被昇天の祝日は、カトリック信者にとっての死は勝利への道であることを教
えているというお話をしてくださいました。これに関連して、私たちの死が勝
利への道であるということは個人的経験や感情ではなく客観的な真実であるこ
と、私たちの人生の目的は天国に行くことであること、私たちの霊魂が不死で
あること、私たちを救ってくださる方は主イエズス・キリストのみであるこ
と、そして私たちはキリストとともに苦しみを受けない限り天国には行けない
こと、等を説明してくださいました。

昼食の後の霊的講話では、聖母の無原罪の御宿りと被昇天の間には密接な関連
があることについて様々な面からの説明をしてくださいました。例えば聖母に
は罪がなかったためにその罰としての肉体の亡びがなくその故に被昇天があっ
たこと、無原罪の御宿りは聖母の体が御言葉である主を受け入れるのにふさわ
しくあるためであったばかりではなく、カルワリオでの御受難に聖母が主とと
もに生け贄として参加されるために罪のないものであるべきであったこと、聖
母が生まれながらにして罪がなかったことと同じことは、教会についてはこの
世の終わりに実現されること、など詳しい解説をしていただきました。その
後、晩課を歌ってお別れしました。

ミサの参列者数
男: 9人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)

霊的講話の参列者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課の参加者数
男: 6人
女: 2人
計: 8人

【報告終わり】

レネー神父様のお説教は次の通りでした。

2013年8月11日 レネー神父説教

親愛なる兄弟の皆さん

 母なる教会は、昨日、殉教者聖ラウレンツィオの祝日を、また木曜日には聖母の被昇天を記念します。
この二つの祝日が私たちに教えてくれることは、真のキリスト教徒、真のカトリック教徒の死は、この世が考えているような敗北ではなく、むしろ勝利への道だということです!お告げの祈りの最後の祈りでは"per passionem et crucem ad gloriam resurrectionis perducamur"、すなわち、「願わくは[キリスト]の御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達するを得んため」とお祈りするのです。

 私が強調しておきたい第一の点はこれです。これはただ、いい感じがする、苦難を前にした時に慰めになるいい考え方だというだけではありません。これは客観的な真実だということです。先日私はインドのカトリック神学校の神学生が世界、特にインド国内におけるプロテスタント教会の広がりについて書いた論文を読んでいました。そこではこの神学生が、インドの人々を引きつけているのは「神の経験」とされるようなものであると指摘していました。そこでこの神学生が解決策として同級生に提案していたのは、カトリック教会でも似たような経験を促進してみよう、ということでした。しかし、信仰は個人的経験に基づくと主張する行為は近代主義である、として聖ピオ十世教皇がこれを排斥したという事実を、この神学生は完全に無視してしまっているようです。同様の経験を育んでみるということによって、この神学生は人々を近代主義者にしてしまうことになるのです。

 真のカトリックの立場によれば、信仰は真理に基づいており、知性によって理解されるものであって、通常、感情や情緒のレベルで語られる「個人的経験」に基づいているのではありません。カトリックの信仰は真理に基づいていますから、「個人的=自分に限られた」ものではありません。カトリックの信仰は、一方では、私は信じるから私のものですが、他方、私のものではないとも言えます。それは、信仰の真理は私によっているのではありませんし、真理は天から来るものですし、客観的な方法で確認できるものですし、全ての人の知性に合わされたもの、奇蹟や預言によって保証されたものであるからです。カトリックの信仰は天主の客観的な啓示に対する私たちの答えである、ということは既に何度もお話しいたしました。天主が奇蹟や預言というしるしによってこの啓示に謂わば署名されたことによって、私たちはこれが真に天主の啓示されたことであるということを知っています。この保証は「個人的経験」ではなく、客観的なものです。ルルドでは多くの奇蹟が起こり、ファチマでは1917年6月13日に予言された奇蹟が4ヵ月後の1917年10月13日に起こったことを知っています。私がその場にいる必要はありません。これらの出来事は十分に文書として記録されています。これらの奇蹟は、旧約聖書の預言、キリストの数多くの奇蹟、教会の歴史上の全ての聖人達の数多くの奇蹟とともに、私の知性のためだけにではなく、正直な考えを持った全ての人の知性に対して、カトリックの宗教が真実であることの十分な証明となっています。そして、私がそれについて何かを「感じる」か否か、には関わりありません。時には、人は反対の感情を持つことがあるかもしれません。例えば、教会に来ることがおそろしい、「好んでいる罪」を捨てることがおそろしい、正しくない関係や慣習をやめることがおそろしい、などです。しかし、真実は存在します。もし私が真実に対して知的に正直になりたいなら、私は真実を認めなくてはなりません。

 現在多くの近代主義者達は、誰もが自分独自の信仰を持ってよい、と考えています。その人が自分独自の信仰についていい感じがする限り、その人にとってはそれが良いものであり、私たちの主イエズス・キリストに改宗する必要はないとするのです。このような考え方によるならば、感情が支配的なものとなり、知性は完全に忘れ去られてしまいます。たとえば、カトリックの教理は唯一の真なる天主には三つのペルソナがあるとしており、イスラム教がこれを否定していることを見れば、全ての宗教が同時に正しいということは全くあり得ないことです。天主は至高の知性であって、純粋に霊であり、「礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4章24節)。天主は私たちに知性、天主を知ることを可能とする知性をくださったのですから、私たちが真理において天主を知るか、あるいは天主に関する誤りにだまされるかについて無関心でおられる筈はありません。天主は至高の真理であり、天主は真理を愛しておられますから、「すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(ティモテオへの前の手紙2章4節)言い換えると、人は救われる為には、真理を知ることが必要なのです。

 そうすると、真の信仰には「神の経験」のようなものは存在しないのでしょうか?実際、教会は伝統的には「神の経験」ではなく、「霊的な慰め」と呼んでいます。真に天主は、とりわけ霊的な生活の初めに、私たちを正しい方向に導くために、霊的な慰めを与えてくださることがあります。私たちの主イエズス・キリストを見いだしたとき、しばしば大きな喜びがありますが、これは天主から来るものです。しかし、このような自分自身の感情に頼ることは大きく間違っています。このような感情は、悪魔が人々を騙すために真似たものであることがあります。(これは自分自身を過信したことへの罰であるかもしれません。)またしばしば、喜びの本当の原因を見極めることは簡単ではありません。プロテスタントの教会では、人々は真理と一緒に誤りをも受け入れてしまいます。カトリック教会の聖人達は、私たちが自分自身の判断や感情を信じることなく、カトリックの教えという客観的真理に従うことを勧めています。これが、聖人達のほとんどが霊的指導者を持っていた理由です。多くの聖人は宗教生活を選びましたが、それは上長の指導の下にいるためであり、その訳は自分自身の判断力を信じなかったからです。これに対してプロテスタント主義の根源は私的判断にあります。このため、あらゆる種類の誤りに陥ってしまいます。

 元の目的である聖人の祝日に戻りましょう。聖ラウレンツィオ、そしてだれよりも聖母は、私たちの人生の目的を教えてくださいます。それは天国です。この偉大なる真実には見える側、すなわち自然的な側面があり、それは(カトリックではない人々を含め)全ての人が見ることのできるものです。それは、私たちのこの地上における人生は死によって終わるということです!この第一の真実は、過ぎ去る事物に執着する全ての人々への警告であるとともに、地上の物事、権力、富、快楽が空虚と虚栄であることを私たち全員に教えてくれるものです。全ての物事は過ぎ去ってしまい、私たちもこの世から過ぎ去ってしまうのです!私たちがこのように過ぎ去る物事に執着するならば、私たちの喜びもそれらの物事と一緒に過ぎ去ってしまいます。私たちが永遠の善に執着するならば、私たちの喜びも永遠のものです。

 私たちの人生の目的に関する真理には、自然のレベルですが、見えない、もう一つの側面があります。私たちの霊魂は不死であることです。その意味は、私たちの霊魂は、それが霊的なものであるが故に、私たちの肉体の死によっては破壊されることなく存在し続け、永遠に存在してゆくということです。霊魂が霊的であるということは自然的な真実、すなわち私たちの理性という自然の光によって証明することのできる真実です。

 私たちが思考するとき、私たちはイメージと考えの両方を使っています。イメージは特定のもので、考えは一般的なものです。例えば、あらゆる三角形の内角の和が180度ということを証明するとき、紙(またはホワイトボード)に一つのイメージを書いて証明を行ないます。最後にこれは全ての三角形に当てはまる、と結論づけます。もし自分の書いた一つのイメージについてのみ論じたのであれば、どうしてそのような一般的な結論を出せるのでしょうか?それは、その特定のイメージについてではなく、三角形という一般的な考えについて論じたからです。ですからその結論は正しいのです。人は知性という光によって、特定のイメージから一般的な考えを引き出し、与えられた特定の感覚によって、特定のイメージの中に一般的な考えを見るのです。人間の考えは一般的なものです。ところで、全ての物質的なものは特定のものであって、一般的なものではありません。そのため、人間の考えは物質的なものではなく、霊的なものです。考えは非物質的なものですから、そのような考えを創り出す機能はそれより低いことはなく、この機能も霊的レベルになくてはなりません。この機能こそが知性であって、脳ではありません。脳はイメージを創り出すので、イメージは脳にあります。しかし知性は脳ではありません。脳は物質的なもので、知性は霊的な機能です。したがって、このような機能を持っている霊魂はそれ自体霊的なものであって、その存在を物質や身体に依存していません。よって霊魂は不死なのです。

