Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 6月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


6月はイエズスの聖心の月です。イエズスの御心の連祷を毎日唱えましょう。
意向:多くの司祭・修道者の召命が与えられるため
実践すべき徳:御聖体への愛徳と頻繁な霊的聖体拝領
守護の聖人:ゴンザガの聖アロイジオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 6月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    6月1日(初金) 童貞聖アンジェラ・メリチア(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月2日(初土) 聖母の土曜日(4級)白 殉教者司教聖マルチェリノ、ペトロ、エラスモの記念
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    6月10日(主) 聖霊降臨後第3主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月11日(月) 使徒聖バルナバ(3級祝日)赤
            午前6時半 ミサ聖祭

    6月15日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭

    6月16日(土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    6月3日(主) 御聖体の荘厳祭 白  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    6月4日(月) 証聖者聖フランシスコ・カラッチョロ(3級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

    6月17日(主) 聖霊降臨後第4主日(2級)緑  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    6月18日(月) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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Sermon for the 3rd Sunday after Pentecost ―Fr. Benoit Wailliez, FSSPX

2018年06月13日 | お説教・霊的講話
Sermon for the third Sunday after Pentecost
Fr Benoit Wailliez, FSSPX


Last Friday, we celebrated the feast of the Sacred Heart of Jesus.
As St. John the Apostle, who rested on the heart of Jesus, stated: "We looked upon him whom we have pierced" and elsewhere "We have come to know and have believed the love that God has for us".
Today, Mother the Church has picked one of Our Lord's parables to keep emphasizing His tenderness and compassion.
Let us have a look and explain what Our Lord meant in today's Gospel.

A man, who had hundred sheep, lost one of them. He left the 99 in the desert and went after the lost sheep. When he found it, he laid it upon his shoulders and brought it back home. He called all his friends and rejoiced because he had found the sheep that was lost.

The owner of the flock is God.
The sheep represents all of us. As Psalm 94 says: "We are His people and the sheep of His flock".
According to Scripture, the desert is "the resting place" of the Lord. For instance, God says: "I will lead her to the desert". It is an image of God's intimacy. We can only find God in silence, away from the noise of this world; in the desert. That is where God keeps His sheep close to him.

The lost sheep is the sinner. It went away from God, probably attracted by a more "exciting life".
Our Lord is the Good Shepherd, who knows His sheep and call them by their name. He notices the loss of His sheep and immediately leaves His flock in order to find the lost one.
This is an image of God leaving, so to say, the restful place of heaven and going into this world, through His Incarnation, to save us. Elsewhere in the Gospel, Our Lord says: "The Son of man came to save what was lost".
He goes after the lost sheep. We always have to remember that when we convert, for instance through a good confession, we are not the ones coming back to God: He is the one who went after us and found us and brought us back to Him, to His Sacred Heart.

The parable says: "He goes after the lost sheep until he find it". Meaning, Christ won't return to His restful place until He has found the sinner. And how does He bring it home? Putting it upon His shoulders. He saved us through His heavy cross, image of the weight of our sins. As a good Shepherd, He puts the lost sheep upon his shoulders and saves it from eternal loss.
Is the owner angry at the sight of his lost sheep, after so many efforts, so much sweat spent for that unfaithful sheep? No, he rejoices. And he wants all his friends to rejoice with him.

The Sacred Heart is so happy to bring us back to Him. He wants the rest of us, in heaven and on earth, to rejoice at the conversion of sinners.
Sometimes we are bitter with non-believers or with people who left the flock. But are we searching for them, at least through prayer? And are we rejoicing if they end up joining the flock or reincorporating it?
Have we forgotten that the "lost sheep" is firstly ourselves before being our neighbor?...

When we will receive communion and be closely united to our Shepherd and Savior, the choir will sing the beautiful concluding words of this parable: "There is joy before the angels of God upon one sinner doing penance". Amen.
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2018年6月10日 聖霊降臨後第三主日の説教 「失われた羊とイエズスの聖心」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年06月12日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨後第三主日の説教
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


この前の金曜日に、私たちはイエズスの聖心の祝日をお祝いしました。
イエズスの胸元、聖心である心臓の上で頭を休ませた使徒聖ヨハネが、「私たちは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見る」(ヨハネ19章37節)と述べ、また別の箇所で「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)と述べたようにです。
本日、母なる教会は、主の優しさとあわれみを強調し続けるために、主のたとえ話の一つを取り上げました。
本日の福音で主が言おうとなさったことを少し眺め、説明してみましょう。

百匹の羊を持つ男が、そのうちの一匹を見失いました。彼は九十九匹を砂漠に置いたまま、失われた羊を捜し求めて行きました。その羊を見つけたとき、彼は羊を肩に乗せて連れ帰りました。失われた羊を見つけたので、彼はすべての友人を呼び集めて喜びました。

羊の群れの持ち主は天主です。
は私たちみんなのことです。詩篇94番が「われらは主の民、その群れの羊」というようにです。
聖書によると、砂漠は主の「住まい」(詩編132章14節)です。例えば、天主は「私は彼女を誘って砂漠に連れていく」(ホゼア2章16節)と言われます。それは、天主の近しさのかたどりです。私たちは、この世の喧騒から離れて、砂漠において、沈黙のうちにでなければ、天主を見いだすことはできません。砂漠は、天主が羊たちをご自分のそばに留めておられるところなのですから。

失われた羊は罪びとです。羊は天主から離れて行きました。多分、もっと「わくわくする生活」に惹きつけられたのでしょう。
主は善き羊飼いであり、ご自分の羊のことを知っておられ、それぞれの名前で羊を呼ばれるのです。主は羊を見失ったことにお気づきになると、すぐに失われた一匹を見つけるために羊の群れから離れられます。
これは、いわば天国の住まいを離れて、私たちを救うために、ご托身によって、この世に来られた天主のかたどりです。福音書のほかのところで、主は「人の子は見失ったものを救うために来た」(ルカ19章10節)と言われます。
主は失われた羊の後を捜して追いかけられます。私たちが、例えば良い告解によって回心したとき、私たちがみずから天主のもとへ戻ったのではないことをいつも思い起こさなければなりません。主こそが、私たちを追いかけて捜し、私たちを見いだし、私たちをご自分のもとに、主の聖心のもとに連れ戻してくださったのです。

このたとえは、「彼は見つけ出すまで失われた羊を捜して追いかける」(ルカ15章4節)と言います。その意味は、キリストはその罪びとを見つけるまでは、ご自分の住まいにお戻りになるおつもりはない、ということです。では、主はどのようにして罪びとを連れ戻されるのでしょうか? ご自分の肩に乗せてです。主は、私たちの罪の重さのかたどりである、重い十字架によって私たちを救われました。善き羊飼いとして、主は失われた羊をご自分の肩に乗せて、永遠の喪失から救われるのです。
羊の群れの持ち主は、この失われた羊を見て、この不信仰な羊のために費やした多くの努力、幾多の辛苦の故にお怒りになるでしょうか? そうではありません。羊の群れの持ち主はお喜びになるのです。そして、ご自分の全ての友に、ご自分と一緒に喜ぶことをお望みになるのです。

イエズスの聖心は、私たちをご自分のもとに連れて帰ることができて大変お幸せです。主は天と地にいる私たちが、罪びとの回心を喜ぶことをお望みです。
時に私たちは、不信仰者や群れから離れた人々に対して苦い思いをもっています。しかし、私たちは、少なくとも祈りによって、彼らを探し求めているでしょうか? また、彼らが最終的に群れに加わるか、再び一体となるなら、私たちはそれを喜んでいますか?
私たちは、「失われた羊」が、私たちの隣人である前に、まずは私たち自身であることを忘れてしまっていませんか?

私たちがご聖体を受け、私たちの羊飼いにして救い主であるお方と密接に一つになるとき、聖歌隊は、このたとえの美しい締めくくりの言葉を歌うでしょう。「悔い改める一人の罪びとのために、天主の天使たちの間には喜びがある」。アーメン。
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秋田巡礼-霊的講話【5】-2018年5月4日シュテーリン神父様「新近代主義者はファチマをどのように歪曲化させたか」

2018年06月10日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【5】
「新近代主義者はファチマをどのように歪曲化させたか」
同時通訳:小野田圭志神父


ファチマのマリア様の御出現があった所のみならず、ファチマのマリア様の御像によって、全世界に奇跡があったという話を申し上げました。

マリア様の元に近付いてマリア様にお祈りする人は全て、数え切れないほどのお恵みを頂きました。マリア様の元で回心して、そして聖人となる事はどれほど簡単か、という事をお見せになりました。

このマリア様が訪問される所では人々に、何百万人の人々に、心の平和を与えました。崩壊した家庭をもう一度1つにまとめたり、小教区ではその数を増やし、そしてその熱心を更に増しました。

でも皆さんは仰るかもしれません、「あぁ、これは昔の話であって、歴史の話で、1960年代に起こった事だ。でも今はもうそれは昔の話で、今はその事はどこにもないじゃないか、どうなっているのか。」

「ファチマ」というのは「戦いの場所」です。なぜかというと、マリア様がご自分のかかとで蛇の頭を砕くとすると、蛇はそれに対して抵抗して、マリア様に害を与えようと色んな事をするからです。

悪魔のそのしもべと言うか道具は、「フリーメイソン」と、そして「共産主義」です。たとえ共産主義の勢力がどんどん伸びて、フリーメイソンがどんどん栄えたとしても、マリア様が現れるだけで、それをストップさせるに十分でした。マリア様の小さな御像が現れるだけで、何百年も栄えていたフリーメイソンの支配が終わってしまいました。

しかしフリーメイソンと共産主義の別の敵が、更に悪い敵がありました。聖ヨハネは黙示録の中でこの事をはっきり書いています、「悪魔の仕事は働きは、反三位一体である。サタンというのは『竜』である」と言います。「そしてこの竜には2つの獣がいる。」

最初の獣は、黙示録によると「政治的な権力」として描写されています。「全ての民族、全ての言語、全ての人々は、この獣のイデオロギーに身を染めて、それに支配される」という事が書かれています。

では悪魔の公教要理とは何でしょうか?悪魔の要理というもの、教えというものは2つの文章です。これが悪魔のイデオロギーです。まず第1は、「私は従わない。私は奉仕しない。」悪魔は天主の権威を否定します。そして第2の文章は、「お前たちは天主のようになる。」

イエズス・キリストの否定であり、私たち人間の高揚です。イエズス様への叛意、王座から引きずり下ろす事、そして人間の尊厳の高揚です。人権の宣言。そしてこの政治的な獣のしもべは、フリーメイソンとそして共産主義です。

しかしこの獣といえども、婦人には勝てません。

そこで第2の獣が出てきます。第2の獣は、黙示録の中でよく何度も「偽りの預言者」として出てきます。つまり「霊的な、宗教的な権力」です。「見た感じ、見かけは羊のように子羊のように見えるけれども、しかし話す言葉は獣のように話す。」

つまり、外見はキリスト教の外見を取っています。外見上は天主の子羊であり、イエズス・キリストの形を取ります。しかしその教えは竜の教えです。その教えは、「私たちは天主の掟から解放されていて、そして人間の尊厳は全てに優って素晴らしい。」

聖ピオ十世、私たちの修道会の守護の聖人は、この第2の獣について既に告発しています、「私たちの敵は既に、私たちの中にいる」と。教会を近代化現代化しようとする人々、つまり近代主義者たちは、教会の教えを現代のイデオロギーに合わせようと、教会の教えを変えようとしています。

聖ピオ十世は、この近代主義の動きを断罪しました。しかし聖ピオ十世教皇様が亡くなり、第一次世界対戦の悲惨な状況があり、教皇様たちはどうやってこの近代主義者たちがまた元に戻っているかという事をよくはっきり見る事ができませんでした。近代主義は、その自分の持っているイデオロギーがどれほど酷いものか、のみならず、教会の中に浸透するそのやり方も非常に巧妙なものでした。

そのやり方というのは、「キリスト教、最もキリスト教的だったものを、全く変えてしまう」という事です。「私たちの宗教は、客観的に、私たちの心の外にある、三位一体から教えられた啓示」ではなく、そのカトリックの教えを、「自分の内面から来る、自分の宗教的な感情」に変えてしまおうとしたのです。

例えば、ある時アラビアに住む人の、ある時の宗教的な感情はアラーになった。あるいは中国においては、中国の人は神秘的なものについてのイメージが仏教になる。そして別の所では、ある宗教的なリーダーはイエズス様だった。

近代主義によれば、こうやって説明して、「宗教というのは、外から来るものではなく、人間の内側から来るものだ」と間違って教えました。

そしてその近代主義によると、「人々は変わるので、しかし時代が変われば宗教に関する概念も変わって当然ではないか。16世紀の人たちは地獄とか煉獄とかという事を言っていたけれども、今ではそれは通用しない。その地獄とか天国とか火で燃やされるというのは、16世紀の時代には通用した考えだ。しかし21世紀の現代の宗教は、もっと別の形を取るべきだ」と近代主義は言います。「だから21世紀の今の人の心に合うような、内側に合うような宗教に変えなければならない」と近代主義は言います。

聖ピオ十世教皇様は、このような間違った、近代主義の教えはどうして間違っているか、最初から最後まで詳しく説明して、「邪悪である!」と断罪します。

フランスの方はいらっしゃいますか?フランスは最高なものです。めでたしのお祈りをフランス語だけは、「『私は』あなたに挨拶します」と、「私」という言葉を付けて翻訳しました。もちろんフランスはルフェーブル大司教様、そして多くの大聖人を生み出しました。

しかしフランスは最高の国ですけれども、非常に悪い人々も生み出しました。フランスから近代主義が生まれて来ました。そして近代主義は、フランスから教会の中に浸透しますが、どうやったのでしょうか?教皇様によって近代主義が排斥された時、やり方を変えました。

彼らは教会の中に戻る時に、隠れて戻りました。見かけは非常に敬虔な人です。しかし隠れたサークルの中ではミーティングの中では、近代主義のを教えを書いていました。

聖ピオ十世教皇様は、その「間違ったイデオロギー」と、その「非常な邪悪なやり方」について、2つを発見して、その両方共を断罪しました。そしてこの人たちを、神学校や重要な地位から取り除いて、全てのカトリックの聖職者たちに、「反近代主義の宣誓」をさせました。

次の後継者の教皇様たちは皆、反近代主義者たちでした。「教え」についてはそうでした。しかし、この近代主義者たちがどうやって教会の中に浸透するか、というその「やり方」については注意深く警戒しませんでした。そこで密かな間に隠れて、近代主義者たちが、そうと知らせずに重要な地位を取って占めてしまいました。

ピオ十一世教皇の時代にそうでした。見かけは敬虔で、一生懸命熱心で、それで厳格な司祭、あるいは修道者、あるいは枢機卿様でしたが、しかし隠れて新近代主義の教えを広めていました。そしてそのような人たちは皆フランスにいました。

その内の1人は、フランス人でテイヤール・ド・シャルダンと言いました。このテイヤール・ド・シャルダン神父は、フランスの青年たちを魅惑しました。またフランスのそのような近代主義者たちは少しずつ、フランスの神学校の教授、あるいは大学の教授になっていきました。

ピオ十二世教皇様の時には、そのような近代主義者がもう色々な所での地位を占めていきました。そこで昔のままの近代主義ではなく、それにもうちょっとカムフラージュを付けて、ちょっと混ぜこぜになった「新近代主義」を教えていました。

そしてこの近代主義者のサークルの中で、ファチマの専門家となる人もいます。この人は特別に素晴らしい神学者というわけではなかったのですけれども、アンリ・ド・リュバック、あるいはイーブ・コンガールというフランス人の近代主義者の神学者たちの影響を受けた弟子でした。

この今申し上げるファチマの専門家の近代主義者は、フランス人で、ベルギーにいました。1962年、第二バチカン公会議が始まるその年に、この人はグレゴリオ大学、ローマのイエズス会の大学の学長になります。そしてこの男は、近代主義の原理をファチマに適用させます。

この近代主義によると、「ファチマというのは、マリア様が客観的に外から、私たちに天国から教えてくれたのではなくて、3人の子供たちが心の中で感じた、マリア様に対する感情を表したものだ。」だから、その感情は時によって変わるから、ファチマ1とファチマ2に分けました。ファチマ1によると、「子供たちはマリア様とお会いして、マリア様はどうだ」という事です。ファチマ2は、そのファチマ1を見た後に、「ファチマ1の後にシスタールチアの中にあった感情がどのように変化して、どのように解釈したかだ」と言うのです。

もちろん、ファチマで起こった事はシスタールチアによって私たちは知らされました。そのこの近代主義の司祭によると、「だからファチマでの事は、シスタールチアが自分の感情を書いた手記によるものなので、シスタールチアもちょっと、あまり知的に優れた人ではなかった。」

例えばこの司祭によると、地獄のビジョンについてこう解釈します。この司祭によると、近代主義の原理を応用して、「あぁ、地獄のビジョンというのも、あぁきっとルチアが地獄についての中世の本をこう読んで、その事を夢でもって、そして『マリア様だったらこういう風に言うだろう』という事を、『マリア様は言った』と書いたのだろう。」

この司祭は1945年に、自分の仮説を書いて提示します。

そうするとピオ十二世はこれを読んで、「No、No!」と言ってこれを排斥します。そしてその当時のファチマの専門家たちが、「これは最初から最後まで全部間違っている。」そしてファチマの専門家たちは、「神父様、もしもそんなような事を書くならば、ファチマに行って、シスタールチアと話して下さい、直接。シスタールチアがあなたに説明しますから。」

しかしこの神父様は、ファチマにも行きませんし、シスターとも話をせずに、誰とも話をせずに、自分の頭の中で、ファチマの話の本を書いて出版しました。

すると同僚の近代主義の司祭たちは、「あぁ、素晴らしい本だ!」と言って、この本を賛美します。

それがこの結果が、悲惨的な結果がローマで起こりました。この司祭はダニスというのですけれども、なぜそのような事が起こり得たのか、一体なぜかその理由はよく分からないのですけれども、1952年、突然ピオ十二世教皇様は、このダニス神父とその周りの人たちの影響を受けて、ファチマに対する態度を変えてしまいます。その時からピタリと、ファチマについて一切話す事をやめてしまって、死に至るまでファチマの事について口を閉じます。

ピオ十二世教皇様がたとえファチマについて話さなくなったとしても、マリア様の巡礼は、マリア様のご訪問は世界中に繰り広げられていて、多くの枢機卿、司教様、司祭たちはその為に多くの恵みを受けていました。

そしてその5年後、1957年、第3の秘密がピオ十二世教皇様の元に届けられますが、それを開けて見る事を拒否したのです。金庫の中にそれを入れました。その翌年、教皇様はそのファチマのメッセージを、第3の秘密を見る事なく亡くなりますが、翌年58年に、ヨハネ二十三世が教皇様になります。

しかしヨハネ二十三世は、ファチマの事、ファチマの御出現、ファティマの秘密、汚れなき御心への奉献、ロシア、一切語りませんでした。パウロ六世も同じです。しかしパウロ六世は、ファチマに教皇として行く、初めての教皇となります。

1960年に一体何が、本当ならば第3の秘密が公開されるはずでしたけれど、それについては省略します。1960年には全世界が第3の秘密の公開を待っていました。なぜかというと、シスタールチアによれば、「マリア様は、この年に第3の秘密が公開される事を望んでいる」と仰ったからです。しかし教皇様は第3の秘密を世界に公開する事を拒否したので、ファチマを信じる人々にとっては大きな打撃でした。

別の事がファチマをまたダウンさせました。第二バチカン公会議でした。なぜかというと第二バチカン公会議では、ファチマについて一言も語られなかったからです。たとえファチマの名前がなかったとしても、ファチマでマリア様が仰ったその内容、「これが重要ですよと」いう言葉が語られてもよかったのです。

例えばファチマでは、「多くの霊魂が地獄に落ちている」というマリア様の非常な警告。しかし第二バチカン公会議では、地獄の「じ」の字も、一言も、暗示さえもされていません。

第二バチカン公会議で語らなかったが故に、その後の公教要理、あるいは司祭の、あるいは司教様の教えの中にも、地獄について一切語られなくなりました。

ポーランドで私が働いていた時に、ポーランドの小教区の若い主任司祭たちと会った事があります。この神父様は毎年のように教会で働いて、主任司祭ではなくて助任として、もう毎年のように教会を転々と転任しています。なぜかというと、この神父様は御説教で、「地獄の火」について話すからです。そしてこの神父様は司教区の問題であって、司教区の外にいる人であって、この人だけが昔の古臭い地獄について話す唯一の人だからです。

マリア様はファチマで、このかわいそうな罪人たちが地獄に落ちないように、その特効薬を、その防御策を与えてくれました。それが「汚れなき御心への信心」です。そして「ロザリオ」です。

しかし第二バチカン公会議では、汚れなき御心への信心も、ロザリオについても語られません。

第二バチカン公会議に参加した教父たちは、司教様たちは、その会議の中に、「ぜひ、『教会のお祈りの1つとして、ロザリオはとても良い祈りだ』という事をテキストの中に入れて下さい」と懇願しました。

しかし、この司教様たちのこの謙遜な熱烈な懇願も受け入れられませんでした。なぜかというと、「『ロザリオ』という事が入ると、分かれた兄弟たち(プロテスタント)の気分を害するから。」

ファチマでは、ロシアの誤謬が広がる「共産主義」について、多くマリア様は警告しています。第二バチカン公会議の時には、ビシンスキー枢機卿様と一緒に300名以上の司教様たちが、懇願の書を出して署名して、「共産主義を公式に断罪するように。『共産主義は非常に危険だ』という事を言うように」と要請しました。

しかしそれは受け入れられませんでした。なぜならば、「この第二バチカン公会議は、排斥する公会議ではなくて、世界に開かれた公会議で、肯定的な公会議でなければならないからだ。」

300名以上の教父たちが、「『マリア様が全てのお恵みの聖寵の仲介者である』という事をドグマとして宣言するように」と懇願しました。しかしこの懇願も要請もお願いも受け入れられませんでした。

「罪人の回心」という事もファチマでマリア様はたくさん話しましたが、これについて一言も第二バチカン公会議では述べられていません。

マリア様が話したのは「真の信仰への回心」です。しかし第二バチカン公会議ではその反対を言います、「非カトリックのみならず、非キリスト教の宗教と一緒に対話をして、そして協力して、良い世界を作ろう」と。

「ロシアをマリア様の汚れなき御心に奉献する」という要求も一言もありませんでした。

マリア様のファチマのメッセージと、第二バチカン公会議の新しい精神とは対立するものでした。

ですから、「第二バチカン公会議とファチマとが矛盾、対立している」という事を見た第二バチカン公会議派の人たちは、ダニス神父の言った、近代主義によるファチマの解釈を非常に歓迎したのです。

そのおかげで、第二バチカン公会議後、ファチマの熱心がますます冷えていきます。パウロ六世教皇様がファチマに行った事が非常に悲惨でした。パウロ六世はシスタールチアと写真は撮りますが、話はしません。パウロ六世はその御出現の場所にさえも行きませんでした。なぜかというと、他の宗教の指導者たちとミーティングがあったからです。ファチマでマリア様が仰った事について一言も言いませんでした。

ですから、第二バチカン公会議の後に、ファチマについて何が起こったのか皆さんよくご理解できると思います。

2つの違った態度があります。

一方で、近代主義やあるいは超(新?)近代主義の人々は進歩主義の人々は、ファチマについて全く語りません。その人たちはファチマについて反対して何か戦おうともしません。むしろファチマを促進するかもしれません。どうやるか知っていますか?

どうやるかというと、ファチマにホテルを造ります。そして世界中の人々を集めて、巡礼団を作ります。そしてそこでお祈りをするようにします、あるいは犠牲を払うように。団体で巡礼を募ります。しかし皆をそこに集めて、そこで近代主義の教えを教えます。

私が最初に第1回目にファチマに行った時に、どこにも、ファチマのどこにも大きなポスターがありました。そしてこのポスターには、手で聖体拝領をしている写真が載っています。「これがイエズス様を感じるやり方だ」と「イエズス様を愛するやり方だ」と宣伝の文句があります。そこでポルトガル人の神父様に聞きました。そこで何と答えたか知っていますか?

