Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか 聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第四項)

2019年12月31日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御降誕節です。聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第四項 至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか)による御降誕の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Articulus 4 第四項 至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか
IIIª q. 35 a. 4 arg. 1 Ad quartum sic proceditur. Videtur quod beata virgo non debeat dici mater Dei. Non enim est dicendum circa divina mysteria nisi quod ex sacra Scriptura habetur. Sed nunquam in sacra Scriptura legitur quod sit mater aut genitrix Dei, sed quod sit mater Christi, aut mater pueri, ut patet Matth. I. Ergo non est dicendum quod beata virgo sit mater Dei. 第四については次のように進められる。至福な童貞女は天主の母mater Deiと呼ばれるべきではないと思われる。(一)天主的諸玄義divina mysteriaに関して、聖書にあること以外は語るべきではない。しかし、聖書には、天主の母、あるいは天主を産んだ女性であることは決して読まれない。むしろ『マテオ福音書』第一章(第十八節)にあるように、キリストの母、あるいは子供の母であるとある。従って、至福な童貞女は天主の母である、と言うべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 arg. 2 Praeterea, Christus dicitur Deus secundum divinam naturam. Sed divina natura non accepit initium essendi ex virgine. Ergo beata virgo non est dicenda mater Dei. さらに(二)キリストは天主の本性に従って天主と呼ばれる。しかし、天主の本性は、童貞女から存在の始まりを受けたのではない。従って、至福な童貞女は、天主の母と言われるべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 arg. 3 Praeterea, hoc nomen Deus communiter praedicatur de patre et filio et spiritu sancto. Si ergo beata virgo est mater Dei, videtur sequi quod beata virgo sit mater patris et filii et spiritus sancti, quod est inconveniens. Non ergo beata virgo debet dici mater Dei. さらに(三)「天主」という名は、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とについて共通に述語となる。従って、もし至福な童貞女が天主の母であるならば、至福な童貞女は、聖父と聖子と聖霊との母であることが帰結するように思われるが、これは不適当である。従って、至福な童貞女が天主の母と呼ばれるべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 s. c. Sed contra est quod in capitulis Cyrilli, approbatis in Ephesina synodo, legitur, si quis non confitetur Deum esse secundum veritatem Emmanuel, et propter hoc Dei genitricem sanctam virginem, genuit enim carnaliter carnem factam ex Deo verbum, anathema sit. しかし、反対に、エフェゾ公会議において承認されたキリロスの教義書簡には、次のようにある。「もし誰かが、天主が、真理に従ってエンマヌエルであること、そしてこれゆえに、聖なる童貞女が天主の母なること、何故なら彼女は、肉となり給うた天主からの御言葉を肉的にcarnaliter生み給うたからである、と告白しないならば、排斥される。」
IIIª q. 35 a. 4 co. Respondeo dicendum quod, sicut supra dictum est, omne nomen significans in concreto naturam aliquam, potest supponere pro qualibet hypostasi illius naturae. Cum autem unio incarnationis sit facta in hypostasi, sicut supra dictum est, manifestum est quod hoc nomen Deus potest supponere pro hypostasi habente humanam naturam et divinam. Et ideo quidquid convenit divinae naturae et humanae, potest attribui illi personae, sive secundum quod pro ea supponit nomen significans divinam naturam; sive secundum quod pro ea supponit nomen significans humanam naturam. Concipi autem et nasci personae attribuitur et hypostasi secundum naturam illam in qua concipitur et nascitur. Cum igitur in ipso principio conceptionis fuerit humana natura assumpta a divina persona, sicut praedictum est, consequens est quod vere posset dici Deum esse conceptum et natum de virgine. Ex hoc autem dicitur aliqua mulier alicuius mater, quod eum concepit et genuit. Unde consequens est quod beata virgo vere dicatur mater Dei. Solum enim sic negari posset beatam virginem esse matrem Dei, si vel humanitas prius fuisset subiecta conceptioni et nativitati quam homo ille fuisset filius Dei, sicut Photinus posuit, vel humanitas non fuisset assumpta in unitatem personae vel hypostasis verbi Dei, sicut posuit Nestorius. Utrumque autem horum est erroneum. Unde haereticum est negare beatam virginem esse matrem Dei. 答えて、こう言うべきである。上述のように(第十六問第一項)、具体物において或る本性を意味する全ての名詞は、その本性のヒュポスタシスを措定しうる。【ヒュポスタシスは色々な性質の下にあってそれらを受ける受け皿というような意味。例えばこのある馬は茶色で速く走ることができ体重はいくらいくらなど色々な性質を持っているが、それらの性質を持の受け皿となるようなものはこのある馬。ヒュポスタシスはギリシア語。基体とも訳される。】【措定するsupponereとは、ある言葉を特定の意味として使うこと。例えば人間という言葉は、ある具体的な人において共通の本性を意味する。人間という言葉で、どのような具体的な個人をも意味しうる。ソクラテスが人間だとすると「ソクラテスが寝ている」という代わりに「人間が寝ている」と表現することが出来る。ここで「人間」という言葉は、ソクラテスのことを措定している。ハチ公を措定して(ハチ公のことを指して・前提として・意味して)犬と言いつつ「犬が渋谷駅で待っている」と言うことが出来る。】ところで、上述のように(第二問第三項)、托身の合一はヒュポスタシスにおいて為されたので、この「天主」という名詞が、人間本性と天主の本性を有するヒュポスタシスを措定しうる(主語として立ちうる)ことは明らかである。従って、天主の本性或いは人間本性に適合することは何であれ、かのペルソナに帰属されうる。天主の本性を意味する名詞がペルソナに代わって措定されるか、あるいは人間本性を意味する名詞が措定されるか、その両者のやりかたで。ところで、懐胎される、および生まれるということは、それにおいて懐胎されて生まれる本性に従って、ペルソナとヒュポスタシスとに帰属される。従って、前述のように(第三十三問第三項)、懐胎の正に始まりにおいて人間本性が天主的ペルソナによって受容されたので、その結果として天主が懐胎され、童貞女から生まれ給うた、と真に言われうる。ところで、或る女が或る者の母であると言われるのは、その者を懐胎し、生んだからである。従って、その結果として至福な童貞女は真に天主の母と呼ばれる。ただし至福な童貞女が天主の母であることは、次の場合にのみ否定されうる。つまり、フォティヌスが主張したように、もしもかの人間が天主の聖子であったよりもその先に人間本性が懐胎と誕生のもとに在ったとすると、あるいはネストリウスが主張したように、もしも人間本性が天主の御言葉のぺルソナあるいはヒュポスタシスの一性へと受容されなかったならば。しかし、これら両者は誤謬である。従って、至福な童貞女が天主の母であることを否定するのは異端である。
IIIª q. 35 a. 4 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod haec fuit obiectio Nestorii. Quae quidem solvitur ex hoc quod, licet non inveniatur expresse in Scriptura dictum quod beata virgo sit mater Dei, invenitur tamen expresse in Scriptura quod Iesus Christus est verus Deus, ut patet I Ioan. ult.; et quod beata virgo est mater Iesu Christi, ut patet Matth. I. Unde sequitur ex necessitate ex verbis Scripturae quod sit mater Dei. Dicitur etiam Rom. IX, quod ex Iudaeis est secundum carnem Christus, qui est super omnia Deus benedictus in saecula. Non autem est ex Iudaeis nisi mediante beata virgine. Unde ille qui est super omnia Deus benedictus in saecula, est vere natus ex beata virgine sicut ex sua matre. (一)については、従って、これはネストリウスの異論であったと言うべきである。これは次のことで解決される。即ち聖書には至福な童貞女は天主の母であると明らかに言われている所は見出せないが、しかし聖書には『ヨハネの第一書簡』最終章[第五章二十節]に明らかなように「イエズス・キリストは真の天主である」と明らかに見いだされ、また『マテオ福音書』第一章[十八節]に明らかなように、至福な童貞女はイエズス・キリストの母であると明らかにある。従って、聖書の言葉から必然的に聖母は天主の母であると帰結する。さらに『ローマ人への書簡』第九章[五節]には「肉に従って(人間として)はキリストもユダヤ人から出た。キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」と言われている。ところで、イエズスは至福な童貞女を介してでなければ「ユダヤ人から出た」のではない。従って、万物の上にあって、世々に賛美せられる天主であるかの方は、真に至福な童貞女から、御自分の母からとして生まれ給うた。
[48362] IIIª q. 35 a. 4 ad 2 Ad secundum dicendum quod illa est obiectio Nestorii. Sed Cyrillus, in quadam epistola contra Nestorium, eam solvit sic dicens, sicut hominis anima cum proprio corpore nascitur, et tanquam unum reputatur; et si voluerit dicere quispiam quia est genitrix carnis, non tamen et animae genitrix, nimis superflue loquitur, tale aliquid gestum percipimus in generatione Christi. Natum est enim ex Dei patris substantia Dei verbum, quia vero carnem assumpsit, necesse est confiteri quia natum est secundum carnem ex muliere. Dicendum est ergo quod beata virgo dicitur mater Dei, non quia sit mater divinitatis, sed quia personae habentis divinitatem et humanitatem est mater secundum humanitatem. (二)については、これはネストリウスの異論であると言うべきである。キリロスはネストリウスを論駁した或る書簡において、次のように言ってそれを解決した。「人間の霊魂は[それに]固有の体と共に生まれ、一つであると見なされる。もし誰かが、[母親は]肉体の母であって霊魂の母ではないと言おうとしたなら、あまりにも言い過ぎである。何かこのようなことがキリストの出生になされているのを私たちは見ている。実に天主の御言葉は聖父なる天主の実体から生まれ給うた。しかし肉を受容し給うたので、肉に従っては女から生まれ給うたと告白する必要がある。」従って至福な童貞女は天主の母と呼ばれるが、それは天主の本性の母であるからではなく、天主本性と人間本性とを有するペルソナの、人間本性に従っての母であるからである、と言わなければならない。
IIIª q. 35 a. 4 ad 3 Ad tertium dicendum quod hoc nomen Deus, quamvis sit commune tribus personis, tamen quandoque supponit pro sola persona patris, quandoque pro sola persona filii vel spiritus sancti, ut supra habitum est. Et ita, cum dicitur, beata virgo est mater Dei hoc nomen Deus supponit pro sola persona filii incarnata. (三)についてはこう言うべきである。「天主」という名称は三つのペルソナに共通であるが、上述のように(第十六問第一項、第一部第三十九問第四項)、時には聖父のペルソナのみを、時としては聖子あるいは聖霊のペルソナのみを措定する【例えば聖父ということを意味して「天主」という言葉が使われる】。従って、「至福な童貞女は天主の母である」と言われるとき、「天主」という名称は天主聖子の托身したペルソナのみを措定する。




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聖ピオ十世会 聖伝のミサ報告:SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恵みに溢れた2019年もあと数時間となりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

先日の主日にはフォルティン神父様が日本の東京と大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。深く感謝いたします。

本年も愛する兄弟姉妹の皆様から多くの祈りとご支援を頂きました。心から感謝いたします。イエズスの至聖なる聖心から多くの祝福がありますように!

