Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2019年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月 聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2019年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  8月2日(初金)教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月11日(主)聖霊降臨後第9主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月12日(月) 童貞聖クララ(3級祝日)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月18日(主)聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午後5時半 ロザリオ及び告解
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月19日(月) 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
          午前6時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

  8月4日(主)聖霊降臨後第8主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  8月5日(月)  雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
          午前7時 ミサ聖祭

  8月18日(主)  聖霊降臨後第10主日(2級)緑
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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謙遜について : ピーター・フォルティン神父様 2019年8月18日聖霊降臨後第十主日の説教 

2019年08月19日 | お説教・霊的講話
2019年8月18日(主)聖霊降臨後第十主日の説教 
聖ピオ十世会司祭  ピーター・フォルティン神父様


本日の福音において、私たちの主は、私たちにけんそんについての美しい教訓を与えてくださっています。このメッセージは、このあわれな罪びと、すなわち税吏(みつぎとり)にとって喜ばしいものですが、この高慢な男、すなわち自分のことを実際よりも良い人間だと思っているファリザイ人にとっては警告を与えるものです。このたとえにおいて、私たちの主は、けんそんな罪びとの方が、自分のことを聖にして義であると思っている高慢な男よりも嘉せられるということを明確になさっています。これらの二人の男を見ることで、教会はけんそんの徳の重要性を強調したいと望んでいるのです。

福音にでてくるこの二人の男を比べると、例えば、天主に対する敬意や寛大さのような他の聖徳においては似ているところがあります。しかし、違いのポイントはけんそんであり、けんそんがその差を作り出しているようです。高慢な男はけんそんの徳を、弱いもの、不合理なもの、あるいは誤りと考えています。私たちには、一人が天主の国に属しており、もう一人がサタンの国に属していることがはっきり分かります。サタンの国では高慢とうぬぼれだけしかなく、天主の国ではけんそんが支配しているのです。



サタンは天主に対して反乱を起こすことによって自分の国を造りました。「Non serviam. 私は仕えない」とは、サタンが天主に対して言っていることです。これがサタンの国の標語です。サタンは、高慢とうぬぼれを通して人間を誘惑します。この世は悪魔の支配地であって、天主に対するけんそんも敬意も従順もまったく知らないのです。

他方、天主の国の創立者は、私たちの主イエズス・キリストです。創造においても、その完全さにおいても限りを知らない天主の御子です。それにもかかわらず、主は、人間の本性を、奴隷の本性をお取りになって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでけんそんに御自らを低くされます(フィリッピ2章7-8節参照)。主は、「私は柔和で心のけんそんな者であるから、私に習え」(マテオ11章29節)と言うことがおできになりました。主は人間に仕えられるためではなく、人間に仕えるために来られました(マテオ20章28節、マルコ10章45節参照)。それは、主がご自分の命令に従う何百万もの天使をお持ちであるにもかかわらずです。私たちには、この二つの国に大きな違いがあるのが分かります。一つには高慢とうぬぼれ、不従順という特徴があり、もう一つにはけんそんと素直、従順という特徴があるのです。

けんそんのことを正しく理解することは最も重要です。これを誤った慎み深さと間違える人たちがいるかもしれません。けんそんは、他のすべての聖徳の基礎です。けんそんとは、簡単に言えば、私たちが自分をありのままに見ることです。私たちは無であり、弱いものでありながら、しかしまた私たちには様々な能力、強み、その他数多くの恩寵が与えられているということを認めることです。けんそんな人は、自分が達成するあらゆる業績があろうとも、そのすべての業績が天主のみから来ることを知っています。聖母の例を挙げるなら、聖母は被造物としてのご自分の卑しさを知っておられましたが、また天主の御母になるためにご自分に授けられた大いなる栄光も知っておられました。聖母はご自分のけんそんを、「主は、はしための卑しきを顧み給えり」(ルカ1章48節)と表現され、それからご自分へのお恵みを、「今よりよろず世に至るまで、人われを幸いなる者ととなえん」(同)と表現されました。この聖母の祈りの最初の部分は、けんそんの祈りです。

けんそんは、力強いキリスト教的生活のための基礎です。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの聖徳に倣うことによって天主にもっと近づくために聖徳の塔を打ち立てたいと望むなら、私たちはけんそんという力強い基礎を持たなければなりません。私たちは、天主に対する態度、隣人に対する態度、自分に対する態度において、けんそんでなければなりません。

第一に、私たちの天主に対する関係においてです。天主は創造主であり、私たちは被造物です。天主は父であり、私たちは子どもです。けんそんは、私たちが天主と接触を持つために必要です。私たちが天主に従順であることができ、天主のご意志を遂行することができるのは、けんそんによってです。けんそんによって、私たちは天主に奉献され、私たちは天主を敬い、私たちは自分の意志と知性を服従させることによって天主を信じるのです。高慢な人は信仰を持つことができません。なぜなら、より高い意志に服従することができないからです。これが、私たちの主とファリザイ人の間にあった大きな困難だったのです。祈りはそれ自体、天主とのけんそんな会話です。私たちには、秘蹟を受けるために、特に悔悛の秘蹟を受けるためにけんそんが必要であり、この秘蹟によって、私たちはみじめな罪びとであって天主の御あわれみを必要とすることを認めるのです。

次に、私たちには、私たちの仲間との関係のために、けんそんが必要です。誰も、うぬぼれの強い高慢で自慢したがる人と一緒にいたくはありません。そのような人は自分のことしか考えていません。けんそんな人は、気立てがよく、権威と他人を尊重し、仲間のことを良く思います。隣人愛の基礎はけんそんです。聖パウロが愛について書くとき、その主な特徴は、けんそんであると言っています。「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、…」(コリント前書13章4-5節)。

最後に、私たちには、自分自身のためにけんそんが必要です。高慢は、人の性格を駄目にします。高慢な人は、自分のことを知らず、限度を知らず、自分の過ちを認めません。高慢のすぐ先には人間の堕落が待っていますが、けんそんは他の聖徳に到達するのにまず必要なものなのです。


けんそんは、救いに大変必要な聖徳ですから、それを得るにはどのようにすればいいのでしょうか? 他の聖徳のように実践を必要としますが、聖なるミサに参列し、聖なるミサの五つの部において、キリストのけんそんに、じかに接して学ぶことによって、それを得ることができます。

聖なるミサの始まりには、司祭の登壇の前に、大いなる敬意をもって祭壇の下で祈りが唱えられます。すぐに、司祭はおじぎをして、コンフィテオールの祈りを唱えて自分が罪びとであると告白し、そのあと、キリエで天主の御あわれみを願い、グローリアで天主への特別な敬意を表します。書簡と福音からの教えでは大いなるけんそんの意識が必要とされます。それは、天主の知恵という、私たちが持っていないものを受けるからです。書簡のときに座り、聖福音のときに立つのは、私たちがキリストのみ言葉を最高の注意を払って聞くという、このけんそんのしるしです。



聖なるミサの奉献誦においては、私たちは、自分を奉献されるパンとぶどう酒に一致させ、自分を奉献して自分を完全に明け渡すのです。この祈りは、「けんそんの精神によって、痛悔の心をもって捧げ奉るわれらが御前に受け入れられ、われらのいけにえが御身に嘉せられるものとならんことを」というものです。

そのあと、聖なるミサの最も聖なる部である聖変化においては、私たちの主が祭壇の上に現存されますから、私たちには最高の敬意が要求されます。この聖なる神秘を告知するために、「天使らは、御身の天主なる御稜威をほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく」。これは、典文の間、私たちがとるべき態度を表しているのです。



そして、私たちが私たちの主を受けるとき、「Domine non sum dignus!」。主よ、われふさわしからず! 非常に直接的なけんそんの表現です。私たちは、まったくふさわしくないにもかかわらず、私たちの主は非常に良きお方でいらっしゃるので、私たちのところに来てくださるのです。

締めくくりに当たって、私たちの主の生涯における二つの事例を引用することにしましょう。
1)使徒たちは一度、第一の座すなわち名誉ある座[に誰が着くのか]について議論していました。私たちの主は小さな子どもを呼んで彼らの真ん中に立たせ、こう言われます。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて、小さな子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。誰でも、この小さな子どものようにけんそんである人が、天の国でいちばん偉い人である」(マテオ18章3-4節)。

2)第二の事例は最後の晩餐のとき、私たちの主が使徒たちの足を洗うことによって、御自ら奴隷の仕事をなさることです。私たちの主はこう説明されます。「あなたがたは私を先生または主と言う。それは正しい、そのとおりである。私は主または先生であるのに、あなたがたの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならぬ。私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章13-15節)。これが、主がご受難を始められる前に教えられた、主の偉大なる掟です。

私たちは、すべての聖徳において主にもっと近づくためには、聖なる典礼および私たちの主の生涯から、主のけんそんにおいて主に倣うことが第一に必要だということを知るのです。私たちの主イエズス・キリストのこの偉大なるけんそんによって、主は私たちに触れることがおできになり、私たちのけんそんによって、私たちは主の方へと高められていくことができるのです。
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聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、愛徳と信仰によってこの世に打ち勝ち、たった一人で、フランス革命が起こるのを遅らせた。

2019年08月15日 | お説教・霊的講話
2019年7月19日(金)証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロのミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月19日、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ証聖者の祝日を祝っております。今日この御ミサの後で、いつものように感謝のお祈りがあり、その後にいつものように聖務日課の終課を皆さん一緒に祈りましょう。

明日も10時半からミサがあります。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖伝の御ミサにようこそ。このラテン語のミサは世界で、キリスト教と名前が付く典礼の中で一番歴史の古いものです。ローマの最も初期の時代から、このミサがこの形で行なわれていました。特にこの中核の典文、「カノン」と言われている部分は、言語学者によれば、「おそらく聖ペトロに由来している」と言われるほど非常に古いものです。

つい最近文化財になった近畿地方の古墳も古いものですけれども、この聖伝のラテン語のこのミサはもっと古いものです。約2000年の歴史を持っています。

これは「ラテン語のミサ」とも言われていますが、本当はラテン語のミサではありません。ラテン語とギリシャ語とヘブライ語の、3つの言葉が入っています。十字架の言葉が使われています。

今日はこのミサでは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという有名なフランスの聖人の祝日を祝っていますので、今日、

⑴この方がどういう人だったのか?という事を垣間見て、

⑵そしてこの方の事を聖伝のミサでは、どのように描写しているのか?

⑶そして最後に私たちは、一体2019年の今日、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに何を教えているのか?という事を黙想したいと思います。


⑴聖ヴィンセンチオ・ア・パウロという方は、生まれた時には貧しい羊飼いでした。しかしこの子供の頃から、貧しい人に対して非常に優しい態度を取る子供でした。この態度は、特に貧しい人、可哀想な人たちに対する特別の優しい愛情というのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは一生忘れた事がありませんでした。

大きくなると神学を勉強します。非常に優秀で、司祭になりますが、司祭になるや、トルコ人の手に落ちて、そして奴隷となってしまいます。奴隷となってその主人を、やはり愛徳を以て、カトリック信仰を以て接した結果、この主人がカトリックになります。そして一緒になってローマに逃亡します。

その次にフランスに逃げて戻ってきます。なぜかというと、主人が「イスラム教を捨てた」という事になると、大きな社会的な制裁が待っていたからです。

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはフランスに戻ると、ある小教区の主任司祭になって、そして船を漕ぐ人々の指導司祭、つまりチャプレンになります。

また聖フランシスコ・デ・サレジオの依頼を受けて、40年間、訪問童貞会のシスターたちの霊的指導者、指導を非常に素晴らしく、賢明に行ないます。

この司祭生活の間、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、イスラム教徒の奴隷となったカトリック信者を贖って、その身代金を払って、それを解放するように努めたり、あるいは捨てられた子供たち、孤児の面倒を見たり、あるいは危険、身の危険のある青少年を守ったり、あるいは不幸にも身を堕としてしまった少女たちが、身を持ち直すように尽くしたり、あるいは巡礼者の世話をしたり、病気の人々の看病をしたり、あるいは施したり、貧しい人には、乞食ものもらいの人々には、何とかその彼らの生活が立ち行くようにと、非常な努力をしました。また頭のおかしい狂ったような人にも優しく尽くしました。

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのその愛徳の行ないは、フランス全国に広まりました。その当時フランスは、フランス革命の前でしたが、飢饉や社会的な気候の悪さなどで、貧しい人もいました。あるいはペストもありました。そのような苦しい人や貧しい人たちを、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは献身的に助けていました。

この愛徳の業によって、特にフランス王ルイ13世の死の床に付き添ったその愛徳の業によって、特にフランスの王家、王室の信頼を受けて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロに、このフランスの司教を誰にするか、あるいはフランスの教会の名誉ある地位モンシニョール、あるいはそのような地位を誰が受けるかという事は、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが承認しなければそれができないほど、権威のある地位を続けていました。

貧しい聖ヴィンセンチオ・ア・パウロですが、その手は、フランスの王の、あるいはフランスの貴族たちの献金や、あるいは援助がスルッと、ものすごく莫大な富が、貧しい人たちの方に流れて行きました。その莫大なお金や、あるいは地位や、その司教様の任命などについての権威を持っていたにも関わらず、自分は非常に謙遜で、清貧で、そして柔和で、いつも特に貧しい人たちに対する優しさと慈しみをたたえていました。

自分が小さい時も貧しかった時も、地位のある今でも、いつも同じ優しさと、謙遜を、清貧を保っていました。

1633年には、愛徳姉妹会を創立しました。また司祭たちの会、ラザリストというミッション会を創ります。特に愛徳姉妹会の創立300周年の時には、1933年、大阪には愛徳姉妹会がシスターたちが最初に日本で修道院を設置して、日本でもその活動を開始しました。

このロザリオの前に会長が私たちに教えて下さったように、聖カタリナ・ラブレに聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは現れて、不思議のメダイを受けるその準備をされます。

こうして歴史家によると「聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはたった一人で、フランス革命が起こるのを遅らせた」と言われています。


⑵では一体、カトリック教会はこのミサで、どのように聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの事を誉め称えているでしょうか?

入祭誦はあたかも、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは主の庭園に咲く大きな棕櫚の木、あるいは杉の木であるかのようです。大木で、その枝は世界中に広がっているかのようです。日本にもその愛の枝が届きました。実りが届いています。

書簡では、聖パウロの言葉を借りて、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに語りかけているかのようです。
「自分は貧しく、自分は馬鹿にされて、あたかもこの世で死んだかのようであるけれども、悪口を受ければ祝福する、死んだ者であるかのように思われているけれども、実は生きていて、他の人たちに善を施している。」

あたかも聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのようです。私たちもその、「この彼に倣うように」と招かれているかのようです。

聖福音ではイエズス様が私たちに、「主の畑で働く人たちが足りない。だから働く人たちが送られるように祈れ」と言っているこの言葉を聞きます。

「まさにこの主が求めているのは、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのような、愛の、主を愛するが故に隣人を愛し、そしてこの世の全ての富を主の為にのみ使う、自分の事は一切忘れる、その奉献の献身的な精神の司祭が必要だ。働き人が必要だ。だから私たちは、そのような聖なる司祭が、聖なる働き手が出るように祈れ」と招いているかのようです。

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは当時の人々から、「ムシュー・ヴァンサン」と、「ヴァンサンさん」と言われて、非常に愛されていました。フランス語で「ヴァンサン Vincent」というのは、ラテン語の「Vincens」と言う言葉に由来しています。「Vincentius」というのは、これは「勝った、勝つ」「愛徳によってこの世に勝った、愛と信仰によってこの世に打ち勝った」という事です。


⑶これは私たちに今日現代、何を教えているでしょうか?

