Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

御聖体とは何か?御聖体拝領の意味は?模範は?|「御聖体の秘跡 にはキリスト全部が含まれている」

2023年06月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年6月25日は聖霊降臨後第四主日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 

 


7月の予定:マーチフォーライフ大阪、名古屋での聖伝のミサ、沖縄での聖伝のミサ、国際シンポジウム、マーチフォーライフ東京

2023年06月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

7月の予定をお知らせいたします。

【マーチフォーライフ・大阪:7月1日】
7月1日(土)には大阪でマーチフォーライフがあります。
大坂市役所:午後2時半集合
大坂市役所:午後3時出発
愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。

【名古屋での聖伝のミサ:7月16日】
7月は特別に名古屋でのミサは7月16日午前10時30分からです。
お間違えの無いようにご注意ください。

【沖縄での聖伝のミサ】
7月10日~12日には、沖縄のミッションがあります。
ミサの会場は、北中城村(きたなかぐすくそん)和仁屋(わにや)(字)275 Caleb J です。
ミサの時間は、次を予定しております。予約は不要です。
7月10日(月) 午後7時(19:00)
7月11日(火) 午前10時(10:00)
7月12日(水) 午前09時(09:00)

【国際シンポジウム:革命に反対するとはどういうことか?】
7月15日(土曜日) 午前10時~午後5時30分:台東区入谷ホール2階
7月17日(海の日) 午前10時~午後5時30分:新宿アイランドタワー4階

 

【マーチフォーライフ・東京】
7月16日(主日)には東京でマーチフォーライフがあります。
日比谷公園集合
日比谷公園:午後4時出発
愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。


【参考情報】ヴィガノ大司教のワシントンのLGBTQ+ミサについての声明

2023年06月28日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教のワシントンのLGBTQ+ミサについての声明

Viganò. Statement concerning the LGBTQ+ Mass in Washington.

2023年6月14日 マルコ・トサッティ公開

マルコ・トサッティ
親愛なるStilum Curiaeの友人と敵の皆さん、私たちは、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教のこの声明を受け取りましたので、喜んで公開します。お読みいただき、共有してください。

§§§

ヴィガノ大司教のワシントンのLGBTQ+ミサについての声明

首都ワシントンの聖三位一体小教区で本日行われるミサについての声明

本日、ワシントン大司教区のジョージタウン大学のイエズス会が運営する聖三位一体小教区で、LGBTQ+運動の「カトリック」活動家のためのミサが行われます。

ウィルトン・ダニエル・グレゴリーは、アトランタ大司教だったとき以来何年も、カトリック信者のつまずきとなるに十分な、同性愛活動家の行動計画(アジェンダ)を推進するために、権力を濫用してきました。自然に反する悪徳行為に彼が偏執的に固執していることで、彼は、神聖な紫(すなわち枢機卿職)と首都ワシントンの司教座への任命を獲得し、マカリックとワールの後継ぎにふさわしい人物となりました。したがって、キリストの教えへの裏切りが、ベルゴリオのバチカンにおいて教会のキャリアの必須条件とみなされていることが裏付けられています。グレゴリー枢機卿がジェームズ・マーティン(イエズス会)の支持者であることは驚くべきことではありません。マーティンの聖心への信心に関する最近の冒涜的な発言は教会組織に憤りを引き起こし、6月16日にロサンゼルスのドジャー・スタジアムで償いの行列を組織させるように促しました。

聖なる犠牲が天主の御前で復讐を叫ぶ罪の宣伝道具として冒涜的に使用される一方で、多くのあわれな罪人の霊魂が悪徳に確認されるという、この何度目か分からないほど多くの冒涜に対して、ワシントン大司教区の聖職者たちが隷属的に沈黙を保つことを好むと知って、私は大きな悲しみを感じています。しかし、ご聖体の祝日の八日間内にしてイエズスの至聖なる聖心の祝日の2日前に、牧者が戒めるべき人々、真の回心と天主のご意志への忠実の道へと導くべき人々に聖体拝領を認めることによって、至聖なる秘跡が冒涜されるのを見る痛みはさらに大きいものです。

同性愛異端によって迷わされた牧者たちは、裁きを受けるために天主の玉座の前に立つとき、自分たちのせいで永遠に滅びた霊魂、つまり、主が十字架上で御血を流された霊魂について、主に対して説明しなければならないことを忘れるべきではありません。これらのあわれな霊魂を大罪に固めることによって、彼らはキリストの権威と教会の権威を、キリスト教の愛徳が要求するものとは反対の目的のために簒奪し、それによって彼ら自身の道徳的腐敗と、彼らに託された群れを散らせるために彼らに平然と行動させた人々の腐敗を示しています。

したがって、私は、この賞賛に値する取り組みが、主の役務者の裏切りに対する私たちの主からの赦しと、これらの偽りの牧者たちによって迷わされた霊魂の回心と、犯した不敬と冒涜に対する償いを得ることを願い、聖三位一体小教区の前で組織された「償いの聖なるロザリオ」に霊的に一致します。

天主の掟と自然法に反する背教と反逆のこの荒涼とした風景の中で、これらの不誠実な司祭たちによるキリストの真理に対する嫌悪が、カトリック信者に米国の教会の状況の重大さを知らしめ、カトリック信者を祈りと断食と償いをするよう動かすことで、天主の御稜威(みいつ)が主と霊魂への愛に燃える聖なる牧者たちを教会に与えてくださり、またこの聖なる諸管区から反キリストのしもべたちを排除してくださいますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年6月14日
主の至聖なる御体と御血の祝日(ご聖体の祝日)の八日間内
Infra Oct. Ss.mi Corporis et Sanguinis D.ni

英語版 Viganò. Statement concerning the LGBTQ+ Mass in Washington.

イタリア語版 Mons. Viganò. Dichiarazione sulla messa LGBTQ+ di Washington.


【参考情報】ヴィガノ大司教の聖霊降臨の説教「教会と国家における悪魔の偽物に打ち勝つために真理の霊を呼び求めよう」

2023年06月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教の聖霊降臨の説教「教会と国家における悪魔の偽物に打ち勝つために真理の霊を呼び求めよう」

Abp. Viganò on Pentecost: Invoke the Spirit of Truth to Overcome Demonic Counterfeits in Church and State

【解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、カトリック教会の高位聖職者です。カトリック教会の一修道会である聖ピオ十世会に所属する司教ではありませんが、第二バチカン公会議の新しい方針の結果として変えられた多くのものを厳しく批判しています。たとえば、「新しいミサ」や「シノダリティのシノドス」、「教会」や「兄弟愛」「司祭職」の新しい定義などです。そこであくまでも参考情報として、日本語でご紹介いたします。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年6月5日

聖霊降臨の大祝日の説教

Emitte Spiritum tuum,
et creabuntur,et renovabis faciem terræ.
Ps 103:30
御身が霊を送りたまえ、
彼らは造られ、御身は地の面は新たにされ給う。
詩篇103篇30節

愛の特徴とは何でしょうか。その「無償性」(gratuitousness)です。愛する者は、見返りを期待することなく愛します。愛する者は、自分が享受している善を、自分の愛する者が共有できることに喜びを感じます。愛する者は、中途半端ではなく、無条件で完全に愛します。愛する者は、「自分の愛する者の善を望んでおり」、それゆえ、「ノー」と言う方法を知っています。このことは、愛が天主のものであるとき、つまり、御父の御子への愛、御子の御父への愛が、至聖なる三位一体の第三のペルソナである慰め主なる聖霊という、完全かつ無限なものであるとき、最高度に当てはまります。

壮大さは国王や君主の特徴であり、彼らは、自分たちの統治が天主の正義に適合するように、自分たちの自由を天主の壮大さに向けます。しかし、天主の御業の壮大さに匹敵するものはありません。それは、創造の秩序における、また――無限に優れた方法で――贖いの秩序における、無限の壮大さなのですから。この壮大さは、その完全性において天主のものであって、光を放つ能力において限界がなく、太陽の有益な光に似て、私たち一人一人全員を恩寵と身に余る無償の恩恵で満たすのです。そして、人間にして天主のご托身、ご受難、死を通してアダムの罪を償うために永遠から打ち立てられた私たちの主の御業を際立たせるのは、絶対的な無償性です。聖霊の「賜物」もまた無償であり、「恩寵」は無償であり、gratis data 無償で与えられるものです。天国で私たちのために用意されている幸いなる永遠も無償であり、教会が秘跡を通してもたらす聖化も無償であり、ミサの聖なる犠牲も無償です。

しかし、「恩寵」(gratia)、すなわち、天主から私たちにもたらされる絶対的な無償の善が、素晴らしい愛徳の絆で全能とあわれみを結びつける天主の御言葉だとすれば、一方、サタンから来るすべてのものには代償があり、無償のものは何一つありません。なぜなら、サタンは、与えるものを何一つ持っておらず、すべては欺瞞と嘘によって盗むからであり、また、サタンは、私たちの現在の、そして永遠の悪を欲してキリストの贖いと汚れなき童貞の謙遜を非常に妬んでいる者たちから来るからです。この童貞を、至聖なる三位一体が、至高の天主のご聖櫃にふさわしいものとするために、罪の汚れなしに受胎するという特権をもって無償で飾り給うたからです。

死の商人であるサタン、永遠の詐欺師であるサタンは、自分のものでないものを詐欺によって売って、私たちの不滅の霊魂を詐欺によって買い取り、それを無という、はかなくて嘘の偽商品と交換するのです。私たちが目にする敵の陣営に君臨しているものは、欺瞞、見せかけ、そして嘘です。それは、サタンが、そのように認識されてほしいと思っている嘘であり、それにもかかわらず、承認され、受け入れられてほしいと思っている嘘です。なぜなら、天主の御業は真理の御業であり、絶対の真理である天主から来るものであるのに対し、悪魔の業は常に架空の話だからです。サタンは、今日の世界、つまり新秩序の奴隷となったグローバリズム社会という巨大な仮想現実(バーチャル・リアリティー)の演出家であり、そこでは見せかけと偽物が敵対者【悪魔】の行動の特徴なのです。

「何て美しい子なんでしょう。まるでお人形のようです」という言葉をよく耳にします。「何て美しい景色なんでしょう。まるで絵葉書のようです」。このように、素朴によく使われる普通の表現には、敵【悪魔】の業の詐欺的な母体が示されています。この敵は被造物であるため、無から何も創造することができず、私たち人間を欺くために創造主をまねることに頼るしかないのです。この世の君は、人工的で偽りのモデルを私たちに提供しますが、そのモデルは、天主の御業のように無限の愛徳によって動かされるものではなく、むしろ天主の御稜威(みいつ)と被造物に対する激しい憎悪によって動かされるものです。代理母出産、遺伝子操作、バイオエンジニアリング、トランスヒューマニズム、性別移行という品位のない切断、同性婚というパロディー、中絶や安楽死によって生と死を決めることができるという錯乱――これらはすべて嘘つき、見せかける者、「天主の猿まねをする者」(simia Dei)の嘘と詐欺なのです。

同じことが、神聖な囲いの中でも起こります。異端者や背教者は、常に完全な天主の啓示を自分たちの偽物で置き換えることを主張してきました。実際、彼らは自らを、偽牧者、偽預言者、反キリストという、自分たちの正体とは違うものとして提示してきました。反キリスト自身は、キリストの息吹によって滅ぼされる前の終末の時代に君臨しますが、真のキリストと見せかける者、詐欺の模倣者です。反キリストの預言者もまた偽者であり、黙示録の中で反キリストの協力者、人類教(Religion of Humanity)の長、環境保護主義(ecologism)やメーソンのヒューマニズムの宣教者として提示されている者です。

キリストの花嫁が置かれている悲惨な状況を見ると、嘘と偽りを生きる理由とする偽りの牧者や傭い人たちが、悪性腫瘍のように教会に埋め込まれ、世俗界の仲間たちと同じように、平和と兄弟愛の推進者、弱者や貧者、被差別者の擁護者として自らを提示していますが、実際には、権力者たちのしもべであり、暴君たちの共犯者であり、敵に対する冷酷な分裂の推進者なのです。その敵とは、良きキリスト教徒ですが、何よりも、天主、イエズス・キリスト、童貞聖マリア、聖なる教会なのです。彼らの行動はすべて偽りです。「シノダリティーに関するシノドス」も偽りです。真のシノドスの見かけの下に信仰に不純物を混ぜ込みます。天主の民の話し合いとされるものも偽りです。欺瞞によって操縦されています。女性の尊厳に関してなされた彼らの主張も偽りです。カトリック司祭職を弱体化させるために使われているものです。罪人に対する彼らの愛徳も偽りです。彼らは罪人を戒めず、むしろ罪に固め、罪人の霊魂を失わせるのです。彼らの妄想を引き起こさせる「霊」も偽りです。彼らの誤謬を正当化する「驚きの神」(god of surprises[2014], god of surprises[2017])も偽りです。彼らの「聖霊降臨」も偽りです。慰め主の御働きと矛盾しており、彼らの「教会」も偽りです。真のキリストの教会を日食で覆っています。偽りであり、つまずきを与えるものであり、犯罪的であるのは、秘跡のパロディーが打ち立てられたことです。そのパロディでは、実験的な血清がmRNA技術によってヒトゲノムを改変するのです、しかし、ベルゴリオはそれを躊躇なく、冒涜的に「愛の行為」と「すべての人のための希望の光」と定義しました。母なる大地を偶像崇拝し、天主が創造された自然に反する地球工学の操作を承認する「アマゾンの教会」が見せる被造物を敬うこともまた偽りです。

