Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 12月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


12月
私たちの主の御降誕を感謝と賛美を以て迎えましょう。
意向:私たちのために人間となり生まれ給うた天主イエズス・キリストをますますよく知る
実践すべき徳:清貧
守護の聖人:聖フランシスコ・ザビエル

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 12月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセスEG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 
〒532-0002 (JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

  11月30日(金)使徒聖アンドレア(2級祝日)赤
          午後4時半 ミサ聖祭
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月9日(主)待降節第2主日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月10日(月)待降節の平日(3級)紫
          午前6時半 ミサ聖祭

  12月21日(金)使徒聖トマス(2級祝日)赤
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月22日(土)待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
          午前10時 ロザリオ及び告解
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午後9時 クリスマスの朝課 
  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午前0時 ミサ聖祭(歌ミサ)
          午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
  12月1日(初土)聖母の土曜日(4級)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月2日(主) 待降節第1主日(1級)紫
          午前9時  ミサ聖祭
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月3日(月) 証聖者聖フランシスコ・ザビエル (宣教地日本では1級祝日) 白
          午前7時 ミサ聖祭
          午前7時45分 ミサ聖祭

  12月23日(主) 待降節第4主日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

  12月24日(月)平日の主の御降誕の前日(1級)紫
          午前10時  ロザリオ及び告解
          午前10時半[!ミサの開始時間にご注意下さい!]  ミサ聖祭

  12月25日(火)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
          午後5時半 ロザリオ及び告解 
          午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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2018年11月4日 聖霊降臨後第24主日のミサ説教 「主がたった一言で嵐を静められたことについて―教会の教え」

2018年12月15日 | お説教・霊的講話
2018年11月4日(主日)聖霊降臨後第24主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年11月4日、聖霊降臨後第24主日のミサをしています。

今日は月の最初の主日ですので、いつものように御聖体降福式をしましょう。御ミサの後の感謝の祈りの後に致します。どうぞ皆さん与っていって下さい。

特に日本での平和、世界での平和の為にお祈り致しましょう。

今日は14時半から公教要理があります。フルトン・シーン司教様が話していた講話の中で、「第二次世界大戦というのは実は一体何だったのか」という事について、「なぜ起こったのか」という事を、フルトン・シーン司教様の分析をご紹介したいと思っています。16時から晩課があります。

次のミサですけれども、最終の主日にミサがあります。どうぞお間違いのないようになさって下さい。

それから12月はアジア管区長様が特別ゲストとしていらっしゃいます。12月1日の夕方にも土曜日にもミサがあり、2日の主日に、管区長様がミサと、そして御講話をして下さいます。


「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、今日のミサのテキストは、先週の聖霊降臨後第23主日の共通文の間に、御公現の後の第4主日の、今年読む事ができなかったテキストが入っています、挿入されています。それを使います。典礼暦年の終わりまでそうです。

⑴これをする事によって、教会は私たちに何を教えようとしているのかでしょうか?今日はこの特に、嵐を静めた、イエズス様がたった一言で、「黙れ」と言った事でシーンとなってしまった嵐、この話、この実話、歴史的な話から私たちに、教会は何をこの典礼暦年の終わりに教えようとしているのか?それを黙想します。

⑵そして実際にそれが私たちにどのように適用されるのか?

⑶私たちはではどうしたら良いのか?という事を黙想して、

⑷遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴もしも、このイエズス様がきっと、関空でも絶対に、どんな事があっても関空だけは機能する、日本の最高の頭脳を以って技術を以って設計したものも、タンカーがぶつかったりとか、水が浸水したりして使う事ができなくなり、そして大阪でも、「え、まさか」と思ったのですけれども、主日のミサが行なわれる事ができない事もありました。

とても大きな嵐、台風の中に舟が、イエズス様と弟子たちを乗せている舟が、もう沈まんばかりに荒波に飲み込まれようとしています。「一体私たちはどうなってしまうのだろうか。海の深い深みに沈んでしまうのだろうか。イエズス様は、こんなにも荒れているにもかかわらずグーグー寝ている、大丈夫だろうか。」

イエズス様はその時に、弟子たちがどうも耐えきれずに、「主よ、起きて下さい。早くして下さい。私たちはこのまま沈んでしまいます。転覆してしまいます。」するとイエズス様は起き上がって、「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ」と言って、いきなり立ち上がって起き上がって、海に嵐に命令するのです、「黙れ。」すると、あたかも何事もなかったかのように凪になって、平和がやって来る、という事です。

これは、聖霊降臨後の最終の主日の中に埋め込まれる事によって、「この小さな聖ペトロの舟は、教会の事だ。教会の歴史の事を表している」と解釈させようとします。教会は、嵐のような地獄の迫害、地獄の手によって荒波に揉まれているのですけれども、しかし世の終わりに近付くと、イエズス様は裁き主としてというよりは、教会を救う者として、捕虜から救い出す者として、起き上がって、この世の中を平定する、たった一言で平和をもたらす、という事を意味しています。

⑵第2に、ではこれは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?