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは、1660年9月27日に亡くなります。フランス革命はその約130年後に起こります。

フランス革命の時に聖職者がやった事と、多くの聖職者たちがやった事と、聖ヴィンセンチオ・ア・パウロのやった事というのは、全く反対だったという事を思いました。

本来ならカトリックの聖職者こそが、革命が起こらないように阻止すべきだったにも関わらず、却って当時の聖職者たちは「啓蒙思想」、啓蒙主義思想というものに犯されて、それに感染して、その毒を飲んで、その思想に染まっていて、その啓蒙思想に従って行動してしまいました。

そこで司祭たちが、本来ならば天主の作ったその秩序を守るように、あるいは天主の御旨を尊重する代わりに、例えば司祭たちが、司祭たちの身分を議会で離れて、第三部会と言われる、「貧しい一般の市民たちの方に、自分は交流する」と言うのです。

司教様たちは司祭たちにそうしてはならないと言いました。確かに貧しいお金のない司祭だったのですけれども、やはり司祭は司祭です。一般市民とは違う、司祭は司祭でした。聖職者でした。

しかし司教様から「彼らに行ってはいけない。お前たちは聖職者だ」といわれても、「いや、私はあなたと同じ市民です」と答えて、第三部の方に行ってしまいました。残念ながら、聖職者がフランス革命を引き起こしてしまった、と言う事ができるかもしれません。

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロは私たちに今日、「そうではなくて、」その革命の結果、何を言ったかと言うと、「貧しい人たちを助ける」という名目で、「国民の為」という名目で、「私たちは、その自分の持っている財産を国家にあげる教会」という事で、カトリック教会は財産を持つ事ができなくなりました。

そして今まで教会が持っていた財産、あるいは司祭が持っていた財産、これは「司祭のもの」というよりは、「貧しい人たちのもの」でした。「財産を持ってない人たちを助ける為のもの」でした。

それが全て没収され、国営のものとなり、そして遂には破壊され、「愛徳」という国民を助けていた福祉の、無料の福祉、無料の教育、あるいは人々との繋がりというセメントの絆の役割をしていたものを、全て聖職者たちが放棄してしまい、破壊してしまいました。

聖ヴィンセンチオ・ア・パウロはその反対を行きました、「これは自分のものではない」だから「自分が勝手に放棄するものではなくて、自分が与えられたその地位を使って、それを利用して、貧しい人たちを優先的に助ける。自分の所には何も留まらずに、全て流していた。」

これによってフランスでは多くの方が、そして世界中で、この聖ヴィンセンチオ・ア・パウロの精神を、これを果たそうとする多くの方々が、多くの利益を、霊的な、物体的な物質的な利益を得ました。

では私たちも、このような聖なる聖職者が日本から、世界中から出ますように、お祈り致しましょう。マリア様の御助けと御取次ぎを願って、第2、第3、第4の聖ヴィンセンチオ・ア・パウロが私たちに与えられますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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「罪の精神」「悪魔の精神」によって、人間の「命」のみならず、人間の「本性」「人間自身」が今、尊重されていない。ビルコック神父様霊的講話

2019年08月11日 | お説教・霊的講話
2019年7月15日(月)聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様霊的講話
「私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対とかだけではなく、命に逆らう全ての『文化』というものに対する、反対を表明するもの」

同時通訳:小野田圭志神父




親愛なる友人の皆さん、フランスでは数日前に、ある一人の人が亡くなりました。普通、多くの人は亡くなっています、毎日たくさんの方が数秒ごとに亡くなっています。

この数日前に亡くなった人は、とても特別なケースで、ヴァンサン・ランベール(Vincent Lambert)という名前の人です。このヴァンサン・ランベールという方は、数年前に結婚した方ですけれども、車の事故で非常に大きな負傷を負って、そして植物状態になりました。

このヴァンサンさんは10年間、病院で生活をしています。意識はないのですけれども、しかし治療をする必要はありません。何か、ただヴァンサンさんに必要なのは、栄養分を摂って、水を補給されることでした。そうすれば、それで生きていました。

ところで、家族でちょっと意見の相違が生じました。ヴァンサンのご両親は、「そのまま養分を与えて、水を与えて、生かしてあげたい」と考えます、ちょうど赤ちゃんのように。ところがその結婚した奥さんは、「いや、もうこれは十分だ。ご飯もあげないし、水もあげたくない」と言います。

家族のこの言い分が結局、家族内で収まらずに、これが裁判に持ち込まれました。色々な裁判があったのですけれども、ついに最近、裁判官が、「このヴァンサンさんの栄養を与えるのを中止しなさい」という命令を出しました。その為にヴァンサンさんは亡くなりました。

国家がこのヴァンサンさんに、医療行為を禁止したのではなくて(その必要はなかったかので)、「ただ、栄養を与える」のを禁止したからです。

残念な事に、フランスの司教様たちはこの事について声を上げずに、裁判にも国家に対しても、影響を及ぼす事をしませんでした。

ですからこれは殺人のケースでした。確かに生きている人を殺してしまいました。食べ物を与えない事によって。

フランスでは35年前、ヴェイユという名前の大臣が堕胎を導入しました、立法化しました。今ですからこのヴァンサンさんのケースを使って、少しずつ国家は、自分の事を守る事ができない無抵抗の老人や病気の人を殺そうとする事を、殺人を立法化しようと、合法化しようとする動きがあります。

フランスで今このような事がなされていますけれども、既にオランダでは、例えば「薬を投入する事によって、老人や病の人を殺す、殺害する」という事が許されています。

西洋ではもはや今後、罪のない人たちに対する生命の尊敬は、敬意はありません。

例えばフランスでは、あるいはヨーロッパでは、強盗、あるいは強姦犯、あるいは幼児の虐待をする人々、あるいは本当に犯罪者が、確かに裁判所では断罪されますけれども、面白おかしく生きる事ができます、生き延びる事ができます。

しかしその反対に、罪の無い赤ちゃんたちが堕胎によって殺されて、あるいは罪の無い老人、病の人が殺害されています。

人間の「命」のみならず、人間のこの「本性」、「人間自身」が今、軽蔑されています。つまり尊重されていません。この「自然、人間の本性」というものが尊重されていないが為に、新しい法律、新しいものが今導入されつつあって、例えばジェンダーという考えが導入されて、そして本当は婚姻という事はできないのですけれども、「誰とでも、自然と反して、カッコ付きで〈結婚〉できる」という法律が今成立しています。

このような出来事は「全て」なのです。つまりこれはただ単に、「堕胎」とか、あるいは「同性愛の〈結婚〉」とか、あるいは「安楽死」とか、そういう一つ一つのただケースではなくて、これは全てを含む「精神」その「考え方」があります。

これは、「罪の精神」であって、「悪魔の精神」です。

この聖書によれば、アダムとエヴァが最初に罪を犯した、その直後に犯した罪というのは、「殺害」でした。兄弟殺しでした。アベルがカインによって殺されました。

悪魔が人間の世界に導入させようとした「罪」という事と、「人間の命の破壊、殺害」という事は、非常に緊密に結び付いています。

天主の十戒を見ても、それは「命」と非常に密接に関わっています。

まず最初の三つの掟は天主に関するものですが、それは「私たちに命を与えて下さった天主に、礼拝を捧げる」というものです。

第四の掟では、私たちは両親を尊敬しなければなりませんが、なぜかというと、「両親は私たちに、命を与えてくれたから」です。

第五戒には、私たちは「人を殺してはならない」とありますけれども、なぜかというと、「命というのは、私たちに属するものではなくて、天主のみに属するものであるから」です。

そして第六戒、第九戒は、「命の伝達に反する行為」について、私たちに禁止しています。

そして第七戒、十戒は、私たちが良い普通の状況で生活する事を邪魔するような、盗みなどについて禁止しています。

第八戒では、これは非常に固有のものですけれども、私たちの精神的な生命、「知性の命」について、「嘘をついてはいけない」それを守る、「知性的な命を守る為」にあります。

ですから、「命を攻撃する時」というのは、「罪の精神がある」という事です。そしてこれは自由を求める、「自由放埒の精神」であって、そして「個人主義の精神」です。

なぜ女性は、子供がいらない、子供を堕胎しようと思うのでしょうか?
なぜかというと、自由になって、自分の好きな事をしたいと思うからです。

なぜ老人を邪魔者扱いにして、この世から消そうとするのでしょうか?
なぜかというと、それは重荷であって、自由を奪うものであるかのように思われて、そして私たちがこの世を楽しんだりするものの邪魔者だからです。そして私たちが個人で、個人的に、個人主義を、自分の思い通りにする事を妨害するからです。

この「自由の精神」というのは、すなわち、『革命の精神』です。

『革命の精神』というのは何かというと、単的に言うと、『人間が天主となろうとする事』です。
「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとする」それが革命の精神です。
これは啓蒙精神であって、そしてもっと遡れば、たとえばデカルトが、「私たちは自然に服従しなければならない」と言ったその精神です。

この人間主義、あるいは人間中心主義というのは、結局は「人間の死」に行き着きます。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になります。

なぜかというと、「命」というのは、私たちに「喜び」と、そして「幸福」を与えてくれますが、「死」は、私たちに「不幸」を与えるのみだからです。

ですから、「死の文化」という今私たちが住んでいる、生きている現代社会というのは、「組織化された自殺」「人類の自殺の文化」です。

ですから私たちが今やろうとする、この「マーチ・フォー・ライフ」というのは、単なる堕胎反対とか、あるいは安楽死反対というものではなくて、そうではなくて、この「命に逆らう全てのこの『文化』というものに対する、反対を表明するもの」です。

私たちはこのような事、このマーチなどをして戦う事が必要です。なぜかというと、確かにこう「堕胎」とか、あるいはその他の「殺人」、「殺害」はありますけれども、しかしその「全体的な精神」というのを、この目で見る事はできないからです。

このまずマーチに参加するという事は、命の為の行進に参加するという事は、勇気のある事です。なぜかというと、国の定めた法律に反対の声を上げるからです。それと同時にこのマーチは、皆さん自身を守る戦いです。何に対して守るかというと、私たちの「知性」、そして私たちの「意志」を、この「罪の精神」から、「自由放埒を求める精神」から、「革命の精神」から、あるいは「個人主義の精神」から守る戦いです。

聖フィリッポ・ネリは毎朝、こうお祈りしたのです、「主よ、この哀れなフィリッポをお守り下さい。御身の助けがなければ今晩、私はきっとイスラム教徒になっているでしょう。」

そしてですから皆さんも、このマーチに参加しながら、どうぞお祈りなさって下さい、「主よ、主によって、私たちが守られますように。」「アメリカの精神から、あるいは西洋の自由、個人主義第一の精神から守られるように」と、お祈りなさって下さい。

またこのマーチというのは、あるいはプロライフというのは、何か「自然なものを守る」というだけではありません。これは「超自然の行為」であって、そして「信仰宣言」です。

私たちの主はこう言いました、「私は命である。」また最後の福音でミサの時にこう読む所では、毎日司祭はこう言います、「彼は命であった。人間に与えられた命であった」と。

私たちは命を「持って」いますけれども、天主は命を「持って」いません、天主御自身が「命である」からです。「人間の命」というのは、天主によって、その似姿に従って創られた創造されたものであって、全て天主に属しています。「天主のもの」です。

天主は命です。そしてこの命である天主が、人間となりました。天主の命が、人間の命となりました。そして天主の命が人間となって、私たちに、「どれほど、人間の命がこの御自分にとって大切なものであるか」という事を御見せになりました。

主は、私たちの命を贖う為に、救う為に、この地上にやって来られました。主は人間となって、この子供の赤ちゃんの時代から、全ての人生の段階を経て、体験なさいました。

主は、童貞聖マリアの御胎内に御孕りになりました。この「マリア様の御胎内に隠された状態がどれほど大切だったか」という事は、まずマリア様の御胎内におられながら、母の胎内の中にまだ居た、洗者聖ヨハネの罪を赦しました。

また主は、色んな方々の命を救おうとされました、公生活の時に。福音書を見ると、どのページにも、病の人、あるいは癩病の人、あるいはその他患っている人たちが、主の元にやって来て救いを求めると、主は彼らの命を癒します。

更に素晴らしい事は、既に死んでいた方に命をもう一度与える、という事も何回かされました。例えばラザロとか、あるいはナインの息子などです。

こうやって復活させる事によって、「主が、人間の命をどれほど大切にしているか」という事を見せました。

あるいは堕胎、あるいは安楽死によって、人間の命を軽蔑する人々は、私たちの主の、イエズス様のなさった仕事、御事業をも軽蔑します。そして遂にはこのような人々は、私たちの主イエズス・キリスト御自身も軽蔑します。

では、何で主は、「人間の命がそれほど大切だ」という事を思ったのでしょうか?

なぜかというと、「体」を生かしているのは、「霊魂の命」だからです。「霊魂の命」というのは、「霊的な命」です。

そしてこの「霊的な命」というのは、不死で、死ぬ事がありません、消滅する事がありません。肉体は滅ぼす事ができますけれども、しかし霊魂を消す事はできません。

ところで、人間のこの命を、取り外す事なく、霊魂を殺す事ができます。

「霊魂を殺す」とはどういう事でしょうか?