Veni, Sancte Spiritus, reple tuorum corda fidelium: et tui amoris in eis ignem accende. 聖霊降臨の日の神聖なる典礼は、聖霊への賛歌であり、まさに御父と御子から発出する天主の愛に対する教会の愛の歌です。ミサの昇階誦では、この呼び求める力を強調するために、私たちはひざまずいて、次の言葉を発します。「聖霊来り給え、信者の心に満ち給え。主の愛熱の火を彼らに燃えしめ給え」。その火は、私たちの心を信仰で照らし、私たちの心を愛徳で温めるものです。

真理の霊である聖霊は、沈黙のうちに行動されます。私たちの心の沈黙は、助言と霊感を受けさせていただきます。ここ教会における回想の沈黙の中では、尊厳ある落ち着きをもった神聖なる典礼が、物や人を祝福し聖別するために役務者によって呼び求められる慰め主の御行いの前に頭を下げます。この世の多くの霊魂の沈黙は、敵【悪魔】の軍勢の地獄の叫び声に抑圧されて、声がないように見えながらも、天主の御旨を実行しているのです。そして、聖霊の最も驚くべき奇跡が行われるのは、沈黙の中においてなのです。聖霊は、天主の壮大さをもって私たちに賜物を授けてくださいますが、その賜物は、超自然の恩寵が無償であるのと同様に、無償のものなのです。

dulcis hospes animæ(霊魂の甘美なる客)、素晴らしい聖霊降臨の続誦の言葉をもって、慰め主に懇願しましょう。それは、日々の義務に直面して努力する中で、慰め主が私たちにとって本当に憩いとなり、この反抗的な世界という厳しい砂漠の中で元気を回復させるものとなり、私たちが地上で拷問を受ける花嫁を見て流す涙の中で慰めとなっていただくためです。慰め主があらゆる罪の汚れを洗い流し、多くの霊魂の渇きを恩寵で満たし、終わりのないように思えるこの「教会の受難」(passio Ecclesiæ)のために嘆く私たちの心の傷を癒やしてくださいますように。罪人の心のかたくなさが天主の御旨に屈し、牧者の使徒職が愛徳の炎によって養われ、見かけ上の悪の凱旋の前にくじける多くの人々の信仰が支えられますように。

聖霊来り給え。御父が創造し給い、御子が贖い給い、御身が聖なる教会によって聖化し給うた地、この地の面を新たにし給え。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Dominica Pentecostes
2023年5月28日
聖霊降臨の主日

英語版 Abp. Viganò on Pentecost: Invoke the Spirit of Truth to Overcome Demonic Counterfeits in Church and State - Catholic Family News

イタリア語版 Pentecoste, mons. Viganò. Santo Spirito, Libera la Chiesa dalla Falsità che la Opprime.


家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第:Ceremonials for the Enthronement

2023年06月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第」をご紹介いたします。

Ceremonials for the Enthronement of the Sacred Heart of Jesus in the home 家庭におけるイエズスの聖心の着座式の式次第
1. All gather around the image of the Sacred Heart. 1.全員が聖心の御絵の周りに集まる。
2. The Priest, in surplice and white stole, blesses the image.  2.司祭はスルプリと白いストラを着けて、御絵を祝別する。
The Blessing of the Picture 御絵の祝別
V. Adjutorium nostrum in nomine Domini. V.われらの助けは主の御名にあり。
R. Qui fecit coelum et terram. R.主は天と地を造り給うた。
V. Dominus vobiscum. V.主はあなたたちと共に。
R. Et cum spiritu tuo. R.またあなたの霊と共に。
Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui Sanctorum tuorum imagines sculpi, aut pingi non reprobas, ut quoties illas oculis corporis intuemur, toties eorum actus et sanctitatem ad imitandum memoriae oculis meditemur, hanc quaesumus, imaginem in honorem et memoriam Sacratissimi Cordis Unigeniti Filii tui Domini Nostri Jesu Christi adaptatam bene + dicere et sancti + ficare digneris; et praesta ut quicumque coram illa, Cor Sacratissimum Unigeniti Filii tui suppliciter colere et honorare studuerit, illius meritis et obtentu a te gratiam in praesenti, et aeternam gloriam obtineat in futurum. Per Christum Dominum nostrum Amen. 祈願 全能永遠にまします天主、御身は、聖人たちのかたどりなる御絵と御像を認可し給い、われらがそれを見つめるたびに、その行いと聖性をまねるべく思い起こすようにさせ給うた。願わくは、御独り子、われらの主イエズス・キリストの至聖なる聖心を敬い、記念するために作られたるこのかたどりを祝別し、聖別し給わんことを。また、その前で、御独り子の至聖なる御心を礼拝し敬う者が、主の御功徳と御取り次ぎによりて、現世における恩寵と来世における永遠の栄光を得るようにさせ給わんことを。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。
(The priest here sprinkles the image with holy water.) (司祭は、御絵に聖水を振りかける。)
3. Then the Priest enthrones the image of the Sacred Heart in the place of honour. This is the symbolic act of Enthronement. 3.次に、司祭は、御絵を置いて敬う場所に、聖心の御絵を安置する。これが、着座式を象徴する行為である。
4-1. All stand while the Apostles’ Creed is recited as an act of faith. 4-1.全員立って、信仰の表明として、使徒信経を唱える。
われは、天地の創造主(そうぞうしゅ)、全能の父なる天主を信じ、またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、すなわち、聖霊(せいれい)によりて宿り、童貞(どうてい)マリアより生まれ、 ポンシオ・ピラトの管下(かんか)にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬(ほうむ)られ、古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて(のぼりて)全能の父なる天主の右に座(ざ)し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う主を信じ奉る。▲われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人(しょせいじん)の通功(つうこう)、罪のゆるし、肉身(にくしん)のよみがえり、終りなき命を信じ奉る。アーメン。
4-2. Then, the litany of the Sacred Heart is recited:  4-2.次に、聖心の連祷を唱える。
イエズスの聖心(みこころ)の連祷  
主あわれみ給え。 ▲キリストあわれみ給え。  
主あわれみ給え。  
キリストわれらの祈りを聴き給え。 ▲キリストわれらの祈りを聴き容れ給え。
天主なる御父(おんちち) ▲われらをあわれみ給え。
天主にして世のあがない主なる御子(おんこ) ▲われらをあわれみ給え。
天主なる聖霊 ▲われらをあわれみ給え。  
唯一の天主なる聖三位(せいさんい) ▲われらをあわれみ給え。
永遠の聖父(ちち)の御子なるイエズスの聖心(みこころ) ▲われらをあわれみ給え。
聖霊によりて童貞母(どうていぼ)の御胎内に造られたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の御言葉(おんことば)と合体せるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
限りなき威光あるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の聖堂(せいどう)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
いと高き御者(おんもの)の住居(すまい)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
天主の家、天の門(てんのもん)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
愛熱の燃ゆるかまどなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
義と愛との宝蔵(ほうぞう)なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
慈しみと愛とに充ち満てるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
よろずの徳のふちなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
いとも賞(ほ)めたたうべきイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべての心の王にしてかつ中心なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
えいちと知識とのすべての宝を含めるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
神性(しんせい)の充ち満てるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御父(おんちち)の御旨(みむね)に適い給うイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの聖寵のあふれをこうむらせ給うイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
永遠の丘の希望なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
忍耐と慈悲とに富めるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべて依り頼む者に対して恵みゆたかなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
命と聖徳との泉なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの罪のあがないなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
辱しめに飽かされたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの罪のために砕かれたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
死にいたるまで従順なりしイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
やりにて貫かれたるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
すべての慰めの泉なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの命と復活なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
われらの平安とわぼくなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
罪人(つみびと)のいけにえなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御身に希望し奉る者の救いなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
御身によりて死する者の希望なるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
諸聖人の楽しみなるイエズスの聖心 ▲われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊 ▲われらをあわれみ給え。
心の柔和けんそんなるイエズス ▲われらの心を聖心にあやからしめ給え。
祈願 全能永遠にまします天主、いと慈しみ給う御子(おんこ)の聖心(みこころ)をみそなわし、罪人(つみびと)のために主の献げ給う讃美と償い(つぐのい)とを顧(かえり)み給いて、これになだめられ、御あわれみを求め奉る者に赦しを賜わらんことを。聖霊と共にとこしえに生きかつしろしめし給う天主なる御子イエズス・キリストの聖名(みな)によりて願い奉る。▲アーメン。
And the act of reparation are recited:  そして、償いの祈りを唱える。
人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)
いと甘美なるイエズスよ、主(しゅ)が人々に示し給いし御慈(おんいつく)しみはかえつてかれらの忘却(ぼうきゃく)と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前(みまえ)にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心(みこころ)が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩(ぼうおん)ぼうとくを償(つぐの)わんがために特に礼拝し奉(たてまつ)る。▲されどわれらもまた、かつて主に背(そむ)き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御(おん)あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償(つぐの)うのみならず、さらに進んで、救霊(きゅうれい)の途(みち)を遠ざかり、主の御招き(おんまねき)に応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒(おんいまし)めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日(せいじつ)の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖(しせい)なる愛の秘蹟(ひせき)に対する無関心と恐るべきとくせい、主のさだめ給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。ああかくの如き罪をば、われらの血潮(ちしお)もてことごとく洗い浄(きよ)めんすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威(ごれいい)に対する冒辱(ぼうじょく)の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父(おんちち)に献(ささ)げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固(けんご)なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳(あいとく)の完全なる実行をもつて、主の聖寵(せいちょう)の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみ(おんいつくしみ)に対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人(つみびと)の冒辱(ぼうじょく)を防ぎ、かつ能(あた)う限り多くの人々を、主の御許(おんもと)に呼び集めんと心より約束し奉る。いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖(しせい)童貞なる協償者(きょうしょうしゃ)マリアの御取次(おんとりつぎ)によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父(ちち)と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。
5. All kneel while the priests recite the Act of Consecration of the Family to the Sacred Heart. 5.全員はひざまずいて、司祭は聖心に家庭を献ぐる祈りを唱える。
イエズスの聖心に家庭を献ぐる祈  
至聖(しせい)なるイエズスの聖心(みこころ)よ、主はかつて聖女マルガリタ・マリアにキリスト信者の家庭に王たらんとの御望(おんのぞ)みを明かし給えり。▲われらは主の御旨(みむね)を尊(とうと)みて、今日(こんにち)ここに集まり、主がわれらの家庭の王にましますことを宣言し奉る。
われらは今より、主の御生活(ごせいかつ)にならい奉りて、この世の平和に必要なる諸徳(しょとく)の花を、われらの家庭に咲き香(にお)わせ、また主の忌みきらい給う世間的精神をば、はるかにわれらの間(あいだ)より遠ざけんと欲す。願わくは、われらの知恵を治めて、信仰を素直ならしめ、われらの心をすべて、主ひとりを愛せしめ給え。われらはしばしば聖体を拝領して、主の愛に燃え、その炎をいつまでも失わざらんと欲す。▲至聖なるイエズスの聖心よ、われらのまどいに長(おさ)となり、われらの精神的および物質的事業を祝し給え。禍(わざわ)いを遠ざけ、喜びを神聖にし、苦しみを和らげ給え。
われらのうちに、主の御旨(みむね)を痛め奉る不幸に陥る者あらば、主が悔改(くいあらた)むる罪人(つみびと)に対して慈しみとあわれみとに充ちあふれ給うことを、思い出(いだ)さしめ給え。▲ついにわれらの家庭が、死別の不幸にあい、悲しみの雲に閉ざされん時は、去る者も留(とど)まる者も、すべて主の永遠の御定(おんさだ)めに服従し奉らん。やがては全家(ぜんか)挙(こぞ)りて天国に相(あい)集まり、主の御栄(みさか)えと御恵(おんめぐ)みとを、永遠に讃美する日の来(きた)るべきことを思わば、みずから慰むるに余りあるべし。
願わくは聖母マリアの汚れなき御心(みこころ)と、栄えある太祖(たいそ)聖ヨゼフとは、われらの家庭奉献(ほうけん)を主の御前(みまえ)に取次ぎ、われらをして、今日(こんにち)のこの奉献の記憶を、終生忘れざらしめ給え。願わくは、われらの王にして、父なるイエズスの聖心の、世々に活き、かつしろしめし給わんことを。アーメン。
7. All recite with the priests the following: 7.全員で、司祭とともに次の祈りを唱える。
感謝の祈り  
イエズスの至聖なる聖心よ、願わくは御身に栄光あらんことを。御身はこの家庭の成員に特権的な無限の憐れみを与え給えたればなり。
御身は、この家庭を、他の何千もの家庭の中から、御身の愛の受け手として選び給い、また、御身のいとも愛に満ちた聖心が、人々の忘恩に対する慰めを見出すべき、償いの至聖所として選びたり。主イエズスよ、主に忠実たらんとする群れの一部であるわれらは、主がわれらの家庭を統治したもうたるこの無上の名誉を受け奉るは、身にすぎて極めてかたじけなし。われらは御身を沈黙のうちに礼拝し、御身がわれらと同じ屋根のもとにて、御身の子らの労苦、心配、喜びを共にするを目の当たりにし、喜びに絶えざるなり。御身がわれらが貧しきあばら家に入り給うに、われらはふさわしき者あらずなり。されど、御身は聖心をわれらに示し給い、御身の聖なる脇の傷にて、聖寵と永遠の生命との源(みなもと)を見出すことを教え給い、かくしてすでにわれらを安心させ給えり。
この愛と信頼の精神において、われらは御身にわれら自身を奉献し奉る。御身は、変わらぬ生命なり。至聖なる聖心よ、われらと共に留まり給え。われらは、御身を愛し御身を愛させたい、という抗(あらが)いがたき望みを感じるが故なり。
われらの家庭が御身にとって、かつてのベタニアの家のように、そこでは主を愛する友人たちに囲まれて御身が安らぎを得ることができる、甘美な避難所とならんことを。マリアのように、御身の聖心の愛に満ちた親密さにおいて「より良いほう」を選んだ友人たちのいる避難所と。
われらが愛する救い主よ、御身の敵がこの世から御身を追放しようとする今この時、願わくはこの家庭が御身にとって、つつましくも、御身を喜んでもてなす避難所とならんことを。
主イエズスよ、来たり給え。ここではナザレトと同じように、われらは童貞聖マリア、御身の甘美な母に対して心からの愛を捧げ奉る。御身は聖母をわれらの母として与えたまえたればなり。御身の甘美な現存とともに、来たり給え。愛の王なるイエズスのためになさるるわれらの活動を支え、不幸と死とがいつの日か、われらに与えるも知らぬ空席を埋めるために。いとも忠実なる友よ、悲しみの中であったとしても、御身さえここにおられるならば、われらの涙は辛くもあらず。力づける平和の香油は御身だけが知り給う隠れたる傷を癒すなり。
来たり給え。おそらく今も、われらには苦難の黄昏(たそがれ)が近づきつつあるなり。われらと共に留まり給え。すでに日は暮れ、倒錯した世界がわれを否定の暗闇で飲み込もうとするがゆえなり。されど、御身のみが道、真理、生命(いのち)なり。その御身のみにわれらは従うことを望み奉る。その昔、ザケオに御身が宣うたみ言葉をわれらにも繰り返し給え。「私は、今日、あなたの家にとまる。」
しかり、愛する主イエズスよ、われらと共に御身の家に住み給え。そは、御身の愛と御身の現存のうちに、われらが生きるためなり。われらは、御身を王と宣言し、他には何も望まざるなり!イエズスよ、凱旋すべき御身の聖心が、この家庭にて永遠(とこしえ)に愛され、祝福され、栄光を受け給わんことを!御国の来たらんことを。アーメン。
8. Cor Jesu Sacratissimum, miserere nobis ! (ter) 8. 至聖なるイエズスの聖心よ、われらを憐れみ給え!(三回繰り返す)
Cor Mariae dolorosum et immaculatum, ora pro nobis.  聖母の悲しみに満ちた汚れなき御心よ、われらのために祈り給え。
Sancte Joseph, ora pro nobis. 聖ヨゼフ、われらのために祈り給え。
Sancte Pie Xme, ora pro nobis. 聖ピオ十世、われらのために祈り給え。
Sancta Margarita Maria, ora pro nobis. 聖マルガリタ・マリア、われらのために祈り給え。
(Omnes) Gloria Cordi Jesu Sacratissimo, in sempiterna saecula ! Amen. (全員)イエズスの至聖なる聖心に栄光あれ、千代に八千代に代々とこしえに!アーメン。
9. (All stand) To thank the Immaculate Heart of Mary for the grace of the Enthronement, and to proclaim and reconfirm this loving Mother as the Priestess and the Queen of the Family, all sing the Salve Regina. 9.(全員立つ)着座式という御恵みに対してマリアの汚れなき御心に感謝し、そして、この愛すべき御母を、家庭の女性司祭、元后として宣言・再確認して、全員でサルヴェ・レジナを歌う。
10. The Priest gives his blessing:  10.司祭は祝福を与える。
Benedictio Dei omnipotentis, Patris, et Filii, et Spiritus Sancti, descendat super vos et maneat semper. Amen. 全能の天主、聖父と聖子と聖霊との祝福が、あなたたちの上に降り、常にとどまらんことを。アーメン。
11. Then the members of the family sign the certificate of the Enthronement, which should be framed and hung near the image of the Sacred Heart or kept in the family archives. 11.次に、家族が一人ずつ着座式の証明書に署名する。これを額縁に入れて、聖心の御絵の近くにつるするか、家庭の保管庫に保存する。
   
