アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様
6月の聖伝のミサのご報告です。
大阪では、土曜日にベルナデッタさんの追悼ミサを行いました。新しい聖堂では初めてのレクイエム・ミサを歌いました。ミサの後に赦祷式も行いました。
東京では、主日のミサに侍者が子供達を入れて5名で執り行われました。東京では44名の方々が聖伝のミサに与ることができ、天主様に感謝いたします。
午後の公教要理では、希望の徳について考察しました。
ところで、先日
「天主は、私たちの罪の為に傷付いた御子の聖心において、 その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。2016年06月15日」をお読みになった方が、「イエズスさまがわたくしたちにしてくださっている愛について、ほんの小さな一つを思い出しました」とメッセージを下さいました。フェリーニの映画「道」を思い出したと教えて下さいました。
引用することをお許しくださいますようお願いいたします。
==引用開始==
わたくしたちがイエズス様のしてくださっている愛を拒んでいること、
『いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。』と言っているところで、フェリーニの映画「道」(1954年、イタリア)を思い出しました。
わたくしはこの映画は、主人公のザンパノがジェルソミーナを愛し始めて、その思いが自分の重荷になってしまい、彼女を置き去りにしてしまったように思っていましたが、ある時、このザンパノを演じたアンソニー・クインがTVに出ていまして、この映画の話になった時、真っ先に、この映画は自分の中に芽ばえた愛を自分でどうすることもできなくなってしまった男の話なのだと言っていました。
彼は後になってジェルソミーナを探しますが、彼女は死んでいました。暗い浜辺で波に打たれて彼は泣きます。ジェルソミーナはザンパノへの天主さまからのプレゼントでしょう。そんな風に思いました。
神父様がお考えになって、あげてくださったイエズスさまのしてくださっている愛の例えのような人たち、きめ細かい配慮がゆきとどいた親切の人、命を尽くし自分を奴隷のようにもする友だち、愛を実行してくれる王子様、イエズスさまはこうした人たちのことをとても喜んでくださっていることでしょう。太陽の影のような憐れなものに過ぎず、とってもちっぽけなものだとしても、愛を実行する人、一人ひとりのその実行の中にある労苦や涙を知ってくださっているでしょう。
それは鼻水を垂らしてイエズスさまに「ありがとう」といっている少年のようにも思われました。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに仰ったイエズスさまのお言葉は、とてもすごいことだと思いました。少しでも感謝するものがあれば、それを特別なものと見てくださり、さらに愛をもってお返ししたい、とは!!お返ししきれないのはこっちなのに!!
心の柔和謙遜なるイエズス、われらをあわれみ給え!
イエズスさまがお与えくださった秘蹟、とりわけ日毎のご聖体のことを、わたくしは痛みながらいつも思います。わたくしが新ミサの洗礼を受けたカトリック教会の御聖櫃を思い出しながら・・・。
それから、先日のフェリーニの「道」で、ザンパノのことで思い出されたシーンがあります。旅の途中で日が暮れて来たので、ザンパノはそこにあった女子修道院に、小屋のようなところでよいからと無理を言って一夜の宿を願います。お礼に男手の必要な仕事をしますと言って。翌朝、修道女たちがスコップで仕事をしているのを見て、ザンパノはこれを手伝います。このザンパノを見ていて、彼は、ジェルソミーナに酷い扱いをするような男だけれども、神妙な感じになっている彼は、礼拝の心などがその態度や仕草に現され、そうした環境の育ちで染みついて、身についているのだな、と思ったものでした。わたくしの好きなシーンです。
それはミサの時にベルが鳴るのを聞いた18歳で洗礼を受けた子のお話の、秩序や規則があるのだとわかり、そこに確信と安心があるような感じのように思われました。
わたくしが洗礼を受けた新ミサの教会でも、ミサの時にベルが鳴ります、そして皆がいっせいに跪きました。今はそれがどうなったのかはわかりません・・・。
==引用終わり==
【お返事】
フェリーニの映画「道」のお話をありがとうございます。この映画について初めて知りました。お話をお伺いして、ザンパノは人類の代表、ザンパノを助けるジェルソミーナは、人類を愛するあまり知性を失ってしまったかのようなイエズス様を表しているような感じを受けました。
映画監督のフェリーニは、この映画を作成するときに出会ったジェルソミーナ役の女優と結婚したのだそうです。ザンパノから捨てられたジェルソミーナ役だった彼女は実生活でも、フェリーニから捨てられてしまったそうです。しかし彼女は最後までフェリーニのことを思い続けていたそうです。
イエズス様は、たとえ人類がイエズス様を拒否しても、私たちを捨てることなく愛して下さっている、なんと巨大な、計り知れない愛でしょうか!