これは、「私たちの霊魂に、天主に対する敵対を置く事」で、つまり「私たちを、罪の状態に置く事」です。私たちが罪の状態にいる、霊魂が罪の状態にいるという事は、この報いとして、「永遠に地獄に行かなければならない」という報いが待っています。

ですから、「死の文化」というのは、「罪の文化」のみならず、「地獄の文化」です。

レオ13世があるビジョンを見て、「悪魔たちが、この地獄から鎖を解き放されて、この地上に罪を広める」というビジョンを見ました。残念な事に不幸な事に、この今現代世界、この地上にいる政府たちは、この悪魔の地獄のこの手の支配の下にいるかのようです。特にヨーロッパでは、フランス革命以後そうです。

1917年、ファチマで7月にマリア様がお現れになって、そして手から光線を放して、この光線は地上を開いて、3人の子供たち、すなわちフランシスコ・ルチア・ジャシンタに地獄の光景を見せました。

子供たちはこの地獄を見ると、霊魂たちが、この雪のようにパラパラパラパラと落ちているその様子を見ました。このビジョンというのは非常に劇的でした。子供たちはこれに恐怖におののいて、恐れるばかりでした。ルチアは言っています、「もしもマリア様が、私を天国に連れて行ってくれると約束しなかったら、恐ろしさのあまり、もうその瞬間死んでいただろう」と。

これは1917年の事です。1917年には、まだ堕胎がありませんでした。安楽死もありませんでした。教会はまだ多くの信徒がいました。そしてカトリック教会はまだ強い影響力を持っていました。しかしそれにも関わらず、そうでした。

もしもマリア様が今日、こんにちこの地上にお現れになったら、何と仰る事でしょうか。もしも今日、マリア様が手を開いて地獄の様子を私たちに見せて下さるとしたら、一体どれほど多くの、より多くの霊魂たちが、バラバラと地獄に落ちているのを見せてくれる事でしょうか。

マリア様は一つの事しかなさらないでしょう。秋田でもなさったように、ただ涙を流すばかりです。ここのドラマは、「霊魂の命の殺害」です。肉体の命の殺害もそうですけれども、霊魂の命を殺す事は、もっと重大な事です。

私たちは今マーチに参加しようとしますけれども、もちろん子供たちが、胎内の子供たちが生きる事を願って、そして老人たちがこのまま生きる事を願って歩きますけれども、しかし、「霊魂が、超自然の命を生きる事を願って」歩きましょう。

今日、こんにちヨーロッパでは、特にフランスやオランダでは、学校では子供たちに罪を教えています。これは堕胎よりも更に悪い罪です。なぜかというと、「子供たちを地獄行きへの道に乗らせるようにする」からです。

堕胎、安楽死、同性愛の〈結婚〉、ジェンダー、あるいは性教育、あるいは罪の教育というのは、「一つ」です、全体です。これは全て、「肉体と霊魂の命を殺害する、殺す、抹殺する」という全てです。

このマーチに、命の為の行進に参加するというのは良い事です。なぜかというと、それによって私たちは命に対して、そして私たちの主が見せた、「人間の命に対する敬意を払う」という事を私たちが見せるからです。

しかしもっと大切なのは、最も大切なのは、行進するという事よりは、「祈る」事です。

二つのやり方で祈る事ができます。「個人的に祈る」という事と「公に祈る」事です。

カトリック信者には、公に祈る義務があります。それは、私たちの信仰を告白する為、また私たちが、命である主イエズス・キリストに属している事を見せる為です。

今日の午後、大切なのは、歩く事ではありません、祈る事だけでもありません、大切なのは、「歩きながら祈る事」です。

またこの同世代の人々に、周りの人々に、「命を守るという事が大切だ」という事を訴えると同時に、それと同時に、祈りながら私たちはもっと高貴な、もっと重要な、より重要な命に属している、「霊魂の命、超自然の命を守っているのだ」という事を見せなければなりません。

「霊魂の命」というのは「天主の命」であって、「イエズス様の命」、「私たちの霊魂における天主の命」であります。

この命、「霊魂の命」というのは、本物の、「本当の光」です。“Vita erat Lux vera.”「命は、真の光であった」と福音に書かれています。

私たちは祈りながら命を守るのみならず、この周りの現代の同世代の人々に対する「光」とならなければなりません。こうする事によって、真に私たちの主の弟子となります。なぜかというと、「命」と「光」をもたらす者になるからです。

またこの命を守る、擁護の為の最高の最善の方法は、祈る事、「ロザリオを祈る事」です。

ファチマでマリア様は子供たちに地獄の様子をお見せになった時に、同時に、地獄に行かないようにする薬も、法もお見せになりました。ではこの薬とは何でしょうか?

それは「ロザリオ」です。「ロザリオを祈りなさい」と仰いました。

このロザリオというのは非常に単純な祈りで、この単純さは、「本当に天主から来た」という事を表しています。天主は本当に単純な方であり、そして天主が人間に与えるものも単純です。単純なので、ロザリオは普遍的なものです。子供でさえも、3歳の子供でさえも両親と一緒にロザリオを唱える事ができる、というのを見るのは、本当に司祭にとっても大きな慰めです。

そして今現代の人々が殺そうとしている、邪魔者扱いしている老人たちでさえも、たとえ目が見えない、あるいは聞く事もできない、何もできないと言っても、ロザリオは唱える事ができます。

「頻繁に、また多くロザリオ唱える事ができる」というのは、「天国の命を約束されている証拠」です。

またお仕事をなさって、この世俗の世界で生きている皆さんにとっても、ロザリオはとても簡単なものであるはずです。この色々な忙しい事がある現代社会ですけれども、3分ちょっと身を引いて、ロザリオを一連唱える事ができます。ですから例えば、今3分、あるいは別の機会に3分、あるいは3分、とすると、1日の終わりには、「あ、あっという間に1環以上唱える事ができた」という事になります。

旧約時代には、癩病を持っていたある将軍が、エリアに治してもらいに行きます。そこでその自分の癩病を治してほしい為に、この預言者がものすごい大奇跡を起こしてくれるのを期待していました。ところでエリアはこの男に、「あぁ、ヨルダン川に行って、7回洗いなさい。」

ところでこの人は非常に怒って、「何だ!もっと大きいすごい奇跡をするのかと思ったら、川に行って洗えとは何だ!」と言うのですけれども、しかし非常に簡単な方法で、この癒しを与えようとされたのです。

天主様はいつも私たちに、簡単な事を、単純な事を要求されます。今日午後、私は皆さんに、「よく、ロザリオをよく唱えるように」と励ましたいと思います。そして今日のみならず、いつも、ロザリオをよく唱えるように致しましょう。

そしてまた、このファチマの聖母と一緒に歩きますので、そのファチマの聖母は、「ロザリオの聖母」とも言う事ができます。ロザリオはフランス語で“Chapelet”と言いますが、これは「王冠」という意味なのです。それでマリア様のバラの王冠を作って下さって、皆さんが今なさった事を、その王冠を私たちは唱えます。

ちょうど私たちが、「肉体の命」と「霊魂の命」を守る為に行くように、今日私たちは「物理的な王冠」と、そして「霊的な王冠」のロザリオで、マリア様を崇敬しましょう。

ありがとうございました。

[Pro Life]

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「革命の精神とは人間が天主となろうとすること。「人間が、人間こそが命の主人となって、そして全自然の主人となろうとすること」人間中心主義は、結局は「人間の死」に行き着く。人間が自由を求めて命に逆らえば逆らうほど、人間は不幸になる。」
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「もしもあなたたちの正義が、ファリサイ人たちのそれに勝らないならば、天の国には入れない。」私たちの主が要求する正義とは一体何なのか?

2019年08月09日 | お説教・霊的講話
2019年7月14日(主日)聖霊降臨後第5主日のミサ(荘厳ミサ)
聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、まず私は小野田神父に、今日このミサを捧げる名誉を下さった事を感謝したいと思っています。そして私はこのミサを、皆さんの意向の為に、そして「日本におけるキリスト教世界の確立」という意向の為に御捧げしたいと思っています。

特に皆さん、「忠実」を守って下さい。信仰を忠実に守って下さい。私たちの主イエズス・キリストに対する忠誠を守って下さい。そして今日福音が私たちに教えようとしている、この教えを忠実に守って下さい。

まず今日福音では、私たちの主は使徒たちにこう言うのです、「もしもあなたたちの正義が、ファリサイ人たちのそれに勝らないならば、天の国には入れない。」

一体これは何の事を意味しているのでしょうか?一体「正義」というのは、義というのは何なのでしょうか?

「正義」というのは、隣人に対する関係を調整する徳であって、まず隣人に、そして天主様に対する関係をも調整します。「私たちの行動、行為が、隣人に対してどうあるべきか、あるいは天主に対してどうあるべきか」という事を私たちに教えます。

ですからこれは、私たちの社会生活の関係を作る為に、また天主との関係を成り立たせる為に必要な徳です。

では、その「正義」というのは、外的な行為において私たちと隣人との、あるいは天主との関係を調節するものですけれども、この事は天主の十戒に全て含まれています。

例えば、「汝、殺すなかれ」というのはなぜかというと、隣人の生命というのは私に属していないので、私たちはそれを尊重する義務があります。

「汝、盗むなかれ。」隣人の所有物は私に属していないので、それを尊重する義務があります。

「汝、父と母を敬うべし。」これも私たちは、両親から全て良いものを受けたので、その両親に対して感謝と尊敬を表す義務を持っています。

「汝、唯一の天主のみを礼拝すべし。」これも私たちは、真の救い主、真の創造主、天主から全てを受けたので、その天主に祈りと礼拝と感謝、そして服従と従順を払わなければなりません。

ところで、この天主の十戒に属するものは、ファリザイ人たちも全てやっていました。彼らは盗みもせずに、殺人もせずに、天主に対する祈りも礼拝もしていました。

では一体何でイエズス様が、「彼らの義に正義に勝らないならば、あなたは…」などと言ったのでしょうか?

なぜかというと、イエズス様は私たちに「新しい掟」を与えようとしているからです。

では新しい掟、私たちの主が私たちに要求するものとは、正義という事は一体何なのでしょうか?

例えばそれをイエズス様は、一つの例を挙げて今日仰います、説明します、「汝、殺すなかれ。」ファリザイ人たちはそれは守っていました。しかしそれは外的なものにしか過ぎませんでした。でも、私たちの主の教える掟の「正義」というのは、内的なものであって、つまり「殺すなかれ」というのは、「隣人に対して怒るな。」「怒るな。」「私たちの正義というのは、内的なものであって、霊魂に関するものである」と教えています。

新しい掟というのは、「愛の掟」であって、愛、つまり、「天主をまず愛する」という掟です。「天主を愛し、そして隣人を天主に於いて愛する」あるいは「隣人に於ける天主を愛する」という掟です。もしも私たちが天国に行く事ができるとしたら、この愛の掟を守らなければなりません。

私たちの主は、この内的な徳がどれほど大切かという事を説明して、内的な正義の徳がどれほど大切か説明して、こう言います、「ファリザイ人たちは、白塗りの墓だ。なぜかというと、外見は綺麗で真っ白だけれども、中は腐っている、腐敗している。」「私たちの正義は外側ではなく、内側から始まらなければならない」と。

私たちの主の仰る「愛徳」というのは非常に深いものであって、これは霊魂の深くに根付くものです。ですから福音の終わりの方では、この私たちの主は、「怒るな。怒ってはいけない、悪い事を言ってはいけない」と言うのみならず、更にもっと深くを教えています。それは何かというと、例え私が怒っていなくても、隣人が怒っているのならば、私たちが、彼らがその隣人がその怒りから抜ける事ができるように、行って、「何かする事があるか」と、何か私たちの方でそれを探しに行かなければならない、とさえも仰っています。

愛する兄弟の皆さん、どうぞこの福音のこの教える愛徳に生きるようになさって下さい。これを実践するようになさって下さい。実は私は皆さんと一緒にいて、皆さんの愛徳に非常に感動しました。

まず、皆さんの司祭に対するその尊敬とその愛徳、イエズス様を私たち司祭職の内に見る愛徳、そして皆さんの間の間の愛徳と助け合いの心。どうぞこの愛徳の精神を保ち、それを生きるように、続けるようになさって下さい。聖ヨハネも言っています、「愛の内に留まれ」と。

皆さん、もしもその愛徳を保つならば、どうぞそれを輝かせるようになさって下さい。日本の回心の為には、皆さんのこの愛徳の飛躍が、その輝きが必要です。私は、聖母マリア様が皆さんのこの中に愛徳をますます増やして下さるように、お祈り致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ: 私たちが相手を赦せば赦すほど愛徳に生きる事ができる : ビルコック神父様御説教

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月12日(金)大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ
聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様御説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


親愛なる兄弟の皆さん、今日は私たちは聖ヨハネ・グアルベルトの祝日を祝っています。この聖人は、10世紀から11世紀の間に生きた方です。

聖ヨハネ・グアルベルトは、この出来事で非常に知られています。

ある日、家族の一員が暗殺されたのです。そして聖ヨハネはこの事を非常に心に深く傷付けられて、そしてこの事を、この犯人に対してとても怒りと憤りを覚えていました。

ところである聖金曜日に、フィレンツェを旅している時に、この家族を殺した暗殺者に出会ったのです。ヨハネ・グアルベルトはお供の者たちと一緒に武器も持っていました。しかし暗殺者はたった一人で武器もありません。復讐の絶好の機会だと、剣を抜いて躍りかかりっます。

その道はとても狭くて、右にも逃げる事ができずに、左にも行く事ができず、後ろにも逃げる事ができませんでした。犯人は聖金曜日である事に気が付き、十字架に架かった者のようにサッと両手を広げ、跪いて、頭を差し出して「私たちの為に本日数々の苦しみを受け、十字架の上に生命を捨て給うた主イエズスの聖名によってお願い致します。どうぞ命ばかりはお助け下さい」と言う事でした。

ヨハネ・グアルベルトは非常にこの行為に胸を打たれて、乗っていた馬から降りて、この暗殺者を復讐して殺す代わりに、彼を抱き締めて赦したのです。

そしてこの時に聖ヨハネは、私たちが毎日唱えているこの祈りを唱えたのです、「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。」

これこそが私たちのカトリックの態度であって、愛徳の態度です。私たちがもしも相手を赦せば赦すほど、愛徳に生きる事ができます。「相手を赦す」という事は、非常にキリスト教的な徳です。これは聖ステファノがやった事であり、私たちの主イエズス・キリストも十字架の上で模範を見せた事です、「聖父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すところを知らざるが故なり」と。

そしてこの「人を赦す、敵を赦す」という事は、非常に使徒職的な、使徒的な行為です。なぜかというと私たちの主も、「聖父よ、赦し給え」と私たちを赦す事によって、私たちを回心させました。また聖ステファノも、自分を殺すその相手たちを、敵を赦す事によって、聖パウロの回心も引き起こしました。

特に私たちは、マリア様にお祈りしましょう。特に秋田のマリア様に、この同じ態度を私たちが持つ事ができますように、お祈りしましょう。

秋田のマリア様は、私たちの罪を赦す為に涙を流されました。そしてそれと同時に手を開いて、私たちが回心するように招いておられるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧である : ガブリエル・ビルコック神父様御説教

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月11日(木)教皇殉教者聖ピオ一世のミサ 
聖ピオ十世会司祭  ガブリエル・ビルコック神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、今日、私が皆さんの為にミサをする事ができるというのは大きな喜びです。そして私は皆さんの、司祭職に対する信心とその奉仕の心に、また御聖体に対する信心とその奉仕の熱情に、本当に感動して感嘆しています。

この御聖体に対する大きな信心を是非、皆さんにしっかりするようにと、そのまま続けるようにと励ましたいと思っています。なぜかというと、この御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧であるからです。

御聖体はまず、私たちを色々な面で養ってくれますが、まず「信仰」を養って下さいます。

なぜかというと、御聖体の秘跡において、私たちの主イエズス・キリストの全ての玄義が含まれているからです。

まず私たちは御聖体を信じる事によって、イエズス様の「御託身の玄義」を信じます。なぜかというと、イエズス様の本当の人間の御体である、という事を信じているからです。御体・御血、そして御霊魂を御持ちの御聖体です。そして同時に御神性も、天主であるイエズス様も信じます。