 私たちの霊魂は不死ですから、その目的は地上の物事に限定されているのではありません。地上の物事は全て過ぎ去ってしまい、私たちの霊的な霊魂の広大な力を満たすことができないからです。これを満たすことができるのは天主のみです。聖アウグスティノの美しい言葉でいえば、「御身は御身の為に我々を造りたもうた、おお主よ。御身に安らぐまで我々の心には安らぎがない!」

 実際これが私たちの人生の目的の第三の側面、すなわち超自然的側面です。私たちは啓示によって次のことを知っています。「神はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。神がみ子を世におくられたのは、世をさばくためではなくて、それによって世を救うためである。」(ヨハネ3章16-17節)永遠に生きることを望まない人がいるでしょうか?私たちは永遠の命を私たちの主イエズス・キリストに、そしてイエズス・キリストにのみ、見いだすことができます。イエズス・キリストは私たちの救い主であり、私たちを罪と、罪から流れ出る全ての悪から最終的に救ってくださる方であって、イエズス・キリスト以外に救い主はいないのです。

 私たちは啓示によって次のことも知っています。「かんがえよ、私たちは神の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは神の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、神の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは神に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章1-3節)

 聖人達の祝日を祝うために、聖ラウレンツィオ、そしてとりわけ聖母は私たちの目を挙げ、私たちの霊魂の目である知性を、天主における永遠の生活を黙想するよう仕向けてくださいます。そこでは、聖人達は崇高の善、無限の善、不変の善、善そのものである父と子と聖霊との交わりの内に永遠に喜んでいるのです。「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によってますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント人への後の手紙3章18節)徳には報いがあるのです!信徳には報いがあるのです!「自分をすて、自分の十字架をになって、[キリスト]に従」(マテオ16章24節)うことを忠実に行なう人には報いがあるのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、聖人達の栄光を黙想するとき、聖人達の後に続く決心をしなければなりません、それも中途半端な態度ではなく熱心さをもって、躊躇するのではなく、この道こそが永遠の命、永遠の喜びにつながる道であって、私たちのなし得る全ての努力が報われるという、唯一の正しい信仰に基づいた確信をもって従う決心です!「主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネの第一の手紙3章3節)しかしこの努力自体も私たちをいつも助けてくださる天主の贈り物なのです。この助けをもってすれば、私たちが失敗することはあり得ません。ですから、私たちは信頼して進みましょう。

 最後に指摘しておきたいのは、私たち自身を聖化する行いは御聖体と密接な結びつきがあるということです。聖ラウレンツィオの例をご覧ください。聖ラウレンツィオは聖シクスト二世教皇の助祭でした。聖シクスト二世教皇が殉教の場所に引かれてゆくとき、聖ラウレンツィオは言いました。どちらにいらっしゃるのですか、おお大司祭よ、あなたの助祭を置いて?ミサの犠牲を捧げるときは、いつもあなたの助祭と一緒であったことを思い出してください、と。8月6日に殉教した聖シクスト二世教皇は、聖ラウレンツィオに対して、彼も数日後にもっと輝かしい殉教をもって続くであろうと言いましたが、実際その通りとなりました。この聖人達が自らの命をキリストのために捧げる力を得たのは御聖体からです。キリストは彼らの為に死に、彼らは天主の子羊、十字架の生け贄の肉を何度も食べたのです。今度は彼らが天主の子羊と共に子羊となり、キリストと共に一つの生け贄となる時であったのです。聖人達にはその準備ができていました。また更に、聖母マリアは天に挙げられましたが、聖母がキリストに従って天国にまで行ったのは、聖母がまずキリストに従ってカルワリオの山に行ったからです。キリストは、「『私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる』とおおせられた。(それから、ご自分が、どんな死に方をするかを、お示しになった。)」(ヨハネ12章32-33節)キリストに従って天国に行きたい人は沢山いますが、キリストに従ってカルワリオに行きたい人は少ないのです。けれども、私たちがキリストの御受難に加わらない限り、キリストの栄光には加われません。聖パウロは明確に言っています。「私たちが神の子である…。私たちが神の子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ人への手紙8章16-18節)

 全てのミサにおいて天主の生け贄とともに私たち自身をお捧げすることを習慣としましょう。そうすることによって、いつの日かキリストの為に私たちの命をお捧げする準備ができていますように、そして聖母と全ての聖人達とともに天主の御国に永遠に住まわせて頂けますように。アーメン。


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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
임시 웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA



天主に感謝します

2013年08月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

天主に感謝します!8月の日本のミッションの報告を頂きました。日本に行って下さったレネー神父様に感謝します!

月曜日の朝は東京で、9名の方々がミサに与りました。

御報告を紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

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アベマリア!

今月の御ミサは、9日金曜日9人、10日土曜日は、15人が御ミサに預かるおめぐみを頂きました!デオグラチアス!
今月は、レネ-神父様がお越し下さり、お説教は哲学的な話しを交えて、私達の本来の目的、天国を、聖人方や聖母の祝日を通して再確認して、十字架の元に続けば、永遠の幸福にたどり着くというものでした。(うまくまとめる事ができません(>_<))
また、土曜日には御ミサの後に、聖母の被昇天と、世の終わりの公審判との深い関係をお話し頂きました。
いくつかの質問にもお答え頂き、とても素晴らしい時間を過ごす事ができました。
猛暑のなか、柔和に忍耐強く信徒たちに接して下さったレネ-神父、駅の階段を二段抜かしで颯爽と駆け上がられる神父様のお姿に、深い感謝と尊敬の念が湧き上がりました。
沢山のおめぐみに天主様に感謝!マリア様に感謝!聖ピオ十世会の神父様方に感謝致します!
――――――――――

天主に感謝します!

「生命の目的についての真理」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2013年08月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「生命の目的についての真理」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2013年8月11日 大阪でのお説教
「殉教者聖ラウレンチオと聖母の被昇天に共通すること」


兄弟姉妹の皆さん、今日と明日、聖にして母なる教会は殉教者聖ラウレンチオを、次の木曜日は聖母の被昇天を讃えます。

どちらの祝日も、まことのキリスト教徒、まことのカトリック信者の死は、この世の人々が思うような敗北ではないことを思い出させてくれます。この死は、(敗北ではなく)勝利への道なのです。お告げの祈りの後の祈り(祈願)において、私たちは「(キリストの)その御苦難と十字架とによりて、ついに御復活の栄えに達する」よう願い求めます。

私が主張したい第一の点は次のものです。それは、試練に直面しているとき、私たちを慰めてくれるほど素晴らしい感情、思想ではありません。それは客観的な真理です。最近、私はインドのあるカトリック神学生のレポートを読んでいました。プロテスタントの教会が世界で、特にインドで広がりを見せているのです。神学生は、人々を引き付けるものは一種の「天主の体験」であると指摘していました。彼が仲間の神学生たちに提案した解決法は、カトリック教会において、似た体験を増やすようにすることでした。ここで彼は、聖ピオ十世が、信仰が個人的な経験に基づくとあえて主張することを近代主義として非難したことを、完全に無視しているように思われます。似た経験を増やそうとすることで、彼は基本的に人々を近代主義者にするのです。

まことのカトリックの立場は、知性によって把握されるべき真理に基づいており、通常は感情、感覚的な感情のレベルにある「個人的経験」に基づくものではありません。カトリック信仰は真理に基づくがゆえに、「個人的=私に限定される」のではありません。信じているがゆえに、カトリック信仰は私のものです。しかし、その真理は私に依存していないがゆえに、カトリック信仰は私のものではありません。カトリック信仰は上から来るのであり、全ての人の知性に適合した客観的な方法で確認されるのであり、この方法は奇跡と予言によって保証されます。これまで何度も説明しましたが、カトリック信仰は、客観的な天主の啓示に対して私たちが応えることです。また、奇跡と予言によってこの啓示に天主が「署名」されたことで、私たちは、啓示なさったのがまことの天主だということを知ります。そのような保証は、「個人的経験」ではありません。客観的です。ルルドで多くの奇跡があったこと、またファチマでは1917年10月13日に奇跡があり、その4カ月前の6月13日に予言されていたことを私たちは知っています。その場に居合わせる必要はありません。これらの出来事は十分記録に残っているからです。旧約の予言や、教会の歴史を通して起きたキリストや聖人たちの多くの奇跡も同様です。これらは、私の知性だけでなく、誠実な人の知性に対して、カトリック信仰が真理であることの証明を提示しています。私がそれについて何かを「感じるか感じないか」は関係ありません。時には、人は反対の方向の感情を持つかもしれません。教会に対する恐れ、「愛着ある罪」を離れなければならない恐れ、非合法な関係や習慣をやめなければならない恐れです。しかし、真理はそこにあります。私が真理に対して誠実でありたいなら、私はその真理を受け入れます。