するとこの神父様によると、「ポルトガル人は手による聖体拝領は大嫌いだ。でもファチマに行くのは好きだ。そこでファチマに行って、手による聖体拝領を教えられた。」と。

そしてファチマは近代主義によると、「収入源になると同時に、カトリックのメンタリティーを変える良い絶好の場所になる。」

第2のグループは、近代主義ではなくて保守派の人たちの態度です。この保守派の人たちは、司教様とか枢機卿様で、ファチマの事を信じています。そしてファチマをサポートして、支持して、それを推進させます。ブルー・アーミーとか色々なマリア様の運動をサポートします。しかし残念な事に、この保守派の人たちは、ファチマの一番核心のメッセージについて話しません。

例えばヨハネ・パウロ二世です。ヨハネ・パウロ二世教皇様は、マリア様について特別の信心がありました。ヨハネ・パウロ二世教皇様にとってファチマは非常に重要な場所で、何度も巡礼に行きました。しかしヨハネ・パウロ二世教皇様は初土の信心についても、あるいは汚れなき御心に対する信心についても一切、ロシアの奉献についても話しませんでした。そしてロシアの奉献については、特別の解釈を持っていました。暗殺未遂のあった時に、その以前はファチマのメッセージについてあまり関心がなかったのですけれども、暗殺未遂があった後には、メッセージについて非常に関心を持ちました。そして2000年にはヨハネ・パウロ二世はファチマの子供たちを列福します。第3の秘密と言われるものも公開します。一度、人類を天主の御母であるマリア様に奉献する事もします。

この実りは何でしょうか?その実りは、マリア様が一番仰りたいというその核心のメッセージが伝えられずに、いわばマリア様は口を封じられたかのようになってしまったという事です。そこでマリア様は仕事をする事ができなくなってしまいました。

そこでその後にあった作戦はどうだったのでしょうか?これはまだ続いています。つまり保守派によれば、ファチマの外的な目に見えるところや、あるいは第二次的なものが強調されます。例えば御像とか、聖母行列とか、ファチマの世界平和とか、隣人愛とか、子供たちの生活など。そこでマリア様の仰った、一番仰りたいと思った事が沈黙させられて、そしてあるいは歪曲されています。

例えばマリア様が仰った「罪人の回心」という事は横に置かれて、その代わりに「どの人に対しても寛容であろう」というスローガンが言われます。

例えば「ロザリオ」についても、ロザリオについては言われるのですけれども、ロザリオは結局、「聖書を黙想する事」に変えられます。しかしロザリオは「悪魔に対する武器」「この世界を回心させる為の武器」としては、全く一言も述べられません。

「ロシアの回心」についても同じです。ソ連が崩壊してそして鉄のカーテンが無くなった時に、「あぁ、これはファチマのマリア様のおかげで、そして共産主義はもう死んでしまったのだ!」

そうすると私たちの目の前に、ファチマのマリア様について別のイメージが提示されています。

ですからこの世界の歴史、あるいは教会での出来事について、ファチマの目で見る事がどれほど大切であるか分かるでしょうか。なぜかというと、第二バチカン公会議の後には、もうファチマの役割は終わって、マリア様の特別な特権というものについても話されずに、プロテスタントの人たちをあまり傷付かせないように、あまり気を悪くしないような事だけが話されているからです。

しかしマリア様は、既にこの事をよく知っていました。マリア様は目に涙を溜めながら、「彼らは、私の要求を聞き入れなかった」と。その為に、マリア様は悲しいかな、「大きな不幸が教皇様、そして教会に、そして世界に起こるだろう」と予言しています。

マリア様のファチマでのメッセージと、第二バチカン公会議後の新しい方針というものは全く対立しています。第二バチカン公会議の精神が、「素晴らしい」というものを、マリア様は排斥しています、「ダメだ」と言っています。ファチマには、今で言う「エキュメニズム」とか、あるいは「信教の自由」というものは存在していません。第二バチカン公会議では一言も言わないような事、第二バチカン公会議が無視するような事を、マリア様は「大切だ」と仰っています。

ですからファチマは、今の私たちにとって、「教会の危機というものはどのようなものであるだろうか」という事を見せてくれるものなのです。そこでシスタールチアは、もうその後、第二バチカン公会議後、話す事も書く事も禁止されました。そしてファチマについての最も深い神学者の書いた、例えばジョアキム・アローム神父様が書いた物は、私たちは読む事さえもできません、今。

これがファチマ100年の後半部に起こった事です。ファチマの後半部は多くの衰退がありました。人々は方針を失ってしまって、信仰を失ってしまいました。

では私たちにとって、一体これは何の意味があるでしょうか?

「ファチマの元々のメッセージに忠実であるべし」という事です。もしもそうであるなら、いつの時代にも実りがもたらされます。フィリピンでのミッションツアーを見て下さい。ファチマのメッセージに忠実であればあるほど、私たちの心に平和と光が戻ってきます。家庭は平和であるし、周りの全てはうまくいきます。しかしマリア様のメッセージを無視するならば、暗闇がやって来ます。

そこで、ファチマについてまたもう一度お読み下さい。ファチマこそ、終末の時代の私たちに必要なものです。「さぁ、去年ファチマ100周年をやったので、次の100周年までファチマについて話さない」というのは間違いです。まだファチマではこれからなされるべきという事がたくさん残っています。

「初土曜のマリア様の汚れなき御心の信心」というのは、教会に全世界に広く普遍的に広まっているものではないのです。マリア様の要求した通りに、ロシアが汚れなき御心に奉献されたわけではありません。私のファチマについて書いた3番目には表が載っています。ピオ十二世教皇様からヨハネ二十三世まで、教皇様がファチマのマリア様の奉献をした年と、そのどういう条件を満たしたのか、という事を分析したものですけれども、マリア様の仰った通りになされた事は一度もありませんでした。

そしてこの第3の本の75ページから150ページの間の、75ページの間に、「第3の秘密と言われている、私たちが言っているものは、実はまだその本物が公開されていない」という色々な理由を説明しています。

マリア様は予言します、「教皇様は私の汚れなき御心にロシアを奉献するでしょう。しかしそれは非常に遅れるでしょう」と。

でも私たちはそれを早める為に何も影響力がありませんから、私たちができる事を、あるいは私たちはしなければならない事があります。まず教皇様がロシアを奉献するのを待つ間、私たちも私たち自身を、私たちの家族を、私たちの教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。

今フィリピンでは、ベトナムの独立派の人たちとフィリピンの軍が対立してこう戦っていますけれども、ある将軍は私たちの司祭に、「神父様、私はこの何よりも、この私の配下の軍の軍人たちを、マリア様の汚れなき御心に奉献する事を望みます。なぜかというと、彼らがいつ命を失って、戦いで命を失ってしまうか分からないからです。ですから彼らの為に全てをマリア様に委ねます」と言って奉献しました。「なぜかというと、私の配下の部下たちは、マリア様は彼らを助ける事ができると、守ることができると信じているからです。」

この将軍のように、マリア様を知らせて、マリア様が愛されるようにして下さい。

ファチマでは、マリア様は御出現される度に、「毎日ロザリオを唱えなさい」とお願いしました。「私の汚れなき御心に対する信心をしなさい」と言いました。「初土の信心をしなさい。償いの聖体拝領をしなさい。」マリア様の名誉の為に、世界に何をする事ができるか、という事をファチマで仰って下さっています。

そしてファチマの最初の部分では、宣教師たちは、ファチマでマリア様が一体何を望んでいるのか、何を仰っているのか、詳しく皆に教えました。私がプロテスタントの牧師たちの為に黙想会の間にやった事は、ファチマのマリア様が仰った事を説明する事でした。

まず黙想会の最初の日に、プロテスタントの牧師たちにロザリオを配りました。すると最初の日は、この牧師さんは何か蛇を掴むかのように嫌がって、そしてある牧師たちは「ロザリオはいらない」と言いました。「神父様、私にはプロテスタントの牧師という名誉があります。こういう物に触る事もできません。」

「でも触っても害はありませんよ」と言うのですけれども。「しかもこのロザリオのお祈りをする時に、私たちは聖書のお祈りを使っています。使徒信経の『我は天地の創造主…』というのを祈りますか?」
「はい。」

「天にましますを祈りますか?」
「はい、祈ります。」

「めでたし聖寵…これは祈りますか?」
「いやいや!祈りません!」

「待って、『めでたし聖寵充ち満てるマリア、』これは聖ルカの1章28節にあります。あなた聖書を読んだ事があるのですか?」
「読みますよ!」

「そしたら聖書にある通り祈って下さい。そこで天使祝詞の最初の部分は聖書に載っているので、必ず祈らなければなりません。」

そして結局ロザリオを受け取りました。

そしてプロテスタントの牧師さん達に黙想会の間、「マリア様は誰か」という事を説明しました。皆知らなかったのです。彼らの頭にあったのは、カトリック信仰とは何の関係もない議論で、そして例えば「あぁ、カトリックはマリア様を半分女神のように拝んでいる」とか「カトリックはイエズス様を無視している」とか「救われる為にはマリア様の御像に接吻すれば良い」とか、とにかく何か全然カトリックの教えではないような事を信じていました。


そこでマリア様についての話をすればそれほど、深く理解していきました。そこで牧師さんたちに、「さぁ友人の皆さん、皆さんはご自分をマリア様に奉献しなければなりません」と言うと、私の方を見ました。

「でも友人の皆さん、牧師さん達、イエズス様は30年間何をなさいましたか?ルカの第2章を読んで下さい、『イエズスは、彼らに従っていた。』つまりイエズス様は、マリア様とヨゼフの子供として、この2人の言いつけのままに従っていた、という事で、自分の事は自分の思い通りはしなかったという事です。ヨゼフ様が亡くなった後には、マリア様の言いつけの事だけをしていた、という事です。イエズス様ほどマリア様に従順だった子供はありません。」

「イエズス様は何と仰いましたか?『私は、お前たちの為に模範を残した。それはお前たちが私のやった事をする為だ。』イエズス様ほどマリア様に奉献された人はいません。そして聖書によれば、イエズス様は御自分がなさったようにお前たちもしなさい、と言っています。」

すると、19名のプロテスタントの牧師たちの黙想会をしましたが、その時の様子を映画で撮っておけば良かったです、こう目を大きくして、目を大きくして互いに目を合わせて。

毎晩ロザリオを唱えたのですけれども、最初の頃から、1日黙想会が進むにしがたって、声が大きくなっていきます。最初の日はロザリオを私1人で唱えていました。第2日目は1人か2人が答えました。第3日目はちょっと声が大きくなりました。最後の日には、大きな声で一緒になって、プロテスタントの牧師さん達がロザリオを唱えていました。そして最初ロザリオを受け取らなかった牧師さんは、後には、どこに行くにもロザリオを付けてお祈りするほど変わっています。

そして黙想会が終わった後に、ある牧師さんが立ち上がって、目に涙を溜めて、「私たちは本当に愚かだ!私は、私たちにお母さんがいらっしゃる事を発見した!お母さんのない家族などない!この黒い服を着た鳥から、私はお母さんを学んだ。私の母を愛して信頼するべきだという事を学んだ。そして私のプロテスタントのこの教区の信徒にとって、これこそが私たちの母に行く道であり、武器だ!」と。

15年前にこうやって始まったこの黙想会ですけれども、カトリックへと道を今準備しています。

ですからたとえ相手が、プロテスタントとか、あるいはマリア様を否定するような人だと言ってても、心配しないで下さい。不思議のメダイ、ロザリオを与えて下さい。

今日の拷問はこれで終わります(^^)
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秋田巡礼-霊的講話【3】-2018年5月4日シュテーリン神父様「マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができる:マリア様がファチマでなさったこと」

2018年06月09日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【4】
「マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができる:マリア様がファチマでなさったこと」
同時通訳:小野田圭志神父



平和の象徴として色々なものがありますが、1つには鳩があります。ノアが方舟の中で、洪水が終わったのかどうかという事を知る為に鳩を放した時に、「鳩は緑の葉っぱの付いたオリーブの枝を持って来た」ので、その時から平和のシンボルとして使われます。

昨日私たちは、ポルトガルという国において、マリア様が非常に短期間の間にキリスト教的な平和をもたらした、という事を見ました。

ではポルトガルの人々は、どうやってファチマのマリア様と接触をしたのでしょうか?2つのやり方でした。

まず第1には、「巡礼」でした。毎月13日に、ポルトガルの人々はファチマに巡礼にやって来ました。

もう1つは、「マリア様の御像が訪問した」という事です。

御出現の数年後、ある司祭は、「私たちがマリア様に行くと同時に、マリア様にも私たちの所に訪問してもらおう」というアイデアを持ちました。マリア様の御像はファチマを出て、色々な各地をご訪問して回りました。ポルトガルのみならず、マリア様の御像は世界中を訪問しました。

2年前、私たちはこの小さなマリア様の御像が村々に入って訪問した時に、家庭に入って訪問した時に、どれほどの事をする事ができるか、と想像する事もできませんでした。ポルトガルの村々はマリア様の御訪問によって、全体が、全く道徳的に回心しました。

マリア様は、その他の奇跡も行いました。これは鳩の奇跡です。多くの御像には、マリア様の足元に鳩が付いているものがあります。この奇跡は、最初にマリア様がファチマからリスボン(ポルトガルの首都ですが)に行くまでに起こりました。リスボンの大司教である枢機卿様ご自身が、この奇跡について語っています。

どこからともなく、知らない鳩が、マリア様の御像の所に留まって来たのです。マリア様の足元の所に座って、そのままじっとしています。一羽ではなくて数羽。その巡礼者が「シッシッ!」と言って、鳩を追いやるのですけれども、また戻って来るのです。

普通、ちょっとした雑音とか音を出すと、鳥は恐れてどこかに行ってしまいます。マリア様の御像の前で、色んな歌とか、音とか、色んな事をするのですけれども、鳩はそのままマリア様の足元にずっと留まっているのです。

特にこのポルトガルでは、御聖体に私たちがよくするように、花の花びらを集めてマリア様の所にふりかけるのです。すると毎日のようにこの鳩は、花びらのシャワーを浴びていたのです。でも動こうとしません。

12月、非常に気候の寒い時、12月の寒い気候の間に、何百キロとマリア様と共にこの鳩はずっと付いて、留まって、歩いて行きました。この普通では考えられません。同じ事が、ポルトガルだけではなく、他の国々にも起こりました。

それでその鳩を追いやろうと色々試みるのですけれども、できません。必ず戻ってきます。そこである人は研究しました。分析をして、「一体どこの国で鳩が現れたのか、どこの国で現れなかったのか」すると鳩は、カトリックの国で現れたそうです。大多数がカトリックでない所では、鳩は現れなかった。

もしも私たちがこの事を解釈するならば、この「鳩」というのは「平和のシンボル」ですから、「マリア様は私たちの霊魂、家族、国に平和を、御自分の平和を与えたいと思っている」という事です。

ポルトガルだけでも、ファチマがどれほど重要か、という事を理解するのに十分ですけれども、しかしこの秋田の巡礼に来られた皆さんが、巡礼に来た実りとして、ますます大きな信頼をマリア様に寄せる事ができる為に、この話をしたいと思います。

ファチマの御出現から今現在まで、100年経ちました。この100年を2つの部分に分ける事ができます。御出現の直後の50年と、その後の50年に分ける事ができます。

最初の50年は、ファチマのマリア様の凱旋でした。まずピオ十二世教皇様がご自身でなさったこのファチマのマリア様の祝福の為に、多くの実りがありました。ご自分自身の事を「ファチマの教皇」と言っていました。

5月13日の最初のファチマの日に、実はローマでピオ十二世教皇様は、司教様として聖別されていました。第二次世界大戦の間、「この戦争を終わらせる為には、マリア様の汚れなき御心に奉献しなければならない」という事を知っていました。このピオ十二世教皇様がなさった汚れなき御心への奉献は、世界中にファチマのマリア様の事を知らしめました。教皇様は世界中の司教様たちに、また司祭たちに、「教皇様ご自身と心を合わせて、この奉献をするように」と招いていました。

私たちの聖ピオ十世会の『CHRISTIAN WARFARE』というお祈りの本には、このお祈りが載っています。とても美しいお祈りです。この聖別のこの奉献の祈りによって、教会の中に大きな霊的な刷新が行なわれました。それはロシアの奉献ではなかったのですけれども、「全世界と教会を、マリア様の汚れなき御心に奉献する」という事でした。

その奉献が終わった数年の後の、教皇様の書いた回勅、あるいは教皇様の指導、あるいは教会での発展というものは、目を見張るものがあります。 その教皇様のなさったお話や講話や、全集という物がありますけれども、それを読むと教皇様がどれほど多くの実りをもたらしたか、という事が分かります。

第二次世界大戦によって、多くが崩壊されて壊されてしまった只中で、教皇様の指導によって霊的な刷新と、大きな盛り上がりがありました。今でも、私たちがこの霊的な糧として使っている、その時代に書かれた教皇様の書いた回勅は、非常にしっかりとした教義の本、回勅です。その現代に合っている、非常に深い、伝統的な、聖伝に合った、近代主義の誤謬をはっきりと指摘する教えが、その時にその時代に述べられました。

1947年には、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールや、あるいはカタリナ・ラブレを列聖しました。つまりピオ十二世教皇様は、「マリア様のまことの信心、自己奉献、あるいは不思議のメダイは真である」という事を促進したのです。

1950年は聖年でした。 1950年にはこの聖年において、教皇様はその現代における最後のドグマの宣言をしました。「マリア様の被昇天」のドグマが宣言されました。1950年同じ年に、聖ピオ十世教皇様の書かれた物と同じ題に沿った、近代主義を排斥する回勅を書かれました。

マリア様、ファチマのマリア様に対する信心、それを促進させる、皆に勧めている事によって、教皇様はその当時、全世界に光り輝く指導者となりました。教皇様としてのその使徒職を通して、多くの人々がマリア様とイエズス様に近寄ってきました。特にこう新しく結婚した人々に対する講話が有名です。ピオ十二世教皇様のこのお言葉ほど、新しく結婚して家庭を作ろうとする人々に対する励ましのものはありません。

同時に「新近代主義者」と言われる人たちが教会の重要な地位を占めつつありました。しかし、教皇様はそれに抵抗して、「教会の教えはこうだ!」といつも示してきました。

また教皇様は、「教会とは一体何なのか」あるいは「聖伝の典礼は何なのか」という事を教えました。エキュメニズム、「本当のエキュメニズムとは何か」という事も教えました。本当のエキュメニズムというのは、「カトリック教会の元に、多くの人々を呼び寄せる」これが本物のエキュメニズムです。

共産主義も排斥しました。反キリスト教的な運動を全て断罪しました。

ピオ十二世が真の道を進めば進むほど、多くの敵が反対しました。したがって教皇様は、いわば孤独な、一人ぼっちに立たされた教皇様でした。教皇様はバチカンの内部においての裏切りや、あるいは陰謀なども見出しました。その時にすぐに教皇様は、マリア様の元に避難所を見出しました。

これは1952年まで、このように続きました。

ところが、1952年になると、知らない内に信じられない事が起こってしまいました。これがファチマの歴史の第2部が始まる事です。これについては後にお話します。

スペインに話を移します。スペインでは1947年から、スペインの各地をマリア様が回って訪問しました。この情景を見た人は口を揃えて言います、「スペインでは、このような事はかつてなかった。」

マドリッドの司教様はこのように感謝のお礼の手紙をしています、「マリア様の御像が私の司教区に入った途端、人々の霊魂を魅惑した。10万100万の人々のみならず、それ以外の無神論者や、信じていない、信仰を失った人たちをも惹きつけた。信仰を失った人、あるいは共産主義や社会主義の手に入ってしまったような人たちがまた戻ってきた。マドリッドでこのような事を見た事がなかった。」

司教様の話によれば、「全国で国中で、人々の話はマリア様の事だけだった。数え切れないほどの奇跡や、数え切れないほどの回心が起こった。マリア様が御訪問なさった9日間の為に、私の使徒職、25年の司教職を与える、それと交換できる。司祭たちは告解の行列があまりにも長かったので、告解場でほぼ死なんばかりでいた。マドリッドの近郊にある主任司祭は私にこう言った、『15年、20年、30年以上告解に来ていなかった、という人が告解に来たけれども、その告解の人々のそれが40%に上った。』」

1954年には、フランコ将軍によるスペインの国家のマリア様への奉献がなされました。同時に、ローマとスペインの間に政教条約が結ばれて、その条約の中には、「スペインの唯一の宗教は、カトリック教会である、カトリック宗教である」と書かれました。

フランスの話もさせて下さい。フランスではもっと良い話があります。1943年、第二次世界大戦の間、フランスの司教様たちは、各地で自分の司教区をマリア様の汚れなき御心に奉献します。この事を転機として、フランス国内で『大立ち戻り』という名前の運動が行なわれ、天主の元に立ち戻る、これはフィリピンで行なったマリア様の行列のフランス版です。

5年間の間、16000の小教区をマリア様が巡礼して訪問しました。正確に5年の間、60ヶ月の間、40から50名の司祭に囲まれて、マリア様は巡礼しました。一緒にこう付き添った司祭たちは、どこに行っても告解を聞くので忙しくて、自分の時間がありませんでした。それはちょうど17世紀に、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ以来見た事がなかったような、カトリック信仰への立ち戻りがフランス国内でありました。

1947年、マリア様の御像はアメリカに行きます。マリア様がファチマに行った時に、コルゲン神父様と、あとジョン・フェファーという平信徒が『ブルー・アーミー』を作りました。このブルー・アーミーというのは、マリア様の運動の歴史の中で、世界最大のものです。フルトン・シーン司教様というのは有名な司教様ですけれども、マリア様の使徒となって、マリア様の事をアメリカに知らせました。このファチマのマリア様のおかげで、今までアメリカが見た事もなかったような、10万人あるいは何十万人もの人々が、大人が、カトリックになって回心して、洗礼を受けました。

1959年には、ブルー・アーミーの会員は5000万名になりました。1956年には、ブルー・アーミーの本部は、ファチマのアリア様の聖地のすぐ隣に作られました。

1946年以後、ファチマのマリア様の御像は世界中のどこでも行くようになりました。ポ-ランドやフィリピンにも御像が訪問します。47年にはカナダやベルギーあるいはハンガリー、49年からはアジアの各地を回りました。

私の話をします。もう皆さんもうご存知だと思いますけれども、アフリカの宣教師として働いていた時があります。私たちがその宣教を始めたばかりの時に、ある司教様がやって来ました。それはガボンでのミッションを始める時ですけれども、その訪問して下さった司教様はルフェーブル大司教様の教え子でした、それはシリアコ・バンバー司教様でした。ルフェーブル大司教様の弟子、子供たちに挨拶をする為にやって来たのです。

1987年にこの司教様が訪問して下さったのですけれども、その時私は司教様と色々な話をしました。お話の種が尽きそうな時に、私はこんな質問をしました、「司教様、司教様の司祭としての生活の内で、一番素晴らしい出来事は何ですか?」そのお話をした部屋には、小さなファチマのマリア様の御像がやっぱりあったのですけれども、その時の様子をまだ昨日であったかのように思い出します。

すると司教様は、「このマリア様こそ、私の司祭としての一番大きな出来事だった」と言います。

「それは、ファチマのマリア様の御像が初めてガボンにやって来た時で、私はランバレネという村の小教区の主任司祭でした。ランバレネというのは世界中で有名な村で、なぜかというとシュバイツァー博士がそこで働いていたからです。そこでそのランバレネの村では、ほとんどがプロテスタント、あるいは異教徒で、カトリックは本当の少数でした。」

司教様の話によると、マリア様の御像がランバレネにやって来て、2週間留まったそうです。毎晩のように聖母の行列をやったり、あるいはマリアの歌を歌ったり、お祈りをしたりして、色んな事がされました。それで毎日司祭は、「あれ?一体どこからこんなにたくさんの人が来るんだろう?」と思いました。来る人はほとんどがカトリックじゃないのです。プロテスタント教区の教会から来る人や、あるいは信仰のない人、異教徒の人がやって来ます。プロテスタントの牧師さんが、「あっちに行ってはいけない!」と言うのですけれども、皆行っちゃうのです、マリア様が引き寄せてしまいました。

私の前の司教様は目に涙を浮かべて、「私は司祭としてこのような事を見た事がなかった。1日前、めでたしの『め』の字も言うのを拒否したこのプロテスタントの人たちが、マリア様の歌を歌って、讃美歌で『マリア様は素晴らしい!』と、皆で声を合わせて大きな歌を歌っているのです。いくらお願いしても、教会の中に足を一歩も踏み入れる事を拒否したような異教徒たちが、教会の中に入ってマリア様を讃美している。」ですから、司祭と神父様が教会に入る事さえも、最後には入ることさえも難しいような人だかりになってしまいました。

その年の終わりには、カトリックの人口がプロテスタントよりも上回ったそうです。他の年よりも洗礼の数が10倍に増えたそうです。ちょうどマリア様が磁石でこう引き寄せたように、今私が言う事を誰も信じないかもしれませんけれども、私も信じられない事が起こりました。

その前は本を書いたり、色々討論をしたり、プロテスタントの人たちに説得したりしましたが、何も起こりませんでした。でも今回は、何も仰らない小さなマリア様の御像を置いただけで、人々が集まってきて回心しました。

私はその話を昔、司教様から直に聞きました。その後に色んな証言を読んで、世界中どこでも同じ事が起こった、という事が分かりました。

ちょうど1年前、フィリピンで同じ事が起こりました。ファチマのマリア様の御像をとって色々な所を訪問して回りました。有名な「マリア様のミッションツアー」というものです。

もしも私たちがその所に行ったとしても、挨拶もしません、全く私たちは無視されて当然の存在です。フィリピンで不道徳がもう各地に這っています。「私たちが巡礼をしてまわったら、もしかしたらマリア様を知っている人が、少しは気にかけるかもしれない」と思って始めました。

私たちがこう始まって2つの町、2つ目、3日目の村を行った時に、村長さんとか市長さんとか、あるいは学校の校長先生とか、色んな所の人が、「マリア様、ここを訪問して下さい。ぜひこっちに来て下さい」とお願いをされました。この村や町や地域や学校を、聖母の汚れなき御心に奉献するのです。

イロイロではこんな事がありました。ダニエルス神父様はこういう話をしてくれました。

県庁知事に当たるような方ですけれども、1つの州のそこのガバナーと言いますかトップの人に、神父様が、「どうぞこの州を地方をマリア様に奉献なさって下さい。どうしたら良いかというと、このお祈りをすれば良いのです。」といいました。

「え?このお祈りちょっと見せて下さい」と言って、この祈りを見ると「あぁ、このお祈りをする事はできない。なぜかというと、『私は、フリーメイソンの回心の為にお祈りします』と言う事は、これはできない。私はフリーメイソンだから。」

ダニエルス神父様はマリア様にお願いしたそうです、「助けて下さい。」

「でも県庁知事、これはあなたの個人的なお祈りではなくて、知事としての公的なお祈りですから大丈夫です。」そうすると知事は、「あぁ、その通りだ。私はしよう。」

このフリーメイソンの知事が、この県の職員が皆マリア様の御像に跪いて、このお祈りをして奉献したのです。

ダニエルス神父様のその奉献式の後で、「カルメル山のマリア様のスカプラリオの着衣式をするのはどうか」と言いました。

県知事は、最後の最後まで最後まで、ずっと立って待っていました。県の職員、皆にスカプラリオをやって、最後に県知事の方にやって来ます。

県知事の前に行った時に、ダニエルス神父様は、「マリア様、助けて下さい」と言ったそうです。ダニエルス神父様は自然に、「これは、マリア様からあなたへのプレゼントですよ。」

すると県知事は目に涙を溜めて、跪いて、スカプラリオの着衣式を受けました。

その後で県知事はダニエル神父様に何と言ったか知っていますか?