13. The following indulgences to be gained by the members of the family (Raccolta 1943, page 536): 13. 以下の贖宥が、家族一人一人に与えられる(1943年版Raccoltaの536ページ)
1. A plenary indulgence under the usual conditions, on the day of die Enthronement. 1.着座式の日に、通常の条件のもとで全贖宥。
2. An indulgence of seven years for all the members of the family who, at least contrite of heart, assist at the ceremony of the Enthronement in their home. 2.少なくとも痛悔の心があり、家庭の着座式の儀式にあずかる家族全員に七年の贖宥。
3. An indulgence of three years – once a year, on the day they renew their official act of consecration before the likeness of the Sacred Heart of Jesus. 3.年に一回、イエズスの聖心の御絵の前で奉献を公式に更新する日に、三年の贖宥。
4. A plenary indulgence on the same day under the usual conditions. 4.同じ日に、通常の条件のもとで全贖宥。


聖心の着座式(Enthronement of the Sacred Heart)について

2023年06月26日 | お説教・霊的講話

聖心の着座式についての説教

ドモルネ神父 2023年6月18日

はじめに

6月は、イエズスの聖心に奉献されています。17世紀末、私たちの主イエズスは、フランスのパレ・ル・モニアルの聖母訪問会の修道女、聖マルガリタ・マリアに何度もご出現になり、主の聖心への信心を勧められました。そして、このご出現の際、私たちの主イエズスは、そのような信心を持つ人々の利益となる約束をいくつかなさいました。その中には、次のものがあります。「私は、私の心の絵が掲げられ、敬われるすべての家を祝福する」。

今日は、家族が家の中に聖心を掲げて敬う儀式についてお話しします。この儀式は、「聖心の着座式 Enthronement of the Sacred Heart」と呼ばれています。

1.儀式それ自体

聖心の着座式は家族の儀式であり、家族の長、つまり夫が主宰します。できるだけ、家族全員が出席すべきです。司祭にも式に加わっていただくのがよいでしょう。

着座式の前の数日間、家族は、良い告解と、聖心の連祷のような特別の祈りによって、霊的に準備をします。また、家の中に、イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心の御絵あるいは御像を設置する場所を用意します。その場所は、花と1本あるいは2本のろうそくで飾られた、家の中でも栄誉ある場所でなければなりません。日本の床の間は、その目的によく合っています。

着座式の日、儀式を始める直前に、聖心の御絵を玄関の扉のところに置きます。そして、儀式は次のように行われます。

• まず、家族が着座式の恩寵を受けるための準備として、司祭は家と家族を祝福します。

• 次に、全員が玄関の扉のところにある聖心の御絵の前に進みます。これは、家族が、私たちの主イエズスを自分たちの家にお迎えすることを象徴しています。

• 次に、司祭は、聖心の御絵を準秘跡にするために祝別します。つまり、家族が信心をもってこの御絵を見つめるたびに、私たちの主イエズスの愛徳をまねるための特別な助力の恩寵を受けることになるのです。

• 次に、家族は、私たちの主イエズスにこの家を所有していただくために、家の中を荘厳にご紹介します。そのために、夫は聖心の御絵を持ち、家族はその後に、小さな行列のようにして続きます。この行列は、私たちの主イエズスに新しい所有物を見ていただくために、家の各部屋を通ります。この行列の間に、聖心を敬う歌を歌うことができます。最後に、夫は、用意された場所に聖心の御絵を設置し、そのそばにマリアの汚れなき御心の御絵を置きます。ろうそくに火が灯されます。この行為が「着座式」であり、私たちの主イエズスが家族の王、最も親愛なる客、親しい友人であることを宣言するものです。

• 次に、家族は、信経を唱えて、自分たちの王への信仰を告白します。

• 次に、司祭は、この儀式の意味、聖心に対する献身の意味、そして私たちの主イエズスをたたえる人々への主の御約束の意味を、家族に簡潔に思い起こさせます。

• 次に、家族は、まずイエズスの聖心に、次にマリアの汚れなき御心に、自分たちを完全に奉献します。

• 最後に、司祭は、私たちの主イエズスに代わって、家族を祝福します。

2.着座式の意味

この儀式は「着座式」と呼ばれます。つまり、「誰かを王であると宣言すること」です。私たちの主イエズスは、子なる天主ですから、私たちの王です。主は、全宇宙を創造され、すべてのものは主のものであり、すべてのものは主の天主としての御力と権威の下にあります。私たちの主イエズスが私たちの王であるのは、主が私たちの贖い主だからでもあります。私たちは地獄の宣告を受けた罪人でしたが、主は私たちの罪を償われ、私たちを買い取られましたから、私たちはイエズスの所有物となったのです。

私たちの主イエズスは、主の神性と贖いのゆえに、例外なく全ての人の王なのです。しかし、悲しいことですが、多くの人々は主の王権を認めるのを拒否しています。彼らは、自分自身のむなしい考えや情欲に従うことを好み、最も不幸な終末に向かっているのです。

その反対に、着座式の儀式を行うことで、家族は、主の王権を認め、喜んでその王権に服従します。家族は、キリストが掟を制定する権威を持っておられることを認め、その掟に従うことを約束します。家族は、人間を永遠の命に導くことのできる唯一のお方であるイエズス・キリストの御力を認め、したがって、イエズス・キリストに忠実であることを約束します。家族は、キリストが、自分たちの悪い行いを罰し、良い行いに報われる至高の審判者であることを認め、したがって、キリストへの友情を誓うのです。

3.聖心の着座式

着座式の儀式は、天主の御子イエズスの着座式ではなく、贖い主イエズスの着座式でもなく、聖心の着座式です。それは何を意味するのでしょうか。聖心は天主の愛の象徴ですから、私たちの主イエズスは愛の王でありたいと望んでおられるという意味です。イエズスは私たちを愛し、私たちに対する善を望んでおられ、私たちを永遠の幸福に導きたいと望んでおられます。しかし同時に、イエズスは愛されたいと望んでおられ、私たちがイエズスの権威に、喜んで、そして愛情をもって服従することを望んでおられます。着座式の儀式によって、家族は、イエズスに愛されること、そしてイエズスを愛することを受け入れるのです。

家族は、イエズスに愛されることを受け入れます。この意味は、家族が、私たちの主を自分たち家族の一員として受け入れ、主にも自分たちの喜びや悲しみにあずかっていただくということです。例えば、新しく子どもが生まれたとき、誕生日や事業の成功をお祝いするとき、あるいは逆に、試練が起こったとき、病気や死のときなどです。

家族は、イエズスを愛することを受け入れます。この意味は、家族が、私たちの主イエズスの喜びや悲しみにあずかるということです。キリストの喜びとは何でしょうか。それは、一年を通じた主の典礼上の祝日や、キリストがこの世で栄光を受けられる、あらゆる出来事です。キリストの悲しみとは何でしょうか。それは、キリストに対してなされるすべての忘恩、侮辱、冒涜、汚聖です。聖マルガリタ・マリアに対するイエズスの御言葉を思い出してください。「見なさい、人類を愛するがあまり、その愛を人類に証明するために、力を使い尽くすまで、何も惜しまなかったこの心を。それに対して、この愛の秘跡において、私に対する侮蔑、不敬、汚聖、冷淡によって、私は人類の大部分から忘恩以外の何も受けていない」。家族は、このイエズスの御言葉にお応えして、着座式によって、罪の償いをすることを約束するのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖心の着座式は、聖心の御絵を祝別すること以上のものです。聖心の着座式は、私たちの目には見えませんが、現実で、生きておられ、活動しておられるお方、つまり私たちの主イエズス・キリストを、自分の家族の中にお迎えすることです。主は、黙示録でこう言っておられます。「見よ、私は門の外に立ってたたいている。私の声を聞いて戸を開くなら、私はその人のところへ入って、彼とともに食事し、彼も私とともに食事するであろう」(黙示録3章20節)。皆さんの家の扉を開くという、私たちの主からの最も甘美なる御招待を、皆さんは想像することができるでしょうか。汚れなきマリアが、御子イエズス・キリストの栄光のために、そして私たち自身の幸福のために、私たちがその御招待に寛大に応えるようにしてくださいますように。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】【名古屋】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年06月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、聖ピオ十世会の東京では、11時半からの二回目のミサで四人の子供たちが初聖体を受けました。告解もしてとても良い準備とともに御聖体を拝領することができて、子供たちはとても幸福そうでした。東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。大阪では40人がミサに与りました。名古屋では14人でした。

初聖体を受けた子供たちのための皆様のお祈りを感謝いたします。子供たちは、聖体拝領の後でファチマの聖母の御像の前に集まって、聖アロイジオの「聖母に一切を託する祈り」をお捧げしました。

東京では、午後一時ごろから、叙階30周年記念・初聖体パーティーが催されました。パーティーに参加された方は、子供達も入れて約80人でした。初聖体、司祭職、とてもカトリック的で幸せなお祝いの時間でした。「小教区」とは何かということをスピーチでお話ししてくださった方もおり、とても興味深い内容でした。時間と距離の都合、病気や旅行のために、参加できない方々からも、個人的にメッセージや御挨拶の言葉をいただきました。ありがとうございます。

愛する皆様からの霊的花束をいただきました。東京、北海道、仙台などの各地から集められたお祈りの数々です。ありがとうございます!幸福です!