御聖体は、「贖いの玄義」も私たちに深く信じるようにさせます。なぜかというと、御聖体というのは、私たちの主の御受難と御死去の実りであるからです。もしも御聖体が私たちの前に現存するとしたら、それはイエズス様の御受難を再現してのみ、初めてこれが実現するからです。

第2に、御聖体は、私たちに徳の、「望徳」の聖徳を高めて養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、私たちの永遠の命への約束であるからです。これは聖トマス・アクィナスも、そして私たちの主イエズス・キリスト御自身も仰っている事です、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、彼の中に永遠の命がある」と。そしてその時に、命を持つ「だろう」とは仰らずに、命が「ある」と仰ったからです。

第3に、御聖体が私たちに、「愛徳」を養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、愛の秘蹟であるからです。なぜかというと、イエズス様は御聖体において、御自身を全く最も寛大なやり方で、私たちに御与え下さるからです。イエズス様は私たちの為に御亡くなりになる事によって、御自分を与え尽くしたからです。これこそ愛の証拠です。

ですから私は皆さんに、御聖体に対する大きな信心をぜひ続けてほしいと願うばかりです。なぜかというと、この御聖体の信心というのは、それのみならず、究極的に「使徒的」であるからです。

使徒的であるという事はどういう事かというと、使徒たちのように、御聖体は霊魂を引き寄せるからです。私たちが御聖体に対する信心を行う為に、ミサをする為に、イエズス様の約束を実現する事になります、「私が高く上げられた時に、全てを私の元に引き寄せよう」とイエズス様は仰いました。イエズス様は御聖体の信心をすればするほど、多くの霊魂たちをイエズス様の方に引き寄せて下さいます。

そして早かれ遅かれ、この多くの霊魂たちは御聖体にやって来る、そしてこの事がこのチャペルに、この聖堂において実現する事を私は祈っています。

特にマリア様にお祈り致します。マリア様が皆さんのこの共同体を祝福して、そして増加させて、そして成長させて下さいますように、お祈り致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 

2019年08月08日 | お説教・霊的講話
2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

親愛なる神父様、そして愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は七人の兄弟の殉教者のミサを一緒に黙想致しましょう。

この殉教者では、婦人の、聖なる婦人のミサの書簡が読まれています。そして福音も少し殉教者とは違ったような読み上げがされています。

なぜかというと、この七人の殉教者は兄弟で、聖フェリチタスというローマのお母さんの子供たちが殉教したその記念日なのです。162年、ローマ皇帝マルコ・アウレリアノ皇帝の下で迫害を受けて殉教しました。ローマでは非常に古代から、この殉教者たちを祝ってきました。

ですから子供たちの殉教の為に、そのような子供たちを育て上げたお母さんの事が、既にミサで祝われているかのようです。


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「女性の美しさというのは全く虚しい。天主を愛する、天主を畏れる女性こそ、賞賛されるべきだ。子供たちや家族を、天主を畏れて教育して養なってきたその女性こそが素晴らしい」と、むしろお母さんを謳っています。

七人の子供たちは、長男ヤヌアリオは、鉛を付けられた鞭で打たれ、次男のフェリックスと三男のフィリップスは棒で打たれ、四男のシルヴァヌスは高いところから落とされ、そして最後の子供たちアレクサンデル、ヴィタル、マルチアリスらは、首を切られて殉教していきました。4ヶ月後、彼らの母も殉教します。


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また二人の姉妹であるルフィナとセクンダはローマの童貞女でした。両親によって許嫁をされた男性がいました。アルメンタリウスとヴェニルスでした。しかし彼女たちは天主に捧げられた童貞であることを望み、婚姻を拒否しました。そのために彼女たちは捕らえられます。長官のユニウスは、色々な約束や処罰で彼女たちの決心を揺るがせようとしますが、無駄でした。まずルフィナが鞭打たれます。

その妹のセコンダは、裁判官に「お姉さんはその殉教の栄光を受けたのに、私には下さらないのですか?」と言います。

「私たちは同じくキリストの神性を告白してるのだから、私たちを同時にむち打つように命じなさい。同じ殉教を望みます。」
こうして二人とも殉教していきました。


ですから典礼ではこう言います、「天に在す私の聖父の御旨を果たす者こそが、私の兄弟であり、姉妹であり、母である。」

この殉教者たちは、天主の御旨を果たして、イエズス様の信仰を証して、天国に行き、イエズス様の兄妹、姉妹、母ともなりました。

マリア様に、私たちもそのような殉教の心を下さいますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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革命とは何なのか?革命とは、憎しみ、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみ、天主の権利を無視する人権宣言、天主の上ではなく人間の上に成り立つ社会の土台、天主の玉座についた人間である。

2019年08月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2019年7月13日から14日の二日にわたって開催された国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」で、開会言葉をさせていただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




尊敬すべき神父様がた、お集まりの皆様、
おはようございます。

本日は、フランス革命に関する特別に造詣の深い講師の方々に来ていただき、私どものもとにお話しくださる機会を得たことは大変な名誉であります。

私たちが今生きている現代世界において、天主が確立した自然の秩序を破壊しようとする試みがますます多くなっているのを目の当たりにしております。すなわち家族や婚姻とったものが、天主の掟を考慮することなく、崩壊しつつあります。さらに客観的で生物学的な秩序から切り離されたジェンダー論に世論はますます流されているように思われます。

これらの動きにおいて、私たちは1789年の革命の論理的帰結を見ています。何故なら、革命の本質とは、政治のシステムや、君主制や、貴族制度に関するものではないからです。

ジャン・ジョセフ・ゴーム師 (1802 – 1879) は、1856年に『革命その起源およびヨーロッパにおける悪の伝播に関する、ルネッサンスから現代までの歴史的探求』という書を出版し、フランス革命が何であるかを次のように説明しています。

「もしも革命の仮面を取り剥がして、革命に「おまえは誰だ?」と尋ねるなら、革命はこう言うでしょう。
『私は、人々がそうであると信じているものではない。多くの人が私のことを話しているが、私のことを知る者はほとんどいない。私は、カルボナリ(秘密結社)主義でもなければ、暴動でもない。君主制から共和制への変更でもなければ、ある王朝から別の王朝への置き換えでも、公共秩序の一時的混乱でもない。ジャコバン派の叫び声でもなければ、山岳派の怒りでもなく、バリケードでの戦いでもなければ、略奪でもなく、放火でもなく、農地改革法でもなく、ギロチンでもなく、水責めの拷問でもない。私は、マラMaratでもなく、ロビスピエールRobespierreでも、バブーフBabeufでも、マツッーニMazziniでも、コシュートKossuthでもない。これらは、私の子供らであり、私ではない。これらは私の作品であり、私ではない。これらの人とこれらのことは、一時的な出来事であるが、私は永続する状態である。』

『私は憎しみである。人間が確立しなかった全ての秩序、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみである。
私は、天主の権利を考慮しない人権宣言である。
私は、天主の御旨の代わりに、人間の意志の上に立つ宗教的かつ社会的状態の基礎である。
私は、その王座から引きずり下ろされた天主であり、その代わりに天主の玉座についた人間である。これが私が革命、すなわち転覆と呼ばれる理由だ』と。」

同じ時期に、ロシアではネチャーエフが1869年に所謂「革命家のカテキズム」を書きました。その中で彼は革命とは何かを次の言葉で描写しています。

「われわれの組織は人民革命を、西欧流の古典的な型に規定された運動、つまり、つねに財産とか、いわゆる文明とか道徳とかいう社会秩序の伝統の前で立ち止まり、現在までいたるところで、いわゆる革命国家をつくりだそうとしながらも、一つの政治形態を打倒し他のそれにおきかえることにとどまってきた運動であるとは考えない。人民を救いうる唯一の革命は、あらゆる国家組織を根こそぎにし、...すべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命である。.... われわれの仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦なくおこなわれるべきおそろしい破壊なのである。... この世界を一つの、無敵の、一切を破壊してしまうような勢力に統合すること。これが、われの組織、陰謀、任務のすべてなのである。」

革命とは、いにしえの蛇が太祖アダムとエワにした誘惑の繰り返しです。「おまえたちは、神々のようになるだろう」と。

革命とは、天主が確立した現実と真の秩序に対する「すべてをまきこみ、いたるところで、容赦なくおこなわれるべき、おそろしい破壊」です。

革命とは、私たちの真の創造主に反対する戦い、つまり、人間となった天主イエズス・キリストとその聖なる宗教、人類のための真の救いの秩序に対する戦争です。
革命とは、天主の代わりに、人間が神となり、人間の主張する主権において、人間の世界を創造する試みです。

革命とは、従って、堕落した天使の「私は天主に仕えない」という雄叫びのこだまです。
現代世界にある悪の本当の原因を知るために、私たちは今こそ革命をもう一度見直す時に来ています。

私たちの特別講師の方々が、革命とは一体何なのかをはっきりと理解することが出来るように私たちにうまく説明してくださることを、私たちはここであらかじめ感謝いたします。ご来席の皆様におかれては、この国際シンポジウムを心ゆくまでお楽しみ頂くようにお祈り申し上げます。

ご静聴ありがとうございます。


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* * * * *


Ave Maria!

Reverend Fathers, Ladies, and Gentlemen,

We have the great honor to have among us these most distinguished guest speakers, specialists on the French Revolution. In the world in which we live, we see a tremendous increase in the attempt to destroy the natural order established by God, such as families and marriage, without any consideration given to God's law. We have the impression of more public opinion on the theory of gender, separated from the biological order.

We see in these movements, the logical consequences of the Revolution of 1789 because the Revolution is not about the political system, not about being against monarchy, not about being against the nobility.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 – 1879) published his book "Révolution, historical researches on the origin and the propagation of the evil in Europe, from Renaissance until our time” in 1856, explaining what the French Revolution is:

"If, snatching away the mask of the Revolution, you asked her, "Who are you?", she would say to you: "I am not what they believe I am. Many speak of me, and very few know me. I am not Carbonarism conspiring in secret, nor riots roaring in the streets, nor the change from the monarchy to a republic, nor the substitution of one royal dynasty for another, nor a temporary disturbance in public order. I am not the howls of the Jacobins nor the furies of the Mountain, nor the fighting on the barricades, nor the pillaging, nor the arson, nor the agrarian law, nor the guillotine, nor the drownings. I am not Marat, nor Robespierre, nor Babeuf, nor Mazzini, nor Kossuth. These men are my sons - they are not me. These things are my works - they are not me. These men and these things are transitory things, and I am a permanent condition.

"I am the hatred of every religious and social order which Man has not established and in which he is not king and God together; I am the proclamation of the rights of man against the rights of God; I am the philosophy of rebellion, the politics of rebellion, the religion of rebellion; I am armed nihilism; I am the founding of the religious and social state on the will of Man in place of the will of God! In a word, I am anarchy, for I am God dethroned and Man put in his place. This is why I am called Revolution: it means reversal, because I put on high that which should be low according to the eternal laws, and I put low what should be on high."

Around the same time, Sergey Nechayev wrote his so-called "The Revolutionary Catechism", in 1869. In it, he describes what Revolution is with these words:

"By a revolution, the Society does not mean an orderly revolt according to the classic western model – a revolt which always stops short of attacking the rights of property and the traditional social systems of so-called civilization and morality. Until now, such a revolution has always limited itself to the overthrow of one political form in order to replace it by another, thereby attempting to bring about a so-called revolutionary state. The only form of revolution beneficial to the people is one which destroys the entire State to the roots and exterminated all the state traditions, institutions, and classes (...) Our task is terrible, total, universal, and merciless destruction. (...) To weld the people into one single unconquerable and all-destructive force – this is our aim, our conspiracy, and our task."

The Revolution is the continuation of the serpent's insinuation to our first parents: "You shall be like gods." The Revolution is about the "terrible, total, universal, and merciless destruction" of God's established reality and true order. Revolution is about war against our true Creator, God who became man, Jesus Christ, His Holy Religion, and the true salvific order for mankind. Instead, man wants to be god and to create his world in his pretended sovereignty.

The Revolution is an echo of the fallen angel: Non serviam. I shall not serve God.

It is high time for us to revisit the Revolution in view of knowing the real cause of the present evil in the world. We want here to thank, in anticipation and in advance, our special guest speakers for their kind efforts to help us see clearly what the Revolution is. We wish all of you here present to enjoy this International Symposium.

Thank you very much.

* * * * *


Ave Maria!

Révérends Pères, Mesdames et Messieurs,

Nous avons le grand honneur d'avoir avec nous des conférenciers parmi les plus distingués, spécialistes de la Révolution française. Dans le monde où nous vivons, nous assistons à un immense progrès des attaques opérées pour détruire l’ordre naturel établi par Dieu, tels que la famille et le mariage, dans le mépris absolu de la loi de Dieu. Nous ne pouvons que tristement constater une plus opinion publique empoisonnée chaque jour plus par la théorie du gendre, totalement déconnectée de l'ordre biologique.

Nous voyons dans ces mouvements les conséquences logiques de la révolution de 1789, car celle-ci ne concerne pas simplement un système politique, ni le renversement de la monarchie, ni l’abolition de la noblesse.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 - 1879), dans son livre "Révolution, recherches historiques sur l'origine et la propagation du mal en Europe, de la Renaissance à nos jours" 1856, l’explication suivante sur ce qu'est la Révolution française:

« Si, arrachant son masque, vous lui demandez (à la Révolution) : qui es-tu ? elle vous dira : « Je ne suis pas ce que l'on croit. Beaucoup parlent de moi et bien peu me connaissent. Je ne suis ni le carbonarisme... ni l'émeute... ni le changement de la monarchie en république, ni la substitution d'une dynastie à une autre, ni le trouble momentané de l'ordre public. Je ne suis ni les hurlements des Jacobins, ni les fureurs de la Montagne, ni le combat des barricades, ni le pillage, ni l'incendie, ni la loi agraire, ni la guillotine, ni les noyades. Je ne suis ni Marat, ni Robespierre, ni Babeuf, ni Mazzini, ni Kossuth. Ces hommes sont mes fils, ils ne sont pas moi. Ces choses sont mes œuvres, elles ne sont pas moi. Ces hommes et ces choses sont des faits passagers et moi je suis un état permanent. Je suis la haine de tout ordre que l'homme n'a pas établi et dans lequel il n 'est pas roi et Dieu tout ensemble. Je suis la proclamation des droits de l'homme sans souci des droits de Dieu. Je suis la fondation de l'état religieux et social sur la volonté de l'homme au lieu de la volonté de Dieu. Je suis Dieu détrôné et l'homme à sa place. Voilà pourquoi je m'appelle Révolution, c'est-à-dire renversement... »

À peu près à la même époque, Sergey Nechayev écrivit en 1869 "Le catéchisme du révolutionnaire -- Règles dont doit s'inspirer le révolutionnaire". Il y décrit ce qu'est la révolution :

"La Confrérie n'entend pas sous "révolution populaire" un mouvement réglé selon les idées de l'Occident, et qui s'arrêterait respectueusement devant la propriété et les traditions de l'ordre social, et devant ce qu'on appelle la civilisation et la moralité. Ce genre de mouvement s'est borné jusqu'ici à renverser une forme politique, afin de la remplacer par une autre et de créer l'État dit révolutionnaire. Seule peut être salutaire au peuple une révolution qui détruira jusqu'aux racines de l'État, et supprimera toutes les traditions, les classes et l'ordre même existant (...) Notre oeuvre à nous est une destruction terrible, entière, générale et implacable. (...) Fondre ces bandes en une force invincible qui détruira tout sur son passage - telle sera l'oeuvre de notre organisation, de notre conspiration, tel sera notre but."