多くの近代主義者は今日、誰でも自分の真理を持つことができると考えています。それをよいと感じる限りにおいて、近代主義者には素晴らしいものです。私たちの主イエズス・キリストに回心する必要はありません。そんな取り組み方においては、感情が支配し、知性は完全に脇に置かれます。たとえば、ある人は一つのまことの天主に三つのペルソナがある(カトリックの教義)と認め、ある人はそれを否定する(イスラム教徒など)とき、すべての宗教が共に正しいということは不可能です。さて、天主は至高の知性であり、純粋に霊的であり、「礼拝者は霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ4章24節)。私たちの持つ知性を与え、天主を知ることのできる知性を私たちに与え給うた天主は、私たちが天主を知るか、あるいは天主についての誤謬によってだまされるかどうかについて、無関心ではおられません。天主は至高の真理であり、真理を愛し、「すべての人が救われて、真理を深く知ることを望まれる」(一ティモテオ2章4節)のです。言い換えれば、すべての人は、救われるために真理を知らねばなりません。

それでは、真の信仰において、「天主の体験」はないのでしょうか。教会は伝統的に「天主の体験」を語りませんが、「霊的慰め」については語る、というのが真実です。天主は霊的慰めをお与えになります。特に、霊的生活の初めにおいて、正しい方向に私たちを向けるためにお与えになります。私たちの主イエズス・キリストを見出すとき、天主からの大きな喜びがあります。しかし、自分の感情に信頼を置いてしまうと、誤りに陥ってしまうでしょう。実際、そのような感情は、人々をだますために悪魔によって似せて起こされることが時にありえます(これは、自分を信頼しすぎたことへの罰になるでしょう)。また、しばしば、そんな喜びの正確な原因が何であるかを理解しません。プロテスタント教会においては、しばしば、真理と一緒に誤りものみこんでしまいます。カトリック教会においては、聖人たちは、自分の判断や感情を信頼せず、カトリック教会の客観的な真理に従うよう警告しています。これが、聖人のほとんどが霊的な指導者であり、長上の指導の下にいようと多くが修道生活を選んだ理由です。なぜなら、彼らは自分たちの判断を信頼していなかったからです。しかし、プロテスタント主義の根は、個人的な判断です。このため、あらゆる種類のさらなる誤りに陥ります。

さて、元の目的に戻りましょう。聖人たちの祝日、聖ラウレンチオ、そして聖母の祝日ですが、これらは私たちの人生の目的を思い出させてくれます。すなわち、天国です。偉大な真理は目に見える側面、自然的次元を持つというのは、すべての人、非カトリックの人でも分かります。地上における人間の生命は死によって終了します。この第一の真理は、過ぎ去るものに愛着を持つ人々、みんなに地上のものごと、つまり権力、富、楽しみなどの空虚で空しいものを教える人々への警告です。すべては過ぎ去り、私たちも過ぎ去ります。私たちが過ぎ去るものへ愛着を持つならば、喜びはそれらと共に過ぎ去ります。永遠のものに愛着を持つならば、私たちの喜びも永遠となるでしょう。

私たちの生命の目的についての真理には、第二の次元があります。まだ自然的レベルですが、これは目に見えません。私たちの霊魂は、体の死によって破壊されず、存在を続け、永遠に存在し続けるという意味においては、不死です。なぜなら、霊魂は霊的だからです。霊魂の霊的性質は、自然的真理です。すなわち、理性という自然的な光によって証明できる真理です。

私たちがものを考えるとき、イメージ(図形)とアイデア(概念)の両方があります。イメージは個別であり、アイデアは一般的です。たとえば、三角形の三つの角度の和は180度だということを証明するなら、紙の上に(あるいはホワイトボードの上に)イメージを描くでしょう。証明を進めていき、最後にはすべての三角形について真理であると結論します。自分の描いたイメージだけで推論したのなら、彼はどのようにしてそんな結論を出したのでしょうか。そのわけは、個別のイメージによって推論したのではなく、三角形についての一般的なアイデアによって推論したからです。このことから、彼の結論は正当なものです。知性の光によって、人間は、個別のイメージから一般的なアイデアを引き出し、次に、個別のイメージ、感覚で得た個別のデータの中に一般的なアイデアを見ます。そのため、人間のアイデアは一般的です。さて、物質はすべて個別であり、一般的ではありません。このことから、人間のアイデアは物質的ではありません。霊的です。アイデアが非物質的であるなら、そのようなアイデアを生み出す能力がそれより低いはずはありません。その能力も霊的レベルになければなりません。その能力は知性であり、脳ではありません。脳はイメージを生み出し、想像力(イマジネーション=イメージする力)は脳にあります。しかし、知性は脳ではありません。脳は物質であり、知性は霊的能力です。それがゆえに、その能力を持つ霊魂もまた、それ自体で霊的であり、物質や肉体に依存せず、存在します。これは不死です。

私たちの霊魂は不死ですから、その目的は地上のものごとに限定されえません。地上のものごとは過ぎ去り、私たちの霊魂を受け入れるほど大きな能力はありません。天主のみがそれを満たします。聖アウグスチヌスが美しく述べています。「主よ、御身はわれらを御身のためにつくり給うた。われらの心に憩いなし、御身において憩うまで」

今度は第三の次元、私たちの命の目的である超自然的次元です。私たちは啓示によって知っています。「天主は、御独り子与え給うほど、この世を愛された。それは、彼を信じる人々みな滅びることなく永遠の命を受けるためである。天主が御子を世に送られたのは、世をさばくためではなく世を救うためである」(ヨハネ3章16―17節)。永遠に生きることを望まない人がいるでしょうか。私たちは、主イエズス・キリストにおいて、キリストのみにおいて、永遠の命を見出すことができます。キリストは私たちの救い主であり、私たちを罪から救い、ついには罪から出るすべての悪から救うのであり、ほかに救い主はいません。

私たちは啓示によって知っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは、天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1―3節)

聖人たちの祝日、聖ラウレンチオと、さらには聖母の祝日を祝うため、目を上げましょう。私たちの霊魂の目を、私たちの知性の目を。そして、天主における永遠の命を黙想しましょう。そこにおいては、聖人たちは至高の善、無限の善、不変の善、善そのもの、御父、御子、聖霊と一致して永遠に喜ぶのです。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の栄光を映し、霊なる主によってますます栄光を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。徳に対する報酬。忠実に対する報酬。忠実に「自分を捨て、自分の十字架を担って、キリストに従う」(マテオ16章24節)人々に対する報酬があります。

兄弟姉妹の皆さん、聖人たちの栄光を黙想するとき、彼らに従うように真実をもって決心しなければなりません。生ぬるさでなく熱意をもって、ためらいでなく確信をもって。唯一のまことの信仰に見られるごとく。聖人たちの道は永遠の命、永遠の喜びに至り、努力するすべてに値するものです。「主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章3節)。しかし、これらの努力はそれ自体、いつも私たちをお助けくださる天主の賜物であり、その御助けによって、私たちは失敗するはずがありません。それゆえ、私たちは確信をもって前へ進むべきです。

最後の考察に入ります。聖化する業は、ご聖体と密接に関わっています。実際、聖ラウレンチオを見てみましょう。彼は教皇聖シクスト二世の助祭でした。教皇が殉教へと引かれたとき、聖ラウレンチオは教皇に言いました。「教皇様、助祭もなく、あなたはどちらへ行かれるのですか。いけにえ、ミサをお捧げになるとき、あなたの助祭を思い出してください」。聖シクストは8月6日に殉教しましたが、聖ラウレンチオに対して、聖ラウレンチオが数日後に、さらなる栄光の殉教によって教皇に続くことを述べ、聖ラウレンチオはそうなりました。これらの聖人たちが自分の命をキリストためにお捧げするという強さを引き出したのは、ご聖体においてでした。キリストは彼らのために亡くなられました。彼らは、天主の小羊の肉を、十字架のいけにえを食べました。何度も。さあ、今度は、彼らが小羊とともに小羊になるとき、キリストとともにいけにえになるときが来ました。彼らの準備はできていました。また、童貞聖マリアは被昇天なさり、キリストに続いて(体ごと)天に昇られました。なぜなら、マリア様は最初にカルワリオ山までキリストについて行かれ、キリストの「私は地上から上げられて、すべての人を私のもとに引き寄せる(これは、ご自分がどんな死に方をするかを示されるためであった)」(ヨハネ12章32―33節)という言葉に従っておられたからです。多くの人々がキリストについて天へ行きたがりましたが、カルワリオまでキリストについて行った人はほとんどいませんでした。しかし、私たちはキリストの御受難に参加しない限り、キリストの栄光に参加できません。聖パウロは明確にこう言いました。「私たちは天主の子である。私たちが天主の子であるなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章16―18節)

すべてのミサにおいて、天主のいけにえとともに自分をお捧げすることを習慣づけましょう。そうして、その日、キリストにために自分の命をお捧げする準備をし、それにより、キリストの国に入ることが認められ、永遠に聖母やすべての聖人とともにいることができますように。アーメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアに対する尊敬