ロザリオ:  454環
聖体拝領:  63回
霊的聖体拝領:227回
ミサ聖祭:  73回
犠牲:    204回
十字架の道行き:9回
その他:   88回

7月1日には大阪でマーチフォーライフがあります。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。
7月10日~12日には、沖縄にミッションに参ります。北中城村和仁屋(わにや)でミサを捧げる予定です。愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお待ちしております。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 105 including children.

09:00 mass
M: 21 (incl. 1 child)
F: 24 (incl. 3 children)
Total: 45 (incl. 4 children)

11:30 mass
M: 36 (incl. 5 children)
F: 31 (incl. 5 children)
Total: 67 (incl. 10 children)

Total of 2 masses (excl. 7 persons who participated in multiple masses)
M: 54 (incl. 6 children)
F: 51 (incl. 8 children)
Total: 105 (incl. 14 children)

Also, the number of attendees at the ordination anniversary/first communion party was around 80, including children.

【お便り】
Ave Maria!

Dear Father Onoda,
I hereby wish to send you my congratulations for your 30th anniversary of ordination, and express my personal heartfelt gratitude. …
I continue to pray to Holy Mother Mary, Blessed Virgin, that through you many more souls may receive the grace to open their hearts to the truth and enter the path towards everlasting happiness, and that more Japanese priests will arrive to follow your example.…
With thanks, best wishes and prayers for the next 30 years to come!

【お便り】
おはようございます。
小野田神父様、叙階30周年おめでとうございます。
私共はいつも小野田神父より、霊的指導とカトリック信徒としての使命と生き方を諭されております。それは、私共の心の支えと希望となっており、心から感謝しております。どうか、いつまでも健康で私達信徒を天国に導いてくださるようお祈りしております。

【お便り】
Happy anniversary Father Onoda! God bless you!

【お便り】
Your Holy service to the Lord.touches so many hearts and inspired so many lives.
God bless you as you celebrate another year of faithful service to Christ.
Happy 30th anniversary of ordination Rev.Fr. Thomas Onoda

【お便り】
Ave Maria!
小野田神父様
叙階30周年、おめでとうございます。この30年、どれだけご苦労なさったことでしょう。私の想像をはるかに超えるご苦労があったのだと思うと、ただただ頭が下がります。本当におめでとうございます。今日は、生憎御ミサに与ることも、パーティに出席することもできないのですが、お祈りの気持ちだけ御一緒させて頂きます。

【お便り】
小野田神父様
聖ピオ十世会司祭として30年のお働き、天主様もマリア様もお慶びのことでしょう。おめでとうございます。これからも聖ピオ十世会司祭としてのご活躍を期待しております。


聖心の信心の核心の3つのポイント|イエズスの聖心の愛の最大の現れ、御聖体。「…彼らの不敬と冒とく,冷淡と軽蔑によって 忘恩以外の何ものも受けていない。」

2023年06月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年6月18日は至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

 


ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」まえがき:ガニョン枢機卿「彼らのシステムは世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」

2023年06月23日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」が出版されました。

この本を、著名なマー神父(Father Charles Murr)がまえがきをかいて、推薦しています。マー神父は、ガニョン枢機卿の親友でした。ガニョン枢機卿は1987年に公式の教皇視察として、エコン神学校を訪問しました。枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。

「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

マー神父の書いた「まえがき」foreword written by Fr. Charles Murr の日本語訳をご紹介いたします。

「SSPX: The Defence」で、私の友人であるケネディ・ホールが、困難ではあるものの崇高な仕事に取り組んでいます。彼はマルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会(SSPX)に関する多くの質問に答えることを思い切って行いました。驚くべきことに、この二つのテーマに関する問い合わせは、今日、以前よりもはるかに多くなっています。その理由は、極めて皮肉なことですが、教皇フランシスコが聖伝のラテン語ミサ(TLM)を、敵意を持って攻撃していることが大きいと思います。さて、尋ねられている多くの質問(中には鋭い批判の形もあります)は、実際には二つに集約されます。つまり、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を設立したときに表明した意向はどんなものだったのか、そして、聖ピオ十世会の現実の状態と法的な(教会法上の)立場はどうなのか、ということです。

「ディスインフォメーション(Disinformation)とは、ロシア語のDezinformatsiyaを文字転写したもので、マルクス主義を作った者たちや発展させた者たちによって、世論を惑わすことを目的とした偽りの報道の流布(報道、ラジオなどで)と定義されます。この言葉は、今や私たちの辞書に欠かせないものとなりましたが、当初の鋭い点はかなり鈍化しています。ディスインフォメーションは、今や、私たちの中で「目覚めた」(woke)人々が不快に思うあらゆるニュースの総称となっているのです。(同様に、ディスインフォメーションのいとこである「ヘイトスピーチ」は、リベラル派が特に好まないものを意味します)。しかし、1968年の文化的反乱以前に生きていて物を考えることのできる年齢だった私たちの多くは、この矛盾した響きを持つ表現を初めて聞いたときのことを覚えています。私が初めて「ディスインフォメーション」という言葉を聞いたのは、リトアニア人の司祭が、1947年以来のヨージェフ・ミンゼンティ枢機卿の「見せしめ裁判」の詳細な内容を語る説教の中だったと記憶しています。1960年代初頭のことです。私は11歳か12歳でした。第二次世界大戦の終結(1945年)からソビエト連邦の解体(1991年)に至る、西洋文明とソビエト共産主義の間が強固に深く凍り付いた状態の「冷戦」の真っ最中でした。

では、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会に関する本のまえがきにおいて、「ディスインフォメーション」についての議論とは、何のことなのでしょうか。まあ、何でもありということです。

嘘をつくこと、すなわち、虚偽を流布する「技術」は、聖ピオ十世会の発足時から今日に至るまで、聖ピオ十世会を批判する者たちの「手口」(modus operandi)です(本書の読者なら、すぐに自分で発見するでしょう)。大司教とその弟子たちを中傷することは、1960年代から70年代にかけて、バチカンの二人の非常に著名で強力な高位聖職者の継続的な「務め」でした。ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿(バチカン国務長官)とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿(バチカン神学校・大学聖省長官)です。この二人のフランス人は、現実のものと来るべきものの「新秩序」を体現しているように見えました。彼らは間違いなく、近代(主義者)の教会権力の体現者であり、部下たちのために、歩むべき正しい方向、持つべき正しい態度、持つべき正しい選択肢を示しました。外交的に言えば、ヴィヨとガロンヌは、「政治的正しさ」(political correctness)が庶民的で俗なものになるずっと前から、「政治的正しさ」そのものでした。彼らは死ぬまで、兄弟である司教かつ同国人【ルフェーブル大司教】に激しく反対しました。アンニバーレ・ブニーニと彼の最新の典礼上の創作物からの十分な援助を受け、「新しい神学」(nouvelle théologie)の地平を広げるために、ヴィヨとガロンヌは、まさに「教会クーデター」(coupe-d’église)を引き起こすのに貢献し、その影響は今日でも感じられるものです。

どうしてそんなことが私に分かるのでしょうか。しかも、そんなことを言うとは、私は何者なのでしょうか。

73年間、天主のご寛容と御あわれみにより、天主は、私に最も魅力的で退屈しない人生を与えてくださいました。真の友や偽の敵から、偽の友や真の敵、そしてもちろん、どこにでもいる中間的な人々まで、常に多彩な人物に囲まれながら、天主は、何度も素晴らしい場所に私を植えられ、根を抜かれ、再び植えられました。しかし、私がこの世で過ごしたすべての時間の中で、最も輝いていたのは20代の10年間でした。1971年から1980年まで、私はローマに住んでいました。そのうちの後半の5年間は、大学院で勉強を続けながら、バチカン広報局で働いていました。

1974年、私は、私の人生の行く道を形成することになる、二人の傑出した紳士と友人になりました。ラヴェンナ出身の司祭マリオ・マリーニは、バチカン国務省の「書記」(minutante)でした。(彼は後に、典礼秘跡省長官となり、同時にエクレジア・デイ委員会の委員長となります。)マリーニはすぐに、教皇庁家庭評議会議長のフランス系カナダ人、エドゥアール・ジョゼフ・ガニョン大司教を私に紹介してくれました。(ガニョンは枢機卿となり、1987年には教皇ヨハネ・パウロ二世から派遣されて、エコンでマルセル・ルフェーブル大司教と会見する[1984年]ことになります。)1977年、マリーニ、ガニョン、私の3人は、ジャニコロの丘に近いレバノン人居住区に一緒に住むことに決めました。私は、天主がこの2人の偉大な人物をご自分のもとに召されるまで、2人の近くにいました。ガニョン枢機卿は2007年、モンシニョール・マリーニは2009年のことでした。

私の友人マリオ・マリーニが怒っているのを見ることはめったにありませんでしたが、私の心に強く残ったのは、聖マリア大聖堂での私の初ミサのときのことでした。私はボルゲーゼ礼拝堂にある、エウジェニオ・パチェリが初ミサを捧げた祭壇で初ミサを捧げることになりました。マザー・パスカリーナは、私がミサのローマ典文用に使うことのできる教皇ピオ十二世の白いミサ典礼書を私に貸してくれると申し出てくれました。しかし、メキシコ学院の校長(当時の私の法的な長上)が抗議してきました。彼は「ルフェーブル的・異端的」な儀式には、一切参加しないつもりでした。この小心者は、その貴重なミサ典礼書を使うと私の初ミサは無効になる、と主張しました。

マリーニは憤慨しました。「ピオ十二世のミサ典礼書が異端の烙印を押されるなんて、誰が想像できるでしょうか。これはまさしく狂気です」。

ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿が流したルフェーブルのディスインフォメーションの一部を知ったのは、ガニョンとマリーニを通じてでした。この2人のフランス人、特にヴィヨ枢機卿は、親仏派の教皇パウロ六世に話を聞いてもらえることから、フランス司教団に大きな圧力をかけていました。さらに、ヴィヨがもう一人の「気の合う」バチカンの高位聖職者である司教省長官セバスティアーノ・バッジョ枢機卿と目と目を合わせていたことも気になりました。バッジョは、フランス司教区の司教候補者はすべて、ヴィヨの支持を受ける現代思想の持ち主であることを特に確認しました。フランスのカトリックを解体するのに数年かかりましたが、ついには、フランスで統治するすべての司教は、「自由思想の」進歩派となったのであり、彼らは、ルフェーブルと聖ピオ十世会を、やがて――できればすぐにでも――ただ消えてなくなる宗教的・社会的反動派とみなしていたのです。

ヴィヨ国務長官は、バチカンのすべての省、部署、評議会、委員会が「エキュメニズム」に関心を持ち、第二バチカン公会議の新しい精神に心を開くかもしれないカトリック以外のあらゆる団体と「対話」していることを確認しましたが、バチカンとエコンの間の対話を進めることは何もしませんでした。それどころか、彼はそれに反対していました。国務省「書記」のモンシニョール・マリオ・マリーニと国務省人事部のトップ、モンシニョール・グリエルモ・ザンモーニによると、誰かがルフェーブル大司教の話題を持ち出すことほど、ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿の怒りを迅速かつ明白に買うことはありませんでした。1979年に亡くなるまで、このフランス人国務長官は、ルフェーブル大司教がフランスの司教団から排斥され、聖職(a divinis)の停止処分を受けたことに満足していたようです。ヴィヨに関する限り、「ルフェーブル事件」は終わったこと、済んだこと、対処すべき頭痛の種が一つ減ったこと、そして、それは「彼らが言うように」(comme on dit)でした。

ヴィヨが永遠の眠りについたことで、彼の長年の部下だったアゴスティーノ・カサローリ大司教は、彼の脱いだ靴を履こうと躍起になっていました。カサローリは、長年にわたって沈黙を守り、事務職を務め、臭い灰皿からゴロワーズ【フランスのたばこの銘柄】の吸い殻を空にする作業を続けましたが、自分の考えを話し、自分なりの「東方外交」(Ostpolitik)の解釈を広め、ソ連とその衛星国との対話神話に真の弾みをつけようと懸命になっていました。そして今や、新しいポーランド人教皇の支持を得て、この小さな事務職員が征服できないほど高い山はないように思えました。

というわけです。カサローリは、元の長上と同様、「ルフェーブル派」(Lefebvristi)との間にある物事を解決することに興味はありませんでした。全くなかったのです。

しかし、新教皇ヨハネ・パウロ二世は、ルフェーブル大司教と合意(a meeting of the minds)を得たいと思いました。教皇は和解を望んでいました。キリスト教の一致を維持(または再確立)することを望むのは当然ですが、聖ピオ十世会ほど、力と数を増しているカトリック共同体は他になかったのです。

私の非常につまらぬ意見では、教会の中には、また当時は、ジョバンニ・ベネリ枢機卿以上に、教皇ヨハネ・パウロ二世が実現したいと望んでいた、この崇高な目標を、また他の多くの崇高な目標を教皇が達成するのを助けることのできた人はいなかったでしょう。そして、このことを、教皇ヨハネ・パウロ二世以上に、そしてもちろんジョバンニ・ベネリ自身以上によく知っていた人はいませんでした。しかし、フィレンツェを離れ、国務長官としてバチカンに戻るという教皇の要請を受け入れてから2週間もたたないうちに、一見元気そうな61歳のジョバンニ・ベネリは致命的な心臓発作を起こし、1982年10月26日、フィレンツェで死去したのです。