典礼学者によると、「確かに、これは教会の歴史をも表しているけれども、私たちの日常の生活も表している。実はこの舟に乗っているのは、イエズス様と一緒に乗っている私たち自身だ。私たちも一週間、イエズス様と一緒に舟に乗っている。イエズス様はあたかも私たちに見えないかのように、眠っているかのように、何もしていないかのように見える。でも本当はイエズス様は私たちのすぐ隣にいらっしゃる、全能の天主として隣にいらっしゃる。」

舟は、私たちの舟は、朝起きてから夜まで、あるいは主日から土曜まで、どこかでハロウィンがあった、あるいはどこかで先生に怒られた、あるいは嫌がらせをされた、誰かが割り込んできた、スピード違反で誰かが暴走運転をしてきた、あんな事があった、あるいはカトリックだからといって嫌がらせをされた、あるいは悪いインターネットを見る危険があった、舟は、私たちの舟は、荒波に揉まれて一週間すごして来た。

しかし今日、主日、イエズス様の復活を、御受難と復活を記念するこの主日にイエズス様は、私たちがイエズス様に近付いて、「イエズス様、主よ、私たちは何か沈んでしまいそうです。罪を犯してしまいそうです。平静を失ってしまいそうです」と言う時に、「何を恐れているのか。心配するな、私がここにいる。全能の力で私たちの周りの事を平定させる」という事を。

そしてまた私たちの人生の終わりにも、私たちが呼びかければ、イエズス様にお願いすれば、イエズス様は起き上がって、「心配するな。私がいる」と言って、この世の中を平和を下さる、その力をお持ちになっている、そしてイエズス様は「この平和になる、凪になる」というのはつまり、「私たちを、真の幸せ、天国に必ず連れて行く事ができる」という事です。

⑶第3には、確かに私たちは諸聖人の大祝日の後に、多くの聖人たちが天国で今平和を、イエズス様とマリア様と、使徒たち天使たちと共に、殉教者、証聖者たちと共に祝っているのを黙想します。そして確かに、イエズス様は私たちにこの本当の平和を与えようとして下さる事を知っています。私たちの人生の目的はこの地上ではない、という事を知っています。

この地上では、本当の短い期間で、私たちは永遠の楽しみに、永遠の幸せに、私たちの創造の目的に生まれてきたその目的に到達しなければなりません。イエズス様はそれを私たちに与える事ができます。私たちにとってイエズス様は、裁判官とよりは審判者というよりは、救い主として、今日現れます。「何を恐れているのか、心配するな。ひとつも心配する事はない。私にはお前に平和を与える事ができる。平和を与える事ができる。ここに、私がここにいる。心配するな」と呼びかけています。

迫害時代、明治政府がまだ、禁教令の立て札を取り外してそれでもまだ偏見が残って、そしてキリシタンが嫌がらせや村八分や意地悪をされていた時に、長崎の司教様たちは五島や色々な所に回って、「頑張れ、心配するな。イエズス様は今寝ているように見えているけれども、起き上がって私たちに平和を下さる。そして私たちのこの信仰のその尊さが、日本中で世界中で賞賛される日が来る」と言って励まして、そして「先祖から伝えられた、聖フランシスコ・ザヴェリオから伝えられた、7代8代に渡って伝えられた信仰、この信仰の遺産を守り抜くように」と励まして回りました。「将来、必ずこの信仰は勝利する。」

実際、カトリック信者である麻生首相の時に、日本で、日本の108名の殉教者が列福されて、その事を全部NHKが放映しました。100年前では考えられない事が起こりました。日本のその殉教は、その迫害のその精神性の高さが、「これこそ日本の宝だ」と文部省が推薦して、長崎の教会群は世界遺産に登録されています。これを聞いた時に、長崎の信者さんたちは感動して、涙が止まらなかったそうです、「先祖が守ってきた信仰のその価値が、その精神性の高さが、このイエズス・キリストに対するその愛が、全世界によって認められた」と。

その日は必ず来ます。たとえ私たちの周りが悪魔の仮装行列をしたとしても、カトリックの結婚に反対するような事を言う人たちがたくさんいたとしても、信仰に反するような事が法律となったとしても、しかしそれは長く続きません。ゼン枢機卿様も最近のインタビューで言いました、「共産主義は、永遠ではない。」

反キリストの勢力は永遠ではありません。必ず、イエズス・キリスト様は立ち上がって、私たちに平和と真理の勝利を与えます。必ず、私たちがそれを信じようと信じまいと、イエズス様が今いないかのように見えていても、その日は必ず来ます。聖伝のミサも、大勝利をする日が来ます。御聖体への信仰が勝利をする日が来ます。「マリア様への信心が正しかった」と全世界が認める日が必ず来ます。

今日、この世の終わりを準備する為のこの福音ですけれども、私たちに非常に強いメッセージを送っています、「私たちは、たとえイエズス様が今いらっしゃらないかのように見えても、荒波に揉まれているかのように見えても、何も心配する事はない。イエズス様にただ信頼すれば良い。」

「イエズス様、助けて下さい。イエズス様、私たちは荒波に飲まれそうです。イエズス様、お傍にいらっしゃるのは知っています。イエズス様、どうぞ憐れんで下さい。」

イエズス様は私たちの声をちゃんと聞いています。教会は何度も私たちに歌わせました。デ・プロフンデス、「私たちをこの深い闇の中から…」

⑷では、私たちは今日どのような決心をしたら良いでしょうか?

第1に、「イエズス様が私たちの創り主、全能の天主、創造主、救い主、私たちを愛する方がすぐ傍に必ずいて下さる。たとえ目に見えなくても、その動きが見えなくても、いらっしゃる」という事を確信なさって下さい。そしてその全能の憐れみ深い愛と御恵みに、信頼なさって下さい。

そして、是非イエズス様に、絶え間なく、「イエズス様、憐れんで下さい。イエズス様、助けて下さい」と呼び続けて下さい。私たちのこの叫びを、愛の祈りを、決してイエズス様は無視する事はありません。

この御恵みをマリア様にお祈りしましょう。典礼暦年の終わりにおいて、私たちが遂には、諸聖人と共に、永遠の喜びに、平安に、凪に入る事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

2018年11月3日(初土) 御聖体降福式での 「喜びの玄義―第1玄義の黙想」

2018年12月12日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第1玄義の黙想
(2018年11月3日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)