2013年08月06日 | カトリックとは
三十一日 聖マリアに対する尊敬

       蓋(けだ)し看(み)よ、今より萬代(よろずよ)までも人皆我を
      福(さいわい)なる者と称(とな)へん。          (ルカ 一。 四八)

 これは聖マリアがその親戚(しんせき)聖エリザベトを訪問された時、相手の祝辞(しゅくじ)に答えて天主の御(おん)恵(めぐみ)を感謝した後、御自分に就(つ)いて仰せられた御言葉(おんことば)であるが、この予言は悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)した。
実際聖母はすべての時代のあらゆる人々から断(た)えず讃美(さんび)せられ給うたのである。
 またかように万国(ばんこく)万代(まんだい)の人々に讃美(さんび)せられ給うのも無理はない。聖母は造られたる物の内(うち)最(もっと)も完全なる御者(おんもの)で、云わば聖三位(さんみ)一体(いったい)の御名作とも申し上ぐべき御方(おかた)である。
 謙遜(けんそん)な聖マリアは御自身でも此の事を認められて「全能にて在(ましま)す者、我に大事をなし給えり」と、天主の御力(おちから)を賞讃(ほめたた)えられたが、その通り天主は聖マリアの完成にあらゆる努力をおしまれず、先(ま)ず永遠の昔より御独子(おんひとりご)の母とする計画を立てられ、その御孕(おんやど)りには原罪を除(のぞ)き去り、その御一生には溢(あふ)れんばかりの聖寵(せいちょう)を注(そそ)ぎ、あらん限りの光栄(こうえい)を与え、実に至れり尽くせりの丹精(たんせい)を加えられた。さればその御霊魂(ごれいこん)の美麗(びれい)な事は空前(くうぜん)絶後(ぜつご)で、かの大天使ガブリエルが「慶(めでた)し、聖寵(せいちょう)充(み)ち満(み)てるマリア!」と叫んだのも、恐らくは驚嘆(きょうたん)の余りに出た言葉であったろう。しかもその麗(うるわ)しさは、神の御子(おんこ)の御托(ごたく)身(しん)、私生活の三十年間と、時を経(へ)るに従って磨(みが)きぬかれ、いよいよ燦然(さんぜん)と光輝(かがやき)を放(はな)つに至(いた)ったのである。
 故にかように優(すぐ)れた天主の作品を尊敬(そんけい)讃美(さんび)する事は、天主の御栄光(みさかえ)になりその思(おぼ)し召しに適(かな)い、叉,厚く望み給う所でもある。我等は今日聖母月を終るに当たり、聖母への尊敬が如何に広く行き渡(わた)っているかを考えて見よう。
 先ずイエズスの公生活中、主の御母なる聖マリアが、如何(いか)に一般の人々から尊敬されておいでになったかわ、聖書に録(かきしる)してある「福(さいわい)なる哉(かな)、汝を孕(やど)せし胎(たい)よ!」という或る婦人の言葉によっても充分に察せられる。
 叉、聖マリアには、聖子イエズスがまだ天主の御独子(おんひとりご)であると人々に認められ給わぬ時分から、既(すで)に讃美(さんび)する者が多くあり、かのカルワリオ山に於いて、罪なき主を嘲(あざけ)り、罵(ののし)り、打ち叩(たた)き、十字架に釘つけ参らせたフアリザイ人や悪党輩(やから)さえも、聖母マリアに対しては尊敬(そんけい)の態度をとり、十字架の下(もと)にたたずみ給うに委(まか)せて何事も云わなかった。
 敵でさえ然(しか)りとすれば、イエズスの御弟子達がどれほど主の御母を敬愛し参らせたかに就(つ)いては、語る必要があるまい。
 或る伝説によれば、その時代既(すで)に聖母を尊敬する為の修道会が出来ていたとの事である。その他、各時代を通じて聖母尊敬の様々な例を数えたら、恐らく枚挙(まいきょ)に遑(いとま)ない事であろう。
 我が聖会に於いてもピオ九世教皇(きょうこう)聖下(せいか)は、聖マリアの無原罪の御孕(おんやど)りを信仰箇条(かじょう)の一(いち)として普(あまね)く天下に宣言し、十二月八日をその祝日と定め給いレオ十三世教皇聖下(せいか)はロザリオの祈祷(いのり)によって聖母の御伝達(おとりつぎ)を願う事を衷心(こころ)からすすめられた。共に聖マリアに対する熱烈な尊敬(そんけい)の表現(あらわれ)に他(ほか)ならぬ。
 我が日本に於いての何を挙げれば、徳川三百年のキリシタン禁制時代、激(はげ)しい迫害(はくがい)を蒙(こうむ)りながらも信者等は決して聖母に対する尊敬、熱愛、信頼を捨てなかった。
 厳(きび)しい役人の目を盗む為に、マリア観音(かんのん)、即ち観音(かんのん)に似(に)せて聖母の御像(ごぞう)を作り、秘(ひそ)かに之を尊敬(そんけい)していた者もあった位(ぐらい)である。
 さればこそ、或は残酷(ざんこく)な、のこぎり引き、火あぶり、熱湯(ねっとう)責(せ)めなどの残酷(ざんこく)な刑罰(けいばつ)も勇ましく耐(た)え忍(しの)び、天晴(あっぱ)れ殉教(じゅんきょう)の栄冠(えいかん)を頂き、或は牧者(ぼくしゃ)なき小羊(こひつじ)の群(む)れとなりながら、親から子へ、子から孫へ、御教(みおし)えを伝えて共に信仰を全(まっと)うし得たのも偶然(ぐうぜん)でない。
 しかも布教(ふきょう)解禁後(ご)、昔のキリシタン信者の子孫が発見されたのも彼等が浦上天主堂の聖母像に尊敬(そんけい)を献(ささ)げて、司祭の目に留(と)まったのであった。
 我等も壮烈(そうれつ)な彼等殉教者(じゅんきょうしゃ)と血を同じうせる日本人である。彼等の如く日頃聖母に厚き尊敬と愛と信頼とを献(ささ)げ、その御助(おんたす)けによって艱難(かんなん)の時にも信仰を全(まっと)うする事が出来なければ、何の面目(めんぼく)あって彼等に見(まみ)ゆる事が出来よう。

   祈   願

 ああ聖母よ、我等は今(いま)御身を尊敬し奉る事の、如何に麗(うるわ)しき業(わざ)なるかを思いて歓喜(よろこび)に耐えず。
わが日本の聖(とうと)き殉教者(じゅんきょうしゃ)が御身を敬愛(けいあい)して其の栄冠を受けられたるに倣(なら)い、我等も拙き(つたな)心、繊(か)弱(よわき)き此の身を顧(かえり)みず、わが一切(いっさい)を御手(みて)に托(まか)せ奉る。
 何卒、我等を御身の所属物(もの)として守り、迷える時に導き、危うき時に助け、しかして此の世を去るに臨(のぞ)みては、御身の聖名(みな)を呼び奉り、死しての後に於いては、御身の聖(み)顔(かお)を仰がしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)

聖母聖月信心の終りの祈祷

聖マリアよ、我等、御身に捧げたる此の月を終らんとするに当たり、御前(みまえ)に跪(ひざまず)き、我等が御身の子としての讃美(さんび)、感謝、祈祷(いのり)を捧げ奉る。
 我等は御身があらゆる聖寵(せいちょう)と美点(びてん)とを与えられ給いしことを、三位(さんみ)一体(いったい)なる天主に感謝し奉り、また御身が我等の為に代願(だいがん)し、我等の願いを叶(かな)わしめ、我等に慰めを与え我等に天主の聖寵(せいちょう)を求め給いしことを御身に感謝し奉る。
 愛すべき御母よ、この月の日の如く、何時(いつ)にても、何処(いづこ)にでも、御身の貧しき子なる我等をみそなわし給え。危険に臨みては御保護を、戦いに於いては御助力を、苦難に際しては忍耐を与え給え。
 罪人(つみびと)の為には改悛(かいしゅん)と赦(ゆる)し、義人(ぎじん)の為には聖徳(せいとく)の進歩を求め給え。遂に我等、総(すべ)てに最終まで耐え忍ぶ力と、善(よ)き臨終(りんじゅう)、(かん)仁(じん)なる審判(しんぱん)を求め給え、御伝達(おんとりつぎ)によりて総(すべ)ての危難(きなん)より救われ、今、御身の子として愛を以て、御身にまかせ奉りし我等総(すべ)てを、天国に於いて再び御身の御前(みまえ)に集(つど)わしめ給わん事を願い奉る。
 ここに誠心(まごころ)より「天主の御母聖マリア、罪人(つみびと)なる我等の為に今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。」とさけぶ我等の中一人も滅(ほろ)びに至らざらんことを願い奉る。 
アメン。

尊(とうと)き天主の御母マリアよ           ▲ 更に祝せられ給えかし。
我等の救い主イエズス・キリストの御母よ      同じ
憐(あわ)れみの御母よ                  同じ
罪人と貧しき者の依托(よりどころ)               同じ
総(すべ)ての聖徳(せいとく)の亀鑑(かがみ)                 同じ

