Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

日本での聖伝のミサのご案内【2019】

2019年12月31日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--


愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

2019年の御ミサのスケジュールをお知らせいたします。

スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

いつものように、次のカレンダをクリックして、最新のミサ日程で、ご確認できます。

最新情報は
次のカレンダーをクリック

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。


修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2019】の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。

この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

聖ピオ十世会 年間の予定はこちら 【最新情報はこちらをご覧ください。】 【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

**** 12月の予定  ****
 【大阪】
 12月6日(初金)
 証聖者司教聖ニコラオ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月7日(初土)
 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月8日(主)←追加されました
 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月9日(月)←追加されました
 待降節の平日(3級)紫
 午前6時 ミサ聖祭

 12月22日(日)
 待降節第4主日(1級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月23日(月)
 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日)
 午前6時半 ミサ聖祭

 12月24日(火)
 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午前0時 ミサ聖祭
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月26日(木)
 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月27日(金)
 使徒福音史家聖ヨハネ(2級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月28日(土)
 幼子殉教者(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月29日(日)
 御降誕の八日間内の主日(2級)
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭


 【東京】

 12月7日(土) ← 追加されました
 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭 (読誦ミサ:聖母の汚れなき御心の随意ミサ)

 12月8日(主) 
 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月9日(月) 
 待降節の平日(3級)紫
 午前7時 ミサ聖祭

 12月22日(主) 
 待降節第4主日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月26日(木) 
 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

 12月29日(主) 
 御降誕の八日間内の主日(2級)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

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聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の写真

2019年12月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖母の汚れなき御心聖堂の写真をご紹介いたします。
トマス小野田神父






































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12月7日(土)午後6時から東京で聖母の汚れなき御心の随意ミサがあります。

2019年12月07日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!
12月7日(土)には、予定通り、大阪で聖伝のミサが午前10時半から行われます。

それに付け加えて、同日の夕方、つまり12月7日(土)午後6時から東京でも、ミサ(読誦ミサ:聖母の汚れなき御心の随意ミサ)があります。

これは、まだ生まれていない赤ちゃんたちの命を守るために、ベネディクト十六世の提案した(Veillée de prière pour toute vie naissante; Vigil Prayer for All Nascent Human Life)「命のための祈りの集い」です。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様のミサへのご参加を期待しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マニラの修道院のマリア様とイエズスの聖心
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キリストに対して何らかの時間的誕生を帰属させるべきか(聖トマス・アクィナスの神学大全による)

2019年12月06日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

待降節に入りました。聖トマス・アクィナスの神学大全(キリストに対して何らかの時間的誕生を帰属させるべきか)による御降誕の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sancti Thomae Aquinatis Summa Theologica IIIa pars トマス・アクィナス『神学大全』第三部 
Quaestio 35 第三十五問題

 

Articulus 2 第二項 キリストに対して何らかの時間的誕生を帰属させるべきか
IIIª q. 35 a. 2 arg. 1 Ad secundum sic proceditur. Videtur quod Christo non sit attribuenda aliqua nativitas temporalis. Nasci enim est sicut quidam motus rei non existentis antequam nascatur, id agens beneficio nativitatis, ut sit. Sed Christus ab aeterno fuit. Ergo non potuit temporaliter nasci. 第二については次のように進められる。キリストに対して何らかの時間的誕生を帰属させるべきではないと思われる。(一)生まれるとは、生まれる前は存在していないもののように、誕生のおかげで存在するようにさせるそのことである。しかし、キリストは永遠の昔から存在していた。従って、時間的に生まれることは出来なかった。
IIIª q. 35 a. 2 arg. 2 Praeterea, illud quod est in se perfectum, nativitate non indiget. Sed persona filii Dei ab aeterno fuit perfecta. Ergo non indiget temporali nativitate. Et ita videtur quod non sit temporaliter natus. さらに(二)それ自体で完成しているものは誕生を必要としない。しかし、天主の御子のペルソナは永遠の昔から完成していた。従って、時間的な誕生は必要ではない。そこで時間的に生まれたのではないと思われる。
IIIª q. 35 a. 2 arg. 3 Praeterea, nativitas proprie personae convenit. Sed in Christo tantum est una persona. Ergo in Christo tantum est una nativitas. さらに(三)誕生は固有の意味でペルソナにふさわしい。しかしキリストにおいて一つのペルソナだけがある。従って、キリストにおいては一つの誕生だけがある。
IIIª q. 35 a. 2 arg. 4 Praeterea, quod duabus nativitatibus nascitur, bis nascitur. Sed haec videtur esse falsa, Christus est bis natus. Quia nativitas eius qua de patre est natus, interruptionem non patitur, cum sit aeterna. Quod tamen requiritur ad hoc adverbium bis, ille enim dicitur bis currere qui cum interruptione currit. Ergo videtur quod in Christo non sit ponenda duplex nativitas. さらに(四)二つの誕生において生まれるものは、二度生まれる。しかし、キリストが二度生まれた、とは偽と思われる。なぜなら、御父から生まれ給うた彼の誕生は、永遠であるゆえに、中断を許容しないからだ。ところで「二度」という副詞は、これ[中断]が要求される。実に、中断して[また]走る者が二度走る、と言われるからだ。従って、キリストにおいて、二重の誕生を想定すべきではないと思われる。
IIIª q. 35 a. 2 s. c. Sed contra est quod Damascenus dicit, in III libro, confitemur Christi duas nativitates, unam quae est ex patre, aeternam; et unam quae est in ultimis temporibus propter nos. しかし、反対は、ダマスケヌスが『正統信仰論』第三巻において「私たちはキリストの二つの誕生を告白する。一つは御父からの永遠の誕生であり、もう一つは最後の時に、私たちのための誕生である、と言っていることだ。
IIIª q. 35 a. 2 co. Respondeo dicendum quod, sicut dictum est, natura comparatur ad nativitatem sicut terminus ad motum vel mutationem. Motus autem diversificatur secundum diversitatem terminorum, ut patet per philosophum, in V Physic. In Christo autem est duplex natura, quarum unam accepit ab aeterno a patre, alteram autem accepit temporaliter a matre. Et ideo necesse est attribuere Christo duas nativitates, unam qua aeternaliter natus est a patre, aliam qua temporaliter natus est a matre. 答えて、こう言うべきである。前述のように(第一項)、自然本性naturaは誕生に対して、終極が運動或いは変化に対するように比較される。ところで、アリストテレス『自然学』第五巻を通してあきらかなように、運動は終極の多様性に従って多様化される。ところが、キリストにおいては二重の本性がある、そのうちの一つを御父から永遠の昔から受け、もう一つを母親から時間的に受けた。したがって、キリストに対して、二つの誕生を帰属させるひつようがある。一つは彼がそれによって永遠に御父から生まれた誕生、もう一つはそれによって母親から時間的に生まれた誕生である。
IIIª q. 35 a. 2 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod haec fuit obiectio cuiusdam Feliciani haeretici, quam Augustinus, in libro contra Felicianum, sic solvit. Fingamus, inquit, sicut plerique volunt, esse in mundo animam generalem, quae sic ineffabili motu semina cuncta vivificet ut non sit concreta cum genitis, sed vitam praestet ipsa gignendis. Nempe cum haec in uterum, passibilem materiam ad usus suos formatura, pervenerit, unam facit secum esse personam eius rei, quam non eandem constat habere substantiam, et fit, operante anima et patiente materia, ex duabus substantiis unus homo. Sicque animam nasci fatemur ex utero, non quia, antequam nasceretur, quantum ad se attinet, ipsa penitus non fuisset. Sic ergo, immo sublimius, natus est filius Dei secundum hominem, eo pacto quo cum corpore nasci docetur et animus, non quia utriusque sit una substantia, sed quia ex utraque fit una persona. Non tamen ab hoc incoepisse initio dicimus Dei filium, ne temporalem credat aliquis divinitatem. Non ab aeterno filii Dei novimus carnem, ne non veritatem humani corporis, sed quandam eum suscepisse putemus imaginem. (一)については、従って、こう言うべきである。これは或る異端者フェリチアヌスの異論であった。これをアウグスティヌスは『フェリキアヌス論駁』において次のように解決した。「多くの者がそう欲するように、この世界に“全体的霊魂”があり、それがえもいわれぬ運動であらゆる種子を生かし、生まれて来るものたちと共に交わらず、しかしそれは生まれるべきものたちに命を与えると想像してみよう。たしかに、これ[全体的霊魂]が胎内で、受動的な質料を自分が使うために形成しようとたどり着いたとき、そのもの(霊魂はこのものと同じではない実体を持つことがあきらかである)のペルソナを[全体的霊魂は]自分と一つにする。そして、全体的霊魂ははたらき、質料は働きかけられて、二つの実体から一人の人間ができる。そしてこのように霊魂が母胎から生まれると私たちは言うが、生まれる前に、それ自身に関するかぎり、それ[全体的霊魂]がまったく存在しなかったからではない。従って、このように、ただしより崇高に、天主の御子は人間として生まれたが、それは肉体と共に霊魂(animus)も生まれると教えられるその同じ意味でだ。しかし、それはその両者のどちらも一つの実体であるからではなく、両者から一つのペルソナが成立するからだ。しかし、これを始めとして天主の御子が[存在し]始めたとは私たちは言わない。それは何者かが(天主の御子の)天主性が時間的だと信じないようにするためだ。天主の御子の肉体が永遠の昔からではないと知っている、彼が真の人間の体ではなく、何らかの似姿を受容したと私たちが考えることがないように。
IIIª q. 35 a. 2 ad 2 Ad secundum dicendum quod haec fuit ratio Nestorii, quam solvit Cyrillus, in quadam epistola, dicens, non dicimus quod filius Dei indiguerit necessario propter se secunda nativitate, post eam quae ex patre est, est enim fatuum et indoctum existentem ante omnia saecula, et consempiternum patri, indigere dicere initio ut sit secundo. Quoniam autem, propter nos, et propter nostram salutem, uniens sibi secundum subsistentiam quod est humanum, processit ex muliere, ob hoc dicitur nasci carnaliter. (二)についてはこう言うべきである。これはネストリオスの理論であった。キリロスは或る書簡において、次のように言ってそれを解決した。「天主の御子は、御父からのものである誕生の後で、第二の誕生を、御自身のためにどうしても必要だったなどとは私たちは言わない。代々の昔の前から存在し、御父と共に永遠である御方が、再び存在するために始まりが必要だ、と言うのは愚かで無学だからだ。そうではなく私たちのために、そして私たちの救いのために、[天主の御子は]人間であるということ[=人間本性]を、自存subsistentia[ヒュポスタシス]に従って御自身と一致させつつ、女から出てこられたが、これゆえに“肉体的に生まれる”と言われる。」
IIIª q. 35 a. 2 ad 3 Ad tertium dicendum quod nativitas est personae ut subiecti, naturae autem ut termini. Possibile est autem uni subiecto plures transmutationes inesse, quas tamen necesse est secundum terminos variari. Quod tamen non dicimus quasi aeterna nativitas sit transmutatio aut motus, sed quia significatur per modum mutationis aut motus. (三)についてはこう言うべきである。誕生は基体に関してはペルソナに属するが、終極に関しては自然本性に属する。ところで、一つの基体に複数の変化transmutatioが内存することは可能であるが、それらは終極らに従って多様化される必要がある。ところで、私たちはあたかも永遠の誕生が変化あるいは運動であるかのように言うのではなく、むしろ変化あるいは運動の様式で意味されているから[永遠の誕生と言う]である。
IIIª q. 35 a. 2 ad 4 Ad quartum dicendum quod Christus potest dici bis natus, secundum duas nativitates. Sicut enim dicitur bis currere qui currit duobus temporibus, ita potest dici bis nasci qui semel nascitur in aeternitate, et semel in tempore, quia aeternitas et tempus multo magis differunt quam duo tempora, cum tamen utrumque designet mensuram durationis. (四)についてはこう言うべきである。キリストは二つの誕生に従って二度生まれ給うた、と言うことが可能である。何故なら、二つの時に走る者が二度走ると言われるように、一度は永遠において生まれ、一度は時において生まれた御方は、二度生まれると言われ得るからだ。なぜなら、永遠と時は、両者とも持続の尺度を指示しているが、二つの時よりもはるかに異なっているからである。


Sancti Thomae Aquinatis Summa Theologica IIIa pars トマス・アクィナス『神学大全』第三部 
Quaestio 35 第三十五問題
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ファチマの第三の秘密について、私たちができること

2019年12月06日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマの第三の秘密について、私たちができること、それは祈りと犠牲です。ロザリオの祈りと汚れなき御心への信心です。

トマス小野田神父

I would argue that perhaps the most important thing for us to take away from all of this is not the discovery of what we do not know, but what has already been revealed. There is, strangely enough, a common thread, a clear message that shines through all of the competing versions and stories above — even though we know that they cannot all be authentic. The message is this: Not just the world, but the Catholic Church is in grave danger. Apostasy and defection from divine truth will rise through the ranks by the Devil’s own machinations, and persecution of the faithful — up to and including the martyrdom of the pope — is to be expected. Heaven demands penance, consecration (of Russia specifically), and conversion, which are the only things that can forestall God’s justifiable wrath. And it is the rosary in particular — and devotion to the Immaculate Heart of Mary — that are our best defenses against what is to come.

Whatever we may believe about the acceptance of the consecration of Russia to the Immaculate Heart of Mary, you and I cannot accomplish it. Whatever we may believe about apostasy in the Church that goes to the very top, you and I cannot change it. Whatever we believe about chastisements and wars and calamities to come, you and I cannot avert them. Whatever the fullness of the Fatima message might be that has not yet been revealed, you and I cannot know it.

But we can make the five First Saturdays devotion. We can offer prayer and penance. And we can embrace the answer Pope John Paul II gave us in 1980:

The Pope grasped a Rosary and said: “Here is the remedy against this evil. Pray, pray, and ask for nothing more. Leave everything else to the Mother of God.”

When all is said and done, we may never know the totality of the secrets of Fatima. But we know what we can do — right here, right now — so what are we waiting for?

Our Lady of Fatima – ora pro nobis!




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「ADHDの父」と呼ばれるレオン・アイゼンバーグ「ADHDは作られた病気の典型的な例である」

2019年12月05日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

参考情報です。
ADHDは作られた病であることを「ADHDの父」が死ぬ前に認める

多動性、不注意、衝動性などの症状を特徴とする発達障害の注意欠陥・多動性障害(ADHD)は治療薬にメチルフェニデートという薬を必要とするとされていますが、「ADHDの父」と呼ばれるレオン・アイゼンバーグ氏は亡くなる7カ月前のインタビューで「ADHDは作られた病気の典型的な例である」とドイツのDer Spiegel誌に対してコメントしました。アイゼンバーグ氏は2009年10月に亡くなっており、インタビューはその前に実施されました。

DER SPIEGEL 6/2012 - Schwermut ohne Scham
http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-83865282.html

当初「幼少期の運動過剰反応」と呼ばれており、後に「ADHD」と名付けられた注意欠陥・多動性障害は1968年から40年以上にわたって他の精神疾患と並んで精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM-IV-TR)に名を連ねています。

障害の定義付けに伴いADHDの治療薬の売上も増加し、1993年に34kgだったものが2011年には1760kgになり、18年間で約50倍に跳ね上がっています。薬の投与が広まった結果、アメリカでは10歳の男の子10人のうち1人がすでにADHDの治療薬を飲んでいます。アイゼンバーグ氏によれば、実際に精神障害の症状を持つ子どもは存在するものの、製薬会社の力と過剰な診断によってADHD患者の数が急増しているとのこと。

「ADHDの父」であるレオン・アイゼンバーグ氏の作り出したADHDは過剰な診断と相まって薬の売上を増加させました。そして結果的に2006年から2009年までの精神障害の診断と統計の手引き(DSM)Vや疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)XIIにも貢献。子どもおよび思春期の精神医学研究に対する賞も受賞し、彼は40年以上もの間、薬理学での試みや研究、教育そして自閉症や社会医学のリーダーでした。

一方で、アメリカの心理学者リサ・コスグローブさんらが調査したところ、DSMの委員会のメンバー170人のうち95人、つまり約56%は製薬会社と金融的な関係があることが発見されました。気分障害と統合失調症およびその他精神異常については100%のメンバーが製薬会社とつながっていたとのこと。精神病の治療としてまず薬が投与されるタイプの病気に関しては、特にこのつながりが強かったそうです。

また、カリフォルニア大学のアーウィン・サヴォドニック教授は「精神医学の用語はまさしく製薬会社によって定義されているのです」と語っており、その一例として、マサチューセッツ総合病院の小児精神薬理学科やハーバード・メディカル・スクールの准教授は2000年から2007年までの間に製薬会社から100万ドル(約1億円)以上を受け取っていたことが発覚しています。

Wikipediaによると、DSM-IVのアレン・フランセス編纂委員長も、DSM-IV発表以降、米国で注意欠陥障害が3倍に増加したことについて、「注意欠陥障害は過小評価されていると小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子どもが注意欠陥障害と診断されたことによるものです」と指摘。「米国では、一般的な個性であって病気と見なすべきではない子どもたちが、やたらに過剰診断され、過剰な薬物治療を受けているのです」と述べています。医者や教育者、心理学者の果たすべき役割は子どもたちを薬漬けにすることではなく製薬市場から自由にすることであり、もう一度「教育とは何か」「心理学とは何か」ということに立ち返る必要がありそうです。




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2020年の英語版の典礼カレンダーができました。

2019年12月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年の英語版の典礼カレンダーができました。
一冊、200円でお分けしております。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父






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トマス・アクィナス『神学大全』第三部 第三十五問 第一項:誕生は自然本性あるいはペルソナのいずれに属するか