『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。

特にこの黙想を、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために、御捧げ致しましょう。この黙想を通して、マリア様が私たちに回心の恵みと、御憐れみと、平和の恵みと、聖徳への高い、熱い情熱を下さいますように、多くの霊魂を救いたい、と思うイエズス様とマリア様の心に合わせて、私たちもこの黙想をお捧げ致しましょう。

今日は特に、マリア様が御告げを受け給いたる事を黙想致しましょう。

救いの約束の、永遠の昔から決められていた時は来ました。天主が、天主の御言葉が人となる時が来ました。

「初めに、御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。
この御言葉は、この御言葉によって全ては創られ、創られなかったものは何もなかった。」

そしてこの御言葉は、私たちの為に、私たちの救いの為に、人となる事を御望みになりました。天主の本性と人間の本性が一つと合体する、この玄義の為に、天主は大天使聖ガブリエルを送りました。人類の代表者としてマリア様に、その同意を求める為でした。

もしもマリア様が、「嫌だ」と言えば、唯一の光は失われてしまいます。もうこれ以上チャンスはありません。マリア様だけが、唯一、選ばれた、無原罪の御宿りでした。永遠の昔から定められたその時、その日、その全てを定められていた方でした。

マリア様は、大天使聖ガブリエルの訪問を受けて、この言葉を聞きます、「めでたし、聖寵充ち満てる方よ、御挨拶し奉る。」

「一体、この挨拶は何の事だろうか」と驚いていると、「恐れるな、マリア。お前は身ごもって子を産む。その子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は、世を罪から救う者であるからだ。」

マリア様は1つ疑問に思いました、「私は男を知らないのですけれども、一体、どのようにしてそのような事が起こるのでしょうか?」

「聖霊が御身を覆い、お前から産まれる者は、『いと高き子』と言われる。」

大天使聖ガブリエルはマリア様に、童貞のうちにイエズス様が御胎内に御宿りになる事を説明します。

「その玉座には終わりがない。石女と言われたエリザベトも今、身を宿して6ヶ月目である。天主の御言葉に不可能な事はない。」

マリア様は答えます、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」

アダムとエヴァの時代から与えられた原福音、多くの預言者たちを通して預言されてきた、救い主の御到来のその時、その場所、そのやり方、「乙女が身ごもって子を産む。その子はエンマヌエルと呼ばれる。」

全て、マリア様において、成就致しました。マリア様は唯一望んだ事は、主の御旨を果たす事。主の救いの業に協力する事。その為に自分を無として、道具として御捧げする事でした。「主の婢女。仰せの如く我になれかし。」

マリア様のこのご謙遜と、従順と、主の御旨のみを望むその情熱によって、人類において最も偉大な業を行ないます。「イエズス・キリストと共に、贖いの業を達成する」という大事業です。

「幸せな方、主の御言葉の実現を信じた御方は。あなたは代々、幸せな者と呼ばれる事でしょう。」

私たちの人生の価値は、「イエズスの救いの業に協力するか、否か」にかかっています。まず私たち自身の霊魂を救う事。そして御恵みによって、できるだけ多くの霊魂たちの救いに協力する事。

その為に一番効果的なやり方は、マリア様の道具になる事です。
コメント

2018年11月3日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ説教 「世の終わりとマリア様についての黙想」

2018年12月10日 | お説教・霊的講話
2018年11月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月3日、11月の初土曜のミサです。聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日は初土曜ですから、いつものように初土曜日の信心をしましょう。ミサが終わった後には、聖体降福式があります。イエズス様の元で、マリア様のロザリオの黙想を致しましょう。今日はマリア様の御告げの神秘を、喜びの第1玄義を黙想する事を提案します。

11月は少し予定がイレギュラーなところがあります。次のミサは、11月11日の主日で夕方にありますけれども、2番目のミサは、最後の主日の前の金・土で、11月23日・24日です。ですから少し変則的になっているので気を付けて下さい。

11月30日と12月1日には、アジア管区長、新しい管区長様もいらっしゃいますので、その時も皆さん来て下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は11月の初土曜日で、11月は死者の、死せる信者の霊魂、煉獄に居る霊魂たちの為にお祈りをする特別の月です。

それで教会はそれと同時に、典礼暦年の最終の主日を準備する為に、「世の終わりについて黙想するように」と励ましています。そこで私たちも、世の終わりについて、世の終わりとマリア様の関係について、黙想しましょう。

⑴世の終わりとマリア様はどのような関係があるのか?

⑵第2に、今は世の終わりに近付いているのかどうか?世の終わりのしるしは一体何なのだろうか?

⑶第3番目に、マリア様は私たちに一体、そのような時代に生きる私たちに一体どんな事をお望みなのか?という事を黙想して、

⑷最後に遷善の決心を立てましょう。


⑴では、世の終わりとマリア様にはどのような関係があるのでしょうか?