我が最愛の御母、支配者、代願者(だいがんしゃ),    ▲ 更に祝せられ給えかし。
 
生涯(しょうがい)殊に今月我等に賜(たまわ)りたる恩恵(おんめぐみ)の為に ▲ 我等、誠心より汝に感謝し奉る
 
我が罪悪(ざいあく)の為に受くべき地獄と、肉(にく)身(しん)、霊魂(れいこん)の
悪より、御伝達(おんとりつぎ)をもって救い給いしことを           同じ
この聖(せい)月(げつ)に祈り得たる恩恵(おんめぐみ)の為に             同じ
この聖月の中に我等に授け給いし聖寵(せいちょう)及び光明(ひかり)の為       同じ
我等に賜(たまわ)りし歓喜(よろこび)、慰(なぐ)籍(さめ)の為に              同じ
この月の中に御身の模範(もはん)が我等の心に起こしたるよき決心の為に 同じ
今月の中に我等に賜(たまわ)りたる総(すべ)てと我等の受けたる知らざる恵(めぐみ)の為に 同じ
     祈 願 せ ん

慈悲深き聖母マリアよ、我等今この聖(せい)月(げつ)を終らんとするに当たり、省(かえり)みればわれらが信心の勤行(つとめ)には足らざることのみ多く、また卑(いや)しきわれらが祈りには、聴き入れらるるに堪えざるものありき。されど御身は哀憐(あわれみ)の御母なれば、そを見そなはし給うことなく、御身の栄光(さかえ)の為に、この聖月の信心を行いたる我等の意志(こころざし)を顧(かえり)み給え。
 我等の足らざるを許し、却って慈悲深き御身に信(より)頼(たの)み御身にさけびし者の捨てられしこと、古(いにしえ)より今に至るまで世に聞こえざるを思い給え。
 願わくは我等を御身の子として、我等の意志(こころざし)、我等のうやうやしき祈りを御父に捧げ、その聴き入れられんことを請(こ)い求め給え。 アメン。

我等に深き痛悔(つうかい)と罪のゆるしを天主より請い求め給わんことを▲更に願い奉る。
生ける信仰、天主の憐(あわ)れみのかたき信頼、天主に対する燃ゆる
愛を求め給わんことを                       同じ
真実の謙遜(けんそん)、柔和(にゅうわ)、忍耐及び艱難(かんなん)に臨(のぞ)み,御身の子として主に
依(よ)り頼みを得んことを                       同じ
我等今より忠実に主に奉仕へこれを最終まで持続せんことを      同じ
御身の識(しろ)し召す我等の為に、最も益(えき)にして且つ最も必要なる
御恵を求め給わんことを                       同じ
我が両親、朋友(ほうゆう)、親族恩人等を御身の御保護の中に入れ給わんことを  同じ  
すべての罪人(つみびと)と、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を憐(あわ)れみ給わんことを          同じ

     祈 願 せ ん

ああマリアよ今も、また特に臨終(りんじゅう)の時に我を捨て給わざれ。愛すべき御母よ、わが臨終に於いては我が今月屡々(しばしば)御前に跪(ひざまず)きて、「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために今も臨終の時も祈り給え。」とさけびしことを記憶(おぼ)へ給え。
 ああマリアよ。願わくはここに集(つど)える我等すべてを御身の伝達(とりつぎ)によ地獄より救い、天国に於いて再び御前に会(かい)し、御身の愛と御慈悲(おじひ)とを、永遠に讃美(さんび)するを得(え)せしめ給え。アメン。

注意  なおこの終りにおいて聖母マリアの讃美歌(マグニフイカト)或は他の感謝の聖歌を歌うことが習慣となっている。



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母マリアの道

2013年08月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
三 十 日 聖 マ リ ア の 道

 されば子供等よ、今(いま)我に聞け、我(われ)道を守る者は幸(さいわ)いなり (箴言一八。三二)

 我等はこの聖母月を迎えてから、先(ま)ず聖マリアが救い主の御母として、永遠の昔より天主に選(えら)まれ給うた事、次には悪魔の勢力が聖母の御力に打ち砕(くだ)かれるという天主の人(じん)祖(そ)に対する御約束など、順次(じゅんじ)黙想を続けて来たが、聖マリアの御生涯(ごしょうがい)は実に始めから仕舞(しま)いまで、一つとして我等の救いと永遠の幸福に関係せぬ所はない。
 しかして聖母は常に我等が一人残らず救われて、天国の住民となる事を切(せつ)に望(のぞ)ませ給い、今、聖母月の終わりに当たり、この冒頭(はじめ)に掲(かか)げた通り「されば子供等よ、今,我に聞け。我が道を守る者は幸いなり」と仰せになるのである。
 それでは聖マリアの道とは如何なる道であろうか。聖マリアは全く御子(おんこ)イエズスと行(こう)を共にされたのであるから、聖マリアの道は取りも直さずイエズスの歩(あゆ)まれた道である。それは天主と人とに対する愛の道に他(ほか)ならぬ。イエズスが聖(とうと)い天主の御身を以て此の世に降(くだ)り、卑(いや)しき肉の体(からだ)を受けて多くの苦しみを嘗(な)め、最後に冤(むじつ)の罪を担(にな)うて十字架上の露(つゆ)と消え給うたのも、聖マリアが天主の御母たる重大な責任を受けて、或る時はシメオンの予言に心を痛め、或る時は遠いエジプトに流浪(さすら)い、十字架の道に、御子の御死去に、云い尽くせぬ悲(かな)しみを味わい給うたのも、皆これ天主御父(おんちち)を愛し、我等を愛し、救いの事業を完成される為ではなかったか。
 しかもその愛は浅(あさ)はかなものであってはならぬ。一切の艱難(かんなん)に災禍(さいか)に遭(あ)い、あらゆる苦しみ悲しみに試(ため)されても確乎(かっこ)として揺(ゆ)るぎなき真(まこと)の愛でなければならぬ、云い換(か)えればこの愛の道はカルワリオの十字架の下(もと)に至っていなければならぬ。ここに於いてか、イエズス・マリアの愛の道は叉、犠牲の道、十字架の道と云ってもよいのである。
 聖パウロはこの真の超自然的愛と犠牲その他の諸徳(しょとく)との関係を実に美しく説明して「愛は堪忍(かんにん)し、情(なさ)けあり、嫉(ねた)まず、自慢(じまん)せず、怒(おこ)らず、不義(ふぎ)を喜ばず、何事をも信じ、何事をも希望し、何事をも怺(こら)うるなり」と云っている。
 聖母は我等に向かって「今我に聞け!」と仰せられた。故に我等はその御言葉に従(したが)って、イエズス・マリアの通られた愛の道、犠牲の道を進もう。勿論(もちろん)それは中々生(なま)やさしい覚悟くらいで歩(あゆ)める道ではない。その茨(いばら)の道に踏(ふ)み出す時には、先ず大先(だいせん)達(だつ)なるイエズス・キリストの御精神、聖マリアの御精神をわが心に確固(かっこ)と植え付け、超自然の世界に霊の眼(まなこ)を睜(みひら)かねばならぬ。そして如何に坦々(たんたん)として歩(あゆ)み易(やす)そうな大道が右(みぎ)左(ひだり)に見えても、それには一(いっ)切(さい)目もくれず、唯 わが前に印(いん)せられたイエズスと聖母の御足跡(おんあしあと)だけを見つめて、一歩一歩進むべきである。キリストが「滅亡(ほろび)に至る道は広し」と警(いま)戒(し)められ、叉、「十字架をとりて我が跡に従え」と命ぜられたのも、此処(ここ)の事である。
 かようにして「我に聞け!」と仰せられた聖マリアの御跡(みあと)を慕(した)い、一切の思い、言葉、望み,行為等に於いて及ぶ限り聖母に肖(あや)からしめるように努(つと)めるならば、「我が道を守る者は幸いなり」というその次の御言葉(みことば)も必ず実現される事は疑(うたが)いない。
何となれば、イエズス・マリアの愛の道、犠牲の道は険(けわ)しく茨(いばら)に満ちて居る上に、最後はカルワリオの十字架で終っているように見えるけれども、その先は主の御昇天(ごしょうてん)、聖母の被(ひ)昇天(しょうてん)によって直ちに天国に連(つら)なっているからである。
それは現世(このよ)の快楽(かいらく)の道、名誉(めいよ)の道、利(り)慾(よく)の道などが麗(うるわ)しい花に飾(かざ)られているようで、しかもその下に滅亡(ほろび)の底なしの淵(ふち)を隠(かく)しているのとは、雲泥(うんでい)の差もただならぬ。故に我等は聖母月の記念として「されば子供等よ、今我に聞け、我が道を守る者は幸いなり」との御母の御言葉を肝(きも)に銘(めい)じ、我等の行く手を照らす炬(たい)火(まつ)としよう。