2019年12月04日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
待降節に入りました。聖トマス・アクィナスの神学大全による御降誕の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sancti Thomae Aquinatis Summa Theologica IIIa pars トマス・アクィナス『神学大全』第三部 
Quaestio 35 第三十五問題
Prooemium 前書き
IIIª q. 35 pr. Consequenter, post Christi conceptionem, agendum est de eius nativitate.  キリストの懐胎の考察に続いて順序に従って彼の誕生について考察しなければならない。
Et primo, quantum ad ipsam nativitatem; 第一に誕生それ自体に関して(本問題)、
secundo, quantum ad nati manifestationem. 第二に誕生した子供の公現manifestatioに関して(第三十六問題)。
Circa primum quaeruntur octo. 第一に関しては次の八つが探究される。
Primo, utrum nativitas sit naturae, vel personae. Secundo, utrum Christo sit attribuenda alia nativitas praeter aeternam. Tertio, utrum secundum nativitatem temporalem beata virgo sit mater eius. Quarto, utrum debeat dici mater Dei. Quinto, utrum Christus secundum duas filiationes sit filius Dei patris et virginis matris. Sexto, de modo nativitatis. Septimo, de loco. Octavo, de tempore nativitatis. 第一 誕生は自然本性あるいはペルソナのいずれに属することか、第二 キリストに対しては永遠の誕生以外の誕生を帰属させるべきか、第三 時間的な誕生に従って至福なる童貞女は彼の母親であるか、第四 彼女は天主の母と呼ばれるべきか、第五 キリストは二つの子性に従って父なる天主の御子であり童貞女なる母の子であるか、第六 誕生の在り方について、第七 場所について、第八 誕生の時について
Articulus 1 第一項 誕生は自然本性あるいはペルソナのいずれに属することか
IIIª q. 35 a. 1 arg. 1 Ad primum sic proceditur. Videtur quod nativitas naturae conveniat magis quam personae. Dicit enim Augustinus, in libro de fide ad Petrum, natura aeterna atque divina non posset concipi et nasci ex humana natura, nisi secundum veritatem humanae naturae. Sic igitur naturae divinae convenit concipi et nasci ratione humanae naturae. Multo magis igitur convenit humanae naturae. 第一については次のように進められる。誕生はぺルソナによりはむしろ自然本性(natura)に適合するように見える。アウグステティヌスは、ペトロに宛てた信仰に関する本の中で「永遠で天主的な本性は、人間本性の真実に従う以外、人間本性から懐胎され誕生することは出来なかっただろう」と述べている。このように、人間本性のゆえに懐胎され誕生することが天主的本性に適合する。ましてや人間本性にもより多く適合する。
IIIª q. 35 a. 1 arg. 2 Praeterea, secundum philosophum in V Metaphys., nomen naturae a nascendo sumptum est. Sed denominationes fiunt secundum similitudinis convenientiam. Ergo videtur quod nativitas magis pertineat ad naturam quam ad personam. さらに(二)アリストテレスが『形而上学』第四巻で述べているところによると、「『自然本性 natura』という名詞は『生まれる』に由来する」。しかし、名詞での呼び方は類似のふさわしさによる。従って、誕生はペルソナよりは自然本生に属すると思われる。
IIIª q. 35 a. 1 arg. 3 Praeterea, illud proprie nascitur quod per nativitatem incipit esse. Sed per nativitatem Christi non incoepit esse persona Christi, sed eius natura humana. Ergo videtur quod nativitas proprie pertineat ad naturam, non ad personam. さらに(三)厳密な意味で誕生するものとは、誕生によって存在し始めるものである。しかし、キリストの誕生によってキリストのペルソナは存在し始めたのではなく、存在し始めたのは彼の人間本性である。従って、誕生は固有の意味では自然本性に属し、ペルソナにではないと思われる。
IIIª q. 35 a. 1 s. c. Sed contra est quod dicit Damascenus, in III libro, nativitas hypostasis est, non naturae. しかし、反対は、ダマスケヌスは『正統信仰論』三巻において、「誕生はヒュポスタシスのことであり、自然本性のことではない」と言っていることである。
IIIª q. 35 a. 1 co. Respondeo dicendum quod nativitas potest attribui alicui dupliciter, uno modo, sicut subiecto; alio modo, sicut termino. Sicut subiecto quidem attribuitur ei quod nascitur. Hoc autem proprie est hypostasis, non natura. Cum enim nasci sit quoddam generari, sicut generatur aliquid ad hoc quod sit, ita nascitur aliquid ad hoc quod sit. Esse autem proprie rei subsistentis est, nam forma quae non subsistit, dicitur esse solum quia ea aliquid est. Persona autem, vel hypostasis, significatur per modum subsistentis, natura autem significatur per modum formae in qua aliquid subsistit. Et ideo nativitas, tanquam subiecto proprie nascendi, attribuitur personae vel hypostasi, non naturae. Sed sicut termino, attribuitur nativitas naturae. Terminus enim generationis, et cuiuslibet nativitatis, est forma. Natura autem per modum formae significatur. Unde nativitas dicitur via in naturam, ut patet per philosophum, II Physic., terminatur enim naturae intentio ad formam, seu naturam speciei. 答えてこう言うべきである。誕生は或る者に二つの仕方で帰属されうる。つまり一方は基体subiectumに対するものとして、他方は終極terminusに対するものとしてである。基体に対するものとして誕生が帰属されるのは、生まれる者である。これは固有の意味でヒュポスタシスであり自然本性ではない。何故なら、生まれるとは何らかの生成なので、或るものが存在するために生成されるように、或るものは存在するために生まれるからである。ところで、存在するesseとは、固有の意味で、自存する現実res subsistensに属する。何故なら、[たとえ]自存しない形相[であってもそれ]があると言われるのは、それによって”何かがある”という理由だけによるからだ[=自存する何かが無ければ、自存しない形相はあるとは言われない]。ところで、ペルソナ或いはヒュポスタシスは、自存するという仕方で意味されるが、自然本性は、それにおいて何かが自存する形相の仕方で意味される。従って、誕生は、固有の意味で生まれるものの基体に対する限り、ペルソナあるいはヒュポスタシスに帰属され、自然本性に対してではない。しかし、終極に対してという意味では、誕生は自然本性に帰属させられる。何故なら、生成の、またどのような誕生であれその終極は形相だからである。ところで、自然本性は、形相の仕方で意味される。ここから、アリストテレス『自然学』第二巻を通してあきらかなように、誕生は自然本性への道と言われる。実に自然の意図は、種の形相または本性で終極に至るからだ。
IIIª q. 35 a. 1 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod, propter identitatem quae in divinis est inter naturam et hypostasim, quandoque natura ponitur pro persona vel hypostasi. Et secundum hoc dicit Augustinus naturam divinam esse conceptam et natam, quia scilicet persona filii est concepta et nata secundum humanam naturam. (一)については、それゆえ、こう言うべきである。天主のことにおいては本性とヒュポスタシスの間に同一性があるゆえに、時として本性が、ペルソナあるいはヒュポスタシスの代りに言及される。そして、このことにもとづいてアウグスティヌスは、天主の本性が懐妊され生まれた、と言うが、何故なら、つまり御子のぺルソナが人間本性に従って懐妊され、誕生したからである。
IIIª q. 35 a. 1 ad 2 Ad secundum dicendum quod nullus motus seu mutatio denominatur a subiecto quod movetur, sed a termino motus, a quo speciem habet. Et propter hoc nativitas non denominatur a persona quae nascitur, sed a natura ad quam nativitas terminatur. (二)についてはこう言うべきである。いかなる運動あるいは変化も動く基体によって名前を付けられない。そうではなく、運動の終極から、つまりそこから種を得る終極から名が取られる。そして、このことのゆえに誕生は生まれてくるぺルソナからして名付けられるのではなく、それへと向って誕生が終極してゆく自然本性からして名付けられるのである。
IIIª q. 35 a. 1 ad 3 Ad tertium dicendum quod natura, proprie loquendo, non incipit esse sed magis persona incipit esse in aliqua natura. Quia, sicut dictum est, natura significatur ut quo aliquid est, persona vero significatur ut quae habet esse subsistens. (三)についてはこう言うべきである。固有の意味で言うと、自然本性が存在し始めるのではなく、むしろペルソナが或る自然本性において存在し始める。なぜなら、前述のように(本項主文)、自然本性とは、それによって何かが存在するそれを意味し、ペルソナは自存する存在esse subsistensを持つものを意味するからである。

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2019年12月4日は12月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」

2019年12月04日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年12月4日は、12月の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

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第二バチカン公会議のヒューマニズムの主観主義:信仰の対象と啓示された真理についての半分だけの真理(half truth)

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヒューマニズム(人間中心主義)について考察を続けましょう。

ヒューマニズムは、自由の御旗を打ち立てて自由を要求しました。最初に求めたものは、思想の自由です。自分の意見に責任を持ちたい、と主張しました。

そこで、最初に、神学者たちの権威を無視して、それから自由になろうとしました。

神学者たちは、信徒たちに教会の教導権の教えを伝える聖職者らです。彼らは、司教ら高位聖職者から成る教導教会(Ecclesia docens)の監督の下で、聴従教会(Ecclesia discens)に信仰箇条を説明する役割を担っています。

神学者たちは、いわば、司教と信徒たちの中間に立つ、信徒たちの教師です。彼らは、自分の才能と優秀な頭脳とを使って、祈りと研究とに一生を費やし、聖書と聖伝を研究します。聖書を読み、教父たちの書いた書籍を読み、特にギリシアの知恵の教養を持ち、教えを信仰と理性との光で解説します。

ところが、自由の御旗のもとに、ルネッサンスの人文主義者(ヒューマニスト)たちは、自分でギリシア語原文を読み、自分の意見を自由に考えだし、先生の指導はいらない、と主張し始めました。教師の指導の代わりに、独学用の本だけで良い、と。ルネッサンスには、ギリシア語やアラビア語から多くの本が翻訳されました。反聖職者主義がこれに一役買いました。

ところで、スコラ神学の専門家は、既にこれらの原文を知っており、或いは原典で読んでおり、神学者の主張と別のことを主張したり、独特な特異な見解を述べるためには、思想の自由だけでは不足でした。

そこで、スコラ神学の思索の厳密さを攻撃するためには、別の武器が必要となりました。その新しい材料が主観主義で、オッカムのウイリアムの唯名論によって始まりました。

イヌはイヌを産み、ネコはネコを産む。イヌはオオカミを産まないし、ネコはライオンを産まない。種は交わらない。たとえ目に見えずとも、イヌをイヌとさせるものが現実に客観的に実在する。これに対して、オッカムは「イヌ」とは単なる人間の頭の中にある名前にすぎない、と主張しました。

主観主義は、自分の頭の中しか知ることができない、自分の頭の外のことは知り得ない、とする主張です。

「危ないぞ!自動車が来るぞ!右によけろ!」と言われても、夏の夜に山をウロウロするとヤブ蚊に刺されて大変な目に遭っても、コーヒーの中に、白いから砂糖だろうと塩を入れてまずくなったコーヒーを飲んでも、現実の世界を知り得ないと主張します。

主観主義は、デカルトの方法的懐疑論、カントの観念論を経て、主観は客観であるとする狂気のようなヘーゲルの観念論にたどり着きます。狂人の特徴は、現実世界と自分の頭の中の世界との区別が出来なくなることにありますが、ヘーゲルはそれと同じこと(意識こそ現実)を主張します。主観主義は、ついに人間理性を狂わせてしまいます。

主観主義の危険については、例えば、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、またピオ十二世が回勅「フマニ・ジェネリス」でその誤りを指摘しています。

「近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学、[カトリック信仰の]信憑性の根拠、外的啓示といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。」聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」

「一部の人は、"神学において、教義の意味を最小限に縮め、そして教義自体を教会において長きにわたって定着してきた用語、ならびにカトリックの教師たちによって保持されてきた哲学的概念から解き放つ"ことを欲しています。これは"カトリックの教理の説明にあたって、聖書や教父の著作で用いられている言葉遣いに戻る"ことをよしとするからです。彼らの望みは、"天主の啓示に非本質的と彼らが考える要素が、教義から取り除かれれば、教会の一致から離れている人々の教義的信念とよりよく対応するものとなるだろう"ということです。このようにして、彼らは"カトリックの教義とカトリック教会と一致していない者たちの信条とを徐々に、互いに近付け、同化する"ことを目しているのです。
さらに、彼らはカトリックの教理がこのような条件の下に置かれたならば、現代的必要を満たす方法が見つかると主張しています。つまり、このようにして、"教義が内在主義であれ、観念主義であれ、実存主義、あるいはその他どのような体系のものであれ、現代哲学の概念によって表すことができるようになる"と言うのです。
そして、さらに大胆な者たちは、このことが成し得るばかりではなく、成さねばならないと断定します。なぜなら彼らの主張によると、"信仰の諸々の神秘は決して真に十全な概念によって表現されることができず、ただ近似的かつ常に可変的な観念によってのみ表され得るのであり、その場合、真理はある程度まで表現されるものの、必然的に歪められてしまう"からで、したがって、"神学が新しい概念を古い概念に取って代えてしまうことを浅はかであるどころか必要なこと"と彼らは見なすのです。
以上述べてきたことによって、このような試みは、教義相対主義と呼ばれるものへと導くだけでなく、実際にそれをすでに含んでいるということは明らかです。共通に教えられている教義および、それらを表現する用語に対する軽視は、この思潮を大いに助長します。」回勅「フマニ・ジェネリス」

第二バチカン公会議の新しいヒューマニズムは、人間理性を狂わせないために、主観主義の度合いを低くします。かといって、第二バチカン公会議は主観主義を全く止めたわけではありません。何故なら、思想の自由を保つためにある程度の主観主義が必要だからです。

では、どのように排斥された主観主義を、教えの中に埋め込むのでしょうか?半分だけの真理を使います。

半分真理である「人間の言葉であるドグマの用語が完全に表現しきれないこと」を使います。

これによると、啓示とは、神秘的天主が御自身を隠さずに示すことで、信仰とはこの天主の神秘を受けることである、とします。これはさらに議論を進めて、この信仰の体験は、概念的な用語で表現される傾向があり、教会の位階秩序の承認を通して、この言い回しがドグマとなる、と主張します。さらには、このドグマの用語や言い回しは、信仰に関する共同体的な体験の表現であるけれども、しかし信仰の対象それ自体を完全に表現しきることは出来ない、信仰とは天主を信じることであって、天主に関する概念的な言い方を信じることではない、と主張します。

確かに、信仰の対象とは、天主の神秘・神秘的な天主です。しかし、これは、信仰の半分にすぎません。

何故なら、聖トマス・アクィナスは「信仰の対象は、二つのやり方で考えられる」と教えているからです。

「一つのやり方では、信じられる事柄それ自体に関して、信仰の対象は非複合的な何か(aliquid incomplexum)である。すなわち、それについて信仰される現実それ自体である。
別のやり方では、信じる人に関して、これに従っては、信仰の対象は命題のやり方を通して何らかの複合的なものである。」(第二部の二、第一問第二項)

Sic igitur obiectum fidei dupliciter considerari potest. Uno modo, ex parte ipsius rei creditae, et sic obiectum fidei est aliquid incomplexum, scilicet res ipsa de qua fides habetur. Alio modo, ex parte credentis, et secundum hoc obiectum fidei est aliquid complexum per modum enuntiabilis.

つまり、信じられるそのこと自体、私たちが信じているその神秘的な現実、つまり、天主の神秘、が「信仰の対象」と言われます。

さらに、信仰の対象とは、信仰している人にとって、或る命題であって、キリスト教の教えでありドグマです。

ですから、信仰の対象という啓示された真理には、二つの側面があります。天主の現実(私たちが同意しようが信じようが、私たちとは全く独立して存在している神秘的な真理の現実)と、使徒信経の箇条に要約された教え(私たちの把握している真理)です。

もちろん、信仰の教義・教えは、天主を完全に私たちに知らせることはできません。天主の無限の現実は、限られた人間の概念では完全に把握することが出来ないからです。しかし、人間の言葉で語られた信仰の教義は、私たちが天主のことを知り、天主を愛し、霊魂を救うようにさせるのに十分です。

啓示された教え、私たちが耳から聞いた信仰の教え(fides ex auditu)は、天主の神秘を全て完全に把握させるように対応するものではなかったとしても、私たち人間が知り、私たちが救いのために必要とする知識を得させるためには、私たちにとても相応しいやり方です。

第二バチカン公会議後の神学は、信仰の対象と啓示された真理を、第一のやり方(信じられた神秘そのもの)だけで理解し、天主は教えを啓示せずに御自身を啓示したのだ、と主張し、第二の信仰の対象(信仰の教え・言葉で表現された教義)を否定しようとします。

こうすることによって、啓示された真理と聖伝は変わらない(何故なら神秘である天主そのものが啓示され伝えられたので、これは不変だから)、しかし、この神秘を表現する概念的な言葉による用語や言い回しは、いつどこで誰がどう言うかにしたがって、歴史的な文脈や文化的な環境によって、主観的にいつも同じであるとは限らない、と主観主義を隠し入れます。

(続く)

野村よし著「マネジメントから見た司教団の誤り」という本を読んで:マネジメントの問題なのだろうか?
日本だけの問題か?韓国でもそうだ。一体何故?
人間中心主義とは? 権威の拒否の運動
国家とカトリック教会との分離の始まりと、人間中心主義による民主主義の問題点
ヒューマニズムは、何故、自由が人間の最高の価値だと考えるリベラリズムへとたどり着いたか?
人間の尊厳の理由は?:聖寵によって天主の本性に参与するまで高められたこと vs 人間の自由と自律

これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その2) の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その2)」の原文を対訳でご紹介します。