沈痛な面持ちの国務長官代理アゴスティーノ・カサローリ枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロに悲報を伝えました。数日後、教皇は彼を国務長官として承認しました。

1987年11月上旬、私のもとに1通の特別送達の手紙が届きました。バチカン市国からのものであることは、郵便局員が切手収集のために封筒の右上隅を破っていたので、すぐに分かりました。(メキシコではよくあることです。)エドゥアール・ガニョン枢機卿の手書きの手紙はまず、特別に祈ってほしいというものでした。彼は、自分とヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、教皇と何度も会っていると書いていました。話し合いの話題は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の不安定な状況についてでした。その結果、教皇ヨハネ・パウロ二世は、ガニョン枢機卿に、スイスに行ってルフェーブル大司教と話し、聖ピオ十世会を、特にその神学校を調査するように命じました。

ガニョン枢機卿は、後にニューヨークで私に説明してくれたように、11月11日(1987年)にエコンに到着し、12月9日までそこに留まりました。彼はルフェーブルに聖座の提案、すなわち、第一に、聖ピオ十世会の存続を保証するためにルフェーブルが1人だけ新司教を聖別するよう説得することに失敗しました。4人ではありません。しかし、彼(ガニョン)はこのミッションを完全に失敗だとは考えていませんでした。教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、彼は聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。彼は聖ピオ十世会の神学校をさらに詳しく評価しました。「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

率直に言えば私は、マルセル・ルフェーブル大司教という人物自身に対する枢機卿の意見には驚かされました。「彼(ルフェーヴル)はバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができるでしょうか。あなたならどうしますか。彼は何年もの間、(国務長官)ヴィヨと(カトリック大学・神学校担当長官)ガロンヌと取引しようと試みました。しかし、二人は何年も、教皇と直接話をし、説得しようとする彼の努力を妨害するばかりでした。あなたもバチカンに不信感を抱いていることでしょう。いや、彼が行ったこと(1人ではなく4人の司教を聖別したこと)は許せませんが、なぜそうしたのかは理解できます。彼ら(聖座)は、彼が司教を聖別することを許可しているのです。1人の司教を。彼(ルフェーブル)は死にます。やがて、その一人の司教も死にます。そしてバチカンは聖ピオ十世会に後任として近代主義者を送り込むのです。そうして(指を鳴らして)すべてが終わった、と言うように」。

あることがきっかけで、皆さんが別のことが思い出すとは、面白いものです。

2022年、教皇ベルゴリオは、オプス・デイの顕著な影響力と法的地位を削り取ることを開始しました。教皇ヨハネ・パウロ二世と最も幸福に合意した(1982年の)「属人区」は、現在このアルゼンチン人の監視の目の下で、「修正」を受け始めていました。最初にすることは、属人区専属の高位聖職者でした。オプス・デイは今、司教不在です。しかも、もう司教省の下にはなく、聖職者省によって常に監視されています。このアルゼンチン人のオプス・デイへの命令はこうです。「あなたたちには、司教も、司教の権利に似たものもありません」。

私がこのことを知るやいなや、またしても、私はその独特のフランス系カナダ人【ガニョン枢機卿】のアクセントが私の耳でささやくのを聞きました。「ルフェーブルはバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができますか。あなたならどうしますか」。

本書「SSPX: The Defence」の中で、ケネディ・ホール氏は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会について、一部のカトリック信者がまだ抱いているかもしれない誤解に答えています。私としては、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会がこの半世紀、近代主義のローマと数多くのかたくなな「進歩主義者」によってどのように扱われてきたかについて、私自身の懸念を少し付け加えておこうと思います。

Fr. Charles Theo. Murr
チャールズ・セオドア・マー神父
2023年2月23日
ニューヨーク州ニューヨーク市にて


【参考資料】ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教 インサイド・ザ・バチカン 手紙99号

2023年06月23日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教

インサイド・ザ・バチカン 手紙99号 2023年5月22日(月) ヴィガノ大司教

私の同僚や多くの司祭は、ソフト版のキリスト教、つまり人道主義、環境主義、グローバリズムを推進する方が簡単だと考えています。なぜなら、キリスト教の「完全版」はこの世のメンタリティーには適さないとみなされているからです。(…)罪への言及はなく、したがって原罪も贖いもなく、ただ奈落の底に向かって「共に歩む」【シノダリティー】だけなのです。

【解説】ヴィガノ大司教は、バチカンの頂点で働く高位聖職者で、ベネディクト十六世によって在米教皇大使として任命されました。今は現役を退いていますが、引退してからは、新しいミサや第二バチカン公会議についての厳しい口調で批判をしておられます。

ルフェーブル大司教(と大司教にならう聖ピオ十世会)は、確固としつつも、いつも穏やかなトーン(口調)を保っていました。ルフェーブル大司教とヴィガノ大司教とは、その意味で大きな違いがあります。

ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は、聖伝を守っていたがために不当な取り扱いを受け続けていますが、それにもかかわらず、教皇と全カトリック教会の利益のために祈り、働き続けています。聖ピオ十世会の50年以上にわたる存在とその成長の実りそれ自体が、カトリック教会が聖伝に忠実でなければならないことを雄弁に物語っています。

Letter #99, 2023 Mon, May 22: Viganò

「テオフィロよ、前の本の中で、私は、イエズスがはじめから行ない、また教えられたすべてのことについて話した。それは、ご自分で聖霊によってお選びになった使徒たちに、訓戒をしてのち、天に昇られた日までのことである。また、イエズスは、ご受難ののち、ご自分の生きていることを彼らに知らせ、四十日間のご出現によって、その数多い証拠を示し、天主の国のことについてお話しになった。食事をともにしているとき、イエズスは『エルザレムを離れずに、私があなたたちに知らせた、御父の約束を待て』と彼らに命じ、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたたちは、まもなく、聖霊で洗礼を受けるだろう』と仰せられた。彼らが集まっているとき、『主よ、あなたが、イスラエルのために国を再興されるのは、このころですか?』と彼らはたずねた。主は、『御父が、ご自分の権威によってお定めになった時と時期とは、あなたたちの知るところではない。しかし、聖霊があなたたちの上にくだり、力をお与えくださる。あなたたちは、エルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう』と仰せられた」。

「話し終えたイエズスは、彼らが見ている前で、天にあげられ、一むらの雲が、それを覆いかくした。弟子たちが、天に昇っていかれる主を見送っていると、二人の白衣の人が現れて言った。『ガリラヤ人よ、なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか。今、あなたたちを離れて天に昇られたあの同じイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにしておいでになるであろう』」。

使徒行録1章1~11節、御昇天の主日の第一朗読。聖伝では、復活祭の40日後の御昇天の木曜日(今年は5月18日)に行われてきましたが、司牧上の理由から、多くの国で御昇天の木曜日の次の主日(今年は5月21日)に移されました。

手紙98号 2023年5月22日(月) ヴィガノ

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(82才)が今年の御昇天の祝日のために書いた説教の訳を同封します。―RM

ヴィガノ大司教「主の御昇天の祝日についての説教」

2023年5月18日、マルコ・トサッティによって、このリンク先にイタリア語で投稿されました。

§§§

私たちの主の御昇天の説教
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
2023年5月17日
御昇天の祝日

“Quid admiramini aspicientes in caelum?”
「なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか」
使徒行録1章11節

今日のミサの入祭誦で、私たちはこう歌います。「Viri Galilæi, quid admiramini aspicientes in cælum?」「ガリラヤ人よ、なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか」。

この問いかけは、主が御昇天になるのを見るのに夢中になっている使徒たちに、2人の天使が尋ねたものです。

天の使者たちの問いかけは誇張です。自然の法則を逸脱した驚くべきことは、彼らが殉教するまで証しすることになる復活の奇跡に比べれば、何でもありません。

「あなたたちは主が天に昇られるのを見て、なぜ驚くのか。主が奇跡的に天に昇られて雲の中に消えるのを見て驚いているのか。それとも、主が復活して『イスラエルの国を再興する』ことができるようになったまさに今、あなたたちだけを残して行くことに驚いているのか」(使徒行録1章6節参照)。

しかし、主はすでにあなたたちにこう告げられませんでしたか。「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちをともに連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)。

なぜ主は私たちと一緒にいてくださらなかったのでしょうか。もし主がすぐに天に昇られなかったら、あるいは実際、まだ地上におられたなら、人となられ、死なれて、復活なさった天主の権威をもって、旅をして、福音を知らせることがおできになったことでしょう。キリスト教はもっと早く、もっと成功裏に広まり、多くの殉教者の命も救われたことでしょう。もし主がこの地上にとどまっておられたら、主はカトリック教会において、イスラエルの国を本当に再興させることがおできになったことでしょうし、ご自身が教皇として、また王として統治されるお方であったことでしょう。主は老いることなく数世紀を過ごされ、この世を主へと回心させるのに十分だったことでしょう。

このため、使徒たちは驚いているのです。なぜなら、使徒たちがまだこの世のメンタリティーに従って行動し、考えているからです。

私たちの主は、30年間の「隠れた」生活と3年の宣教の後、3日間で自らのご受難と死によっていにしえの蛇を打ち負かし給い、アダムの罪によって永遠の救いから奪われたすべての霊魂を、主のいと尊き御血の代価として取り戻されたのです。

彼は私たちを贖われ、悪魔の奴隷であった私たちを買い取られ、もうしもべではなく友人(ヨハネ15章15節)となる自由を与えてくださったのです。

復活後の40日間、主は使徒たちに信仰の真理を教えられ、また秘跡を執行することを教えられました。主ご自身以外の誰にも主宰できないこの速度を速めた「セミナー」の終わりには、高間の部屋を離れられる時が来ました。「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章15-16節)。これが、主がこの地上を去られる前の最後の命令であり、遺産です。

主の御昇天から聖霊の降臨まで、わずか10日しかありません。「聖霊があなたたちの上に下り、力をお与えになる。あなたたちはエルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう」(使徒行録1章8節)。

聖霊降臨の日に使徒と聖母の頭上に降った聖霊の炎は、キリストの神秘体である聖なる教会を生み出し、その瞬間から、それまで「ユダヤ人たちを恐れて」(ヨハネ20章19節)閉じられていた高間の部屋の扉が開かれ、新しい民が現れます。彼らは聖霊において生まれ変わり、もはやこの世の精神に従って考えるのではなく、天主に従って考えるのです。私たちは数日後、こう歌います。「Emitte Spiritum tuum, et creabuntur; et renovabis faciem terræ.」(御身の霊を送り給え。彼らは創造され、御身は地の面は新たにし給う)。

彼らは恩寵に触れられるようになった瞬間、考え方が変わりました。

そして、そのおかげで、彼らは御昇天が必要であることを理解したのです。

教会が生まれたのは、師に忠実にとどまった11人が、以下のことを理解したときです。それは、主がこの地上に残されたその空白の時間、すなわち主が昇天されてから時の終わりに栄光のうちに戻って来られるまでの時間は、キリストのご受難の功徳による無限の宝を開花させるために、すべての国に福音を宣教し、私たちの信仰を証しし、霊魂たちを一つの折り、一つの洗礼、一つの信仰告白において一人の牧者に回心させるために使わなければならない、ということです。

聖なる教会は、世の終わりまで、その天主なるかしらの現存を継続するのです。

ミサの聖なる犠牲において、ご聖体のベールの下で、主が栄光ある御体と御血、御霊魂と御神性をもって降られるところは、教会の至聖なるふところの中、すなわち天主の祭壇という至聖所なのです。

そして、この言いようのない奇跡を起こすのは人間です。彼らの司祭職のおかげで、私たちの主イエズス・キリストは、この地上にとどまられ、信仰の目には、ご聖櫃の囚人として現存なさっているのです。それは、聖トマスとともに私たちが、主の聖なる御傷に指を入れずとも、主を認識し、主を私たちの主かつ天主として礼拝することができるようにするためです。

聖なる教会の鼓動する心臓である祭壇の至聖なる秘跡は、主の神聖な賜物であり、天に昇られる主が、このちくたくの地に、この涙の谷に、休むことを知らないこの戦場に残された信者にお与えになるものなのです。

そして、私たちが福音を歌い象徴として復活ろうそくを消しながら、御昇天の神秘を思い起こす一方で、もう一つの炎が灯り続けています。それは、ご聖櫃の隣に灯っている赤いランプの炎です。その炎は、王の中の王の現存をたたえるものであり、このお方は、不遜、冒涜、悪人の冒涜にさらされながらも、その無限の偉大さを隠してへり下られておられます。

それは、私たちが主の御前にひれ伏し、主に祈り、与えられたご好意を主に感謝し、主に恩寵を懇願し、至らぬ点の赦しを求め、至聖なるご聖体にまします主をお受けし、私たちの霊魂を至聖なる三位一体の神殿とするのをご覧になって慰めを得ていただくためなのです。私たちのすべての信仰、すべての希望、すべての愛を主に捧げるためです。fac me tibi semper magis credere, in te spem habere, te diligere.(われをして常に御身を信じさせ、御身に希望を置かせ、御身を愛させ給え)