   祈   願

 ああ慈愛(いつくしみ)の御(おん)母(はは)、天国への案内者よ、我等は一切(いっさい)を御身の御手(みて)に委(ゆだ)ね奉(まつ)り、今より後、真(まこと)の愛を以て、人々の心に歓喜(よろこび)と平和の種子(たね)を蒔(ま)きつつ御身(おんみ)の示し給える道を進まんとす。
 何卒(なにとぞ)、繊(か)弱(よわ)き我等を助けて恙(つつが)なく最後の目的地に達せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝(しゅく)詞(し)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:諸聖人の元后

2013年08月04日 | カトリックとは
二 十 九 日 諸 聖 人 の 元 后

   天に大いなる徴(しるし)現れたり。日を着たる一人の婦人あり。
其の足許(あしもと)には月ありて、頭(こうべ)には十二の星の冠(かんむり)あり。  (黙示録十二。 一)

 これは使徒(しと)聖ヨハネの言葉であるが、その中の婦人というのは、我等の母なる聖会の象(かた)徴(どり)であり、その背後(うしろ)に日を着、足下(あしもと)に月を踏んでいるのは、聖会が、永遠の太陽なるイエズス・キリストから不変(ふへん)の真理(しんり)と愛の光を与えられ、それに依(よ)って月の如く変わり易(やす)い世間に打ち勝つという事を意味し、叉、頭(こうべ)に戴いている十二の星の冠(かんむり)は十二使徒(しと)、即ち聖会の聖職者(せいしょくしゃ)の秩序(ちつじょ)を示しているのである。 聖会は洗礼によって新たに霊魂に生命(いのち)を与え、我等を天主の子、イエズス・キリストの兄弟、天国の相続者とし、断(た)えず我等の為に配慮する故(ゆえ)実際母と呼び、婦人を以て象(かたど)るに相応(ふさわ)しい。
しかしイエズスの御母聖マリアも、亦、我等の母であるから、この見方より、先に聖ヨハネの語った婦人を聖母マリアとする解釈(かいしゃく)の仕方もある。それによれば、その日を背負(せお)い月を踏み給うのは、月が自らは輝きを放(はな)たぬけれども、太陽に照らされて美しく反射するように、聖マリアも総(すべ)ての聖寵(せいちょう)を御子(おんこ)イエズスより受け給い、叉、之を聖会にお与えになる御伝達(おとりつぎ)の次第を現したもの、叉、頭(こうべ)の十二の星の冠(かんむり)は聖マリアが天地万物(ばんぶつ)の元后(げんこう)に在(ましま)すその権威(けんい)を示したものである。というのは、一体(いったい)十二という数は古(いにしえ)より、物の全体を意味するので、例えば旧約時代の十二族(ぞく)と云えば選ばれた民の総(すべ)てを指(さ)し、新約時代の十二使徒と云えば結局聖会の全体を現す、という風(ふう)であるされば聖マリアが選ばれた総(すべ)ての民の元后(げんこう)という事を形(かたち)に現す為に十二の星を用(もち)いたのである。
 この聖マリアの御使命は、既に世の初めに於(お)ける「我は蛇と婦人(おんな)の間に怨(うら)みを置かん」という天主の御約束にも見られ、その後も屡々(しばしば)予言や象(かたど)りで現された如く、悪魔の勢力、地獄の勢力を打ち破って、能(あた)う限り多くの人々を救い給う事であるが、その御立場からして御自分の御功徳(おんくどく)を以て我等を助け給う事、即ち聖マリアの御通(ごつ)功(こう)が重大(じゅうだい)なものである事は云うまでもない。
 全聖会の人々は時々勝利の教会、苦痛(くるしみ)の教会、戦闘の教会と区別される事がある。勝利の教会とは既に天国に凱旋(がいせん)された聖人方の事、苦痛(くるしみ)の教会とは煉獄(れんごく)に苦しんでいる霊魂、戦闘の教会とはなお此の世に於いて悪魔の誘惑(ゆうわく)、肉慾(にくよく)、世間と戦いつつある我等の事を云うのであるが、この三つは皆、イエズス・キリストを頭(こうべ)に戴(いただ)ける一つの体(からだ)のようなものであるから互いに功(こう)を通じて助け合う事が出来る。
 勿論(もちろん)他の諸聖人も罪少なく功(こう)多き故(ゆえ)に、その余りの功(こう)を以て我等を助け給う事も多いであろうが、何といっても罪が少しもなく、功(こう)が溢(あふ)れるばかりに満(み)ち給う聖母の御通(ごつう)功(こう)には及ぶものがない。故(ゆえ)に「諸聖人の元后(げんこう)」と申し上げるのは聖母に最も相応(ふさわ)しい称号(しょうごう)であると云わねばならぬ。且(か)つ聖マリアは御自分の功(こう)を以て人をお助けになる他(ほか)に、「ロザリオの元后(げんこう)」と呼ばれ給うて、ロザリオの祈りにより、我等がこの世の信者や煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)を助ける時にも、御子(おんこ)の御前(みまえ)に取り次(つ)がれて我等の通(つう)功(こう)を手伝い給うのである。
 かように聖マリアは我等の救(きゅう)霊(れい)に大いなる関係を有し給う。故(ゆえ)に我等は聖母の御助けを願ってその御徳に倣(なら)い、善(ぜん)を行(おこな)い悪を避(さ)け、誘惑(ゆうわく)と闘(たたか)い艱難(かんなん)を忍び、その功(こう)を悉(ことごと)く聖マリアの御手(みて)に委(ゆだ)ねて、煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)の為に祈るならば、聖母は我等の愛を嘉(よみ)されて、いつか我等を御許(みもと)に導き、諸天使諸聖人と共にその慈愛(いつくしみ)深き御顔(みかお)を仰ぎ見る幸福を与えて下さるに相違(そうい)ない。

   祈   願

 ああ、至(いと)聖(きよき)き童貞(どうてい)、光栄ある天の元后(げんこう)よ、御身(おんみ)は御憐(おんあわ)れみ深く、力強き者にて在(ましま)せば、御手(みて)に縋(すが)り奉る我等を助け、今より後、潔白(けっぱく)にして咎(とが)なき月日を送り、遂(つい)に天国にて御許(みもと)に集(つど)うの喜びを得(え)せしめ給え。
 叉、我等が祈る煉獄(れんごく)の霊魂(れいこん)をも早く救い取り給いて、諸聖人の列に加え、我等も共々三(さん)位(み)一体(いったい)の天主を讃美(さんび)し奉るの幸福を与え給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の被昇天

2013年08月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
二 十 八 日 聖 母 の 被 昇 天

     門、汝の頭をあげよ。永遠の戸よ、あがれ、
栄光の主(しゅ)入(い)り給わん。             (詩篇二三。七)