「あぁ、私フリーメイソンになっちゃいけないと初めて聞きました。でも私の同じこのフリーメイソン同僚の中には、司教様や神父様もいらっしゃるのですけれども、初めて聞きました。」

もしも司教様や神父様たちがフィリピンに行って、ファチマのマリア様の事を少しでも皆の前に話をしたら、今頃フィリピンは全部がカトリックになっていた事でしょう。

このマリア様のミッションツアーで、この人々が私たちに直接こう言うのを聞かない限り、もしも私たちだけだったらこれはもう信じる事ができない事を、皆さんから聞かされます。

例えば20歳や30歳になる人が告解の時に、「神父様、私のこの前の告解は初聖体の時でした。」聖伝の事も全然知らないし、聖伝のミサも全然知らないし、何も知らない人たちが、マリア様の御像を見て、「あぁ、告解しよう」と思ってやって来るのです。30年から40年の後に初めて告解するケースです。

このマリア様がフィリピンの間を回っている間に、司祭の数が少なかったので、1人か2人の司祭しか一緒に行くことができなかったのです。けれども、その間に約10万ほど不思議のメダイを配りました。それから5万名の方がM・Iに参加しました、会員になりました。 ファチマのマリア様の御出現の後その50年間の間は、フィリピンにこのようにあったように、世界中で信じられないような回心と御恵みがいっぱいありました。

イエズス様が昇天された時に、12人の使徒たちを世界に送りました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。」

1917年、一体コヴァ・ダ・イリアで何があったでしょうか?貧しい3名の牧童たち、それから貧しい寒村、何もありませんでした。そのこの30年、カトリック世界で最も重要な出来事はファチマでした。世界中からファチマに巡礼者が何百万人と行くようになりました。これを見ると、「マリア様こそ本当の宣教師だ」という事が分かります。

土曜日には司祭はこうマリア様の讃美を歌いますけれども、「あなたはたった一人で、世界中の異端を滅ぼした給うた。」マリア様はたった一人で、近代主義や異端者を信仰に立ち戻らせます。プロテスタントや異教徒をカトリックの信仰にへと引き入れます。

もしも皆さんが30年、40年間まだ告解に行った事がないとしたら、「行くか、告解に行かないか、行くとどうしようか」とそれを決心する為に長い時間かかるかもしれません。ところがマリア様が現れたら、すぐに跪いて、「告解に行こう」と。

ですからマリア様は「力ある童貞」、確かに力ある童貞です。マリア様は必ず奇跡を行われるからです。

マリア様の御出現50年後は、フリーメイソンがますます力を得て、共産主義もますます力を得ています。東欧では全く共産主義の手に陥ってしまい、カトリック教会は東欧で迫害さえも受けています。

ちょうどこれは比較できます。16世紀にイスラム教徒が侵入してきた時に、マリア様がそれに打ち勝ったという事。それとそれに打ち勝ったように、ますます力を得ている共産主義やフリーメイソンに、マリア様はいきなり勝って、それを回心させます。スペインやポルトガルであったように、いきなり起こった変化に気を付けて下さい。無秩序や無政府主義から大きなカトリックの秩序に戻る、等という突然の変化があります。マリア様がこの世界中を訪問している間、一体何が起こったのかという事をよく調べて下さい。

この御像を通して、マリア様が私たちの目に見える方となります。あるいは別の言い方をすると、マリア様の御像は、マリア様が本当に現存しておられるという事の目に見えるしるしとなりました。このマリア様の御像が、多くの人々を御自分の元に引き寄せたのです。

ほとんどの場合、マリア様が引き寄せた人々は、信仰を失った人、信仰をしていない人たちでした。もしも私たちが宣教師として誰かをカトリック教会に招待しよう、あるいは信仰をするようにと何とか説得しようという時には、どれほどの努力が必要でしょうか。でも人々は知っています、「マリア様はお母様だ。」

たとえマリア様に引き寄せられたとしても、まだこの人たちは罪の状態にあります。ところが、この人たちがその元にやって来ると、マリア様はこの人たちに語りかけます。聖歌を通して語りかけます、あるいはこの御像を通して、マリア様が仰った言葉、あるいはなさった奇跡などについて語りかけます。以前の偉大な宣教師たち、現代の偉大な宣教師が、マリア様がなさった事を皆さんに説明します。

ところが悲劇は、マリア様の仰った事、あるいはマリア様が何を仰ったかという事を語らない事です。マリア様はご自分の子供の事をよく知っています。マリア様は子供が目に見える何かを必要としている事を知っています。目に見えるものを通して、目に見えない天国の事に惹かれるのです。もしもマリア様が涙を流さなかったとしたら、誰も山の中にある修道院の事やこの御像の事について知りませんでした。

ですからマリア様の御像が訪問する時に、ファチマで何をなさったか、何を仰ったか、という事を皆さんに語りかけます。特に、「御自分の汚れなき御心を私たちに見せた」という事について教えてくれます。一歩一歩、マリア様は天主様の恵みを世界に、世界中に伝えるのです。

マリア様は昔からそれをなさっています。聖ドミニコの時代から、ロザリオを通してなさいました。それはマリア様を通して、マリア様と一緒に天主様にお祈りする、という事を教える為です。聖シモン・ストックを通して、茶色のスカプラリオを与えて下さいました。母親として私たちに服を着せて、悪から守って下さるのです。聖カタリナ・ラブレを通して、マリア様は不思議のメダイを下さいました。 M・I が無原罪の聖母の騎士が使う、あるいはブルー・アーミーが、あるいはその他レジオ・マリエが使う道具を使って、私たちに回心をして下さいます。

では、ファチマはなぜそれほど特異な特別な存在なのでしょうか?なぜかというと、マリア様の私たちを愛する御心を示して下さったのが、ファチマだからです。他の御出現はマリア様と一緒にマリア様を通して何をするかを教えてくれます。でもファチマはもっとです。なぜかというと、ファチマではマリア様はご自分の心を、御心を私たちに下さるからです。ファチマ以上の事をマリア様は下さる事はできません。なぜかというと、もう御心で全ての事を私たちに下さっているからです。

ですから、この謙遜な単純なファチマのマリア様の御像が、多くの人々を引き寄せます。ここで私たちは今、平和の元后としてのマリア様を黙想しようとしています。マリア様は本当にファチマで平和の元后として現れました。ある個人が、あるいは家庭が、あるいは団体が、あるいはある国が、マリア様に忠実であろうとする限り、マリア様はそこに良い香りを残して置かれます。

「平和」という事について主題を戻すと、昔、かつて教会には、「キリスト教世界」と言われる時代がありました。キリスト教世界というのは、キリスト教の秩序の事であって、法や世界的な構造が、キリストに全て向かっていた、秩序付けられていた時代の事です。これは黄金の中世の時代でした。

しかし後にそれは失われてしまいました。プロテスタント、あるいは世俗主義というものが入って来て、そのキリスト教世界を崩壊してしまいました。そこでカトリックの国家というのはもはや残っていません。

しかしマリア様がお現れになると、そこではキリスト教の世界がまた復興して、その秩序がまた戻ります。ポルトガルがそうでした、スペインがそうでした。その世界の基礎は、天主の十戒であって、その王は、王たるキリストです。マリア様はもう一度、イエズス様をその玉座につけるのです。そうすると、イエズス様が王として君臨するやいなや、その団体はその国家は栄えます。

ポルトガルを見て下さい。ポルトガルは本当に多くの人々が貧しくて、貧困でした。まず海岸端に住んでいたのは漁民です、お魚を釣って生活する人。また農民は農業をするのですけれども、土地は非常に痩せていて、ほとんど作物が取れません。しかしサラザール大統領のキリスト教的な立法のおかげで、この人たちが相互に助け合って生活する事ができるようになりました。

マリア様は、この世界に本当の平和の秩序を与える事ができます。しかしこの本当の平和が来る為には、イエズス様が王として認められなければなりません。イエズス・キリストが無い、マリア様の無い平和というのは必ず失敗します。ですから世界の平和を推進させる為には、一番良い方法は、皆さんが無原罪の聖母の騎士となって、マリア様を多くの人に知らせるという事です。

15分と10秒の休憩を入れます(^^)

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秋田巡礼-お説教-2018年5月4日(初金) シュテーリン神父様―聖モニカの「祈りを諦めないこと」について

2018年06月05日 | お説教・霊的講話
2018年5月4日(初金)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 聖モニカの祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

巡礼の第2日目です、今日は聖モニカの祝日です。この聖モニカは、「祈りにおける忠実さ」「祈りを諦めない事」について、私たちに模範を示しています。

まず聖モニカは祈りによって、自分の夫の回心を勝ち取りました。しかしその当時、自分の息子である聖アウグスチノのカトリック的な教育を授ける事はできませんでした。もちろん聖モニカはできるだけの事をしましたけれども、しかし夫は異教徒で、夫の影響を非常に強く受けていました。またその周囲の状況も、聖アウグスチノにふさわしい教育を授けるには難しいものでした。そこで聖モニカの置かれている状況は、私たちの置かれている状況と非常に似通っています、今日(こんにち)。

私たちの子供たちは、もちろんできる限りカトリックの教育を与えたいと思います。けれどもその周囲が、周りの雰囲気が、環境が良くないので、悪い影響を受けています。 子供が大きくなれば大きくなるほど、友人の悪い影響を受けたり、学校の環境の悪い影響を受けたり、あるいは勉強の過程での悪い影響を受けたりして、霊的に子供が失われているという事で、父兄の悲しみを私たちはよく聞きます。

今日聖モニカの模範によって私たちに、天主様が何を私たちに教えようとしているかというのは、とても興味深いものです。

非常に重要な意向の為に、皆さんお祈りをして、お祈りをして、お祈りをして、一生懸命お祈りをして、1年経ったとします。しかし1年の後に、お祈りが聞き入れられたとは思えず、却って状況がますます悪くなっているとします。皆さんはもしかしたら、「あぁ、天主様は私の事を忘れてしまった。マリア様は私の事を何も聞いてくれていない」と言うかもしれません。「私の祈りは聞き入れられる価値がない。私はふさわしくない。」「一生懸命1年お祈りしたにも関わらず、何も聞き入れられない。天国は何かドアが閉まっているように思える」として、多くの人はもうお祈りなどやめてしまおう、と思ってしまうかもしれません。

聖モニカの模範を見て下さい。10年、聖モニカは祈ります。10年祈って、祈れば祈るほど、その祈りの効果の反対に、ますます子供は悪くなっていきます。まず、息子の聖アウグスティヌスは傲慢になります。ラテン語が上手くできるという事で、雄弁な話ができるという事で、傲慢になります。そしてその友達の影響で、異教のセクトに入ってしまいます。セクトにはまってしまったのみならず、不道徳的な生活も始めます。ある女性と同棲して、そして子供をもうけます。聖モニカは一生懸命お祈りして、天主を愛する女性ですが、母親ですが、その自分の目の前で、子供がそういう状態に陥っているのを見るのです。

「10年、11年、12年、一生懸命こうやってお祈りしているのに、状況はますますひどい。どうやって、なぜ私はこのまま続けて祈る事ができるだろうか。」12年のお祈りをした後に、「きっと私が悪いんだ。私が何か悪い事をしたに違いない。私のやり方が間違っているんだ。」皆さんでも同じように考えたように、聖モニカも同じように考えました。

聖モニカはもうお祈りをやめてしまおうと思う前に、司祭に相談に行きました。聖モニカはミラノの司教様である聖アンブロジオの元に行って、相談します。すると聖アンブロジオは聖モニカを慰めます。聖アンブロジオが言うには、「お祈りを続けなさい。なぜならば、それほど多くの祈りと涙の子供は、決して失われる事がない。」

そして聖モニカはそれに従順に従って、お祈りを続けます。6年更に続けました。18年間、聖なる女性が、罪人ではなく聖なる母親が、祈りに祈り、祈りを重ねました。

すると聖アウグスティヌスは回心します。その回心も、単なる生ぬるい回心ではなくて、大回心を遂げて、そして教会史上に残る大聖人になり、教会博士にもなる大聖人になりました。聖アウグスティヌスは回心の後に本を書きます。そして「自分の回心は、自分の母親のお祈りと涙のおかげであった」といって記しています。

私は年老いた母が実家におります。私は同じ事を母に負っています。母は健康を害していて、色々な所を痛がっています。ところで私が母の元に行って、「母さん、大丈夫ですか?」と聞くと、すると母の答えは、「どうもお前の償いの為に必要としているようだ」と言います。私たちが天国に行くと、天国に行って初めて、私たちの母親たちがどれほど私たちの為に祈りや犠牲を捧げていて下さったか、という事を知る事でしょう。

では聖モニカに話を戻ると、一体なぜ天主様は聖モニカに対して、そんなに残酷に取り扱ったのでしょうか?18年間という人生の最も大切な花咲く時代を、そのように残酷に夢を取り去るような話をしてしまったのでしょうか?

18年間、聖モニカは本当の喜びがありませんでした。もしも自分の子供が地獄に今落ちようとしている、という事を知っていたら、どうやって聖モニカが本当に喜ぶ事ができたでしょうか。愛する息子であるアウグスティヌスが目の前に現れた時に、そのアウグスティヌスのその自堕落な生活、あるいは天主を知らない生活を見て、どれほど悲しんだ事でしょうか。

ですから私たちは自問自答します、「主よ、一体なぜこのような聖なる人々が、こんなに立派な方々が、聖なる方々が、主を愛する方々が苦しむのを許すのですか?苦しまなければならないようにされるのですか?」

もしも、私たちが得るべき結果が大きければ大きいほど、それを得るべき手段も偉大なものでなければなりません。もしも良い自転車を買いたいと思うならば、それにふさわしい値を払わなければなりません。もしも立派な車を買おうとするならば、更にそれにふさわしい値を払わなければなりません。聖アウグスティヌスは偉大な素晴らしい聖人になると天主は知っていました。したがって、それにふさわしい値を払うように、聖モニカに要求したのでした。

もしも皆さんがお祈りをして、お祈りが聞き入れて下さらないように、聞き入れられないように思われた時に、もしもそれが聞き入れられないように見えれば見えたほど、「それはより良い事だ」と思って下さい。「どうも天主様は、より良いものを私たちに準備している。」ですからその為に、より多くのものを支払わなければならない事を知って下さい。聖アウグスティヌスの回心の事を見て下さい。ほんのちょっとの事で、ほんの一瞬で聖アウグスティヌスは大回心を遂げます。 昨日見たように、メキシコで一年、たった一年で全国を全く回心させました。

もしも皆さんの祈りを聞き入れてそれをその通りにするのを待たせるならば、皆さんを待たせるならば、天主様には特別の大きな意向があるからです。

もしも私たちの祈りがすぐ聞き入れられたとしたら、もちろん人間的にはとても嬉しい事ですが、それは私たちを傲慢にさせます。「私の祈りのおかげで彼は回心した。俺がやった」と傲慢になるに違いありません。そうしてしまったら、傲慢によって私たちは多くの功徳を失ってしまいます。

私たちの祈り続ける事によって、待たせる事によって、私たちをますます謙遜にさせてくれます。更にそうする事によって、私たちが天主を信頼する事、天主に委ねている事を確かめます。そこでそうする事によって待たせる事によって、私たちの徳をますます大きくさせます。

もしも聖モニカのお祈りを長く待たせずに、すぐに天主様が聞き入れて下さったとしたら、聖モニカは聖人になっていなかったかもしれません。

テストをしてみましょう。ある意向の為にお祈りします。子供がいて、その子供は天主を信じる事をやめてしまって、どこかに行ってしまった。自分の子供の為に毎日3環ロザリオを唱えて、そして多くの連祷も唱えて、一生懸命お祈りします。6ヶ月の後に、子供が回心した。皆さんは非常に喜ぶ事でしょう。ではその6ヶ月の後に、子供が回心した後に、同じ程度でお祈りを続けるでしょうか?皆さんやめてしまいます。もう動機がないからです。「子供がもう回心したので、お祈りをやめて別の事をしよう。」そこで天主様が皆さんを待たせて、更に待たせて、皆さんを更に堅忍させて、徳に積ませるのです。

聖モニカは、一生懸命お祈りをしましたけれども、そのお祈りの実りとして、ただ聖アウグスティヌスの回心を勝ち取ったのみならず、他の多くの罪人たちの回心をも勝ち取りました。聖モニカが一生懸命毎日捧げた祈りを、イエズス様やマリア様がそれを使って、他の失われた子供たちの為に使っていました。

きっと毎日聖モニカが捧げた祈りは、毎日、毎日、日ごと10人の失われた子供たちの回心の為に使われていたかもしれません。するともしも単純に計算すると、1年の間には約4000人の人たちを回心させた事になります。10年では4万人です。そこで18年では約10万人の人を回心させた事になります。

天国に行くと聖モニカは、「あぁ、自分の子供は大聖人になっている!」という事に気が付く事でしょう。そして自分の子供が後に何百万人という人々を回心させて、多くの善を、より多くの人々に施しているのを見る事でしょう。聖アウグスティヌスのやっている善は今でも、21世紀でも続いています。特に今でも聖アウグスティヌスの「告白録」等という書いた本を読んで回心した人もたくさんいます。映画の中で最も美しい映画の1つに、聖アウグスティヌスの回心の映画があります。もしも皆さんが携帯で何か変なものを見ようとした時には、その事を考えて下さい。何か読むのが嫌だ、という人はその映画を勧めます。

聖モニカの話に戻りますと、天国に行った聖モニカは、天主様からその祈りの効果を見せられた時に、きっと驚いた事でしょう。天国に入った時に、聖モニカの周りに10万人の人々が歓迎して待っている、と。世界中から来た霊魂が待っている。そして聖モニカの元に10万の人々が続々やって来て、手を握って手に接吻をして、「お母さん!」「お母さん!」と言っているのです。「なぜですか?」と言うと、「あぁ、なぜかというと、イエズス様とそしてマリア様の後で、あなたのお祈りのおかげで、私は天主の命を頂いて、回心の御恵みを頂いたからです。命を与える方を、私はお母さんと呼ぶのです。」

そして10万人の霊魂たちは永遠に渡って、終わりなく、自分の回心の為に祈った聖モニカを母親として讃美して、感謝して、称える事でしょう。たった1人の霊魂を天国に回心させて、天国の永遠の命を受ける事ができたとしたら、この地上の何百万人の最高の子供よりも更に価値があります。

もしかしたら小野田神父は、日本での15万人の霊魂たちの霊的なお父さんかもしれません。なぜかというと、小野田神父がこの地上にいる間、日本の回心の為に聖モニカのように一生懸命お祈りしているからです。ただ1つの問題は、小野田神父はまだ聖モニカのように聖徳に達していないことです。しかしきっと小野田神父が天国に入った時には、その時には、15万人の日本人の霊魂が、「救われました!」と言って近寄ってくる事でしょう、「お父さん!」と。

これが冗談ではなくて、本当の現実の話です。こうやって天主様は、私たちの祈りを必ず聞いて下さるので、私たちは祈り続けなければならないという事です。

もしも私がする事ができるなら、聖モニカを日本の守護の聖人としたいと思います。なぜかというと、皆さんは日本の回心の為に一生懸命毎日いつも祈っているにも関わらず、何の効果もないかのように見えるからです。私たちはもう何年も何年も日本の為に祈っているのですけども、でも私たちのミサには、来る人はほんの20人か30人です。ですからそのような時には、聖モニカを私たちの模範として、守護の聖人として真似なければなりません。

ですから今日は聖モニカをお連れして、秋田の聖母の元に行きましょう。そしてマリア様に申し上げましょう、「マリア様、マリア様がお望みの期間、もしもお望みならば死ぬまで、ずっと祈り続けます。私の祈りの功徳、そしてその効果は、あなたに任せます。聖モニカのように、私も全く盲目的にあなたに信頼します。それは私の祈りと、この私のこの巡礼は必ず実りを結ぶという事です。私が想像したよりも更に多くの実りを結ぶ、という事を信頼しています。」

では、私たちがいつも祈っているその回心の為の、ある霊魂の回心のその為に、私たちの意向を全てイエズス様の聖心にお委ね致しましょう。なぜかというと、今日は初金だからです。イエズス様の聖心は、聖モニカがこれほど寛大に祈り、犠牲を捧げたのを見て、とっても喜びに満ちていました。 皆さんの堅忍と忍耐と、そして寛大さで、イエズス様の聖心を喜ばせて下さい。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。
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秋田巡礼-霊的講話【3】-2018年5月3日シュテーリン神父様「マリア様が与える平和の実りとは」

2018年05月29日 | お説教・霊的講話
2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【3】
「マリア様が与える平和の実りとは」
同時通訳:小野田圭志神父




マリア様がファチマにお現れになった時に、平和についてお話になりました。そこでこの平和、「秩序における平穏」について考えなければなりません。

まず私は、個人的な生活においての平和についてお話しました。そして、私たちの心に、イエズス様だけが本当の平和を与える事ができる、という事を見ました。私が天主の世界に心を開いた時に初めて、本当の秩序が私の心に戻ってきます。その時に本当の平和が心に宿ってきます。

何か「問題がある」と聞きます。例えば、誰かが私を馬鹿にした、あるいは誰か何かすごい問題がある、困った、困った、どうしよう、どうしよう、という事で、私の心には平和がなくなってしまいます。

しかしこの自分の問題が受けた屈辱、馬鹿にされた事を、永遠の光の中で、「天主の目から御覧になったら何であるか」という事を考えると、心に平安が戻ってきます。

そしてまた、御聖櫃の前でイエズス様の御受難について黙想した時に、「イエズス様は私の聖化の為にどれほど苦しまれたか」という事を考えると、「私のこの苦しみが一体何なのか。それに比べると」となります。

もしも今晩、このまま私が死んだとすれば、今まで考えていた、「あぁどうしよう、この問題」「あの問題」この「馬鹿にされた事」など、全く意味が無くなってしまいます。今まで、「あぁ、あの事」「あの事」と捕らわれていて平和を失っていた心も、永遠の光から見ると、「イエズス様からの目から見ると何でもない」という事が分かって、心に平和が戻ってきます。

私の意思についても、私がやりたい、私の心についても同じ事です。「あぁこの映画を観たい」「この動画を見たい」「あの事をやりたい」「あの事をしたい」「この楽しみをしたい」「あの娯楽をやってみたい」などというこの地上の欲望が、永遠の光から見ると、この自分のやりたい事だけを考えて、それをして、告解をあと伸ばしあと伸ばしにすると、私の霊魂には平和がなくなってしまいます。

しかし告解をして、そして「もうこれ以上罪を犯さない」そして「イエズス様の御旨を果たす」そして、もうこの罪には「NO!」と言う、「もう嫌だ!」とすると、平和が戻ってきます。カトリックの信仰のその素晴らしい、輝かしい真理は、私たちの知性に平和をもたらします。天主の聖寵、天主の命は、私の心に平和をもたらします。

ですからこの為に戦わなければなりません。この私たちが望む平和というのは、戦い、悪との罪との戦いの結果に受けるものです。私は秩序を望むならば、無秩序と戦わなければなりません。もしも調和とか、あるいは聖寵と御恵みを求めるならば、罪と戦わなければなりません。

家族の生活も同じです。両親はそしてお父さんとお母さんは、この子供に対して平和をもたらすものでなければなりません。この家族における平和というのは、信仰の光において見るならば、家庭の父親はこの家庭生活において、信仰の光がどこにでも満たされているように心を配らなければなりません。例えば子供たちは、「あぁ」聖人の生活、聖人の伝記、聖人の生涯について、「あぁ、素晴らしい聖人がいる」という事を「もっと知りたい、もっと読みたい、もっと勉強したい」と思う事でしょう。

もしも映画や動画を見せる場合には、子供たちが見る映画は、カトリックの聖人や、あるいは私たちの模範となる立派なカトリックの信仰の英雄についての映画であるべきでしょう。特にメル・ギブソンのイエズス様の「パッション」の映画は、表面的なカトリックの信者にとって大きな良い影響を与えました。

そして例え子供たちに見せる映画が、子供の為の映画であって、別にそれ自体において罪や暴力や悪いものがなかったとしても、天主の無い映画であると、その天主の無い世界の雰囲気を作り出してしまって、結局私たちから平和を取り去ってしまいます。

家庭生活において一番平和をもたらすものは、「謙遜」です。謙遜というのは、「私たちは無であって、全て天主からの御恵みによって生きている」という事であって、「私たちは天主の御恵みに依存している」という事を認識する事です。この意味においてマリア様は、ファチマのメッセージを生きる人々に、この本当の平和を約束しました。もしも個人的にマリア様が要求される事をするならば、私たちの個人的な心に平和が戻ってきます。なぜかというと、マリア様は平和の元后であって、マリア様がいらっしゃる所ではどこでも平和をもたらすからです。ですからマリア様の汚れなき御心を実践する所には、平和の凱旋が約束されています。

マリア様が繰り返して仰るのは、「もしも私の要求を実践するならば、個人的のみならず、家庭のみならず、教会においても、国家の間においても、世界に平和が戻る」と約束しています。ではマリア様はファチマにおいて、あるいはファチマの後にどうやって平和をもたらしたのでしょうか?平和のみならず、喜びと光を世界にもたらしました。

1917年7月13日にマリア様は仰いました、「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。教皇様はロシアを私の汚れなき御心に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」

マリア様が約束されているのは、この世が作り出す偽物のプラスチックの人工的な平和の事ではありません。このプラスチックの平和というのは、広告によって作り出される、本当は存在しない偽物の平和の事です。なぜかというと、人々はこの世に秩序をもたらそうとして作ろうとするのですけれども、実はそのような秩序を作る事はできないからです。マリア様がこのように約束されたという事は、本当の意味で秩序の、「本当の秩序の平穏さを、一時の間与える」という事です。

今、私たちが現在生きている世界において、そのような秩序・平和というのは、今作る、考える事さえもできません。でもその平和の為には、教皇様が司教様と共にロシアを奉献しなければなりません。人間的に言ってみれば、そのような約束を実践する事は不可能であって、気違い沙汰です。マリア様はロシアの回心を約束しています。このロシアは今全くカトリックでも全然ありません。今のロシアは昔と同じく無神論者がたくさんいます。もしも無神論者でなかったとしても、離教の正教会を信じています。しかしマリア様は、このロシアが全てカトリック教会に戻ってくる、カトリックの信仰に戻ってくる事を約束しています。この事は人間的に言えば不可能です。

人間的に言えば、太陽の奇跡も不可能です。たった1つの御出現によってなされた、1つの国の1年におけるカトリックへの回心、あるいは南アメリカ全体が20年でカトリックに回心したという事も、人間的に言えば不可能です。

マリア様の約束した次の事は、「教会に平和の時が与えられる」という事です。もう一度天主様からの光が輝き出して、教会の最高の責任者や高位聖職者たちが、カトリックのそのままの信仰を取り戻して、教会が元に戻る。これは人間的に言えば、今見ると不可能な事です。

ではマリア様は具体的に何を約束されるでしょうか?それは、過去かつて変わった事のない、変わる事のない永遠の真理が、全世界を照らし出す、その真理が輝き出すという事です。

つまり、「第二バチカン公会議の時に採用した、フリーメイソンから来る致命的な誤謬を打ち捨てる」という事です。例えばエキュメニズム運動とか、あるいは永遠の世界を忘れさせて、この地上の事しか考えさせないような、世俗的な中心的な教え、あるいは第二バチカン公会議の後には全く忘れ去られてしまった「死」とか、あるいは「裁判、裁き」あるいは「天国」「地獄」という事について、もう一度光を輝かせる事でしょう。

また天主の為の最高の典礼、昔のままの典礼が、また全世界で捧げられる事でしょう。そして人々はこの天主の平和を心に受けて、成聖の状態において生き、生活を始める事でしょう。でも現在では、「成聖の状態にいる」という事すら一体何の事かよく分かっていません。

ファチマではマリア様は、個人あるいは家庭のみならず、教会のこの平和も約束されています。その為には「ロシアの奉献」という条件が満たされなければなりません。しかしこの奉献がなされる前でさえも、マリア様はファチマの実りを私たちにはっきりと示して下さっています。

ファチマでマリア様が現れた時には、第一次世界大戦で、世界では戦争の事しか話されていませんでした、平和を作る等という事はありませんでした。そしてポルトガルは、フリーメイソンの手によって政府が牛耳られていました。マリア様が何をなさったかという事を皆さんにお伝えしたいと思います。この事を見ると、「マリア様こそ、私たちに本当に平和をもたらす事ができる」という事を確信する事ができます。

マリア様は私たち皆さんの家庭の世話をする事ができます。マリア様は私たちの霊魂を救う事ができる最後の希望です。マリア様こそ、私たちの家族が1つとまとまって、崩壊せずに、その聖なるものとして守られる最後の砦です。マリア様こそ、個人においても、家族においても、修道会においても、グループにおいても、教会全体においても、全世界の為の最後の希望です。これは「平和」という言葉に繋がっています。天主様の秩序が私たちの心にまた戻ってきます。心はまた天主と一致します。この今黙示録的な時代に生きている私たちに、少なくとも天主様と一致して、そして天主様の平和を私たちの心に宿して、その平和を他の周りの人に伝えて、多くの霊魂を天国へと結べます。そして私たちはこうやる事になって聖化、聖人となる事ができます。

イエズス様は仰います、「お前たちは、その実によって、樹を知るだろう。」

まず私たちは、では実りを見てみましょう。政治家の話す実り、あるいは何とか委員会、平和委員会の話す実り、あるいは近代主義者がデモをやったり何かして話す平和、あるいは何とかの講演会に行って話す平和について、その実りは何でしょうか?