86. De quibusdam opportunis normis. 86(若干の有益な基準)
Pro hac cooperatione sequentes normae opportunae videntur:  この協力のために、次の基準が有益であると思われる。
    a) Gentes progredientes valde cordi habeant ut tamquam finem progressus expresse et firmiter plenam perfectionem humanam suorum civium appetant. Meminerint ex labore ante omnia et ingenio ipsarum gentium oriri et crescere progressum quippe qui non solis opibus alienis, sed propriis plene explicandis necnon ingenio et traditione propria colendis imprimis inniti debeat. Qua in re illi excellant oportet, qui maiorem influxum in alios exercent.  a)開発途上にある諸国は、開発の目標を国民の人間としての完成に置き、これを熱心に求めなければならない。開発はなによりもまず国民自身の努力と才能によって始まり、また実現してゆくことを記憶すべきである。開発は外国からの援助だけでなく、まず自国の資源の十分な活用と、自国の長所と伝統の育成に依存しているからである。他人に大きな影響を与える人々は、この事に関して、模範を示さなければならない。
    b) Gentium autem progressarum officium gravissimum est progredientes populos ad supradicta munera implenda adiuvandi. Quapropter mentales et materiales accommodationes, quae ad hanc universalem cooperationem stabiliendam requiruntur, apud seipsas perficiant.  b)開発途上にある諸国が上述の任務を遂行するよう援助することは、先進国の重大な義務である。したがって先進国は、この世界的協力を樹立するために要求される精神的、物質的調整を自国内で行わなければならない。
    Ita in negotiatione cum debilioribus et pauperioribus nationibus bonum illarum sedulo respiciant; nam hae proventibus quos ex venditione rerum a se productarum accipiunt, ad propriam suam sustentationem indigent.  同様に、弱い恵まれない国々との貿易に際しては、これらの国の利益を慎重に考慮すべきである。これらの国は自国の生存のために、国産品の売却による収入を必要とするからである。
    c) Communitatis vero internationalis est incrementum componere et stimulare, ita tamen ut de opibus ad hoc ordinatis quam efficacissime et plena cum aequitate disponatur. Ad hanc quoque communitatem pertinet, principio subsidiarietatis utique servato, rationes oeconomicas in toto mundo ordinare ut ad normam iustitiae explicentur.  c)経済発展を調整し促進することは国際共同体の務めである。したがって、この目的のために指定された資源が最も有効、平等に分配されるようにしなければならない。相互補足の原理を尊重したうえで、全世界における経済的関係が正義の規範に基づいて展開されるよう、それを規制するのも国際共同体の務めである。
    Condantur instituta apta ad promovenda et ordinanda negotia internationalia, praesertim cum nationibus minus progressis et ad compensandos defectus qui ex nimia inaequalitate potentiae inter nationes manant. Huiusmodi ordinatio, cum adiumentis technicis, culturalibus et nummariis coniuncta, nationibus ad progressum intendentibus subsidia necessaria praestare debet ut incrementa oeconomiae suae convenienter consequi valeant.  国際貿易、特に低開発国との貿易を促進し規制するため、また国家間の力の大きな不均衡から生ずる欠陥を補償するための適当な機関を設立するべきである。技術的、文化的、財政的援助を伴うこのような規制によって、開発を目ざす国々がそれぞれにふさわしい経済成長を遂げることができるように、必要な補助を提供しなければならない。
    d) In multis casibus urget necessitas recognoscendi oeconomicas socialesque structuras; sed cavendum est a solutionibus technicis immature propositis, imprimis ab illis quae, dum homini commoda materialia praebent, eius spirituali indoli ac profectui adversantur. Nam "non in solo pane vivit homo, sed in omni verbo quod procedit de ore Dei" (Mt 4,4). Quaelibet autem humanae familiae pars in seipsa et in suis melioribus traditionibus aliquam partem thesauri spiritualis a Deo humanitati concrediti secumfert, etsi multi nesciunt ex qua origine procedat.  d)多くの場合、早急に経済的、社会的構造を改革する必要がある。しかし未熟な技術的解決案、特に物質的利益をもたらしても人間の精神性と精神的向上に反するような解決策を避けなければならない。「人間はパンだけで生きているのではなく、神の口から出るすべてのことばで生きている」(マタイ 4:4)からである。人類家族を形成するそれぞれの民族は、多くの人はその起源を知らないが、自分の中に、またそのすぐれた伝統のうちに、神から人類に託された精神的富の一部分を保有している。
87. De cooperatione internationali quoad incrementum incolarum. 87(人口増加についての国際的協力)
Maxime necessaria evadit cooperatio internationalis relate ad illos populos qui hodie sat frequenter, praeter tot alias difficultates, ea peculiariter premuntur quae ex rapido incremento populationis oritur. Urget necessitas ut per plenam et impensam cooperationem omnium, praesertim ditiorum nationum, exploretur quomodo ea quae ad victum et ad congruam instructionem hominum necessaria sunt, parari et cum tota communitate humana communicari possint. Nonnulli vero populi suae vitae condiciones multo meliores reddere possent si, debita instructione exculti, a methodis antiquis pro bonis agrariis gignendis ad novas artes technicas transirent, eas cum necessaria prudentia suis condicionibus applicantes, ordine sociali meliori insuper instaurato et terrarum possessionis distributione aequius ordinata.  今日、他の多くの困難に加えて、特に急激な人口増加から生ずる困難に悩んでいる国々に対する国際的協力が最も必要ある。諸国、特に富める国々が充実した惜しみない協力によって、生活必需品と適切な人間教育に必要なものを全人間共同体のために準備し分配する方法を、緊急に探し出さなければならない。ある国々の国民は、正しい訓練を施し、古い農耕の方法を改めて新しい技術を採用し、それを必要な慎重さをもって、現地の状況に適応させ、社会秩序を改善して私有地のより公正な分配を規制するならば、大いに生活条件を改善することができるであろう。
Gubernii quidem sunt iura et officia, problema populationis in sua natione quod attinet, intra propriae competentiae limites; ut puta in ordine ad legislationem socialem et ad familias respicientem, ad transitum ruricolarum ad urbes, ad informationes circa statum et necessitates nationis. Cum hodie mentes hominum de hoc problemate tam vehementer agitentur, optandum quoque est ut de his omnibus periti catholici, praesertim in Universitatibus, studia et incepta sollerter prosequantur et latius evolvant.  政府は自国内の人口問題に関して、その固有の権限の範囲において、たとえば社会と家族に関する立法、農村人口の都市への移動、国の状態と必要に関する情報などについて、権利と義務を持っている。今日、この問題について人々の心は激しく動揺している。そのため、カトリックの専門家が、特に大学において、これらすべてについて熱心に研究と計画を続け、また発展させることが望まれる。
Cum autem a multis affirmetur incolarum orbis incrementum, vel saltem quarumdam nationum, omnibus mediis et cuiusvis generis interventu auctoritatis publicae funditus omnino minuendum esse, Concilium omnes hortatur ut caveant a solutionibus publice vel privatim promotis et quandoque impositis, quae legi morali contradicunt. Nam iuxta inalienabile hominis ius ad matrimonium et generationem prolis, deliberatio circa numerum prolis gignendae a recto iudicio parentum pendet ac nullo modo auctoritatis publicae iudicio committi potest. Cum autem parentum iudicium conscientiam recte formatam supponat, magni momenti est ut omnibus aditus praebeatur ad colendam rectam et vere humanam responsabilitatem quae legem divinam, attentis adiunctis rerum et temporum, respiciat; hoc vero exigit ut passim condiciones paedagogicae et sociales in melius mutentur et imprimis ut formatio religiosa vel saltem integra moralis institutio praebeatur. De progressibus porro scientificis in explorandis methodis quibus coniuges iuvari possint in ordinando numero prolis, quarum firmitas bene probata est et congruentia cum ordine morali comperta habetur, homines sapienter certiores fiant.  世界の人口増か、少なくともある国々の人口増加を、すべての手段と公権のあらゆる種類の介入とによって根本的に減少させなければならない、と主張する人々が多い。道徳法に反する解決策は、たとえそれが公的または私的に奨励され、ときには命令されていてもこれを避けるよう、公会議は、すべての人に勧告する。人間は結婚と子供を産むことについての譲ることのできない権利を持っており、それによって、子供を何人産むかに関する決定は、両親の正当な判断に依存するものであり、けっして公権の判断にゆだねることはできないからである。しかし、両親の判断は正しく形成された良心を前提とする。そのため時代と事情を考慮しながらも神の法を尊重する真に人間的な正しい責任感を養成する機会をすべての人に提供することが重要である。そのためには、各地において教育事情と社会条件が改善され、特に宗教教育または少なくとも十分な道徳的訓練が行われることが必要であろう。産児数の調節に関して配偶者たちを助けることができる方法、確実性が証明され、倫理秩序にかなうことが明白である学問的研究の進歩を、慎重に人々に知らせるべきである。
88. De munere christianorum in subsidiis praestandis. 88(援助提供に関するキリスト者の任務)
Ad ordinem internationalem cum vera observantia legitimarum libertatum et amica fraternitate omnium aedificandum, christiani libenter et toto corde cooperentur, idque eo magis quod maior pars mundi tanta adhuc egestate laborat ut in pauperibus Christus Ipse quasi alta voce caritatem suorum discipulorum evocet. Ne igitur scandalo sit hominibus aliquas nationes, quarum saepius maior numerus civium christiano nomine ornatur, bonorum copia abundare, dum aliae rebus ad vitam necessariis priventur ac fame, morbis omnimodaque miseria cruciantur. Sunt enim spiritus paupertatis et caritatis gloria et testimonium Ecclesiae Christi.  正当な自由の尊重とすべての人の兄弟愛をもって国際秩序を建設するために、キリスト者は喜んで心から協力すべきである。世界の大部分が、今もなお過度の貧困に悩んでおり、あたかもキリスト自身が貧しい人々の中にあって大声でその弟子たちの愛に訴えているかのようである現在、キリスト者の協力はなおさら必要である。国民の大部分がキリスト信者である国々が豊富な富みに満ち足りているのに反して、生活必需品にさえこと欠き、飢えと病気とあらゆる悲惨に悩まされている他の国々があるという醜聞を取り除かなければならない。事実、清貧と愛の精神はキリストの教会の光栄であり、あかしである。
Laudandi igitur et adiuvandi sunt illi christiani, iuvenes praesertim, qui sponte seipsos ad aliis hominibus et populis auxilia praestanda offerunt. Immo totius Populi Dei est, Episcopis verbo et exemplo praeeuntibus, miserias huius temporis pro viribus sublevare, idque, ut antiquus mos ferebat Ecclesiae, non ex superfluis tantum, sed etiam ex substantia.  したがって、他の人々や他国民を援助するために献身するキリスト者、特に青年を賞賛すべきであり、かれらを助けるべきである。むしろ現代の悲惨を取り除くために、できる限り力を尽くすことは司教のことばと模範によって導かれる神の民全体の務めである。しかも教会の古い慣習に従って、余り物だけでなく自分に必要な物さえも提供すべきである。
Modus subsidia colligendi et distribuendi, quin sit rigide et uniformiter ordinatus, recto tamen ordine disponatur in dioecesibus, nationibus et in universo mundo, coniuncta, ubicumque opportunum videtur, actione catholicorum cum ceteris fratribus christianis. Spiritus enim caritatis providum ordinatumque actionis socialis et caritativae exercitium nedum prohibeat, potius id imponit. Quare necesse est eos qui se ad nationibus progredientibus inserviendum devovere intendunt, idoneis etiam institutis apte efformari.  援助の募集と配分には厳格で画一的な方法をとらず、しかも、司教区内、国内、全世界において秩序正しく行われるべきである。このことに関してカトリック者は、適当と思われる所では、どこでも、兄弟である他のキリスト者と共に行動するがよい。愛の精神は慎重で秩序正しい社会活動や愛の活動の実践を禁ずるものではなく、かえって命ずるものだからである。したがって、開発途上にある国々の奉仕に献身しようと志す者は、適当な施設において適切な訓練を受ける必要がある。
89. De praesentia efficaci Ecclesiae in communitate internationali. 89(国際共同体における教会の有効な存在)
Ecclesia, cum, divina sua missione innixa, omnibus hominibus Evangelium praedicat et thesauros gratiae elargitur, ubique terrarum ad pacem firmandam et solidum fundamentum ponendum consortionis fraternae hominum et populorum confert: cognitionem scilicet legis divinae et naturalis. Quapropter Ecclesia in ipsa communitate gentium omnino praesens esse debet ad cooperationem inter homines fovendam et excitandam; et quidem tam per suas institutiones publicas quam per plenam ac sinceram collaborationem omnium christianorum, solo desiderio omnibus inserviendi inspiratam.  教会は、神から受けた自分の使命に基づいて、すべての人に福音を説き、恩恵の富を分けるとき、世界中どこにおいても、平和の確立と人々および諸国家間に兄弟的連帯の堅固な基礎を置くこと、神法と自然法の知識を広めることに貢献する。したがって、教会は人々の間に協力を奨励推進するために、どうしても諸国共同体のまっただ中に現存する必要がある。教会のこの現存は、教会の公的機関と、すべての人に奉仕することのみを志すすべてのキリスト者の誠実で惜しみない協力とを通して実現する。
Quod efficacius attingetur si ipsi fideles, suae responsabilitatis humanae et christianae conscii, iam in proprio ambitu vitae voluntatem prompte cooperandi cum communitate internationali excitare satagunt. Cura peculiaris hac in re iuvenibus formandis impendatur, tam in educatione religiosa quam civili.  このことは、人間として、またキリスト者としての責任を自覚した信者自身が、自分の生活環境において国際的共同体とすすんで協力する意欲にもえ立つならば、いっそう効果的に実現するであろう。そのためには、宗教教育においても公民教育においても、青年の養成に特別な関心を払うべきである。
90. De partibus christianorum in institutionibus internationalibus. 90(国際機関におけるキリスト者の役割)
Praecellens quaedam forma navitatis internationalis christianorum absque dubio socia opera est quam, sive singuli sive consociati, in ipsis Institutis ad cooperationem inter nationes provehendam conditis vel condendis praestant. Communitati gentium in pace et fraternitate aedificandae insuper multipliciter inservire possunt variae consociationes catholicae internationales, quae roborandae sunt, auctis numero cooperatorum bene formatorum, subsidiis quibus indigent et apta virium coordinatione. Nostris enim temporibus et actionum efficacitas et colloquii necessitas consociata incepta postulant. Tales consociationes insuper haud parum conferunt ad universalem sensum excolendum, catholicis certe congruum, et ad formandam conscientiam vere universalis solidarietatis et responsabilitatis.  諸国家間の協力を促進するために設立された、または設立されるであろう機関に、個人として、または団体として、協力することがキリスト者の国際的活動のすぐれた形態であることは疑いない。なお種々のカトリック国際団体は、平和と兄弟愛に基づく世界共同体の建設のために多くの点で役だつことができる。したがって、よく訓練された協力者の数と、必要な補助を増し、活動力を適切に調整することによって、それらを強化すべきである。現代においては、効果的な活動と対話の必要は合同企画を要求しているからである。そのうえ、このような団体はカトリック者に適する世界的感覚を養成するため、また真に世界的な連帯性と責任感の自覚を形成するために大きく役だつ。
Optandum denique est ut catholici, ad munus suum in communitate internationali rite implendum, actuose et positive cooperare studeant sive cum fratribus seiunctis qui una cum eis evangelicam caritatem profitentur, sive cum omnibus hominibus veram pacem sitientibus.  なおカトリック者がその任務を国際共同体において正しく果たすために、福音的愛を公言する分かれた兄弟たちと、また真の平和をも富めるすべての人と、活発に積極的に協力することが望まれる。
Concilium vero, ratione habita immensitatis aerumnarum quibus maior pars generis humani etiam nunc vexatur, et ad iustitiam simul ac amorem Christi erga pauperes ubique fovendum, valde opportunum aestimat creationem alicuius Ecclesiae universalis organismi, cuius sit catholicorum communitatem excitare ut progressus indigentium regionum necnon iustitia socialis inter nationes promoveantur.  公会議は、人類の大部分を今もなお苦しんでいる多くの社会悪を考え、また貧しい人々に対してキリストの正義と愛をいたるところで奨励するために、全教会の一つの機関を設立することが最も時宜を得たことであると考える。この機関の任務は貧しい地域の開発と諸国家の間における社会正義を推進するようカトリック共同体を奨励することである。
Conclusio 結語
91. De munere singulorum fidelium et Ecclesiarum particularium. 91(個々の信者ならびに部分教会の務め)
Ea quae ab hac Sacra Synodo ex thesauris doctrinae Ecclesiae proponuntur, omnes homines nostrorum temporum, sive in Deum credant sive Eum non explicite agnoscant, adiuvare intendunt ut, suam integram vocationem clarius percipientes, mundum praecellenti dignitati hominis magis conforment, universalem altiusque fundatam fraternitatem appetant atque, sub impulsu amoris, generoso atque consociato conamine, urgentibus nostrae aetatis postulationibus respondeant.  この聖なる教会会議が教会の教説の宝庫から引き出して述べたことは、次のことを目的としている。すなわち、神を信ずる人も神を明白に認めない人も含めたすべての現代人が、その召命全体をますます明らかに理解し、世界を人間の高貴な尊厳にいっそうふさわしいものとし、より深い基準を持つ世界的兄弟愛を求め、愛にかられた寛大な共同の努力によって現代の緊急な養成に答えるものとなるよう、かれらを助けることを目的としている。
Sane coram immensa diversitate tum rerum status tum culturae humanae formarum in mundo, propositio haec in compluribus suis partibus consulto nonnisi indolem generalem prae se fert: immo, licet doctrinam iam in Ecclesia receptam proferat, cum non raro de rebus incessanti evolutioni subiectis agatur, adhuc prosequenda et amplianda erit. Confidimus vero multa quae verbo Dei et spiritu Evangelii innixi protulimus, omnibus validum adiutorium conferre posse, praesertim postquam adaptatio ad singulas gentes et mentalitates a christifidelibus sub Pastorum moderamine ad actum deducta fuerit.  確かに、世界における諸事情と文化形態は多種多様であるため、公会議が述べたことは多くの点において意識的に一般的なものとならざるを得ない。そのうえ、教会の中ですでに受け入れられた教説を述べたが、絶えず発展していく課題を取り扱っている場合も少なくないため今後もいっそう追求し発展させていかなければならない。しかし、われわれが神のことばと福音の精神に基づいて述べた多くの事が実現された時、特に司牧者の指導のもとにキリスト信者によって、それぞれの国や考え方に対する適応がなされた時には、すべての人に有効な援助を提供できる、とわれわれは期待する。
92. De dialogo inter omnes homines. 92(すべての人との対話)
Ecclesia, vi suae missionis universum orbem nuntio evangelico illuminandi et omnes homines cuiusvis nationis, stirpis vel culturae in unum Spiritum coadunandi, signum evadit illius fraternitatis quae sincerum dialogum permittit atque roborat.  教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。
Quod autem requirit ut imprimis in ipsa Ecclesia mutuam aestimationem, reverentiam et concordiam promoveamus, omni legitima diversitate agnita, ad fructuosius semper colloquium inter omnes instituendum qui unum Populum Dei constituunt, sive pastores sive ceteri christifideles sint. Fortiora enim sunt ea quibus uniuntur fideles quam ea quibus dividuntur: sit in necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas (170).  このためには、まず教会自身の中に、相互の尊重、尊敬、協調を盛んにし、すべての正当な相違を承認したうえで、一つの神の民を作っている司牧者もその他のキリスト信者も含めたすべての人の間に、常に実り豊かな話し合いを育てることが要求される。信者たちを分離する要素よりは一致させる要素の方が強いからである。すなわち、必要な事がらにおいては一致、疑わしいときには自由、すべてにおいて愛を重んじるべきである。
Animus autem noster simul complectitur fratres nondum nobiscum in plena communione viventes eorumque communitates, quibus tamen coniungimur confessione Patris et Filii et Spiritus Sancti ac vinculo caritatis, memores scilicet christianorum unitatem hodie etiam a multis in Christum non credentibus exspectari et desiderari. Quo magis enim haec unitas, sub potenti virtute Spiritus Sancti, in veritate et caritate proficiet, eo magis universo mundo erit praesagium unitatis et pacis. Quare, unitis viribus et in formis huic praeclaro fini hodie efficaciter assequendo magis magisque aptatis, studeamus ut, Evangelio in dies melius conformati, fraterne cooperemur ad servitium familiae humanae praestandum quae, in Christo Iesu, in familiam filiorum Dei vocatur.  われわれの心は、まだわれわれと完全な交わりの中に生きていないが、父と子と聖霊に対する信仰宣言と愛のきずなによって結ばれている兄弟たちとその共同体を抱擁する。今日、多くのキリストを信じない人々からもキリスト者の一致が期待され要望されていることを知っている。事実、この一致が聖霊の力強い働きのもとに、真理と愛のうちに進められれば、それだけ全世界にとって一致と平和の前兆は大きくなる。したがって、われわれは力を合わせて、このすぐれ目的を今日効果的に実現するためにますます適した形式によって、日増しに福音に従う者となるよう励み、こうして、キリスト・イエスにおいて神の子らの家族となるよう召されている人間家族への奉仕のために兄弟的に協力するよう務めよう。
Animum nostrum proin etiam ad omnes convertimus qui Deum agnoscunt et in traditionibus suis pretiosa elementa religiosa et humana conservant, optantes ut apertum colloquium omnes nos adigat ad impulsiones Spiritus fideliter accipiendas et alacriter implendas.  次に、われわれの心は、神を認め、固有の伝統の中に高貴な宗教的、人間的要素を保っているすべての人に向かう。われわれすべてが、霊の勧めを忠実に受け入れて力強くそれに従う者となるために率直な話し合いが期待される。
Desiderium talis colloquii, quod sola caritate erga veritatem ducatur, servata utique congrua prudentia, ex nostra parte neminem excludit, neque illos qui praeclara animi humani bona colunt, eorum vero Auctorem nondum agnoscunt, neque illos qui Ecclesiae opponuntur eamque variis modis persequuntur. Cum Deus Pater principium omnium exsistat et finis, omnes, ut fratres simus, vocamur. Et ideo, hac eadem humana et divina vocatione vocati, sine violentia, sine dolo ad aedificandum mundum in vera pace cooperari possumus et debemus.  このような話し合いの望みは、真理に対する愛のみに導かれ、適当な慎重さを必要とするが、われわれの側からは何びとをも除外しない。また、人間の高い精神的諸価値を尊重しながら、それらの創造主を認めない人や、教会に反対する人、種々の方法で教会を迫害する人をも除外しない。父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞梨に、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない。
93. De mundo aedificando et ad finem perducendo. 93(世界の建設と目的への前進)
Christiani, memores verbi Domini "in hoc cognoscent omnes quia discipuli mei estis, si dilectionem habueritis ad invicem" (Io 13,35), nihil ardentius optare possunt quam ut hominibus mundi huius temporis semper generosius et efficacius inserviant. Itaque, Evangelio fideliter adhaerentes eiusque viribus fruentes, cum omnibus qui iustitiam diligunt et colunt coniuncti, ingens opus in his terris adimplendum susceperunt, de quo Ei, qui omnes iudicabit ultimo die, rationem reddere debent. Non omnes qui dicunt: "Domine, Domine", intrabunt in regnum caelorum, sed ii qui faciunt voluntatem Patris (171) validamque manum operi apponunt. Vult autem Pater ut in omnibus hominibus Christum fratrem agnoscamus et efficaciter diligamus, tam verbo quam opere, ita testimonium perhibentes Veritati, et cum aliis mysterium amoris Patris caelestis communicemus. Hac via in toto orbe terrarum homines ad vivam spem excitabuntur, quae Spiritus Sancti donum est, ut tandem aliquando in pace ac beatitudine summa suscipiantur, in patria quae gloria Domini effulget.  「あなたがたが互いに愛するならば、このことによって、すべての人はあなたがたがわたしの弟子であると知るであろう」(ヨハネ 13:35)という主のことばを知るキリスト者は、いっそう寛大に、より有効に現代世界の人々に奉仕することを熱心に望まずにはいられない。したがって、キリスト者は、福音に忠実に従い、その力にあずかり、正義を愛し実践するすべての人とともに結ばれて、偉大な任務をこの地上において果たすことを引き受けたのである。最後の日にすべての人をさばく神に、この任務について報告しなければならないのである。「主よ、主よ」という人すべてが天の国にはいるわけではない。父の望みを実行し、実際に力強く働く人が天の国にはいるのである。われわれがすべての人の中に兄弟キリストを認めて、ことばと行ないによって実際に愛し、こうして真理に証明を与え、天の父の愛の秘義を他の人々と分け合うように働くことを父は望んでいる。このようにして、全世界の人々は、聖霊のたまものであり、最後には主の栄光に輝く祖国において、平和と最高の幸福の中に受け入れられるという、いきいきとした希望へと励まされる。
Ei autem qui potens est omnia facere superabundanter quam petimus aut intelligimus, secundum virtutem quae operatur in nobis, Ipsi gloria in Ecclesia et in Christo Iesu, in omnes generationes saeculorum. Amen (Eph 3, 20-21).  「われらが望み考えること以上に、われらのうちに働く力によってすべてを行うことのできる神に、教会とキリスト・イエスにおいて、あらゆる世紀と世代を通して、栄光あれ アーメン」(エフェソ 3:20-21)。
Haec omnia et singula quae in hac Constitutione pastorali edicta sunt, placuerunt Sacrosancti Concilii Patribus. Et Nos, Apostolica a Christo Nobis tradita potestate, illa, una cum Venerabilibus Patribus, in Spiritu Sancto approbamus, decernimus ac statuimus et quae ita synodaliter statuta sunt ad Dei gloriam promulgari iubemus.  この司牧憲章の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。わたくしもキリストからわたくしに授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父と共に、これらの事を聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるよう命ずる。
Romae, apud S. Petrum ローマ聖ペトロのかたわらにて
die VII mensis decembris anno MCMLXV. 1965年12月 7日
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus カトリック教会の司教  パウルス 自署
Sequuntur Patrum subsignationes. 諸教父の署名が続く

VACATIO LEGIS
PRO DECRETIS PROMULGATIS IN SESSIONE IX
Beatissimus Pater pro novis legibus, quae in modo promulgatis decretis continentur, statuit vacationem usque ad diem vigesimam nonam mensis iunii anni MCMLXVI, nempe usque ad festum Ss. Apostolorum Petri et Pauli proximi anni.
Interea Summus Pontifex normas edet ad praedictas leges exsequendas.
† PERICLES FELICI
Archiepiscopus tit. Samosatensis
Ss. Concilii Secretarius Generalis
 