新しいミサで、御聖体が軽んじられ、ないがしろにされている、それが強要されている、御聖体におけるまことの現存がもはや信じられていない、単なる「霊的な現存」にすり替えられたとしても、イエズス様は私たちが聖伝のミサに立ち戻るのを優しく待って下さっておられます。
新しいミサは、「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭に「ミサの一般的構造」というタイトルで、次のようにミサを定義しています。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
しかし、
カトリック教会のトリエント公会議は「聖変化の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と天主性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた」と教えています。
「聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血がその御霊魂と天主性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれていると言う者は排斥される」とも言っています。
残念ながら、新しいミサでは、キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは暗示さえされていません。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されています。
今では、新しいミサの聖変化の時には、跪くことが「禁止」されたと聞きました。
ヨゼフ・ジェンマさんという方の研究によると、新しいミサでは「典礼集会に現存される主に意識を向けさせるために、聖櫃の前を通過するときでも、表敬はしない」のだそうです。
こうして新しいミサでは、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっています。しかしキリストの名前のもとに集まっている集りにおいてキリストが現存し給うことと、御聖体における現実の実体的な現存とは、全く別の性質のことがらです。
「わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる」(マテオ18:20)という霊的現存だけを
選んで信じているのです。
よく考えると、キリストが、その名のもとに集まっている集会の中におられるとは、集まっている間だけの現存です。
キリストの御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、現実のものとなります。
「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(新しいミサ総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)ということは、話す・聞く・理解という主観的な人間の精神的行為をしているだけのことです。
しかし、「これは私の体である」(マテオ26:26、マルコ14:22、ルカ22:19、コリント前11:24)については、客観的に、恒常的に、常にそうです。
どういうことかというと、御聖体における現存は、主観的ではなく、人間の精神活動に全くよらず、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、人間がその現存を信じていようがいまいが、人間がそれを意識していようがいまいが、人間がそれを実際に活用していようがいまいが、それに意識を向けさせていようがいまいが、主は真に、現実に、実体的に現存するということです。
御聖体における現実の現存は、御言葉における主の現存のように、それを聞いている・話している・受けているということに結びついているのではないのです。つまり「御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存しない」のではないのです。
イエズス様は、私たちが主をうち捨てて、もういらないと言っているにもかかわらず、私たちを離れずに私たちが立ち戻るのを待っています。これこそ主の憐れみです。
私たちが聖伝のミサを捨ててしまったのは、あたかも「私たちを食らい尽くそうと狙ってうろうろ回っている獅子」から襲われた子供のようです。
つい数日前、アメリカのコロラド州で、5歳の男児が兄と自宅前で遊んでいると、野生のピューマに襲われたそうです。 突然叫びを聞いて、母親は駆けつけてピューマを子供から引き離したそうです。
少年は顔、頭、首を負傷し、母親は手と脚に軽傷を負っただけですみ、命は助かりました。少年は父親によって病院に担ぎ込まれました。経過は良好だそうです。
私たちも、聖母の汚れなき御心に祈りをあげます。聖母マリア様は、私たちの心からの祈りの声を聞き、すぐに駆けつけて私たちを、誤謬と悪魔とから引き離して下さるでしょう。
では、ミサのご報告をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
日本でのミッションありがとうございました。
大阪でのミサの報告をお送りいたします。
6月17日(金)司教証聖者 聖グレゴリオ・バルバディコ のミサには13名が、
6月18日(土)故 テレジアさんの追悼ミサには11名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!
土曜日の御ミサの後は、公教要理で「信仰」について勉強しました。
追悼ミサでは故テレジアさんが一刻も早く天国の永遠の幸福に入られることを祈るとともに、自分もいつ死んでも良いように準備しなければならないと感じました。
ミサ固有文を歌いながら公教会の故人への優しさ、天主様の裁き、天主様の憐みをかみしめました。
Pie Jesu Domine, dona eis requiem.
【報告】
私たちもテレジア吉崎さんのように、イエズス様のお望みの事、イエズス様を喜ばせようという事だけを考えて生き、その裁き主であるイエズス様の前に喜んで出ることができますように!そして多くの日本の方々が、死という現実の後には、天国か地獄という永遠が待っているという現実を知り、創造主であり救い主であり裁き主であるイエズス様への愛の為に生きる事ができますように!