まず政治家が平和について話すと、その結果は必ず、「安全対策をして、もっとチェックをしなければならない」と。

「空港でも、あるいは汽車でも乗る時でも、爆弾がないか、テロがないかチェックをする。」

「将来、生徒一人ひとりに刑事官が付いて5人付いて、そしてアイシスのテロリストがこの子供を狙ったりしないか、というそういう法律ができるのではないか」という事を心配します。

もちろん、その事によって平和をもたらせません。この世が作る安全なセキュリティのシステムは、本当の平和をもたらすものではありません。

教会でもその平和についてよく話します、平和週間だとか。しかしその結果はもっと酷いものです。なぜかというと、教会がそういう「平和について話そう」という時に、教会は他の宗教のリーダーや、他の宗教の人たちを呼んで話をするからです。

そして他の宗教のリーダーと握手をして、抱き合って、「私たちは相互に尊重し合って、相互に寛容でなければならない」と言うのです。「そうしたら、世界は平和になるのだ」と。

そうすると、平和というのは手段となって、この平和という手段を使って、全ての宗教は実は同じなんだという事を伝えるメッセージが、それをおもに伝える手段となってしまいます。

アシジ以後、そのような「諸宗教の平和の集い」というのがありますけれども、その諸宗教の集いの中で1回も、「イエズス・キリスト」について話した事がありません。でも私たちはよく知っています、「イエズス・キリストこそが平和の君であって、平和をもたらすもの」です。

この地上の世界の国家の平和というのは、まず私たちが一人ひとりが天主と平和となって、家族が平和となって、そして少しずつ天主との平和ができた時に、最後に到達する実りです。

1917年、フリーメイソンの創立200周年が祝われました。それからモスクワでのボルシェビキ革命の100周年が祝われました。そしてその時に、「平和が達成された!」と宣言されました。1917年に。

ところがマリア様は、ファチマに謙遜にお現れになり、マリア様こそが本当の平和を何百万の人々に与えました。マリア様が個人に、そして家族に、そして国家に、そして色んな団体に平和をもたらしました。マリア様こそが、秩序における平穏さの美しさ、そしてその輝きをもたらしました。マリア様には安全のチェックとかセキュリティの強化等という事は必要ありませんでした。

マリア様の仰った事は、第二バチカン公会議で教会の指導者たちが言った事と、全く正反対の事でした。

平和の為の第1に必要な事は、「罪人の回心」です。「かわいそうな誤謬の中に陥っている異端者や、あるいは離教者たちが、本当の真理の中に立ち戻る事が条件だ」と。全世界における平和と教会の平和について、全く人間的に言えば不可能な事を、マリア様は約束されます。

そこで、私は以前書いた事ですけれども、「ファチマの実り」という事で、平和についてお話する事を許して下さい。

第1の実りは「成聖」です、聖化される事です。

まず3人の子供たちが聖人になりました。マリア様がお現れになった所には、同じ実りが現れます。本物の御出現にはそうです。偽物の御出現についてはこの実りがありません。罪と誤謬に対する勝利、真理の勝利が、本当の御出現にはあります。御出現のおかげで、罪が人々の間から全く無くなってしまうという事です。間違った宗教、偽物の宗教、あるいは間違ったイデオロギーの中に生活している人たちが、それを捨てるという事です。

神父様、「メジュゴリエ」とか、あるいは「ベイサイド」とか、あるいは色んな御出現の名前を出して、「それを信じてますか?」と聞きます。

もしもその御出現が、教会のちゃんとした吟味とそして調査を受けた、そして後に認可されたものでなければ、私はそれについて言う事ができません。ルルドが承認されるまで4年間かかりました。それも多くの奇跡がルルドで起こった後の事です。ファチマが認められる為には10年かかりました。

それが認められたのは、「あぁ、これは私は好きだ」「これが嫌いだ」というのではなくて、「一体その御出現で何があったのか」という、「これは嘘だ」と言う主張するそのグループと、「それは本当だ」という人たちのグループに分かれて、それを神学的に吟味して、真剣に吟味するものです。もしもそのような吟味がなされていないならば、調査がなされていないならば、これが本物かどうか分かりません。

もしもその調査の結果、否定的な結論が出たとしたら、もしもその多くの中でたった1つの事でも、「おかしいな」というところがあったら、悪魔がその尻尾を見せているところがあったら、もうこの全ての話は否定されます。

本当の御出現をどうやって吟味するか、判断するか、識別するかという事についての基準とその規律については、詳しいお話をする事はできません、別の機会に致しましょう。10の論点に分かれます。その内の9つ目は、「この御出現は、超自然の実りをもたらしているか否か」です。そして「この実りは、本当にこの御出現によって与えられたものなのか否なのか。」そして第10は、「この実りは、継続的な恒常的なものなのか、それとも一時的なものなのか。」

まず「罪が無くなってしまう」という事、第2に、その「天主への愛が増加して、それが留まっている」という事、それを吟味しなければなりません。それが霊的な超自然的な実りです。

この事を3人の子供たちの生活に見る事ができます。子供たちの列福調査は50年かかりました。田舎の普通の、お祈りをする事さえもできなかった単なる子供たちを、マリア様は大聖人に変えました。子供たちの回心のみならず、太陽の奇跡の後に多くの人々が回心しました。何千何万という多くの人々が、教会の敵だった人が、フリーメイソンだった人が、宗教について全く知らなかった人、あるいは教会にも行った事がなかったような人が、聖なる生活を送り始めました。

マリア様こそが、このような霊魂たちに天主様をもたらして、平和をもたらしました。そしてこれも一時的な事ではなくて、ルルドでもグァダルーペでもファチマでも、マリア様は常にそれを、その天主をもたらす事をなさっています。

しかし私たちの知っているのはほんの数限られたもので、いくら何千何万と言っても、マリア様の御像に近付いてお祈りをする人、御恵みを受けたという人は、それよりも更に多くいて、ただその多くの人たちがそれを自分の心の密かに、奥に密かに知っているので、私たちは知らないだけです。

時々司祭は信頼されて、「なぜマリア様が自分をこうやって回心して下さったのか」という、その秘密の話を打ち明けられる事があります。罪の生活を送っていた、あるいは信仰から遠く離れている人が、マリア様によって信仰生活に戻ってきた、という話を聞くのは非常に感動的です。

ある時マリア様のお話を御説教で聞いた、あるいはマリア様の御像の傍でお祈りをした、マリア様の御影を見た、あるいはマリア様の行列、聖母行列に参加した、あるいは何かの機を機会にマリア様の御恵みを受けて回心した、という話を聞きます。そして信仰を見出すのです。

一週間前の月曜日に、私はベトナムにいました。25歳の女の子が洗礼を受けました。異教徒でした仏教徒でした。職場でいた男の子が、マリア様のチラシをその子に与えたのです。そしてそれをただ読んだのです。他の普通の人でしたら「あぁ、」と言ってそのまま捨てるのですけれども、その子はそれを読んだのです。それで「もっとこれについて知りたい」と思いました。

「このここに書いてある不思議のメダイ、私ももらう事ができるのかな?」と聞きました。そして私はその子に洗礼を授けてきました。どこにいるか分からないような所から突然、「信仰を信じている、洗礼を受けたい」と言ってやって来たのです。そしたらその子は、「あぁ、生まれて初めて、心に平和があります。生まれて初めて、何をするべきか分かります。どこに行くべきなのか、道が分かりました。」それを聞くと、「あぁ、イエズス様が仰った本当の平和とは何か」という事が分かります。

フィリピンの話もあります。非常に美しい敬虔な聖伝主義の方がいます。そしてこの女の子は幸せを求めて、ドラッグとか、麻薬とか、あるいはお酒とか、その他の物に手をつけました。そして色んな事を試した結果、本当の幸せを与える事ができなくてそれが偽物だという事が分かったので、絶望して、「もうこの幸せというものがないんだ」と思って、「もう生きる価値がない」と思って、もう自分の命を絶とうとしました。そうするとその時にお友達がやって来て、マリア様の話をしたのです。そしてその女の子を招待して、神父様の元にやって来て、司祭はちょうどマリア様についてお話をする時でした。そしてその女の子は黙想会にやって来て、そして総告解をして、その総告解の後に私に言ったのです。

そのような話を私たちはよく聞きます。しかしこれではこのファチマの話はそれだけでは不十分です。もっと公的な公のレベルに行きます。ポルトガルは一体どうなったでしょうか?

ファチマの前、ポルトガルは一体どうだったでしょうか?150年間、フリーメイソンの手によって牛耳られていました。20世紀の初め、ちょうどファチマの時には、経済的には全く倒産していました。そしてポルトガルの国は無政府状態でした。信仰と道徳に関して、1910年、もう目も当てられませんでした。バルタ神父様はこう本を書いています。この人はファチマの専門家ですけれども、「フリーメイソンは経済的な倒産状態を利用して、人々の心に不敬虔と不信仰の種をばらまいた。」教会は多く閉鎖させられて、そして司教様たちは追放されました。そして大きな修道院の建物は世俗の建物に使われるようになりました。カトリックの出版社、カトリック新聞社、カトリックの報道機関は全て禁止になりました。そしてもうこのままでは、もう教会がポルトガルから姿を消す、というその時に、ファチマでマリア様が現れました。

太陽の奇跡には10万人がいたと言われます。ポルトガルの歴史の中で初めて、その太陽の奇跡の後の最初の選挙で、フリーメイソンは選挙で負けました。そこで非常に怒ったフリーメイソンたちは、ファチマにあった全てを壊してしまいました。でもマリア様の御出現の後に、ポルトガルは変わっていました。その数ヶ月後、軍事クーデターが起こって、初めてカトリックが政権を取りました。しかしこの人は数ヶ月の後に暗殺されて、長くは持ちませんでした。しかし毎月13日には、より多くの人が、ますます多くの人がファチマにやって来てお祈りをしました。

マリア様が「ここに私の小さな御聖堂を建てて下さい」と言った所には、1920年にチャペルが建てられました。ファチマに今あるマリア様の御像がそこに置かれました。フリーメイソンは非常に怒って、この人々が建てたチャペルを1922年にダイナマイトを付けて爆発させました。そしてマリア様がお現れになったトキワガシの木にも爆弾をつけてそれを爆発させようとしたのですけれども、でも奇跡的に爆発しませんでした。それを見た人々の反応は何だったでしょうか?

人々は、このフリーメイソンのやり方に非常に怒って、次の選挙ではフリーメイソンは決定的に負けます。まだ御出現の後10年も経たない内に、偉大なカトリックの教授であった人、アントニオ・サラザールが大統領に選ばれました。1931年、ポルトガルの司教様たちは皆集まって、ポルトガルを汚れなき御心に奉献します。

ファチマのマリア様は3つの三重の奇跡を行いました。この三重の奇跡が起こったというのは、私が発明したのではなくて、サラザール大統領とポルトガルのリスボンの大司教である枢機卿が言った事なのです。

まず霊的な奇跡です。1910年、ポルトガルの神学校はほとんど閉鎖されていました。しかしほとんど閉鎖されていた神学校が、1933年になるとその神学生の数は世界中のどこよりも多かったのです。ブラガという所にあった神学校は470数名の神学生で世界一の神学校になりました。

15から16年の間に、ポルトガルは全く変化してしまいました、変わってしまいました。そして無秩序状態、無政府状態が全く無くなってしまいました。カトリック信仰への信じられないような大回心が行なわれました。また司祭召命、修道召命の大きな刷新がありました。

第1が霊的な奇跡でしたが、第2は社会的な政治的な奇跡も行われました。サラザール大統領はフリーメイソンを国外に追放します。共産党も、共産主義も禁止されました。組合というかギルド制と言うのですか、昔中世にあったような、職人たちがこの同じ職業の人たちが一緒に共同体を作るというものが推進させられました。サラザール大統領は、「私たちは何をしても単純な生活を推進したい。道徳の純粋さ、私たちの感情の優しさ、そして慎み深い高貴な家族の雰囲気を推進したい。」この社会改革、政治的な改革はファチマのマリア様のおかげでなされました。

そして最後の奇跡は何かというと、平和の奇跡です。1920年の後に何が起こったか知っていますか?まず、スペインでは市民戦争がありました。共産主義が戦争をするのですけれども、スペインのみならずイベリア半島全てを飲み込んで、戦争状態にしようとしていました。すると600万人の人々がファチマに巡礼に行って、マリア様に約束をします、「もしもマリア様がポルトガルを戦争から守って下さるならば、私たちはマリア様の汚れなき御心に捧げられた生活をします、適った生活をします」と約束しました。するとポルトガルにはその市民戦争が、スペインの戦争が浸透しませんでした。

次に、スペインの市民戦争の後には更に悪い事が起きました。それは第二次世界大戦です。第二次世界大戦の被害を受けなかったのは、スイスとポルトガルです。ポルトガルというのはドイツにとって非常に戦略的な所でした。ですからドイツはポルトガルを欲しいと思っていました。「フェリックス作戦」と言って、ドイツではポルトガルをどうやって侵略して自分が占領するか、という詳しい研究がなされて、その作戦も立てられていました。そしてドイツの軍隊がポルトガルに侵略する直前でした。もしも行けば、そこで占領できたのです。

しかし現在、なぜドイツの兵隊が行かなかったのか、それが不思議なのです。行かなかったのです。

マリア様はそれを守って下さいました。マリア様がこのポルトガルに平和を下さいました。ファチマの前にはその第二次世界大戦の前には、ヨーロッパで一番最悪の無秩序の無政府主義の所だったのです。

ですからファチマの専門家が言うのは、「ポルトガルというのは、もしも他の国々が、マリア様の仰っている事をそのままやるなら、どのようになるか、という事を見本を見せる為のショーケースだ、ウィンドウケースだ。」

明日、ファチマでマリア様がなさった、本当にもう目を見張るような奇跡がどのようなものがあったか、という事をお話させて下さい。するともう、マリア様を通して天主は私たちに本当の平和を勝ち取る手段を与えて下さった、という事が分かります。

今これを申し上げたのは、私たちが更に今までよりももっとマリア様に信頼する事ができる為です。もしも「私たちの心に平和が無くなってしまった」と思うならば、「何か不安だ」と思うならば、どこに行けば良いか分かる為です。もしも家族にちょっと不和があるなら、あるいは友達の家族に不和があるならば、一体どこに行けば良いかを示す為です。もしも皆さん手段があるならば、この韓国の大統領に、「ここに解決があります」と仰って下さい。

ではもう時間が来てしまいましたので、皆さん終課を一緒に唱えましょう。
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秋田巡礼-霊的講話【2】-2018年5月3日シュテーリン神父様「本当の平和とは天主の秩序を築くこと:個人生活においても家庭生活においても」

2018年05月28日 | お説教・霊的講話
2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【2】
「本当の平和とは天主の秩序を築くこと:個人生活においても家庭生活においても」
同時通訳:小野田圭志神父




先ほどの話の続きをしますと、平和には2つの要素があります。1つは、「知性への天からの光」そしてもう1つは、「意志を強めるもの」です。

それからもう1つ、よくある誤謬・間違いですけれども、「平和」という時に、「戦争の反対」と考える人がいます。街にいる人々に、「平和とは何ですか?」と聞くと、大体の人は、「全てがうまく順調にいっている事だ」と言います。

でもそうではありません。まず私たちは、「原罪を持って生まれてきた、罪を犯した被造物である」という事、そして「たとえ原罪が洗礼によって赦されたとしても、私たちには原罪の傷を負っている」という事です。この原罪の為に私たちが持って生まれた傷というのは、霊魂に無秩序をまだもたらしています。

この傷による無秩序を、秩序立てる為には、戦わなければなりません。ですからこの意味によると、「平和」というのは常に、「戦いの実り」であります。

イエズス様はある時こう言いました、「私はこの地上に平和をもたらす為ではなくて、剣をもたらす為にやって来た」と。イエズス様は、この世が与えるような偽物のプラスチックの人工の平和をもたらす為に来たのではありませんでした。イエズス様がもたらす為に来たのは、本当の平和であって、この本当の平和というのは、戦いの結果です。本当の平和というのは、平和の君が統治する所にのみあります。そしてその統治の為に私たちは働かなければなりません。

そこで私たちは問題を作る者に、悪魔に対して戦わなければなりません。悪魔は私たちを、そのままほっぽらかしてそのままにさせてはおかないので、私たちを何とか誘惑しようと、この世が存在する限り誘惑を挑んできます。そこで、私たちは常に戦い続けなければなりません。ですから「平和」というのと、「戦い・戦争」というのは、この意味では一緒になります。ですから日常、日中の間、戦えば戦うほど、その結果実りとして夜、平和があります。

この観点から聖母の騎士を、無原罪の聖母の騎士を見て下さい。マリア様はご自分の軍隊の騎士たちに戦うように求めています。この戦いは世の終わりまで続きます。この戦いは平和をもたらす為の戦いです。この戦いというのは、ある1人の無原罪の聖母の騎士が、他の霊魂をして、マリア様を知らせ、愛させる事にあります。

「罪人の回心の為に尽くせ」と聖マキシミリアノ・コルベは言っています。「ユダヤ人の回心の為に、異端者の、またあるいは異教徒の回心の為に、フリーメイソンの回心の為に尽くしなさい」と。

なぜフリーメイソンでしょうか?なぜかというと、たとえそれが離教徒であろうと、異端者であろうと、あるいは異教徒であろうと、イエズス様と一致していない限り、彼らの心に平安はありません。しかしフリーメイソンは、ただ単に自分だけがその平和がないのではなく、この平和がない事を他の人々にも広めようとしている、戦っているからです。

フリーメイソンは新しい世界秩序を作ろうとしています。その新しい世界秩序によれば、「人間が天主の地位に立って、人間の世界を作る」という事です。ここに「新世界秩序」という、秩序を作ろうとしています。それは地上における楽園を建設するという事です。

しかし同時に、この秩序には本当の平和の起源がありません。天主の無い、したがって本当の意味での平和を与える力を持たない、しかし人間だけの平和を作る者として、自分を自称しています。そこで彼らは、「天主の無い平和を作る事ができる」と私たちを騙して、嘘をついて、そして常に幻想を抱かせなければなりません。

しかし現実に何が起こっているかを見て下さい。それは恐怖政治であって、どこもかしこも、腐敗と恐怖で充ち満ている世界です。フランス革命の時の、平和を強制させる道具は何かというと、「ギロチン」でした。ギロチンはフランス革命でしたが、その後はそれは別の道具を使います。それが強制収容所であったり、グラーグと言われていたり、あるいはテロリズムに対する戦いであったりします。そのようなカギ括弧付きの平和の道具を作って、世界に平和を強制しようとしますけれども、世界の状況はますます無秩序へと転がり落ちています。

しかしファチマではマリア様は約束しました、「最後には、私の汚れなき御心が凱旋するでしょう。そして平和の時が与えられるでしょう。」

この平和は、まず私たちの心に霊魂にあるものです。この国家間の平和とか、あるいはどこかの団体の平和の前に、私たちの心になければなりません。この心の平和を得る為には、朝から夜に至るまで、私たちは戦い続けなければ、悪魔と無秩序に対して戦わなければなりません。

「無秩序」と戦うというのは何かというと、「天主の御旨が私たちの霊魂において尊重されていない」という無秩序です。

第1の無秩序というのはこれです、「願わくは、私の御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。」「私の意志が、私のやりたい事が行われる事を」というのは、これこそが無秩序の根源であって、非常に悪い願いです。

私たちは「主の御旨が、御身の御旨が行われん事を」と言わなければなりません。でもよく、「それから、私のやりたい事も」とそれに付け加えます。そこに問題があります、ここに無秩序の起源があります。

イエズス様はゲッセマニの園で、「私の望みではなく、御身の御旨がなされますように」と祈りました。

なぜかというと、私のやりたい事、私の思いというのは、原罪によって傷つけられた利己主義や、あるいは自分勝手といつもリンクしているからです。平和の為には、天主の御旨、そしてインマクラータの御旨を果たさなければなりませんが、私たちは朝起きたら一体何をするでしょうか?最初に何をしますか?朝、皆さんは何をしますか?

まず私たちは朝起きます。皆さんどうやって起きるのでしょうか?ここに有名なアラームがあります、スヌーズ機能が付いています。



「私は朝6時に起きなければならない。なぜならば、6時に起きて、朝のお祈りをする。それから黙想をする。その為に何分必要だ、だから必ず6時に起きないと遅れてしまう。6時に起きる。」まず考えを分析して下さい。まず秩序と調和に満ちた1日を送ろう、という決意を取っています。そのその後に、エネルギーを祈りによって得た後に、仕事につきたいと思っています。カトリックとして1日を始めようと思っています。ですからまず私たちは寝る前に、素晴らしい明日の計画とプランを立てます。

イエズス様もヨゼフ様もマリア様も、皆聖家族はこうやって起きていました、朝早く。最初の、朝の最も最初の瞬間は、祈りに捧げられました。その後に朝必要なものの準備をします。美味しい朝食と美味しいコーヒーも飲む事ができます。そして仕事につく事ができます。霊魂は祈りによって御恵みで満たされて、体も美味しい朝食で満たされています。お祈りによって、知性は今日何をすべきかよく分かっています。そして私たちの意思も、天主の御旨を果たそうと愛に燃えています。

そして翌日、朝がやってきました。ですから、「私はその全てを得る為に、朝の祈りをする為に、5時半に起きなければならない」とアラームをセットしたからです。ですから5時半に起きる事ができるように、携帯を2つ準備して、2つアラームをセットします。こちら側は5時29分にセットしてあって1分早く、そしてこちらは本物で5時30分に鳴ります。最初のアラームと第2のアラームは音が違っています。さぁ5時29分、30分になりました。



「あぁ、外は雨が降っている。まだ太陽も上がっていない。ベッドは本当に暖かくて気持ちがいい。」そしてベッドから手を出してアラームを1つずつ消します。「どうせ10分経つとまたスヌーズがもう1回なるから、大丈夫。まだ遅刻しない。もう10分。」そして10分後、また携帯が鳴ります、アラームが鳴ります。



そして何10分か後に、本当にもう遅刻するという時、「あぁもうこんな時間だ!あぁ起きなきゃ!あぁバスに乗り遅れる!あぁ電車に遅れる!」そして「乗り遅れる!」と言って服をまず無心に取ります。そしてちょっと洗面所に行こうとすると、誰かがもう入っています。「ちょっと遅刻してるから早く早く早く!」と言って、「あぁ、おはようございま~す。よく眠れた?」「あぁ!それどころじゃないの!」そしてちょうどバス停に一生懸命行くのですけれども、バス停に到着したその瞬間、バスがその目の前をスーッと通って行ってしまいます。

朝の祈りをする事ができませんでした。それから何度も何度もイライラして怒りました。家族の皆にはたくさん嫌な言葉を吐きました。腐ったリンゴのように顔はもうクシャクシャです。みんな、皆さんの事を恐れがっています。そして職場に着いたらもう疲れ果てて、ハァハァ息を切らせて、もう仕事どころではありません。平和がありません。そしてこの朝からこのように始まってしまうと、1日中このように終わります。

朝アラームが鳴った時に起きるというのは、これは戦いです。私たちはこの敵を、取ってこう戦って参らせなければなりませんが、私たちの本当の敵とは何でしょうか?