Patrum subsignationes
Ego PAULUS Catholicae Ecclesiae Episcopus
† Ego EUGENIUS Episcopus Ostiensis ac Portuensis et S. Rufinae Cardinalis TISSERANT, Sacri Collegii Decanus.
† Ego IOSEPHUS Episcopus Albanensis Cardinalis PIZZARDO.
† Ego BENEDICTUS Episcopus Praenestinus Cardinalis ALOISI MASELLA.
† Ego FERDINANDUS Episcopus tit. Veliternus Cardinalis CENTO.
† Ego HAMLETUS IOANNES Episcopus tit. Tusculanus Cardinalis CICOGNANI.
† Ego IOSEPHUS Episcopus tit. Sabinensis et Mandelensis Cardinalis FERRETTO.
† Ego IGNATIUS GABRIEL Cardinalis TAPPOUNI, Patriarcha Antiochenus Syrorum.
† Ego MAXIMUS IV Cardinalis SAIGH, Patriarcha Antiochenus Melkitarum.
† Ego PAULUS PETRUS Cardinalis MEOUCHI, Patriarcha Antiochenus Maronitarum.
† Ego STEPHANUS I Cardinalis SIDAROUSS, Patriarcha Alexandrinus Coptorum.
† Ego EMMANUEL TIT. Ss. Marcellini et Petri Presbyter Cardinalis GONÇALVES CEREJEIRA, Patriarcha Lisbonensis.
† Ego ACHILLES titulo S. Sixti Presbyter Cardinalis LIÉNART, Episcopus Insulensis.
Ego IACOBUS ALOISIUS titulo S. Laurentii in Damaso Presbyter Cardinalis COPELLO, S. R. E. Cancellarius.
Ego GREGORIUS PETRUS titulo S. Bartholomaei in Insula Presbyter Cardinalis AGAGIANIAN.
† Ego VALERIANUS titulo S. Mariae in Via Lata Presbyter Cardinalis GRACIAS, Archiepiscopus Bombayensis.
† Ego IOANNES titulo S. Marci Presbyter Cardinalis URBANI, Patriarcha Venetiarum.
Ego PAULUS titulo S. Mariae in Vallicella Presbyter Cardinalis GIOBBE, S. R. E. Datarius.
† Ego IOSEPHUS titulo S. Honuphrii in Ianiculo Presbyter Cardinalis GARIBI Y RIVERA, Archiepiscopus Guadalajarensis.
Ego CAROLUS titulo S. Agnetis extra moenia Presbyter Cardinalis CONFALONIERI.
† Ego PAULUS titulo Ss. Quirici et Iulittae Presbyter Cardinalis RICHAUD, Archiepiscopus Burdigalensis.
† Ego IOSEPHUS M. titulo Ss. Viti, Modesti et Crescentiae Presbyter Cardinalis BUENO Y MONREAL, Archiepiscopus Hispalensis.
† Ego FRANCISCUS titulo S. Eusebii Presbyter Cardinalis KÖNIG, Archiepiscopus Vindobonensis.
† Ego IULIUS titulo S. Mariae Scalaris Presbyter Cardinalis DÖPFNER, Archiepiscopus Monacensis et Frisingensis.
Ego PAULUS titulo S. Andreae Apostoli de Hortis Presbyter Cardinalis MARELLA.
Ego GUSTAVUS titulo S. Hieronymi Illyricorum Presbyter Cardinalis TESTA.
Ego ALOISIUS titulo S. Andreae de Valle Presbyter Cardinalis TRAGLIA.
† Ego PETRUS TATSUO titulo S. Antonii Patavini de Urbe Presbyter Cardinalis DOI, Archiepiscopus Tokiensis.
† Ego IOSEPHUS titulo S. Ioannis Baptistae Florentinorum Presbyter Cardinalis LEFEBVRE, Archiepiscopus Bituricensis.
† Ego BERNARDUS titulo S. Ioachimi Presbyter Cardinalis ALFRINK, Archiepiscopus Ultraiectensis.
† Ego RUFINUS I. titulo S. Mariae ad Montes Presbyter Cardinalis SANTOS, Archiepiscopus Manilensis.
† Ego LAUREANUS titulo S. Francisci Assisiensis ad Ripam Maiorem Presbyter Cardinalis RUGAMBWA, Episcopus Bukobaënsis.
† Ego IOSEPHUS titulo Ssmi Redemptoris et S. Alfonsi in Exquiliis Presbyter Cardinalis RITTER, Archiepiscopus S. Ludovici.
† Ego IOANNES titulo S. Silvestri in Capite Presbyter Cardinalis HEENAN, Archiepiscopus Vestmonasteriensis, Primas Angliae.
† Ego IOANNES titulo Ssmae Trinitatis in Monte Pincio Presbyter Cardinalis VILLOT, Archiepiscopus Lugdunensis et Viennensis, Primas Galliae.
† Ego PAULUS titulo S. Camilli de Lellis ad Hortos Sallustianos Presbyter Cardinalis ZOUNGRANA, Archiepiscopus Uagaduguensis.
† Ego HENRICUS titulo S. Agathae in Urbe Presbyter Cardinalis DANTE.
Ego CAESAR titulo D.nae N.ae a Sacro Corde in Circo Agonali Presbyter Cardinalis ZERBA.
† Ego AGNELLUS titulo Praecelsae Dei Matris Presbyter Cardinalis ROSSI, Archiepiscopus S. Pauli in Brasilia.
† Ego IOANNES titulo S. Martini in Montibus Presbyter Cardinalis COLOMBO, Archiepiscopus Mediolanensis.
† Ego GUILLELMUS titulo S. Patricii ad Villam Ludovisi Presbyter Cardinalis CONWAY, Archiepiscopus Armachanus, totius Hiberniae Primas.
† Ego ANGELUS titulo Sacri Cordis Beatae Mariae Virginis ad forum Euclidis Presbyter Cardinalis HERRERA, Episcopus Malacitanus.
Ego ALAPHRIDUS S. Mariae in Domnica Protodiaconus Cardinalis OTTAVIANI.
Ego ALBERTUS S. Pudentianae Diaconus Cardinalis DI JORIO.
Ego FRANCISCUS S. Mariae in Cosmedin Diaconus Cardinalis ROBERTI.
Ego ARCADIUS SS. Blasii et Caroli ad Catinarios Diaconus Cardinalis LARRAONA.
Ego FRANCISCUS SS. Cosmae et Damiani Diaconus Cardinalis MORANO.
Ego GUILLELMUS THEODORUS S. Theodori in Palatio Cardinalis HEARD.
Ego AUGUSTINUS S. Sabae Diaconus Cardinalis BEA.
Ego ANTONIUS S. Eugenii Diaconus Cardinalis BACCI.
Ego FRATER MICHAEL S. Pauli in Arenula Diaconus Cardinalis BROWNE.
Ego FRIDERICUS S. Ioannis Bosco in via Tusculana Diaconus Cardinalis Callori DI VIGNALE.

(170) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Ad Petri Cathedram, 29 iunii 1959: AAS 55 (1959), p. 513.
(171) Cf. Mt. 7, 21.

 

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その1) の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第5章 平和の推進と国際共同体の促進(その1)」の原文を対訳でご紹介します。