La Révolution est la suite de l'insinuation du serpent à nos premiers parents : "Tu seras comme des dieux." La Révolution concerne "la destruction terrible, totale, universelle et sans merci" de la réalité établie et du véritable ordre de Dieu. La révolution concerne la guerre contre notre vrai Créateur, Dieu qui est devenu homme, Jésus-Christ, sa sainte religion et le véritable ordre salvifique de l’humanité. Au lieu de cela, l'homme veut être dieu et créer son monde dans sa prétendue souveraineté.

La Révolution est un écho de l'ange déchu : Non serviam. Je ne servirai pas Dieu.

Il est grand temps que nous revenions sur la Révolution afin de connaître la véritable cause de ce mal qui continue de faire souffrir notre monde. Nous tenons à remercier, par avance, nos conférenciers pour leur aimable participation à cette entreprise de clarification sur la révolution. Nous vous souhaitons à tous ici présents de bien profiter de ce symposium international qui, nous l’espérons, sera fructueux.

Merci beaucoup.
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ポルトガルの聖エリザベト女王、寡婦。女王、家庭の母、国民の模範的な母: 生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」

2019年07月31日 | お説教・霊的講話
2019年7月8日(月)寡婦聖エリザベト女王のミサ ミサの前のお話
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

今日は、聖エリザベト女王、寡婦のミサです。
1271年に生まれたポルトガルの女王、家庭の母、国民の模範的な母です。

ポルトガルの聖エリザベトに、集祷文では、「平和を与えて下さるように」天主に祈ります。聖エリザベトが生まれた時から、ポルトガルの王たちの間の、あるいは国民たちの間の平和を得たからです。

生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」と言われています。
なぜかというと、生まれたその時に、仲の悪かったいがみ合っていた、自分の父親とおじいさんが、その喜んだあまり仲良くなったからです。

若くして、ポルトガルのディオニジウス王と結婚します。人民の為に、そして王の為に、天主の為に、非常に敬虔に尽くしました。子供を天主の畏れの内に教育しようと、一生懸命しました。

王が亡くなると、自分は天主への祈りに専念しました。そして一年のほとんど半分は、パンと水で断食していたそうです。

聖エリザベト、その当時王女であれば、女王であれば、面白おかしく暮らす事ができたにもかかわらず、祈りと、苦業と、愛徳に敬虔に暮らしたこの態度を、私たちも真似る事ができるように、お祈り致しましょう。


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キリストの神秘体であるキリストの教会とは、カトリック教会である。カトリック教会こそ、乗らなければ私たちが救われない舟。「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

2019年07月31日 | お説教・霊的講話
2019年7月7日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年7月7日、聖霊降臨後第4主日のミサをしております。

今日お知らせがあります。

1つは、良いニュースです。5月の第3の主日に、大阪で私たちは聖母行列をしました。ファチマの聖母マリア様と一緒に。

御聖堂からロザリオを唱えながら聖母行列をして、御聖堂の近くにある公園で、マリア様の前で、大阪の御聖堂と私たちを聖母の汚れなき御心に奉献する式の更新をしました。

すると6月には、大阪の大司教様である前田枢機卿様の指導の下に、大阪教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献する式が行なわれました。

私たちはファチマのマリア様の事をよく黙想した時に、「マリア様の汚れなき御心こそが、天が望んだ、世界の平和の為の確実な唯一の手段である」という事を知っていたので、日本がもう一度汚れなき御心に奉献されますように、という事をいつも望んでいました。

秋田のマリア様も、天使を通して、聖母の汚れなき御心への信心の事を仰っていました。ですから、大阪大司教区が聖母の汚れなき御心に奉献された、という事を知って、とても嬉しく思いました。

そこで今日は、月の最初の主日なので、皆さんに提案します。私たちのいつもやっている御聖体降福式の時に、聖母の連祷の後で、日本を聖母の汚れなき御心に奉献します。

その意向は、「日本の大司教様たちが、この教皇様がいらっしゃる11月に、教皇様と一緒に揃って、日本を聖母の汚れなき御心に奉献して下さる」という事を祈って、その為の御恵みを求めてです。

日本の平和の為にも、世界の平和の為にも、この奉献がなされるように、緊迫している時代ですから、ますます必要です。

「ヨハネ・パウロ2世とレーガン大統領の時代に鉄のカーテンが落ちたように、フランシスコ教皇様とトランプ大統領の時代に竹のカーテンが落ちますように、北朝鮮と中国が共産主義をやめますように、ベトナムが共産主義を捨てますように、是非その為に日本の聖母の汚れなき御心への信心が世界の模範となりますように」との願いを込めて、日本を、私たちの出来る限り、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。皆さんもそれに、一緒に心を合わせて下さい。

今日はその御聖体降福式の後に、2人の子供たちの洗礼式があります。皆さんどうぞお時間があったら参加なさって下さい。

それから洗礼式の後に簡単なお祝いがあります。
そのお祝いの後に、侍者の方の来週のミサの練習があります。

次のミサは来週の主日です。ここで10時半から荘厳ミサがあります。3人の司祭で、荘厳ミサがあります。

来たる土曜日と主日の午後には、国際シンポジウムが、「フランス革命を見直そう」という国際シンポジウムがあります。

7月15日の海(産み)の日にはここでミサがあり、また午後にはマーチ・フォー・ライフもあります。皆さんいらして下さい。

再来週の主日にもここでミサがあります。3週ミサが続けてあります。どうぞいらして下さい


「沖に乗り出せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音では、聖ペトロの舟にイエズス様がお乗りになって、そして御説教をされた、群衆に説教をされた、そしてその後にイエズス様がペトロに、「さぁ、沖に乗り出せ。網を下ろせ」と言います。するとペトロが、「夜中じゅう一生懸命働いても、一匹も、雑魚一匹も取れませんでした。しかし、お言葉ですから行きましょう」と言うと、網がはち切れて、魚がどこに行ってるか分からないほど、もう舟が沈んでしまうほどの大漁の魚が捕れた、という史実が読まれました。

今日は、この史実が霊的に、今現在2019年に意味している事を黙想して、そして私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


この逸話がここにあるのは、「ペトロの舟」というのは、「カトリック教会」の事です。聖ペトロの舟、イエズス・キリスト様がそこに乗って、私たちに説教されて、そして多くの魚たちをそのペトロの舟に乗せようとする、その舟の事です。

典礼歴によれば、待降節とそして御降誕節において、「イエズス・キリストこそが、旧約時代によって預言された、この全宇宙を創った創造主からの送られたその聖子、真の救い主、預言の成就、それが全て正確に成就されて、そして生まれた本当のメシア、救い主、唯一の救い主である」という事を私たちは確認して、黙想しました。

四旬節とそして復活された時には、「このメシアが、預言の通り全てを成就させて、私たちの罪の償いの為に、御自分がその尊い天主の御血を流されて、私たちの為に苦しみを受けて、死を受けて、そして罪の赦しとなって、私たちの為に亡くなられた、十字架によって亡くなられた事。そして予言の通り、御自分が真の天主であり、救い主であるという事を示す為に、復活された事。その歴史的な事実は、誰も否定する事ができない事」を黙想しました。

そして復活祭を祝った後に、私たちは主の昇天、そして聖霊降臨も黙想しました、「真に私たちの為に生まれたイエズス様は、肉体と霊魂を以て天に、御自分の力で上がった事」を、「そして私たちを天で待っている事。私たちの目的は、人生の目的は、この地上ではなくて、永遠の命である事。その為に聖霊を私たちの贈り物として無償で頂いた事。御聖体を頂いた事。イエズスの聖心の愛」を黙想しました。

その論理的な続きが、「カトリック教会」です。イエズス様が創った、天主が創った唯一の救いの方舟カトリック教会について、教会は私たちに黙想するように招いています。

旧約の時代には、この前兆がありました。
「ノアの方舟」でした。

ノアの方舟では、古い時代では、水によってきれいに洗い流されてしまいました。全く残らないように。洪水によって。これは「洗礼の水」を表しています。

「洗礼によって、私たちがどれほど醜い、恐ろしい罪を犯したとしても、きれいさっぱりに洗わされる、全く流されてしまう、天主が綺麗にして下さる」事を意味しています。

しかし人類は、そして動物たちは、昆虫も、その他どのような獣たちも、ノアの方舟にさえ入りさえすれば、助かりました。しかし入らない者は、滅ぼされてしまいました。

これも、来たるべき唯一の救いの方舟、イエズス・キリストの立てた教会、ローマ・カトリック教会、聖なる、使徒継承の教会についての前兆でした。イエズス様が選んだのは、「聖ペトロ」です。「聖ペトロの舟」です。


そこで第2のポイントとして、私たちはこのカトリック教会の特徴を1つ、教皇様の声を聞きながら黙想致しましょう。

「カトリック教会こそが、天主が創った唯一の救いの箱舟である」という事は、これは私たちが勝手に思い付いた事ではないのです。

初代から、聖ペトロとパウロの時代から、そして聖アウグスチヌスも、教皇様たちが、歴代の教皇様たちが、口を酸っぱくして、何度も何度も言い続けてきた事で、公会議でも何度も同じ事が定義されてきた事で、これほど同じ事が定義された決議が、決定がないほどの事です。

それは、「カトリック教会が、イエズス・キリストの唯一の宗教で、教会で、イエズス・キリストの教会とカトリック教会は全く同じものだ。この他には救いがない」という教えです。

例えば1208年12月18日、イノチェント3世教皇様は信仰宣言の中で、「『唯一の聖なるローマ・カトリック、使徒教会の教会にこそ、救いがあって、その他においては誰も救われる事ができない、と私たちは信じている』と信仰宣言をするように」と命じました。

あるいは、ボニファチオ8世がその100年後に、有名な『ウナム・サンクタム“Unam sanctam”』という勅令を出しています、「イエズス・キリストがその頭である神秘体とは、唯一の、聖なる、そしてカトリックの使徒継承の、教会である。」

あるいはピオ十二世教皇様も、『ミスティチ・コルポリス“Mystici Corporis”』という回勅の中で仰っています、「キリストの神秘体であるキリストの教会、この地上におけるその神秘体というのは、つまりカトリック教会の事である」と。

そして同じくピオ十二世教皇様は、ミスティチ・コルポリスの数年後、『フマニ・ジェネリス“Humani generis”』という回勅の中で、1950年、「ある人々は、私がミスティチ・コルポリスの中に書いた事を『信じなくても良い』と誤解としている人がいるけれども、しかし私がその中で言った教えというのは、啓示によって、啓示を源泉として基礎を持っている信仰の教えである。だから誰も、信じなくて良いというわけではない。必ず信じなければならない。その教えというのは、啓示された教えというのは、『ローマ・カトリック教会とキリストの神秘体というのは、全く同じの、唯一の同じ現実である』という事だ」と教えています。

私が今引用したのはほんの少しですけれども、教会の教導権は2000年間の間、同じ事を、同じ言い方で、言い続けてきました。
「天主が、私たちを救う為に使うその道具は、人間たちに御自分の教えとそして聖寵を伝えようとするその道具は、それはローマ・カトリック教会である。そして例え異端者、あるいは離教者、あるいは偽りの宗教たちが教会の中の一部の要素を使ったとしても、それは全く残骸であって、役に立たない。救いの為には役に立たない。」

更に同じピオ十二世教皇様は言います。
「たとえ例外的に、天主が救いの御恵みを、目に見える教会の範囲の外に於いても与えたとしても、それはグループとしてではなく、個人個人、一人の為に特別に与えたものであって、それ以外のものでは何でもない。天主の立てた救いの方舟は、カトリック教会だ。だから私たちはその事を知らなければならない。」

これは私たちに一体、2019年に何を教えているのでしょうか?

まず第1に私たちは、「その真理を知っている」という事を深く感謝致しましょう。これは、この舟に誰が乗っているか、乗っている人が偉いか、乗っていない人がどうのこうの、という話ではありません。

「舟」の問題なのです。どの舟が沈むか、沈まないか。どの舟が最後まで大洪水に耐え切れるか、耐え切れないか。どの舟に乗れば、救いの港まで安全に辿り着くか、辿り着かないか。その「舟」の問題なのです。

その舟に乗るのが、獣でも、動物でも、何でも良いのです、救われる為には。

そして、「あぁ、もしもそのような事を言うと、他の舟に乗っている人がかわいそうじゃないか。傷付く」という問題ではないのです。
「本当のことを言わない」事こそが、「愛と真理に反する」のです。

「その舟に乗ったら危ない!沈んでしまう!港に辿り着かない!危ない!早く早く!命を助けなければならない!今雨が降っている!命の問題だ!永遠の命の問題だ!」愛徳の問題です。

その為にこそ、聖フランシスコ・ザヴェリオは、全てを置いて、東洋の日本まで来ました。その為にこそ、多くの方々が殉教の血を流しました。その為にこそ、チマッチ神父様は日本にまでやって来ました。

この「救いの箱舟に」ついて、「ペトロの舟」について、「カトリック教会」について、「私たちがそうしなければ救われない舟」について、「天主の創った救命ボート」について、教えたいと思ったからです。

そして今日福音の中で、教会はこの事を私たちに教えようとして、「たとえそのような事を言う事が、他の人たちを傷付けるんじゃないか」とか、あるいは「そんな事を言っては、独善的だ」と言われるかもしれません。一生懸命今まで働いても、何も捕れなかったかもしれません。

しかしイエズス様は、その事は関係ありません。なぜかというと、これが真理だからです。これこそが方舟、これに乗らないと、救いの港まで到達しないからです。「さぁ、これに乗って下さい。」

だからペトロに言います、「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

網が割れて、逃げてしまう異端者が出るかもしれません。しかしイエズス様の御恵みによって、大漁となる事でしょう、ペトロの舟が沈むほどになるかもしれません。

私たちはそれを祈りましょう、多くの霊魂たちが救われますように、ペトロの舟に救われてきますように、それをお祈り致しましょう。

マリア様にお祈りします。多くの方が、その真理を、客観的な真理を認める事ができますように。

「沖に乗り出せ。Duc in altum!」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

聖霊によりて童貞マリアから生まれたイエズス・キリストを信じ奉る。聖霊は永遠の昔から御托身の道具としてマリア様を使う事を望み聖母を準備された。「無原罪の御孕り」だ。

2019年07月26日 | お説教・霊的講話
2019年7月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月6日、聖母の初土のミサをしています。

今日このミサを、御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心への償いとして、このミサの後には、初土の信心、御聖体降福式を行ない、そして15分間の黙想も致しましょう。「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で捧げて下さい。

とても良いニュースがあります。

それは、5月の第3の主日に、私たちは聖母行列をして、大阪の私たちの御聖堂をマリア様の汚れなき御心に奉献し、その奉献を更新しました。聖母行列をした後にそうしました。

先月は6月には、大阪の大司教区、前田枢機卿様のご指導の元で、大阪の大司教区がマリア様の汚れなき御心に奉献されました。

私たちはいつも、日本の全ての司教様たちが、日本の回心の為に、日本の本当の幸せの為に、日本の平和の為に、日本が本当に世界をリードする国になる為にも、マリア様の汚れなき御心に全ての司教様が日本を奉献するという事をして下さるように、いつも願っていましたけれども、大阪の大司教区は、その一歩を踏み出されました。

そこで非常にこの嬉しいニュースで、私たちももう一度、私たちの御聖堂を、大阪の大司教区を、そして日本を捧げて、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。この御聖体降福式の時にそれを行ないたいと思っています。

その意向は、大阪大司教区のみならず、日本の全ての司教様たちが、日本を全てマリア様の汚れなき御心に捧げて下さいますように、です。

特に11月には、その23日から4日間の予定で、教皇様が日本に来られるというニュースがあります。是非教皇様が一緒に、日本の司教様と、マリア様の汚れなき御心に日本を奉献して下さいますように。

日本の方々にとって、これが「教皇様の来日」という事が、単なるどこかの外国の大統領や王様が来た、というのではなく、日本の回心の為の良いきっかけになりますように、日本の方々がイエズス様と福音とカトリック教会、そしてまた本当の救い主がどこにあるか、という事を知る、あるいはその興味を持つきっかけになりますように、日本の方が光を受ける、その御恵みのきっかけとなりますように!