もし、私たちの主が「この世のメンタリティーに従って」ご自身の凱旋を望まれたのであれば、自由意志のない私たちを創造され、功徳も罪もなく、ご自身のご意志だけを実現するようにプログラムなさったことでしょう。また、罪を犯すことのできる天使たちをも創造されなかったし、ご自身に反抗する各階級の霊も避けられたことでしょう。そして、私たちをすべて平等に造られたことでしょうし、私たちは地球上に等しく配置され、最低必需品を用意され、私たちのすべての行動を思い通りになさったことでしょう。要するに、主はクラウス・シュワブが行ったようにしたことでしょう。すなわち、私たちを奴隷にし、私たちを「人間」にしているもの、そして創造主を「素晴らしく神聖」にしているもの、つまり私たちの唯一無二性、主を愛する自由、主の恩寵の素晴らしさに私たちのみじめさをお返しするという自由を消し去ろうとなさったことでしょう。

主の「成功」は、この世のメンタリティーに従って成し遂げられるものではありません。なぜなら、もしそうであれば、それは幻想に過ぎず、天主からもたらされないすべてのこの世のもののように、はかない花火になってしまうからです。キリストの「成功」は、父親に対して自分の能力を証明するという満足感、つまり父親の教えから引き出された実を証明するという満足感を息子に与える父親の繊細さをもって行われます。まるで、職人が不在しなければならないとき、最も熟練した者に工房を任せ、その者が適切な地位にいるという信頼を確認する好機を与えるようなものです。そして、職人は、戻ってきたときに、失望することはないことを知っているのです。

主が天に昇られたのは、この瞬間から、私たち一人一人、特に使徒の後継者が、反抗的で背教的なこの世に天主の救いを宣言し、罪と死という闇にキリストの光をもたらす使命を負っているからです。主は、「私はあなたたちを送るのは、羊を狼の中に入れるようなものだ」(マテオ10章16節)と語られ、「弟子は先生にように、下男は主人のようになれば足りる」(マテオ10章25節)と予言されました。これこそ、試練の時であり、これは混ざり合った結果となって、二千年の間長く続きます。教会は、キリストを地上に現存させ、キリストを神秘的に御父に捧げることを続けているのです。しかし、小羊を装う狼だけでなく、牧者を装う狼が、何と多いことでしょうか。主人が帰ってくる前に主人をだますことできると思い込んでいる堕落した傭い人が、何と多いことでしょうか。天主の現存を消し去り、霊魂の救いを妨げるために、まさに教会を破壊しようとする裏切り者が、何と多いことでしょうか!

弟子たちに対する二人の天使の問いかけには、一つの警告があります。「あのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」(使徒行録1章11節)。

これは時の終わりのことを指しており、そのとき主は、死と罪に対する勝利を得て、生ける人と死せる人を裁くために戻って来られ、ご托身で始まり、ご受難と十字架上の死で成し遂げられたものの、サタンとそのしもべに対する公の断罪がなかったためにまだ不完全なままである、原福音で告知されたいにしえの蛇に対するあの勝利(創世記3章15節)を、公審判をもって終結させられます。その断罪は、すでに書かれていますが、まだ宣告されてはならないのです。Liber scriptus proferetur, in quo totum continetur, unde mundus judiceturと、私たちは「ディエス・イレ」(Dies iræ)で歌います。すなわち「すべてのことを書き記されている書物が読まれ、世は裁かれるであろう」と。

「とはいえ、人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18章8節)。私たちの周りを見渡せば、「はい、そうです」と言うべきでしょう。なぜなら、私たちが経験する苦難によって、多くの霊魂が回心し、天主に立ち返ることができるからです。このミサはその証拠です。

しかし、私たちがこの世に目を向けるならば、カトリックの位階階級が陥っている背教、腐敗、不道徳をはじめとして、恐怖を引き起こすものを目にします。

私の同僚や多くの司祭は、ソフト版のキリスト教、つまり人道主義、環境主義、グローバリズムを推進する方が簡単だと考えています。なぜなら、キリスト教の「完全版」はこの世のメンタリティーには適さないとみなされているからです。商人のメンタリティーをもった彼らは、顧客の嗜好に合った新しい「商品」を提案することで、「倉庫の鮮度を上げる」ことができると考えています。その商品とは、多くを要求しないもの、連帯、受容、包摂(inclusion)、シノダリティー、回復力、環境持続性など、自分の生活を何も変えたくない人にとって安心させる一般的なものです。そして何よりも、罪への言及はなく、したがって原罪も贖いもなく、ただ奈落の底に向かって「共に歩む」【シノダリティー】だけなのです。主のご受難と死は、負担となり、分裂を招くものであり、包括的なものではない、それは橋を架けるのではなく、壁を作る、とされているのです。

しかし、これは、主が3年間の公生活の間、そして御復活後、御昇天の瞬間まで使徒たちに教えられた信仰なのでしょうか。

主が聖なる品級とすべての秘跡を制定されたのはそのためだったのでしょうか。

これが、主がすべての国々に教えるように命じられたものなのでしょうか。

殉教者たちが残虐な苦しみの中で死んだのはこのためだったのでしょうか。諸国民を改宗させるという教会の神聖な使命が「荘厳な無意味(solemn nonsense)」であると言われるためでしょうか。

教会の聖なる教父たちや博士たちが教理を説くことに生涯を捧げたのは、このためだったのでしょうか。つまり、聖伝に忠実であり続ける――「後戻り主義者」とか「病的な懐古趣味の者」として疎外されている――人々に反対するような妄言や放言に耳を傾けるためだったのでしょうか。

ヘンリー八世の英国や恐怖政治のフランスで、カトリックの司祭が迫害されたのはこのためだったのででしょうか。全時代の異端者たちによって憎悪されているあのミサが禁止されるのを見るために迫害されたのでしょうか。

二位の天使は、弟子たちに前もって諭しただけでなく、私たち一人一人にもこう諭しています。「あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」(使徒行録1章11節)。

そして、彼が戻ってくるとき、彼は管理人たちに、聖なる教会の金庫に残した貴重なタラントン(タレント)をどうしたかと問われるでしょう。「会計の報告を出せ【管理責任の説明をせよ】」(ルカ16章2節)。

天主が、教皇と司教を権威において確立なさったのは、彼らが「もう一人のキリスト」となって諸国の民に福音を宣教することができるようにするためでした。この天主の審判のことを考えると、私は震えてしまいます。今日では、教会は、偽善者、異端者、背教者の最高法院(サンヘドリン)によって汚染されて、彼らは、主の縫い目のない衣を地上の強者たちと分けようという意向を持っているのです。

秘跡と聖なるミサとからなるキリストの遺産は、どのようにして開花し、実を結ぶようになったのでしょうか。プロテスタントの「晩餐」を模倣し、使徒継承の典礼を禁ずることによってだったのでしょうか。

説教と使徒職のタレント、聖なる神学者たちの教理という宝は、どのように増やされたのでしょうか。異端主義的エキュメニズムを推進し、アブダビの「アブラハムの宗教」のパンテオンに冒涜的に参加することによってでしょうか。バチカンでパチャママという地獄の偶像を崇拝させることによってでしょうか。悪徳を奨励し、美徳を嘲笑することによってでしょうか。ふさわしくない高位聖職者を昇進させ、良き司祭を迫害することによってでしょうか。

このようなミトラ【司教冠】をかぶった腐敗した官僚は、【審判者なる主を前にして】天主なる小羊【イエズス・キリスト】の御血によって勝ち取られた宝で何の利益も得ようともせずに【土の中に埋めて隠しておきながら】、罰を受けずに平然と返すことができると考えて、自分たちが埋めた宝を発掘しようと躍起になることでしょう。

主の御昇天は、私たちが救いの御業に協力することが御旨であることを示しています。なぜなら、私たちは、教会という主の体の生ける肢体であり、天主なるかしらに素直に従わなければならないからです。

福音を宣教し、諸国の民に洗礼を授けるようお命じになった牧者たちに対して、主は、回心しない人や福音を宣教しない人を待ち受ける断罪について、誤解を残さないようにと求めておられます。

なぜなら、牧者の権威は代理としてのものであり、つまり、教会の唯一の長である私たちの主が物理的に不在のときに行使されるものとしてこそ存在するのです。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを軽んじる人は、私を軽んじる人である」(ルカ10章16節)。この言葉は、キリストを宣教するがゆえにこの世から軽んじられる人を安心させ、キリストの御名によって他の福音を宣教するがゆえにこの世から受け入れられる人を必ず恐れさせるものです。そして、キリストの権威をもって、誤謬を広め、罪と悪徳を正当化し、自分自身の生き方でつまずきを引き起こすがゆえに、キリストを軽んじる人にはのろいあれ。

主は、沈黙のうちに復活されたように、音もなく去って行かれます。

主はお一人で、弟子たちにご自身の姿を見せ、天に昇られたことの証拠に、教会が守る至聖なるご聖体における主の秘跡的現存への信仰、天上の栄光の中で主と再一致する希望、主のために主と隣人を愛するという熱烈な愛徳が続くようにされます。

これこそ、キリストの教会が二千年の間、変えることなく受けたまま伝えてきた遺産であり、誰も修正したり、不純物を入れたりして、罰を逃れられると自分を欺くことはできません。「Deus non irridetur.」(天主はあざむかれない)。なぜなら、主が戻られるとき、主がご自分の役務者たちに執行のためにお与えになった貴重な霊的財産の所有権を取り戻すことを望まれ、役務者たちはそれについて説明しなければならないからです。

ですから、私たちは皆、教会の指導者からただの信者に至るまで、自分に残された時間を大切にしましょう。

私審判のために天主の御前に出る前に、私たちにこの世で残された時間を。

時の終わり、最後の審判の前に、この世と教会に残された時間を。

私たちの宣教によって、私たちの模範によって、私たちの良い言葉の一つによって、たった一人の霊魂でもキリストのために勝ち取るなら、私たちは受けたタレントを増やしたことを穏やかに主にお示しして、次のお答えをお聞きすることができるでしょう。「よしよし、忠実なよいしもべだ。…おまえの主人の喜びに加われ」(マテオ25章23節)。

この希望が、主が教会の権威ある立場に置かれた人々にとって何よりも確かなものでありますように。これこそが、私たちが、使徒の元后にして教会の母である至聖なるマリアの足元に置く祈りの意向なのです。アーメン。

(ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教、終わり)

英語版 Letter #99, 2023 Mon, May 22: Viganò

イタリア語版 Mons. Viganò. Omelia nella Festa dell’Ascensione del Signore.


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年06月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでしょうか。2023年6月18日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計107人でした。大阪では38人でした。天主に感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、十日ほど韓国にミッションに行っておりました。韓国でも若い新しい方々が聖伝のミサに来られ、とても有意義な時を過ごしました。また今回は特に病気に苦しむいろいろな方々を訪問して遠出をしました。主の憐れみ深いお恵みと、聖母の御取次と、兄弟姉妹の皆様の祈りと寛大な御援助に支えられて、皆様のしもべは来る6月29日に叙階30周年を迎えるお恵みを受けます。毎日いただいたとてつもないお恵みを心から感謝します。わが霊魂は、主を崇めたてまつる!Magnificat anima mea Dominum! 

30年の司祭生活での受けた最大のお恵みの一つは、日本に修道院ができて、日本で毎日ミサ聖祭が捧げられるようになったことだと思います。また、多くの方々が毎主日に聖伝のミサ聖祭に与ることができるようになったこと、イエズス・キリストの愛をより良く知り味わうことができるようになったことだと思います。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」

願わくは聖母が、聖ピオ十世会日本の修道院を暁の星として、続けて輝かせて下さいますように!
聖母のおん取り次ぎで、日本の全ての人々が、正義の太陽、つまりイエズス・キリストを正しく知り、礼拝し、希望し、愛することができますように!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 107 including children.