ところでフォルティン神父様が校長をしている学校のためのクリスマス募金ですが、大阪では58,010円、東京からは56,000円、計114,010円が集まりました。愛する兄弟姉妹の皆様の温かいご支援を感謝しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
大阪でのクリスマスの第二献金、マニラのOLVCのための献金は58010円でした。フォルティン神父様にお渡しします

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日もピーター・フォルティン神父が大阪から往復して、御降誕の八日間内の主日のミサをあげてくださいました。

今日の御説教では、天主であるキリストが人間の本性をおとりになり、ご自分の玉座を離れまぐさ桶にいらっしゃったという神秘について、特にキリストの謙遜と、人が高められたという二点についてお話しいただきました。

まず、キリストのこの地上での御生涯はみずからがいけにえとなるためであり、そしてその頂点は十字架上でご自分の命を捧げされた時であって、そのただ一つの目的のために私たちの主はご自分を低められたということです。

第二の点については、私たちが天主の子供と呼ばれるよう、天主が私たちの主を地上に送ってくださったということ、そして、聖パウロが書いているように、キリストの御誕生によって私たちはもう奴隷ではなく、天の御父の養子となったということです。

ですから私たちも天主の子となれたことをよく知り、私たちの主イエズス・キリストのように天主に忠実と愛徳とをお捧げするように務めなくてはならないこと、を教えていただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 22人(内、子供4人)
女: 25人(内、子供5人)
計: 47人(内、子供9人)

なお、12月25日のマニラの学校への第2献金については、東京の献金から403円を加えて、56,000円を今日フォルティン神父にお渡ししました。

【報告】
Ave Maria Immaculata!

12月29日、今年最後の「御降誕の大祝日の八日間中の主日」の御ミサをありがとうございます。

「今日は沈黙を守って黙想するべき時…」というお説教の初めの言葉によって天主が人となられたことを黙想していくうちに、心の深いところに光が差し込みはじめたようでした。

私は、永遠や無限や美や限りないすべての良きものが、いったいどうやって幼子として人間の姿をとることが出来たのだろうという、神秘のなかに引き込まれ、ひそかに想いを上に挙げることができるようになりました。ミサの後も、そのあとに身を置かねばならない巷の年末の騒々しさの中でも、そのことを思い出して心のなかに飼い葉桶の中に置かれたイエズス様の御姿が置かれているのを探しています。

人間の想いや推理や理性とか知性とかではとらえることのできない深遠な真理が確かにあることが、幼子の姿をとられた天主の慎み深い愛によって私にもとらえることが出来るようになったように思います。

そして救い主イエズス様が来られたのは、そういった神秘的なことを教えるためだけではなく、もっともっと素晴らしい想像もつかないようなことを私たちのためになさってくださるためであることも、わかりました。
そのことをもっとしっかりと本当に理解できたなら、私もきっと周りの人にこの素晴らしいできごと・喜ばしいできごとを伝えなければと思うに違いないでしょう。

その、シメオンが預言した“その母に「剣で心が差し貫かれる」ほどの残酷な痛み・苦しみがもたらされるような出来事が起こる”ことが、“人間にとっては喜びの出来事になる”とはどういうことかを、静かに黙想しようと思います。

イエズス様が無償でくださったそのはかり知れない大きな愛は、その愛を本当に受け入れて愛に対して愛をもってお答えしたいと決意する時、こちらからもある種の小さな痛みをお捧げするようになるものかもしれません。そのときこそ、眠りこんでいた自分を取り囲む我儘な殻が破られて、本当の真実の世界への扉が開かれて、この弱くみすぼらしいものである私であっても、天に住まわれる聖なる家族が待ち受けてくださっていることに気づかされるように思います。

厩の飼い葉桶の中に置かれているキリストのすがたを眺めながら、イエズス様がどれほど柔和で謙遜であられるかを黙想しようと思います。天主様が人間に与えてくださった愛の贈り物に感謝申し上げます。もう一度与えてくださった超自然の命をありがとうございます。

こころのうちにて深く潜って礼拝しながら、天主の本性をお持ちでありながら人間の本性をもおとりになられたイエズス様を沈黙のうちに礼拝しながら御降誕節をすごしたいと思います。

大切な休暇を日本で過ごしてくださいましたフォルティン神父様、クリスマスのミサ、御降誕のミサをありがとうございました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
主の御降誕おめでとうございます!

フォルティン神父様は、休暇中だったにもかかわらず、何度も大阪から東京まで往復してくださって、待降節と御降誕の御ミサをお捧げくださいました。
今回は友人の通訳を介してですが、フォルティン神父様とお話させていただく機会がありました。フォルティン神父様は、アメリカのヴァージニア州のご出身、9人の兄弟姉妹の真ん中で、生まれた時からこのトリエント・ミサで養われるカトリック信仰をいただくご家庭で成長され、ミッション・スクールでの伝統的なカトリック教育を受けられたという事を教えていただきました。ずっと39年間のこの地上での生活が聖伝のミサとともにあるということを知りました。なんと素晴らしいお恵みをいただいているのでしょう!きっと幼い時から世界創造の意味や人生の意義やあらゆる疑問に出会うたびに、いつもイエズス様からの答えがあたえられ、まっすぐに御父のみ旨を行うようにみちびかれていらっしゃられたのでしょう。私のように人生の大半をその答えを探す旅をするのに費やさねばならなかったような者とは全く異なる、最初から聖なるものに接していた人生でいらっしゃるのだと思いました。フォルティン神父様はそのような恵まれた環境の中で、イエズス様と聖母に身を捧げられる聖ピオ十世会の司祭の召命を受けられた方なのですね。フォルティン神父様はマニラ(アジア管区)で働いてくださっていますが、お兄様の一人もまた聖ピオ十世会の司祭でいらっしゃってアフリカの地で働かれていらっしゃるとのお話にも感激いたしました。

ご家族のお話を聞きながら、フォルティン神父様の中にはご自身の体験として、子供の時からカトリック信仰に触れて育つことの大切さが身に浸みていらっしゃるに違いないと感じさせられました。神父様はマニラのミッション・スクールの小学校の校長先生でいらっしゃるので、おもわず日本にもそのような学校を作ってくださいとお願いしてしまいました。

今回はフォルティン神父様のことを少し知ることが出来てうれしかったです。クリスマス休暇中日本に来てくださりごミサを捧げてくださいまして、本当にありがとうございます。

【報告】
天主が、私たち罪人を御受難によって贖うために、人間の赤子となって生まれ給うた。全被造物は永遠に声を上げて主を讃美し、感謝し、礼拝せよ!という聖霊の息吹を強く感じます。

個人的に、クリスマスの聖歌の中で、「あおげや仰げ」の3番の歌詞が、天主様の愛をあまりにも端的に言い表していて、いつも歌いながら感動します。

とこしえの生命 ほろびの子等に 
与えてその身は 死にますみかみ

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洗礼式の解説

2019年12月31日 | カトリックとは
ゴフィネ神父の「教会暦年」による洗礼式の解説


洗礼式
洗礼とは、水と天主のみ言葉によって、私たちがすべての罪から洗われて、永遠のいのちのためにキリストにおいて再生され、聖化される秘蹟です。

洗礼には、どのような儀式がありますか? それは次の三つです。

1.準備の儀式
2.洗礼式自体
3.締めくくりの諸儀式


教えの第一段階、すなわち聞き取りの段階に、教会の扉の前で行われる準備の儀式は、以下の通りです。

1.洗礼志願者は、洗礼を受けなければ教会に属することはできませんから、教会の外にいます。
2.洗礼志願者には、聖人の名が与えられます。それは、その聖人を天主の御前で代願者とすることができるように、またその聖人の生き方を模範とすることができるようにするためです。
3.洗礼志願者は、洗礼と、洗礼を通して永遠のいのちを望んでいるかどうかを尋ねられます。
4.司祭は、「汝、不浄な霊よ、この者から離れよ、慰め主なる聖霊に道を開けよ」(ヨハネ20章22節)と言いながら、洗礼志願者に三回息を吹きかけます。
5.司祭は、洗礼志願者が十字架に付けられた救い主のものになり、救い主の教えを心で大切にし、公に宣言するしるしとして、洗礼志願者の額と胸に十字架のしるしをします。
6.司祭は、「知恵の塩を受けよ。汝にとって永遠のいのちへ至るための償いとなるであろう」と言いながら、祝別された塩を洗礼志願者の口につけます。塩はキリストの知恵と、罪の汚れからの保護の象徴です。
7.祓魔式を繰り返すことによって、「死の力を持つ」(ヘブライ2章14節)サタンの力は、三位一体の天主の御名によって、打ち破られます。
8.再び、司祭は、「非難されるべき霊よ、われらがこの者の額にしるすこの十字架のしるしを汚すな」と言いながら、洗礼を受ける人の額に十字架のしるしをします。
9.司祭が、 両手で按手をするのは天主の御保護の象徴であって、また洗礼志願者にストラを置きながら教会内に導くのは、司祭が教会の力によって洗礼志願者を囲いの中に受け入れることの象徴です。


第二の段階の儀式、すなわち、嘆願者のための儀式は、教会の中で行われます。それは、

1.洗礼は信仰の秘蹟ですから、教会の中に入りながら、使徒信経と主祷文が唱えられます。
2.司祭は、イエズスの模範(マルコ7章33節)に倣って、「エフェタ」すなわち「開かれよ」と言いながら、洗礼を受ける人の両耳と鼻につばをつけて触れます。これは、洗礼の恩寵を通して人間の霊的な感覚が天の真理の教えを受け入れるように開かれることを意味しています。
3.洗礼を受ける人は、サタンとそのわざ、その栄華を捨てなければなりません。なぜなら、これを捨てなければ、誰もキリストに従うことができないからです。サタンとそのわざという言葉は罪を意味し、その栄華という言葉はサタンが人間の目をくらませ、人間を罪に導くこの世の精神と虚栄を意味しています(マテオ4章8、9節)。ここで、使徒信経を唱えることによる信仰宣言が続きます。
4.次に来るのは、聖霊志願者の両肩と胸に聖油を塗ることです。なぜなら、たった今から、この新たに洗礼を受けた人は、この世および悪魔との戦いにおけるキリストの兵士とならねばならないからです。


実際の洗礼はどのようにして行われますか?