是非それらを願って、御聖体降福式の時に、聖母マリア様の汚れなき御心に対する奉献を更新したいと思います。どうぞ皆さん、心を合わせて参加して下されば嬉しく思います。


「そして、弟子たちに向かって言った、『汝の母を見よ。』」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、昨日夕食の時、とても興味深い話をしました。それは、マリア様、「聖霊によりて、童貞マリアから生まれたイエズス様」の事です。一体、イエズス様が人となられた、天主の御言葉が私たちの救いの為に人となられたその玄義に、マリア様は一体どう関わっていたのか?「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」という事はどのような玄義であって、私たちにどのように関わっているのか?私たちにどんな意味があるのか?私たちに何をするように提案しているのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。

この世で、被造物を激震させた2大事件がありました。「激震した」というのは、「被造物の存在それ自体が、根本から大変化した」という事です。

2回あったその1つは、「創造」の時です。それは、私たちが無で、全く無かった、存在していなかった、何も無かった、それが有るようになった、という事です。これは私たちにとって、存在の根底を変える大変化の時でした。創造の時です。天主には変化がありませんでしたが、私たちは無から有に大変化しました。

第2の時は、この創造よりも更に素晴らしい大変化が起きました。それは有限の、無に等しいような私たちの、無きに等しいような小さな存在が、特に「人間が、天主と一致した」という事です。つまり、「イエズス・キリストが、永遠の御言葉、天主の聖子、無限の知恵が、私たちの人間性を取って、そして人となられた」という事です。

その時、天主にとっては全く変わりがなかったのですけれども、変化がなかったのですけれども、被造物である、特に人間の本性は、今後「天主と一致する事ができる」という、特別の高みに上げられました。無に等しいような存在が、無限の天主と一致する可能性を受けたのです。

天主が人となられた。この天主の聖子が、天主の永遠の御言葉が人間となる事を、託身、「御託身」と言います。これは最高の、聖霊の為した業でした。聖霊はこの時に、天主の本性と人間の本性を、イエズス様の天主の三位一体の第二のペルソナにおいて、一つにしました。分離できないほど一つにしました。

聖霊はしかし、この究極の無限の存在である天主と、有限のちっぽけな存在である人間の本性を一つにする時に、そうする必要性は全くなかったのですけれども、しかし聖霊は永遠の昔から、その事が起こる為の道具として、マリア様を使う事を御望みになりました。

マリア様、その最高の傑作を作る為の、いわばそこに於いて、マリア様に於いて、マリア様と共に、マリア様から、マリア様を使って、それを起こす事を御望みになりました。自由にそれを御計画されました。

そしてその為に聖霊は、マリア様を準備されました。どうやって準備したかというと、それが「無原罪の御孕り」でした。

マリア様は、ご自分のお母様聖アンナのその胎内に孕るその瞬間から、聖霊の特別な働きによって、原罪の汚れを全く無しに、聖霊の天主の聖寵の充満を、充ち満てる御恵みを受けて、最初から存在しました。つまり天主に反するものは全く無い状態で、無原罪の状態で御孕りになりました。無原罪の御孕りです。

ルルドでマリア様はこの事を仰いました。
「あなたのお名前は何ですか?」
「私は、無原罪の御孕りである。」

この事は、マリア様が無原罪の御孕りであるという事は、旧約の時代から既に預言されていました。

例えば、ゲデオンと言う旧約の太祖は、天にしるしを求めました、「もしもあなたの言う事が本当ならば、この毛皮の羊毛の羊のマントだけがぐしょぐしょに濡れていて、他の草はカラリと、露が一つも落ちないようにして下さい。」それを見たら、『確かに天主からのものだ』と信じましょう。戦いに出ましょう。たとえ少数でも。」

すると、その通りになりました。

これはマリア様が、聖寵の充満を受けて、聖寵に充ち満てる御方、「主、御身と共に在す」という事を、「常に在す」という事を前兆していました。

ゲデオンはその次に更に言います、「これでは、もっとしるしが欲しい。今度は、この私の持っている毛皮の、羊の羊毛のマントだけが乾いて、他が皆露で湿っても、これだけはカラリと乾くようにして下さい。

その次の日には、そうなりました。これは、マリア様が無原罪の御孕りであり、マリア様だけが、天主の子羊を産むべきマリア様だけが、原罪の汚れを受けずに、カラリと綺麗である、という事の前兆であった」と教父たちは言います。

これを以てゲデオンは、「確かにそうだ。」戦いに出ます。

マリア様はまさに、この羊の衣でした。

マリア様のこの無原罪の御孕りを通して、汚れない聖母を通して、聖霊は、天主の聖子のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性が一つになるように働かせました。最高の傑作を作りました。無原罪の御孕りの為に。

そこで聖グリニョン・ド・モンフォールはこう言います、「聖霊は、マリア様と共に、マリア様に於いて、マリア様から、御自分の、『人となった天主』という御自分の最高傑作を作った。その為に聖霊は、マリア様と婚姻をした。マリア様と愛によって一つになった。あたかも聖霊とマリア様は全く一体となったかのようであって、もう切り離す事ができないほど一つになっているかのようであって、あたかも聖霊がマリア様の身に写ったかのようになって、」教父たちによると、「聖霊のイコンとなって、聖霊の見える御姿となって、マリア様が行動された。そこで、天主聖子を御胎内に孕す事にした。」

もちろん聖霊は天主であって、マリア様は肉体を持った人間ですから、婚姻などという事は全くありません、ふざけています。

「しかし、あまりにもマリア様が聖霊と一つだったので、人間の言葉で表現するには、『婚姻』という言葉を使うしかなかった」と教父は言います。聖グリニョン・ド・モンフォールも、どうしてもその愛による一致を言う為に、全くそうではないのですけれども、そうしか表現しようがなかったのです。

こうして聖霊は、マリア様と完璧に全く一致していました。マリア様はあたかも聖霊の生き写しであるかのように、この地上で存在していました。

ちょうど、聖霊によりて童貞マリアからイエズス様が生まれたように、「キリストの神秘体の頭」が生まれたように、聖霊によりてマリア様から、その「神秘体の肢体」である私たちも、キリストの一部として生まれなければなりません。これがこの神秘の論理的な結論です。

愛による一致によって、マリア様は天主の婢女、奴隷として行動しました。そしてこの愛によるこの御謙遜と、その奴隷として、婢女として、主の御旨を果たそうとしたその望みは、御自分をはるかに超える業を、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶ」という業を成し遂げる事ができるようにしました。

マリア様の愛は、聖母の天主に対する愛は、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶという天主の最高の業を生み出した愛」です。「これに比べるものが全く無いほどのとてつもない巨大な愛であった」と言わなければなりません。

もしもマリア様が聖霊の生ける似姿であって、イコンであったとしたら、御影(ごえい)であるとしたら、マリア様の下で30年間従順に従っていたイエズス様は、マリア様に於いて聖霊を見ていたに違いありません。天主の愛である聖霊の生き写しをイエズス様は常に見て、そしてマリア様に従っていました。

これは私たちにも「どれほど聖母に対する奉献が必要であるか」という事を示しています。

なぜかというと、もしも私たちが天主の御旨に従って、聖霊の息吹に従って生活しようとするならば、マリア様に奉献されるのが一番の近道であるからです。もしも私たちがこの地上で、霊的にも、あるいは肉体的にも、奇跡が必要なほど必要に迫られている時に、マリア様に行かなければなりません。

最初の奇跡で、7月2日に私たちが記念した、マリア様の御訪問による洗者聖ヨハネの聖化。これはマリア様の介入によって、お言葉によってなされました。あるいはカナでの、水がぶどう酒になる奇跡も、マリア様によってなされました。

今でも、もしも必要であれば、マリア様によってのみそれがなされます。私たちの身も心も、マリア様によって奇跡が起こります。聖化の奇跡です。必要な全ての恵みが与えられます。

ある日イエズス様は言われました、「私の母とはどこにいるのか?聖父の御旨を果たした者、それこそが私の兄弟、姉妹だ。」

聖父の御旨を果たした、完璧に果たした、そして聖霊の生ける御姿であるマリア様。これこそ、聖父の御旨を完璧に果たした最高の方ではないでしょうか?

イエズス様は、そしてその御言葉に続けてこう言われます、「聖父の御旨を果たす者こそ、私の兄弟、姉妹、そして私の母だ。

愛する兄弟の皆さん、マリア様のその聖霊との一致の神秘の中に、ますます入って下さい。そして今日その黙想をなさる事によって、私たちがマリア様の聖霊の御孕りとしてしつらえられた、マリア様の汚れなき心がどれほど大切であるか、黙想致しましょう。そしてこの御心に奉献される事がどれほど必要であるか、黙想致しましょう。

そして私たちがそのマリア様の御心の中にますます入る事ができますように、そしてイエズス様に倣って、マリア様の汚れなき御心に奉献されて従って生活する事ができますように、つまりそれこそが聖霊の息吹に従う事になる、という事を理解できますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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人類を裁くべき最高の裁判官イエズス・キリストの聖心には赦しと憐れみと愛のみで満たされていた。私たちの考えとどれほど離れている事か。

2019年07月26日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第2玄義黙想 2019年7月6日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

初土の信心として、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。今日は7月は御血の、イエズスのいと尊き御血の聖なる月ですので、苦しみの玄義の第2玄義、イエズス様が鞭打たれ給う、そして全身で御血を流され給う、その玄義を黙想する事を提案します。



イエズス様の聖心の、燃えるような私たちへの愛、この愛は、何をもイエズス様をひるませませんでした。どのような苦しみも、辛い事も、残酷な拷問も、喜んで受けて立つ、その愛で燃えていました。

私たちがその受けるべき、肉の罪によって受けるべき苦しみを、罰を、イエズス様が全て、御自分の身に引き受け給い給うたのです。刑吏の残酷な鞭の前に、清らかな肌を晒し給うて、マリア様からお受けになったその繊細な御体、頑丈な肉体、それが鞭によって砕かれ、傷付き、血潮でまみれ、御筋肉も、肌を通して骨が見えるかのように、鞭はイエズス様の御肉体をえぐり、傷付け、痛めつけました。

イエズス様は、不平を漏らさず、この侮辱を、私たちの為に御捧げになっておられます。

「私は彼に、何の罪も見出さなかった。だから、鞭打ちの罰を凝らして、解放しよう。」

罪が無かったにも関わらず、残酷な鞭打ちを受けたイエズス・キリスト。イエズス様のこの御痛みと、私たちに対する愛を黙想致しましょう。

鞭打たれ給うイエズス様の聖心の御考えは、何だったのでしょうか。

受けた不正義への不平、文句、あるいは皆の前で受ける屈辱、辱め、それへの抗議、あるいはその痛みと苦痛の、それに対する反感、あるいは復讐の思いだったのでしょうか?

いえ、イエズス様の聖心は、ただ「聖父への愛」と、「哀れな私たちに対する愛」だけで満たされていました。

「私たちを赦そう。」聖父に赦しを乞う、その祈り。「苦しみを捧げよう」というその望み。「人類を赦したい」というその愛。それしかありませんでした。

人類を裁くべき最高の裁判官、イエズス・キリスト。イエズス様のその聖心には、赦しと、憐れみと、私たちに対する愛のみで満たされていました。私たちの考えとどれほど離れている事でしょうか。

不正な裁判を受け、人民によって裁かれた、不当な宣告を受けた天主。辱めに飽かされ、全身傷だらけになりながら、私たちの罪を償う事のみ望む、イエズスの聖心。

その聖心を遠くにご覧になったマリア様の心は、どれほど感動と、祈りに満ちておられた事でしょうか。

イエズス様を馬鹿にする、冒瀆する人々の声を聞き、イエズス様に対して為される暴力を見て、その鞭の音を聞き、飛び散る血潮をご覧になり、悪の、罪の重さを目前にして、マリア様の汚れなき聖心は、イエズス様と共に、私たちへの愛と赦しを求める心でますます満たされます。

「マリア様、イエズス様のこのような御苦難を見て、鞭打ちを見て、私の心はあまりにも冷淡で、無関心で、冷たい心をいつも取っていました。マリア様の汚れなき御心にあやからせて下さい。」

イエズス様を打つ鞭の音が聞こえます。イエズス様を罵る人々の呪いの声が、冒瀆の声が聞こえます。

「私はあまりにも無関心でした。非常にしばしば、冒瀆の声に一緒になってイエズス様を鞭打っていました。マリア様の心にあやからせて下さい。聖母と共に、イエズス様をお慰めする恵みをお祈り下さい。イエズス様を冒瀆する声は、テレビで、インターネットで、映画で、ラジオで、新聞で、雑誌で、ますます声が大きくなっています。マリア様の心に、御心に近付くを得させて下さい。」

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「カトリックの信仰」というのは「それが現実、本当、真理だから」それを「正しい、真理だ」と、同意すること。イエズス様の聖心の信仰もまさにこれだ。天主の人類への愛が真理だから

2019年07月25日 | お説教・霊的講話
2019年7月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「そして、これを見た者がその証言をする。そしてこの証言は真実である。」


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愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月5日、7月の初金曜日のミサを捧げています。

今日この御ミサの後に、初金曜日の聖時間を設けて、御聖体の前でイエズス様の聖心を礼拝致しましょう。

今日初金曜日ですので、イエズス様の聖心の黙想を致しましょう。聖ヨハネ・ユードの黙想を皆さんにご紹介したいと思っています。

カトリックの信仰というのは、「自分の思う、自分が思うから、自分がこうあると都合が良いから、だからそうだ」というのではありません。

「自分がこうであるに違いないと思っている、だからそれが正しい」のではありません。

「カトリックの信仰」というのは、「それが現実だから、それが本当だから、それが真理だから、それが実際、現実の事なので、本当なので」それを「正しい、真理だ」と、私たちはそれに同意しています。

イエズス様の聖心の信仰もまさにこれです。私たちが、イエズス様の聖心が、想像で、私たちの思い、勝手な作り話で、それを思うと確かに自分の気持ちが、気持ち良くなるから信じている、のではありません。これを信心しているのではありません。

全宇宙を創ったこの創造主が、「御自分がどれほど人類を愛しているか」という事を、本当に歴史の事実として私たちに教えて下さったので、それを「確かに、本当だ」として受け止めています。

ではこの全宇宙を創って、この私たちを今在らしめて下さっている唯一の創造主、天主が一体、何を私たちに啓示して下さったのでしょうか?