自分の「利己主義」と「自分勝手」です。1日の間、私たちの原罪の傷が自分勝手が顔を覗かせて、「自分の思い通りにさせたい」という事が来ると、それを黙らせるように戦わなければなりません。「怠慢」という原罪の傷をお見せました。私の義務、果たすべき義務よりも、私の安楽さ快楽さを求める、という事です。

もしも天主の御旨を果たしたとしたら、平和がありました。それに対して、私の思い通りに、私のやりたいように、私の快楽を求めると、平和がありません。もちろん怠慢という事もそうですけれども、他の隣人たちとの関係、良い関係という事についても同じです。

しかし、もしも私たちが5時30分にアラームの通り起きて、お祈りもして、黙想して、ちゃんと計画を立てて、全て準備をして職場に着いたとします。「あぁマリア様お母様、イエズス様、今日は1日本当に素晴らしい平和を頂く事ができそうです。ありがとうございます。」

皆さん、でも悪魔は眠っていません。携帯が鳴っています、「あ、メッセージが来た。」このいきなり携帯にメッセージがやって来て、それによると何か私たちの反対とか、あるいは反対するような苛立たせるような事が書いてある。「何だこれは!」すぐ返事をして、そうするとすぐ返事が返ってきて、「何だ!」すぐ返事をして、すぐ返事が返ってきて、もう平和がありません。携帯のちょっとしたメッセージ、あるいはちょっとした電話が、私たちの平和を奪ってしまう事があります、あっという間に。ここに問題があります。

これは私たちの傲慢です、謙遜の欠如です。私の言っている事をよく理解して下さい。「謙遜」というのは、「私は無であって、私の持っている物は何もなくて、全て天主から頂いたものだ」という事です。したがって、「全ては天主様の御手の内にある」という事です。「全て天主のコントロールの元にある」という事です。「天主の力の及ばないものは何もない」という事です。

天主は全てを御存知です。全てを知っているのみか、全能であります。しかも私を愛しています。この3つを集めて下さい。という事は、私の平和を混乱させるものは何もあり得ない、という事です。しかし下らない事の為に平和を失ってしまっています。という事は、私たちの心、霊魂の中は秩序立っていないという事を示しています。したがって私たちは秩序立てなければなりません。

では、否定的なメッセージに対してどうすれば良いのでしょうか?誰かが皆さんの事を叱った、あるいは忠告した、あるいはちょっと辱められた、という時は。あるいはちょっと腹立たしい事がある。私たちがよく一番頻繁に告解するのは何でしょうか?「私はイライラしました」「腹が立ちました」「私は憎しみました」ですから私はよく叫んだり怒ったりします。もしも私たちが却って弱々しい性格ですと、そういうのを見ると怒る代わりに、泣いたり悲しんだりします。私たちの霊魂が秩序立っていないからです。

秩序を立てる為には戦わなければなりません。マリア様は私たちに約束しました、「もしもマリア様の元に行くなら、私たちに本当の平和を与えて下さる。」まずマリア様が私たちのベッドにやって来て、子供をベッドから出して下さらなければなりません、私たちができないような事を。マリア様が私たちに怠慢さと戦う力を与えてくれます。これがマリア様の汚れなき御心に対する信心です。

もしも私たちがマリア様の汚れなき御心に対する信心を強く持てば強く持つほど、マリア様の御心の動きが私たちの心を支配します。マリア様の心にはいつも平和がありました。マリア様の心は汚れない御心だからです。これが天主との調和だからです。怠慢さがありません。そして色々な否定的なメッセージや否定的な評価が与えられても、マリア様はそれを、うまくそれに対応します。なぜならマリア様はとてもご謙遜だったからです。この心をご自分の子供たちに与えようとされます。

まずマリア様の謙遜を見て下さい。何か私たちを苛立たせる事、腹立たしい事がある時には何をしたら良いでしょうか?「壁」を作って下さい。もしも私たちが壁を作らなければ、誰かが攻撃してくれば私たちはその攻撃をまともに受けます。ですから平和がありません。

では壁を作るとはどういう事でしょうか?それはどういう事かというと、「あぁ関係ないよ、無関心だ」というのではありません。そういう特に私たちの愛すべき人たちにそのような事をしては、私たち自身が傷付きます。特に私たちのこの愛すべき家族のメンバーが私たちを苛立たせたり、苦しめたりする時に一番悲しみます。

「壁」というのは、マリア様、「マリア様がこの私たちの間にいて下さる」という事です。

よくあり得る事ですけれども、夫が家に帰ってくると夕食がまだできていない。朝からずっと働いていてもう疲れている。美味しい冷たく冷えたビールと、美味しいスープとお蕎麦が準備されているのを期待して家に帰ってくると、何も準備はされていません。そこでその責任者にまずすぐ行きます、つまり妻の所に行きます、「一体何だ、どうしたのだ!?夕食はどうなったのだ!」

もしもこう疲れた夫と疲れた妻の間に、「聖なるマリア様」という壁がなかったら、この2人の戦いが始まってしまいます。なぜかというと、疲れた夫は私の権利を主張します。そこでその妻は、なぜ作る事ができなかったという説明をします、「なぜ作る事ができなかったかというと、作る事ができなかったから!」そして妻は言います、「私はね、あなたの奴隷ではありません。召使いでもありません。私は子供の世話をずっと朝から晩までみてました。あなたは外に行っていたから何も知らないですけれど、この家でこの家事をする事がどれほど大変か知っていますか!?」

最初はそういう事から始まります、「妻よ、一体何でこれが出来なかったのか?」その事から始まって、「おぉ、ではどうして朝ごはんの時にもパンがなかったのか!?」すると妻はそのような事から、「じゃぁ一体なぜ朝早く起こしてくれなかったのか!あのね、あなたがね一晩中いびきをかいているから眠れなかったの!何でいびきをするの!」そしてその夕食の準備の話から色んな話まで展開していって、戦争が始まります。

そこで、皆さんの愛する人々と自分の間に、マリア様の汚れなき御心とイエズス様の至聖なる聖心を壁として立てて下さい。

「イエズス様こそが私たちの平和である」と聖パウロは言っています。

まず家庭生活で私たちが確信していなければならない事は、私たち皆が聖人ではない、という事です。聖人ではなくて豚の集団だという事です。つまり自分勝手の主張をする集団が家族を作っているという事です。これが私たちの本性に備わっている事です。

もしも家庭生活の家長が、自分の霊魂に平和がなくて、その平和を追求しようとしなければ、何が起こるでしょうか?これは無秩序第1です。その次の家族のメンバーも平和がなくて自分勝手です、二重の無秩序です。次に5人の子供は自分勝手にやっています、平和がありません。その中には平和が無くて、家族は無秩序が支配しています。

なぜ家庭が崩壊するのでしょうか?聖伝の家族といえども危険があります。毎週日曜日に聖伝のミサに与って御説教を聞くだけでは、家族の生活を1つにまとめるには不十分です。少なくとも夫が、「あぁ、私は家族の家長として、平和をもたらすものでなければならない」と自覚しているならば、あるいは「より少なく問題児でなければならない」と思うならば、そうすると家庭に平和が戻る努力がなされています。

家庭に平和をもたらす為の非常に重要な手段は、「イエズス様が家庭の王」とする事です。「イエズス様の聖心を家庭の中心に据える」事です。

イエズス様が平和の君として家庭に君臨するならば、そして皆がその事を認識するならば、平和が戻ります。「イエズス様の聖心の着座式」というものをする事によって、これがなされます。イエズス様の聖心と同時に、マリア様の汚れなき御心も女王として家庭に君臨させて下さい。マリア様がファチマでするようにと仰った事をなさって下さい、毎日家庭でロザリオを唱えて下さい。

家庭での家族でのロザリオ、そしてイエズス様の聖心の着座式、これが家庭を救います。そしてそれだけでなく、私たちが一人ひとり努力して、家庭の平和をもたらす者として犠牲を払わなければなりません。

父親はどうしたら平和をもたらす事ができるでしょうか?これは家長として最も重要な義務です。父親というのは「権威者」です。権威者とは権威とは何でしょうか?1つだけしか目的がありません、「権威」とは、「秩序と調和をもたらす事」です。

なぜ私たちは司祭の事を、神父様(Father)と呼ぶのでしょうか?なぜかというと、司祭の仕事は権威であって、この秩序と調和をもたらす為にあるからです。天主の秩序を霊魂たちにもたらすという事です。あるいは、それが失われた時にはそれを回復させるという事です。天主の秩序と調和がどのようになされるかという事を教えて、それの模範を示すからです。

しかしもしも司祭が無秩序の起源であったとしたら、そうすると司祭は恐ろしい腐敗と混乱を招き起こします。もしも司祭が祭壇の周りで踊ったり、あるいはいい加減な事をして信徒たちの心に天主のあるべき概念を与える事を教えないとしたら。

では家庭の父親とはどうであるべきでしょうか?家庭の父親は、家庭に平和と調和を与えます。無秩序と醜さを家庭から取り除こうとします。子供たちがやっている事をよく見守る時にこれをします。特に子供たちがテレビやあるいは映画や、あるいは携帯を通してこの世の中の最も汚らしいものや、最も見苦しいものを目にしているにもかかわらず、両親はそれに対して何の関心も払わずにそのままほっぽらかしにしておく、そして家庭が崩壊していく、という事を見て驚かないで下さい。聖伝のカトリックの子供たちといえども、そのような悪い影響をそのまま受け続けていたら、一人一人信仰を失って、家庭から離れて行って、家を出て行ってしまうという事があり得ます。

すると皆さん、私にこう仰るかもしれません、「神父様、私はそんな事を決して子供に許しません!携帯はありません、テレビも家にありません、映画もダメです、毎日お祈りしています、子供たちは厳格な秩序の上に育てられています。」

「しかし、今仰った事はちょっと危険かもしれません。あなたは自画自賛して、あなたは自分のやっている事は素晴らしいと言っていますが、無秩序がないという事がすなわち、秩序立っているとは限りません。」

また聖伝の家族であってもこれはよくある事なのですけれども、そして司祭の中でもあります。これはダメ、これもダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ!というのはよくある事です。しかしこれによって養われるという事もありませんし、秩序が育つという事もありません。

秩序の為には、「光」がなければなりません。そして「調和」がなければなりません。私たちの心を光出すもの、そして心を上げるもの、美しいものを子供たちに与えなければなりません。自由時間に子供たちに、この自然の美しさを見せてあげて下さい。あるいは子供と一緒にこうキャンプファイヤーをしたりとか、あるいは子供と一緒にこう土いじりをしたり、お庭の世話をしたり、あるいは天主様からのこの美しい賜物を見せたりして、「あぁ、素晴らしい。この自然の美しさはすごい!」と感嘆させる、あるいは聖人の話をするとか、子供に話をしてあげるとか、あるいは子供に玄義の話をして説明するとか、話しかける等をしなければなりません。

すると子供たちは、「あぁ、お父さんとお母さんは僕に何かすごい事を教えようとしている。素晴らしいのだけれど、そういう事を教えようとしてくれている」という事が分かります。

無原罪の聖母の騎士はどうでしょうか?ではこの色々な読む読み物がありますけれども、それの後ろにある事は何でしょうか?その背後にあるこう願いというのは、「これらを読んでもらって、そのマリア様に対する熱情をさらに大きくしてもらいたい」という望みがあります。その小さなチラシの中に綺麗な絵をつけて、マリア様の事を知ってもらいたい。M・Iの無原罪の聖母の旗があったら嬉しいなと思います。あるいはお祈りのカードがあって、それをいつも持っている事ができるように。

私にとって皆さんは子供ですから、その子供に色んな面白い事を与えようと思っています。チラシの後には本も準備しています。その小冊子の後には大きな本も、映画も作ります。あるいはYouTubeではお話も、講話の話も載せます。そしてできるだけ皆さんを起こして、「マリア様の為に何かしよう。マリア様は皆さんを待っている」という事を教え伝えようとします。

聖人についてのほんのちょっとだけの紹介だけでも、若い人たちにとっては「あぁ、すごいなぁ!」と思わせる事ができます。若い世代には理想が必要です、動機付けが必要です。そうする事によって家庭に平和をもたらす事ができます。その一般的な規則はこうです、「皆さんが与えれば与えるほど、たくさんより多くを受ける」という事です。家庭で一人一人は弱いものですけれども、一人一人が弱いながらも平和の為に、家族の平和の為に貢献する、それが大切です。他の家族の成員が持っている辛い思い、困難に対して、私たちもより深く忍耐強くなります。

多忙な人は一日中外で一生懸命働いています。夕方はお腹が減ってペコペコになって帰ってきます。疲れてペコペコで帰って来ても、食べるものが何もない、というのはよく分かります。問題はどこにあるのでしょうか?冷蔵庫に行って下さい。冷蔵庫に行って何かを見つけて、電子レンジに入れてチンとして下されば、2分の後に何か食べる事ができます。そして疲れた妻に何か言う前に、こうやって挨拶して下さい、こうやって挨拶すると「おぉ、愛する妻よ。」すると妻はびっくりする。いつもはお腹が減ってペコペコになって、疲れて何かライオンのよう帰ってくるのですけれども、今日は何か子羊のようになって帰ってきた。なぜかというと、夫は平和をもたらすものとして帰ってきたからです。

そうすると、妻の態度も変わります。「あぁ、すいません、夕食ちょっと間に合わなかったのです。」すると、その何で出来なかったのかという事を、心の中の事をちょっと言うようになります。そこで平和が戻ってきます。もしも怒った顔で夫がこう妻を叱る事から始めると、妻は自分の心にあった事を打ち明けようともしません。

私がマニラの修道院に来るとどうするか知っていますか?そして顔を、ライオンと狼のようにして、「これは何だ!」と小野田神父を見て言ったとします。すると、もしもそうしたとしたら、小野田神父はたとえいつものようにニコニコしているのですけれども、何も説明を受ける事はできないでしょう。

お父さんが家にやって来るとします、「子よ、プレゼントがある。今ちょうどね、誰かが寄付をしてくれた、5万ペソだ。子よ、お前の修道院長としての仕事は大変だという事をよく知っている。大丈夫か。」
「はい神父様、大丈夫です。でもですね…」と言って小野田神父は、私に全てを告白して下さる事でしょう。

これと同じような事を家庭でも修道院でもしなければなりません。そこで私たちはまず、与える事から始めます。与える事から始めると愛が戻ってきて、そして平和が戻ります。今日秋田のマリア様の元に行って、たくさんお願いする事があります。そして私たちの為に、そして私たちの家族の為にたくさんお祈りしたい事があります。

では次の講話では、マリア様はどうやって私たちに、霊魂の平和の元后であって、家庭の平和の元后であって、国の世界の平和の元后であるか、という事をお話したいと思っています。

Regina Caeliを唱えます。

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秋田巡礼-霊的講話【1】-2018年5月3日シュテーリン神父様「マスメディアの言う平和と天主の与える平和との違い」

2018年05月27日 | お説教・霊的講話
2018年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【1】
「マスメディアの言う平和と天主の与える平和との違い」
同時通訳:小野田圭志神父






秋田への巡礼の招待の手紙の中には、私は特に「平和」について黙想をする事を提案していました。

なぜかというと、政治的な具体的な今の状況は、私たちを少し心配させたからです。特に南北朝鮮半島からの脅威というものが、ここではすごく近くで感じられていたからです。

小野田神父がシュテーリン神父に、この「手紙を書いて下さい」と言った時に、そのような北朝鮮が南朝鮮にミサイルを撃つのではないか、という恐れがありましたけれども、今では両者は手を結んでいます。

数ヶ月前は、プーチン大統領とトランプ大統領は一緒にコーヒーを飲んで、何か強いお友達のようでしたが、今ではある国にある化学兵器を巡って、この両国は戦争の前夜であるかのような状況をしています。

これは何を私たちに教えているかというと、「マスコミが何を私たちに言っても、それにあまりびっくりせず、それに影響を受けないでいるべきだ」という事です。何をマスメディアが言っても、本当の事を知る事はないでしょう。

いつも私たちは、「最新のニュースによるとこの危機が」あるいは「あの危機が」と言ってビクビクしていなければなりません。第二次世界大戦が終わった後に、平和を脅かすものは毎月のように現れています。

1986年、ヨハネ・パウロニ世はアシジに全ての宗教の人々を集めて、「平和の為に祈るように」と言っていました。もちろん、平和の為に祈りをするという意向は良い意向ですけれども、一体「誰に向かって祈っているのか」というのが問題です。もしも、私たちがもしも平和を求めて悪魔にお祈りをしたら、私たちはその結果を受けなければなりません。ところで聖書によると詩編によると、「異教徒たちの神々は全て悪魔だ」と言います。

しかし平和については、過去30年から40年の間大きな進展がありました。この平和の進展があったという事はどういう事かというと、平和についての色々な出来事があったという事です。

これは何を意味するかというと、大きな戦争が起こる危険があるというよりは、「私たちがはっきり確実なものを、私たちがますます失っていると」いう事です。私たちは、なぜ、一体どうして、どこで、何の為に、このような戦いが起こっているのか分かりませんけれども、しかし突然そのような事を知らされて、ショックを受ける事があります。

例えばアメリカに旅行する時には、安全検査と言って色々な検査をしなければなりません。しかし、だからといって安全が守られているとは限りません。ニュースや、あるいは宣伝によっていつも私たちに与えられている情報のために、人々は常に何かを恐れていなければなりません。

私たちが何か「安全だ、安心している」という時になると、いきなり頭を叩かれて、「恐れなければならない!」という風に教えられます。あたかも私たちにこの世界の人々に、新しいメンタリティーを、新しい精神状況を作り出そうとしているかのようです。

一方では、人々には面白おかしい事や娯楽などによって、気晴らしがたくさん与えられています。

ところでその他方で、「安心している、安全だ」という代わりに、いつも「あぁ、次にはどんな事件が起こるのか」あるいは「誰かが鉄砲を持って殺されるのではないか」あるいは「何かテロリズムがあるのではないか」と恐れなければなりません。

では、この2つの事は何を私たちに求めているのでしょうか?

これは私たちに、今、「今ここで私たちがする事をしっかりしていなければならない。明日はもう遅すぎるかもしれない」という事です。特に教会の指導者たちが「平和の為に祈ろう」と言った時に、私たちはともすると、今ここの、今私の平和、私の家族の平和だけを考えていて、「天主様が求めている大きな秩序の中」というものを見失ってしまうかもしれません。

なぜかというと、この平和の為に一体どんな手段が求められるかというと、物理的な安全の事だけを考えているからです。例えば飛行機に乗る前に、5つの段階の安全検査のチェックをしてから搭乗すると、あぁ何か安全だとか思う、というような何か物理的なものです。

ところで、この世俗の人々が平和の委員会とか何かをすると、いつも今、ここで、そのような物理的な平和の事を、安全の事が語られます。

では、私たちはどれほどそのようなイデオロギーに犯されて、そのようなイデオロギーに影響を受けているのでしょうか。それを私たちは吟味しなければなりません。誰もが恐れていると、私たちも恐れ出します。

しかしマリア様はファチマで、もしもマリア様の要求の通りにするならば、「平和が与えられる」と約束されました。マリア様が現れた所では、いつも平和を約束しています。ですから私たちはマリア様に、そのような平和をマリア様に委ねて、「北朝鮮と韓国との間には平和があるように」とお祈りします。

そしてそうすると、近代主義のカトリックの人々は、「あぁ、マリア様は私たちの祈りを聞いて下さった。今、平和が来ている!」と喜ぶかもしれません。「北朝鮮と韓国は手を結んで一緒に会食をした、すごい!」と。

それはちょうど、前に共産主義の東欧が、鉄のカーテンが落ちて解放された時に同じような状況が起こりました。その時に皆が、「あぁ、ファチマのマリア様がなさって下さった!」と言って喜びました。「共産主義は死んだ!ロシアは今自由となった!」とたくさん聞きました。「あぁ、マリア様は喜んでいる、そして私たちも嬉しい!」と聞きました。

これは私たちにとって教訓を与えています。一体その時にロシアで何が起こったでしょうか?確かに信仰は迫害を受ける事がなくなりました。ロシアで、そのロシアの色が赤から青に少し変わった、すると、「全てが許されて、今プーチンはミサの侍者をやっている」、という風に私たちは理解しています。

しかしロシアの状況をよく見ると、別にロシアがカトリックに改宗した、カトリックの信仰を受け入れている、というわけでは全然ありません。その反対なのです。それどころか無神論が更に物質主義と重なって、更に霊魂たちを下に落としています。

そこで私が申し上げるこの「平和」というのは、この世が使うような平和ではなくて、私たちの主が使う意味での平和であるという事を理解しなければなりません。そうでなければ私たちは、その深みを、何を考えるべきか間違ってしまうからです。

イエズス様がお生まれになった時に天使たちが歌ったように、私たちの主はこの地上の善意の人々に平和をもたらしました。

イエズス様が今から受難をされようとする時に、「私はお前たちに平和を残す。しかしこの世が与えるような平和ではなく、私の平和を与える」と言われました。

御復活の後には、弟子たちに言った事は最初の言葉は、「お前たちに平和があるように」でした。

イエズス様は私たちに聖霊を賜(たまもの)として与えます。そして聖霊の実りの内の最初が、「平和」です

それから修道会には、フランシスコ会のそのモットーは「平和と善」“Pax et Bonum”、またベネディクト会では「キリストの平和」、これがモットーとなります。

典礼ではイエズス様は、「平和の王」「平和の君」と言われています。王たるキリストの祝日には、「平和をもたらす王」としてイエズス様を崇めます。

御聖体拝領を与える直前に、ミサの中では司祭は、「主の平和があなた達と共にありますように Pax Domini sit semper vobiscum」と言います。

聖パウロは、エフェソの人々への手紙の中の第2章で、平和について語ります。そこにおいて、「罪の恐ろしさ」「罪が私たちの全てを崩壊させてしまう事」「しかしイエズス様の御血が私たちの崩壊したものを1つにまとめる」という事を教えています。「イエズス様の御血こそが、壊れたものをまた作り直す」と。ですから聖パウロは、「イエズス様こそ私たちの平和だ」「私たちの平和はキリストである。」と言います。

教父たちは非常に多くこの事について語っています。典礼では、平和を求め平和を維持する為の祈りがたくさんあります。聖アウグスティヌスは平和の定義を与えています。これについて聖トマス・アクィナスが既に多く詳しい説明も与えています。聖アウグスティヌスによると「平和とは、秩序における平穏さだ」と。

聖人たちによると、平和には2つの要素があります。1つは「秩序」、もう1つは「平穏さ」です。「秩序」というのは状況です。そして「平穏さ」というのは雰囲気の事です。

例えば何千名もの警察官が来たとします。一人一人が皆さんの方に、銃を向けています。そして「一列に並べ!」とこう言います。とても良い秩序ではないでしょうか。でもそこには平穏さがありません。そこには安心するような平安な気持ちがありません。

この「平穏さ」という言葉はとても面白い意味があります。一方でこれは落ち着いている状態です。もしも嵐で大きな音が鳴っていたり、風が吹いていたりすると、そこには平穏さがありません。しかし嵐が去って、青い空と、太陽と、静かな空気があると、「あぁ、平穏さが戻った、美しさが戻った」という事になります。ですから「平穏さ」というのと、「美しさ」というのは一致しています。ですから平穏な状況にあると、私たちの心は上に上がって、嬉しい気持ちになります。

罪と悪魔は、私たちの間に無秩序をもたらそうとします。「悪魔」“Diabolus”という言葉の語源がそうです、これはギリシャ語から来ています。“βάλλω”「私は投げる」という動詞と διά(通り抜けて)とから由来し、「色んな方向に投げる」という言葉の動詞から、「讒言をする」「嘘の告発をする」という意味になり、「悪魔」という言葉が来ています。ですからギリシャ語の“Διάβολος”というのは、「混乱をもたらす者」とか「問題を作る人」とも訳す事ができます。

原罪を持った人間の心からは、秩序・平和は生まれません。もちろん私が先ほど申し上げたように、人工的な強制的な秩序をもたらす事はできるかもしれません。

私は昔こういう事を聞いた事があります、「神父様、ヒトラーというのはそんなに悪い人ではありませんでした。なぜかというと、ドイツには秩序がその時あったからです。」

はい、確かに秩序はあったのですけれども、その秩序の維持の為には恐ろしい恐怖や、威嚇が必要でした。この秩序というのは1つのグループ、あるいは1人の男によって作り出されました。もしもこの人に誰かちょっとでも反対すれば、すぐに消されてしまいました。したがって、この1人の男ヒトラーさんと同意しなかったが為に、反対を言った司祭たちは多く強制収容所に送られてしまいました。

ですから私が今から申し上げる「本当の平和」というのは、マリア様・イエズス様が私たちに下さる平和であって、私たち人間が作り上げようとしている平和ではありません。私たちが今から習おうする事は、「この本当のイエズス様から来る平和を、もう一度戻す」という事です。

まず私たちの心に平和がなければ、国に平和がある事はありません。

なぜかというと、1つの国の平和は、私たちが強制させる事ができないからです。ただ祈る事しかできません。ある小教区やある共同体についてであれば、この平和をもたらす為に多くの事ができるかもしれません。しかし私たちは、自分の家族の平和の為に全てをしなければなりません。そして家族の平和の為に、家族の成員の一人一人が、お父さんも、お母さんも、子供も、一人一人が心の平和を維持するようにしなければ、家族の平和はあり得ません。

ではイエズス様が、「あなたたちに平和があるように」と仰った時に、何を、一体どういう事を求めているのでしょうか?