洗礼を授ける人は、洗礼を受ける人の頭の上に水を注ぎ、同時に次の言葉を唱えます。
「私はあなたに、聖父(ちち)と、聖子(こ)と、聖霊との御名によりて、洗礼を授けます」


洗礼に続く儀式はどんなものですか?

1.頭に聖香油を塗油することです。なぜなら、洗礼を受けた人は今やキリスト信者、天主の油を受けた人の一人であるからです。
2.白い衣の授与
3.火のついたろうそく
4.祝福で閉式


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私たちの主が最も柔和で優しい御方であること: ピーター・フォルティン神父様 主の御降誕(日中のミサ)説教

2019年12月30日 | お説教・霊的講話
主の御降誕の日中のミサの説教
聖ピオ十世会 ピーター・フォルティン神父様


親愛なる信者のみなさん、

御降誕にあたって、私たちの主は夜の暗闇の中においでになり、ご自分の光を照らし、私たちの生活に超自然の光をもたらして下さいます。この御降誕祭の日、私たちは二つのことを知ります。まず第一は、天主であり人である私たちの主のこと、そして第二は、まぐさ桶を訪問するにふさわしい人たちのことです。

まず私たちの主について、夜の暗闇の中で主がいらっしゃるのを待つことは、あたかも人が精神的な暗闇の中で贖いを待つことのようです。私たちの主は恩寵をもっていらっしゃり、信仰、希望、愛徳をもたらして下さいます。私たちの主がこの地上の貧しい私たちの間にお生まれになるのです。王の中の王が、ご自分の臣民たちの中においでになるのです。私たちの主は、巧妙な顧問、力ある天主、永遠の父、平和の君と呼ばれます(イザヤ9章5節)。これらは私たちの主の名とされますが、幼子である主にもその名はすべて当てはまります。

教会は、私たちの主が柔和であり、親しみやすい御方であることを、私たちが銘記しておくことを強く望みます。このような状況にある幼子を見て、それをいぶかしむ人はいません。なぜ天主は人となることをお選びになるばかりか、さらにこの一見無力な幼子となることをお選びになるのでしょうか。どうして立派な大人として天から降臨されないのでしょうか?それは、私たちの天主が善き御方、やさしい御方であって、救い主としてお現れになるからです。これは私たちの主の聖なる受肉の際にも、主の生涯にわたっても当てはまることです。福音書に書かれている私たちの主について読むだけで、主が全く善き御方であることがわかります。

私たちの主を、預言者たち、あるいは先駆者である洗者聖ヨハネと比べてみると、洗者聖ヨハネは善き人ではありましたが、私たちの主のように親しみやすい人であったとは言えません。洗者聖ヨハネはたいへん善き人でしたが、私たちの主のように柔和で、優しい人ではありませんでした。私たちの主の柔和さについては、預言者イザヤがこのように書いています。「かれは、折れかけたよしを、折らず、よわいほのおの灯心を消さ[ない。](イザヤ42章3節)」これは人々に対する主の柔和な態度のことを意味しています。主は最も柔和で優しい方です。主はとりわけ苦しむ人々にこの善良さを示されます。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。私は、心の柔和な、謙遜な者であるから、…ならいなさい。(マテオ11章28-29節)」 私たちの主はなんと美しい柔和な心をもっておられることでしょうか!またなんと近づきやすい御方でしょうか!主は私たちが近づきやすいよう、障害を取り除いて下さいます。また福音の他の箇所では、私たちの主は、失った羊や放蕩息子のたとえ話でご自身の柔和さをお示しになります。姦通の罪を犯して主の足下に立った女性や、十字架上の善き盗賊に示された御憐れみのことが思い浮かびます。他方、主はいかなる霊魂も見放されず、自らの立場を濫用し、律法に正しく従うことをしなかったファイザリ人たちに対してのみ、厳格に対処されました。このことは、私たちが御憐れみと御恵みへの大いなる期待を抱いてゆりかごをご訪問すべき、更なる理由です。天主は情けのない方でも、冷たい方でも、近付き難い方でもありません。むしろ、幼子の形をおとりになった、最も近づきやすい方なのです。

次に考えて頂きたいのは、うまやの私たちの主を訪問する人たちの特徴です。驚くべきことに、ヘロデ王の宮廷やイェルサレムの大祭司のところにおり、私たちの主がお生まれになる町の名や時間を知っていたはずの、学のある律法学士たちやファリザイ人たちは眠っているのです。そのときの状況はまったくありふれたものです。ベトレへムではすべてが静まり、その時に至るまでの中で最も大いなる奇蹟が起こりましたが、その場に似つかわしくない少数の訪問者たちを除いては、ほとんどすべての人は眠っています。主の御降誕の知らせは、貧しく、純真な羊飼いたちに伝えられます。まったく驚くべきことに、学のある人たちは私たちの主が来られたことを知らないのです。まさに私たちの主がおっしゃったように、「貧しい人には福音が告げられている(マテオ11章5節)」のです。父なる天主は、御宝を賢く高慢な人々からお隠しになり、かわりにそれを貧しく謙遜な人々にお示しになったのです。

天使が知らせを伝え、信仰の試練を受け取った羊飼いたちのことを考えてみましょう。世界の救い主がお生まれになったという大変善い知らせが届けられた羊飼いたちは、試練を受けるのです。「あなたたちは、布につつまれてまぐさおけにねかせてあるみどり子をみるだろう。(ルカ2章12節)」これは、律法学士たちやファイザイ人たちが思い描いていたメシアとは全く異なります。にもかかわらず、その羊飼いたちは夜中にうまやへと行き、いささかのうぬぼれも高慢さももたず、純真にまぐさ桶に近づくのです。

私たちはこの羊飼いたちのようでなくてはなりません。聖ヨゼフと聖母の次に、天主がご自身をお現しになったのはこの人たちです。この人たちと同じ信仰と謙遜の純粋さという特質を持つことによって、私たちも、私たちの主と主の王国を待ち望む善意の人であることを示すことができるのです。



【英語原文】

Sermon for Christmas Day Mass
Fr Peter Fortin, FSSPX


My dear Faithful,

For Christmas, Our Lord comes in the night during darkness and He will shine forth His light, bringing the supernatural light into our lives. During this Christmas Day, we are informed by two things; first, is Our Lord, God and Man and the second is concerning the worthy people who come to the manger.

Concerning first Our Lord, we can compare the waiting Our Lord with the darkness of the night and how Man is waiting for the Redemption in the spiritual darkness and Our Lord is going to come and bring His grace, and He will bring Faith, Hope and Charity. Our Lord is born unto us poor men on earth. The King of Kings will be amongst his subjects. The titles of Our Lord, He is called Wonderful, God, Prince of Peace, Father of the world to come. These are the titles of Our Lord and they will still be applied to Our Lord as a Child.

The church especially wishes to impress on our minds the gentleness and approachability of Our Lord. Seeing a child in such a state is very unsuspecting. Why would God choose to not only become Man, but a seemingly helpless child as well. Why not come as a full grown man from heaven? The answer is because of the goodness and kindness of Our God and savior has appeared. This is true for the time of Our Lord’s Holy Incarnation and all His life. We have only to read about Our Lord in Gospel and we see the fullness of his goodness.

We can compare Our Lord with the prophets or precursor, St. John the Baptist, who was good but it cannot said that he was as approachable as Our Lord. St. John the Baptist was very good but not as gentle and amiable as Our Lord. Our Lord’s gentleness is as Isaias writes “A bruised reed he will not break and a smoking wick he will not quench”. Meaning his kind treatment to His fellow man. The most gentle and meek of all men. Our Lord shows His goodness especially to those who suffer “Come to me, all you who are weary and heavily burdened and I will refresh you… Learn of me for I am meek and humble of heart.” What beautiful kindness of Our Lord! So approachable! He removes obstacles in order that we me be close to Him. Elsewhere in the Gospel Our Lord shows His gentle nature with the parables of the lost sheep and prodigal son. We can think of the woman taken in adultery at His feet or the mercy to the good thief on the cross. On the other hand, He never sent souls away and was only severe with the pharisees because they abused their position and betrayed the true following of the Law. All the more reason why we should visit the crib with great expectation for mercy and graces. God is not harsh and cold and unapproachable, rather under the form of a Child, He is most approachable.

The next consideration is the characteristics of those who approach Our Lord in the stable. It is astounding that with the learning of the scribes and pharisees at the court of Kind Herod, and the High Priest in Jerusalem, who would know the name of the town and the time that Our Lord would be born are asleep. The circumstances are very unsuspecting. All is quiet in Bethlehem and the greatest miracle to the that point has taken place and almost all are sleeping except for a small group of the most unlikely visitors. The announcement of the Lord’s Birth comes to poor, simple shepherds. This is most astounding, those with learning know not that Our Lord is come. Truly to quote Our Lord, “The poor have the gospel preached to them.” The Father has withheld the treasures from the wise and proud but has revealed them to the poor and humble.

We can imagine these shepherds when the angel announced and the test of faith that they received. The very happy news that the Savior of the World had been born comes to the shepherds and they are put to a test. “You will find the child wrapped in swaddling clothes laying in a manger.” It as a totally different impression that the scribes and pharisees had for the Messiah. Nevertheless, they proceed in the middle of the night, to a barn and approach the manger in simplicity and with any pride and arrogance.

We should associate ourselves with these shepherds. God wished to reveal Himself to these souls after St. Joseph and Our Lady. By having the same characteristics and qualities of simplicity in faith and humility, we show ourselves to truly men of good will, those desiring Our Lord and His Kingdom.