深い関係があります。なぜかというと、この世を創られた天主が人となって、イエズス様が、人となった天主の御言葉がこの世に来られた、その救いの始めは、マリア様を通してなされました。天主はマリア様を通してのみ、この世を救おう、贖おうと思いましたが、世の終わりは同じような事が起こります。

「世の終わりには、信仰が、信仰の火がますます小さくなって、この地上から消されようとしている、ほんの少数しか残らない、というその時に、もう一度、マリア様を通して、イエズス・キリスト様の大勝利が来る」という、それがカトリックの教えであるからです。

なぜかというと、ちょうど最初に、マリア様を通してイエズス様が来られたように、最後にも、マリア様を通してイエズス様が来臨されなければならないからです。これについては多くの聖人たちが同じ事を言っています。一番有名なのは、聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールという聖人です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「この世の終わりには、恐ろしい戦いがあるだろう。悪と善の戦いがあるだろう。そして最後には、マリア様を通して、マリア様の使徒たちが、マリア様の道具が、この世において勝利を収めるだろう。善が勝利を収めるだろう」と言っています。

日本にも来られたコルベ神父様も同じ事を言います、「この世の終わりには、マリア様を通してイエズス様が勝利する。」

ファチマでも同じ事を言います。ファチマではシスタールチアを通して、「この世に天主様は最後の手段を与えている。最後の手段というのは、普通の手段を使ってももうどうしてもそれができないので、必殺兵器を、もう最後の最終兵器を使って、もしもこれが駄目ならもう代わりがない、それがマリア様だ。」


⑵それでは、マリア様と世の終わりに非常に非常に深い関係がある、という事が分かった今、では、今の現代はどういう時代なのだろうか?という事を見ると、もちろんイエズス様は、「世の終わりがいつなのか、誰も、人の子さえも知らない」と言っています。ですから、私たちは一体いつなのか分かりませんけれども、しかしその「しるし」は見る事ができます。

そのしるしというのは、「イエズス様を信じる、という信仰がだんだん弱くなっている」というしるしです。そしてそのあまりにも信仰がこの世から失われるがあまり、人々はおかしな事を信じている、狂った事を、狂気を信じている、ますます信じている、という事にあります。

聖パウロは既に書簡の中でこう言っていました、「天主がこの全てを創った、という事は明らかである。この自然の秩序を見ると、天主によって創られたという事は明らかである。しかしそれを見ても信じない人がいる。そこで彼らの目は暗んだ。知性は暗んだ。だから彼らは、自然に反する罪を犯すようになる」と言って、口で言うにも恐ろしい罪の事を、聖パウロはローマ人の書簡の中で書いています。

聖書によると、「天に復讐を呼ぶ罪」というのが4つあります。もちろん罪を犯す事は悪い事で、罪を犯す事はそれなりの罪の償いを要求します。しかしこの4つの罪だけは、普通の罪とは違って、あまりにも重大で、あまりにも極悪で、道を外れていて酷いので、天主様がこのままその目をつぶって、彼らがそのままいるのをどうしても許す事はできない、という罪があるのです。普通の罪とは次元が違う特別の罪です。これは「天に復讐を呼ぶ罪」という事で聖書にあります。

1つは、「罪のない人を殺害する事」また、「貧しい人や弱い人を圧迫する事」あるいは、「正当な賃金を支払わない事」第4は、「自然に反する罪を犯す事」。

この「自然に反する罪を犯す」という事によって、ソドムとゴモラという町は、天から火が降って無くなってしまいました。考古学上、そのような所があった、という事は分かっています。しかし、滅んでしまいました。とても豊かな農産地でした。滅んでしまいました。

今、考古学上分かっている事もあります。ポンペイという町は、ヴェスヴィオ山という山の近くにありましたが、港町で、非常に堕落した町でした。今そこに行くと、昔は教会の人が研究していたのでそういう事はあまり言わなかったのですけれども、今では一般の学者が研究しているので、どのような発掘調査があったという事を全て公開しています。すると、そこに書かれている壁画や、あるいはその生活はあまりにも腐敗していて、淫らなものが町中にあって、そのようなお店があって、絵があって、口で言うにも恥ずかしいものがたくさんありました。それがあっという間に、火山によって埋もれてしまいました。

他にもあります。イタリアから海に沈んだ都市があります。とても豊かで、とてもお金持ちの人があって、そこに行くのはリゾートでしたが、記録に残っているのは、私たちに今口にするにも恥ずかしい事が行なわれていて、私たちが知っているのは、「それが海に沈んだ」という事です。

今、この世界はそのように、良い事が悪い事であって、「罪を犯してはいけない」という事が言う事が悪い事になってしまって、そして悪をする事が、例えば聖書で「してはいけない」、聖パウロが、「そのような事をする者は、天の国には入れない」という事をもしも言ったとすると、それは、「そのような事を言うのは、人を傷付ける」とか、あるいは「そのような事を言うのは、謝罪をしなければならない」とか、あるいは「聖パウロは今地獄にいる」とか、そのような事が主張されるような世界になっています。

もちろん真理を言うのは、ある人にとってそれに直面するのは難しいかもしれません。しかし、しかし人々は、真理を必要としています。そしてその福音の真理を知って、「今まで罪の生活をしていて、口にするにも恥ずかしい罪の生活をしていたけれども、その福音の言葉を聞いて回心した。立ち直った」という方がたくさんあります。そして、「そのような事を言ってくれる人に感謝する」という人がたくさんいます。

「罪」と「罪人」は違います。区別されなければなりません。罪人は、罪を犯してしまう人は、もちろん憐れみと、御恵みと、助けを必要とします。しかし、罪は罪であり続けます。

それらを見ると、その倒錯したような世界が今来つつあるのを見ると、そのようなものが合法化されようと、法律で認められようとすると、そして「それはいけない事だ」と言う事が罰せられるつつあるようになる世界が来つつあるという事を見ると、世の終わりも近くになっていたのかもしれない、と思うようになります。

このような動きは、あっという間に来たのではありませんでした。500年かかりました。最初は、マルチン・ルターから始まりました。マルチン・ルターは、「教会の権威はいらない」と言いました。そして聖書を以て、「聖書さえ読めば、自分で自由に解釈するべきだ。その為に、この自由の為に、キリスト者はいる。だから聖書だけで良いのだ。そして私たちは救われた、と信じればそれで良いのだ。何をしても、私たちはキリストの救いの業によって義と認められるので、」マルチン・ルターによれば、ですから、「私たちは善行をする事ができない。善行には価値がない。だからミサに与る事なども、秘跡なども、あるいは良い行いなどという事も全く無駄だ。修道生活も無駄だ。誓願を立てても無駄だ。ただ聖書を自由に解釈して、自分が救われている、という事を思えば良いのだ」と主張した事から始まりました。