詩編によれば、「平和を求めよ。そしてその後を追いかけよ」とあります。

至福八端には「平和をもたらす者は幸いなるかな。彼らは天主の子と言われるだろう。」とあります。この約束はあまりにも素晴らしいものです。ここで与えられた約束は、素晴らしすぎて信じられないほどです。

私たちが求めるのはこの本当の平和であって、この本当の平和こそ素晴らしい賜物です。テレビやラジオで言っている平和の事ではありません。

そこで平和を得る為には、まず心に「秩序」がなければなりません。どうやってこの秩序を作るかといえば、簡単です。心の無秩序を整えれば良いのです。

この今、現代の世界で最高の、最善のカトリックと言われている人も、心に平和がありません。一体なぜ平和がないのでしょうか?何を恐れているのでしょうか?夜中に起きて恐れています、一体なぜ?

テレビをつけると、あるいはラジオをつけると、「ここでは戦争が始まる」「あぁ、ここでは爆撃が始まった」と私たちは恐れています。一体なぜ?私たちの心は穏やかではありません。平穏ではありません。一体なぜでしょうか?

イエズス様は使徒たちに言います、「一体何を恐れているのか?」

まずイエズス様はその答えの第1の理由を与えます、「おぉ、なぜそんなに恐れるのか?信仰の少ない者よ。」

私たちの霊魂をもう一度、この平穏さに戻さなければなりません。その為には生ける信仰を持っていなければなりません。

ではなぜ信仰が大切なのでしょうか?

なぜかというと、信仰によって私たちに、天主の全世界がこの心にやって来るからです。生ける信仰によって、キリストが私たちの心に生き始めるからです。そうすると私にとって、平和の王が現実となるからです。この信仰を起こす事によって、天からの光が、輝かしい光が私たちの心に輝くからです。

ご体験があると思います。時間を使って黙想会に与った、あるいは巡礼をしたその後に、私たちの心に平和が戻っているという事が。しかしひとたび家に帰って、テレビをつけて、マスメディアが色々なニュースを言う時に、もう平和は失われてしまっているかのようです。

そこで私たちに2つの事をしなければなりません、平和を戻す為に、まず「知性」において平和、そして「心」に「意思」においても平和がなければなりません。

では「知性」に平和をもたらす為には、「信仰の真理」が必要です。そしてその光を私たちが受けなければなりません。どうやったら良いでしょうか?私たちに問題や混乱を与えるその元をシャットアウトして、私たちに光を与える方を開くだけで良いのです。ですから私たちはいつも天主から来る美しい事、真理を読んで、そして黙想しなければなりません。

もしも私たちが、「昨日トランプ大統領が一体どんな話をしたのか」また「プーチン大統領が今日どのようにお返事をしたのか」という事について詳しく調べる必要はありません。しかしこのマスメディアの為に私たちはいつも、知らなくても良いようなつまらない事を、いつも知っていなければならないかのように考えています。もしも私たちはこの制限をしなければ、平和がありません。

ここがカトリックの強さです。私たちはそのようなその混乱の元をシャットアウトして、私たちに本当の平和を与える真理の事を深く黙想する事です。

「神父様、そういう時間はありません。なぜかというと、私は大きなビジネスがあって、朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしなければならないからです。」

しかしなぜそのこれが理由にならないかというと、ナザレトでは、聖ヨゼフ様は朝早くから夜遅くまで一生懸命仕事をしていました。マリア様も朝早くから夜遅くまで一生懸命働いていました。非常に貧しかったので全て自分でしなければなりませんでした。お掃除から、料理から、洗濯から、服を作る事から、みんなやっていました。ナタナエルの言葉によると、ナザレトは本当に貧しい何も無いような所なので、非常に悪い状況でした。ですから平安に生活する事が非常に難しい所でした。

しかしそれにもかかわらず、聖家族には天国のような平安さがありました。もちろんこの聖家族はたくさん働かなければなりませんし、そして皆さんも働かなければなりません。しかし問題は働いた後、あるいは働いている途中の事です。

私たちは仕事の合間に何をしているのでしょうか?1秒ほんのちょっとの間、自由時間が与えられると、これです(スマートフォンを見る)。
これを私たちはしています。



そこでせっかく与えられた自由時間も、このNHKと産経新聞とYouTubeと、そして色々なマスメディアを見て、「あぁ北朝鮮はあんな事を言っている」「韓国はそうだ」「安倍首相は」と言って、「プーチン大統領は」と考えます。
そこで、また混乱と問題が頭の中にいっぱいになってしまいます。

そこで私は皆さんに解決策を与えます。Militia Immaclatae(M・I)はウェブサイトがあります。そしてそのウェブサイトでは、色々と読む事ができる本が、無料でアップロードされています。色んな言葉であります。中国語でさえも資料があります。

プーチンやトランプの代わりに、マリア様のお言葉を、マリア様のお話をまず頭に入れて下さい。これは皆さんが思っているよりも重要な話です。

ニュースだけではありません。皆さんが使っているメールやLINEやその他で、「あ!」と驚かせるような色々なゴシップがあります。「あの人がああやった」「あの人がこうやった」と。

いろいろなスタンプを送って、ニコッとマークを送ったり、送られたりして、返事がいつ来るかと待って、既読になったかならないかで気をもめて、それで時間を使っています。そこで平和がありません。問題があります。



「でも神父様、このLINEをやって罪ではありません。別に悪い動画や悪い写真を見るわけではありません。良いものだけを見ています。こういうのも罪ではありません。」

ではどこに問題があるのでしょうか?問題はこの小さな道具が、私たちの平和を取ってしまうことです。この携帯によって私たちは、いつもこう興奮して「あぁ、どうなっているのか」依存しているからです。



私は先程まで、ブトワンという所で黙想会を指導してきました。沈黙の黙想会です。私がそこで見た事を、何を見たか知っていますか?

まず第1の黙想会の講話で、「携帯は使ってはいけません」と言いました。その言った5分後に携帯が鳴ったのです。そしてこの今まで一生懸命私の話を聞いていた人が何をしたか知っていますか?すぐにこうしたのです(電話に出てしゃべる)



私たちはこの小さな機械に依存しています。この小さな物が王様になっています。もしもこの小さな機械が信号を出すと、もう他の事はすっかり忘れて、黙想会でも何でもこの事だけに集中しています。

私たちの教会のパリでも、大きな教会なのですけれども、神父様が特別の御説教をして、「このミサの間には、この携帯を使ってはいけない」という話をしました。



平和というのは非常に大切です。なぜかというと、平和というのは、私たちが良い祈りをする為にも、良い行動をする為にも、良い態度を受ける為にも、基礎となるからです。ですからマリア様は私たちにこの平和を与えようとしています。私たちは秋田に来ました、ちょうどファチマに行ったように。なぜかというと、マリア様は私たちに全ての御恵みを与える事ができて、なぜかというと全ての御恵みを持っているからです。

そしてその内の特別な最大の御恵みは、「平和」の御恵みです。私たちの主は私たちの心を惹き付けるものですから、一旦惹き付けられると私たちに平和が戻ってきます。

平和の第1の条件は、「知性が私たちに与えられる信仰の光を、天主から来る世界を受け入れる」という事です。この地上のニュースやテレビが与えるものではありません。

しかし天主様の玄義、あるいは素晴らしい奇跡的なマリア様の行い、御恵み等について私たちが知っているだけでは足りません。意思が開かれていなければなりません。

私たちが告解をして、罪を告白して、罪が赦された時に、心が清められて浄化されて、そして平和が戻ってきたその喜びを思い出して下さい。なぜかというとこの時に、この瞬間には、秩序が戻ったからです。調和があるからです。この霊魂には美が戻ったからです。私たちの幸せを脅かすものを取って下さったので、私たちには平和が戻りました。

もしも煉獄で苦しむ霊魂について思っていたら、あるいは地獄の霊魂の事を思ったら平和がありません。なぜかというと、もしも私たちが小罪の償いを果たしていなければ、小罪があるならば、煉獄が待っているからです。しかしもしも私が大罪に中毒になっているならば、平和がありません。

ところで、近代主義の人たちがいつも話している「平和」「平和」「平和」と言うのにはこの事がありません。大罪を赦され、罪から赦され、罪を忌み憎む事がありません。ですから本当の平和ではありません。これが欠如しています。

もしも私が誰かに、「あぁ、仏像にお祈りして下さい。」あるいは「この太平洋の真ん中にあるトーテムポールのような木の棒にお祈りして下さい」と言ったら、私は大罪を犯します。第一戒に、天主様の十戒の内の第一戒に反する罪を犯す事になります。ところで1986年、アシジでは異教の人々に、「彼らの神々にお祈りしろ」と言ったのみならず、教会をその為に解放して、仏像が御聖櫃の上に置かれさえもしました。

ですから私たちは客観的に、そのようなお祈りが本当の平和を与える事ができない、もたらす事ができない、という事を知っています。

私たちがまず平和を求めるならば、その人の霊魂の回心を、真の天主への回心を求めなければなりません。本当の平和とは、真の天主であるイエズス・キリストの御旨を果たす事にあります。

イエズス様天主がこの世を創った時に、全ては完璧な秩序の上に創られました。この地上での楽園は、あたかも地上における天国であるかのようでした。この世の終わりに来るべき新しいエルサレム、天のエルサレムは、至福の平和のビジョンであって、平和を見る事です。

なぜ「天上的な平和」と言われるかというと、全てが完璧で、秩序立っているからです。ですから私たちは、天主の求める秩序、望む秩序に戻らなければなりません。ですから聖霊の実りの果実の1つが、「平和」です。

私が先ほど申し上げましたように、天主の御旨を果たそうと生活すればするほど、私たちの心に平和が多くなります。そして次の段階は、私たちの持っている平和を周りの人に伝える、という事です。これが「平和を作る人」です。これが皆さんの家庭生活をする、まず夫は妻の霊魂に平和をもたらします。

妻は夫の霊魂に平和をもたらします。相互に互いに助け合って、相互の霊魂に平和があるように努めます。この地上のつまらない事ではなく、天主の光と、天主の世界に照らされて、互いに励まし合います。

今から少し休憩に行きます。次のお話で、どうやって妻と夫は互いに平和をもたらし合うだろうか、あるいはどうやってもたらし合わないだろうか、という具体的な例を示したいと思います。15分間休憩をします。


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Sermon for Sunday after Assention "Heaven" ―Fr. Benoit Wailliez, FSSPX

2018年05月18日 | お説教・霊的講話
Sermon for Sunday after Assention "Heaven"
Fr. Benoit Wailliez, FSSPX


“Who can be saved then?
With men it is impossible, but not with God; for all things are possible with God” (Mk 10:26b-27).

The Council of Trent (Denz, 805) has declared that we cannot have on earth certitude of our predestination without a special revelation. Aside from this special revelation no man can know if he will persevere in good works to the end.
Nevertheless there are signs of predestination which give a kind of moral certitude that one will persevere.


SIGNS OF PREDESTINATION


1. Virtuous life (in the spirit of the beatitudes)

“Blessed the poor in spirit, blessed the meek, blessed those who weep, blessed those who hunger and thirst for justice, blessed the merciful, blessed the pure of heart, blessed the peacemakers, blessed those who suffer persecution for justice. These possess the kingdom of God”.

1. humility;
2. continuous prayer; “Ask and you shall receive…”
3. love of enemies / mercy toward those who suffer;
4. patience in adversities for love of God;

“To bear patiently and perseveringly a heavy cross is a great sign of predestination” (Garrigou).



2. Indefatigable zeal for souls


“He who causes a sinner to be brought back from his misguided way, will save his soul from death and will cover a multitude of sins” (James 5:20).



3. Holy Eucharist

•We ought to receive OL in H. Euch. in order to be saved;

“Unless you eat the flesh of the Son of Man, and drink His blood, you shall not have life in you” (John 6:54).
All are bound to eat it at least spiritually (i.e., to have the desire or yearning for receiving this sacrament), because this is to be incorporated in Christ (III 80, 11).

•Moreover, pious and frequent reception of H. Euch. is a sign of predestination.

This sacrament does not at once admit us to glory, but bestows on us the power of coming unto glory.
It is called Viaticum, a figure of what we read in III Kgs. 19:8: “Elias ate and drank, and walked in the strength of that food forty days and forty nights unto the mount of God, Horeb” (III 79, 2).

“O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.
O sacred banquet, in which Christ is received, the memory of the passion is recalled, the soul is filled with grace, and a pledge of future life is given to us”.

“The chief effect of a worthy Communion is to a certain extent a foretaste of heaven, in fact the anticipation and pledge of our future union with God by love in the Beatific Vision” (Catholic Encyclopedia).

The Eucharist is the “pledge of our glorious resurrection and eternal happiness” (Council of Trent, Sess. XIII, cap. ii), according to the promise of Christ: “He that eats My flesh and drinks My blood, has everlasting life, and I will raise him up on the last day” (Jn 6).

•Nine 1st Fridays in honor of the Sacred Heart of Jesus. Confession and Communion.

“O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.


4. Devotion to the Blessed Virgin Mary

“Love of Mary and devotion to her are a sure sign of obtaining eternal salvation” (St. Bernard).

“Whoever bears the mark of a servant of Mary is already enrolled in the Book of Life” (St. Bonaventure).

“Devotion to our Blessed Lady is necessary to salvation.
It is an infallible mark of reprobation to have no esteem and love for the holy Virgin;
on the other hand, it is an infallible mark of predestination to be entirely and truly devoted to her” (TDM 40).

“True devotion to Blessed Mary is one of the surest signs of predestination.
But the devotion must be true; for if it is false, it will not serve the purpose. One can compare it with money which, if not genuine, if counterfeit, is worth nothing.
To prevent any misunderstanding or deception in an affair of such surpassing importance, you should reflect very carefully to see if your devotion to Mary has all the requirements needed in order for it to be worthy” (St. A.M. Claret).

“True devotion to Mary leads effectively to salvation, for Mary can obtain the grace of final perseverance for all those who pray faithfully to her for it. For this reason true devotion to Our Lady is commonly looked on as one of the signs of predestination.
This firm hope rests on Mary's great power of intercession and her special love for those who invoke her.

- According to St Alphonsus (The Glories of Mary, Part I, ch.viii), it is morally impossible that they should be lost if who have the desire to amend their lives and who honor the Mother of God faithfully and commit themselves to her protection.
- Those who have no serious desire to amend their lives cannot, of course, look on the fact that they keep up a certain appearance of devotion to Our Lady as a probable sign of predestination.
- But a sinner who tries to give up sin and turns to Mary for assistance will find that she will not fail him” (Garrigou).


• “Devotion of my Rosary is a great sign of predestination” (Given to St. Dominic and Blessed Alan).

• Scapular. To die wearing it.

• Five 1st Saturdays in honor of the Immaculate Heart of Mary. Confession and Communion.


CONCLUSION


1. Predestination is a mystery.
No one is in heaven unless he has died in the state of grace. No one can go to hell except by his own fault.

2. No absolute certainty of salvation, but moral certitude – 4 signs of predestination.

3. Predestination does not make superfluous our own efforts because adults must merit eternal life.

“One day when a certain man who wavered often and anxiously between hope and fear was struck with sadness, he knelt in humble prayer before the altar of a church.
While meditating on these things, he said: ‘Oh if I but knew whether I should persevere to the end!’
Instantly he heard within the divine answer: ‘If you knew this, what would you do? Do now what you would do then and you will be quite secure’” (Imitation of Christ, Bk 1, chap. 25).

Working out our salvation with fear and trembling


“Be faithful unto death, and I will give you the crown of life” (Apoc. 2:10).


Contemplation of heaven, longing for it:


“When shall I come and see the face of the Lord?” (Ps. 41:3).

“Eye has not seen ear has not heard, nor has the heart of man conceivedwhat God has prepared for those who love Him” (I Cor. 2:9).

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2018年5月13日 御昇天後の主日説教 「天国―救霊予定のしるし」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年05月14日 | お説教・霊的講話
2018年5月13日 御昇天後の主日説教 のミサ
ブノワ・ワリエ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳


御昇天後の主日―天国


「すると、救われるのはどんな人だろう?」「人にはできぬが天主にとってはそうではない。天主にはできないことはない」(マルコ10章26b-27節)

トレント公会議(デンツィンガー805=32版以前の番号)は、誰も特別な啓示なしにこの世で自分の救霊予定の確証を得ることはできない、と宣言しました。この特別な啓示を別にすれば、誰も自分が最後まで善きわざを忍耐強く続けるかどうかを知ることはできません。
それにもかかわらず、人が忍耐強くあり続けるというある種の確証を与える救霊予定のしるしがあるのです。

救霊予定のしるし

1.徳のある生活(真福八端の精神によって)
「心の貧しい人は幸せである、柔和な人は幸せである、悲しむ人は幸せである、正義に飢え渇く人は幸せである、あわれみのある人は幸せである、心の清い人は幸せである、平和のために励む人は幸せである、正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼らのものである」
1.謙遜
2.絶え間のない祈り「求めよ、そうすれば与えられる…」
3.敵を愛すること/苦しむ人々に対するあわれみ
4.天主を愛するがための苦難における忍耐 「辛抱強く忍耐をもって重い十字架を担うことは、救霊予定の素晴らしいしるしである」(ガリグ・ラグランジュ)

2.霊魂を求める不屈の熱意
「一人の罪びとを迷いの道から連れ戻す人は、自分の霊魂を死から救い、多くの罪を消す」(ヤコボ5章20節)。

3.ご聖体
●私たちは、救われるために、ご聖体にまします主を受けるべきです。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの中にはいのちがない」(ヨハネ6章53節)。すべての人は少なくとも霊的に(すなわち、この秘蹟を受けたいとの望みまたは憧れをもって)ご聖体をいただく義務があります。なぜなら、これはキリストと一体となることだからです。(神学大全第三部第80問11)

●さらに、敬虔かつ頻繁にご聖体を受けることは、救霊予定のしるしです。
この秘蹟は、直ちに私たちを栄光に至らせるものではありませんが、私たちに栄光へと至る力を授けます。
この秘蹟は、旅路の糧と呼ばれます。それは、私たちが列王の書上19章8節で読むことを象徴しているからです。

「エリアは飲食し、それに勢いをつけて天主の山ホレブまで、四十日四十夜歩き続けた」。
“O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.
「おお聖なる食事よ、これによってキリストが拝領され、ご受難の記憶が呼び起こされ、霊魂が御恵みで満たされ、未来のいのちの約束がわれらに与えられる」。
「ふさわしくなされた聖体拝領の主な効果は、ある程度天国を前もって味わうことであり、実際に至福直観において愛によって私たちが将来天主と一つになるという期待かつ約束である」(カトリック百科事典)。
ご聖体は、「われわれの栄光ある復活と永遠の幸福の約束」(トレント公会議第13総会第2章)です。それは、「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠のいのちを有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章)というキリストの約束によるのです。

●イエズスの聖心をたたえる九回の初金曜日。告解と聖体拝領。

4.童貞聖マリアへの信心

「マリアへの愛とマリアへの信心は、永遠の救いを得る確実なしるしである」(聖ベルナルド)
「マリアのしもべのしるしをもつ人は誰であれ、すでにいのちの書に名前がある」(聖ボナヴェントゥーラ)
「祝されし聖母への信心は救いのために必要である。聖なる童貞への尊敬と愛を持たないということは、滅びへの確実なしるしであり、反対に、完全にかつまことに聖母への信心を行うことは救霊予定の確実なしるしである」(聖母マリアへのまことの信心40番)。

「祝されしマリアへのまことの信心は、救霊予定の最も確実なしるしの一つである。しかし、この信心はまことでなければならない。なぜなら、もし偽りであったならば、その目的には役に立たない。それは、お金に例えることができる。本物のお金ではなく、偽物だったとしたら、何の価値もない。そのような非常に重要な問題において誤解や欺きを防ぐため、あなたのマリアへの信心がふさわしいものであるために求められているすべての必要条件を満たしているかどうかを確認するために、あなたは非常に注意深く考えるべきである」(聖アントニオ・マリア・クラレット)

「マリアへのまことの信心は、効果的に救いへ導く。なぜなら、最後まで忍耐強くいられる御恵みを求めて忠実にマリアに祈るすべての人々に、マリアはその御恵みを取り成してくださることができるからである。この理由のため、聖母へのまことの信心は通常、救霊予定のしるしの一つとみなされている。この確かな希望は、マリアの取り次ぎという偉大なる権能と、マリアに祈る人々に対するマリアの特別な愛に基づいているのである。

・聖アルフォンソ(「聖母マリアの栄光」第1部第8章)によれば、自分の生活を改めようとの望みを持ち、天主の御母を忠実に崇めて自分をそのご保護に委ねる人々が滅びるのは、およそ不可能である。
・自分の生活を改めようとの真剣な望みを持たない人々は、もちろん、自分が一定の見かけ上の聖母への信心を守っているという事実を、救霊予定のしるしであろうとみなすことはできない。
・しかし、罪を捨てようとし、助けを求めてマリアへ立ち戻る罪びとは、マリアがその罪びとをお見捨てにはならないということを見いだすであろう」。(ガリグ・ラグランジュ)

●「私のロザリオの信心は、救霊予定の偉大なしるしです」(聖ドミニコと福者アランに与えられた)
●スカプラリオ。それを身に着けて死ぬこと。
●マリアの汚れなき御心をたたえる5回の初土曜日。告解と聖体拝領。


結論
1.救霊予定は神秘です。
  成聖の恩寵で死んでいない限り、誰も天国にはいません。自分の過ちによる以外は、誰も地獄に行くことはできません。

2.救いの絶対的確実性はありませんが、実質的な確証はあります。四つの救霊予定のしるしです。

3.救霊予定は私たちの努力を不必要にはしません。なぜなら、大人は永遠のいのちにふさわしく生きなければならないからです。

ある日、ある人がたいそう煩悶して恐れてみたり希望を持ってみたり、長い間心が落ち着かなかった。で、悲しみに耐えかね、教会の祭壇の前でひれ伏しして謙遜に祈った。これらのことを黙想して、「ああ、私が終わりまで忍びとおすかどうか、知りたいものだ」と言った。すると彼は、すぐに天主のお答えを心に聞いた。「あなたはそれを知ったら、どうするつもりなのか。そのときしようと思うことを今行え、そうすればあなたはまったく安心であろう」と。(「キリストにならいて」第1巻第25章)

恐れおののいて自分の救いをまっとうすること

「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録2章10節)


天国の観想、それを熱心に願う

「いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか」(詩篇41章3節)
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)


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秋田巡礼-お説教-2018年5月3日(初木) シュテーリン神父様「第12回目の秋田巡礼にすべきこと」

2018年05月12日 | お説教・霊的講話
2018年5月3日(初木)秋田巡礼 証聖者、童貞聖マリア様の浄配、聖ヨゼフの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、そして巡礼者の皆さん、

この5月3日に、この第12回目の秋田の巡礼を始めるというのは天主の御摂理にありました。

今日はとても特別な日です。

(1)第1に、今日の随意ミサとして、聖ヨゼフのミサが選ばれました。もしも私たちがマリア様の事をよく知りたいと思うならば、必ず聖ヨゼフに行かなければなりません。聖ヨゼフは私たちの家族の生活にとっても、そして霊的生活にとっても、教会の生き残る為にも必ず必要な聖人です。

聖ヨゼフは私たちに、マリア様を正しく本当に理解する事を教えてくれます。

聖ヨゼフは私たちが家族を守る為にも必要です。なぜかというと、現在家族は、非常にこの悪しき世界によって攻撃を受けているからです。

また聖ヨゼフは、教会が生き残る為にも必要です。なぜかというと、教会は今非常に多くの攻撃を受けて、苦悩の内にいるからです。

(2)また今日は、月の最初の木曜日でもあります。最初の木曜日初木曜日は、大司祭であるイエズス・キリストに捧げられた日です。「最高司祭としてのイエズス・キリストの随意ミサ」というものが、ピオ十二世教皇様によって作られ、そしてこのミサは、初金のイエズスの聖心のミサ、また初土のミサと同じレベルまで高められました。ですから今日はこの初木曜日は、司祭の為に祈る、また司祭の召命の為に祈る特別の日です。ですから天主の御摂理によって、この今年の秋田の巡礼は特に、「司祭の為に祈る事」そして「司祭の召命の為に祈る」という事が求められています。

(3)また今日は、昔は教会にとってとても大きな大祝日であった、聖ヘレナが十字架の聖遺物を発見した日です。これは私たちにとって大きな象徴的な意味があります。なぜかというと、私たちはキリスト教の本質をまた再発見しなければならないからです。キリスト教の本質というのは、十字架にあります。イエズス・キリストが架けられた十字架にあります。

現代、人々は楽しい面白おかしい事や、娯楽だけを追求しています。宗教的な事に関しても、教会の生活でも、人々が集まると、「これは過ぎ越しの神秘だ。喜び、楽しめ。福祉の事を考えよう。この世の生活を楽しむ事を考えよう」と勧められています。

もちろん私たちは至福を、幸福を信じています。しかしルルドのマリア様が聖ベルナデッタに仰ったように、「私はあなたに幸せを約束します。でもこの地上ではなく、次の世界で。」

私たちは今この地上では、逐謫(ちくたく)の身であって、追放された身であって、涙の谷に住んでいる、という事を忘れてしまいがちです。その危険があります。私たちのこの地上での愛は、十字架の道を愛する事であって、秋田ではマリア様は涙を流しておられます。十字架の再発見は私たちに、キリスト教生活の最も基本の原理を私たちに教えてくれます。「あぁ、幸せなる十字架よ、私の唯一の希望よ!」十字架を通して私たちは、本当の永遠の光に到達します。