Caput V 第5章
DE PACE FOVENDA ET DE COMMUNITATE GENTIUM PROMOVENDA 平和の推進と国際共同体の促進
77. Introductio. 77(序文)
Hisce nostris annis, quibus aerumnae et angustiae ex grassante vel impendente bello profluentes adhuc gravissimae inter homines perdurant, universa familia humana ad horam summi discriminis in suae maturitatis processu pervenit. In unum paulatim congregata atque ubivis suae unitatis melius iam conscia, opus quod ei incumbit, mundum scilicet pro omnibus hominibus ubique terrarum vere humaniorem aedificandi, peragere nequit nisi cuncti ad veritatem pacis renovato animo convertantur. Hinc fit ut evangelicum nuntium, cum altioribus generis humani studiis atque optatis congruens, nostris temporibus nova claritate elucescat dum pacis artifices beatos proclamat, "quoniam filii Dei vocabuntur" (Mt 5,9).  戦争の破壊と脅威がもたらす困苦と不安が今もなお重苦しく人々の上に伸しかかっているわれわれの時代に、全人類家族はその成長への歩みにおける最大の危機に到達した。人類家族はしだいに一つに集まり、すでにどこにおいても一致の自覚が強まっている。しかし、すべての人が新たに改心して真の平和を求めなければ、人類の仕事すなわち、すべての人のために、すべての所で、真に、いっそう人間らしい世界を建設するという仕事を果たすことはできな位。こうして、平和を作る者は、「神の子と呼ばれるであろう」(マタイ 5:9)と宣言する福音の知らせは、人類の崇高な努力と期待に添うものとして現代に新しい光を輝かすのである。
Ideo Concilium veram et nobilissimam pacis rationem illustrans, belli immanitate damnata, christianos ferventer evocare intendit ut, auxiliante Christo auctore pacis, cum omnibus hominibus ad pacem in iustitia et amore inter eos firmandam et ad instrumenta pacis apparanda cooperentur.  したがって公会議は、平和についての真実の崇高な意味を解明し、戦争の残酷さを断罪した後、平和の作者であるキリストの助けの元に。正義と愛に基づく平和を打ち立てるため、また平和への手段を準備するために、すべての人と協力するよう、熱意をこめてキリスト者に呼びかけたい。
78. (De natura pacis). Pax non est mera absentia belli, neque ad solum adversarum virium aequilibrium stabiliendum reducitur neque ex imperioso dominatu oritur, sed recte proprieque dicitur "opus iustitiae" (Is 32,17). Fructus exsistit ordinis humanae societati a divino suo Fundatore insiti et ab hominibus perfectiorem semper iustitiam sitientibus in actum deducendi. Cum enim generis humani bonum commune primaria quidem sua ratione lege aeterna regatur, sed, quoad id quod concrete exigit, progrediente tempore incessantibus mutationibus subiciatur, numquam pax pro semper acquisita est, sed perpetuo aedificanda. Cum insuper labilis sit humana voluntas necnon peccato sauciata, procuratio pacis constantem uniuscuiusque exposcit passionum dominationem et legitimae auctoritatis invigilantiam. 78(平和の本質)
Hoc tamen non sufficit. Pax haec in terris obtineri non potest nisi bonum personarum in tuto collocetur et homines cum fiducia divitias sui animi atque ingenii inter se sponte communicent. Firma voluntas alios homines et populos eorumque dignitatem reverendi studiosumque fraternitatis exercitium ad pacem construendam omnino necessaria sunt. Ita pax fructus etiam amoris exsistit, qui ultra ea progreditur quae iustitia praestare valet.  平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない。平和を正義のわざと定義することは正しい。平和とは、人間社会の創立者である神によって、社会の中に刻みこまれ、常により完全な正義を求めて人間が実現しなければならない秩序の実りである。事実、人類の共通善は、基本的には永遠の法則によって支配されるが、共通善が具体的に要求する事がらは、ときの経過とともに絶えず変動する。平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設すべきものである。そのうえ人間の意志は弱く、罪によって傷つけられているため、平和獲得のためには各自が絶えず激情を押さえ、正当な権力による警戒が必要である。
Pax autem terrena, quae ex dilectione proximi oritur, figura et effectus est pacis Christi, a Deo Patre promanantis. Ipse enim Filius incarnatus, princeps pacis, per crucem suam omnes homines Deo reconciliavit ac, restituens omnium unitatem in uno Populo et uno Corpore, in propria sua carne occidit odium (165) et, resurrectione exaltatus, Spiritum caritatis in corda hominum diffudit.  しかし、それだけでは十分ではない。個人の善が安全に確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自発的に交流し合わなければ、地上に平和は獲得できない。他人と他国民お呼びかれらの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために絶対必要である。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える。
Quapropter omnes christiani enixe evocantur ut, "veritatem facientes in caritate" (Eph 4,15), cum hominibus vere pacificis sese uniant ad pacem implorandam et instaurandam.  隣人に対する愛から生まれる地上の平和は、父なる神から来るキリストの平和の映像であり結果である。受肉した子は平和の君主であり、自分の十字架によってすべての人を神と和解させ、一つの民、一つのからだのうちにすべての人の一致を再建し、自分の肉において憎しみを殺し、復活によって高くあげられ、愛の霊を人々の心に注いだ。
Eodem spiritu moti, non possumus non laudare eos, qui in iuribus vindicandis actioni violentae renuntiantes, ad media defensionis recurrunt quae ceteroquin etiam debilioribus praesto sunt, dummodo hoc sine laesione iurium et obligationum aliorum vel communitatis fieri possit.  したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。
Quatenus homines peccatores sunt, eis imminet periculum belli, et usque ad adventum Christi imminebit; quatenus autem, caritate coniuncti, peccatum superant, superantur et violentiae, donec impleatur verbum: "Conflabunt gladios suos in vomeres et lanceas suas in falces. Non levabit gens contra gentem gladium, nec exercebuntur ultra ad praelium" (Is 2,4).  権利を擁護するために暴力を放棄して、弱い者にも使うことのできる防衛手段にたよる人々を、われわれは同じ精神に基づいて賞賛しないわけにはいかない。ただし、暴力の否定が他人または共同体の権利と義務を侵害することが合ってはならない。
Sectio I: De bello vitando  「人間が罪びとである限り、キリストの再臨の時まで変わることなく、戦争の危険は人々を脅かし続けるであろう」。しかし、人々が愛によって結ばれる限り、罪に打ち勝ち、暴力にも打ち勝つであろう。こうして次のことばが実現する。「かれらは剣をすきに、槍を鎌に打ちなおすであろう。国々は互いに剣を取りあげず、もはや戦いのために訓練しない」(イザヤ 2:4)。第1節 戦争を避けること
79. De bellorum immanitate refrenanda. 79(戦争の残酷さを少なくすること)
Quamvis recentia bella nostro mundo gravissima damna tum materialia tum moralia intulerint, adhuc cotidie in aliqua terrarum parte bellum suas vastationes persequitur. Immo, dum arma scientifica cuiuslibet generis in bello adhibentur, saeva eius indoles proeliantes ad barbariem adducere minatur quae illam anteactorum temporum longe superet. Porro condicionis hodiernae complexitas ac relationum inter nationes intricatio permittunt ut novis methodis, iisque insidiosis et subversivis, bella larvata protrahantur. In pluribus adiunctis usus methodorum terrorismi tamquam nova ratio bellandi habetur.  近年、戦争が物質的・精神的な大損害を世界にもたらしたにもかかわらず、今なお毎日、地上のどこかで戦争による破壊が続けられている。そのうえ、戦争においてはあらゆる種類の科学兵器が用いられるので、戦争の激烈さは戦闘員を過去の時代をはるかに超える残虐さに導くおそれがある。現代の複雑な状況と複雑な国際関係は、陰険な新しいかく乱戦法によるゲリラ戦の長期化を許している。多くの場合、テロ行為があたかも戦争の新形式のように考えられている。
Deiectum istum humanitatis statum prae oculis habens, Concilium ante omnia in memoriam revocare intendit permanentem vim iuris naturalis gentium eiusque principiorum universalium. Ipsa generis humani conscientia haec principia firmiter magis magisque proclamat. Actiones ergo quae iisdem deliberate adversantur necnon iussa quibus tales actiones praescribuntur scelesta sunt, nec caeca obedientia illos qui iis parent excusare valet. Inter has actiones illae ante omnia recensendae sunt quibus, ratione quadam et methodo, universa gens, natio aut minoritas ethnica exterminantur: quae tamquam crimina horrenda vehementer condemnandae sunt. Maxime vero probandus est animus illorum qui talia praecipientibus aperte resistere non timescunt.  公会議は人類のこのような悲しむべき状態を思い、まず第一に国際自然法とその普遍的原則のもつ永久の価値を思い起こさせることを意図する。人類の良心そのものが、これらの原則をますます強く主張する。したがって、これらの原則に故意に違反する行動とそのような行動を支持する命令は犯罪である。盲目的服従も弁解の理由にはならない。このような行動の中で、まず第一にあげるべきは、国民全体、国家、少数民族を計画的に、全滅しようとする行為である。それは恐るべき犯罪として激しく糾弾されなければならない。このような犯罪を命ずる者に対して、恐れずに、はっきりと反抗する人の勇気を大いに賞賛しなければならない。
Exstant de rebus bellicis variae conventiones internationales quibus sat multae nationes subscripserunt, ut minus inhumanae efficiantur actiones militares earumque sequelae: huiusmodi sunt conventiones quae pertinent ad militum vulneratorum aut captivorum sortem, variaeque huius generis stipulationes. Quae pactiones servandae sunt; immo tenentur omnes, praesertim auctoritates publicae et de his rebus periti, quantum possunt conari ut illae perficiantur sicque melius et efficacius ad bellorum immanitatem refrenandam conducant. Insuper aequum videtur ut leges humaniter provideant pro casu illorum qui ex motivo conscientiae arma adhibere recusant, dum tamen aliam formam communitati hominum serviendi acceptant.  戦争に関しては、軍事行動とその結果の非人道性を少なくすることを目的として、種々の国際条約が存在し、多くの国がそれに加盟している。たとえば、負傷兵や捕虜の取り扱いに関する条約やこれに類する協定などである。これらの条約は守られるべきである。またすべての人、特に公権とその道の専門家は協定を改良して戦争の非人道性をいっそう効果的に、よりよく阻止するよう、できる限り努力しなければならない。なお、良心上の理由から武器の使用を拒否する人が、別の方法で共同体に奉仕することを受託すれば、法律によって人間味のある処置を規定することは正しいと思われる。
Utique bellum non est e rebus humanis eradicatum. Quamdiu autem periculum belli aderit, auctoritasque internationalis competens congruisque viribus munita defuerit, tamdiu, exhaustis quidem omnibus pacificae tractationis subsidiis, ius legitimae defensionis guberniis denegari non poterit. Civitatum rectoribus aliisque qui rei publicae responsabilitatem participant, incumbit igitur officium ut populorum sibi commissorum salutem tueantur, res tam graves graviter gerentes. At aliud est res militares gerere ut populi iuste defendantur, aliud alias nationes subiugare velle. Nec potentia bellica omnem eiusdem militarem vel politicum usum legitimum facit. Nec bello infeliciter iam exorto, eo ipso omnia inter partes adversas licita fiunt.  確かに戦争は人間の司会から消え去ったわけではない。戦争の危険が存在し、しかも十分な力と権限をもつ国際的権力が存在しない間は、平和解決のあらゆる手段を講じたうえであれば、政府に対して正当防衛を拒否することはできないであろう。国家の元首ならびに国家の政治にたずさわる者は自分に託された国民の安全を守り、この重大事項を慎重に取り扱う義務がある。しかし、国民を正当に防衛するために戦争することと、他国の征服を意図することは同じではない。また戦力を保有し、それを軍事目的、政治目的のために使用する時、その使用がいつも正当化されて、すべてのことが許されるわけでもない。
Qui vero, patriae servitio addicti, in exercitu versantur, et ipsi tamquam securitatis libertatisque populorum ministros sese habeant, et, dum hoc munere recte funguntur, vere ad pacem stabiliendam conferunt.  祖国に対する奉仕を志して軍籍にある者は、自分自身を国民の安全と自由のための奉仕者と考えるべきである。この任務に正しく従事している間、かれらは真に平和の維持のために寄与している。第5章 平和の推進と国際共同体の促進第1節 戦争を避けること(続)
80. De bello totali. 80(全面戦争)
Horror pravitasque belli scientificorum armorum incremento in immensum augentur. Bellicae enim actiones, his armis adhibitis, ingentes indiscriminatasque inferre possunt destructiones quae proinde limites legitimae defensionis longe excedunt. Immo, si haec media, qualia iam in magnarum nationum armamentariis inveniuntur, penitus adhiberentur, ex eo internecio fere plena et omnino reciproca uniuscuiusque partis a parte adversa haberetur praetermissis multis vastationibus in mundo oboriundis et exitialibus effectibus ex usu huiusmodi armorum consequentibus.  科学兵器の進歩によって戦争の悲惨と邪悪は無限に増大する。事実、これらの兵器を使用した戦闘行為は、正当防衛の範囲をはるかに超える多大な無差別の破壊をもたらす。そのうえ、大国がすでに所有している科学兵器がそのまま全部使用されるならば、このような兵器の使用によって、世界に起こる多くの荒廃と恐るべき結果をもたらすだけでなく、敵対する両陣営のほとんど完全な相互殺害が行われる。
Quae omnia nos cogunt ut de bello examen mente omnino nova instituamus (166). Sciant huius aetatis homines se de suis bellicis actionibus gravem rationem esse reddituros. Ab eorum enim hodiernis consiliis temporum futurorum decursus multum pendebit.  これらすべてのことは、まったく新しい考え方によって、戦争を検討することをわれわれに強要している。現代の人々は、自分たちの戦争行為について重大な計算書を提出しなければならないと知るべきである。未来の世界は人々が今日行う決定に多く依存するからである。
His attentis, haec Sacrosancta Synodus, suas faciens condemnationes belli totalis iam a recentibus Summis Pontificibus enuntiatas (167), declarat:  これらを考慮したうえで、この教会会議は、すでに近代の諸教皇によって宣言された全面戦争の断罪を認め、次のように宣言する。
Omnis actio bellica quae in urbium integrarum vel amplarum regionum cum earum incolis destructionem indiscriminatim tendit, est crimen contra Deum et ipsum hominem, quod firmiter et incunctanter damnandum est.  都市全体または広い地域をその住民とともに無差別に破壊するための戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、ためらうことなく断固として禁止すべきである。
Singulare belli hodierni periculum in hoc consistit quod illis qui recentiora arma scientifica possident quasi occasionem praebet talia scelera perpetrandi et, connexione quadam inexorabili, hominum voluntates ad atrocissima consilia impellere potest. Ne vero hoc in futurum unquam eveniat, Episcopi totius orbis terrarum in unum congregati, omnes, nationum moderatores praesertim, necnon eos qui rei militari praesunt, obsecrant, ut tantam responsabilitatem coram Deo et coram universa humanitate incessanter perpendant.  これが現代戦争に独特の危険である。現代科学兵器の保有者に、このような犯罪を犯す機会を提供し、ある種の無常な連鎖によって人間の意志を非常に残酷な決定にまで押しやることができる。このようなことが将来けっして起こることがないよう、全世界の司教は一致して、すべての人、特に国家の元首及び郡の指導者に対して、神と全人類の前におけるこのような重大な責任について絶えず考慮するよう切願する。
81. De cursu ad arma apparanda. 81(軍備競争)
Arma quidem scientifica non ad hoc unice accumulantur ut tempore belli adhibeantur. Cum enim firmitas uniuscuiusque partis defensionis a capacitate fulminea adversarium repercutiendi dependere aestimetur, haec armorum accumulatio, quae quotannis ingravescit, inconsueto quidem modo ad deterrendos adversarios forte insurgentes inservit. Quod a multis habetur tamquam omnium mediorum efficacissimum quibus nunc pax quaedam inter nationes in tuto poni possit.  戦時における使用だけを目的として科学兵器が増強されるのでないことは確かである。各国の防衛力は敵に対する迅速な報復力に依存すると考えられている。そのため、年ごとに増大してゆく軍縮の拡張は、逆説的ではあるが、起こりうる敵の攻撃を抑止するのに役立っている。それは現在のところ、ある種の平和を国際間に維持することができる、あらゆる手段の中で、最も効果的なものと、多くの人にみなされている。
Quidquid sit de illo dissuasionis modo, persuasum habeant homines cursum ad arma apparanda, ad quem sat multae nationes confugiunt, non securam esse viam ad pacem firmiter servandam, neque sic dictum aequilibrium ex illo manans certam ac veram esse pacem. Belli exinde causae quin eliminentur, potius paulatim aggravari minantur. Dum in arma semper nova apparanda perabundantes divitiae erogantur, tot miseriis hodiernis mundi universi remedium sufficiens praeberi non potest. Potius quam dissensiones inter nationes vere ac funditus sanentur, iisdem aliae mundi partes inficiuntur. Novae viae, ex reformato animo initium sumentes, eligendae erunt ut hoc scandalum removeatur et, mundo ab anxietate qua opprimitur liberato, vera pax restitui possit.  この抑止の方法自体に問題がある。多くの国が行っている軍縮競争は、平和を確保する安全な道でもなく、それから生ずるいわゆる力の均衡も、確実で真実な平和ではないと人々は確信すべきである。それは戦争の原因を取り除く代わりに、かえって徐々に増大させる。常に新しい兵器を準備するために莫大な費用が消費されているのに反して、全世界の現代の悲惨を救うための十分な対策は講じられていない。国際間の紛争が真に根本的に解決される代わりに、世界の他の地域にまで紛争が広がっている。この醜聞が取り除かれ、世界が不安の圧迫から解放されて真の平和を打ち立てるためには、精神の改革から出発して、新しい道を選ばなければならない。
Quapropter denuo declarandum est: cursum ad arma apparanda gravissimam plagam humanitatis esse, ac pauperes intolerabiliter laedere. Valde autem timendum est ne, si perduret, aliquando omnes exitiales clades pariat, quarum media iam praeparat.  したがって、軍備競争は人類の最大の傷であり、堪えがたいほどに貧しい人々を傷つけるものである、と再び宣言しなければならない。軍備競争が続くならば、いつかはあらゆる致命的な破壊を引き起こすおそれが大いにある。その手段はすでに軍備競争によって準備されている。
Calamitatibus commonefacti quas humanum genus possibiles effecit, moram, nobis desuper concessam, qua gaudemus, adhibeamus ut propriae responsabilitatis magis conscii, vias inveniamus quibus controversias nostras modo homine digniore componere possimus. Providentia divina a nobis instanter requirit ut nosmetipsos ab antiqua belli servitute liberemus. Quod si huiusmodi conamen facere renuerimus, quo ducamur in hac via mala quam ingressi sumus, nescimus.  人類が可能なものにした災難に警告されて、上からわれわれに与えられ、われわれが現在享有する猶予を利用して、自分の責任をよりよく自覚し、人間にふさわしい方法で紛争を解決する道を発見するように努力しよう。神の摂理は、古くから戦争の奴隷状態にあるわれわれ自身を解放することを切に要求している。この努力を拒否するならば、われわれが踏み入っている悪の道がどこにわれわれを導いてゆくかを、知らない。
82. De bello omnino interdicendo et actione internationali ad bellum vitandum. 82(戦争絶対禁止と戦争回避のための国際協力)
Patet ergo nobis enitendum esse ut viribus omnibus tempora praeparemus quibus, consentientibus nationibus, bellum quodlibet omnino interdici possit. Quod sane requirit ut quaedam publica auctoritas universalis, ab omnibus agnita, instituatur, quae efficaci potestate polleat ut pro omnibus tum securitas, tum iustitiae observantia, tum iurium reverentia in tuto ponantur. Antequam vero haec optanda auctoritas institui possit, opus est ut hodierna suprema gremia internationalia studiis mediorum ad securitatem communem procurandam aptiorum acriter se dedicent. Cum pax e mutua gentium fiducia nasci oporteat potius quam armorum terrore nationibus imponi, omnibus adlaborandum est ut cursus ad arma apparanda finem tandem habeat; ut diminutio armorum re incipiat, non unilateraliter quidem sed pari passu ex condicto progrediatur, veris efficacibusque cautionibus munita (168).  したがって、諸国の同意のもとに、どのような戦争も絶対に禁止される時代を準備するために、全力を尽くさなければならないことは明白である。この目的を実現するためには、諸国によって承認され、諸国に対して安全保障と、正義の遵守と権利に対する尊敬とを確保できる有効な権限を備えた普遍的公権を設置することが確かに必要である。この望ましい権力が設置されるまでは、現在存在する国際的最高機関は共通安全保障のためのいっそう適切な手段を熱心に研究しなければならない。平和は、兵器の恐怖によって諸国に押しつけるよりは、諸国民の相互信頼から生まれるべきものである。したがって、軍備競争に終止符が打たれるように、すべての人が働かなければならない。軍備縮小を実際に始めるためには、一方的にではなく、協定によって歩調を合わせ、有効、真実な保障の裏づけのもとに進めるべきである。
Interea non parvipendenda sunt conamina quae iam facta sunt et adhuc fiunt ut periculum belli amoveatur. Potius adiuvanda est bona voluntas permultorum qui, ingentibus suorum supremorum munerum curis onerati, gravissimo autem quo obstringuntur officio moti, bellum quod abhorrent eliminare satagunt, etiamsi a complexitate rerum quales sunt, praescindere non possunt. Deum autem enixe rogare oportet ut illis vim det perseveranter aggrediendi ac fortiter perficiendi hoc summi amoris hominum opus quo pax viriliter aedificatur. Quod hodie certissime ab eis exigit ut mentem et spiritum ultra fines propriae nationis extendant, egoismum nationalem atque ambitionem aliis nationibus dominandi deponant, profundamque reverentiam erga totam humanitatem nutriant, quae iam ad maiorem sui unitatem tam laboriose properat.  その間にも戦争の危険を排除するためにすでに行われた努力と、また今も続けて行われている努力を軽視してはならない。複雑な現実を無視することは出来ないが、最高任務の大きな苦労を担い、重大な責任感に動かされて、恐るべき戦争を廃止しようと努力する多くの人の善意を助けるべきである。また、熱心に平和を築き上げていく仕事、すなわち、人間に対する愛の最高の仕事を忍耐を持って続け、勇気をもって成し遂げる力がかれらに与えられるよう神に熱心に祈らなければならない。確かに今日では、それぞれの国境を超えて理解と考えを広げること、民族的利己主義と他国支配の野望を放棄すること、労苦を忍んで、より大きな一致をめざして進みつつある全人類に対して深い尊敬を持つことが要求されている。
Circa pacis et armorum depositionis problemata perscrutationes iam strenue et indesinenter protractae, internationalesque congressus, qui hac de re egerunt, tamquam primi passus ad solvendas tantopere graves quaestiones consideranda sunt atque urgentiori modo ad obtinendos effectus practicos in futurum promovenda. Nihilominus caveant homines ne solummodo conatibus quorumdam se committant quin de propriis mentibus curent. Nam populorum moderatores, qui boni communis propriae gentis sponsores sunt et simul boni universi orbis promotores, ex multitudinum opinionibus et animi sensibus quam maxime pendent. Nihil eis prodest ut paci aedificandae instent, quamdiu hostilitatis, contemptus et diffidentiae sensus, racialia odia necnon obstinatae ideologiae, homines dividunt atque inter se opponunt. Hinc maxima necessitas urget renovatae mentium educationis novaeque in publica opinione inspirationis. Qui operi educationis se devovent, praesertim iuvenum, aut opinionem publicam efformant, tamquam gravissimum officium reputent curam mentes omnium ad novos pacificos sensus instituendi. Nos omnes quidem commutare corda nostra oportet, universum orbem et illa munera prospicientes quae nos, una simul, agere possumus ut genus nostrum ad meliora proficiat.  平和と軍備縮小の問題に関して、今まで熱心に、たゆまず行われてきた研究と、この問題についての国際会議とを、この重大問題を解決するための第一歩とみなし、実際的な効果をあげるために将来いっそう力強く促進させなければならない。しかし、自分は無関心な態度をとり、少数の人の努力だけに任せてはならない。自国民の共通善の保障者であると同時に、全世界の善の促進者である国家の指導者たちは、一般の世論と感情に大いに依存している。敵意、軽べつ、不信、人種的憎悪、がんこなイデオロギーが人々を分裂させたい律させている間は、平和を求めるかれらの努力も役にたたない。したがって、考え方の再教育と新しい世論が最も必要とされる。教育に従事する人々、特に青少年の教育にあたる人々や世論を形成する人々は、すべての人に平和愛好の新しい精神を吹き込む努力を、自分の最も重大な義務と考えなければならない。われわれはすべて心を改め、また人類の進歩のために一致して果たすことが出来る任務として、全世界に目を注がなければならない。
Nec falsa spes nos decipiat. Nisi enim, dimissis inimicitiis et odiis, firma honestaque pacta de pace universali in futuro concludantur, humanitas quae iam in gravi discrimine versatur, quamvis scientia mirabili praedita, forsan funeste ad illam horam adducetur in qua non aliam pacem quam horrendam mortis pacem experiatur. Attamen, dum haec profert, Ecclesia Christi, in media anxietate huius temporis constituta, firmissime sperare non cessat. Aetati nostrae iterum iterumque, opportune importune, nuntium apostolicum proponere intendit: "ecce nunc tempus acceptabile" ut mutentur corda, "ecce nunc dies salutis" (169).  われわれは、まちがった希望に欺かれてはならない。事実、敵意と憎悪を捨てて、将来の世界平和に関する堅固な正しい条約を結ばない限り、すでに大きな危険にさらされている人類は、すばらしい知識に恵まれながら、恐るべき死の平和しか味わうことが出来ない不幸な時を迎えるであろう。しかし、キリストの教会は、これを告げる間、現代の苦悩のまっただ中にあって、強く希望することをやめない。教会は現代に向かって、何度もくりかえし、機会のあるときにも、ないときにも、使徒の知らせを告げるつもりである。改心するためには「今こそ恵みの時であり」、「今こそ救いの日である」。第5章 平和の推進と国際共同体の促進第2節 国際共同体の建設
Sectio II: De communitate internationali aedificanda 第2節 国際共同体の建設
83. De causis discordiarum earumque remediis. 83(不一致の原因とその治療策)
Ad pacem aedificandam ante omnia requiritur ut eradicentur causae discordiarum inter homines, quibus bella aluntur, praesertim iniustitiae. Non paucae earum ex nimiis inaequalitatibus oeconomicis proveniunt, necnon ex necessariis remediis retardatis. Aliae vero ex spiritu dominationis et personarum contemptu oriuntur et, si in causas profundiores inquirimus, ex humana invidia, diffidentia, superbia aliisque egoisticis passionibus. Cum tot ordinis defectus homo ferre non possit, ex iis consequitur ut, etiam bello non saeviente, mundus indesinenter contentionibus inter homines et violentiis inficiatur. Cum insuper eadem mala in relationibus inter ipsas nationes inveniantur, necessarium omnino est ut, ad illa vincenda vel praevenienda, et ad effrenatas violentias coercendas, melius et firmius cooperentur et coordinentur institutiones internationales necnon indefesse stimuletur creatio organismorum qui pacem promoveant.  平和を建設するためには、何よりもまず人々の不一致の原因、特に戦争の温床となる不正を取り除かなければならない。それらの原因の多くは、過度の経済的不平等と必要な対策の遅延に基づいている。その他の原因は支配欲と人に対する軽べつから生じるものであり、さらに深い原因を探求すれば、ねたみ、不信、高慢、我欲その他に基づいている。人間はこれほど多くの秩序の乱れに耐えられないので、たとえ戦争で痛めつけられなくても、世の中は絶えず人々の間の争いと暴力によって悩まされるであろう。なお、同様の悪が国家間にも見いだされるので、それらに打ち勝ち、またはそれらを予防するため、また暴力の奔走を抑圧するために、国際機関の協力と調整を力強く推進し、平和を促進する組織を設立するようたゆまず努力することが絶対に必要である。
84. De communitate gentium et de institutionibus internationalibus. 84(諸国共同体と国際機関)
Ut, crescentibus hoc tempore arctis mutuae necessitudinis nexibus inter omnes cives et omnes populos orbis terrarum, bonum commune universale apte quaeratur et efficacius obtineatur, iam necesse est communitatem gentium sibi constituere ordinem qui cum hodiernis muneribus congruat, praesertim relate ad illas numerosas regiones quae intolerabilem egestatem adhuc patiuntur.  世界中の諸国家並びに諸国民の相互依存関係がますます緊密になりつつある現代において、全世界の共通善を適切に追求し、また効果的に実現するために、諸国共同体は、現代の任務に対応する秩序を制定する必要がある。特に、放置しておくことがゆるされないほどの窮乏に今なお悩んでいる多くの地域に関して、そうしなければならない。
Ad hos fines assequendos, institutiones communitatis internationalis variis hominum necessitatibus pro sua parte providere debent, tam in vitae socialis campis ad quos pertinent victus, sanitas, educatio, labor, quam in nonnullis condicionibus particularibus quae alicubi oriri possunt, ut sunt necessitas generali nationum progredientium incremento fovendi, aerumnis profugorum per universum mundum dispersorum occurrendi, vel etiam migrantes eorumque familias adiuvandi.  この目的を達成するために、国際共同体の諸機関は、それぞれの分野において人々の種々の必要を満たすようにしなければならない。すなわち、社会生活の領域においては食料、健康、教育、仕事であり、また、ある特殊な状況において起こりうる一般的必要、例えば、開発途上の国に対する援助、全世界に離散した難民の救済、移住者とその家族に対する援助などである。
Institutiones internationales, universales vel regionales, quae iam exsistunt certe de genere humano bene merentur. Eaedem tamquam primi conatus apparent fundamenta internationalia totius communitatis humanae ponendi ut gravissimae nostrorum temporum quaestiones solvantur, et quidem ad progressum ubique terrarum promovendum et ad bella in quacumque forma praecavenda. In omnibus istis campis gaudet Ecclesia de spiritu verae fraternitatis inter christianos et non christianos florentis qui enititur ut conamina semper intensiora fiant ad ingentem miseriam sublevandam.  既存の世界的または地域的な国際機関は確かに人類のために役だっている。これらの機関は、世界中に進歩向上を促進させ、またあらゆる形の戦争を未然に防ぐなど、現代に最も重要な問題を解決するために、全人類共同体の国際的基準となる最初の試みと思われる。これらすべての領域において、キリスト者と非キリスト者の間に活発な真の兄弟愛の精神が盛んになっていること、また、世界の大きな悲惨を救済するための努力が、常にいっそう増していることを教会は喜ぶ。
85. De cooperatione internationali in campo oeconomico. 85(経済の領域における国際的協力)
Hodierna generis humani coniunctio etiam instaurationem maioris cooperationis internationalis in campo oeconomico expostulat. Etenim, etsi omnes fere populi sui iuris facti sunt, longe tamen abest ut a nimiis inaequalitatibus et ab omni indebitae dependentiae forma iam liberi sint omneque gravium difficultatum internarum periculum effugiant.  人類の現在の連帯性は、経済の領域においても、いっそう大きな国際協力の確立を求めている。事実、ほとんどすべての国家が独立を獲得しているが、これらの国家は、ひどい不平等やあらゆる形の不当な従順からすでに解放され、また国内のあらゆる重大な困難や危険から脱していると言うにはほど遠い。
Incrementum alicuius nationis ex adiumentis humanis et pecuniariis pendet. Cives uniuscuiusque nationis per educationem et formationem professionalem ad varia munera vitae oeconomicae et socialis obeunda praeparandi sunt. Ad hoc autem requiritur auxilium peritorum alienigenarum qui, dum opem ferunt, non ut dominatores se gerant sed ut adiutores et cooperatores. Auxilium materiale nationibus progredientibus non procurabitur, nisi consuetudines hodierni commercii in mundo profunde mutentur. Alia insuper auxilia a nationibus progressis praestanda sunt sub forma sive donorum sive mutuorum sive pecuniarum collocationum; quae praestentur cum generositate et sine cupiditate ex una parte, accipiantur cum omni honestate ex altera.  一国の発展は人的ならびに経済的資源に依存する。それぞれの国の国民は教育と職業訓練によって経済・社会生活の種々の任務に従事するよう養成されなければならない。このためには外人専門家の助けを必要とするが、この人々は支配者としてではなく、援助者、協力者として行動すべきである。今日の世界商業界の慣習が大きく変わらなければ、開発途上の国々は物質的援助を得ることはできないであろう。なお、贈与、借款、投資の形の元に、その他の援助が先進国から提供されなければならない。これらの援助は、一方では寛大無欲に提供され、他方では誠実に受け入れられるべきである。
Ad verum ordinem oeconomicum universalem instaurandum abolenda sunt nimia lucrorum studia, ambitiones nationales, appetitus dominationis politicae, calculi ordinis militaristici necnon machinationes ad ideologias propagandas et imponendas. Plura oeconomica et socialia systemata proponuntur; optandum est ut in his periti communia fundamenta sani commercii mundialis inveniant; quod facilius continget si singuli propria praeiudicia abnuant et ad dialogum sincere gerendum promptos se praebeant.  真の世界的経済秩序を確立するためには、収益に対する過度の執着、国家的野心、政治的支配の欲望、軍事的計算、イデオロギーの宣伝または強制を廃止しなければならない。種々の経済的、社会的体制が提案されているが、この事に関しては専門家たちが健全な世界の商業に共通な基盤を見いだす事が望まれる。しかし、それは、各自が先入観を捨てて誠実な対話をする覚悟になれば、より容易に実現するであろう。

(165) Cf. Eph. 2, 16; Col. 1, 20-22.
(166) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), p. 291: «Quare aetate hac nostra, quae vi atomica gloriatur, alienum est a ratione, bellum iam aptum esse ad violata iura sarcienda».
(167) Cf. PIUS XII, Allocutio 30 sept. 1954: AAS 46 (1954), p. 589; Nuntius radiophonicus, 24 dec. 1954: AAS 47 (1955), pp. 15 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris: AAS 55 (1963), pp. 286-291; S. PAULUS VI, Allocutio in Consilio Nationum Unitarum 4 oct. 1965: AAS 57 (1965), pp. 877-885.
(168) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, ubi de diminutione armorum sermo est: AAS 55 (1963), p. 287. 168 Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, ubi de diminutione armorum sermo est: AAS 55 (1963), p. 287.
(169) Cf. 2 Cor. 6, 2.