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御降誕で私たちに与えられた高貴さについて: ピーター・フォルティン神父様 主の御降誕(真夜中のミサ)説教

2019年12月29日 | お説教・霊的講話
2019年の主の御降誕の真夜中のミサの説教 大阪
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様


愛する信者の皆さん、

真夜中のミサにおける聖なる御降誕というこの美しい祝日について少し言葉を述べさせてください。すべてのミサはそれぞれ、私たちにある種の要求をします。私たちはミサの文によって教えを受け、特定の恩寵が与えられますが、そのあと、一つの要求が私たちになされます。すなわち、私たちが自分自身の生き方においてあることを変えることが求められるのです。私たちは幼子キリストを見て、私たちが生きるためのキリストの指針を願い求めることができるのです。

この夜中のミサについて、それを一言で、私たちに求められている一つの教えとして要約することができます。それは、「ノビリタス(高貴さ)」です。「ノビリタス(高貴)」というのは、高い社会的地位あるいは政治的地位を持つ世襲の階級に属する人々に使われる用語です。このノビリタスの教えは書簡の中でこう説明されています。「私たちの救い主である天主の恩寵は、すべての人に現れた。それは、この世において思慮と正義と敬虔をもって生きるために、不敬虔と世俗の欲望を捨てよと私たちに教える」(ティト2章11-12節)。私たちは、このノビリタスである高貴な種族に属しているのです。

私たちの主は人となられ、私たちの本性をお取りになることによって、そして私たちにご自身の恩寵をお与えになることによって、人を高貴なものとなさいました。私たちは本当に、主が私たちの本性にあずかられたと言うことができます。主は、新たな、より良い種族にとっての第二のアダムとなられました。第一のアダムは、その子孫に不敬虔、傲慢、世俗の物事への欲望をもたらしました。主は、ご自身の種族を他から分かつ新たな掟をお与えになることによって、ご自身の種族を新たにされ、再創造されるのです。この掟は、書簡に書かれているように、私たちが思慮深く、正義をもって、敬虔に生きなければならないために、高貴であるべきことです。これらの言葉が、天主との関係において、隣人と私たち自身との関係において、私たちがどのように生きなければならないかを表しています。自分自身に対しては思慮深く、自らを制し、自己を否定し、けんそんであるべきこと、私たちの隣人に対しては正義をもつべきこと、天主に対しては敬虔で信心深くあるべきことです。



それは、アダムの種族には自己中心、貪欲、世俗の欲望、傲慢のしるしがあるからです。私たちの主から来る新たな種族は、これらのしるしに反する聖徳を実践することが義務付けられているのであって、私たちは思慮深く行動し、禁欲や自己否定を実践し、私たち自身ではなく私たちの主に霊魂の領域で王として統治していただかなくてはなりません。私たちは、飼い葉桶の中の主を見て、禁欲の意味を学ぶべきです。私たちは、この世の王冠よりも洗礼による霊的尊厳を重んじた聖王ルイ九世の生涯を模範とすることができます。彼は、このノビリタス(高貴)という考えを真剣に捉え、私たちの主から来る、まことの高貴さを示しました。彼が王となったとき、その責任を恐れましたが、天主のほまれのため、教会を守るため、民の善のためのみに、その義務を受け入れました。若き王子として、彼は腐敗と放蕩に満ちた宮廷にいなければなりませんでしたが、金銭、女性、食べ物や飲み物、権力、快楽の形をとって差し出された多くの誘惑に屈することはありませんでした。

第二に、人は隣人との関係を改善しなければなりません。主が来られる前には、人々は敵対していました。主の来臨によって、主はすべての人の間に正義を打ち立てられ、すべての人を公平に扱われます。本当の意味の正義は、愛に動機づけられるものです。愛によって、私たちは正義の法を全うするのです。聖ルイは、フランスにおける司法制度を全面的に改革し、市民に対する不正な措置を全面的に廃止したことで知られています。聖ルイが王になって宮廷にいたとき、彼は、毎日100人の貧しい人に自ら食べ物を与えることで知られ、さらに貧しい人や病人が世話を受けることのできる諸施設を創設しました。

第三に、私たちは天主に忠実でなければなりません。まことの敬虔は、天主への絶対的奉仕にあります。すべてに超えて天主に奉仕し、天主を愛することです。愛と従順によって天主のご意志に従うことが、まことの敬虔なのです。

私たちは、飼い葉桶に近づいて、このノビリタス(高貴さ)を私たちに与えてくださったこと、そして思慮深さや正義、敬虔を毎日新たに実践する恩寵を私たちに与え続けてくださることに感謝の祈りを捧げるべきです。聖ルイの母、ブランシュ・ド・カスティーユは、「愛する子よ、私は一人の母としてでき得る限りのやさしさをもってあなたを愛しています。でも、あなたが大罪を犯すよりも、私の足元で倒れて死ぬのを見る方が、はるかにましです」と言ったものです。彼は、さまざまな教会を訪問して祈りの時間を過ごすのに加え、聖務日課の祈りを捧げ、一日に二回のミサを拝聴することで知られていました。自分の王国を統治するよりもむしろ、キリスト教世界の呼びかけに応えることが必要だと信じ、二度十字軍に出征しました。

私たちは、聖ルイの例にカトリック君主の理想を見ますが、最も重要なのは、彼が私たちの主から来るものと認識して、生涯にわたって示し続けたノビリタス(高貴さ)です。私たちの主が人となられ、ご自分の恩寵と模範とによって私たちを高めてくださることによって、私たちに授けてくださったノビリタス(高貴さ)の模範に従って私たちが生きることができるよう、飼い葉桶の中の主に願いましょう。

【英語原文】
Sermon for Christmas Midnight Mass Japan 2019
Fr Peter Fortin, FSSPX


My dear Faithful,

Just a few words for this beautiful feast of the Holy Nativity at the Midnight Mass. Each Mass makes a type of demand on us. We are instructed by the texts of the Mass, there is a particular grace given and then a demand is made of us or rather a change that we must make in our lives. We could look at the Christ Child and ask His directive for us to live our life.

For the Mass tonight we can sum it up with one word, the instruction and what we are called to, that is “nobilitas” which is a term used for those belonging to a hereditary class with high social or political status. This instruction of nobilitas is illustrated in the epistle “The grace of God Our Savior has appeared to all men, instructing us that, denying impiety and worldly lusts, we should live soberly, and justly, and piously in this world.” We are part of a nobilitas, a noble race.

Our Lord in becoming man has enobled man by Him taking our nature and by Him giving us His grace. We can truly say Our Lord has partaken of our nature. He has become a second Adam to a new and better race. The first Adam brought upon his children impiety, pride and desire for worldly things. Our Lord renews or recreates His race by giving a new commandment to set apart His race. This command is to be noble so we must live soberly, justly and piously as is written in the Epistle. These words describe how we must live in relation to God, our neighbors and ourselves. Soberly in regards to ourselves, exhibiting self-control, self-denial and humility. Justly towards our neighbor and piously or devoutly towards God.

For the race of Adam is marked by selfishness, and giving into covetousness, lust and pride. The new race, coming from Our Lord is bound to practice the virtues going against these marks, we must act soberly we must practice mortification, self-denial and Our Lord must rule as king in the realm of the soul, not just ourselves. We should look at Our Lord in the crib and learn of the meaning of mortification. We can pick an example in the life of King St. Louis IX who esteemed more his spiritual dignity of his baptism more so than of temporal crown. He took very seriously this notion of nobilitas and exhibited a true nobility as coming from Our Lord. When he was crowned king, he was terrified of the responsibility but accepted with these obligations, only for the divine honor, the defense of the church, and the good of his people. As a young prince, he had to present in court filled with corruption and debauchery but he did not give into the many temptations that would have presented itself in form of money, women, food and drink, power or pleasure.

Secondly, a man must refine his relations with His neighbor. Before Our Lord came, men were at enmity. With the coming of Our Lord, He establishes justice between all. To give each man their due. The true sense of justice is motivated by charity. By love we fulfill the law of justice. St. Louis is known for totally reforming the justice system in France and getting rid of unjust measures against citizens. When St. Louis was at his court when he was king, he was known to feed and serve himself one hundred poor every day and established houses where the poor and sick could be cared for.

Thirdly, we must be devoted towards God. True piety is found in the absolute service of God. Serving Him and loving Him above all things. Following His Will in love and obedience is true piety.

We should approach the crib and pray in thanksgiving for the having granted this nobilitas to us and to continue to provide us with the grace to practice anew sobriety, justice and piety. The mother of St. Louis, Blanche of Castile would say “I love you my dear son, with all the tenderness a mother is capable of; but I would infinitely rather see you fall down dead at my feet, than that you should ever commit a mortal sin.” He was known to offer the divine office, and to hear two masses a day as well as to visit various churches and spend time in prayer. He embarked on two crusades deeming it necessary to answer the call of Christendom rather than to rule at his kingdom.