デオ・グラチアス!
【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
金曜日にしてくださったお説教がとても心に残りました。
証聖者聖グレゴリオ・バルバディコの御ミサの福音は有名なタレントのたとえで、それについて小野田神父様は、私たちに理解しやすいように、かみくだいてお教えくださいました。
「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのにたとえてもよい。」
主人から渡されたタレントは、聖寵であり、天主からの愛であることは、すでに小野田神父様から教えていただいておりました。
でもずっと疑問に思っていたことがありました。
人にはそれぞれ器があって、主人から渡されるタレントの数も違う。けれど、5タレントを受けた人や、2タレントを受けた人は、それぞれ、渡された全てのタレントを使って、それと同じ数のタレントを儲けました。5タレントから20タレントを儲けたのではないのです。ここで、どうして同じ数しか儲けていないのかと疑問をもっておりました。
受けたタレント=天主からの愛であり、他に儲けた5タレント=天主への愛なので、多いほうが良いはずなのにと。
が、この日、天主様から答えを教えていただいたようです。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=自分の全てをあますところなく使って。ということだったこと。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=受けた愛には愛をもって返す。ということだったこと。
また、1タレントを受けたしもべが、主人を恐れ、1タレントを全て使わずに埋めておいたことの意味に、天主よりも自己愛に縛られる人だと初めて気がつかされました。全く良く理解できました。
お説教では、パドゥアの聖アントニオが幼い子供だった時の美しいエピソードも教えてくださいました。
伝記は読んだことがありますが、このエピソードは知りませんでした。天主であるイエズス様が、無である私たちの愛を心をどれほど切望してくださっているかが、心に突き刺さりました。インマクラータよ、どうぞ私の心を御身の汚れ無き御手でイエズス様のリュックに入れてください!とお説教を聞きながらお祈りいたしました。毎日インマクラータにお祈りしております。
天主イエズス様の至聖なる聖心の愛を以前よりも、深く理解し、その愛に私の全てをもって私の愛をもってお応えしようと決心することができるようになりました。インマクラータの汚れ無き御心をとおして私の全てをお捧げいたします。
至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
乱文お許しください。
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日、今日と、御ミサ、そして信仰についての公教要理など色々本当にありがとうございました!m(_ _)m
幸せな時間はあっという間でした!
御ミサが終わり、皆さんで昼食を食べた後、「O bone Jesu」 と「Stabat mater(パレストリーナ)」のポリフォニーを練習しました!
本当に御恵みの2日間でした。
デオ・グラチアス!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
こんばんは!☆(^O^)/
マリア様のように、諸聖人、殉教者の方々のように、頂いたタレントを全てイエズス様、天主様の為に使って増やして、愛を愛で以てお返しする事ができますように!!
信仰についての公教要理のレポートを書かせて頂きます!
1.分かった点
・信仰が第1である理由…究極の天主様を対象としており、真理を認めること、知性の上にあるから。
認めないと、求めること(希望・愛)ができないから。その秩序による為。
ただ、恐れを取り除くためや、傲慢を取り除いて素直に認めるために、剛毅の徳や謙遜の徳が先にくる事もある。
・不信仰が最大の罪である理由…「罪」とは天主から離れることであるが、天主を信じないことによって、最も天主から離れるから。
しかし不信仰にも、信仰を成り立たせる要素のどれが欠けているかによって色々種類があって、
・最初から反対-異教徒
・一部に反対-異端者
・信仰を捨てる-背教
という事が分かりました。
また、信者の方のご質問で、「山を動かすほどの信仰があっても、『愛』がなければ無に等しい。」「もっている全ての物を施し、私の体を焼かれるために与えても、『愛』がなければ益するところがない。(コリント第13章)」というこの『愛』が、『成聖の恩寵の状態』であるという事も今更ながらに知りました!これが、大罪の状態では、どれだけ良いことをしても全く永遠の功徳を積むことができないという事の説明だったのですね!
また、未信者の方で、とても親切な良い方もたくさんいらっしゃいますが、その方々がどれだけ良いことをしても、成聖の恩寵の状態、洗礼を受けていないが為に、天国の永遠の功徳を全く積むことができないということも、本当にもったいないなぁとも思いました。もちろん天主様は本当に善い方でいらっしゃいますので、そのような方々がした善には必ずこの世で報いて下さるでしょうけど、いつか去りゆくこの世の善は本当に儚いものですので、そのような方々が、永遠の善を受けることができるように、お祈りをたくさんしようと思いました!