09:00 mass
M: 31 (incl. 7 children)
F: 29 (incl. 8 children)
Total: 60 (incl. 15 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 1 child)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 52 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 5 persons who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 8 children)
F: 54 (incl. 13 children)
Total: 107 (incl. 21 children)


テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著 『聖体の黙想』の過去記事の目次

2023年06月17日 | カトリックとは

テニエール(Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))著 『聖体の黙想』の過去記事の目次をご紹介します。

聖体の黙想 目次

聖体の制定された理由
1  聖体は天主のご托身の継続である
2  聖体は主の聖徳の模範の継続である
3  聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
4  聖体は天父に対する最上の賛美である
5  聖体は救霊のみわざの継続である
6  聖体は天主の正義の御怒りを防ぐ楯である
7  聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
8  聖体は霊的生活のかてである
9  聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである
10 聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖である
11 聖体はキリスト信者の慰めである
12 聖体は地上の天国であって終わりなき生命の保証である

天主である聖体
13 聖体は至聖なる秘跡である
14 聖体は天主である
15 聖体は永遠の天主である
16 聖体は偏在の天主である
17 聖体は御稜威尊い天主である
18 聖体は全能の天主である
19 聖体は至聖なる天主である
20 聖体は至善なる天主である
21 聖体は摂理の天主である
22 聖体は万物の主宰者である
23 聖体は至高の審判者である
24 聖体は慈悲深い天主である

人である聖体
25 聖体はまことの人である
26 聖体は仲介者である
27 聖体は父である
28 聖体は母である
29 聖体は私の兄弟である
30 聖体は霊魂の浄配である
31 聖体は友である
32 聖体はわが助言者である
33 聖体はよき牧者である
34 聖体は霊魂の医者である
35 聖体はわが伴侶である
36 聖体はわが宿主であり、また客である
37 聖体はわがしもべである

聖体礼拝の理由
38 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
39 聖体はまことの人イエズス・キリストである
40 聖体は天国における光栄の王である
41 聖体は地上における天主の最大のたまものである
42 聖体はすべての祝福の源である
43 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
44 聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆の最善の償いである
45 聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである
46 聖体の礼拝は祈禱の義務を果たすのに最善の方法である
47 聖体の礼拝はいともたやすく最も楽しい祈りである
48 聖体の礼拝は最も有効な祈りである

聖体の顕示に関する黙想
49 聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である
50 聖体顕示は主の王的主権の表現である
51 聖体降福式は主の勝利の凱旋式である
52 聖体降福式は盛大な感謝の儀式である
53 聖体降福式はご受難に対する最善の償いである
54 聖体降福式は聖体のうちにおける主の御遜りの償いである
55 聖体降福式は天主の御怒りを防ぐ楯である
56 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である
57 聖体降福式はたやすく主に祈る最善の機会である
58 聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心の御望みにかなうものである
59 聖体降福式に対する義務


御聖体は天国をこの世ですでに味わうこと。天国の保証です。

2023年06月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年6月11日は御聖体の祝日の荘厳祭でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御聖体の祝日の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

 


ランチャーノのご聖体の奇跡について:奇跡の歴史的事実と科学的な分析の結果

2023年06月16日 | お説教・霊的講話

ランチャーノのご聖体の奇跡についての説教

ドモルネ神父 2023年6月11日

1.信憑性のしるしについて

宇宙と人間の創造主である天主は、私たちに対して、私たちの存在の起源と、私たちの人生の目的、それはすなわち、私たちが天主の命にあずかることであることを、啓示されました。天主は、私たちに対して、私たちがこの目的、すなわち、私たちが完全な幸福を獲得するための手段を、啓示されました。

天主の啓示の中には、私たちが十分に理解できることがあります。例えば、天主が存在すること、天主は唯一であること、天主は無限にして永遠であることです。私たちは、自分が霊的で不滅の霊魂を持っていること、そして死んだ後、善人には報いがあり、悪人には罰があることを理解できます。

しかし、天主の啓示の中には、私たちから隠されていること、つまり、私たち人間の知性が持つ自然の能力を超えていることもあります。例えば、唯一の天主には三つのペルソナがあること、イエズス・キリストは天主であると同時に人であることなどです。ご聖体も、その一つです。ミサにおいて、司祭は、パンとぶどう酒の外観を変えることなく、パンとぶどう酒をイエズス・キリストの御体と御血に変えます。

しかし、天主が、隠されていたり、人間の理解を超えたりする現実を啓示されるとき、私たちに啓示されたことが真理であることを示すためのしるしを、私たちに与えてくださいます。これらのしるしは、啓示されたことを信じることが合理的であること、信じないことが不合理であることを、私たちに示すものです。私たちは、これらのしるしを、「信憑性のしるし」と呼んでいます。たとえば、一部の聖人たちの腐敗しない体は、信憑性のしるしです。何世紀も前に死んだ彼らの体は腐敗していません。科学によれば、私たちは、死んだ後には体は腐敗するという自然の法則があることを知っています。また、私たちは、これらの体には、腐敗の法則に逆らうような天然あるいは人工の要素が使われていないことを科学的に知っています。しかし、私たちは、これらの体が腐敗していないことを科学的に観察しています。したがって、同じ科学は、腐敗の法則に反して、これらの体を保存する超自然の力がこれに働いていると結論づけざるをえないのです。これらの聖人たちの腐敗しない体は、カトリック教会の教えが真理であることのしるしなのです。

これらの信憑性のしるしは、しばしば、人々をカトリックの信仰に導く最初の一歩になります。したがって、これらのことを十分に知り、機会があれば使えるようにしておくことは、非常に有益です。

今日は、コルプス・クリスティ、すなわちご聖体の祝日をお祝いしています。私は、イタリアのランチャーノでの有名なご聖体の奇跡についてお話しします。この奇跡は、他のどのご聖体の奇跡にもまして、ご聖体に関するカトリック教会の教えが真理であることを証明する信憑性のしるしなのです。

2.奇跡の歴史的事実

8世紀のある日、ランチャーノの教会で、一人の司祭が聖なるミサを捧げていました。聖変化の後、司祭は秘跡におけるイエズスの現存を疑い始めました。すると突然、司祭は、ホスチアが肉に、ぶどう酒が血に変わるのを見たのです。司祭は、呆然となり、衝撃を受け、その奇跡を信者たちに見せました。この奇跡の目撃者となった信者たちは、そのニュースを町中に広めました。これらの聖遺物は、今日までランチャーノで大切に保存されています。

奇跡的な出来事から13世紀を経た今日も、聖遺物は、基本的にそのままの状態にあります。肉は、聖体顕示台に収められています。その大きさは、私たちがミサで使う「大きなホスチア」の大きさのままで、繊維質の外観をしており、色は茶色で、聖体顕示台の後ろから光を当てるとピンク色になります。血は、クリスタルのカリスに収められています。それは、いろんな形や大きさの、五つの小さくて不規則な形の塊に凝固しています。最も大きな塊は、二つの別々のかけらが一つにつながっているものです。

このような奇跡の話は、カトリック教会が作り出したものだと考える人々がいます。あるいは、無知でばか正直な昔の人々が、奇跡でもない出来事を奇跡だと宣言したのだと考える人々もいます。現代の人々は、技術的科学が発達したことで、自分たちが昔の人々よりもっと知能があると、簡単に信じ込んでしまいます。しかし、技術的な進歩は必ずしも知能の進歩を意味するわけではない、ということを忘れています。例えば、スマートフォンを取り上げてみましょう。それが技術的な進歩であることは間違いありません。しかしそれは、現代人が昔の人々よりもっと知能が高くなったというしるしでしょうか。スマートフォンで拡散される、無意味で、偽りの、邪悪な情報が驚くほど多いことを考えれば、「いいえ」と答えるしかありません。

しかし、現代の科学的なデータだけを信じたい人々にとっては、1970年に、そして1981年にも、ランチャーノの聖遺物が科学的に分析されたのは興味深いことです。実施された分析の詳細な記録が作成され、分析結果は、証拠書類とともに提示されました。その分析結果は、非常に興味深いものです。

3.科学的な分析の結果

第一に、この聖遺物は、人間の肉と血であり、血液型はAB型、すなわち、トリノの聖骸布と同じ血液型であることが、分析によって確認されました。奇跡が起きた時の目撃者たちや調査官たちによれば、この肉と血は、最初に、ミサで使われたパンとぶどう酒でした。実際、この肉は今でもホスチアの形をしています。カトリック信者でない人にとっての疑問は、どうしてパンとぶどう酒が人間の肉と血になるのか、ということです。私たちカトリック信者は、その理由を知っています。イエズス・キリストは、ご自分の司祭たちに、ミサで、パンをご自分の御体に、ぶどう酒をご自分の御血に、実体的に変える力を与えられたからです。

第二に、聖遺物の分析により、この肉と血には保存用の物質が含まれていないことが示されました。カトリック信者でない人にとっての疑問は、この人間の肉と血が、13世紀もの間、腐敗することがなかったことがどうして可能なのか、ということです。私たちカトリック信者は、その理由を知っています。イエズスは、ご自分が言われたこと、つまり「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)が真理であることのしるしとして、この肉と血を奇跡的に保存されたのです。

第三に、聖遺物の分析により、この血が新鮮な血と同じ特徴を持っていることが示されました。カトリック信者でない人にとっての疑問は、13世紀も前の血が、どうして新鮮な血と同じ特徴を持っているのか、ということです。私たちカトリック信者は、その理由を知っています。イエズス・キリストは、ご自分がご聖体の中で生きておられることのしるしとして、また、「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51節)というご自分の御言葉が真理であることのしるしとして、この血を奇跡的に新鮮なまま保存しておられるのです。

最後に、聖遺物の分析により、この「肉」は心臓の心筋を薄く切ったものであることが示されました。医師たちによれば、このような切り方を行うことができるのは、適切な器具を持った熟練の外科医だけだ、ということです。しかし、8世紀には、解剖学は知られていませんでした。カトリック信者でない人にとっての疑問は、この肉はどうして心臓の心筋なのだろうか、また、誰が、どのように、それを切ることができたのだろうか、ということです。私たちカトリック信者は、なぜこの肉が心臓の一部なのかを知っています。心臓は愛の象徴です。イエズスがご聖体の中にご自身を現存させられ、ご自身を食べ物として私たちにお与えになるのは、愛からであることを示すために、奇跡的に心臓を出現させられたのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、ランチャーノの奇跡は、ご聖体が、本当に現存され、生きておられ、私たちを愛しておられ、私たちにご自分の永遠の命を与えることを望んでおられる、私たちの主イエズス・キリストにほかならないという現実を、科学的に示しているのです。

今日は特に、主の善性について、ご聖体という賜物について、私たちの主に感謝を申し上げましょう。そして、できる限り信心深くご聖体をお受けすることによって、私たちの救い主の愛にお応えするよう努めましょう。聖心の聖母が、私たちがそれを実行できるよう、助けてくださいますように。

Eucharistic miracle in Lanciano Junior, Public domain, via Wikimedia Commons


ヨゼフ・M・ザイフェルト教授:カトリック教会の全枢機卿への公開書簡:アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪い背教ではありませんか。イエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

2023年06月16日 | カトリック・ニュースなど

ヨゼフ・M・ザイフェルト教授:カトリック教会の全枢機卿への公開書簡

アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪いもの、すなわち背教ではありませんか。預言者エリアや他のすべての預言者のメッセージ、そしてイエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

「フランシスコの奇怪な考えは信仰と道徳を破壊する」

5月3日

Seifert: Francis' Monstrosities Destroy Faith And Morals

現在ミュンヘン大学で教鞭を執るオーストリアの哲学者ヨゼフ・M・ザイフェルトは、5月2日に送った枢機卿たちへの公開書簡の中で、フランシスコは信仰と道徳の基盤を破壊しつつある、と書いています(日本語訳は以下をごらんください)。

ザイフェルトは、「ドゥビア」(Dubia、疑問)を発表した枢機卿たちを除くすべての枢機卿が、フランシスコの問題について、ただ沈黙を守ったままでいることが理解できません。
ザイフェルトの挙げた、フランシスコ教皇の問題の事例は以下の通りです。

◇天主が宗教の多様性を積極的に望んでいる、と主張していること(アブダビ宣言
◇同性愛のカップルを支持していること
◇姦淫など、常にどこでも悪である行為の存在を否定していること(アモーリス・レティチア[Amoris Laetitia])
◇死刑に関する誤った教え(カトリック教会のカテキズム)
◇地獄は空っぽであると主張していること
◇大罪の罪人の霊魂は死後に「破壊」されるという主張(エホバの証人の主張でもある)。

「私の知る限り、教会の歴史上、同様の奇怪な考えを主張した教皇は存在しません」とザイフェルトは説明しています。ザイフェルトは、全枢機卿が一斉にフランシスコに手紙を出し、背教のアブダビ宣言を撤回するよう要求することを期待していたのでしょう。しかし現実には、枢機卿たちは信仰を守るのではなく批判者を沈黙させている、とザイフェルトは付け加えています。

#newsAsvgoolboq

「聖なるカトリック教会の全枢機卿への公開書簡」
(これは、高度な共同責任を負うすべての総大司教、大司教、司教にも宛てられている)

4月30日 シエナの聖カタリナの祝日

カトリック教会の枢機卿猊下、大司教閣下、司教閣下、

私は2年半前、長年の友人関係にあったある一人の枢機卿に宛てて次の書簡をお送りしました。この方は、その少し前に、他の多くの司教閣下や枢機卿猊下と同様に、教皇フランシスコへの批判は根絶すべき大いなる悪であると、インタビューでも発言なさっていました。この枢機卿は私の書簡に極めて好意的に答えてくださいましたが、私の知る限り、何の行動もお取りになっていません。

教皇ベネディクト十六世の逝去と、教皇フランシスコが健康状態が著しく悪化した場合に発効する辞職願にすでに署名したというニュースを考慮すれば、したがって、まもなく招集されるかもしれないコンクラーベを考慮すれば、この書簡の内容はすべての枢機卿、さらには大司教、司教にかかわるものだと私は思います。したがって、私はこの書簡を、どの枢機卿宛てに書かれたものであるかを示すしるしをすべて取り除いた上で、すべての枢機卿、さらには教会においてさまざまな程度で責任を負っておられるすべての人に向けた公開書簡として扱います。

聖霊の御取り計らいにより、この書簡のすべての内容が真理と天主の御旨にかない、聖なる教会と多くの霊魂のために実を結ぶものでありますように、また、この書簡の中の一語たりともキリストの花嫁である教会を傷つけることがありませんように。私がシエナの聖カタリナの祝日を書簡の公表日に選んだのは、地上におけるキリストの代理人としての教皇に対する最も親密な敬愛と、まったく異なる2人の教皇に対する惜しみない批判を一体化させたのが唯一、聖カタリナだったからです。それでは、書簡の本文に移りましょう。例の枢機卿に個人的に宛てた書簡をどうぞお読みください。

○○枢機卿猊下

率直に申し上げますが、教皇フランシスコへの批判について、猊下から出たとされている発言に、私は懸念と悲しみを覚えております。猊下はあるインタビューで、メディアの報道が信頼できるものであれば、教皇への批判は「決定的によくない現象であり、できるだけ早く根絶されるべき」と述べられ、教皇は「教皇でありカトリック信仰の保証人」であると強調しておられます。