We see in the example of St. Louis the ideal of a Catholic Monarch but most importantly the nobilitas that he exhibited during his life which he acknowledged as coming from Our Lord. Let us ask Our Lord in the crib to live up to the nobilitas that he has bestowed upon us by Our Lord becoming man and by his raising us by His grace and example.
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O Antiphona と呼ばれるクリスマス前の晩課のマニフィカトのアンティフォナのまとめです。

2019年12月28日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

O Antiphona と呼ばれるクリスマス前の晩課のマニフィカトのアンティフォナのまとめです。

最初の言葉の頭文字を逆に読むと、つまり Sapientia, Adonai, Radix, Clavis, Oriens, Rex, Emmanuel を最後の言葉から順に最初の言葉まで頭文字だけを読むと、ラテン語で「明日、私はいるだろう」Ero cras となります。

23222120191817【←日付】
↓↓↓ ↓↓↓↓
O 【→明日私はいるだろう】
MER LADA
MXI ADOP
A︵E VINE
N王N IXAN
U︶S S︵IT
E ︵ ︵根︵I
L 昇 鍵︶アA
︵ る ︶ ド︵
エ ︶   ナ智
ン     イ慧
マ     ︶︶







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御降誕の大祝日の八日間中の主日(二級祝日 白)

2019年12月28日 | カトリックとは

御降誕の大祝日の八日間中の主日(二級祝日 白)

ミサ聖祭
指定巡礼聖堂はない。指定巡礼聖堂は、その時その時に信者に知らせる習慣であったか、それとも、小主日には、指定巡礼聖堂に集まらず、各自の教会に集まっていたか、いずれかのためであろう。御降誕の大祝日の八日間中の主日であるから、〈入祭文〉には、平和の中にメシアが生まれるという預言を読む。〈聖福音〉は、復活という新しい考えに向かって、信者の心をひらかせる。神殿に奉献された幼児は、もはや、天主の民の生命と復活である。〈書簡〉でも同じことを教える。イエズスはわれらの兄弟であり、イエズスの霊は、われらに「わが父」なる天主をもたらした。

Dominica infra Octavam Nativitatis 御降誕の大祝日の八日間中の主日
II classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Sap. 18, 14-15. 入祭文、智書、18ノ 14-15.
Dum médium siléntium tenérent ómnia, et nox in suo cursu médium iter háberet, omnípotens Sermo tuus, Dómine, de cælis a regálibus sédibus venit. すべてが沈黙の真ん中を包み、夜がその道のりを真ん中に進めたとき、御身の全能の御言葉は、天の玉座より下った。
Ps. 92, 1. 詩篇、92ノ 1.
Dóminus regnávit, decórem indútus est : indútus est Dóminus fortitúdinem, et præcínxit se. 主は統べ給い、飾りを着給うた、主は力を身に着けそれを身におび給う。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Dum médium siléntium tenérent ómnia, et nox in suo cursu médium iter háberet, omnípotens Sermo tuus, Dómine, de cælis a regálibus sédibus venit. すべてが沈黙の真ん中を包み、夜がその道のりを真ん中に進めたとき、御身の全能の御言葉は、天の玉座より下った。
Oratio. 集祷文
Omnípotens sempitérne Deus, dírige actus nostros in beneplácito tuo : ut in nómine dilécti Fílii tui mereámur bonis opéribus abundáre : Qui tecum. 全能永遠の天主よ、われらのおこないを、御身の思し召しにおいて導き給え、そは御身の愛する聖子の御名において、われらが善業で満たすに値するためなり。御身とともに(…)。
Lectio Epístolæ beati Pauli Apostoli ad Gálatas. 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読
Gal. 4, 1-7. ガラツィア、4ノ1-7.
Fratres : Quanto témpore heres párvulus est, nihil differt a servo, cum sit dóminus ómnium : sed sub tutóribus et actóribus est usque ad præfinítum tempus a patre : ita et nos, cum essémus párvuli, sub eleméntis mundi erámus serviéntes. At ubi venit plenitúdo témporis, misit Deus Fílium suum, factum ex mulíere, factum sub lege, ut eos, qui sub lege erant, redímeret, ut adoptiónem filiórum reciperémus. Quóniam autem estis fílii, misit Deus Spíritum Fílii sui in corda vestra, clamántem : Abba, Pater. Itaque iam non est servus, sed fílius : quod si fílius, et heres per Deum. 兄弟たちよ、世つぎはすべてのものの主人であるが、子どもの間は奴隷とことなることがない。父が定めた日までは、後見人と管理者とのもとにいる。私たちもそうであって、子どもの間は、奴隷として、世の要素のもとにあった。しかし、時が満ちて、女から生まれさせ、律法の下に生まれさせたみ子を、天主はおつかわしになった。それは、律法のもとにある者をあがない、私たちを養子にするためであった。そして、あなたたちが天主の子である証拠は、「アッバ、父よ」と叫ぶみ子の霊を、天主が私たちの心につかわされたことである。だから、もはやあなたは奴隷ではなく子である。子であれば、また、天主によって、世つぎである。
Graduale. Ps. 44, 3 et 2. 昇階誦、詩篇、 
Speciósus forma præ filiis hóminum : diffúsa est gratia in lábiis tuis. 人の子らにまさって姿は美しく、あなたの唇には優雅さが溢れている。
V/. Eructávit cor meum verbum bonum, dico ego ópera mea Regi : lingua mea cálamus scribæ, velóciter scribéntis. V/. 私の心は美しい言葉を湧き出した。私はいう、私の業は王のため、私の舌は素速く物書く人の筆。.
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 92, 1. Dóminus regnávit, decórem índuit : índuit Dóminus fortitúdinem, et præcínxit se virtúte. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ、 V/. 主は統べ給い、飾りを着給うた、主は力を身に着けそれを身におび給う。アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Lucam. ルカによる聖福音の続誦
Luc. 2, 33-40. ルカ、2ノ 33-40.
In illo témpore : Erat Ioseph et María Mater Iesu, mirántes super his quæ dicebántur de illo. Et benedíxit illis Símeon, et dixit ad Maríam Matrem eius : Ecce, pósitus est hic in ruínam et in resurrectiónem multórum in Israël : et in signum, cui contradicétur : et tuam ipsíus ánimam pertransíbit gládius, ut reveléntur ex multis córdibus cogitatiónes. Et erat Anna prophetíssa, fília Phánuel, de tribu Aser : hæc procésserat in diébus multis, et víxerat cum viro suo annis septem a virginitáte sua. Et hæc vídua usque ad annos octogínta quátuor : quæ non discedébat de templo, ieiúniis et obsecratiónibus sérviens nocte ac die. Et hæc, ipsa hora supervéniens, confitebátur Dómino, et loquebátur de illo ómnibus, qui exspectábant redemptiónem Israël. Et ut perfecérunt ómnia secúndum legem Dómini, revérsi sunt in Galilǽam in civitátem suam Názareth. Puer autem crescébat, et confortabátur, plenus sapiéntia : et grátia Dei erat in illo. そのとき、おさな子についてこういわれたので、ヨゼフとイエズスの母マリアはおどろいていた。シメオンはかれらを祝福してから、母のマリアに、「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」といった。また、アゼル族ファヌエルの娘で、大へん年老いたアンナという預言者がいた。乙女の時をへて、七年間夫とともに生活し、やもめになって八十四歳になるまで神殿をはなれず、断食と祈りとをおこなって、夜ひるとなく天主に奉仕していた。この人もこの時に来て、天主に感謝し、イエルザレムの救いを待ちのぞんでいる人々に、その子のことを話していた。両親は、主の律法どおりにすべてをおこなってから、ガリラヤに行き、自分たちの町ナザレトに帰っていった。おさな子は次第にすこやかに成長し、知恵にみたされ、そして天主の恵みがその上にあった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 92, 1-2. 奉献文、詩篇、92ノ 1-2.
Deus firmávit orbem terræ, qui non commovébitur : paráta sedes tua, Deus, ex tunc, a sǽculo tu es. 天主は、地球を固め給うた。それは揺り動かないだろう。天主よ、御身の座はその時より据えられ、御身は代々[の昔]からまします。
Secreta. 密誦
Concéde, quǽsumus, omnípotens Deus : ut óculis tuæ maiestátis munus oblátum, et grátiam nobis piæ devotiónis obtineat, et efféctum beátæ perennitátis acquírat. Per Dóminum. 全能なる天主よ、願わくは、御身の御稜威の目前に捧げられた礼物が、われらに敬虔な信心の恵みと、幸せな永遠の効果とを得んことを。天主として、(…)。
Præfatio de Nativitate Domini. 序誦  御降誕の序誦
Vere dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Quia per incarnáti Verbi mystérium nova mentis nostræ óculis lux tuæ claritátis infúlsit: ut, dum visibíliter Deum cognóscimus, per hunc in invisibílium amórem rapiámur. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus, Sanctus, Sanctus... 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。なぜなら、託身した御言葉の玄義によって、われらの精神の目に、御身の輝きの新しい光が、輝き出でし故なり。そは、われらが目に見えるやり方で天主を識り奉る時、これによって見えざるものらの愛に心ひかれるためなり。ゆえに、天使、大天使と共に、座天使と主天使と共に、また、天の万軍と共に、われらはきわまりなく、主の御光栄の讃歌を歌い奉る。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. Matth. 2, 20. 聖体拝領誦、マテオ、2ノ 20.
Tolle Púerum et Matrem eius, et vade in terram Israël : defúncti sunt enim, qui quærébant ánimam Púeri. 幼児とその母とをつれて、イスラエルの地に行け。幼児の生命を狙っていた者どもは死んだ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Per huius, Dómine, operatiónem mystérii, et vitia nostra purgéntur, et iusta desidéria compleántur. Per Dóminum. 主よ、願わくは、この神秘のはたらきを通して、われらの悪徳がきよめられ、且つ、正しい願いが満たされんことを。天主として、(…)。




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キリストの時間的な誕生に従って至福な童貞女は彼の母と呼ばれうるか聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第三項)