これは昔ダビド王の時代に、かの貴(とうと)い聖(せい)櫃(ひつ)をエルザレムに運び、町の最(もっと)も立派(りっぱ)な場所に安置(あんち)した時、司祭達が歓喜(よろこび)に溢(あふ)れて歌った讃美歌(さんびか)である。
 さて我等は聖マリアを屡々(しばしば)旧約時代に於けるエルザレム神殿の聖(せい)櫃(ひつ)になぞらえて、新約(しんやく)時代に於ける聖(せい)櫃(ひつ)と申し上げるが、この新約の聖(せい)櫃(ひつ)が天国に挙(あ)げられて、永遠の住み家に安置(あんち)せられた時も、天の於(お)いてどれほどの歓喜(よろこび)があったろうか。
 先ずセラフイムやケルビムなどの大天使は勇みに勇んで天の元后(げんこう)を迎え奉った事であろう。次に人(じん)祖(そ)アダムとエワは、怨(うら)み重(かさ)なる蛇の頭を踏(ふ)み砕(くだ)き給うた聖マリアを始めて見奉って、心から感謝したに相違ない。また旧約(きゅうやく)時代の予言者、太祖(たいそ)を始め、多くの聖人方は彼等の希望を成就(じょうじゅ)し給うた聖母を仰いで、如何(いか)ばかり讃(ほ)め称(たた)え奉ったであろう。更に聖マリアの御両親なる聖ヨアキムと聖アンナ、浄配(じょうはい)聖ヨゼフ、洗者(せんじゃ)聖ヨハネ、罪なき殉教(じゅんきょう)の幼児(おさなご)達も聖マリアを待ちかねて、どれほど歓(よろこ)び迎えたか知れない。実にそういう栄誉かくかくたる聖マリアの被(ひ)昇天(しょうてん)を考える時、地上の我等も聖会と共に「門よ、頭を挙(あ)げよ、永遠の戸よ、あがれ。栄光の元后(げんこう)聖マリア入り給わん」と叫ばずにはいられぬのである。
 かような歓迎の内に天国に凱旋(がいせん)し給い、光輝(こうき)燦爛(さんらん)たる聖(せい)三位(さんみ)の玉座(ぎょくざ)の前に至り、御父、聖霊や懐かしい聖子(おんこ)に見えて親しく御物語りあり、次いで御自分の為に備えられた玉座に着かせ給うた聖母の御歓喜(おんよろこび)や御光栄(おんさかえ)の程に至っては、我等には到底想像も出来ない。何となればそれは全知(ぜんち)全能(ぜんのう)全善(ぜんぜん)なる三位(さんみ)一体(いったい)の、此の上もない御寵愛(おんいつくしみ)の玄(げん)義(ぎ)であるからである。
 我等は今少しくイエズス・キリストとその御母(おんはは)聖マリアとの御臨終(ごりんじゅう)の有様を比(く)較(ら)べて見よう。主イエズスは云うまでもなく、世の罪を贖(あがな)い総(すべ)ての人々を救う為に、潔白(けっぱく)の御身を最も残酷(ざんこく)極(きわ)まる刑罰(けいばつ)の犠牲(ぎせい)として、御死去になった方である。所が聖マリアはそれに反し、世にも恵まれた平和な臨終を遂げ給うた。けれどもこの麗(うるわ)しき御最期(おさいご)は決して偶然(ぐうぜん)に得られたものではない。
 その御生涯の豊(ゆた)かな御功績(ごこうせき)、殊にカルワリオの十字架の下(もと)で耐え忍び給うた云い尽くし難(がた)い御苦悩(おんくるしみ)の報酬(むくい)として、聖(とうと)き御子(みこ)の御功徳(おんくどく)により与えられた特別の御恵(おんめぐみ)であったのである。
 美しい終わりを遂(と)げた聖人、殉教者(じゅんきょうしゃ)達は外(ほか)にも沢山(たくさん)ある。然し聖マリア以外の人は、いずれも原罪の結果を蒙(こうむ)っているので、罪の罰としての死を免(まぬが)れる訳にはゆかぬ。従(したが)ってその最期(さいご)を聖母のそれと比べる事は到底(とうてい)出来ないのである。
 我等も罪に汚(けが)れている者であるから、いつか一度は是非(ぜひ)共(とも)死の大いなる苦痛を忍び、それによって我が罪に対する最も重い償(つぐな)いを果たす必要がある。我等の生涯はその重大な時を迎える為の永い準備期間に他(ほか)ならぬ。されば我等はこの期間を徒(いたづら)に費(つい)やす事なく、却って善業を積み、一生の終わりの償(つぐな)いの負担を、少しでも軽からしめるよう励むべきである。
 なお臨終(りんじゅう)に当たって最も頼もしき扶助者(たすけて)は、古往(こおう)今来(こんらい)例(ためし)なき幸福な死を遂(と)げ給うた聖マリアの外(ほか)にはない。故(ゆえ)に我等は常日頃から聖母に縋(すが)って善(よ)き終わりを遂(と)げる御恵(おんめぐみ)を願い、日毎に「今も臨終の時も祈り給え」の祈祷(いのり)を繰(く)り返してその御助けを求めよう。そうすれば聖母は必ず我等を臨終(りんじゅう)の床に守り、我等の霊魂を御胸にかき抱(いだ)いて、地獄の深淵(ふち)の上を飛び越え、輝く天国に導いて下さる事であろう。

   祈   願

 ああ、天国の元后(げんこう)なる聖マリアよ、我等は御身の御光栄(みさかえ)に輝く被(ひ)昇天(しょうてん)を衷心(ちゅうしん)より歓(よろこ)び、御身が天主より受け給いし比類(たぐい)なき其の御恵(おんめぐみ)を讃称(ほめたた)へ奉る。
 我等は拙(つたな)く繊(かよ)弱(わ)き者にして、過失(あやまち)に陥(おちい)る事も屡々(しばしば)なれど、御身の御慈愛(おんいつくしみ)を恃(たの)みとして、一期(いちご)の大事なる臨終の時に、過(あやま)って滅亡(ほろび)に至らざるよう御助けの程を求め奉る。
 冀(こいねがわ)くは我を死の床より挙(あ)げて天国に導きたまえ。しかして、諸聖人と共に限りなく御名を讃(ほ)め、御恩恵(おんめぐみ)を謝(しゃ)し、共に天主を愛し、且(か)つ仰ぐを得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの復活

2013年08月02日 | カトリックとは
二十七日 聖マリアの復活

   幸いなる哉(かな)、汝を孕(やど)せし胎(たい)よ。      (ルカ 二。 二七)

 これは救い主イエズス・キリストを孕(やど)し給うた聖マリアの御肉身を讃美(さんび)した言葉である。
使徒達の伝説によれば、聖母はその幸福な御臨終の後、間もなく復活せられて霊肉(れいにく)共に天国に挙げられ給うたと云う。
一体総(すべ)ての人々は世の終わりでなければ復活させられず、例(たと)え善人(ぜんにん)の肉身であっても、それまでは地の埃(ほこり)に委(ゆだ)ねられているのが通例であるが、独(ひと)り聖マリアのみは主イエズス・キリストと同じく、直ちに蘇(よみがえ)り給うて、肉身も霊魂と共に天国の光栄(さかえ)に与(あずか)り、天主を見(み)奉るの永を受けられたのである。されば聖会に於いては、此の聖(とうと)き玄(げん)義(ぎ)を寿(ことほ)ぐ為に、被(ひ)昇天(しょうてん)の大祝日を設(さ)定(だ)めた。
 然し勿論(もちろん)聖マリアは御子イエズスの如く、御自分の力で蘇(よみがえ)り給うたのでは決してない。
叉、主の如く御復活後(ご)弟子達に現れ給うた事もない。
 被(ひ)昇天(しょうてん)とは即ち天使達が聖マリアの御肉身を天国に挙(あ)げ奉った事を指(さ)すのである。数多(あまた)の聖人方の中には、その遺骸(いがい)が今日に至るまでなお腐敗(ふはい)せず、そのままに残っているものも随分(ずいぶん)見受けられるが、まして聖マリアは原罪を免(まぬか)れ、その生涯に罪の些(いささ)かの影もなく、且つ天主の御独子(おんひとりご)の御母という尊(とうと)い御位(みくらい)に選ばれ給い、地上に於いても「幸いなる哉(かな)、主を孕(やど)せし胎(たい)よ」と讃美(さんび)せられ給うたほどの御方であるから、その御肉身が御死去の後、腐敗せずして、直ちに天に挙(あ)げられ給うた事は当然である。
 叉、聖母は此の世に於いて豊(ゆた)かな功績(いさおし)を積み、御子イエズスに最も肖(あやか)り給うた御方であるから、この点から云っても、死後、天国で御子に最も近い御光栄(みさかえ)を受けられるのは道理であろう。
 それでは何故(なぜ)、聖マリアはこれほど勝(すぐ)れた報(むく)いを受け給うたのであろうか? それは勿論天主の御母たる無類の尊(とうと)き御位(みくらい)の為でもある。然し我等は聖母がなおそれ以上善徳(ぜんとく)に於いて、衆人(しゅうじん)に最も立派な模範(もはん)を示し給うた為である事も忘れてはならぬ。
 故に我等も世の終わりに当たって復活し、我が肉身に大いなる光栄を受けようと望(のぞ)むならば、現世(このよ)に於(お)いて専(もっぱ)ら霊魂と肉身とを聖(せい)ならしめる為に努(つと)める必要がある。即ち五官を慎(つつし)み悪慾を抑(おさ)えて、霊肉を清らかに保(たも)てば保つほど、復活せる肉身の光栄は増すのである。そしてその幸福な復活に最(もっと)も与(あずか)って力(ちから)あるものは、聖体の秘蹟(ひせき)であると云わねばならぬ。
何となれば我等の主イエズス・キリストは「我が肉を食し、我が血を飲む人は永遠の生命を有す。而(しこう)して我、終りの日に之を復活せしむべし」と明らかに宣(のたま)うたからである。
 されば我等は今後充分(じゅうぶん)の覚悟と準備とを以て、一層(いっそう)熱心に聖体を拝領(はいりょう)しよう。そして常に主に仕(つか)え奉(たてまつ)る心を以て事をなし、かりそめにも主を悲(かな)しませ参らす如き思い、望み、言葉、行(おこな)い等を慎(つつし)んだならば、終わりの日には必ずその御力(おんちから)により、聖パウロの言葉の如く、不朽(ふきゅう)の身体(からだ)を以て復活(ふっかつ)せしめられるのである。

   祈   願

 ああ聖母よ、我等は今日新(あら)たに我が目、我が耳、我が口、我が意(こころ)、我が総(すべ)てを御身に献げ奉る。
 願わくは我等を御身の所有に属(ぞく)するものとして常に守り、仇のわなを遠ざけ給え。殊に熱心、快活、敬虔(けいけん)の念を以て屡々(しばしば)御聖体を拝領(はいりょう)し得(う)るよう我等を助け、輝かしき復活を以て御身と共に主を永遠に拝礼(はいれい)し讃美(さんび)し奉るの幸福を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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【質問】第二バチカン公会議の言う「信教の自由」とは何ですか?

2013年08月02日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

【質問】
第二バチカン公会議の言う「信教の自由」とは何ですか?

【お返事】
1965年12月7日に公布された第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(2)によると、
「このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。」

【注:これのラテン語原文は次の通りです。
Haec Vaticana Synodus declarat personam humanam ius habere ad libertatem religiosam. Huiusmodi libertas in eo consistit, quod omnes homines debent immunes esse a coercitione ex parte sive singulorum sive coetuum socialium et cuiusvis potestatis humanae, et ita quidem ut in re religiosa neque aliquis cogatur ad agendum contra suam conscientiam neque impediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites.】

【質問】
「自分の確信に反して行動するよう強制されることがない」ということと、「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」ということとの違いは何ですか?