聖ヨハネ・ユードはこう言います、「イエズス様の聖心は一つだけれども、しかし三つの事を考える事ができる。天主としてのイエズス様。人間としてのイエズス様。そしてそれが二つが、天主との本性と人間の本性が合体して、肉となって、私たちの為に鼓動している、イエズスの聖心。」

現実の、私たちが、この「前に壁がある」というのを、どうしても「本当だ」と言わなければならない、私たちがこう肉を以て、ご飯を食べて、「それが本物だ」というのと同じ程度の、その同じ現実に、今ここに蚊がいれば、「蚊が!嫌だ!」、車が来たら、「車だ!危ない!そうしなければ轢かれてしまう!」

それと同じ現実で、私たちを今生かして下さる天主が、その永遠の昔から聖子を愛していた、天主聖父は聖子を愛して、「この、これこそ我が子である。これに私は喜びを置く」と啓示された、その天主聖父。

そしてその聖子も、「私の喜びは、」旧約聖書の啓示によると、「私の喜びは、人の子らと共にある事である。」

その天主の愛を以て、人間をこの世を、聖子を与えるまで愛されたその聖父。そしてその同じ愛を以て、聖子は私たちを愛しておられる。その天主の永遠の愛。

「私の考えは、代々永遠に、その愛を以て私たちを愛して下さる」というその愛の事を、ヨハネ・ユードは「まず考えよ」と言います。


第2に、人間として天主イエズス・キリストは、天主聖父の命令を、その御旨を果たそうとします。

「聖父よ、もしもできる事ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の願いではなく、御旨が果たされますように。」

なぜかというと、イエズス様は私たちの救いを求めていたので、私たちの永遠の救いの為に、「自分の苦しみを捧げたい」と言うよりは、「聖父天主の御旨を果たしたい」と、私たちの救霊を望みました。

イエズス様が私たちの永遠の喜びの為に、自分の事を全く捨てようと、苦しみを喜んで受けようと思ったその愛、人間としての愛を、聖ヨハネ・ユードは「考えよう」と「黙想しよう」と。

どれほど私たちは、イエズス様の為に自分の苦しみを喜んで受けようとした事でしょうか?

あぁ、それともどれほど多く、自分のちょっとした楽しみの為に、都合の為に、イエズス様を悲しめてしまったり、あるいは聖心に背いたり、あるいはその御旨に逆らって来てしまった事でしょうか。


第3に、聖ヨハネ・ユードは、「この二つの、『天主の愛』と、この『人間としてのイエズス様の愛』が、この聖心において合体している」と。

イエズス様は私たちに言います、「恐れるな、小さな群れよ。お前たちに天の御国を与える事は、聖父の御旨だ。おまえたちの髪の毛一本さえも、ちゃんと数えられている。」

そして聖父に願ったのは、「御身が私に与えて下さったこの彼らが、常に永遠に、私と共にいますように。永遠の命とは、御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります。彼らが共にありますように。」

私たちの救いと、永遠の事だけを思っておられました。

愛に燃え、そして遂に、この聖心で鼓動をしていた御血は、流れ尽くしました。兵士によって、槍によって貫かされた時に、その聖心は開いて私たちを、あたかも新しい救いの箱舟であるかのようにその脇が開いて、残っていた、聖心に残っていた御血は、水と共に流れ出てしまいました。「もうこれ以上、お前たちに流すべき血は無い」と言わんばかりに。

この私たちは、イエズス様の愛、現実の愛、私たちの勝手な想像ではなく、「本当に、天主が、私たちをその永遠の愛で、天主として、人間として、そしてこの二つが合体した聖心として、愛しておられる」という事を黙想致しましょう。

今日ミサの後に御聖体降福式があります。イエズス様の聖心は、この御聖体の中にも在し給い、私たちを愛して、報いて下さろうと、恵んで下さろうと、私たちの祈りと、愛を、待っておられます。

「人類を、かくも愛した聖心」

私たちはそれに対して、何もせずにいる事ができるでしょうか?

この聖心は、私たちを愛したにも関わらず、私たちに恵みを与えようとしているにも関わらず、それが本物であるにも関わらず、人々は却ってこれを拒否しようとします。それを、「都合が悪いから」あるいは「理解できない」「何の事か分からない」聞こうともしません。そして自分の主張だけを、あたかも自分が全てを決定しなければならないかのように、天主の座に立とうとしています。

イエズス様の聖心は愛されていません。認められていません。軽蔑と、冷淡と、侮辱と、無関心を以て、無理解を以て、答えられています。

今日ミサに与った愛する兄弟の皆さん、私たちは少なくともイエズス様をお愛し申し上げましょう。私たちの愛を以て、無関心を償う事に致しましょう。

マリア様に、その事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ

2019年07月21日 | お説教・霊的講話
2019年6月30日(主日)ラファエル・デュ・シャゾ神父様霊的講話
「旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ」

同時通訳:東京信徒会長



昨日初めて日本に来ました。日本が大変好きです。

今日は、この私たちの宗教の一番大事な事、「御ミサ」の事についてお話したいと思います。

教理の事をご説明するのではなくて、典礼の方からご説明したいと思います。なぜかというと、この典礼というのは、実はカトリックの教義を示すものだからです。

昔、旧約の話なのですけども、脱出記の頃ですが、ヘブライ人がエジプトから逃げた時に、モーゼを通してイスラエルのヘブライ人の民は、天主様から「典礼をどうするか」という規則を頂きました。

聖書に詳しく書いてありますが、その規則を読むと非常に面白いのですけれども、例えば祭壇の大きさがどのくらいであるとか、祭壇のどこにどういう石を使いなさいとか、ものすごく細かいルールがあります。そしてその中で特に面白い部分は、二人若い男の人が、この典礼に使う器とかを作る方法というのが、これも規定されています。

ただ知っておいて頂きたいのは、この典礼の規則というのは、天主がそのイスラエルの民に直接渡された、「天主の定められた規則である」という事です。

今申しましたように、この典礼の規則というのはどういう風になっているかというと、ただそういう風に私たちが天主を礼拝するというだけでなくて、実際典礼でどのようにこういう風にしなければいけない、という事が詳しく書かれています。

もちろんその教えて下さった事の中には、「天主様がこういう方である」とか、「メシアが来るのだ」とか何だとか色々色々あるのですけれども、非常に興味深いのは、その「私たちが天主に向かってどのように礼拝するか」という事を、天主から詳細に私たちに教えて下さって、指示して下さっている、という事です。

例えば、「私たちがどういうように礼拝するか」という、近代的な今の人たちは、「いや、私が神様をこうやって礼拝したいという気持ちがあるので、こう礼拝する」というのと対照的に、この時代を見ると、天主から私たちに、「こうやって私を礼拝しなさい」という規則が来て、私たちはそれを受けたという、これが非常に特徴的です。

この今思い出して頂きたいのは、旧約に書いてあるこの詳しい典礼は、「こうこうこうこうしなさい」という規則というのは、旧約の時の規則です。

旧約というのは、思い出して頂きますと、新約の象りに過ぎなかったものですから、そこにそれだけ詳しい規則が決まっているという事は、新約に関してももっと詳しく「こうやりなさい」というのを、天主様から指示があります。

それでヘブライ人が旧約の時代に、砂漠であったり、あるいはエルサレムの神殿であったりでやっていたその典礼というのを、私たちが今現在やっているものと同じなんだ、という事を知って下さい。

この旧約の時代の典礼というのは、いわば象徴的な象りの典礼をしていました。そして私たちがそれに比べて今やっている事というのは、本当の、真の典礼をやっています。

私たちの御ミサで見るこの典礼というのは、本当の司祭、本当のいけにえで、本当に救いの力のある典礼をしています。

それと比べてみますと、旧約の時は色んな事をしています。例えば、色んな牛だとか、羊だとか、鳥だとか、色んな生贄を捧げたり、油を注ぐんだとか、ブドウ酒を注ぐんだとか、色々な儀式がありましたけれども、それは何をしていたかというと、それらの生贄というのが、新約のいけにえの象りであったからであって、新約ではご存知のように、本当の司祭(それはイエズス・キリスト御本人です)が、本当のいけにえ(これもイエズス・キリスト御本人です)を本当に捧げて、救う力がある、という本当の典礼を今行なっています。

イエズス様がこの地上に来られた時というのは、おそらくこれは大変な事業だったと思います。というのは、旧約の色々な司祭がたくさんいて、そして色々な生贄が行なわれていました。

ところがイエズス様が来られて、その旧約の色々な生贄と色々な司祭が色々やっていた事を全部一人で、「新しいものと交換する」という風に仰いました。そしてこの「交換する」と仰ったその実態が、「御ミサ」です。

私たちは現在御ミサが起こっているという時には、この先ほど申しましたように、本当の司祭が、本当のいけにえを、天使たちの前で捧げているという事です。そして神父様が思われるのにこの動き、旧約のその象りである色々な生贄が、新しい本当のいけにえと替わるというのは、イエズス様がサマリア人の女性とお会いになった時に始まったものです。

そしてヨハネにあるのですけれども、弟子たちが何か買い物に行って、このサマリア人の女性とイエズス様がお話をされた、そしてそこでイエズス様が仰るのは、「時は来ている」という風に仰います。そして「時は来ている」というのはどういう時かというと、「この旧約で預言された色々色々の象徴が、本物になる」と、「その象徴だけではなく、本当になる。そして本当のそのいけにえを、本当に礼拝する時が来る。」

そしてそれが実際に実現したのは、イエズス様が十字架の上で亡くなられて、「全て成し終えた」と言われた時に、その時から、永遠に至るまで、本当の一つの完全ないけにえが、完全な司祭によって続けられる、というのが始まったと言えると思います。

「新約の典礼というのは、真理における典礼だ」という風にヨハネの4章に書いてあります。

そして「真理における」というのはどういう事かというと、このミサというのは、神秘的に行なわれている、神秘的になされている、そしてこのイエズス様の死というのが永遠の犠牲になっている、そしてミサの時にイエズス様の御血というのは、カリスの中に注がれて、そのまま神秘的にその信者の元に流れているという事ですけれども、これを旧約と比べてみると、旧約の祭壇では何が起こっていたのかというと、旧約の神父が、例えば先ほどの牛や羊を生贄にして殺して、その血を皆にこう実際に撒いている、という事をやっていました。

ですから、新約の同じ「ミサ」というのは、「神秘的に血が流されて、信者の元にその救いの御血が行く」というところが違います。そしてこれは本当に、先ほど申しましたようにイエズス・キリストがサマリア人の女性に、「もうこの時間は来た」「時が来る」と仰った事だと思います。

そして先ほど申しましたように、新約のいけにえというのは、イエズス・キリスト御本人です。私たちのミサではイエズス・キリスト御本人です。旧約の時はその象りのものが捧げられていたに過ぎませんでした。

マラキアの書にありますが、そこで預言されています、「後に、こういう時代が来る。犠牲が、太陽の昇る所から沈む所まで捧げられる時代が来る」という風に言われています。

そしてこれはどういう事かというと、「カトリックの教会が、全世界にこのキリスト教を広めて、ミサが全世界で行なわれる」という事を示している文章です、旧約にあります。

そしてまたそこで述べられているのは、「綺麗な捧げ物がなされ、」それは何を言っているかというと、イエズス様が亡くなられた時は大変な事がありました。イエズス様の御体から血が流れていましたし、鞭で打たれましたし、とても綺麗なものとは言えませんが、それが神秘的にこのような形でミサになると、綺麗な生地の色で、いわば「無血のいけにえが捧げられる」という事ですので、これが先ほどの旧約に書かれている預言されている事です。

旧約の頃の礼拝の話で、パウロがユダヤ人への手紙で書いていますけども、「これは、イエズス・キリストがなさるのが似つかわしい。なぜなら彼は罪を犯さなかったから」と書いていますけれども、この大祭司、「イエズス・キリストが大祭司」というのは、もちろん旧約の時代にはレヴィ族という人がいて、祭司をやっている人たちの一族というのがいました。彼らがこの役割を担っていました。その中でもアーロンの家族というのが有名だと思います。そしてその祭司が旧約で何をやっていたかというと、「人々、信者の為に、それに代わって、天主と話す」という事をやっていました。

私たちの大祭司イエズス・キリストにいくと、もちろん罪を犯しておられませんし、純粋の御方ですし、それに重要なのは、「彼は同じように、私たちと同じ人間の一人でもある」という事であります。そして私たちになり代わって、天主と話して下さっています、という事です。

そして旧約で、では祭壇というものも決まっているのですけれども、祭壇というのはどういう風になっているかというと、これも色々なルールが規則がありまして、「人々の住んでる所から別の所で、こういう囲いをして、こうやって、こうやって」そして「祭壇はこういう風に油を塗って、祭壇で使う容器の蓋はこう油を塗って」という風に詳しく書いてありました。

ところがイエズス・キリストはマテオの中で、その祭壇の重要性に関するもので、「祭壇というのが、贈り物を聖化するのだ」という事を仰います。

私たちのでは祭壇はどこかというと、教会の中にあります。そしてその私たちの教会の祭壇というのは、これで分かる通り、旧約のどんな祭壇よりもより聖なるものであります。なぜかというと、イエズス・キリスト、大祭司イエズス・キリストが使われる祭壇であるからです。

新約の中では、一番最後の黙示録というのが、先ほどの旧約の脱出記に対応するようなものなのですけれども、今日は時間がないのであまりお話できませんが、先ほど申しましたように、私たちの見ているこの新約の典礼というのが、旧約の典礼が現実になったものである、という事を知って頂きたいと思います。

この新約の典礼というのは、今起こっているのは犠牲なのですけれども、それはまた先ほどの新約を最後まで見て頂きますと、天国で天上で、この後起こる、どのような礼拝が起こるかという事の予告でもある、という事が分かります。

例えばその祭壇というものに関しては、よく「天の国の基礎である」というのが聖書にあります。そしてこの天の国というのはご存知のように、カトリックの教会であったり、聖人たちであったりするわけですが、それも聖書に出てきます。