こうしてマルチン・ルターは、客観的な世界を否定して、自分の頭だけの世界に閉じ込もってしまいました。難しい言葉で言うと、主観の世界の中に入ってしまいました。「自分の考えた通り、信じれば良いのだ。」ですから、「教えられる必要はない。外の現実の世界とは関係ない」と言い出したのです。つまりまとめて言うと、カトリック教会を否定してしまいました。

今度は、次の革命が来ました。それがフランス革命でした。教会のみならず、キリストを否定しようとしました。「王様はいらない。王様はキリストの代理者だから。そうではなくて、キリストの代わりに、人間の自由がなければならない。」そして人間の自由こそが、人間の理性が、あたかもキリストの場を奪ってしまいました。今まで王様がやろうとしていた事は、国民が徳のある道徳的な良い生活を行なう事ができるように、促進させる事でした。国民の間で平和が保たれて、そして良い善徳の生活、良い生活を、地上での生活を送り、そしてそれが天国へと繋がる事ができるように、教会を助ける事にありました。

ところが、人間の自由がキリストに変わった時に、一番大切なのは「自由」になりました。「だから、国家の政府の役割は、人間の自由を守る事だ。一番大切なのは、お金儲けだ。自由であればあるほど、お金を儲ける事ができる。」

ですから、「そのお金儲けに邪魔しないようにする事が、国家の務めだ」と言って、「ブルジョワの世界を作ろう」と思いました。ですから、お金持ちはもっとお金持ちになって、そして力のない貧しい人はますます搾取されて、奴隷のようになっていきました。王様が今まで、「良い、徳のある生活をしよう。愛徳で助け合おう」と言った世界を、ただお金の観点から世界を作り直そうとしたので、そのような差が広がってしまったのは当然の事でした。

フランス革命のモットーは、「自由・平等・博愛」でした。しかし自由は追求されたけれども、自由を追求すれば追求するほど、平等となる事はできません。元々、「自由・平等・博愛」というのも、カトリックから来た言葉使いでしたけれども、でも内容はカトリックのものではなくなってしまいました。

「自由」というのは、「私たちが罪から解放されて、天主の前で自由に善を行なう事ができるように、その自分の罪と悪から解放された」それが自由だったのです。しかし革命の後の、フランス革命のモットーは、“天主からの解放、天主からの自由”となってしまいました。

「平等」も、「天主の前では、男も女も、ギリシャ人もユダヤ人もない。同じく天国に行ける」という平等でした。しかしフランス革命の後では、“天主のない平等”。ですから、“全てが等しく奴隷のようになる”という事を意味しました。

カトリックでは「博愛」と訳されている「兄弟愛」は、「天主、天主聖父の前での兄弟愛」でした。しかし“天主のない兄弟愛”をフランス革命は押し付けようとしました。しかし日本人が天主のない兄弟愛を訳す時に、「聖父のいない兄弟愛などあるだろうか」と思って、それが「博愛」として、あるいは「友愛」として訳されました。

その後で人々は苦しみました。貧しい人が特に苦しみました。その為に、それらの救いの助ける為の道は、元のカトリックの教えに戻る事でした。しかし人々はそそのかされて、別の道を選びました。カトリック教会を否定して、キリストを否定した後に、今度は天主さえも否定しました。共産革命でした。ボルシェビキ革命、ロシア革命でした。

そして「平等を追求する為に、全ての今までの社会秩序を破壊してしまおう。ブルジョアの世界を破壊してしまおう」と訴えました。そしてそれがロシアで100年前に成功しました。残念ながら人は、間違った方向に解決を見出そうとして、そしてますます苦しみました。共産革命の後にソ連、あるいは多くの国々が共産主義の下に陥り、人々は奴隷そのものとなってしまいました。

その時に私たちは、「本当の救いは、この世を創った救い主、イエズス・キリストの元に立ち戻る事である」という事に気が付けば良かったのですけれども、人々は今、更に別の方向に行こうとしているかのようです。教会を否定し、キリストを否定して、天主を否定して、更には、今の目の前にある現実の世界さえも否定しようとしています。

善は悪であり、悪は善であり、男も女もなく、自分の思う通りの世界を作る事ができるかのように、夢の世界を作ろうとしています。そしてその為に家庭は崩壊され、今までの秩序、善悪との基準が全く逆転しようとしています。今、そのような世界が出来つつあるかのようです。


⑶ちょうど十字架の下で、イエズス様が受難を受けた時に、イエズス様は弟子にヨハネに、マリア様をお与えになりました。それと同じように、教会が今そのような社会の中に居て、教会も、キリストも、天主も、そして現実世界をも否定しようという世界の中に居ながら、私たちにマリア様の汚れなき御心を与えようとしています。

マリア様は天主へと至る道です。私たちの避難所です。私たちがいくら何と言っても人々は受け入れられないかもしれませんが、しかしマリア様の汚れなき御心で、マリア様の御助けによって、多くの傷を負った人々や、あるいは道を間違った人たちが癒される事ができます。夢から醒める事ができます。正気の現実の世界を素直に認める事ができるようになります。聖パウロの教えをそのまま、「その通りだ」と認める事ができるようになります。イエズス様の教えを認める事ができるようになります。