2.分からなかった点
あまり色々理論的に考えた事がないので、何が分からないのか分からない状態ではありますが、ヨハネの第一の書簡第4章8節に「愛する者は神から生まれ、神を知るが、愛さない者は神を知らない」と書いてありますが、どういう意味なのでしょうか?
この「知る」とは信仰とはまた違う意味なのでしょうか?それとも信仰(天主様を知る、認める)という事にも、やはり愛が必要、愛が含まれるのでしょうか?しかし、悪魔も全知全能全善の天主様を認めて信仰がありますが、愛はありませんので、信仰にも、愛のある信仰と愛の無い信仰があるという事でしょうか?そのあたりがよく分かりませんでした(T_T)
デオ・グラチアス!
【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。
ミサの参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 26人(内、子供2人)
計: 44人(内、子供5人)
【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
ミサ聖祭後の公教要理(希望の徳を中心に)のご報告をさせていただきます。
1.これだと分かった点
いわゆる対神徳といわれる信仰、希望、愛(以下「信望愛」)の徳は、ややもするとその優先順位を相対的に理解してしまいがちですが、今回の講義で、対神徳は「信仰」から始まるというトマス・アクィナスの言説に接し、対神徳に対する自分自身の理解の度がより深まりました。(「信仰」が最も重要であると理解しました)
また、今回、希望の徳も度が過ぎると高慢になり得ること、少なすぎると絶望になってしまうことなど改めてお話しを伺い、得心するものがありました。
2.今回そうだったのかと分かった一番重要な点
「完全な愛」は「相手の幸福」を望むに対し、「不完全な愛」は「自分の幸福」を望む
という愛の完全性の違いが、非常にわかりやすく、改めて、気づかされました。
そして、天国の聖人達の「愛」は「完全な愛」であり、天国は「完全な愛」の所有者達
の世界であるということもよくわかりました。
3.今回でもよくわからない点
公教要理は奥が深く、ここがわかった、あそこがわかったとはとても言えません。
わからないところだらけで、今回もよくわからない点自体が まだ、わかっておりません。
小野田神父様の講義を通じ、少しでも理解を深めてゆきたいと思います。
デオ・グラシアス!
【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様
日本でのミッション、本当にありがとうございました。
御ミサと公教要理のレポートをお送りいたします。
お説教について
分かった点:
怒ることが、理性を失うことであり、不正義・冒涜・憎悪などの様々な罪に
対するドアを開けてしまうことだ、ということなので、イエズス様は、様々の罪のドアが開いてしまうことに対し最も効果のある対策として「怒るな」「兄弟におこる人は審判をうける」という掟をお与えになったこと。
イエズス様は自らおっしゃっていらっしゃるように、確かに旧約の律法を完成なさったのだと確認しました。
分からなかった点:
「怒るな」という教えは、十戒のどの掟に特に帰せられるものなのでしょうか。
講話について
分かった点:
理性は知性と意志から成り立っているということ
(公教要理の中に「理性によって天主の存在を理解する。」ということについて、今まで漠然と「ああ、そうか。」と、その程度にしか考えていなかったのですが、理性は何であるかとうことを理解すると、要理に書かれているその意味も理解できました。「怒るな」というイエズス様の掟はこの理性を守るもので、怒る人は天国へは行くことができないという掟は決して厳しいものではなく、当たり前のことをおっしゃっていらして、そして私たちが地獄へ行ってしまわないようにと常に聖心を砕いて下さるイエズス様の優しいお言葉だと思いました。)
分からなかった点:
聖トマス・アクィナス様が『神学大全』の中で、1つの命題を考察する際,天主様の視点から見ると・私たちの視点から見ると、というように幾つかの観点から1つ1つの命題を考察していらっしゃることが分かりました。これは、常に天主様が最もお望みのことと、私たちの望みが一致していない、という理解で正しいのでしょうか。
お説教と講話を通して、
小野田神父様の深い知識や、神学の理解は聖トマス・アクィナス様のようでお説教の雄弁は聖パウロ三木様のようだと思いました。!!