この祭壇というものに関してまた別の点から見ますと、昔エジプトにいた時は、イスラエルの人々が使っていた祭壇というのは動かせるもので出来ていました。定住していたわけではないので、動かせるもので、木で出来ていました。ところがエルサレムに来てからは、彼らは定住できましたので、祭壇というのは石で造られるようになりました。

この「石」というのは、もちろん「天主」の象徴、シンボルで、例えばヤコブがカナアンにいた時、この「天主の住んでおられる石」という話が出てきます。

もっと分かりやすいのが、例えばモーゼが砂漠にいた時に、皆が喉が乾いて大変だというので、自分の持っていた棒で、岩を叩いたら、生命の水が出てきた、というお話があります。今日お話した通り、このモーゼは何をしているかというと、イエズス・キリストの胸を槍で刺した兵士の象りをしていた、という事です。「彼が棒で突いたら、生命の水が出てきた」というのが、新約の、「ローマの兵隊がイエズス様の胸を突いたら、血と水が出てきた」というものの象りであった、という事です。

最後にお話したいと思いますが、この典礼の規則というのは色んな規則があります。例えばどういう服を着て、どういう色の服を着て、どういうカレンダーで、どういうお祈りとどういう祈りが今日やって、繋がっていて、どういうジェスチャーをして、目をどっちに向けて、どこで跪いて、そしてお香を使うとか、十字架を使うとか、十字の印をするとか、ローソクだとか、灰だとか、聖水だとか、色々色々あります。

色々あるのですけれども、これらのものはどうやって出てきたかというと、これもやはり旧約と同じように、「天主様から明らかにされた」、そしてどうやって明らかにされたかというと、「その権威を持ったカトリック教会に、聖霊によって明らかにされてきたもの」と、「教会がまとめてきた」というものが典礼です。ですから旧約と非常に似た構造になっています。

例えば今、神父様がなさったミサの途中に、神父様が階段の前で手をこう置くとか、こう置くとか、こう置くとか、色んなジェスチャーで、そしてそれに関して色んな聖人が色んな事を書いています、「こういう精神的な意味がある」とか「こういうような」と書いています。

ただし、どんなに「こういう意味とこういう意味とこういう意味がある」と言っても、全部意味が分かるという事はあり得ません。なぜなら、このミサというのはある意味では、イエズス・キリストの書かれた詩であるからです。

例えば、「雅歌」というのが旧約にありますけれども、そこで花嫁が花婿に最初に、「私の愛する人」という風に呼びかけています、「私の愛する人、来て下さい」と言っています。

そして典礼というのは、この愛する人たちの間の会話ですから、「これはこういう意味だ、こういう意味だ」と、その愛する花婿と花嫁、「イエズス・キリスト」と「教会」の間の会話なので、ある程度分かるかもしれませんが、やってもやっても尽きない意味があるものだと思います。

ありがとうございました。
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御聖体の荘厳祭が今、日本におけるカトリック教会においてどれほど重要で、必要か、御聖体を讃美し礼拝する事がどれほどイエズスの聖心に適う事か

2019年07月20日 | お説教・霊的講話
2019年6月23日(主日)聖霊降臨後第2主日のミサ 御聖体の荘厳祭
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年6月23日、御聖体の荘厳祭を行なっております。

今日この御ミサの終わりから、御聖体降福式が始まります。

その後、いつもの通りに感謝の祈りをした後に、今日は生まれたばかりのペトロ君とパウロ君の洗礼式があります。どうぞお祈り下さい。それから代父の方が発起人となってここで小さなパーティーを開催したいという事ですので、皆さん時間がありましたらどうぞお出で下さい。

15時から晩課があります。

明日は、洗者聖ヨハネの祝日で朝7時からミサがあります。

次のミサは6月30日、来週です。シャゾ神父様がここでミサを捧げて下さるとの事です。来週は特にイエズス様の聖心の荘厳祭、御聖体降福式も兼ねて行なう予定です。
午後にはドゥ・シャゾ神父様からの霊的講話も、晩課も予定されています。いらして下さい。

来月はミサが3回あります。第1・第2・第3です。特に第2主日の場合には、ここで荘厳ミサが行なわれます。神父様がフランスから2名来て下さいます。

7月13日と14日には、フランス革命230周年をもう一度見直そうという事で、フランスからあるいはアメリカから有名な先生たちが日本にいらして、シンポジウムがあります。どうぞ皆さんいらして下さい。

サマース神父様もいらして下さいます。7月15日は海の日ですけれども、私たちは今年もこの海(産み)の日のマーチ・フォー・ライフに参加する予定です。マイケル・マットさんが、あるいはサマース神父様や、フランス人の神父様たちも参加する予定です。

鹿児島や、大阪からも司教様たちもいらして「一緒に歩く」という事になったそうです。皆さんもいらして下さい。


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は御聖体の荘厳祭をしております。

この御聖体の荘厳祭が今、日本におけるカトリック教会においてどれほど重要で、どれほど必要とされているか、そして今日皆さんがこのミサに与って、御聖体を讃美して、礼拝している、という事がどれほどイエズス様の聖心に適う事か、という事を是非今日は知って頂きたいと思っています。

今日この黙想のテーマは、「天主様が一体、何を御聖体に対してする事を望んでおられるのか?」「御聖体とは一体何なのか?」「そして私たちは何をしなければならないのか?」という事を、皆さんが「あぁ、そうだったのか!」という事をはっきり目に見て下さる事です。

もしも御聖体に対して私たちがしなければならない事がますます分かれば分かるほど、この私の話は、その願ったものに到達する事になります。

御聖体に対しては色んな話があります。御聖体の奇跡。御聖体の制定。なぜ制定されたのか。また御聖体のこの祝日の制定がなぜなのか。しかし今回は、100年前の現代の話に絞らせて下さい。

皆さんもご存知の通り、私たちも何度も黙想した通り、1916年秋、ファチマで、御聖体の天使が3回目に、子供たちに現れました。超自然の雰囲気でした。

風の強い音が聞こえたかと思うと、子供たちは綺麗な、水晶のように綺麗な天使を、青年のような天使を、美しい姿を見ました。この天使は今度は、左手にカリスを持っていました。カリスの上には御聖体がありました。

天使はそうやって御聖体と御血を持って現れて、一体何をするかというと、それを空中に浮かせたまま、跪きました。跪いたばかりでありません、額ずきました。額を地面にスレスレに付けて押し付けて、御聖体を礼拝しました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中の全ての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

3回唱えました。

その後天使は立ち上がって、御血を取りカリスを取り、御聖体を右手で取って、子供たちに、「イエズス・キリストの御体と御血を礼拝しなさい、拝領しなさい。忘恩の人々によって、これほど恐ろしくも侮辱されている、御体と御血を礼拝し、拝領しなさい」と言って、聖体拝領させました。

ルチアには御聖体を。なぜかというと、初聖体をしていたから。

しかしまだ初聖体をしていなかったジャシンタとフランシスコには、御血を少し飲ませました。

「彼らの、忘恩の人々の罪を償い、そして汝らの天主を慰めなさい。」そう言うと、もう一度跪いて、額ずいて、額を地面に押し付けて、同じ祈りを3度繰り返します。超自然の雰囲気でした。

子供たちも天使と同じ事をしました。子供たちは天使がいなくなっても、同じ姿勢をずっと取り続けて、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、繰り返して同じ祈りを捧げていました。

私たちが御聖体の荘厳祭に何をしなければならないか、という事はここにはっきりと分かります。

このファチマの天使は、カトリックの真理をはっきりと教えてくれます。模範を示してくれています。態度で、どうしなければならないかを教えています。

まずこのカトリックの印というのは、この真理というのは、今現代残念ながら、エキュメニズムとか、あるいは「心の問題で、自由だ」とか、「キリスト教の色んな意見がある。対話をしなければならない」という、「虹の、レインボーの意見があって良いんじゃないか」という態度によって、全くかき消されるか、あるいは迫害されている真理です。否定されている、暗黙の内に否定されて、それを信じ続けていると攻撃されて、罰せられる真理です。

どのような真理かというと、3つあります。

1つは、「御聖体に、私たちの主イエズス・キリストが真に現存している」という真理です。

私たちがどうしようと、賛成しようとしまいと、そう思おうと思わないが、現実に、客観的に、そうである真理です。イエズス・キリストは真に御聖体の内に在し、私たちの内に留まり給うのです。

ファチマの天使はその事を、トリエント公会議の表現を使って言いました。世界中の全ての御聖櫃の内に真に在し給う御体、御血、御霊魂、御神性、人間性、人間の本性を全て、天主性を全て備えたまま、イエズス・キリスト様は真に世界中の全てのカトリックの聖櫃の内に在し給うのです。

ここに在し給うのは、真の天主です。この全世界を支配して、この全世界に全自然界に命令を下す、最高の主権者です。

私たち人間と一位の天使とでも比べれば、もちろん天使の方がはるかに崇高で偉大で力があります。純粋の霊ですから。その天使が、自分は全く塵芥にすぎないかのように跪いたのみならず、額ずいて、その御聖体に在す天主を震えおののいて礼拝している。

教会には3つの段階があります。
「凱旋の教会」天国にいる全ての天使たちと聖人たちが集まっている教会。
「戦闘の教会」地上の教会。私たちの事です。
「苦しむ教会」煉獄で罪を償う為に今苦しんでいるその霊魂たち。

凱旋の教会、全ての天使と聖人たちは総に集まって、跪いて額ずいて、イエズス様を天主として、御聖体を礼拝しています。「これこそが正しい態度である」と私たちに見せています。

「跪け。礼拝せよ。感謝せよ。イエズス様はこれほども苦しんでおられるのだ。真の天主がここに在すのだ。控え控え!」と。


第2は、「御聖体とカリスが現れた」という事です。つまり「御体と御血が分離している」という事で、「イエズス様は屠られている」という事です。

つまり「ミサというのは、イエズス様の十字架のいけにえの再現であって、私たちのその目の前で、現実に、もう一度再現されている事である事」というカトリックの真理です。

ミサいうのは、面白おかしい食事会ではないのです。兄弟の、天主の民の集いではありません。集会ではありません。もちろん人々はそれに参与しますけれども、しかし本質は、「十字架のいけにえのその再現」にあります。罪の償いの為に、イエズス・キリストが御自分の命と、御体、御血を、天主聖父に捧げる事にあります。ここにミサの本質があって、それが御聖体によって表されています。

そこで天使はそれを礼拝します。その神秘を礼拝します。イエズス・キリストのその無限の愛、贖いの愛、私たちの為に御自分を全て与え尽くしたその愛、このイエズス様の苦しみに感謝して、礼拝します。

人間の為にこれほど血を流されて命を捧げられたイエズス様に、天使が、天使は自分の為にはそうされなかったにも関わらず、礼拝と感謝を捧げています。人間はどれほどそれをしなければならないでしょうか。

「御聖体が一体何であるか」、「ミサが一体何であるか」という事は、現代暗黙のうちに否定されています。

もしも御聖体を口で拝領しようとするなら、「もう来るな!」と言われます。跪こうとするものなら、「一致を乱す!」と言われます。それについては個人的な話もありますし、皆さんの中で署名運動をやった方々や、何とか教会に良くなってもらいたいと思って、色々尽くした方々がたくさんいらっしゃいます。私はよく知っています、皆さんの名前と顔とを。どれほどの事をなさったか。しかし何も変わりませんでした。ただ御聖体に対する態度は、ますます悪くなったばかりでした。何十年待っても、何も起こりませんでした。

50年前に聖ピオ十世会が創られた時に、やはり新しいミサがちょうど出来たそのような時でしたけれども、聖ピオ十世会がカトリック教会によって正式に認可された時に、その会則にはこうありました。

「聖ピオ十世会は、その会として、全ての司祭を、その司祭の存在理由、一体司祭が何の為に存在しているか、というそれを実現させる為に、心を配らなければならない。即ち司祭は何の為に存在するかというと、『ミサ聖祭』の為であって、『そのミサの意味するところその全て』『そのミサを補うその全て』『そのミサから流れ出る全て』の為に存在している。その為に聖ピオ十世会も存在している。聖ピオ十世会には特別なカリスマ、特別なものはない。ただカトリック教会が最も大切にしていたものを大切にするのだ。『カトリックの司祭』と『カトリックのミサ』だ。」

しかしそうすればそうするほど、創立者であるルフェーブル大司教様は罰せられ、迫害を受けて、罪に追われ、悪口と非難を受けておられました。

私たちは真理の主人ではなく、真理のしもべであるので、真理を変える事ができません。天使のように、その御聖体の神秘の前で、ただひたすら礼拝するのみです。それを信じ続けるのみです。


第3には、天使が教えてくれたのは、私たちに「償いをしなければならない」という事です。

私たちは単に、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛するのみならず、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の為にそれに代わって、罪を償い、その罪の赦し乞い求めなければなりません。

子供たちは天使から言われました、「恩知らずの人々によって、恐ろしくも侮辱されている私たちの主イエズスの御体と御血を礼拝し、拝領しなさい。」

私たちもそれをしなければなりません。天使が言ったのはものすごい表現でした、「恐ろしくも冒辱されている、侮辱されている御体」“body and blood horribly outrage by ungrateful man” きっと天使たちはもう怒りで、どれほど自分の怒りを抑えなければならないか、とその口調から察する事ができます。

天国の天使団たちは、あるいは聖人団たちは、私たちの地上で行なわれている、イエズス様に対する恐るべき冒瀆と屈辱を見て、どれほど涙を流して悲しんで、天主に御憐れみを乞い求めている事でしょうか。

私たちは今日そこで、教会の精神に従って、天使たちの大群と天国の聖人たちと共に心を合わせて、ファチマの精神で、今日御聖体荘厳式を行なっています。


愛する兄弟の皆さん、どうぞ御聖体変化の時には、必ず跪いて下さい。もしも体の弱い方で跪けない方はもちろんそのままで結構です。できる方はそうなさって下さい。イエズス様の真に在すこの現存の前で礼拝なさって下さい。イエズス様の愛を感じて、イエズス様を愛し奉って下さい。

そして、ただ私たちは信じて礼拝するそれならず、その私たちの犠牲をも苦しみをも、イエズス様の苦しみに合わせてお捧げ下さい。

今日御聖体拝領する時には、あるいは天使の手から受けるかのように、イエズス様をお慰めする為に、御聖体拝領なさって下さい。御聖体降福式もその意向で御捧げ下さい。

今日おそらく天国では、私たちをご覧になる天使たち聖人たちは、三位一体は、イエズス様は、マリア様は、どれほど御喜びになり、御慰めを受ける事でしょうか。例え人数が少なかったとしても、私たちの愛はどれほどその天国を喜ばせて、私たちの上に、日本全国に、御恵みをもたらすものとなる事でしょうか。どうぞ、この皆さんが今なさっている事がどれほど素晴らしい事か、という事を理解なさって下さい。

マリア様にお願い致します、「マリア様、私たちの心にもファチマの天使を送って下さい。ファチマの天使のその精神に従って、今日この御聖体の荘厳式に与らせて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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