 

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「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第4章 政治共同体の生活 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第4章 政治共同体の生活」の原文を対訳でご紹介します。

Caput IV 第4章
DE VITA COMMUNITATIS POLITICAE 政治共同体の生活
73. De hodierna vita publica. 73(現代の公共生活)
Nostris temporibus profundae advertuntur transformationes etiam in compage et institutionibus populorum, quae ipsorum evolutionem culturalem, oeconomicam ac socialem consequuntur; quae transformationes magnum influxum in communitatis politicae vitam exercent, praesertim quod attinet ad omnium iura et officia in libertatis civilis exercitio ac in bono communi attingendo et ad civium relationes inter se et cum publica auctoritate ordinandas.  現代においては、国家の構造と組織にも大きな変化が見られる。国民の文化的・経済的・社会的進歩に伴うこのような変化は、政治共同体の生活に、特に市民的自由の行使と共通善の追求における各自の権利と義務に関して、また国民の相互関係ならびに国民と公権との関係の調整に関して、大きな影響を与える。
Ex vividiore humanae dignitatis conscientia exoritur, in variis mundi regionibus, studium ordinem politicum-iuridicum instaurandi, in quo personae iura in vita publica melius protegantur, ut sunt iura libere sese coadunandi, consociandi, proprias opiniones exprimendi ac religionem privatim publiceque profitendi. Tutamen enim personae iurium condicio necessaria est ut cives, sive singuli sive consociati, in rei publicae vita et moderamine actuose participare possint.  人間の尊厳についての自覚が強まるにつれて、たとえば集会と結社の自由、言論の自由、私的にも公的にも信教を公言する自由などの人権を、公共生活においてよりよく擁護する政治的・法的秩序を確立しようとする努力が世界の諸地域に生ずる。事実、人権の擁護は国民が個人としても団体としても、国家の生活と統治に行動的に参加できるための必要条件である。
Una cum progressu culturali, oeconomico ac sociali apud plures roboratur desiderium assumendi maiorem partem in communitatis politicae vita ordinanda. In multorum conscientia studium augetur ut iura minorum alicuius nationis partium serventur, earum officiis erga communitatem politicam non neglectis; insuper reverentia in dies increscit erga homines aliam opinionem vel aliam religionem profitentes; simul latior instituitur cooperatio, ut omnes cives, et non tantum quidam privilegiis ornati, iuribus personalibus reapse frui possint.  文化的・政治的・社会的進歩と共に、政治共同体の調整により大きな役割を持つという望みが多くの人の間に強くなる。国内の少数派の権利が擁護されると同時に、かれらが政治共同体に対する義務を怠らないようにという意向が多くの人の良心の中に強まる。そのうえ、意見や宗教を異にする人々の権利を実際に享受できるためのいっそう広い協力が確立される。
Reprobantur autem quaecumque formae politicae, in aliquibus regionibus vigentes, quae libertatem civilem vel religiosam praepediunt, victimas cupiditatum et criminum politicorum multiplicant ac exercitium auctoritatis a bono communi ad commodum cuiusdam factionis vel ipsorum moderatorum detorquent.  これに反して、市民の自由または信教の自由を妨害し、欲望と政治的犯罪の犠牲者の数を増し、共通善の為ではなく、党派や統治者自身の利益のために権力を曲げて行使するような政治形態は、一部の地域に存在するが、このような政治形態すべてを排斥する。
Ad vitam politicam vere humanam instaurandam nihil melius est quam interiorem iustitiae et benevolentiae ac servitii boni communis sensum fovere atque persuasiones fundamentales circa veram indolem communitatis politicae necnon circa finem, rectum exercitium et limites publicae auctoritatis corroborare.  真に人間にふさわしい政治生活を確立するためには、正義感と親切心と共通善に対する奉仕の精神を養い、政治共同体の真の性格、および公権の目的とその正当な行使とその限界とに関する基本的確心を強めることが最も重要である。
74. De communitatis politicae natura et fine. 74(政治共同体の本質と目的)
Homines, familiae et varii coetus, qui communitatem civilem constituunt, propriae insufficientiae ad vitam plene humanam instituendam conscii sunt et necessitatem amplioris communitatis percipiunt, in qua omnes, ad commune bonum semper melius procurandum, cotidie proprias vires conferant (155). Quapropter communitatem politicam secundum varias formas constituunt. Communitas ergo politica propter illud commune bonum exsistit, in quo suam plenam iustificationem et sensum obtinet, et ex quo ius suum primigenum et proprium depromit. Bonum vero commune summam complectitur earum vitae socialis condicionum, quibus homines, familiae et consociationes, suam ipsorum perfectionem plenius atque expeditius consequi possint (156).  市民共同体を形成する各個人、家庭、諸団体は、完全な人間生活を営むためには自分たちだけでは不十分であることを自覚し、絶えず共通善をよりよく実現するためにすべての人が毎日力を合わせるような、さらに大きな共同体の必要を感じる。そのため人々は種々の形態の政治共同体を形成するのである。したがって共通善の為に存在する政治共同体は、共通善の中にその完全な意味とその完全な正当性を見いだし、またそこから最初のそして本来の権利を得る。共通善は個人・家庭・団体がそれぞれの完成に、より用意に到達できるような社会生活の諸条件の総体である。
Multi autem et diversi sunt homines, qui in communitatem politicam conveniunt et legitime in diversa consilia declinare possunt. Ne igitur, unoquoque in suam sententiam abeunte, communitas politica distrahatur, auctoritas requiritur, quae omnium civium vires in bonum commune dirigat, non mechanice nec despotice, sed imprimis ut vis moralis, quae libertate et suscepti officii onerisque conscientia nititur.  しかし、政治共同体を作る多くの異なった人々は、当然種々の異なった意見に傾くことができる。そこで、各自が自分の意見を固守することによって、政治共同体の分裂を防ぐために権威が必要となる。すなわち権利は機械的にでもなく暴君的にでもなく、まず自由と責任感に根ざす道徳的力として、全国民の力を共通善に向けさせるのである。
Patet ergo communitatem politicam et auctoritatem publicam in natura humana fundari ideoque ad ordinem a Deo praefinitum pertinere; etsi regiminis determinatio et moderatorum designatio liberae civium voluntati relinquantur (157).  それゆえ、政治共同体と公権は人間の本性に基づくものであり、したがって神の定めた秩序に属するものであること明白である。ただし、政治体制の決定と政府の指名は国民の自由意志に任されている。
Sequitur item auctoritatis politicae exercitium sive in communitate ut tali, sive in institutis rem publicam repraesentantibus, semper intra fines ordinis moralis ad effectum deducendum esse, ad commune bonum - et quidem dynamice conceptum - procurandum, secundum ordinem iuridicum legitime statutum vel statuendum. Tunc cives ad obedientiam praestandam ex conscientia obligantur (158). Exinde vero patet responsabilitas, dignitas et momentum eorum, qui praesunt.  同様に、政治上の権威の行使は、共同体そのものにおいても、常に倫理秩序の限界内において、動的(ダイナミック)なものと理解された共通善を目的として、合法的に定められた、または定むべき法秩序に従って行われるべきである。その場合、国民には良心に基づいて服従すべき義務が生ずる。ここにおいて、上に立つ者の責任、品位、重要性は明白である。
Ubi autem a publica auctoritate, suam competentiam excedente, cives premuntur, ipsi, quae a bono communi obiective postulantur, ne recusent; fas vero sit eis contra abusum huius auctoritatis sua conciviumque suorum iura defendere, illis servatis limitibus, quos lex naturalis et evangelica delineat.  公権が越権行為によって国民を圧迫する場合も、国民は共通善によって客観的に要求されることを拒否してはならない。しかし国民は公権の乱用に反対して、自然法と福音のおきてが示す限界を守りながら、自分および同国民の権利を擁護することができる。
Modi vero concreti, quibus communitas politica propriam compagem et publicae auctoritatis temperationem ordinat, varii esse possunt secundum diversam populorum indolem et historiae progressum; semper autem ad hominem excultum, pacificum et erga omnes beneficum efformandum inservire debent, ad totius familiae humanae emolumentum.  政治共同体がみずからの構造を定め、公権を規制する具体的方式は、それぞれの国民性と歴史の発展に応じて異なり売る。しかし、それは常に全人類家族の益のために、教養があり、平和を愛し、すべての人に好意をもつ人間を育成することに役だつものでなければならない。
75. De omnium in vita publica cooperatione. 75(公的生活におけるすべての人の協力)
Cum humana natura plene congruit ut structurae politicae-iuridicae inveniantur, quae omnibus civibus semper melius ac sine ulla discriminatione possibilitatem effectivam praebeant libere et actuose participandi tum in fundamentis iuridicis communitatis politicae statuendis, tum in rei publicae moderamine et variorum institutorum campis et finibus determinandis, tum in moderatorum electione (159). Memores ergo omnes cives sint iuris simul et officii suo libero suffragio utendi ad bonum commune promovendum. Ecclesia laude et consideratione dignum opus illorum habet, qui in hominum servitium rei publicae bono se devovent et huius officii onera suscipiunt.  政治共同体の法的基礎の制定、国家の統治と諸機関の領域および目的の決定、為政者の選挙に関して、実際に国民のすべてが常によりよく、なんらの差別待遇なしに、自由に行動的に参加できるような法的政治的形態を見いだすことは人間の本性にまったくなかったことである。したがって国民のすべては共通善を促進するために自由投票を用いる権利と義務があることを記憶すべきである。人々に対する奉仕として、国家の福祉のために尽くし、またこの任務の重責を引き受ける人々の働きを教会は賞賛に価するものとして高く評価する。
Ut civium cooperatio, cum officii conscientia coniuncta, in cotidiana publicae rei vita effectum suum felicem attingat, requiritur positivus ordo iuris, in quo conveniens divisio munerum et institutorum auctoritatis publicae atque simul efficax tuitio iurium, neminique obnoxia, instaurentur. Omnium personarum, familiarum ac coetuum iura eorumque exercitium agnoscantur, serventur et promoveantur (160), simul cum officiis, quibus cuncti cives obstringuntur. Inter quae officium meminisse oportet rei publicae materialia et personalia servitia praestandi, quae ad bonum commune requiruntur. Caveant moderatores ne coetus familiares, sociales aut culturales, corpora aut instituta intermedia, impediant, neve ea sua legitima et efficaci actione privent, quam potius libenter et ordinatim promovere satagant. Cives vero, sive singuli sive consociati, caveant ne nimiam potestatem publicae auctoritati tribuant, neve nimia commoda et utilitates ab ipsa inopportune postulent, ita ut personarum, familiarum necnon coetuum socialium officii onus imminuant.  国民の良心的協力が国家の日常生活の中によい実を結ぶためには、成文法が必要である。それによって、公権の諸機関と任務の適切な分割、ならびに権利の擁護にあたる独立した効果的な制度が定められる。すべての個人・家庭・集団の権利とその行使・ならびにすべての国民を拘束する義務が認められ、守られ、促進されなければならない。国民の義務の一つとして、共通善のために必要な物的または人格的奉仕、文化団体、中間団体を妨害したり、その正当で効果的活動を禁止せず、帰ってそのような活動を喜んで秩序正しく促進するよう努力すべきである。国民は個人としても団体としても、公権に過度の権限を与えないよう、また公権から過度の援助や利益を不当に要求しないように留意すべきである。このようなことは個人、家庭、社会集団の責任感を低下させるからである。
Ab implicatioribus nostrae aetatis adiunctis publica auctoritas saepius in res sociales et oeconomicas atque culturales se interponere cogitur ad aptiores inducendas condiciones, quibus cives ac coetus ad integrum humanum bonum libere prosequendum efficacius iuventur. Secundum autem diversas regiones et populorum evolutionem diverso modo intellegi possunt relationes inter socializationem (161) et personae autonomiam ac progressum. Sed ubi exercitium iurium propter bonum commune ad tempus restringitur, libertas, circumstantiis mutatis, quam primum restituatur. At inhumanum est quod auctoritas politica incidat in formas totalitarias vel in formas dictatorias quae iura personae vel socialium coetuum laedant.  複雑な現代の状況において、人間としての完成を追求する国民や団体をより効果的に助けることができるいっそう適切な状況を作り出すために、公権はしばしば社会的、経済的、文化的な事がらに、止むをえず介入しなければならない。社会化と個人の自主および進歩との関係は地域の違いと国民の進歩の度合いに応じてさまざまに理解される。ただし共通善のために、権利の行使が一時的に制限される場合には、事情が変われば、まず大一に自由を回復すべきである。政治権力が個人および社会的団体の権利を侵害する全体主義や独裁主義の形態をとることは、ひにんげんてきなことである。
Cives pietatem erga patriam magnanimiter et fideliter excolant, sine tamen mentis angustia, ita scilicet ut ad bonum totius familiae humanae, quae variis nexibus inter stirpes, gentes ac nationes coniungitur, semper simul animum intendant.  国民は祖国愛を惜しみなく忠実に養うべきであるが、心の狭さを避け、諸民族、諸国民、諸国家の間における種々の関連によって結ばれている全人類家族の善を常に志さなければならない。
Christifideles omnes in communitate politica specialem et propriam vocationem sentiant, qua exemplo praefulgere debent quatenus officii conscientia sunt adstricti et communi bono excolendo inserviunt, ita ut factis quoque commonstrent quomodo auctoritas cum libertate, inceptio personalis cum totius corporis socialis coniunctione ac necessitudine, unitas opportuna cum proficua diversitate componantur. Circa rem temporalem ordinandam legitimas, at inter se discrepantes, opiniones agnoscant, civesque, etiam consociatos, qui eas honeste defendunt, revereantur. Partes autem politicae ea promovere debent, quae earum iudicio ad bonum commune requiruntur; numquam vero propriam utilitatem communi bono praeponere licet.  すべてのキリスト信者は、政治的共同体における自分の特別な使命を感じとるべきである。キリスト信者は義務に対する責任感と共通善に対する奉仕の輝かしい模範によって、この召命を示すべきである。したがってキリスト信者は、権力と自由、個人の創意と社会全体の連帯性および関係、必要な統一と実り多い多様性をどのように結び合わせるかを、行為を持って示さなければならない。地上の諸現実の処理に関しては互いに異なる種々の考え方を正当なものとして認め、自分の考え方を正直に弁護する市民と団体を尊重すべきである。政党は共通善のために必要であると判断した事がらを促進しなければならない。しかし、政党自体の利益を共通善に優先させることは絶対に許されない。
Educatio vero civilis et politica, hodie tum populo tum praesertim iuvenibus maxime necessaria, sedulo curanda est, ut omnes cives in communitatis politicae vita partes suas agere valeant. Qui idonei sunt aut fieri possunt ad artem politicam, difficilem simul et nobilissimam (162), sese praeparent et eam, proprii commodi et venalis beneficii immemores, exercere satagant. Contra iniuriam et oppressionem, unius hominis vel partis politicae arbitrarium dominatum et intolerantiam, integritate morum ac prudentia agant; sinceritate autem et aequitate, immo caritate et fortitudine politica, bono omnium se devoveant.  公民教育と政治教育は、国民のすべてが政治共同体の生活において自分の役割を果たすために、国民特に青少年にとって大いに必要であり、熱心に行うべきである。困難であると同時に最も高貴な政治の技術に適する者、またはその可能性のある者は、そのために準備し、自分の利権や物質的利益を考えずに政界に入るように努力すべきである。不正、圧制、一個人または一政党による専制と不寛容に対しては精錬潔白と思慮をもって戦い、誠実、平等、愛、政治的勇気をもってすべての人の福祉に専念すべきである。
76. Communitas politica et Ecclesia. 76(政治共同体と教会)
Magni momenti est, praesertim ubi societas pluralistica viget, ut rectus respectus relationis inter communitatem politicam et Ecclesiam habeatur, utque inter ea, quae christifideles, sive singuli sive consociati, suo nomine tamquam cives, christiana conscientia ducti, et ea, quae nomine Ecclesiae una cum pastoribus suis agunt, clare distinguatur.  政治共同体と教会との関係について、正しい見方を持つことは特に多元的社会において重要である。またキリスト信者個人または団体が、キリスト教的良心に基づいて一市民として行うことと、牧者とともに教会を代表して行うことを明確に区別することは重要である。
Ecclesia, quae, ratione sui muneris et competentiae, nullo modo cum communitate politica confunditur, neque ad ullum systema politicum alligatur, simul signum est et tutamentum transcendentiae humanae personae.  教会の任務と権限から考えて、教会と政治共同体とはけっして混同されるべきではなく、教会はどのような政治体制にも拘束されてはならない。同時に、人間の超越性のしるしであり、またその保護者である。
Communitas politica et Ecclesia in proprio campo ab invicem sunt independentes et autonomae. Ambae autem, licet diverso titulo, eorumdem hominum vocationi personali et sociali inserviunt. Quod servitium eo efficacius in omnium bonum exercebunt, quo ambae melius sanam cooperationem inter se colunt, attentis quoque locorum temporumque adiunctis. Homo enim ad solum ordinem temporalem non coarctatur, sed in historia humana vivens aeternam suam vocationem integre servat. Ecclesia vero, in Redemptoris amore fundata, ad hoc confert ut intra nationis terminos et inter nationes iustitia et caritas latius vigeant. Evangelicam veritatem praedicando atque omnes navitatis humanae provincias, per suam doctrinam et testimonium a christifidelibus exhibitum, illuminando, etiam politicam civium libertatem et responsabilitatem reveretur atque promovet.  政治共同体と教会はそれぞれの分野において互いに独立しており、自律性を持っている。しかし両者は、名目こそ違え、同じ人々の個人的、社会的召命に奉仕する。両者が時と所の状況を考慮して互いに健全に協力しあうならば、すべての人の益のために、この奉仕をよりよく実行できるであろう。事実、人間は現世的秩序だけに制約されているのではない。人間は人類の歴史の中に生きながら、自分の永遠の召命をそのまま保っている。教会はあがない主の愛の上に築かれて、国内と国際間に正義と愛がいっそう広く実行されることに寄与する。教会は福音の真理を説き、その教えとキリスト信者のあかしをもって人間活動の全分野を照らすことにより、国民の政治的自由と責任をも尊重し促進する。
Apostoli ipsorumque successores et horum cooperatores, cum mittantur ut hominibus Christum mundi Salvatorem annuntient, in suo apostolatu exercendo Dei potentia innituntur, qui persaepe in testium infirmitate virtutem Evangelii manifestat. Quicumque enim Dei verbi ministerio se devovent, utantur oportet viis et subsidiis Evangelio propriis, quae in pluribus a terrenae civitatis subsidiis differunt.  世の救い主キリストを人々に告げるために派遣された使徒とその後継者、およびその協力者たちは、その使徒職の実践において、しばしば証人たちの弱さの中に福音の威力を示す神の力に依存する。神のことばの奉仕に献身する者は皆、福音独自の方法と援助を用いるべきである。それは多くの場合、地上の国の援助とは異なっている。
Res quidem terrenae et ea, quae in hominum condicione hunc mundum exsuperant, arcte inter se iunguntur, et ipsa Ecclesia rebus temporalibus utitur quantum propria eius missio id postulat. Spem vero suam in privilegiis ab auctoritate civili oblatis non reponit; immo quorundam iurium legitime acquisitorum exercitio renuntiabit, ubi constiterit eorum usu sinceritatem sui testimonii vocari in dubium aut novas vitae condiciones aliam exigere ordinationem. Semper autem et ubique ei fas sit cum vera libertate fidem praedicare, socialem suam doctrinam docere, munus suum inter homines expedite exercere necnon iudicium morale ferre, etiam de rebus quae ordinem politicum respiciunt, quando personae iura fundamentalia aut animarum salus id exigant, omnia et sola subsidia adhibendo, quae Evangelio et omnium bono secundum temporum et condicionum diversitatem congruant.  確かに、地上の現実と、人間の条件においてこの世を超越する事がらとは、互いに密接に結ばれている。教会自身もその固有の使命が要求する場合、地上の現実を利用する。しかし、教会は国家権力が提供する特権を希望するものではない。むしろ正当な既得権の行使が教会のあかしの誠実さについて疑いをいだかせたり、新しい生活条件が別な規制を要求するときには、正当な既得権の行使を放棄するであろう。しかし教会は常に、どこにおいても、真の自由をもって信仰を説き、社会に関する自分の教説を教え、人々の間において自分の任務を妨げなく実行する権利を持っている。なお人間の基本的権利や霊魂の救いのために必要であれば、教会は福音および、さまざまな時と条件に応じてすべての人の益にふさわしいあらゆる手段を、そしてそれのみを用いて、政治的秩序に関する事がらにおいても倫理的判断を下すことができる。
Fideliter Evangelio adhaerens et suam missionem in mundo exercens, Ecclesia, cuius est, quidquid verum, bonum et pulchrum in communitate humana invenitur, fovere ac elevare (163), pacem inter homines ad Dei gloriam roborat (164).  人間共同体の中に見いだされる真・善・美のすべてを育て高めることを自分の務めとする教会は、忠実に福音に従い、世における自分の使命を実行死筒、神の栄光のために人々の間に平和を固める。

(155) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 417.
(156) Cf. ID., ibid.
(157) Cf. Rom. 13, 1-5.
(158) Cf. Rom. 13, 5.
(159) Cf. PIUS XII, Nuntius radioph., 24 dec. 1942: AAS 35 (1943), pp. 9-24; 24 dec. 1944: AAS 37 (1945), pp. 11-17; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris:: AAS 55 (1963), pp. 263, 271, 277-278.
(160) Cf. PIUS XII, Nuntius radioph., 1 iun. 1941: AAS 33 (1941), p. 200; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris:: l. c., pp. 273-274.
(161) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 415-418.
(162) Cf. PIUS XI, Alloc. Ai dirigenti della Federazione Universitaria Cattolica: Discorsi di Pio XI: ed. Bertetto, Torino, vol. I (1960), p. 743.
(163) Cf. CONC. VAT. II, Const. dogm. de Ecclesia, Lumen gentium, n. 13: AAS 57 (1965), p 17.
(164) Cf. Lc. 2, 14.

