Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制

2007年03月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制


 19世紀および20世紀において喧伝されてきた宗教的自由の教条は宗教的事柄における自立、行動の自由およびとりわけ一切の人間的権力からの拘束からの自由を要求します。

 聖書の歴史は、かかる主張を裏打ちしているでしょうか。それとも反対に、この主張の根拠を打ち崩すものでしょうか。宗教的事柄における強制に関して、聖書からどのような教えを引き出すことができるでしょうか。


1-旧訳聖書における宗教的事柄においての強制

 天主は、ご自分の民が忠実に真の宗教を保ち、かつ偽りの神々に対する礼拝行為を避けるよう、厳しく強いられました。このため、第二法の書第13章におけるごとく、天主は基本的な法を発布されました。すなわち、同章において天主はイスラエルの民に次のものを拒絶するよう命じています。すなわち、

――偽りの預言者(1-5節)
――他の宗教(6-12節)
――偶像崇拝に陥った都市(12-18節)

 17章2-7節においては、この戒律が再度確認され、さらに、これを破る者たちに対してきわめて厳格な罰、すなわち剣および火による死刑が定められています。


 これら全ての戒律は、イスラエルの民の歴史全体にわたって正しい判事、善き王、預言者たちにより忠実に適用されました。

――ヨシュア記 23章6-8節および24章14-15節
――判事の書 6章25-26節
――列王記上 18章40節
――列王記下 10章18-31節
――年代記下 15章13節;17章6節;19章3節;23章16-17節;30章14節;34章33節
――ネヘミア書9章37節;13章16節-18節
――マカベ書上2章24節-25節;9章73節
――ダニエル書21節 等々


2.新約聖書における宗教的事柄における強制

 ユダヤの民が神権政治の絆から解かれたとき、「心の柔和で謙そんな」(マタイ11章29節)「救い主なる我らの天主[イエズス・キリスト]のいつくしみと人間への愛があらわれました」。(ティトへの手紙11章29節)

 しかしながら、主イエズスは往々にして力強い態度で振る舞われます。主は、例えばラザロの復活のような奇跡を行なわれ、ユダヤ人たちが自らの罪の弁明をできないようになさいました。(ヨハネ15章24節参照)主は「他人の前に天国を閉ざし、自分も入らず、入ろうとする人が入るのもゆるさない」律法学士やファリサイ人をきわめて厳しく譴責されました。すなわち、不実なブドウ園の農夫のたとえ話をとおして、またエルサレムのために涙を流し、その滅亡を予言することをとおして(ルカ19章44節)、ユダヤの民が、少なくとも将来の現世的な災禍の怖れ、憂慮のために、不信仰の過ちに陥るのを阻まれようとされました。その上、神殿からむちで商売人を追い払い、結果的に公共の秩序を乱すことまでなさいました。(ヨハネ2章15節)最後に、主イエズスは、福音の宣教者の言葉を信じるのを拒む者らに永遠の罰を前もって宣告なさいました。(マルコ16章16節)

 使徒聖ペトロは、宗教に関わる事柄についてのアナニアとサフィラの嘘を見抜いた際、彼らを厳しく叱責し、そしてこの2人は天主から突然の死という罰を被りました。このため、「このことを知った人々は、みな非常な恐れを感じた」(使徒行録5章11節)ほどです。第2の書簡において、聖ペトロは「民の中にいる偽預言者たち」を「水のない井戸、烈風に追われる雲、闇の暗さがそのために残されている者ら」(2章17節)、またさらには「自分の吐いたものを喰らう犬」、「洗った後にまた泥の中に転がる豚」と呼んで強く非難しています。


 使徒聖パウロは、地方総督セルジオ・パウロを信仰から遠ざけたとして魔術師かつ偽預言者のエリマを激しく咎(とが)めています。パウロの叱責を受けた後、エリマは失明し、「しばらくは陽の光を見ることができない」(使徒行録13章8-11節)ようになりました。コリント人への第2の手紙においては、パウロ自身、彼の言葉にしたがって歩まない者に対して「より厳しい態度で振る舞う」権能をもっていると述べています。ガラツィア人への手紙では、当地の信徒に、ユダヤ派の信者たちのことにふれて「あなたたちを乱す者は、自らすすんで不具になればよい!」(5章12節)と述べています。