2019年12月28日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御降誕節に入りました。聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第三項 キリストの時間的な誕生に従って至福な童貞女は彼の母と呼ばれうるか)による御降誕の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Articulus 3 第三項 キリストの時間的な誕生に従って至福な童貞女は彼の母と呼ばれうるか
[48348] IIIª q. 35 a. 3 arg. 1 Ad tertium sic proceditur. Videtur quod secundum temporalem nativitatem Christi beata virgo non possit dici mater eius. Ut enim supra dictum est, beata virgo Maria nihil active in generatione Christi operata est, sed solam materiam ministravit. Sed hoc non videtur sufficere ad rationem matris, alioquin, lignum diceretur mater lecti aut scamni. Ergo videtur quod beata virgo non possit dici mater Christi. 第三については次のように進められる。キリストの時間的な誕生に従って至福な童貞女が彼の母と呼ばれ得ないと思われる。(一)上述のように(第三十二問第四項)、至福な童貞女マリアはキリストの出生において能動的にいかなる働きもせず、たんに質料のみを提供しただけだ。しかし、これは母親であるという概念ratioには十分であるとは思われない。さもなければ木材が寝台や長椅子の母であると言われるだろう。従って、至福な童貞女はキリストの母とは呼ばれ得ないと思われる。
[48349] IIIª q. 35 a. 3 arg. 2 Praeterea, Christus ex beata virgine miraculose natus est. Sed miraculosa generatio non sufficit ad rationem maternitatis vel filiationis, non enim dicimus Hevam fuisse filiam Adae. Ergo videtur quod nec Christus debeat dici filius beatae virginis. さらに(二)キリストは至福な童貞女から奇跡的に生まれ給うた。しかし、奇跡的な出生は母親であること、あるいは子供であることの概念ratioに十分ではない。何故なら、私たちはエワがアダムの娘であったとは言わないからだ。従って、キリストも至福な童貞女の息子と呼ぶべきではないように思われる。
[48350] IIIª q. 35 a. 3 arg. 3 Praeterea, ad matrem pertinere videtur decisio seminis. Sed, sicut Damascenus dicit, in III libro, corpus Christi non seminaliter, sed conditive a spiritu sancto formatum est. Ergo videtur quod beata virgo non debeat dici mater Christi. さらに(三)母親ということには種子semenの分泌が関係するように思われる。しかし、ダマスケヌスが『正統信仰論』第三巻において言うように、「キリストの体は種子によってseminaliterではなく、聖霊による“働きによって”conditive形成された」。従って、至福な童貞女はキリストの母と呼ばれるべきではない。
[48351] IIIª q. 35 a. 3 s. c. Sed contra est quod dicitur Matth. I, Christi generatio sic erat. Cum esset desponsata mater Iesu Maria Ioseph, et cetera. しかし、反対に、『マテオ福音書』第一章(第十八節)にはこうある。「キリストの誕生の次第は次のようであった。イエズスの母マリアはヨゼフと婚約していたが、云々。」
[48352] IIIª q. 35 a. 3 co. Respondeo dicendum quod beata virgo Maria est vera et naturalis mater Christi. Sicut enim supra dictum est, corpus Christi non est de caelo allatum, sicut Valentinus haereticus posuit, sed de virgine matre sumptum, et ex purissimis sanguinibus eius formatum. Et hoc solum requiritur ad rationem matris, ut ex supra dictis patet. Unde beata virgo vere est mater Christi. 答えてこう言うべきである。至福な童貞女マリアはキリストの真の且つ自然本性的な母である。上述のように(第五問第二項:第三十一問第五項)、キリストの体は異端者ヴァレンティノスが主張したように天から運ばれ降りたのではなく、童貞なる母から受け取られ、聖母のいとも純潔な血から形成された。そして、上述のところからあきらかなように(第三十一問第五項:第三十二問第四項)、これのみが母親としての概念ratioに必要である。従って、至福な童貞女は真にキリストの母である。
[48353] IIIª q. 35 a. 3 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod, sicut supra dictum est, paternitas seu maternitas et filiatio non competunt in quacumque generatione sed in sola generatione viventium. Et ideo, si aliqua inanimata ex aliqua materia fiant, non propter hoc consequitur in eis relatio maternitatis et filiationis, sed solum in generatione viventium, quae proprie nativitas dicitur. (一)については、従って、こう言うべきである。上述のように(第三十二問第三項)、父性(父であること)、あるいは母性(母であること)、および子性(子であること)は、いかなる生成においても適合のではなく、生きているものの出生においてのみ、である。従って、もし何らかの質料から何らかの非生命ができても、これゆえにそれらにおいて母性(母であること)や子性(子であること)の関係は帰結しない。そうではなく、生きているの出生(これこそが固有の意味で誕生と言われる)においてのみである。
[48354] IIIª q. 35 a. 3 ad 2 Ad secundum dicendum quod, sicut Damascenus dicit, in III libro, nativitas temporalis, qua Christus est natus propter nostram salutem, est quodammodo secundum nos, quoniam natus est homo ex muliere, et tempore conceptionis debito, super nos autem, quoniam non ex semine, sed ex sancto spiritu et sancta virgine, super legem conceptionis. Sic igitur ex parte matris nativitas illa fuit naturalis, sed ex parte operationis spiritus sancti fuit miraculosa. Unde beata virgo est vera et naturalis mater Christi. (二)についてはこう言うべきである。ダマスケヌスが『正統信仰論』第三巻で言っているように、キリストが私たちの救いのために生まれ給うた時間的誕生は、或る意味で、私たちに従ってsecundum nosのことである、なぜなら、人間として女から、然るべき懐妊の時に、生まれたからである。しかし、私たちを超えてsuper nosのことである、なぜなら、精子からではなく、聖霊と聖なる童貞女とから、懐妊の法を超えて生まれたからである。従って、母の側からは、かの御誕生は自然的であった。しかし、聖霊の働きの側からは、奇跡的であった。従って、至福な童貞女はキリストの真の、自然本性的な母である。
[48355] IIIª q. 35 a. 3 ad 3 Ad tertium dicendum quod, sicut supra dictum est, resolutio seminis feminae non pertinet ad necessitatem conceptus. Et ideo resolutio seminis non ex necessitate requiritur ad matrem. さらに(三)についてはこう言うべきである。上述のように(第三十一問第五項第三異論解答:第三十二問第四項)女性の種子の分泌は懐胎の必要性に属さない。従って、種子の分泌は母親であるため必要性として求められない。

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御降誕における聖母の重要性について: ピーター・フォルティン神父様 主の御降誕の前日の説教

2019年12月27日 | お説教・霊的講話

主の御降誕の前日の説教

聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様

特別な祝日には、典礼は私たちを、特定の祝日や玄義について重要な意味を持つ「指定巡礼聖堂」として知られているところへ連れていってくれます。聖人の祝日には、その聖人の名を冠した聖堂であることがあります。例えば、聖ステファノの祝日には、指定巡礼聖堂が殉教者聖ステファノ聖堂であるようにです。御降誕の前日には、御降誕の真夜中のミサと同様に、ローマ市の聖マリア大聖堂が指定巡礼聖堂だとされています。私は、この大バジリカの歴史からいくつかの事実を述べて、御降誕の前日における聖母の重要性について述べようと思います。

この教会の歴史は4世紀のローマで始まります。ある裕福で子どものいない夫婦が、自分たちが死んだあと、自分たちのこの地上での財産が童貞なる御母をたたえる方法で使われるように望んでいました。彼らは天主のお導きを祈り求めました。すると祝されし童貞が夢の中で夫にご出現になり、真夏に雪が降る場所に聖母のために教会を建てるようお求めになりました。

夫婦がすぐに、祝されし童貞の要請を教皇リベリウス(在位352-366)に報告したところ、教皇も同じような夢を見たと述べました。天候が最も暑かった8月5日に、雪が奇跡的に、ローマにあるエスクイリーノの丘と呼ばれる地域に、教会の輪郭を描くように降りました。

祝されし童貞をたたえた最初のキリスト教会が建てられました。最初は教皇リベリウスにちなんでリベリウスのバジリカと呼ばれました。何世紀にもわたって再建され、豪華に飾られたこのバジリカは、祝されし御母の母性と生涯を敬うローマ人や巡礼者にとって非常に特別な教会でした。

元のバジリカの建て直しと拡張が、431年のエフェゾ公会議のあとに行われました。この公会議は、特に天主の御母という聖母の称号についての論争を決着させるために招集されました。428年にコンスタンティノープル総大司教(大司教)に選ばれたネストリウスが、自らの非常に重要な立場を利用して、マリアはキリストの御母(クリストトコス)にすぎず、天主の御母(テオトコス。字義は「天主を生む者」)ではないという異端的な教理を唱えました。

ネストリウスとその一派の者たちは、イエズス・キリストのうちには人間と天主の二つの分離したペルソナがあり、マリアから生まれ、十字架に付けられ、死して葬られ、復活した人間のペルソナは天主のペルソナではない、と主張しました。ネストリウスとその支持者たちは、マリアはイエズスの天主のペルソナの母ではなく人間のペルソナの母にすぎないため、マリアを「天主の御母」と呼ぶことはできない、と論じました。

ネストリウスの異端への反対派を率いたのは、エジプトのアレキサンドリア総大司教の聖キリルスでした。キリルスは、イエズスには二つのペルソナはない、という教会の理解を明確にするのに貢献しました。そうではなく、イエズスは、一つは完全に人間の本性、もう一つは完全に天主の本性という二つの本性を結合させた唯一のペルソナとしてお生まれになったのです。その唯一のペルソナは天主であって、天主の永遠の御子です。マリアが肉となられたみ言葉をお生みになったとき、二つの本性をもつ唯一の天主のペルソナをお生みになりました。それゆえに、マリアは天主の御母と呼ばれるのが正しいのです。

この論争は、431年の6月から7月にかけてエフェゾで開かれたこの公会議で最高潮に達しました。200人近くの司教がそこに集まっていました。彼らはネストリウスを追放し、マリアはまことに天主の御母であると宣言しました。この公会議の決定は普遍的であって、キリスト教世界全体にマリアへの崇敬を増大させました。マグニフィカトにおいて、聖母は「よろず世に至るまで、人われを幸いなる者ととなえん」と言われました。今や、永遠に至るまで、聖母は幸いなる者ととなえられるのみならず、天主の御母というその最高の尊厳を持つ名前によって正しく知られるようになったのです。

エフェゾ公会議はネストリウスと彼の広めた異端説を公式に断罪したのですが、この論争は続きました。公会議が終了した一年後に教皇になった教皇シクストゥス三世(440年帰天)は、すぐにリベリウスのバジリカの再建に着手しました。修復の完成に当たって、教皇はこの聖堂を天主の御母たるマリアに奉献しました。教皇シクストゥスによるこの行為によって、エフェゾの公会議の教義宣言を聖座が認可したことが再確認されました。それはまた、天主の御母たる聖母に奉献されたこのローマのバジリカに、永遠に結びついたのです。

しばらくの間、このバジリカは、飼い葉桶の聖マリア聖堂として知られていました。御降誕のときにイエズスが寝かされていたものだと信じられていた聖なる飼い葉桶の聖遺物を入手したことにちなんでいたのです。この聖遺物は、7世紀のイスラムによる侵略から逃れた聖地からのキリスト教徒の避難民によってローマにもたらされました。このバジリカでは、今でも毎年御降誕祭の日に、聖なる飼い葉桶の行列を行っています。この教会は、最終的には聖マリア大聖堂と名付けられました。それは、祝されし御母をたたえてその御名を付けられたローマにある26の教会のうちで最も大きく、最も著名だったからです。私たちの精神と心が私たちの主を受け入れる準備ができるよう、特に本日、聖母に祈り求めましょう。

 

【英語原文】

Sermon for Vigil of Christmas

Fr Peter Fortin, FSSPX

For special feasts, the Liturgy will take us to what is known as “stational churches” which have a significance for the particular feast or mystery. For some feasts it will be the namesake of the saint such as for the feast of St. Stephan, the stational church is that of the Martyr, St. Stephan. For the Vigil of Christmas, there is mentioned the Station of St. Mary Major in the city of Rome as well with Christmas Midnight Mass. I will just mention a few facts from the history of this Major basilica to somehow describe the importance of Our Lady on the Vigil of Christmas.