猊下が、教皇への批判が悪だと言うことがおできになるのは、どうしてでしょうか。使徒パウロはすでに、初代教皇ペトロを強くかつ公に批判していませんでしたか。シエナの聖カタリナは、2人の教皇をさらに厳しく批判していませんでしたか。

たとえ教皇フランシスコが「教皇」であっても、多くのカトリック信者が彼を批判できる理由を、猊下は理解しておられないようにお見受けします。逆に私は、どう見ても「ドゥビア」の4人の枢機卿以外の枢機卿の方々が、教皇に批判的な質問をなさらずに沈黙を守ったままでおられるのも理解できません。教皇フランシスコの言動には、批判的な質問だけでなく、愛のこもった批判を引き出すべきものが数多くあるからです。教皇フランシスコがグランド・イマームのアフマド・モハマド・アル=タイーブとともに署名した「すべての人々の兄弟愛に関する宣言」を思い起こしてみましょう。それはこう述べています。
【参考:「世界平和のための人類の兄弟愛」に関する共同宣言書】

「宗教、肌の色、性、人種、言語の多元性・多様性は神の叡智が望んだことであ(る)」。
(さらに腹立たしいのは英語版です。The pluralism and the diversity of religions, color, sex, race and language are willed by God in His wisdom, through which He created human beings. 【英語版だけは、宗教だけが religions と複数形になっている。その他の言語では全て単数形。また英語版でも、肌の色、性、人種、言語については単数形のまま。】)

天主が――両性の違いを望まれたように――すなわち積極的なご意志をもって――宗教の違いも直接望まれ、そのため、すべての偶像崇拝と異端も望まれた、と主張することは、異端であり、かつひどい混乱ではありませんか。そうです、アブダビ宣言は異端よりもはるかに悪いもの、すなわち背教ではありませんか。

イエズスの神性を拒否し、至聖なる三位一体を否定し、洗礼とすべての秘跡と司祭職を拒否する宗教を、どうして天主が、その肯定的な創造のご意志をもって、お望みになることが可能だというのでしょうか。あるいは、天主が、多神教や、バアルあるいはパチャママという偶像の崇拝を望まれたということがあり得るのでしょうか。これは、預言者エリアや他のすべての預言者のメッセージ、そしてイエズスの御言葉と完全に矛盾していませんか。

フランシスコがこの「文書」をすべての神学校と神学部の司祭養成の基礎とするよう要求しているとき、枢機卿や司教の皆さまは、断固とした「non possumus」(私たちはできない=拒否)を言うべきではありませんか。

天主は、異端的なキリスト教の信仰告白でさえも、単にお認めになることだけでなく、直接的かつ積極的にお望みになったり、認可なさったりすることなどあり得ません。なぜなら、それらの信仰告白は、「私たちの永遠の救いは天主の恩寵だけによってもたらされるのではなく、私たちの自由な協力と善業を必要とする」という聖書の教えといった聖書的かつカトリック的な信仰の柱を否定するからです。そうすると、キリスト教の信仰の基盤全体とキリストご自身を拒否するような宗教を、どうして天主が直接的かつ積極的なご意志をもって望むことがおできになるのでしょうか。

「教皇が、教皇であり信仰の保証人であること」それ自体は正しいことですが、アブダビ宣言に署名してそれを世界中に広め、またその他にも教会の一貫した教えに反する多くの言動を行った教皇に、この言葉を適用するのは不可能です。

同性愛者の「シビル・アライアンス/シビル・ユニオン」を推し進めるべきだという教皇の発言は、教会の教導権の明確な発言(教皇聖ヨハネ・パウロ二世の教皇在位中に発表された2003年6月3日の同性愛者の同棲の法的認可の草案に関する考察を参照)、とりわけ聖書と教会の聖伝全体に相反しています。枢機卿の皆さまは、アタナシウス・シュナイダー司教が素晴らしいことをなさったように、教皇に対する真の愛の行為を行い、これを公に、そして同司教がなさったのと同じように明確に表明なさるべきではありませんか。

教皇フランシスコは――私は辛くて血を流すような心でこう申し上げます――「信仰の保証人」ではなく、この発言や他の多くの発言で、絶え間なくますます信仰と道徳の基盤を破壊しつつあります。私の知る限り、教会の歴史上、同様の奇怪な考えを主張した教皇は一人もいないのではないでしょうか。私が何年も回心を祈ってきた、深い信仰を持つ親愛なるルター派の友人が、このアブダビ宣言によってカトリック教会はキリスト教の土壌から離れた、と私に書き送ってくるとき、私はどのように答えるべきなのでしょうか。

次期教皇は、フランシスコがすべての司祭の神学校やカトリックの学部に送って【司祭養成の基礎とするよう要求して】いるこのアブダビの教えを、背教として非難しなければならないことは明らかではありませんか。教会がこのようなひどい発言を非難しないのであれば、教会が教皇ホノリウスを限りなく信仰から逸脱したとして断罪したことを、どのように正当化できるというのでしょうか。全枢機卿が一斉に教皇に手紙を出し、この使徒的宣言の撤回を求めなければならないのではありませんか。

イエズスの御言葉と正反対のことを述べるアブダビ宣言に対して猊下が抗議なさらないのなら、イエズスの荘厳な【以下の】宣教命令をどのようにして果たすことができるのかとキリストに問われるであろうその瞬間を前にして、枢機卿の皆さまは震え上がらなければならないのではありませんか。

「そののち、十一人の弟子が食卓についているときもイエズスは現れ、…そして言われた。『あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる』」(マルコ16章14-16節)。

猊下も、「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)以降に、カッファーラ枢機卿――彼は死の前夜にも私に電話をかけてこられ、私は真理を擁護し続けることを約束しなければなりませんでした――と他の3人の枢機卿の方々のまったくもって正当な「ドゥビア」について、どうして沈黙したり、あるいはこれらの「ドゥビア」を批判したりすることさえおできになったのでしょうか。

「アモーリス・レティチア」にある道徳的・神学的な異端についての丁寧な疑問を定式化なさったのは、つまり、暗黙の本質的に悪しき行為を否定なさったのは、全枢機卿のうち、4人の「ドゥビア」の枢機卿だけです。善の輝きと、悪しき行いが常にどこにでも(ut in omnibus)存在することは、ソクラテス以来、すべての倫理学の礎石と認識されており、教皇聖ヨハネ・パウロ二世が倫理学と教会の道徳的教えの不動の基盤として教えておられたものです。

全枢機卿がカルロ・カッファーラ枢機卿と他の3人の「ドゥビア」の枢機卿に同意され、この明確化を要求され、それによって教皇が真理を宣べ伝えるのをお助けになるべきではなかったでしょうか。全枢機卿が一斉に立ち上がり、バーク枢機卿が予告されながらも実行なさらなかったfraterna correctio(兄弟的矯正)を支持なさるべきではなかったでしょうか。

この中心となる道徳的問題についてもしも教皇が沈黙するなら、4人の枢機卿が教皇に対して「兄弟的矯正」correctio fraternaを行うだろう、とバーク枢機卿が予告なさったのですが、この「兄弟的矯正」は、バーク枢機卿の側でも他の枢機卿の側でも、これまで何年も行われてはいません。ですから、少数の信者と司祭がさまざまな宣言でこの逸脱した教理を批判し、いわば、枢機卿の方々の代理として、真理と信仰の遺産(depositum fidei)を守るために介入してきたのです。それは、信者がかつて、アリウス派の異端に直面して、教皇リベリウスと大多数の司教が弱腰であったとき、聖アタナシウスと他の少数の忠実な枢機卿とともに行ったのと同じです。

しかし、(当時まだモンシニョール・)カルロ・カッファーラが愛情に満ちたユーモアで私に電話をかけてこられたように、私たち「あわれな平信徒 miseri laici」の代わりに、枢機卿の方々には、真の信仰のために血を流す覚悟を持つべき義務がおありではないでしょうか。教皇批判者たちが、教皇フランシスコが異端の多くを犯したこと、少なくとも異端を示唆したことを証明している異端に対して声を上げる覚悟を持つべき義務がおありではないでしょうか。教皇の発言を批判することを禁止するのではなく、むしろ兄弟として、あるいは子として教皇をいましめるという掟がおありではないのでしょうか。

ところが今、皆さまが声をお上げになるのは、defensio fidei(信仰の擁護)のためではなく、これらの批判者を沈黙させるため、まさにすべての批判を「根絶」しよう望んでいるためではないでしょうか。

他の多くのケース、例えば、教皇がカトリックのカテキズムに神学的、教会学的に間違った変更を恣意的に導入した場合、すべての枢機卿には抗議する必要がおありではないでしょうか。その恣意的導入は、聖書の中の天主の明確な言葉(すでに創世記の中にある)と、絶え間ない聖伝と歴史的事実の中で形成された死刑に関する教皇の多くの教理的発言に矛盾しています。また、イエズスの多くの力強い御言葉やカトリック教会の教義に反しているにもかかわらず、教皇が、空っぽの地獄について語ったり、エホバの証人のように、矯正できない罪人の霊魂は地獄に行かず破壊されると主張したりするとき、全枢機卿が抗議すべきではないでしょうか。

親愛なる友人の皆さま、アブダビにおいて明示的ではないにせよ、暗黙のうちに唯一の真の教会の存在と「unam sanctam, catholicam et apostolicam ecclesiam」(一[いつ]、聖、公、使徒継承の教会)に対する信仰を否定し、イエズス・キリストと教会の教えの支配者のように振る舞う教皇と、多くの沈黙する枢機卿というこのシナリオは、私のような多くの信者を悩ませるものであり、私たちの信仰を危険にさらし、教会と霊魂に計り知れない損害を引き起こすものです。

私は皆さまに、揺るぎない真理のために声を上げ、また、他の枢機卿に対して、機会を見て真理を語るように動かすことをお願い申し上げます。たとえそうすることが、私たちがそのただ中にいる教会における恐るべき危機と離教を明らかにし、また一部の「小さな霊魂たち」(pusillae animae)がその中に誤解してつまずきを見るとしても、です。

これは、南米人の教皇の文化的な問題ではありません。趣味やスタイル、気質の問題ではありません。いいえ、それは、すべての民族と国々に「キリストを信じる者は救われるが、信じない者は滅ぼされる」という福音を宣べ伝えるように言われたキリストに対する「はい」か「いいえ」なのです。教皇は、アブダビ宣言によって、この宣教命令を事実上(de facto)破棄することができるのでしょうか。

教皇は、聖書の、そして教会の道徳的教えの核心や、各回勅「フマネ・ヴィテ」(Humanae Vitae)、「いのちの福音」(Evangelium Vitae)、「真理の輝き」(Veritatis Splendor)と矛盾する道徳の神学者たちを教皇庁生命アカデミーに任命し、さらには自らがほめたたえて表彰することまでできるのでしょうか。枢機卿の皆さまは(特に、教皇聖ヨハネ・パウロ二世と教皇ベネディクト十六世の下で長年働いてきて、教会に忠実に仕えてこられた皆さまは)、この件と、他の多くの「聖所の荒廃」について、教皇が公然と、あるいは暗黙のうちに、言葉や行動(たとえば宗教改革を祝ったり、バチカンにルター像を建立したり、宗教改革を祝う切手を発行したり、バチカン庭園と聖ペトロ大聖堂でのパチャママ崇拝など)によって信仰に逆らっていることについて、多くの信仰の真理を宣言するために可能なあらゆることをしようとしなければならないのではないでしょうか。なぜ批判的な信者や神学者よりもずっと多くのことをなさらずに、沈黙したままでおられるのでしょうか。そして、自らの教理の確かな羅針盤を聖書の真理や教会の不変の教義にのみ見いだすように、また、信仰の本質は言うまでもなく、それらを一点一画たりとも変えることを自らに許さないように、教皇に懇願するだけなのでしょうか。

キリストの花嫁である教会の多くの傷に対する深い悲しみにおいて、また、イエズスと、イエズスがペトロの岩の上に立てられた教会に対する愛情において。

キリストにおいて
ヨゼフ

追伸:私は、イエズスへの、マリアへの、至聖なる三位一体への、教会への、教皇の霊魂への、そして他の多くの霊魂への愛の行為となる、言葉と行いによる皆さま方の応答を、心の奥底から望んでおります。聖ヨハネ・パウロ二世とともに、私は皆さま方に「corraggio!」(勇気をもってください!)と呼びかけます。真理のために、キリストと教会のために、またフランシスコ教皇の霊魂を含む霊魂たちのために、そして真理においてのみ可能なすべてのキリスト教徒の一致のために、勇気をもって遠慮なく戦ってください。

キリストにおいて皆さま方と深く一致している
ヨゼフ


ヨゼフ・M・ザイフェルト教授(博士号・大学教授資格取得、名誉博士)。現在、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで哲学を教えている。

Seifert: Le Mostruosità di Francesco Distruggono Fede e Morale.

カトリック教会の4名の枢機卿から教皇フランシスコへの公開書簡:「アモーリス・レティチア」における結び目を解く要請 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

教皇フランシスコの教皇職に関する聖ピオ十世会総長とのインタビュー:私たちはこの世に屈することなく、キリストにおいてすべてを総括しなければなりません - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

フランシスコ教皇聖下とグランド・イマームとの「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」(2019年2月4日)に関連した聖ピオ十世会総長のコミュニケ:まことの兄弟愛 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


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