(4)世界中で最もカトリック的な国においては、今日はポーランドの元后マリア様の祝日です。このポーランドという国を見ると、この国が存続していたというのは奇跡の連続でした。もしもこの国が在り続けたとしたら、マリア様が元后として指導してきたからです。

もしもこの色々な今申し上げた点を色々考察すると、これから4日間、巡礼の間に何をしなければならないかがよく分かります。聖ヨゼフと共に私たちは、毎日の十字架の生活を、毎日の十字架を日々担ぐ事を喜びとします。そして聖ヨゼフと共に十字架を担ぎながらマリア様の元に行って、マリア様を元后として褒め讃えます。マリア様を通して私たちは、イエズス・キリスト、最高司祭を発見するという事です。

そして同時にこの巡礼は、私たちにとって深い感謝の行為となるべきです。私たちはマリア様の元に修道院に行ったら、すぐにマリア様の元に跪いて、マリア様に深く感謝しなければなりません。特に2017年、ファチマ100周年の間に受けた特別の御恵みを感謝致しましょう。

アジア管区では、昨年の2017年ほど多くの召命を受けた年はありませんでした。

4名が神学校に入学しました。6名あるいは7名がイロイロの修練院に入りました。また別の6名の女性がダボンにある修練院での修道生活を始めました。2人の神父様が聖ピオ十世会に入会しました、インドで。そして3名あるいは4名の志願者が修道者として修練に入る準備をしています。また韓国では、小さな共同体ですけれども多くの司祭の召命を今出しています。

6月には、小野田神父が日本人の修練者に修道服の着衣式をします。それからベトナムからも司祭の召命が今準備されています。

このこれらは、マリア様の汚れなき御心から来る実りでしかありません。またマリア様の巡礼、特にフィリピンでのファチマの聖母巡礼によって、多くの方が聖伝を発見しました。これを見ると、ファチマのマリア様がどれほど重要であるか、という事が私たちによく分かります。

また、マリア様が私たちに与えようと望んでおられる御恵み、私たちの人生において与え続けようとする御恵みについても感謝致しましょう。「感謝する」というのは、マリア様に「ありがとう」と言うだけではありません、もっとです。ただ「ありがとう」と言うのみならず、受けた御恵みを一つ一つ考察して、去年やったように、「マリア様から受けた御恵みを集めて、そして花束としてマリア様に返す」という事です。

そして過去に受けた御恵みを考えるだけではなく、将来においても、毎年、毎年、私たちが秋田に来ますように、私たちがマリア様をどれほど必要としているか、という事を認識する事です。

年を重ねる毎につれて、この世の中はますます悪くなっています。教会の状態も残念ながらますます悪くなっています。毎年、「あぁ、教会がここまでひどくなる事がありえない、ここでもう底をついた」と言うのですけれども、更に悪くなっています。

それにもかかわらず、この世と教会の状態にもかかわらず、皆さんの霊魂は年を重ねる毎に、より良くなっています。なぜかというと、マリア様が皆さんの霊魂にますます御恵みを与え続けているからです。この世がますます危険になっている中において、皆さんの心を守って下さっているからです。

この世が平和をますます失って、戦いを挑んでこの世を自分で破壊しようとしている時に、マリア様は私たちに、本当の平和を与えようとしています。この本当の平和を私たちは発見しなければなりません。もしも私たちの心、霊魂、私たちの家族、私たちの共同体、小教区、教会が平和でなければ、本当の平和は受ける事ができません。

では聖ヨゼフの随意ミサを今から続けます。そしてヨゼフ様に御取り次ぎを願って、私たちが秋田で、マリア様が今ここで私たちに与えようとしている大きなメッセージが何かを、深く理解する御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2018年4月23日(月) 殉教者聖ジョルジオの祝日 「殉教者はちょうど、イエズスの十字架の木に付いたブドウの実のよう」

2018年05月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2018年4月23日(月)殉教者聖ジョルジオのミサ ミサの前のお話
小野田神父


今日は殉教者聖ジョルジオのミサを行います。
このミサの書簡では、「聖パウロが死ぬ前、復活したイエズス・キリストを告げ知らせた」という事が読まれます。まさに、復活後のイエズスを黙想している私たちに、復活したイエズス・キリストを命がけで信じた殉教者を思い出させます、考えさせます。

福音書ではブドウの木の例えが出ます。イエズス様こそブドウの木であって、ブドウの木である十字架に付けられたブドウの実であって、そしてそれが潰されてブドウ酒となって、御聖体となります。

同時にイエズス様は言われます。「私は本当のぶどうの木で、私の父は栽培者である。父は、私にあって実を結ばない枝をすべて切りとり、実を結ぶのをすべて、もっと豊かに結ばせるために刈りこんでくださる。」

「私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で実を結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。」

「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。」

殉教者はちょうど、イエズスの十字架の木に付いたブドウの実のようです。

ところで、この聖ジョルジオ(St. Georgius)というのは、特にビザンチン、コンスタンティノープルで非常に崇敬を受けていました。303年頃、デオクレチアノ皇帝の元に殉教した兵士でした。聖ジョルジオは、ギリシア語の発音では聖ゲオールギオスです。

イエズス様はご自分は本当のブドウの木で、私の父は「栽培者」である、と言われています。ラテン語では、Ego sum vitis vera et Pater meus agricola est. ギリシア語では、このブドウの「お百姓さん」のことを“ゲオールゴス”γεωργός と言います。(ギリシア語でゲオーとは「大地」を意味し、エルゴンとは「働き」を意味しています。)

イエズス様の父が、ゲオルゴス(栽培者)でなので、ちょうどこの聖ゲオルギオス(ジョルジオ)と重なって、この福音の言葉が読まれているかのようです。
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2018年4月22日(主) 復活後第3主日 「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」の御言葉を黙想する

2018年05月08日 | お説教・霊的講話
2018年4月22日(主日)復活後第3主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年4月22日、主の御復活後第3主日のミサです。今日この御ミサの後で、ミサの後の祈りの後に、非常に短いものですけれども、御聖体降福式をしようと思います。これは特に日本と世界の平和の為にも、朝鮮半島や中国大陸や、あるいは日本で戦争が起こりませんように、また多くの召命が日本に与えられますように、という事を願ってしたいと思っています。

その後に14時30分から公教要理があり、そしてそれが1時間くらい、そのまた後に聖歌の練習もしたいと思っています。聖霊降臨の祝日の聖歌を、少し皆さんと一緒に歌いたいと思っています、いらして下さい。明日は朝7時からミサがあります。

5月2日から6日は秋田での巡礼があります。その為に、本当ならば第1主日ではここでミサをするのが普通の予定でありますが、それができなくなっております、どうぞご了承下さい。次のミサは5月20日、聖霊降臨の大祝日です。


“Modicum, et jam non videbitis me et iterum modicum, et videbitis me.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日主の復活の後の第3主日では、イエズス様の有名な、「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」というその御言葉があります。この意味を一緒に黙想する事にしましょう。

(1) まず、一体なぜ教会は、この言葉を選んだのか?

(2) 第2に、この教会はだからそれを聞いて、悲しんでいるのか?喜んでいるのか?喜んでいるのです。入祭誦で「喜べ」と歌った通りです。では一体なぜ喜んでいるのか?その理由としてイエズス様が2つ(2の1と2の2)を与えています。それでその2つの理由を見る事に致しましょう。

(1) 第1に、なぜ教会はこの言葉を選んだか?です。

イエズス様の御復活の後に、その復活が確かなものである事を証する為に、イエズス様は40日の間色々な弟子たちにお現れになって、一緒に食べたり、体を触らせたり、あるいは特に使徒たちに頻繁に現れて、今後教会をどのように運営していくべきか、という事を教えました。聖ペトロに、「私の羊を牧せよ」と言ったのも、復活の後でした。

そこで教会はまず、復活の後の第1主日には、聖使徒トマスと一緒に、イエズス様の傷跡に私たちの手を入れて、あるいはその体に触れて、「我が主、我が天主なり」という事を読みました。

第2の主日(実は先週ですけれども)は、このイエズス様が復活する事によって、私たちを導いて下さっている、善き牧者として導いて下さっている、という神秘を黙想しました。

第3の主日、今日は、これからイエズス様は私たちに何を期待しているのか?そして私たちに対して何をなさろうとしているのか?という事を黙想させます。

今日イエズス様が仰りたい、そして教会が私たちに伝えたいと思うのは、イエズス様は御自分の昇天についてです。イエズス様は、天に昇られるという事について話されて、そして私たちを準備しようとしています。「自分は天に昇る。聖父の元に行く。ではお前たちはどうするべきか。」


(2) 第2のポイントは、ではイエズス様はこの事で何を仰りたいかというと、まずイエズス様を見ないという間は、“Modicum”「しばらくの間だけだ。しかしその後には、私をまた見るだろう。」

(2-1) 【この人生は、ほんの束の間のこと】
この地上にいる間は、イエズス様を見ない間はほんの束の間だ、という事を教えています。これが第2のポイントの第一です。

ですから教会は今日書簡の中で、巡礼者への手紙を書いています、聖ペトロは私たちに向かって、「私たちが一体何であるか」という事を言います。


一週間前は、「私たちは失われた羊だ」とペトロは言いました。しかし今日は、「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは外国人だ。他所者だ。ここのこの地上に長くいる者ではない。ただ通り過ぎるだけだ。だから重い荷物を持って引きずって行くのではなくて、身軽に、そしていつも自分の帰るべき故郷の事をふるさとの事を、イエズス・キリストの事を思い出せ。だからこの地上においてはほんの束の間の事だから、この地上の間では王に従い、兄弟を愛し、そして奴隷たちであっても、どんな主人であっても従いなさい」と言います。なぜならば、この短い間の悲しみはあっという間に過ぎてしまうからです。

実際イエズス様は仰っています、「お前たちは私を見ないが、ほんのしばらくの間私を見ないだろうが、その間あなたたちは悲しむだろう。そしてこの世は喜ぶだろう。」

はい。カトリックのキリスト教のこの地上での生活は、確かにこの地上のものを、この地上での旅人であるという事を、天国への旅人である事を知っているので、巡礼者であるという事を知っているので、この地上のものに愛着したりとか、この地上のものを楽しんでそれに溺れてしまうという事がないので、あたかも悲しんでいるかのように見えます。そしてこの世は喜んでいるかのように見えます。でもそれはほんの束の間の間です。

確かに私たちの人生は、生まれた時から、赤ちゃんとして生まれた時から涙を流して、無意識の内にも、悲しい、お腹が減った、寒い、お母さんどこにいるの、あぁわ~んわ~ん、赤ちゃんの時から私たちは泣いています。そして大きくなっても、辛い事や、悲しい事、失望、思い通りにいかない事、友達からの誤解、善意の無視、あるいは嫌がらせ、事故、病気、あるいは愛する人との別れ等、辛い事もたくさんあります。私たちはこの地上での悲しみや苦しい事をたくさん経験しています。この苦しみのない人は誰一人もいません。

イエズス様もそうでした。イエズス様は私たちの苦しみをよく御存知です。子供の頃から、十字架の上に架かって亡くなられるまで、私たちが経験するであろう全ての苦しみと悲しみを、御自分で経験しておられます。もっと経験されました。更に深いものを経験しました。私たちが「まさかそこまで」と想像もつかないようなものまでも、イエズス様は敏感な聖心で体験して、涙を流されました。

そのイエズス様は私たちに、「この短い、この私たちの地上での生活は短いのだから、さぁ頑張れ」と励まして下さいます。

そればかりではありません。この短い生活の中にでさえ、私たちに多くの慰めと、希望と、そして御恵みを与えて、私たちがこの短い時間の悲しみと苦しみの生活を、よく耐え忍ぶ事ができるように、と助けて下さいます。

確かにイエズス様は目に見える形で、人間の形としては天に上げられて、そして聖父の右に座し給うのですが、しかしミサにおいては、私たちの目の前に、そして御聖体拝領においては私たちの霊魂に、私たちの体と1つになって、いつも傍にいて下さいます。

聖トマス・アクィナスは、もしも神学で難しい問題があったら、すぐに御聖櫃の方に行ってお祈りしたではないですか。聖人たちはいつも苦しい事、悲しい事があると、すぐにイエズス様の元に行って、「イエズス様、助けて下さい、憐れんで下さい」と言って、多くの慰めと光を受けたではないでしょうか。

イエズス様は私たちをどのように慰めるか、私たちの涙を乾かす事ができるか、励ます事ができるかをよく御存知です。「さぁ、この私の十字架をご覧。私の傷をご覧。私の脇をご覧。お前の為に苦しんだよ。その私の苦しみをちょっと考えてごらん」と招いています。そしてイエズス様の復活された御体を私たちが受けて、「これが待っているのだ」と仰って下さいます。

(2-2) 【束の間の人生の後に、永遠の喜びが待っている】
第2のポイントのその2は、イエズス様が「しかし、しばらく後に、お前は私を見るだろう。」ということです。

主語が変わっています、この福音の最後に。「そしてお前たちの悲しみは喜びに変わる。誰もこれを取る事ができない。」

これは遂に天国で、イエズス様と至福直観で、目と目を合わせて、顔と顔を合わせて、「天主が何であるか」という事をはっきりと見て、イエズス様の御憐れみの深さ、その愛の深さを、「そうだったのか!」という事をますます理解して、喜びに満ち溢れるその事です。誰もこの喜びを取る事はできません。

イエズス様は私たちを無から創りました、私たちにこの喜びを与える為に。アダムとエヴァはほんのちょっとしか要求されませんでした、この喜びを得る為には。しかしそのほんのちょっとさえも、アダムとエヴァはする事ができませんでした。そして全てをパーにしたのですけれども、それにもかかわらず、天主は人となって、私たちの上に私たちの為に赤ちゃんとしてお生まれになりました。私たちの為に30年間貧しい生活をされました。私たちがこのえも言えないとてつもない幸福を得る為に。

イエズス様は天主の聖子は、奴隷にこの幸せを与える為に、十字架に付けられて、御血を流されました。天主の聖子は私たちにこの永遠の命を与える為に、その手段として、パンとなって私たちに食べられる事さえも、たとえそれが粗末に扱われる危険にあったとしても、それが無視される、冷たく取り扱われる危険にあったとしても、私たちの為に御聖体を制定されました。世の終わりまで私たちと共にいて、私たちを慰めようとされています。「さぁ悲しむ者、苦しむ者は私の元に来なさい。私のくびきは軽く、甘美であるから。私はお前たちを回復させよう」と招いておられます。

このイエズス様が準備しておられる、今天国に行こう行こうとして、天の聖父の前で御自分の傷を、傷跡を見せて、「聖父よ、どうぞ彼らを憐れんで下さい。彼らが天国へ行くのを許して下さい」と懇願されています。その懇願を見て、聖父は決して拒む事ができません。

イエズス様はしかも私たちに、私たちに準備されているその至福というのは、聖パウロの言葉によると、「目でも見た事がなくて、頭でも考えた事がなくて、耳も聞いた事がなくて、心でも思った事もない、とてつもないものすごい喜びが待っている。その時にはもう、私たちの目の涙が全て渇いて、死もなければ、悲しみもなければ、苦しみもない。ものすごい喜びが待っている。この至福が待っている。」

この世の中でとっても嬉しい事があって、『ヤッター!わぁー!』と言いたい。それも天国と比べれば、この地上の喜びは何でもない。飛んでしまうような儚いもの。私たちがもう思う事もできないような喜びが、私たちの為に準備されている。

だから教会は今日入祭誦の中で、“Jubilate Deo, omnis terra, alleluia.”「全地よ、さぁ主に喜べ、アレルヤ」と喜びを歌っています。

ですから、「イエズス様が天に昇り給うて、私たちに最高の喜びを準備しようとしている」という事を教会は教えようとしています。「この地上の苦しみは短い。しかし終わりのない、無限の喜びが待っている」と。

(3) では、もしも私たちがその事を理解したとしたら、一体実際生活にどんな行動となって現れるでしょうか?それを遷善の決心として提案します。

1つは、「この世は短い。天国はものすごい」というと、私たちのこの信仰こそが、私たちの人生の全規定でなければなりません。

信仰は私たちにとって一番大切なもの、のみならず、全てをこの人生を決定する原理でなければなりません。つまり私たちがこの地上での悲しみや苦しみがあった時には、すぐに「これは手段であって、目的は何か」最終の目的まで目を向けなければなりません。手段と目的を混同してはいけません。多くの人はそれをこんがらがっています。

第2に、「この世は短い。永遠は素晴らしい」という事が分かると、イエズス様が私たちに、このいつも私たちを助けたい、と思っているその事を思い出して、私たちは日々、特に辛い事や悲しい事があった時に、イエズス様に射祷を唱えて下さい。

射祷というのは私たちの心の中で、口に出さなくてもイエズス様の事を思い出して、「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、助けて下さい。」「イエズス様、愛しています。」などと祈ることです。

「イエズス様、私に御恵みをお願いします。」「イエズス様、このお友達の為に御恵みをお願いします。」「イエズス様、この彼らを憐れんで下さい、このお友達が苦しんでいます」「イエズス様、」と頻繁にイエズス様と一致して、心の中でコミュニケーションする事です。これを射祷と言います。是非なさって下さい。

私たちのこの地上での、短い地上での苦しみが、あっという間に慰めに変わります。なぜかというと、私たちには全てが与えられているからです。イエズス・キリストが与えられているからです。

第3にはそして最後には、イエズス様は確かに天国に行かれますが、肉体、目に見える人間の形としては。しかし御聖体としては、私たちの前に留まっています。御聖体をぜひ愛して下さい。

御聖体をどうぞ愛を以て、真に私たちを愛する善き牧者、復活したイエズス・キリスト、そして私たちに天国のとてつもない恵みを報いを与える方として、受け取って下さい。恭しく、深い礼拝を以て聖体拝領なさって下さい。

もしもできれば、ここのミサの会場でも、2ヶ月に1度ぐらいの割合で御聖体礼拝をたくさんしたいと思っています。イエズス様の聖心がますます、実は日本では非常に御聖体が粗末に取り扱われているので、ますます愛されて、ますます礼拝されますように、御聖体を愛して下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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栄えの玄義―第2玄義「主の御昇天」の黙想

2018年05月06日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第2玄義の黙想
(2018年4月21日(土)公教要理にて 小野田神父)


初土の信心の準備を致しましょう。秋田での黙想会があるので、きっとこの黙想は私たちが今から準備をしなくてもうまくできると思いますけれども、提案をしておきたいと思います。

4月の初土では既に、「イエズス様の御復活」を黙想しました。そこで5月の初土では、「イエズス様の御昇天」を黙想するのが良いのではないかと思います。イエズス様の御昇天の祝日もそのすぐ近くにあります。

今日提案するのは、2つのポイントがあります。

⑴ 1つは、イエズス様が弟子たちの目の前で昇天なさった、という事。

⑵ 第2点は、イエズス様が天に昇られて、聖父の右に座し給う。そして天国で私たちの為にお祈りをして、私たちを待っておられる。

というこの2つを黙想したいと思います。この内の1つの、第1の第2の部分の自分のお好きな、黙想しやすいものをなさって下さい。

⑴ 第1の点は、まず「イエズス様が弟子たちを集めて、そして皆の前で天に上げられる」という、「天にお上がりになる」という、その光景を思い浮かべて下さい。弟子たちが皆居る中で、皆さんもその群衆に混じって、私たちも居ると想像して下さい。そしてその私たちが居る前で、イエズス様が十字の印を切りながら、私たちを祝福しながら、天に昇って行かれるその姿を。

イエズス様は復活された後に、弟子たちの教育に特別に力を尽くします、40日間。特に使徒たちに現れて、教会の運営をどうするべきか、罪の赦しを与えたり、ペトロに「私の羊を牧せよ」等と言って、そして他の弟子たちにも現れたり、そして「イエズス様が確かに復活された」という事を表すのですけれども、それでも福音書によると、「まだ疑う人もいた」とあります。でもほとんどの人は、イエズス様のこの復活を信じていて、喜びと、イエズス様に対する愛情に満ちています。

イエズス様、復活されたイエズス様と会って、そしてイエズス様と一緒に、こう他の人たちと一緒にイエズス様を囲んで、イエズス様の話をこうしっかり聞く、聞いているその姿を想像なさって下さい。きっと私だったら携帯で写真を撮ったり、「ブログにアップしよう」とか、「ノートにイエズス様が仰る言葉を取ろう」とか、「日本語に翻訳しよう」とか。でもイエズス様は私たちの為にちゃんと日本語を話して下さいます。

するとイエズス様はその御昇天の前に、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊と御名によりて、洗礼を授けよ」という命令をされます。そして、「世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。」

本当にイエズス様は私たちの目の前に、確かに目に見える形ではイエズス様は天に、目に見える肉体としては天に行かれましたけれども、しかし御聖体においては、本当に私たちの前に、私たちと共に留まっておられます。

聖パウロは、「イエズス様が復活して天に居るのだから、私たちの心も天に上げなければならない」と言います。

聖ヨハネは、「この世のものを愛するな」と言います。

イエズス様が天にお昇りになって、そして私たちの為に天の門をもう一度開いて、そして多くの天使たちの喝采とアレルヤの讃美の元に天国に入る、という時にどれほどの喜びがあったでしょうか。イエズス様の十字架の苦しみ、屈辱、辱め、受けた暴言、冒瀆、その他の嫌がらせを全く忘れさせるような、栄光と、喜びと、幸せが、イエズス様を取り囲みます。

もしも私たちが、この世の辛さや、嫌がらせや、何かでくじけそうになった時には、イエズス様のこの栄光が、私たちを勇気づけてくれます。きっと全ての天使たちも、そして聖人聖女も天国で、私たちが天国に上がるのを待って、イエズス様と同じような栄光を受けるのを待ちに待っているはずです。

明日のミサ [復活後第三主日] を見ると、実は既に教会は、イエズス様の昇天の事を私たちに思い出させています。

イエズス様の復活したその直後、最初の主日は、復活から一週間の後には、弟子たちと共に聖トマスと共に、イエズス様の傷跡に手で触れて、あるいは脇に手を入れて、「確かにイエズス様は復活した。」私たちに「お前たちに平和あれ」というその優しい慰めと、赦しと、励ましの言葉を聞かせて下さるのです。

第2週目はイエズス様は、私たちに善き牧者として現れます。私たちを憐れんで、私たちを探して天から降りて、私たちを天に連れて行こうとしている善き牧者。

ところで既に明日の第3週には、イエズス様の昇天について、教会はもう注目するようにしています。明日この2つの読書があります。

1つは聖ペトロが、「私たちは一体どんな状況にいるのか」という事を話します。「私たちは旅人だ。私たちは巡礼者だ。私たちは他所者だ。外国人だ。だからこの地上の、この地上でずっと長く居ると思うな。」

ある信者さんが、昔岩国から大阪のミサに来ていた信者さんの家に遊びに行った事があるのだそうです。その岩国に居た子は外国人で、アメリカ人だったのですけれども、その日本人の信者さんがその子の家に遊びに行ったら、「あぁ、ヨゼフくんの家には何も無いんだよね」と言ったのそうです。外国人なので、別にたくさんの家具を持つ必要もないし、たくさんの物を持って家の中をゴタゴタさせる必要もなく、いつでも日本を発つ事ができるように、いつでも引っ越しをする事ができるように、ほんの必要な物だけしかなかったようです。

私たちも、本当の祖国は、本当の国は、家は、天国にあるので、この地上ではただの仮の住まいで、ほんの一時的な外国生活、旅人であって、実は外国人なので、ですからいつも身軽でなければなりません。そのカバン1つで、軽いカバン1つで移動する事ができるようでなければ、あんまり重たいものを持っていると、リヤカーも引いて、キャンピングカーとかを後ろに何台も引き連れて、「一体何がそんなに必要なんですか?」というぐらい、財産をたくさんかき集めても、結局はここに置いてさよならをしなければならない。

イエズス様の昇天は私たちに、「私たちがこの地上では、ほんのちょっとの間しかいない寄留者であって、旅人である」という事を思い出させてくれます。

私たちは物をたくさん集める傾向があります。イエズス様の例えの中にも、「ある人が大きな倉を作って、たくさんの財産をそこに集めて、『あぁこれで安心だ』と財産を貯蓄し終えたその時に、『あぁ、お前は今日実は天の国に召されるのに。使い切れないほどの貯めた財産は一体誰が使うのだ。一体誰の物なのか。これはきっと遺産相続の争いの種になるだけだ』」というような話を聞きます。

明日のミサはもう1つ、イエズス様が福音で、「私たちが旅人だ」という事をもう一度思い出させて下さって、「しばらくの間お前たちは私を見ないが、しかしもう一度私を見るだろう。そうするとお前たちの喜びは、誰も取り去る事ができないものに変わるだろう。今のお前たちの悲しみは喜びに変わるだろう」という言葉があります。

教会はこれを、「イエズス様の昇天」に典礼では適用させています。しばらくの間私たちはイエズス様を見ないのですけれども、このしばらくが経つと、短い人生が終わると、イエズス様をもう一度見ます。顔と顔を合わせて。その時の私たちはもう、涙はもう、聖ヨハネによると黙示録によると、「涙は拭い去られて、そしてもはや死も、苦しみも、悲しみも、病も全くない。」聖パウロの言葉によると、「目も見なかった、耳も聞いた事がない、そして頭にも考え付いた事がないような、ものすごいとてつもない幸せが私たちを待っている。その為にイエズス様は天に昇って、私たちの為に準備をされている。」

イエズス様が天に上げられた、これを思って下さい。

⑵ 第2のポイントは、イエズス様は天に昇られたのみならず、天の聖父の右に座して、そして私たちの為にいつも執り成しをされている、お祈りして下さっている。聖父の前でこう傷を見せて、「この傷はこの人の為です。これに免じて、どうか憐れんでやって下さい。」それを見ると聖父も、「そうだな。全くそうだ。」聖子の執り成しの通りにされます。

天主聖父は肉体がないので、右も左もないのですけれども、座るとか座らないとかもないのですけれども、しかし公教要理によれば、「『右に座す』というのは、天主聖父のその栄光のその地位のそのすぐ次だ。誰もその上にはない。イエズス様とその聖父の間に、その誰か立つような人はいない。」