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「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則 の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

 

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則」の原文を対訳でご紹介します。

Sectio II: De quibusdam principiis totam vitam oeconomicam-socialem regentibus 第2節 経済・社会生活全体を支配する若干の原則
67. De labore eiusque condicionibus atque de otio. 67(労働、労働条件、休暇)
Labor humanus, qui in bonis gignendis ac commutandis vel in servitiis oeconomicis suppeditandis exercetur, ceteris elementis vitae oeconomicae praestat, quippe quae tantum rationem instrumentorum habeant.  物の生産と交換ならびに経済的サービス業に従事する労働者は、単に手段にすぎない他の経済生活の要素にまさっている。
Hic enim labor, sive proprio marte assumatur sive ab alio conducatur, a persona immediate procedit, quae res naturae quasi suo sigillo signat easque suae voluntati submittit. Labore suo, homo ordinarie suam suorumque vitam sustentat, cum fratribus suis coniungitur eisque inservit, germanam caritatem exercere potest atque creationi divinae perficiendae sociam operam praebere. Immo, per laborem Deo oblatum, tenemus hominem ipsi redemptionis operi Iesu Christi consociari, qui praecellentem labori detulit dignitatem, cum in Nazareth propriis manibus operaretur. Exinde oritur pro unoquoque officium fideliter laborandi atque etiam ius ad laborem; societatis vero est, iuxta adiuncta in ea vigentia, pro sua parte cives adiuvare ut sufficientis laboris occasionem invenire possint. Denique ita remunerandus est labor ut homini facultates praebeantur suam suorumque vitam materialem, socialem, culturalem spiritualemque digne excolendi, spectatis uniuscuiusque munere et productivitate necnon officinae condicionibus et bono communi (144).  この労働は自力によるものも、雇用によりものも、直接に人間から出るものである。すなわち、人間は自然物に自分の刻印をしるし、それを自分の意志に従わせる。人間は普通、労働によって自分と家族との生活を維持し、兄弟たちと結ばれ、これに仕える。また労働によって、真実の愛を実践し神の創造の完成に協力することができる。なお、労働を神にささげることによって、人間はイエズス・キリストのあがないのわざ自体に参加する、とわれわれは主張する。主はナザレにおいて、自分の手で労働することによって、労働にすぐれた価値を与えたのである。これらのことから、忠実に労働する義務と労働する権利とが各人に生ずるのである。社会は国民が十分な仕事の機会を見いだすことができるように、社会の具体的状況に応じて、その立場から、国民を助けなければならない。さらに労働の報酬は、各自の任務と生産性、企業の状況と共通善を考慮したうえで、本人とその家族に物質的・社会的・文化的・精神的生活をふさわしく営むことのできる手段を保証するものでなければならない。
Cum navitas oeconomica plerumque consociato hominum labore fiat, iniquum et inhumanum est illam ita componere et ordinare ut quibusvis laborantibus detrimento sit. Saepius autem accidit, etiam nostris diebus, ut opus facientes quodammodo in servitutem proprii operis redigantur. Quod sic dictis legibus oeconomicis nequaquam iustificatur. Universus igitur fructuosi laboris processus necessitatibus personae eiusque vitae vivendi rationibus accommodandus est; imprimis eius vitae domesticae, praesertim quod ad matres familiae spectat, respectu semper habito et sexus et aetatis. Laborantibus praebeatur insuper facultas proprias qualitates personamque suam in ipso laboris exercitio explicandi. Huic exercitio tempus viresque suas debita cum responsabilitate applicantes, tamen ad vitam familiarem, culturalem, socialem et religiosam colendam etiam sufficienti quiete et otio omnes gaudeant. Immo opportunitatem habeant vires ac potentias libere evolvendi, quas fortasse in labore professionali parum excolere valent.  一般に、経済活動は多くの人間の協同によるものであるから、働く人々のだれかの不利になるような経済活動を組織し規制することは不正であり非人間的である。しかし、働く者がある意味で自分の仕事に隷属させられるようなことが、今日においても、しばしば起こっている。このことは、いわゆる経済法則によってけっして正当化されるものではない。それゆえ、生産的労働の全過程を、人間の必要とその生活の要求に適応させなければならない。それはまず第一に過程生活の必要に適応させるべきであって、特に過程の母親立ちに関して、常に性別と年齢を考慮に入れなければならない。そのうえ、労働者が、自分の労働の中に自分の能力と人格を発展させることのできる可能性を持たなければならない。働く者は正しい責任感に基づいて自分の時間と労力を仕事に注ぎ込まなければならないが、過程・文化・社会・宗教生活を営むためにも、十分な休息と余暇が働く者のすべてに与えられなければならない。なお、自分の職業においては十分に使うことができない能力や技能を時通に伸ばす機会を持たなければならない。
68. De participatione in inceptis et in universa rei oeconomicae dispositione, et de conflictibus in labore. 68(企業参加、国際的経済組織への参加、労働争議)
In inceptis oeconomicis personae consociantur, homines scilicet liberi et sui iuris, ad imaginem Dei creati. Ideo, attentis muneribus uniuscuiusque, sive proprietariorum, sive conductorum operis, sive dirigentium, sive operariorum, atque salva necessaria directionis operis unitate, promoveatur, modis apte determinandis, omnium actuosa participatio in inceptorum curatione (145). Cum autem saepius non iam in ipso incepto, sed altius a superioris ordinis institutis de oeconomicis et socialibus condicionibus decernatur, e quibus sors futura laborantium eorumque liberorum pendet, etiam in his statuendis partem habeant, et quidem per seipsos vel per delegatos libere electos.  人間は、(すなわち自由で自主的で神の像にかたどって造られている人間は)結合して得企業をいとなむ。したがって、資本家、経営者、管理者、労働者のそれぞれの職務を考慮し、業務運営上必要な統一を確保したうえで、適切に規定された方法によって、すべての人が企業の経営に積極的に参加することを促進するべきである。労働者とその子供たちの将来を左右する経済的、社会的条件は企業そのものの段階においてではなく、上層の組織によって決定されることが多いから、労働者は自分自身かまたは自由に選出した代表者を通して、この決定にも参加すべきである。
Inter fundamentalia personae humanae iura adnumerandum est ius pro laborantibus consociationes libere condendi, quae eos vere repraesentare et ad vitam oeconomicam recto ordine disponendam conferre possint, necnon ius earum navitatem sine ultionis periculo libere participandi. Per huiusmodi ordinatam participationem, cum progrediente formatione oeconomica et sociali iunctam, in dies augebitur apud omnes proprii muneris onerisque conscientia, qua ipsi eo adducantur ut, secundum capacitates aptitudinesque sibi proprias, totius operis progressionis oeconomicae et socialis necnon universi boni communis procurandi socios se sentiant.  労働者が自由に組合を組織する権利を、基本的人権の中に数えるべきであり、組合は労働者を真実に代表し、経済生活の正しい調整に寄与できるものでなければならない。また報復の危険なしに組合活動に自由に参加する権利を認めなければならない。このような秩序のある参加は、経済的・社会的要請の進歩とともに、自分の職務と仕事に関するすべての人の自覚を強めるであろう。こうして人々は各自がその能力と才能に応じて、経済・社会生活全体の発展と全世界の共通善の実現に参加していることを感じるようになる。
Cum vero conflictus oeconomici-sociales oriuntur, ut ad pacificam eorum solutionem deveniatur enitendum est. Licet autem semper praeprimis ad sincerum inter partes colloquium sit recurrendum, operistitium tamen, et in hodiernis adiunctis, ad propria iura defendenda et ad iusta laborantium quaesita implenda, adiumentum necessarium, etsi ultimum, manere potest. Quamprimum vero viae ad negotiationem et conciliationis colloquium resumendum quaerantur.  経済的・社会的争議が起こったときには、平和的解決に達するよう努力すべきである。まず解決の常道として、双方の間の誠実な話し合いを求めなければならないが、現状においては、ストライキは労働者の権利を守り、その正当な要求を実現するための最後の必要手段として認めることができる。この際にもできるだけ早く交渉再開と話し合いによる妥結への道を探すべきである。
69. De bonorum terrestrium ad universos homines destinatione. 69(地上の財貨は万人のためのものである)
Deus terram cum omnibus quae in ea continentur in usum universorum hominum et populorum destinavit, ita ut bona creata aequa ratione ad omnes affluere debeant, iustitia duce, caritate comite (146). Quaecumque formae proprietatis sint, legitimis institutis populorum accommodatae, secundum diversa atque mutabilia adiuncta, ad hanc bonorum universalem destinationem semper attendendum est. Quapropter homo, illis bonis utens, res exteriores quas legitime possidet non tantum tamquam sibi proprias, sed etiam tamquam communes habere debet, eo sensu ut non sibi tantum sed etiam aliis prodesse queant (147). Ceterum, ius habendi partem bonorum sibi suisque familiis sufficientem omnibus competit. Ita Patres Doctoresque Ecclesiae senserunt, docentes ad pauperes sublevandos homines obligari, et quidem, non tantum ex superfluis (148). Qui autem in extrema necessitate degit, ius habet ut ex aliorum divitiis necessaria sibi procuret (149). Cum tot sint in mundo fame oppressi, Sacrum Concilium omnes sive singulos sive auctoritates urget ut, illius sententiae Patrum memores: Pasce fame morientem, quia si non pavisti occidisti (150), pro uniuscuiusque facultate, bona sua revera communicent et impendant, praesertim illos, sive singulos sive populos, auxiliis muniendo, quibus ipsi sese adiuvare atque evolvere possint.  神は地とそこに含まれるあらゆる物を、すべての人と民族の使用に決定した。したがって被造財は、合いを伴う正義に基づいて、公正にすべての人に豊富に行きわたらなければならない。変動する種々の状況に対応し、国民の正当な制度に適応したものとしての所有の形態が、どのようなものであるにせよ、人は財のこの普遍的指定を常に考慮しなければならない。それゆえ人間は、財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を自分のものとしてばかりでなく共同のもの、すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役だつようにという意味に考えなければならない。いずれにせよ、すべての人は自分と自分の家族のために十分な量の財産を所有する権利を持っている。教会の教父や博士はこのように考え、貧しい人を助ける義務があること、しかもそれは自分にとって余分なものを与えるだけでは十分でないことを教えた。窮乏の極にある者は自分にとって欠くことのできない必要物を、他人の財産から取得する権利がある。世界には飢えに苦しんでいる人が多いので、公会議はあらゆる人と政府とに呼びかけ、「飢え死にしそうな人に食物を与えなさい。かれに食物を提供しないならば、きみがかれを殺したのだ」と宣言する教父たちのことばを思い起こすよう、そして各自の能力に応じて実際自分の持ち物を分け与え、特に個人や国家がみずからを助け、発展できるような手段を提供するよう迫る。
In societatibus oeconomice minus progressis non raro destinationi communi bonorum ex parte per consuetudines et traditiones communitati proprias satis fit, quibus unicuique membro bona prorsus necessaria praebentur. Vitandum tamen est ne consuetudines quaedam ut omnino immutabiles habeantur, si novis exigentiis huius temporis non iam respondeant; altera vero parte, ne contra honestas consuetudines imprudenter agatur quae, dummodo hodiernis adiunctis apte accommodentur, perutiles esse non desinunt. Similiter in nationibus oeconomice valde progressis, corpus quoddam socialium institutionum, ad cautionem et securitatem spectantium, communem bonorum destinationem pro sua parte ad actum adducere potest. Ulterius promovenda sunt servitia familiaria et socialia, praesertim quae animi cultui atque educationi consulunt. In his omnibus instituendis, invigilandum tamen est ne cives ad quamdam erga societatem inertiam inducantur neve suscepti officii onus reiiciant et servitium repudient.  経済的に低開発の社会において、その社会特有の習慣や伝統によって、財の共同指定が部分的に実行されることもまれでない。こうして必要財は各個人に提供される。しかし、現代の新しい要請にもはや適応しない場合、ある種の習慣を、全然変更できないものと考えることは避けるべきであるが、それと同時に、現代の事情によく順応させれば十分役だつ正しい習慣を、いたずらに破壊すべきではない。同時に、経済的に非常に発達した国においては、保険と保障に関する社会制度の組織が、財の共同指定を部分的に実現することができる。なお、家庭奉仕や社会奉仕、特に文化と教育に寄与するものを促進すべきである。ただし、これらすべてが制定された結果、国民が社会に対して消極的な態度に陥ったり、引き受けた任務の責任を回避したり、奉仕を拒否したりすることがないように、注意しなければならない。..
70. De bonorum collocationibus et de re nummaria. 70(投資と貨幣)
Bonorum collocationes, ex sua parte, tendere debent ad occasiones laboris redditusque sufficientes tam populo hodierno quam futuro procurandos. Quicumque de his collocationibus et vitae oeconomicae ordinatione decernunt - sive singuli, sive coetus, sive auctoritates publicae -, hos fines prae oculis habere tenentur, atque gravem suam obligationem agnoscere ex una parte invigilandi, ut necessariis ad vitam decentem requisitis, sive singulorum sive totius communitatis, provideatur, ex altera parte futura praevidendi et iustum aequilibrium constituendi inter necessitates hodiernae consumptionis, sive individualis sive collectivae, et exigentias collocandi bona pro generatione ventura. Semper etiam prae oculis habeantur urgentes nationum vel regionum oeconomice minus progressarum necessitates. In re autem monetaria caveatur ne propriae nationis necnon aliarum nationum bono offendatur. Provideatur insuper ne oeconomice debiles ex valoris pecuniae immutatione iniuste detrimentum patiantur.  投資は現在と将来の国民に十分な仕事の機会と収入を確保することを目ざすものでなければならない。このような投資と経済生活の計画を決定する人はだれでも、個人も団体も公権も、上述の目的を念頭に置き、自分の重大な責任を自覚すべきである。すなわち、一方では個人にも共同体にも相応な生活に必要なものが提供されるように配慮し、他方では将来を見通して個人および集団の現在の消費の必要と、未来の世代のための投資の必要との間に正しい均衡を見いだすようにしなければならない。なお、低開発国または低開発地域の緊急の必要を常に念頭に置かなければならない。通過の取り扱いに関しては、自国または他国の利益を害することがあってはならない。経済的に貧しい国々が貨幣価値の変動によって不正な損害を受けることがないようにすべきである。
71. De accessione ad proprietatem et dominium privatum bonorum; et de latifundiis. 71(財産取得、私有権、大地主)
Cum proprietas ac aliae in bona exteriora dominii privati formae ad expressionem personae conferant, cum insuper occasionem ei praebeant suum munus in societate et oeconomia exercendi, valde interest ut, sive singolorum sive communitatum, ad quoddam bonorum exteriorum dominium accessio foveatur.  財産所有ならびに物件私有のその他の形態は、人間の自己表示に寄与し、さらに社会と経済において自分の責任を果たす機会を提供する。個人または団体が物件についてある種の支配権を取得できるように奨励することは非常に重要である。
Proprietas privata aut dominium quoddam in bona exteriora spatium plane necessarium ad personalem et familiarem autonomiam unicuique conferunt, et velut libertatis humanae extensio considerari debent. Demum, quia ad munus onusque exercendum stimulos addunt, condicionem quamdam libertatum civilium constituunt (151).  私有財産または物件に対するある種の支配権は、個人と家庭の自律にまったく必要な領域を各自に提供するものであり、人間の自由の延長とも考えるべきである。それは義務と責任を果たすための刺激剤であるから、市民的自由の一条件でもある。
Formae talis dominii vel proprietatis sunt hodie diversae et in dies adhuc magis diversificantur. Omnes autem, non obstantibus fundis socialibus, iuribus et ministeriis a societate procuratis, causa non parvipendenda securitatis manent. Quod non tantum de proprietatibus materialibus dicendum est, sed etiam de immaterialibus bonis, uti sunt capacitates professionales.  このような支配権または所有の形態は今日、種々さまざまであり、それは日増しに複雑化している。今日では、公共の資金や、社会が保証する権利と奉仕が存在するが、これら種々の所有形態は軽視できない保障の源である。このことは物件の所有に関してばかりでなく、専門的能力のような非物質的な財についても言うことができる。
Ius autem privati dominii illi iuri non obstant quod variis formis proprietatum publicarum inest. Translatio quidem bonorum in publicam proprietatem non nisi a competenti auctoritate, iuxta boni communis exigentias et intra eius limites, aequa compensatione oblata, fieri potest. Praeterea, ad publicam auctoritatem pertinet praecavere ne quis privata proprietate contra bonum commune abutatur (152).  私有権は公共所有権の諸形態のもつ権利を妨げるものではない。財貨を公共の所有とすることは、所轄当局により、共通善の要求に基づいて、その限界内で、公正な補償が与えられて行われる場合にだけ可能である。なお公権は私有財産が共通善に反して乱用されないように手配すべきである。
Ipsa autem proprietas privata et indolem socialem natura sua habet, quae in communis destinationis bonorum lege fundatur (153). Qua sociali indole neglecta, proprietas multoties occasio cupiditatum et gravium perturbationum fieri accidit, ita ut ad ipsum ius in discrimen vocandum impugnatoribus praetextus detur.  私有財産自体は、本性上社会的性格を持っている。この社会的性格は財の共通目的の法則に基づくものである。この社会的性格を無視すれば、財産所有はしばしば欲望と大きな無秩序の機会となり、所有権そのものを攻撃する者に口実を与えることになる。
In pluribus regionibus oeconomice minus progressis, magni vel etiam latissimi rustici fundi existunt, mediocriter exculti vel lucri causa sine ulla cultura manentes, dum maior pars populi vel terris caret vel minimis tantum agris gaudet, atque, ex altera parte, incrementum fructificationis agrorum evidenter urgens apparet. Non raro ii qui a dominis ad laborem conducuntur, vel qui partem illorum titulo locationis colunt, nonnisi stipendium vel proventum homine indignum recipiunt, decenti habitatione privantur, necnon a mediatoribus exspoliantur. Omni securitate carentes, sub tali personali famulatu vivunt, ut fere omnis facultas sponte et cum responsabilitate agendi eis tollatur, omnisque promotio in cultu humano et omnis pars in vita sociali et politica illis prohibeantur. Pro variis igitur casibus reformationes necessariae sunt: ut crescant reditus, emendentur condiciones laboris, augeatur securitas in conductione, deturque incitamentum ad sponte operandum; immo ut distribuantur fundi non satis exculti iis qui easdem terras fructuosas reddere valeant. Quo in casu suppeditanda sunt res et media necessaria, praesertim educationis subsidia et iustae ordinationis cooperativae facultates. Quoties autem proprietatis ademptionem bonum commune exegerit, compensatio ex aequitate, omnibus adiunctis perpensis, aestimanda est.  多くの低開発地域において、いいかげんに耕作されていたり、または投機のおもわくから放置されている、広大な、また巨大な農地さえ存在し、一方では、国民の大部分が土地を持たないか、ごく狭い耕地しか所有していない場合がある。しかも他方では農産物の増収が急務であることは明かである。土地所有者に雇用されている人々や小作人として働いている人々の受ける給料または報酬は、人間にふさわしくないほど少額であり、この人々は適当な住宅を持たず、仲介人によって搾取されることもまれではない。この人々は完全に無保障であり、自発的に責任をもって行動する能力をほとんど取り上げられるような個人的従属関係のもとに生活している。そのため、文化的進歩や社会的、政治的生活への参加はまったく禁じられてしまう。したがって、種々の状況に応じて、収入の増加、労働条件の改善、職務保障の増加、自発的労働の奨励をはじめ、開拓能力のある人々に対する未開発地の分配など、種々の改革が必要である。この最後の場合には必要な物と手段、特に教育の援助と協同組合を正しく組織する可能性を提供すべきである。共通善が私有財産の収入を要求するときは、あらゆる事情を考慮したうえで、公正な保障を算出すべきである。
72. De navitate oeconomica-sociali et de Regno Christi. 72(経済・社会活動とキリストの国)
Christiani qui activas partes in hodierna progressione oeconomica-sociali agunt et iustitiam caritatemque propugnant, persuasum sibi habeant se multum ad humanitatis prosperitatem et mundi pacem conferre posse. In his activitatibus sive singuli sive consociati exemplo fulgeant. Acquisitis quidem peritia experientiaque omnino necessariis, inter terrestres navitates rectum ordinem servent, in fidelitate erga Christum Eiusque Evangelium, ita ut integra eorum vita, tam individualis quam socialis, spiritu Beatitudinum, notabiliter paupertatis, imbuatur.  現代の経済・社会発展に積極的に参加し、正義と愛のために戦うキリスト者は、自分たちが人類の繁栄と世界の平和のために大いに貢献できるという確信を持たなければならない。また、自分たちの行動によって、個人としても団体としても、すぐれた模範を示さなければならない。絶対に必要な熟練と経験とを身に付け、キリストとその福音に忠実に仕え、地上的活動において、価値の正しい序列を守り、こうしてその個人的、社会的生活全体に真福八端の精神、特に清貧の精神が行きわたるようにしなければならない。
Quicumque Christo obediens, primum quaerit Regnum Dei, inde validiorem ac puriorem amorem suscipit, ad omnes fratres suos adiuvandos et ad opus iustitiae, inspirante caritate, perficiendum (154).  キリストに従ってまず神の国を求める物は、すべての兄弟を助けるため、また愛のはげましのもとに正義のわざを行うために、いっそう強くいっそう純粋な愛を受ける。