The History begins in the fourth-century in Rome, there was a wealthy and childless couple who, upon their death, wanted their earthly possessions used in a way that would honor the Virgin Mother. They prayed for divine guidance. The Blessed Virgin appeared to the husband in a dream, requesting that a church be built for her on a site where snow would fall in midsummer.

The couple quickly reported the Blessed Virgin’s  request to Pope Liberius (reigned 352-366), who claimed to have had a similar dream. On Aug. 5, when the weather was most hot, snow miraculously fell on an area of Rome called Esquiline Hill, depicting the outline of the church.

The first Christian church in honor of the Virgin Mary was built. It was first called the Liberian Basilica after Pope Liberius. This basilica, was rebuilt and magnificently adorned over the centuries, has been very special for Romans and pilgrims to venerate the maternity and life of the Blessed Mother.

Reconstruction and expansion of the original basilica took place following the ecumenical Council of Ephesus held in 431. That council was called specifically to settle a controversy regarding Our Lady’s title as the Mother of God. Nestorius, who was the patriarch (archbishop) of Constantinople elected in 428, used his very important position to preach the heretical doctrine that Mary was only the Mother of Christ (Christotokos), not the Mother of God (Theotokos; literally, “God-bearer”).

He and others claimed that there were two separate persons, one human and one divine, within Jesus Christ; and that the human person born of Mary, who was crucified, died, buried and resurrected was not divine. Nestorius and his followers argued that Mary could not be called “Mother of God,” because she was the mother only of the human person in Jesus, not the divine Person.

Leading the opposition to the Nestorian heresy was St. Cyril, patriarch of Alexandria, Egypt. Cyril helped to clarify the Church’s understanding that Jesus is not two persons. Rather, he was born one Person in whom are united two natures, one fully human and one fully divine. That one Person is the divine, eternal Son of God.

When Mary gave birth to the Word made flesh, she was giving birth to that one divine Person in two natures. Therefore Mary is rightfully called the Mother of God.

This controversy was brought to a head at the council in Ephesus during June and July 431. Nearly 200 bishops gathered there. They deposed Nestorius and declared that Mary is truly the Mother of God. The decision of the council was universal and increased the veneration of Mary throughout Christendom. In her Magnificat, Our Lady had said, “All generations will call me blessed”. Now, and for all eternity, not only would she be called blessed, but she would be duly known by the name of her highest dignity, Mother of God.

Though the Council of Ephesus officially condemned Nestorius and the heresy he promoted, the controversy continued. Pope St. Sixtus III (d. 440), who became pope one year after the council ended, immediately he began to rebuild the Liberian Basilica. Upon completion of the renovations, he dedicated it to Mary, the Mother of God. This action by Pope Sixtus further affirmed the Holy See’s approval of the council’s dogmatic declaration in Ephesus. It also linked forever this Roman basilica dedicated to Our Lady’s divine motherhood.

For a while the basilica was known as St. Mary of the Crib after it obtained a relic of the Holy Crib, believed to be the one in which Jesus was laid at His nativity. This relic was carried to Rome by Christian refugees from the Holy Land fleeing the Muslim invasion of the seventh century. The basilica still hosts a procession of the Holy Crib every year on Christmas Day. The church finally was named St. Mary Major because it is the largest and most eminent of all the 26 churches now in Rome named in honor of the Blessed Mother. Let us invoke Our Lady especially on this day to prepare our minds and hearts to receive Our Lord.

 

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聖ピオ十世会大阪 聖伝のミサ 2019年12月25日 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2019年12月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪からの報告をいただきました。ご紹介いたします。

【報告】

主の御降誕のお喜びを申し上げます。
クリスマスの御ミサの報告をお送りいたします。
24日のイブのミサには30人、真夜中のミサには、25人、暁のミサには30人の方々がミサに預かられ、イエズス様のご誕生を喜び共にました。
25日のミサの前には、私達の姉妹マリア・フィロメナが、フォルティン神父様より、荘厳に洗礼を受けられました。御降誕の喜びに、マリア・フィロメナの洗礼が加わり、今年の喜びは特別大きなものとなりました。

暁のミサの後にはささやかなパーティーを行い、神父様が東京に向かわれた後には20人以上の
残った方々と、クリスマスの感謝と、マリア・フィロメナのためにロザリオの祈りをお捧げして、終了いたしました。
多くのお恵みを頂き、感謝します。また、休暇中にも関わらす全てのミサを歌ミサで荘厳にお捧げくださったフォルティン神父にも、心から感謝いたします。
また、沢山の素晴らしいお説教や、洗礼式のご説明などがありましたので後ほどアップされると思います。もう一度読み直して良い御降誕節を過ごしたいと思います。





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御降誕の祝日、フォルティン神父様が大阪で深夜ミサと暁のミサを、東京では日中のミサを捧げて下さいました

2019年12月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

私たちの主イエズス・キリストの御降誕の祝日には、フォルティン神父様が大阪で深夜ミサと暁のミサを、東京では日中のミサを捧げて下さいました。

大阪では、清らかな霊魂がマリア・フィロメナとして生まれ変わりの水を受け、天主の子供となりました。日本での今年15番目の天主の義子です。

大阪でも東京でも聖堂はいっぱいになりました。天主様に感謝いたします。

深い感謝を込めて愛する兄弟姉妹の皆様にご報告を紹介いたします。ご報告をくださった方には心から感謝いたします。

また、クリスマス休暇を数日間、ご両親のもとにすぐに行く代わりに、日本で過ごすことにしてくださったフォルティン神父様に感謝いたします。

トマス小野田神父

【報告・東京】
Dear Fr Onoda:

今日はピーター・フォルティン神父が大阪から再び来て下さり、クリスマスの日中のミサをあげてくださいました。

今日の御説教は御降誕についての二つの大事なこと、ひとつは天主であり人である私たちの主について、もう一つはまぐさ桶の主を最初に訪問した羊飼いたちについてお話しくださいました。

まず、私たちの主はとりわけ柔和であり、親しみやすく、近づきやすい方であり、いかなる人も見放さず、むしろ自分のところに呼び寄せられる方なので、私たちも御憐れみを御恵みを求めて主のゆりかごを訪問すべきであるというこ
とです。

そして、最初にお生まれになった主のことを告げられて真っ先に訪問したのは、学のある律法学士やファイザイ人たちではなく、貧しく純粋な信仰をもった羊飼いたちであったことから、主がおっしゃったように文字通り「貧しい人
には福音が告げられている」ということ、そして私たちのこの羊飼いのような信仰と謙遜を持たねばならないことを教えていただきました。

ミサの後には幼きイエズス像への接吻の儀式があり、その後持ち寄りのクリスマス・パーティーを行いました。


今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 31人(内、子供6人)
女: 31人(内、子供4人)
計: 62人(内、子供10人)

今日の東京でのクリスマス・パーティーの参加者数は下記の通りです。

約33人

なお、マニラの学校のための第2献金55,597円については、12月29日にフォルティン神父に直接お渡しする予定です。


東京


大阪





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私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお祝いを申し上げます

2019年12月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

私たちの主の御降誕おめでとうございます。
愛する兄弟姉妹のクリスマスのお祝いの言葉を感謝いたします。

イエズスの聖心の祝福とお恵みが皆様の上にあふれるばかりありますように!
聖伝のミサに与る全ての兄弟姉妹の方々の上に、このブログをお読みの全ての方々の上に、御降誕の特別の喜びと幸福がありますように!

カトリックの聖伝と聖ピオ十世会の為にくださる多くの祈りと犠牲、ご後援とご支持、その他全てのお手伝いを感謝いたします。

2020年が真の祝福と真の幸福で満たされる年となりますように!

聖母の汚れなき御心が、いつも、いつまでも、私たちの避難所・守りの要塞・天への道でありますように! 

フォルティン神父様が校長先生をしている学校のクリスマス聖劇をご紹介いたします。


最後の場面

マリア様へのお告げ




聖ヨゼフへのお告げ


ローマ皇帝の人口調査の勅令












べトレヘムへの旅






宿を探して回るが断られる









天使が牧者らに現れる













東の国の博士たちもやってくる














最後に皆が集まる








善い御降誕節をお過ごしください!
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マニラでのクリスマスの真夜中のミサの前に:聖家族が宿を探す聖劇パヌヌルヤン Panunuluyan

2019年12月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちのマニラの教会では、昨晩、主の御降誕の朝課をグレゴリオ聖歌で歌った後、子どもたちによる聖劇が行われました。

聖母マリア様と聖ヨゼフが宿を探してべトレヘムの家々のドアを叩いて周ります。

近所の方々の家もご好意により使わせていただきました。





































最後の家


教会に到着 馬屋













Enter, enter, holy pilgrims, holy pilgrims.
Welcome to my humble home.
Though ‘tis little I can offer,
all I have please call your own.

Entren santos peregrinos, peregrinos,
reciban este rincón.
Aunque_es pobre la morada,
os la doy de corazón.