⑷では今日は、マリア様に特別にお祈り致しましょう。マリア様はトゥイという所で、イエズス様からの御恵みと憐れみを私たちに下さる方として現れました。マリア様が願わくは、悪魔を崇拝するようなハロウィンは受け入れるけれども、実はその元となった諸聖人については何か知らないこの世界に、その諸聖人を生んだイエズス様の教えに、マリア様の御取り次ぎに、目覚める事ができますように、特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2016年聖母小黙想会 霊的講話【5】 8月12日 シュテーリン神父様「まことの信心と誤った信心」

2018年12月09日 | お説教・霊的講話
2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【5】
同時通訳:小野田圭志神父


昨日の話のポイントは、「マリア様が、私たちの回心について、私たちの聖化について、特に終末において、特に私たちの危険な時において、どれほど大切であるか」という事を黙想した事です。

特に昨日最後で見た、聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに提示する、私たちの有るべき姿、アイデアが、理想像が、「私たちが、マリア様とイエズス様の使徒として皆呼ばれているその姿」について黙想しました。終末の時代に色んな所から攻撃を受ける時にあたって、私たちカトリック信者に何が要求されているか、という事を考えると、私たちはそれに圧倒されてしまいます。では、マリア様が私たちにお求めの、そのような聖徳にどうやったら到達する事ができるでしょうか?

はい、「右手には十字架像、左手にはロザリオ、そして胸の中にはイエズス様とマリア様の聖なる御名を刻んで、」それは分かります。そのような事をいつもする事ができたら何と嬉しい事でしょうか。でも、今の私たちを見ると、それと比べたらあまりにも距離があって、あまりにも遠くにあります。どうしたらそこに到着する事ができるでしょうか?私の心の中には弱さや、あるいは怠慢や、あるいは冷たい心があるのにも関わらず、どうやったら愛に燃える炎となる事ができるでしょうか?私たちの心はどうしたら天主にそれほど愛着して、それにぴったりとくっ付いている事ができるでしょうか?そして何もこの世の事に煩わされず、この世の事を心配せず、この世のものに気をかけない事ができるでしょうか?

私の事をずっと反省してみると、あまりにも多くの被造物に愛着を持ったり、執着を持ったりして、気にかけたりしているのではないでしょうか?私たちがちょっとした難しい事や、ちょっとした困難に出会うともう、もう心配で、「あぁ、もう、これでもうだめだ!」と思ってしまうのではないでしょうか?

今の私がどのようなものであるにしろ、マリア様が今ここで私に、「こうなってもらいたい」と望んでいる姿が、今この最後のパラグラフに書かれている事です。

私が起きた時に、「私は一体、誰だろう?」と自問します。私は起きた時に、「私は日本人で、トマス小野田という名前だ」と簡単に単純に答えるわけにはいきません。「私は一体、誰だろう?」起きて、この56から59番を読まなければなりません。皆さん今度から起きたらですね、「私は一体誰なのか?」と自問する時に、「私は56番から59番」と答えます。56から59、これを覚えて下さい。ですから、「一体、自分がどうあるべきか」という事を忘れてしまったら、この番号を探して読む事ができるからです。

このような理想像に到着する手段が、まことの信心です。これが、この理想像に到達する事ができる手段が、「マリア様を通してイエズス様に、私を、自分を完全に奉献する事」です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、まことの信心を説明する為にまず、「間違った、誤りの、偽りの信心と言われるものが何か」という事を私たちに説明します。本当の道に行く為に、間違った道を遠ざけなければなりません。間違った道を離れて、間違った道を遠ざける為には、そのどこに、何が間違って、どんなところが間違っているか、という事を知らなければなりません。ですから聖グリニョン・ド・モンフォールはまず最初に、間違った信心を知らせて、これを避けるように教えます。

92番からこれを読んで黙想しましょう。92番から94番において、間違った、誤りの信心を示します。まず私の申し上げる事を聞いて、その後でお読みになって下さい。なぜかというと、私の言う事を聞かずに皆さんが今本を読む事に熱中してしまうと、私がいくら話しても聞いてくださらないようなので、それなら私はコーヒーを飲みに行きます。(^^;)

この「誤りの、嘘の信心」という事を示しながら、実はグリニョン・ド・モンフォールは、私たちが持っている、「信仰生活に関する誤った観念」を指摘します。

もちろん間違った宗教についての事を話しているのではなくて、もしもそうであれば、本当に嘘の信仰を持っている事になります。もちろん、間違った宗教は私たちに、悪魔的な雰囲気の中で生きさせるので、私たちを暗闇の中に、監獄に閉じ込めてしまうようなものです。残念ながらこの牢獄に、多くの何百万という霊魂が閉じ込められています。

グリニョン・ド・モンフォールはカトリック信者に、真理を知っている特権を持っている人々に今、語りかけています。でも間違ったこう捉え方をしてしまって、「私は真理を知っているので、全ては私においてOKだ。この全ては問題ない」という風に誤解してしまうからです。

聖人たちは、「私たちの祈り、あるいは信心、あるいは信仰生活が、私たちを死にもたらすような道徳に反する、あるいは何らかの誤りに汚染されていないかを吟味するべきだ」と言っています。信仰生活というのは、私たちの存在において最も大切な部分です。ほんのちょっとした誤りがあっても、私たちの信仰生活の土台が崩れてしまう危険があります。

40年から過去50年間、私たちの教会やチャペルに多くの方が来ましたけれども、残念ながら多くの人はそれから、来て、また離れてしまいました。私たちよりも、この惨めなこの私たちよりももっと立派な司祭や修道者の方も来ました。しかし私たちを離れて、どこかに消え去ってしまいました。あるいはセクト的な考えに陥ってしまったり、あるいは「自分だけが、生きる、この世界に残っている唯一のカトリックである」と誤解してしまったり、あるいは「自分たちが教皇を選ぶ権利がある」あるいは「司教を勝手に作るという考えがあれば、それを作っても良いのだ」と思い込んでしまったり。

これは、「あぁ、あんな悪い人たちが、おかしな人たちがいるな」と笑う為ではなくて、私たち自身がそのような誤りに陥らないように警戒する為です。彼らの問題はどこにあったのでしょうか?それは、「私は正しい」、「私には信仰がある」、「私」、「私」。

信仰生活はいつも前進して進歩しているだろうか?私の罪はますますより少なく犯すようになり、そして徳に成長しているだろうか?信仰を再発見した時のその喜びと、その熱心はまだ同じなのだろうか?あるいは更に大きくなっているのでしょうか?それとももっと悪くなっているのでしょうか?