小野田神父様のご提案で、ライト教授の授業方式のレポート提出をするようになってから,お説教や公教要理の時間に、今まで以上に考えながら話を聞くことができるようになっています!神父様のご提案に感謝しております。カトリックの教えは本当に奥が深くて、(人間のつくったものではないので)よくよく学ぶと心底から納得・感嘆・驚嘆して、本当に感動いたします。この感動は世の他の物では感じられません。天主様に感謝致します。
また、神父様に1つ質問がございます。
仏教の焼香は、カトリック信者は避けるべきでしょうか。家族から質問を受けましたので、神父様に質問致します。礼拝は天主にのみ捧げるもので、外的礼拝行為のみだとしても避けるべき、と私は思います。家族は「先祖に捧げるもので、神に捧げるのではないのでは。」と言いますが、先祖の霊魂の安息を祈ることは良いが、これは、先祖を礼拝対象にすり替えてしまっているので良くないと答えました。私の答えは、間違ってはおりませんでしょうか。お時間ございます時にお答えいただけましたら幸いです。
お知り合いの方のお見舞いはいかがでしたでしょうか。洗礼をまだ受けられていないとお聞きしましたので、マリア様に御取次を願い、洗礼を受けられますようお祈りをしております。
小野田神父様のため、マリア様とヨゼフ様の特別の御取次を願ってお祈りしております!!
イエズス様の聖心の特別のお恵みが小野田神父様を助けてくださいますように。
【お便り】
小野田神父様、
「教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言 2016年05月28日」とこの一週間の記事を読ませていただきましたが、少しお便り申したいと思います。
「結婚が失敗に終わったものの、与えられた状況下において、非常に有徳に、ある時には英雄的に、彼らが祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまるカトリック信者たちは裏切られたと感じる。あまりに悲しくて涙が出る。」とありますが、わたくしも共に涙を流します。それには、二つのことがあります。
一つは、福音書や使徒たちの書簡にあるように、「偽教師」などに悩まされながらも、およそ二千年にわたって伝えられてきた教えが生きているカトリック教会と信じていましたが、第二ヴァチカン公会議によって、かなり大きな変化がカトリック教会にもたらされていたことを、わたくし自身が知るに至って、「騙されていたのか?と思うべきかなァ・・・?」と幾度も思いをいたしましたことと重なりますゆえに。
もう一つは、結婚の失敗によって結びついたわたくしの近しい人たちの、霊魂の救いを、毎日のように祈りますが、彼らについて祈る時、彼らは信者ではありませんが、それゆえなおさらなのですが、ここでフェレー司教さまが仰っているように、失敗や挫折を見ても、与えられたことを受け入れて行ってほしいと言う思いをいつも持ちます。そして信者の方たちの中には、苦しいい状況の中にあって、祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまる方たちがいらっしゃることを知り、共に涙したい思いですが、また一方で励まされるので嬉しくもあるのです。ですからこの記事を読んで、ゆうべはこの方たちのために祈りました。今日もそしていつも、信者になるお恵みがまだいただけていない同様な状況にあるわたくしの近親者たちのために祈る時、祈ります。まったく拙い祈りですが、祈ってお願いし聞き容れていただきたいのですからそうします。
「司祭のための祈り」が幼きイエズスの聖テレジアの作ったものだったことも昨日知りました。昨日はこの祈りをした後でこのことを知ったので、今日は聖テレジアを思いつつ祈りました。
かつてこの祈りを初めて口に出して読んだとき、悲しい思いがしました。イエズス様の至聖なる聖心のもとでは誰も彼らに悪を成すことができないのなら、いってぇ誰が彼らをきずつけやがった!?ばかたれっ!と言うような気持でした。ある神父さま方には、自分で自分を傷つけているように思われ、悲しみと怒りがありました・・・。そしてそこでしばらく止まってしまいましたが、祈りを途中でやめることは最悪なことのように思われたので、何とか最後まで声を出して読み上げました。一応跪いて祈りをしていましたから・・・。
今では、どの祈りも、その言葉に従っていくようにして祈っています。朝夕の日々の祈りの中にわたくしの汚れたものが出てきますので、実に主に対し、天に対して申し訳ないですが、祈らなかったら、天ではもっと悲しむだろうと思い、何とか縋り付かせていただいている感じがすることがあります。
以上、長くなりましたがこれでもかなり心の騒ぐのを一晩落ち着かせました。何とか何かをお伝えしたかったのです。それは悲しみの中からも喜びや励まし慰めをこのフェレー司教さまの涙と共にいただいていることをお伝えしたかったように思います。昨日は、同時に読みましたレネー神父様の第五戒から第七戒のお説教も合わせてわたくしどもの近親者たちのことと教会のことで思いが寄せては返す波のようでした。
あとは祈りの内に・・・。
小野田神父様がこのブログをしてくださったおかげで。わたくしは助けられています。感謝などいろいろなことは申しますまい・・・。ただ事実のみ今申します。