【お返事】
「強制を免れる」ということには、あることをするように肯定的に強制させられることから逃れる場合、とあることをすることができないように否定的に妨害される場合とがあり得ます。それがすなわち、
「自分の確信に反して行動するよう強制されない」"ne cogatur ad agendum"(たとえば強制によってある信条を信じるように強制されない、あるいは脅迫などによって宗教礼拝行為をするように強制させられない、など)ということ、また、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」"ne impediatur"(たとえば、国の法律などによって、イスラム寺院を建てることが制限されない、など)ということです。

 カトリック教会は、前者の「強制から免れる」ことについては、常に認めてきました。たとえば教会法 Can 1351. Ad amplexandam fidem catholicam nemo invitus cogatur. があります。
 ただし、後者の否定的な強制から免れることについては(たとえ特別な限定された状況において、国家がそのような状況を黙認する・寛容することを認めたことがあったとしても)、それを「自然権」(natural right)としては認めてきたことがありませんでした。「信教の自由」の自然権は、真の天主を礼拝する人々だけに属する、つまり、真の天主に真の礼拝をするカトリック教会に属すると考えてきました。


【質問】
「自然権」とは何ですか?

【お返事】
「自然権」は「自然法」との関係で生じる権利です。
「自然法」とは、人間の本性とその本性に由来する人間の義務とに基礎をおくもので、真の天主への礼拝の義務などがそれに含まれます。
この「自然法」に基づく義務を行使するために、人間には天主に礼拝を捧げる「自然権」が生じます。つまり、人間は、真の天主に対して真の礼拝を捧げる自然権を持ちます。
 自然権の対象は、常に真であり善です。自然と天主とに合致するものです。


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【質問】 聖ヨゼフへの大天使ガブリエルのお告げについて

2013年08月02日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 ご質問をいただきましたので、お答えいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【質問】
聖マリアの天主に対する信頼 の、聖ヨゼフ様が、イエズス様の天主の聖子にてあられますことを御存知なかった、という事は、考えられないのですが、、、聖ヨゼフ様も、救い主に関する聖書の預言を、熟知なさっておられる、と思いますので、、、

【お返事】
この黙想をよく読むと、次のようにあります。
「聖ヨゼフに救い主の御(おん)やどりを明(あ)かし「汝、其の名をイエズスと名づくべし。そは自(みずか)ら己(おのれ)が民を其の罪より救うべければなり」と告(つ)げしめ給うた此処(ここ)に注意すべきは、聖マリアには大天使ガブリエルを以て、イエズスの神性やその永遠の権威(けんい)までも示されたのに、聖ヨゼフには唯(ただ)その救い主にまします事のみを告(つ)げ、天主の御独子(おんひとりご)なる事は語られなかった点である。」
 ここでは、マリア様とご結婚する前、まだ許嫁であったときに、大天使ガブリエルはマリア様の体内におられる子供が救い主であることをのべ、それ以外の詳しいことは言わなかったと言うことです。
(マリア様の場合には、お告げの時にはっきりと説明がありました。)
 その後、聖ヨゼフ様が、イエズス様の天主の聖子にてあられますことを聖ヨゼフに適したやり方とその時に知るようになったと思いますが、ここでは、大天使ガブリエルのお告げについて考察しています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:至福なる聖マリアの御臨終

2013年08月01日 | カトリックとは
二十六日 至福なる聖マリアの御臨終

   主よ、我(われ)御身(おんみ)を待ち望(のぞ)めり。     (詩篇 三七。一○)

 思うにこの詩篇(しへん)の一句ほど、最愛の御子に別れ給うて後(あと)の、聖マリアの御心中をよく現している言葉は他(ほか)にあるまい。
 イエズス・キリストの御昇天後、聖母は許されるならば、すぐにも天国の聖子(おんこ)の御許(みもと)に行きたいと、熱く望(のぞ)まれた事であろう。然し天主の思(おぼ)し召しに依(よ)って信者達の亀鑑(かがみ)となり慰(なぐさ)めとなる為に、なお十数年の久しき間、此の世に止(とど)まり給わねばならなかった。
 それはどれほど御母にとってはつらい事であったか知れぬが、それだけに叉、御自分の御死去と再会の日を一日千秋の思いで待(ま)ち侘(わ)び給い、日夜祈り、黙想に従事(じゅうじ)しつつ、殆ど現世(このよ)から天国にある如く、来世(のちのよ)の事のみ考えて過ごし給うたのである。故(ゆえ)にその御臨終(ごりんじゅう)は比(たぐい)もなく麗(うるわ)しいものであった。
 なるほど聖母の御死去も一見した所は、一般の人の死と余り異(こと)なっている所はないように思われる。けれどもその原因は病気でも老衰(ろうすい)でもなく、全く天国に対する憧憬(あこがれ)と、イエズスに対する止(や)みがたい愛慕(あいぼ)とが、火のように燃(も)え熾(さか)って、肉身と霊魂の繋(つな)ぎを断(た)ち切ってしまった為に外(ほか)ならない。
 そして天主との一致を妨(さまた)げる罪の汚れが少しもなかったから、その御臨終には些(いささ)かの憂(うれ)愁(い)も恐怖(おそれ)も苦悩(くるしみ)も見られなかった。苦しみは却(かえ)って此の世にある間、救(きゅう)霊(れい)の犠牲の為に御子と共に充分味わはれた所である。そういう聖母にとって死は寧(むし)ろ救いであり、安息(あんそく)に入る明るい門であった。決して我等に対する如く罪の罰(ばち)でもなく、不安な暗い隧(トン)道(ネル)でもなかったのである。
 我等も、もし人(じん)祖(そ)が罪を犯(おか)さなかったなら、皆かような喜ばしい死に逢(あ)う事が出来たであろう。即ち死はその場合今の如く罪の罰(ばつ)ではなく、唯(ただ)、現世(このよ)から来世(あのよ)へエデンの楽園(らくえん)から天国へ、直ちに移される事に外(ほか)ならなかった筈(はず)である然し実際に於いて罪の穢(けが)れある我等には,勿論(もちろん)聖マリアそのままの申し分なき臨終は望まれぬに相違ない。けれどもその御臨終(ごりんじゅう)から有益(ゆうえき)な教訓を得(え)る事は出来る。聖母は御自分には少しも罪がお有りにならなかったけれど、人々の罪の償(つぐな)いの為に其の御生涯(ごしょうがい)、殊に御子の十字架の下(もと)で、一方(ひとかた)ならず苦しみ給い、叉、最後には天国に対する強い憧憬(あこがれ)の為に、あれほど幸福な御臨終が遂(と)げられたのである。故に我等にも我が罪を痛悔(つうかい)し出来るだけその罪を償(つぐな)う事と、天国への憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事と、この二つのものが善(よ)き終りの因(もと)となるに相違ない。
一生の罪を痛悔(つうかい)してその償(つぐな)いを為(な)す事は,天主と一致(いっち)する為の障害(さまたげ)を悉(ことごと)く取り除き、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなからしめ、天国への強い憧憬(あこがれ)は、我等の心を果敢(はか)ない現世(このよ)のほだしから解(と)き放(はな)し、ひたすら来世(らいせ)の幸福を望(のぞ)ましめる。かようにして人は何の恐怖(おそれ)も心配もなく、明るい希望を抱(いだ)いて天主の御許(みもと)に旅立つ事が出来るのである。
 然し我が罪をよく痛悔(つうかい)し、その償(つぐな)いを果(は)たし、叉、天国に対する強い憧憬(あこがれ)を抱(いだ)く事は、我等の力(ちから)だけでは中々難(むずか)しい。それ故(ゆえ)我等は先ず日頃から善(よ)き臨終の亀鑑(かがみ)なる聖母マリアの御助けを願って、天主の豊(ゆた)かな御聖寵(ごせいちょう)を請(こ)い求め、注意してその導きのままに信心を尽くす事が大切である。
そうして此の世の事物(じぶつ)に捉(とら)われず、目的を常に来世(らいせ)に置くならば、死に臨(のぞ)んで何等(なんら)の悔(く)いなく、明朗(ほがらか)な歓喜(よろこび)に溢(あふ)れる事が出来るであろう。

   祈   願

 ああ聖母よ、御身は只(ただ)、主イエズス・キリストのみ慕いて我等の為に苦しみを忍(しの)び給えり。我等はこの麗(うるわ)しき御鑑(みかがみ)を仰ぎつつも、尚、屡々(しばしば)此の世のはかなきものに心を傾(かたむ)け、却(かえ)って苦しみを厭(いと)う事あるを深く悲(かな)しみ奉る。
 されば何卒(なにとぞ)、御憐(おあわ)れみによりて、我等の霊魂を導き、総(すべ)ての被(ひ)造物(ぞうぶつ)より離れしめ、天国に対する憧(あこが)れの心を抱(いだ)きて常に主と共に生(い)き、遂(つい)に善(よ)き臨終(りんじゅう)をとぐるの恵(めぐみ)を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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