(144) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), pp. 649-662; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), pp. 200-201; ID., Litt. Encycl. Divini Redemptoris: AAS 29 (1937), p. 92; PIUS XII, Nuntius radiophonicus in pervigilio Natalis Domini 1942: AAS 35 (1943), p. 20; ID., Allocutio 13 iunii 1943: AAS 35 (1943), p. 172; ID., Nuntius radiophonicus operariis Hispaniae datus, 11 martii 1951: AAS 43 (1951), p. 215; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 419.
(145) Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 408, 424, 427; verbum autem «curatione» desumptum est ex textu latino Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 199. Sub aspectu evolutionis quaestionis cf. etiam: PIUS XII, Allocutio 3 iunii 1950: AAS 42 (1950), pp. 485-488; PAULUS VI, Allocutio 8 iunii 1964: AAS 56 (1964), pp. 574-579.
(146)Cf. PIUS XII, Epist. Encycl. Sertum laetitiae: AAS 31 (1939), p. 642; IOANNES XXIII, Allocutio concistorialis: AAS 52 (1960), pp. 5-11; ID., Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 411.
(147) Cf. S. THOMAS, Summa Theol. II-II, q. 32, a. 5 ad 2; Ibid. q. 66, a. 2: cf. explicationem in LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), p. 651; cf. etiam PIUS XII, Allocutio 1 iunii 1941: AAS 33 (1941), p. 199; ID., Nuntius radiophonicus natalicius 1954: AAS 47 (1955), p. 27.
(148) Cf. S. BASILIUS, Hom. in illud Lucae «Destruam horrea mea», n. 2: PG 31, 263; LACTANTIUS, Divinarum Institutionum, lib. V, de iustitia: PL 6, 565 B; S. AUGUSTINUS, In Ioann. Ev. tr. 50, n. 6: PL 35, 1760; ID., Enarratio in Ps. CXLVII, 12: PL 37, 1922; S. GREGORIUS M., Homiliae in Ev., hom. 20, 12: PL 76, 1165: ID., Regulae Pastoralis liber, pars III, c. 21: PL 77, 87; S. BONAVENTURA, In III Sent. d. 33, dub. I: ed. Quaracchi III, 728; ID., In IV Sent. d. 15, p. II, a. 2, q. 1: ibid IV, 371 b; Quaest. de superfluo: ms. Assisi, Bibl. comun. 186, ff. 112ª-113ª; S. ALBERTUS M., In III Sent., d. 33, a. 3, sol. 1: ed. Borgnet XXVIII, 611; ID., In IV Sent. d. 15, a. 16: ibid. XXIX, 494-497. Quod autem ad determinationem superflui nostris temporibus: cf. IOANNES XXIII, Nuntius radiotelevisificus 11 sept. 1962: AAS 54 (1962), p. 682: «Dovere di ogni uomo, dovere impellente del cristiano è di considerare il superfluo con la misura delle necessità altrui, e di ben vigilare perché l'amministrazione e la distribuzione dei beni creati venga posta a vantaggio di tutti».
(149) Valet in illo casu antiquum principium: «in extrema necessitate omnia sunt communia, id est communicanda». Alia ex parte pro ratione, extensione et modo quo applicatur principium in textu proposito, praeter modernos probatos auctores: cf. S. THOMAS, Summa Theol. II-II, q. 66, a. 7. Ut patet, pro recta applicatione principii, omnes condiciones moraliter requisitae servandae sunt.
(150) Cf. GRATIANI Decretum, c. 21, dist. LXXXVI: ed. Friedberg I, 302. Istud dictum invenitur iam in PL 54
(151) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Rerum Novarum: ASS 23 (1890-91), pp. 643-646; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 191; PIUS XII, Nuntius radiophonicus 1 iunii 1941: AAS 33 (1941), p. 199; ID., Nuntius radiophonicus in pervigilio Natalis Domini 1942: AAS 35 (1943), p. 17; ID., Nuntius radiophonicus 1 sept. 1944: AAS 36 (1944), p. 253; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 428-429.
(152) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 214; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 429.
(153) Cf. PIUS XII, Nuntius Radiophonicus Pent. 1941: AAS 44 (1941), p. 199; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961 ), p. 430.
(154) Pro recto usu bonorum iuxta doctrinam Novi Testamenti cf. Lc. 3, 11; 10, 30 ss.; 11, 41; I Pt. 5, 3; Mc. 8,36; 12, 29-31; Iac. 5, 1-6; I Tim. 6, 8; Eph. 4, 28; 2 Cor. 8, 13 ss.; I Io. 3, 17-18.

コメント

「現代世界憲章」第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第1節 経済的発展の羅和対訳

2019年12月03日 | 第二バチカン公会議

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
第2バチカン公会議公文書の「現代世界憲章」の「第二部 若干の緊急課題 第3章 経済・社会生活 第1節 経済的発展」の原文を対訳でご紹介します。

Caput III 第3章
DE VITA OECONOMICA-SOCIALI 経済・社会生活
63. De quibusdam vitae oeconomicae aspectibus. 63(経済生活のある面)
Etiam in vita oeconomica-sociali personae humanae dignitas eiusque integra vocatio, totiusque societatis bonum, honoranda atque promovenda sunt. Homo enim totius vitae oeconomicae-socialis auctor, centrum et finis est.  経済・社会生活においても、人間の尊厳とその全き召命、全社会の善が尊敬され促進されなければならない。人間は全経済社会生活の作者、中心、目的だからである。
Oeconomia hodierna, non secus atque aliae vitae socialis provinciae, crescenti super naturam hominis dominatione notatur, densioribus impensioribusque relationibus atque mutua dependentia, inter cives, coetus et populos, necnon frequentiori politicae potestatis interventione. Insimul progressus in rationibus producendi atque in bonis ac servitiis commutandis, oeconomiam aptum effecerunt instrumentum, quo adauctis familiae humanae necessitatibus melius provideri possit.  現代の経済は社会生活の分野と同様に、自然に対する人間の支配の増大、各市民・各集団・各国家の間の関連と相互依存の多角化と強化、政治権力のひんぱんな介入によって特徴づけられている。同時に、生産方式と商品および奉仕交流の進歩によって、経済は人類家族の増大した必要によりよく奉仕することができる適切な道具となった。
Non desunt tamen rationes inquietudinis. Homines non pauci, praesertim in regionibus oeconomice progressis, re oeconomica quasi regi videntur, ita ut fere tota eorum vita personalis ac socialis spiritu quodam oeconomistico imbuatur, tam in nationibus quae oeconomiae collectivisticae favent quam in aliis. Eo temporis momento quo vitae oeconomicae incrementum, dummodo rationabiliter humaniterque dirigatur atque coordinetur, inaequalitates sociales mitigare posset, saepe saepius in earum exasperationem, vel etiam alic-ubi in regressum condicionis socialis debilium et in despectum pauperum vertitur. Dum rebus omnino necessariis ingens multitudo adhuc caret, aliqui, etiam in regionibus minus progressis, opulenter vivunt vel bona dissipant. Luxus et miseria simul exsistunt. Dum pauci maxima deliberandi potestate fruuntur, multi omni paene possibilitate carent propria initiativa ac responsabilitate agendi, saepe etiam in condicionibus vitae et laboris persona humana indignis versantes.  しかし、不安の原因がないわけではない。少なからざる人々が、特に経済的に発展した地域において、経済によって支配されているように見え、かれらの個人ならびに社会生活の大部分は、一種の経済万能主義に染まっており、それは集団経済の国においても同様である。経済生活の発展が理性的に人間らしく指導され調整されるならば、社会的不平等を緩和することができる時代にあるにもかかわらず、しばしばそれを激化させ、ある地域においては弱者の社会条件の退歩や貧者に対する軽蔑さえ生み出している。無数の大衆が今もなお生活必需品さえ持たないのに、ある人々は、低開発地域においてさえ、豪勢な浪費生活をしている。ぜいたくと貧困とが同時に存在する。少数の人間が絶大な決定権を握り、多数の人間は自分の発意と責任において行動する可能性さえ持たず、しばしば人間にふさわしくない生活と労働条件の中に置かれている。
Similes aequilibrii oeconomici socialisque defectus inter agriculturam, industriam ac servitia, sicut etiam inter diversas regiones unius eiusdemque nationis advertuntur. Inter nationes oeconomice magis progressas aliasque nationes gravior in dies oppositio fit, quae ipsam pacem mundi in discrimen vocare potest.  農業、工業、サービス部門の間にも、同一国家内の各地方の間にも、経済的・社会的均衡の同様な欠如が見られる。経済的先進国とその他の国との間には、世界の平和を危機におとしいれることができる対立が日増しに深まっている。
Has disparitates coaevi nostri conscientia in dies vividiore persentiunt, cum eis persuasissimum sit, ampliores technicas et oeconomicas facultates, quibus mundus hodiernus gaudet, hunc infaustum statum rerum corrigere posse atque debere. Inde autem reformationes multae in vita oeconomica-sociali atque mentis et habitudinis conversio ab omnibus requiruntur. Ad hoc Ecclesia iustitiae et aequitatis principia, tam pro vita individuali et sociali, quam pro vita internationali, a recta ratione postulata, in decursu saeculorum sub luce Evangelii exaravit atque his praesertim ultimis temporibus protulit. Sacrum Concilium haec principia secundum adiuncta huius aetatis roborare orientationesque quasdam proferre intendit, exigentias progressionis oeconomicae imprimis respiciens (139).  現代人はこれらの差別を日増しに強く意識し始めている。それというのも現代の新技術と経済力によって、このような不幸な状態を改めることができるし、また改めなければならない、と確信しているからである。そのためには、経済社会生活において多くの改革およびすべての人の考え方と態度の改革が要求される。このために教会は、正しい理性から要求される、個人・社会・国際生活に関する正義と平等の原則を諸世紀の流れを通して福音の光のもとに明らかにしてきたが、特に近年、それを広く述べるに至って。公会議は経済発展による要請を考慮しながら、上述の原則を現代の事情に照らして強化し、若干の方向づけを行うことを望むのである。
Sectio I: De progressione oeconomica 第1節 経済的発展
64. De progressione oeconomica in hominis servitium. 64(人間に奉仕する経済的発展)
Hodie, magis quam antea, ut augmento populi consulatur et crescentibus generis humani optatis satisfiat, incrementum productionis bonorum agriculturae et industriae necnon praestationis servitiorum iure intenditur. Ideo favendum est progressui technico, spiritui innovationis, studio inceptuum creandorum atque ampliandorum, methodis productionis aptandis, ac strenuis quorumcumque productionem exercentium conatibus: omnibus nempe elementis quae huic progressioni inserviunt. Huius autem productionis finalitas fundamentalis non est merum productorum incrementum, neque lucrum vel dominatus, sed hominis servitium, hominis quidem integri, attento ordine materialium eius necessitatum atque eius vitae intellectualis, moralis, spiritualis ac religiosae exigentiarum, hominis, dicimus, cuiuscumque, et cuiuscumque hominum coetus, cuiusvis stirpis vel mundi regionis. Itaque navitas oeconomica, secundum methodos et leges proprias, intra fines ordinis moralis (140) exercenda est ita ut Dei de homine consilium adimpleatur (141).  以前にもまして今日では、人口の増加に備え、人類の増大する期待に答えるために、農業および工業生産の増加とサービス部門の工場を計ることは当然である。したがって、技術の進歩、改革の精神、企業の創設と拡張、生産方法の適応、生産に携わる全従業員の熱心な努力、一言でいえば発展に役だつあらゆる要素を促進すべきである。このような生産の基本的目的は、単なる生産物の増加ではなく、利益でも権力でもなく、人間に対する奉仕である。すなわち、物質的必要と知的・道徳的・霊的・宗教的生活の要請を考慮したうえでの人間全体に対する奉仕であり、人種や地域の差別なしに、すべての人間、すべての団体に対する奉仕である。したがって独自の方法と法則に従う経済活動は、倫理秩序の限界内において行われなければならない。そうしてこそ人間についての神の計画が実現される。
65. De progressione oeconomica sub consilio hominis. 65(経済の発展に対する人間の統制)
Progressio oeconomica sub hominis consilio manere debet; nec soli arbitrio paucorum hominum aut coetuum nimia potentia oeconomica pollentium, nec solius communitatis politicae, nec quarundam potentiorum nationum remittenda est. Oportet e contra ut, in quocumque gradu, homines quam plurimi atque, ubi de relationibus internationalibus agitur, omnes nationes in ea dirigenda activas partes habeant. Pariter opus est ut opera spontanea singulorum hominum liberorumque coetuum cum auctoritatum publicarum conatibus coordinentur atque apte et cohaerenter componantur.  経済発展は人間の統制のもとに置かれなければならない。それを少数の人間や巨大な経済力を持つ団体の自由にさせたり、政治共同体だけや若干の強国の自由に任せてはならない。そうではなく、あらゆる水準においては、できるだけ多くの人が、そして国際関係においては、すべての国家が、経済発展の方向づけに積極適役割りを持つべきである。同時に個人ならびに自由団体の自発的な活動と公権の企画との間の適切な調整を計るべきである。
Incrementum nec soli cursui quasi mechanico activitatis oeconomicae singulorum nec soli potestati auctoritatis publicae relinquendum est. Quare erroris arguendae sunt, tam doctrinae quae specie falsae libertatis reformationibus necessariis obstant, quam illae quae iura fundamentalia personarum singularum et coetuum organizationi productionis collectivae postponunt (142).  経済の発展を各個人の経済活動の機械的なりゆきや公権のみに任せておくべきではない。したがって、自由の仮面のもとに必要な改革に反対する理論も、生産の集団組織を個人と団体の基本的権利に優先させる理論も、ともに誤りとして告発しなければならない。
Meminerint ceterum cives suum esse ius et officium, etiam a potestate civili agnoscendum, ad verum propriae communitatis progressum pro sua possibilitate conferre. Praesertim in regionibus oeconomice minus progressis, ubi omnes opes urgenter adhibendae sunt, bonum commune graviter in discrimen vocant qui opes suas infructuosas retinent vel - salvo iure personali migrationis - communitatem suam subsidiis sive materialibus sive spiritualibus privant quibus illa eget.  いずれにせよ国民は、自分の所属する共同体の真の発展のためにできる限り寄与すべき権利と義務を持つことを記憶すべきであり、国家もそれを認めるべきである。特に、あらゆる資源を早急に活用しなければならない低開発地域においては、自分の所有する資源を利用せずに放置しておく者や、自分が属する共同体が必要とする物質的・精神的援助を拒否する者は、共通善を重大な危険にされすものである。ただし、この場合、個人の移住権は例外である。
66. De ingentibus differentiis oeconomicis-socialibus removendis. 66(顕著な経済的・社会的格差の排除)
Ut exigentiis iustitiae et aequitatis satisfiat, strenue enitendum est ut, servatis iuribus personarum atque propria indole cuiusque populi, ingentes quae nunc sunt et saepe crescunt inaequalitates oeconomicae cum discriminatione individuali et sociali coniunctae, quam citius removeantur. Pariter, in pluribus regionibus, attentis peculiaribus agriculturae difficultatibus sive in gignendis sive in vendendis bonis, adiuvandi sunt ruricolae cum ad productionem augendam et vendendam, tum ad necessarias evolutiones ac innovationes inducendas, tum ad aequum redditum consequendum, ne, ut saepius accidit, in condicione civium inferioris ordinis maneant. Ipsi autem agricolae, praesertim iuvenes, sese sollerter applicent ad suam peritiam professionalem perficiendam, sine qua progressio agriculturae dari nequit (143).  個人の権利と各民族の特質を尊重したうえで、正義と平等の要請に応じるために、個人的ならびに社会的差別待遇と結ばれ、増大してゆく現代のはなはだしい経済的不均衡は、できる限り早く除去するよう懸命に努力しなければならない。同様に多くの地域においては、農業が生産と販売の面で遭遇している特殊の困難を考慮に入れ、生産の増加と販売の促進、必要な改良と刷新の導入によって、公正な収入を得ることができるように農民を援助すべきである。そうしなければ、しばしば、農民は、下等の国民であるかのような状態にとどまるであろう。一方、農民自身、特に青年、専門の知識・技術を向上させるように努力しなければならない。それなしに農業の発展はありえない。
Iustitia et aequitas item requirunt ut mobilitas, quae in progredientibus rebus oeconomicis necessaria est, ita ordinetur, ne vita hominum singulorum eorumque familiarum incerta et praecaria fiat. Erga opifices vero, qui ex alia natione vel regione oriundi, ad promotionem oeconomicam populi vel provinciae labore suo conferunt, quaevis discriminatio quoad condiciones remunerationis vel laboris sedulo vitanda est. Insuper universi, imprimis publicae potestates, illos non simpliciter veluti mera productionis instrumenta sed ut personas habere debent, eosque adiuvare ut familiam suam apud se arcessere et decentem habitationem sibi providere possint, atque eorum insertioni in vitam socialem populi vel regionis recipientis favere. Attamen, quantum fieri potest, in propriis regionibus fontes laboris creentur.  同じく正義と平等は、発展する経済に必要な可動性の調整によって、個人とその家族の生活が不安定・不確実にならないようにしなければならない。国家または地域の経済開発に協力寄与している外人労働者または地方出身の労働者に対して、給与あるいは労働条件上のいかなる差別も細心の注意をもってさけなければならない。なお、だれもが、そして特に公権は、かれらを単なる生産の手段としてではなく人格として扱い、かれらが家族を呼び寄せ、適当な住宅に住むことができるように援助し、現地の国または地域の社会生活にとけ込むように助けなければならない。しかし、できるかぎり自分の出身地で仕事を作り出してゆくできである。
In rebus oeconomicis hodie mutationi obnoxiis uti in novis societatis industrialis formis in quibus e.g. automatio progreditur, curandum est ut labor sufficiens et unicuique conveniens simul ac possibilitas congruae formationis technicae et professionalis praebeatur, et in tuto collocentur victus atque dignitas humana eorum praesertim qui ob morbum vel aetatem gravioribus laborant difficultatibus.  たとえば、オートメーションの進歩に見られるような新形態の工業界と同様に、過渡期にある現在の経済界においては、各人に適当で十分な仕事と適切な技術的・職業訓練の可能性を提供するようにしなければならない。また、特に病気や年齢のために特別困難な状況にある人々の生計の手段と人間としての尊厳を確保しなければならない。

(139) Cf. PIUS XII, Nuntius 23 martii 1952: AAS 44 (1952), p. 273; IOANNES XXIII, Allocutio ad A.C.L.I., 1 maii 1959: AAS 51 (1959), p. 358.
(140) Cf. PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 190 ss.; PIUS XII, Nuntius, 23 martii 1952: AAS 44 (1952), p. 276 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 450; CONC. VAT. II, Decretum de instrum. communic. socialis, Inter mirifica, cap. I, n. 6: AAS 56 (1964), p. 147.
(141) Cf. Mt. 16, 26; Lc. 16, 1-31; Col. 3, 17.
(142) Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Libertas praestantissimum, 20 iunii 1888: ASS 20 (1887-88), pp. 597 ss.; PIUS XI, Litt. Encycl. Quadragesimo anno: AAS 23 (1931), p. 191 ss.; ID., Divini Redemptoris: AAS 29 (1937), p. 65 ss.; PIUS XII, Nuntius natalicius 1941: AAS 34 (1942), p. 10 ss.; IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), pp. 401-464.
(143) Quoad problema agriculturae cf. praesertim IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra: AAS 53 (1961), p. 341 ss.

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