イエズス様はその「聖父の右に座す」というのは、天主聖子としてではなくて人間として、被造物としてそうされています。ですから天使ケルビム、セラフィム、その9階の天使たちという被造物をはるかに超えて、「人間であるイエズス・キリスト様が、天の最も高い地位にあげられて、人間として。そしてその地位は揺るぎがない。『座す』というのは非常に安定していて、その地位を所有して確保している、という意味だ」と公教要理は言っています。

誰かが「自民党総裁の椅子に座っている」と言えば、それは日本の首相とか、「政権を執っている党の党首の椅子に座っている」と言えば、これは日本で一番偉い権力がある人になりますけれども、イエズス様は、天主の聖父の右に座しておられます。なぜかというと、それは私たちに御恵みを注ぐ為で、私たちをより効果的に天国に導く為で、より良い最高の方法で、私たちに天国の至福を与える事ができる為です。

誰かが「地位のある座に着く」と言ったとしたら、権力を思いのままに使う為かもしれませんが、しかしイエズス様の場合は、私たちを救う為です。私たちをより良く愛する為。

もしも今の首相の地位に座っている人が、私の友達だったら、「ああ、安倍晋三?お友達で、携帯を知っているよ。LINEもやっている」というかもしれません。

しかしイエズス様は、天主聖父の右に座しているイエズス様はもっとすごいのです。地上の友達どころじゃないのです。LINEをやっているところではありません。ツーと言えばカー。並んで待たなくてもお祈りでお願いをすれば、すぐ「そうか」と聞いて下さる。いつも目の前におられて、そして私たちの為に何かを与えようと待っておられる。

もしも私たちが御恵みを受けないとしたら、それは唯一、私たちがお祈りをしなかったとか、し方が悪いとか、不足しているとか、心が込もってなかったとか。イエズス様が、「さぁ、さぁ、さぁ、何が欲しいのか!」と待っておられるのに。

そこでこの第2のポイントでは、イエズス様が天のいとも高き、最も素晴らしい御稜威の座に、謙遜に、そして憐れみ深く座っておられて、私たちの事をよく耳を澄まして聞いておられる、これを黙想して下さい。

天使は、ファチマの天使はジャシンタとフランシスコ、それからルチアの3人に、「イエズスとマリアのいとも聖なる御心は、あなた達の為に憐れみの計画がある。憐れみのデザインがある」と言いました。耳を研ぎ澄まして、私たちからの祈りを待って聞こうとしているのです、天の最も高きところで。

イエズス様は私たちを幸せにしようと思っているのですけれども、私たちにそれをしなくても、イエズス様はもうそれで別に自分はこれだけ幸せなので、私たちが幸せになろうともならなくとも、別にイエズス様の幸せに変わりはないのですけれども、どんな事があっても私たちを幸せにしたい、と思っています。非常に優しい、非常に憐れみ深い父親であって、そしていつも変わらず、常に変わらずに助けてくれる恩人であって、善き牧者で、私たちの世話をしようと心を砕いている、寛大な救い主です。

その優しい、優しい、憐れみ深い、いつも慈悲の愛と、慈母の心に満ちている甘美なイエズス様が、天の一番高い地位の玉座に座っておられる。何とかして聖父の心を動かさして説得しようと、聖父に私たちの為に取り次いでおられる。私たちが何とか永遠の報いの褒美を受ける事ができるように、一生懸命私たちの為に説明をして、理由をかけて弁護しておられる。

そういうイエズス様がいつも私の傍におられる、というのは、私たちにとって何と力の励みになる事でしょうか、力強い応援になる事でしょうか。

イエズス様の私たちの為に準備して下さった、その無限の終わりのないとてつもない喜び、それを遂に受けたその日には、「あぁイエズス様、この喜びを私に下さる為に、私を無から創造して下さったのですね。イエズス様に何度も逆らって、イエズス様の御恵みを無にしてきたにも関わらず、私を諦めずに、私の為にいつも憐れみ続けて、天国にまで導いて下さったのですね。」

イエズス様の憐れみの深さとその巨大さを思えば思うほど、そして自分のした愚かさと不忠実を思えば思うほど、私たちはイエズス様に感謝して、感謝して、感謝して、感謝して、「ありがとう」と言って永遠でも足りないほどです。「何と素晴らしい救い主を私たちは得た事だろうか。何とイエズス様の憐れみは優しくて、その情は深い事だろうか。何と私はイエズス様に対して冷たくて、そして無礼で、忘恩だっただろうか。そして今この受けている幸せと喜びの大きさ、受けている名誉と栄光の大きさを考えると、一体私が何をしただろうか。」イエズス様の良さと親切さ、憐れみの深さに、もうひたすら感謝と、感謝と、感謝しかありません。

もうこの地上での最高の喜び、最大の幸せというものがあったとして、天国のその幸せと喜びと比べると、全く比べ物にもなりません。この世の幸せが100集まって、あるいはこの世の全ての幸せが集まって、天国のちょっとした幸せと比べたとしても、全然比べ物にもなりません。目も見た事がない、耳も聞いた事がない、頭にも思い付く事ができないほどの、私たちの知性をはるかに超える、想像を超える至福が待っている。イエズス様がそれを今準備している。何という恵まれた私たちでしょうか。

昨日、食事をした後に御聖堂まで戻ってくる時に、「信仰を受けた私たちと、信仰を受けない人の違い」という事を少しぽろっと話して下さった方がいます。

「信仰を受けた私たちは、イエズス様から最高のものを、今この生きている内から受けている。イエズス様の御教え、イエズス様の御恵み、イエズス様の御聖体、命、祝福、あれでもかこれでもか、たくさん受けて、受けて、受けて、受けて。片やもう一方は、全くそれを知らない。これには無限の差がある。」

イエズス様は私たちに、この「とてつもない喜びを受ける事ができるように」と天から私たちを探して来て下さったばかりか、ここに私たちの目の前にずっと留まっておられるばかりか、天国に昇って天主聖父の前で、すぐ前で、「聖父よ、御身を愛し奉る。」そして御自分の従順と、苦しみと、犠牲の証を見せて、「御覧下さい。これに免じて、この霊魂たちを天国に」と絶えず取り次いでくれる。

聖ヨハネによると、第1の書間の3章です、「天主が栄光の内に現れる時に、私たちは天主のようになる。そして天主をそのあるがままに見るだろう。」

聖パウロは言うのです、「今生きている間は、曇った鏡を見るように、おぼろげに見ているけれども、信仰によって。しかしその日には、顔と顔を合わせて、天主をはっきりと認識する。その私たちは天主と1つになって、1つの栄光、1つの命を、えも言えない至福を感じる。至福直観を得る」と言っています。

その私たちが受ける、そのあまりにもとてつもない幸せと比べると、この世の全ての地上の富も、権力も、喜びも、楽しみも、幸せと思える事も、本当に水洗便所で流されるちり紙のようにあっという間にシューッ!という風に思えてしまいます。

この黙想の終わりには是非、イエズス様に心と心でお話なさって下さい。マリア様の汚れなき御心を通してお話なさって下さい。

「マリア様、御身の汚れなき御心は私の避難所であって、天へと導く道です。どうぞイエズス様の元へ連れて行って下さい。この近道を通って、汚れなき御心によって守られて、天国にまで無事に辿り着きますように、お守り下さい。」

「イエズス様、イエズス様は私にそのイエズス様のその幸せと、喜びと、全く同じ喜びを与える為に、私に下さる為にこの苦しみを受けました。イエズス様の愛に感謝します。もしも私が辛い事に直面した時に、重い十字架を担わなければならない時に、『やった!これこそ、この十字架こそが、私がイエズス様のようになる為の道だ!これこそ年金を貯めるチャンスだ!今このここで、この十字架を担う事によって、天国でのものすごいものを今準備する事ができる!』と思わせて下さい。」

聖ヨハネ・ボスコのお母さんマルガリタは、ドン・ボスコがたくさん孤児とか子供たちを、わんぱくな子供たちをたくさん連れて来て、ご飯は食べるわ、洗濯物はたくさんあるわ、服を汚すわ、掃除はしなければならないわで大変だったのです。それである日、「ヨハネ、もうこれ以上私、耐えられません。この子供たち、あんまりにも野蛮で」と言ったら、 ドン・ボスコは、天国の事を言って、イエズス様の十字架を見せたそうです。

コルベ神父様もいつも、「天国!」「天国!」と仰っていました。

そこで私たちもマリア様の汚れなき御心に行って、「天国の事を思い出す事ができますように。特に苦しい時に、辛い時に、日常いつでも。」その良い決心を取って、黙想を終えて下さい。

では、黙想の提案を終わります。何かこの黙想でご質問はありますか?初土曜日には、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って、告解をされて、御聖体拝領をして、そして5連ロザリオを唱えて、15分黙想なさって下さい。
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2018年4月21日(土) 教会博士証聖者司教聖アンセルモ 「聖アンセルモの生涯、どうやって聖人になったか」

2018年05月05日 | お説教・霊的講話
2018年4月21日(土)教会博士証聖者司教聖アンセルモのミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年4月21日、聖アンセルモ証聖者司教教会博士の祝日を祝っています。このミサの後に、来たる初土曜の聖母の汚れなき御心の信心の黙想のテーマとして、イエズス様の御昇天のテーマを黙想する準備をしようと思っています。もし時間がありましたらいらして下さい。

5月3日から6日までは秋田の巡礼があります。もう締め切りはすぐに迫っていますので、ぜひ皆さん今年の巡礼に参加するように、ぜひ計画を立てて下さい。

5月は大阪ではミサが2回あります。5月の主日のミサと12日のミサと、それから19日・20日の金・土とミサがあります。どうぞいらして下さい


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は小さなお友達がミサに来てくれて、とっても嬉しく思います。
今日は、聖アンセルモという教会の立派な聖なる司教様の祝日です。この聖アンセルモというのは一体どんな人だったのか?いつどこで生まれて、どんな事をして、何で司教様になったのか?司教様になって何か偉い事をしたのかな?何でこんなに偉くなったのだろうか?

この今、この聖アンセルモという人が、私たちに何を教えているのだろうか?僕もどうすると、こんな聖アンセルモのような立派な人になる事ができるだろうか?という事を一緒に黙想しましょう。

黙想の後で、今日は遷善の決心、これから良くなろうという決心を立てる事にします。このミサの御恵みをたくさん頂く、というお願いをします。

聖アンセルモという人は、3つの場所で働きました。
(1) 1つはアオスタというイタリア、
(2) もう1つはフランスのノルマンディーという地方にあるベックという所、
(3) それから最後にはイギリスのカンタベリーという所なのです。それでその3つの場所に分けて、聖アンセルモという人がどういう人生を送ったのでしょうか?

最後に (4) どうやってどうして聖人になったのか?という事を見て、今日の良い決心を立てましょう。

(1)聖アンセルモは、イタリアの北の方のアルプスの見える、とても綺麗なアオスタという所に生まれました。神父様も神学生の時に、スイスとイタリアの国境のすぐ近くにいたので、このアオスタというのは知っています。ローマに行く為に車で行くと、アオスタという所があって、そこからはスイスのアルプスが見えて、とっても綺麗な所なのです。そこに1033年に生まれました。今から約1000年ぐらい前に生まれた方なのです。

長男で、お父さんもお母さんも貴族でした。カトリックの家に生まれました。お父さんの名前はゴンドルフォスと言います。お母さんの名前はエルメンベルガと言いました。でもお父さんはどちらかと言うと、あんまり信心にお祈りに興味がなかったような人で、それよりももっと政治とか、この世俗の事に興味を持っていた人のようです。裕福な人でした。お母さんはそれよりも、信心深く子供の教育を良くしようと思っていた人です。きっと今日いらした小さなお友達のお母さんのようだったでしょう。

それでお母さんは、聖アンセルモがまだ小さかった頃、「あぁ、この子には良い教育をつけなければならない。だからベネディクト会の修道士たちがいる修道院に預けよう」と思って、「神父様、この私の子供をぜひ預かって下さい。そしてこの子に立派な教育を授けて下さい」と言って、子供の教育を委ねました。

子供ながらアンセルモは、文字を学んだり、アルファベットを学んだり、読み書きを学んだり、数学を学んだり、色々頭の良い子であるという事をぐんぐんと見せていきました。それで子供ながらにもう、「あぁ、この神父様や修道士の方々が一緒にこうやってお祈りをしている生活は素晴らしい。そしてこのいつもお祈りしている天主様の御国というのはどこにあるのだろうか?きっとアルプスのこの綺麗な山の、雪のかかっている綺麗な所の高い極みの、一番きれいな黄金のきっと素晴らしい御殿があって、そこの彼方の素晴らしい所に天主様がいらっしゃるに違いない」と思っていました。

ある日、実際に夢の中で、その空の高い彼方の所から、天主様がイエズス様が、「さぁ、アンセルモや、おいで」と呼びかけているのを見て聞いたのです。それで長い間、夢の中でイエズス様と親しく語らって話して、「あぁイエズス様、そうなんですか」という色々お話をして、イエズス様がとても優しくアンセルモに教えてくれて、そして最後には、「さぁアンセルモや、このパンをあげよう」と言って、真っ白いパンをアンセルモにあげたのだそうです。

聖アンセルモはその夢の事を起きてもずっと覚えていて、「僕はこのここに行きたい。イエズス様の白いパンを食べたい。イエズス様と一緒に生活したい。イエズス様から与えられる使命を果たしたい」と思いました。そして「修道院に入りたい。ベネディクト会に入りたい」とお父さんに言うのです。

するとお父さんは、「ダメだ!お前は働いて、お金を儲けて、俺のようになれ」と言われたのです。すると、そうするとそれを聞いてがっかりして、「お願いですから」と言ってもお父さんはウンともしないので、遂には病気になってしまいました。

病気もどんどんどんどん重くなるばかりで、もうこれで熱も出て、苦しんで、もうこれでこの子の命もない、という風になりました。するとアンセルモはお父さんに、「お願いだから、もうこれでもう命がないかもしれないから、少なくとも修道士の着ているような服を着させてほしい。そしたらそれで良い。それでもうこのまま天国に行きたい」と言ったのですけれども、それもお父さんは許しませんでした。非常にがっかりして、辛い思いをしたのです。でも、特別のお母さんのお祈りで、アンセルモの病気は治りました。

ところがその代わりに、アンセルモが死ぬ代わりに、お母さんが亡くなってしまいました。それに非常にがっかりしたアンセルモは、家を出てしまったのです、「もう希望はない。お父さんは修道院に入るのを許してくれなかったし、今までの支えだったお母さんもいなくなってしまったし、もう、もうこの世はもう僕にとって何の意味もない。それよりもこの世の何か面白おかしいものがあるんじゃないか」と言って、放浪の旅に出てしまったのです。15歳の時です。

(2)そうやって3年間、フランスや色々な所で遊び呆けて、放浪の旅をした後に、遂にノルマンディーに、ベネディクト会の修道院に辿り着いたのです。もしかしたらお金が無くなったのかもしれません。もしかしたら「家に泊めてほしい」とお願いしたのかも、「宿が無い」と言ったのかもしれません。

するとそこには、非常に立派な神父様がいらしたのです、修道院長様がいらしたのです。ランフランクという方です。その方がそのアンセルモに、「お前、勉強したらどうか。お前頭が良い子だ。」そして今まであんなにベネディクト会で、イタリアのアオスタのベネディクト会の修道院で勉強して、とても頭の良い子だという事を示したのですけれども、もう遊び呆けてしまっていた、不良になっていたこのアンセルモを、この神父様がお祈りの力で元に戻してくれたのです。

すると、「あぁ、このような立派な神父様の仰る事だったら、僕はやる」と言って、そして勉強をし出して、そしてまた今までのように遊び呆けている生活を止めて、祈りの生活と立派な生活をしようと思ったのです。

そして遂に、「やっぱり昔子供の頃思ったように、修道士になるのが良い。なりたい」と思って、27歳の時に、そのベネディクト会に入会する事にしました。そしてそれと同時に、とても頭が良い子だったので青年だったので、その修道院長様のランフランク神父様が、「お前は今まで勉強してきたから、神父様にもなりなさい。」そして司祭に叙階されました。27歳でした。

ところがそれから3年後、その今まで居たこの指導して下さったランフランク神父様修道院長様が、別の大きな、もっと大きなカーンという所にある街の、大修道院長様に任命されたのです。今までの修道院長よりももっと位の高い、大修道院長という所で、小さな修道院をたくさん指導する立場になったのです。とても聖徳の高い立派な神父様だったので、そうなって当然でした。

では一体、この小さなベックの修道院の修道院長は誰がやるのか?となったら、ランフランク修道院長が、「私は今からカーンに行くから、お前が後を継ぎなさい。」「え!?でも、私はたった3年しか修道生活をしていません。まだ神父様になったばっかりです。他の方はもっと経験も積んでいるし、何十年もやっている方がたくさんいますから、このような神父様がなさったら良いのじゃないでしょうか。」「いや、お前がやりなさい」という事で、修道院長に任命されました。ベックでの修道院長の生活が始まりました。

でも若い、修道院に入りたての若造が、この司祭が神父様がいきなり修道院長になって、他の人に「こうして下さい」「こうして下さい」と、「神父様、朝寝坊してはいけませんよ。お祈りの時間にちゃんと、遅れてはいけませんよ」などと言うと、「何だお前、若いくせに」と言われたかもしれません。そこで最初は、妬みとか、嫌がらせとか、このアンセルモが修道院長になるのは反対した人々もいました。

しかし聖アンセルモは、お祈りと、そしてたくさんの犠牲と、たくさんの謙遜と、柔和と、愛徳で、他の人たちを皆自分の友達にして、そして天主様の友達にして、その人々の生活をますます変えていったのです。

そしてアンセルモが今度は、修道院にいる人たちを教育する立場になると、今までのようにこう強制的に「こうやりなさい」「ああやりなさい」ではなくて、「こうするともっと良くなるよ」「これをするとこんなに良い事があるんだ」と色々説得や、優しいやり方で、あるいは自由を与えながらも、それでも健全な自由を与えながらも、自ら進んで徳に進むように、習得をするように、犠牲を払うように、お祈りをするように、と勧めていったのです。

すると聖アンセルモの立派な模範に倣って、今まで「そうかなぁ」と思った、「嫌だなぁ」と思った人たちがますます、「私もこうなりたい」と言って、アンセルモに倣ってお祈りと、苦行と、犠牲をたくさん捧げるようになりました。

聖アンセルモはそれでも満足しませんでした。今までお祈りと、他の仕事を規則通り正しくやったのみならず、今度は夜の時間を使って、祭壇の前に行って、涙ながらにたくさんイエズス様に、マリア様にお祈りをしました。たくさんのお祈りをして、たくさんお願いをしました。祈れば祈るほど、聖アンセルモの言った一言が他の人々の心に響いて、人々の生活をますます変えていったのです。

そうすると、このベックの修道院の創立者であったおじいさんの神父様の、ヘルルイン神父様が亡くなりました。その神父様が一番の方だったのですけれども、「それの後継者になるように」と言われて、1079年、そのヘルルイン神父様の後継者になりました。46歳の事でした。

(3)そうこうしている間に、今までお世話になったランフランク様は、カーンの大修道院長だったのですけれども、是非、カンタベリーというイギリスで一番立派な、一番地位の高い教区の司教様になってほしい。

日本では色んな司教様がいますけれども、その中で一番地位の高いのは東京の司教様です。フランスでは色んな司教区がありますけれども、その中で一番地位が高いのはリヨンの司教様です。イギリスでも色んな所がありますけれども、ロンドンの司教様よりももっと地位が高いのが、カンタベリーの司教様です。そこの大司教様になってほしいと言われて、なりました。

ランフランク大司教様がイギリスでの大切な仕事をしている時に、「もしこの自分の仕事が立派にできる為には、助けが必要だ。その助けは、この世界中どこを探しても一人しかいない。それは祈りをしている聖アンセルモだ。アンセルモ神父に来てもらおう」と言って、「ベックの修道院からカンタベリーに来てくれるように」とお願いしました。

それで、やはりランフランク大司教様の助けをする為に、イギリスの全ての道徳と信仰をますます盛んにする為に、人々の生活をますます良くする為に、聖アンセルモは一生懸命働きました。が、そうこうする内に、ランフランク神父様は亡くなってしまいました。するとそのまま、フランスに帰る事ができずに、「そのランフランク大司教様の後継者となってほしい」と皆から頼まれて、イギリスのカンタベリーの大司教になりました。

ところが、そこの当時イギリスの王様はとても野心家でした。3つの事をしました。何をしたかというと、「教会の司教様を選ぶとか、誰かを任命するという権利は、ローマの教皇様じゃなくて、俺が持っている、王様が持っている」と主張していました。これは嘘なのですけれども、「でも自分にその権利がある。だから任命させろ」と言っていました。

でも聖アンセルモは、「ノーノー。ノーノー。いや、あなたにはありません。教会の事は、教会で決めます。王様は、王国の事だけを考えて下さい」と言って、王様に「ノー」と言いました。「教会は、王様の支配から自由です。」

また王様は、教会に多くの人が、「神父様、この財産を使って下さい。」「この土地を寄付します。どうぞここの土地を寄付しますので、教会を建てて下さい。」「ここで土地を寄付するので、学校を作って下さい。子供を教育して下さい」と言うと、王様が行って、「そこの教会の土地には税金をかける。」或いは「この教会は俺のものだ」と言って没収してしまったり、欲を出して来ました。

それでも聖アンセルモは、「王様、教会はこれは寄付で成り立っているのです。営利企業ではありません。税金をかけてもらっては、私たちはどこから税を払うのでしょうか。修道士はただで働いています。王様、これは他の方の善意で頂いた土地です。なぜ王様が取ってしまうのですか」と言って反対しました。

すると非常に怒ったウィリアム王は、このアンセルモに対して迫害を始めます、反対をします。そして遂には、「アンセルモよ、もしも言う事を聞かないなら、お前の土地を、お前の教会を没収してしまうぞ。お前の地位を取ってしまうぞ。イギリスから追放するぞ!」「王様、私は本当の事を言っているだけです。もしもそうなさりたいならそうなさって下さい」と言って、イギリスの国外に追放されました。

そして聖アンセルモは、ローマに行きます。教皇様の元に行って、すると教皇様は、「あぁアンセルモよ、よく来た!お前の助けが必要だ。」と言って、実はその当時「公会議」と言って、「バリの公会議」という特別の教会の会議があって、「今ギリシャの人々の異端説があるので、これを説得しなければならない。どうぞ神学の知恵と、祈りの知恵を与えてほしい」と言って、そしてそのバリの公会議では、聖アンセルモが大活躍しました。祈りと犠牲のそのおかげでした。

聖アンセルモがその公会議で活躍をし終わったような時に、ちょうど今までアンセルモに意地悪をしていたイギリスの王様のウィリアムは亡くなってしまいます、死んでしまいます。すると兄弟のヘンリーが王様になって、アンセルモに言います、「アンセルモ大司教様、もうこれからは没収もしませんし、教会に税金もかけませんし、それから司教様の任命などもしません。ですから戻って来て下さい。」

そして聖アンセルモはカンタベリーに戻って、そして聖職者や、その教区民や、イギリスの人たちから大歓迎を受けます。それからますます祈りと犠牲を以て、イギリスの国民をますます良い生活に、「イエズス様に倣った生活をするように」と言って、模範と、言葉と、愛徳を以て一生懸命働いて、イギリスに戻った後の3年後、1109年の4月21日の今日、ちょうど今から900年前、聖アンセルモは亡くなります。

その時に聖アンセルモは、「こういう声を聞いた」と記録に残しています。「お前は、私の試練の時に、私と共に留まってくれた。だから私はお前に、私の王国を与えよう。さぁ、お前は私の王国のテーブルに食卓について、一緒に食事をするだろう。」ちょうど子供の頃見た、夢の中で見たイエズス様との対話がまたよみがえってきて、「さぁ今こそお前は、私がお願いした全ての事を果たしたのだ」という事を理解しました。

(4)では、アンセルモはアオスタで生まれて、フランスのノルマンディーのベックという所で働いて、そしてイギリスのカンタベリーという3つの所で働いたのですけれども、900年の後に2009年には、アオスタの人も、ノルマンディーの人も、カンタベリーの人も皆1つになってローマに来て、大きな900年祭を祝いました。

一体何が、このイタリア人も、フランス人も、イギリス人も、国を超えて、聖アンセルモにおいて1つになって、この偉大な修道者を司教様をお祝いして、記念をしようと思ったのでしょうか?

このその理由は1つしかありません。それは、聖アンセルモというのが、「いつもイエズス様と一致していた、イエズス様とお祈りをしていた、イエズス様の事を黙想していた、イエズス様の事を考えていた」からです。

だからこそこの人に特別の価値があったのです。

ちょうど塩が塩の味を付けていなかったら、役に立たずに捨てられてしまうように、私たちも一番価値があるのは、イエズス様とのお祈りをして、イエズス様の事をいつも考えて、イエズス様と一致していて、イエズス様を愛している、イエズス様の御旨を果たしている、ここに私たちの価値があるのです。

聖アンセルモは私たちに、「人間というのは、天主様にお祈りしてなんぼやで」と教えています。

お祈りをすればするほど、人間に価値が出てきます。そうすればするほど、国を超えて、場所を超えて、時代を超えて、「立派な人だ。これこそ本物だ」と、ますます塩の味が効いてくる人になります。世の光になります。

ですからこの聖アンセルモが子供の頃から考えていた、この祈りに、イエズス様への愛に、今日来てくれた小さなお友達たちもぜひ倣うようになさって下さい。

イエズス様に今日はたくさんお祈りして下さい、「イエズス様、僕もイエズス様と親しく、イエズス様の事がよく知りたいと思います。イエズス様の事を、イエズス様と親しくお話したい、イエズス様を喜ばせたいと思います。どうぞ助けて下さい。」

「マリア様、僕が聖アンセルモのように、イエズス様をよく知り、愛する事ができるように、お祈りして下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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