 使徒聖ヨハネは、ある偽教師たちを指して、あざむく者、反キリストと呼び、彼らに対してとるべき態度について次の訓戒を与えています。「もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来る者があれば、その人を家に迎え入れず、挨拶もするな。その人に挨拶する者は、その悪い業にくみするからである。」(ヨハネの第2の手紙 10-11節)


 使徒聖ユダは偽教師たちに対して激しい非難の言葉を発しています。「彼らは(中略)風に運ばれる水なき雲、実を結ばず、再び枯れて根から抜きとられた晩秋の木々であり、自らの恥の泡を打ち返す海の荒波、永遠の暗い闇に備えられているさまよう星である」と。(12-13節)

 最後に、黙示録においては、ペルガモの「天使」(ここでは司教のこと)に対して次の宣告がなされています。「私は、あることについてあなたを咎める。あなたのうちには、バラアムの教えにしたがう者がある。バラアムはイスラエルの子孫に、偶像に捧げた肉を食べさせ、また淫行をさせるために、[イスラエル人の]前にどんな罠を張ればよいかをバラクに教えた。同様に、あなたのもとにも、ニコライ派の教えにしたがう人々がいる。悔い改めよ!」(2章20-23節)


旧訳聖書から導き出される結論

 旧訳聖書において救いの歴史全体を通して天主がこれに介入された仕方から、また天主の霊感を受けた聖書の著者らの記述の筆致から、教理に関する次の諸点が引き出されます。

1-天主はイスラエルの民の司法的秩序において、偶像に対する礼拝行為および偽預言者の説教を一度として容認されなかった。

2-それどころか反対に、天主はきわめて苛烈な外的強制によって偽りの神々の礼拝が抑圧されるようお命じになりました。

3-天主のみ旨にしたがって、このように為した諸々の王ならびに預言者は、聖書の著者から惜しみない称賛を受けています。しかるに、これと反対の仕方で行動した王ならびに預言者は非難されています。



新約聖書から導き出される結論

1-たしかに、主イエズス・キリストならびに使徒たちのふるまい方は、天主が旧約の法の下にあったイスラエルの民に対して取られたそれと比べると、はるかに柔和で温順です。

2-しかし、キリストおよび使徒たちがしばしば強制を用いたことも、同様に確かなことです。まず第一に精神的強制、すなわち公の非難ならびに見せしめとなる現世的懲罰の予告が挙げられます。(それに忘れてはならないのは、主が、ご自分の述べ伝えられる福音に従うことを拒む者たちを、永遠の罰をもって脅されていることです。)そして次に物理的強制、すなわち教会およびキリスト教社会からの排斥、ないしはこれよりもさらに過酷な刑罰が偽善者ならびに偽預言者、異端者、背教者および離教者に対して用いられています。

3-とりわけ、主は偽りの教師らが自由に行動することをお許しになりません。このようなわけで、主は黙示録において、ティアティラの司教を、[偽預言者]イエザベルが「教え、惑わす」のを放任しているとして厳しく咎めておられます  。



総合的結論

1-まず第一に、宗教的事柄における強制は聖書史上、一貫して見受けられる事実です。

2-次に、神学的に確実な結論として、人間の自然本性はたとえそれがどのような性質のものであれ、宗教的事柄における強制に本質的に対立するものではない、ということを確認しておかなければなりません。

3-さらに、「カトリックの教理」に含まれる事柄として、次の事実が挙げられます。

――旧訳聖書においては、強制を加える[拘束を課す]権威は天主自身の直接的権利であり(いわゆる「神政政治」)、諸々の人的権威は単なる執行者に過ぎません。旧約の法においては、主として物理的強制-これは往々にして暴力的性格を帯びたものでした-が用いられました。(神学大全第2巻第1部第99問6項参照)

――愛の法である新約においては、説得(同上第1巻第5問2項)ならびに永遠の懲罰の脅威による精神的強制が優先されていますが、暴力的性格を伴ったものも含め、一切の物理的強制が廃止されたわけではありません。さらに、天主にして人であるキリストの昇天後、宗教的事柄における、強制を加える権威は使徒たちの権威ですが、この権威はたしかに超自然的なものであるとは言え、人間的な権威です。

4-最後に、およそいかなる人間的権威からの一切の強制の免除というテーゼは、当命題中の「およそいかなる人間的権威」という言い回しが一般的に過ぎるということ自体のゆえに、新約に見られる聖書の教義に明らかに反しています。



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