この聖グリニョン・ド・モンフォールは、「7つの間違いがある」と説明しています。この7つの間違った信仰生活の考え方を、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様への間違った信心という形で提示しています。でもグリニョン・ド・モンフォールが言うのは、マリア様と私たちの関係だけでなく、私たちの全ての信仰生活に関わるものの態度です。

この7つは、ちょうど7つの原罪と同じように、7つの数にカテゴリーに分類しています。でもよく詳しく見ると、この7つの1つ1つの中には、その更に分類されていて、それが3つの分類、あるいは4つに分かれています。

最初の3つの間違った信心は、私たちの「理性」に関わるものです。最後の4つは、私たちの「意志」に関わるものです。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、ヤンセニズムという異端の時代にこれを書きました。ヤンセニズムというのは、カトリックの表面を仮面を付けて、実は真実は実際のところ、プロテスタントの考えをカトリック教会に持ち込んでしまいました。

ところで現代も、同じような似通った態度が見られますので、このその聖グリニョン・ド・モンフォールの言葉を適用させるのは非常に簡単です。

まずこの間違いは7つの間違いは、「信心」と呼ばれています。このいわゆる「間違った嘘の信心」は、「自分のやっているこのようなやり方こそが、天主様へのまことの信心である」というような事を主張して、提示されています。

私はよく聞きます、「あぁ神父様、この人たちはたくさんお祈りします。ですから間違う事はありません。」「この人たちはマリア様を愛しているので、間違う事はありません、神父様。」「あぁ、メジュゴリエのマリア様は本当に美しいので、間違っているのではありません」というのは、例えの話です。「神父様、私はその時に、その時に目撃したのです。その時に居たのです。その時に私は本当にものすごい事を感動して語りました。それなのに神父様はこれを「間違った嘘の信心」と言うのですか?そんなことはありません!」

私はもちろん、どなたかが、誰かがこう御恵みを頂いた、というその個人的な御恵みや、その色んな事を非難するわけではありません。なぜかというと、天主様はどんな所でも、どのような場所でも、御恵みを与える事があります。そして私が知っている人は、ロックコンサートに入って、その様子を見て、あまりにも酷くて、これで、「これが罪を犯すように誘っている所だ」という事を理解して、「もうこんな所に行く事はできない」と回心の御恵みを受けた人を知っています。天主様は私たちの心に、どのような所でも、どのような状況においても、御恵みを与える事ができます。天主様のそのようなやり方について、私たちはあまり話すところではありません。

ただ私たちは、そのような祈りの仕方、あるいはこのような信心の仕方、あるいはこのような御出現は、客観的に、正しいのか、あるいは間違っているのか、という事を判断する事だけです。

もしも信心や御出現が間違っているとすると、それは「目的地まで到達しない」という事です。つまり、もしもゴールに到達しないという事であれば、「イエズス様やマリア様に名誉を帰さない」という事であって、客観的にそれは、「イエズス様とマリア様を屈辱する」という事です。そして客観的に、そのようなやり方は、「信徒たちを私たちを、本当のマリア様とイエズス様の信心から離してしまう」という事です。

私たちに関係する次の段落を見てみます。これは皆さんがいつもどこでも「間違った嘘の信心」をしているという事ではありません。もしも皆さんこれに適用されていないという事であれば、本当に天主様にその御恵みを感謝して、この午前、午後、一日中感謝しても、それでも足りないと思われるに違いありません。

第1の間違いは、「批判的な論評型の信心」というタイプです。この批判的な評論的な信心というのは、何かノブスオルドの信心家のようで、皆この超自然の出来事や、この昔からの信心を批判して、「これは間違っている」と論評する人々です。このような態度は、「単純な、ちょっと頭の弱い人のやっている信心だ。」あるいは「カトリックのやっている信心というのは、ちょっとオーバーだ。特に、カトリックのマリア様に対するオーバーな信心や、このやりすぎ」を批判するような人々です。この論評型の批判型の信心の後ろには、「傲慢」が隠されています。

これは実は私の問題でもあります。傲慢というのは、自分の素晴らしさを自分だけに帰するものであって、そして他の人たちを軽蔑するものです。ですから、「他の者たちは皆間違っている。私の方が正しい」とする態度です。

もしも、「私の知性」が、これを受け入れるか、受け入れないかの究極の判断基準となるとしたら、これを私たちは、この傲慢の論評型の信心の危険があります。聖伝の信者の中にも、「聖伝を信じている」と言いながら、「天主の信仰の神秘を、全て説明を受けなければ気が済まない。全て完璧な説明が欲しい」と要求する人がいます。もしもその説明が与えられないと、「それは間違っている」とそれを批判したり、「それを受け入れる事ができない、何でこうなるか分からない」という態度です。

でも、私たちの信仰の神秘というのは、「玄義」というのは神秘ですから、玄義ですから、全て数学の証明によって証明されるように、もう明確に説明し尽くす事ができるものではありません。玄義というのは、その本質的によって、私たちの知性が全てそれを完璧に説明し尽くす事ができないものです。