聖母マリア様、聖ヨゼフ様、聖家族よ、
どうぞ私のあばら家に
お入りください。
私の差し上げる琴ができることは
あまりにみすぼらしく、哀れなものですが、
どうぞ、ご自分のものとして、ご自由にお使いください。
御身をここにお泊めすることができるのは、
何という幸い!何という幸福!何という喜び!
最高の栄誉、素晴らしい贈り物です!
これから、ずっと、いつも、いつまでも、
ここにいらしてください。
聖母マリア様、聖ヨゼフ様、聖家族よ、
どうぞ私のあばら家に
お入りください。

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私たちの主の御降誕

2019年12月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

私たちの主の御降誕のお慶びを申し上げます。






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司祭職について: ピーター・フォルティン神父様お説教 待降節第四主日

2019年12月23日 | お説教・霊的講話

待降節第四主日の説教

聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父

「私たちをキリストのしもべ、また天主の奥義の管理者だと考えよ」(コリント前書4章1節)

愛する信者の皆さん、

本日の書簡は、司祭職に関するものです。その理由は、教会の歴史の中のある時代においては、冬の四季の斎日の土曜日に司祭の叙階を行うという習慣があったからです。この理由のために、待降節第四主日には、司祭職に関する朗読があります。待降節第四主日のミサは、多くの新たに叙階された司祭によって捧げられるまさに初ミサだったのです。ですからこの朗読は、新たに叙階された司祭が聖なるミサを初めて捧げるにあたって、一種の教えとなるように意図されたものだったのです。

聖パウロは、使徒でありかつ司祭です。彼は、司祭を「キリストのしもべ」と呼びますが、他の古代の文では、「助け手」あるいは「助手」という言葉で記録されているものもあります。私たちの主の司祭職と彼の司祭たちの司祭職に関して、私たちは、主人と彼を助けるしもべたちというイメージを持つことができるでしょう。司祭職の偉大さは、司祭職それ自体によるのではなく、司祭職が私たちの主イエズスに属していることによるのです。司祭職の偉大さはすべて、私たちの主から受けるものです。フランス革命の間に、捕らえられて酒場で拷問を受けたある司祭の美しい物語があります。最期の時を迎えた司祭を、処刑人たちはテーブルの上に投げ出しました。司祭はひどく打ち据えられ、傷からは血が流れていました。処刑人たちは、司祭に何か言うことがあるかと尋ねました。司祭は息も絶え絶えだったので、処刑人の一人がその声を聞けるように、そばに近づくよう求めました。司祭は「偉大な人はいない、天主のみが偉大だ」と言いました。それは、苦しみにもかかわらず、また、信仰に忠実であったがゆえに殉教者としての死を迎えようとしていたにもかかわらず、この司祭は自分が偉大であるとはいささかも考えていなかったことを示しています。偉大なのは、司祭がお慕いしていたキリストのみだったのです。

現実には、司祭はただ一人であって、それは私たちの主です。なぜなら、司祭職の本質は仲介者であることだからです。司祭というのは、天主と人間との間の仲介者です。キリストのみが、天主にして人間であるがゆえに、まことの司祭であり得るのです。キリストは完全な仲介者です。仲介者というものは、仲介する両側に気を配る必要があります。私たちの主は、天主の側を取る権能をお持ちであり、また人間としての特別な必要性も持っておられます。それゆえに、私たちの主は唯一の仲介者にして唯一の司祭であって、その主の司祭職の充満が達せられたのは、主が十字架上でご自身をお捧げになり、ご自身の永遠のいけにえによって天主と人間を和解させられた瞬間だったのです。

私たちの主は、この永遠のいけにえが聖なるミサによって再現されることをお望みになりました。私たちの主は、もう目に見える人間の形でこの地上にはおられませんから、ご自身の教会の中で、ご自身の司祭職を分かち与えられる者たちがいることをお望みになりました。人間の司祭は、キリストのしもべ、天主の代理者です。しもべたちが主人を助け、主人の代理をするように、司祭はキリストをお助けし、その代理をするのです。司祭は、自分が常に私たちの主を通じて行うすべてのこと、すなわち秘蹟、祝福、祓魔式、祈りにおいて、主の代理をします。司祭に対する信者のあいさつが「イエズス・キリストに讃美」、という文化がいくつかあります。その意味は、「私はあなたをキリストとして見ています」ということです。私が10年ほど前にシュテーリン神父様とポーランドを訪問したとき、至るところでこのあいさつが普通でした。ポーランド人に会うたびに、彼らはこのあいさつを知っていて、そう答えてくれるのです。本当に美しい習慣です。私は何回かそれほど頻繁に司祭の訪問を受けない人たちに会う機会がありました。ごく幼い子どもたちがカソック[司祭の黒い平服=スータン]を見たとき、イエズス、イエズスと叫ぶことが何度かありました! これは、司祭が私たちの主の代理をするという、まことに深遠な現実を表すものです。

司祭は、まだ罪の支配下にある人間であり、決して天使ではありません。他方、天使に司祭になるという本性はなく、それは不可能です。天使は罪を赦すこともミサを捧げることもできません。天主は、天使ではなく人間となることをお選びになりました。天主は人間を、いまだ堕落した本性を持つ人間をお選びになり、私たちの主は、私たちが司祭の中に主ご自身の似姿を認めるようお望みになります。司祭は自分の口と両手をキリストにお貸ししているのであり、主は、私たちの主に対する愛と敬意から、私たちが主の司祭職を愛して敬意を持つようお望みになっておられます。聖フランシスコの生涯にその模範があります。彼がある町にやって来て、修道士たちと一緒に説教していたときでした。それは教会が大いに頽廃し、あらゆるところで司祭に関する深刻な問題が生じていた時代でした。何人かの信者がそこにやって来て、その町の司祭について、罪びとであることは疑いないと不平を述べました。司祭ではなく助祭だった聖フランシスコは、人々の心に司祭職が聖なるものであることを強調し、司祭の人としての過ちにもかかわらず、いかにして司祭のうちに常にキリストを見るべきであるかを教えるため、「私は、キリストの聖なる御体に触れ、私の罪を赦す力のある司祭の両手に、その同じ両手によって犯されたかもしれない多くの罪があったとしても、喜んでいつでも接吻します」、と言ったのです。これこそが、深遠な超自然の現実をもって物事を見る聖フランシスコなのです。

今日の書簡において、司祭はまた、管理者にも例えられています。私たちは、教会を大きな荘園に、そしてその所有者を私たちの主と考えることができるでしょう。管理者は、この荘園の代理をして、荘園の番をする司祭です。彼は所有者ではなく、所有者の代理です。また司祭は、主の財産を使って利益を出さねばなりません。管理者の最も重要な徳は、所有者すなわち主人への忠実です。司祭は、天主の玄義の管理者です。天主の玄義は、信仰の教義であり、秘蹟であり、天主のみ言葉です。司祭の責任は、霊魂の世話をすることです。これは、人間が引き受けることのできるうちで最も大きな責任です。司祭は、信者を永遠のいのちへと導く聖なる秘蹟を分配する責任があります。どうか司祭のために祈り続けてください。また、霊魂の世話をするため特別に委託された人々、そして将来の司祭たち、キリストの将来の代理者たちの召命のために、祈り続けてください。

 

【英語原文】

4th Sunday of Advent

Fr Peter Fortin, FSSPX

“Let a man so regard us as ministers of Christ and Stewards of the mysteries of God.”

Dear Faithful,

The epistle today is about the priesthood. The reason for this is because at a certain time in the Church’s history, it was customary to have ordination of the priest on the Winter Ember Saturday. For this reason, the 4th Sunday of Advent has readings concerning the priesthood. The Mass of the 4th Sunday of Advent would be the very first Mass offered by many newly ordained priests. It was intended to be a type of instruction for the first offering of the Holy Mass by the newly ordained priests.

St. Paul is an apostle and priest. He refers to the priest as a “Minister of Christ” in some ancient texts is recorded the word of “helper” or “assistant”. We can have the image of a Lord and his servant assisting him in regards to the priesthood with Our Lord and His priests. The greatness of the priesthood is not by itself but it is attached to Our Lord Jesus. It receives the entire greatness from Our Lord. There is a beautiful story of a priest during the French Revolution who was taken and tortured in a tavern. Towards his dying breath, his executioners threw him onto a table. He was beaten very badly and he was bleeding from his wounds. His executioners asked if he had anything to say. He had difficulty breathing and he asked for one of his executioners to come closer so that he could hear. He said “There is no great man, only God is great”. Meaning despite his sufferings and having been found faithful and dying a martyr’s death, did not consider himself great at all. It was only Christ, who is great, whom the priest is attached to.

There is in reality only one priest and that is Our Lord because the essence of the priesthood is mediatorship. A priest is a mediator between God and Man. Only Christ can be the True Priest because is God and He is Man. He is the perfect mediator. A mediator needs to look for the sides of both. Our Lord has the power to take God’s side and also the particular needs of human beings. Therefore Our Lord is the one mediator and one priest and the fullness of His Priesthood was reached at the moment that he offered Himself on the Cross and reconciled God and Man by His eternal sacrifice.

Our Lord wished for this Eternal Sacrifice to be re-enacted by the Holy Mass. Since Our Lord no Longer is on earth in visible Human Form, He willed that there be sharers in His Priesthood in His Church. The human priest is a minister of Christ, a representative of God. Similarly as the servants assist and represent the master or Lord so the priest assists and represents Christ. The priest represents Our Lord in all things he does, for each sacrament, blessing, exorcism and prayer, always through Our Lord. In some cultures the greeting of the faithful for the priest is “Praise be to Jesus Christ.” The sense is “I look upon you as Christ.” I visited Poland about 10 years and was there with Fr. Stehlin and this was common all over. Every time I meet a Polish, they know the greeting and respond. A very beautiful custom. Several I have visited people in the country and they do not receive priests often. Several times very young children when seeing the cassock, they would shout Jesus, Jesus! This is an expression of the very deep reality that the priest represents Our Lord.

The priest is still a man, subjected to faults by no means an angel. It is not in the nature of an angel to be a priest, it is impossible. An angel can not forgive sin or celebrate a Mass. God chose to become a man not an angel. He picks men and still of a fallen nature and Our Lord wishes us to recognize His own Image in the priest. The priest lends his mouth and hands to Christ and it is Our Lord who wants us to love and respect His priesthood out of love and respect for Him. There is an example in the life of St. Francis, when he came across a town where he was preaching with some friars. This was a time of great decadence in the Church, many serious problems with the clergy all over. Some of the faithful came and complained about the local priest who no doubt was a sinner. St. Francis who was a Deacon, not a priest, in order to impress on the minds of the people the sacredness of the priesthood and how to always see Christ and to look past the faults said to the effect, I will gladly always and at every time kiss the hands that have touched the Sacred Body of Christ and that have the ability to forgive me my offenses despite the many offenses that might have been committed with the same hands. This is St. Francis viewing the matter with a deep supernatural reality.

In the Epistle, the priest is also compared to a steward. We can compare the Church to a great manor and the owner is Our Lord. The steward is the priest who represents and watches over the manor. He is not the owner but represents the owner. The priest must make the property of the Lord yield a profit. The most important virtue of the steward is faithfulness to the owner or the master. The priest is the steward of the mysteries of God. The mysteries of God are the dogmas of the faith, the sacraments and the word of God. The responsibility of the priest is the care of souls. The greatest responsibility that a man can undertake. He is responsible for dispensing the Holy Sacraments that will lead the faithful to life everlasting. Please continue to pray for the priests, for those especially entrusted by God for the care of souls and for vocations of future priests future representatives of Christ.

 

 

 

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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