例えば今、例を取ると、教会の危機、教会が陥っている困難については、これは深い神秘で、なぜこのような事が天主によって許されているか、これは私たちは説明する事ができません。論評型批判型信心は、この神秘に対しても、全ての説明を求めていて、もしも説明が受けられないと、それを批判します。

「神父様、決まっているじゃないですか、全ての異端は教皇様から来ます。聖ベラルミーノはこう言います、『教皇が異端説を唱えれば、もう教皇ではない』と。ところで、過去の数名の教皇様達は、教皇らしくない事を言ったり態度を取っているのでもう教皇ではありません。ですから、実は本当は教皇様パウロ6世ではなくて、ただモンティーニさんであって、ヴォイティアさんであって、それでラッツィンガーさんであって、それから今この白いスータンを着ているのは、ベルゴリオさんでしか過ぎません。ですから、私たちだけが生き残たレムナントで、世の終わりまで私たちが信仰を守ればそれで良いのです。」

今言ったのは、間違った態度の、論評型の態度ですが、そのように言う事によって、別の、解決できない何千もの多くの問題を作っています。そしてそのような人々たちは、それぞれ教会の危機の解決策を自分で見出して、自分で提示して、そして互いに争って、つまり自分がそれぞれ一人一人が実は教皇様になってしまって、プロテスタントと同じような態度を取っています。

ここの問題がどこにあるかというと、究極は、自分の能力を超えた、自分にそれをする事ができる、という義務のない判断を自分たちがしてしまって、その傲慢に問題の根があります。自分の知性を全ての上に置いて、あたかも神格化してしまった問題です。

では、本当の答えとは何でしょうか?

まず、この今教会に、過去無かったような非常に難しい教会の危機の時代がある、時期がある、という事は理解しなければなりません。私たちは異端説や間違った説から、日本を守らなければなりません。多くの聖人たちの足跡に従って生きなければなりません。変わる事のないカトリック信仰をそのまま守らなければなりません。私たちの信じている事を実践しながら、信仰を守らなければなりません。

だからといってこの今、カトリック教会の危機を解決する為に、その解決策を私たちの頭の中で考え作り出す、という事ではありません。そして他の人々を全て裁く、生ける人と死せる人とを裁くという、主であるかのように私たちが他の人々を、「あの人はこうだ」「こうだ」「こうだ」と裁く事を避けなければなりません。

私たちは、「自称レジスタンス」という人々から過去5年困難を受けています。残念ながら、私たちの尊敬する愛するウィリアムソン司教様がなさっている、客観的に間違った言動や行動に苦しんでいます。5年間ずっと続けて、間違った告発とか批判を聞いているのを、私たちは苦しんでいます。韓国の半分の信徒の方々と、日本では何名いるか知りませんけれども、この罠にかかってしまいました。他の世界中の各地でも、何名か一緒になっています。そして1日中インターネットの上で、色んなものを読んでいます。そして全ての人を判断して、裁いています。色んな人の事について批判しています。それで祈りの生活や、信仰生活や、全てを失いつつ、そういう事に時間を費やしています。そしてこのような態度を取っている司祭や司教様の御説教というのは、ただ批判して、批判して、批判する事で、建設するものはありません。

聖グリニョン・ド・モンフォールはこの第1の所で私たちに、「批判をするのではなくて、私たちの日常の自分の務めをよりよく果たす」という事を勧めています。

この第1の点をもっと深く見ると、別の角度からも見る事ができます、それは「主観的な、私が選んだ信仰生活」という事です。例えば、カトリック教会が客観的に、私たちに与えている勧めているお祈りよりも、私が好きなお祈り、私の選んだお祈りをする、という。このような人たちは、どこかで見つけ出した個人的なお祈りの方が、教会の公的なお祈りよりももっと良い、と考えている人です。

「私はこの公的なお祈りが嫌いです。なぜかというと、私がこうやって跪きたい時に皆は立っているし、立ちたい時には跪いてるし、座っていたい時には皆が何かしているからです。しかも教会の後ろには、何かクラック・クラックと音を立てて皆さんに合図をしている係がいます。」そのような主観的な信心の方は、そのような合図の音を聞くと「あぁ、またか」「またか」と思ってしまいます。

このクラック・クラックという音は、教会が皆さんに、「あぁ、今聖福音だから立って、イエズス様の事を聞いて下さい」「あぁ、今は聖変化だから、跪いてイエズス様を礼拝して下さい」という、この「教会が一番望む態度はこうですよ」という招きをしているものですから、これが最高の一番良いものである、という事です。

この論評家の批判家の信心の別の観点は、別の点は、他の人を軽蔑する事です。例えば、「私は他の間違った牧師たち、あるいは間違った司祭たち、近代主義の司祭たち、この太っている愚かな人たちよりも私は偉いんだ」というような態度です。

ですからこのような信心家は、「あぁ、この平信徒は間違っている」「あの神父様は間違っている」「あの司教様は間違っているし、教皇様も間違っている」という態度を取ります。確かにこのような方々は、客観的に間違った事を行なったり言ったりしますけれども、だからといって、そのような論評家の信心の人は、本当に悪い、汚らしい、本当に悪い言い方をして、批判して、馬鹿にして、軽蔑します。

私たちは、「本当はそれを受けるにふさわしくない者であるにも関わらず、真理を、聖伝の真理を、ありのままの2000年の真理を受ける事ができた」という事を感謝して、跪きましょう。

確かに私たちは、誤謬は、間違いは憎みますけれども、しかし、残念ながらその間違いの中にいる人々に対しては、尊敬を抱かなければなりません。私たちはこう言わなければなりません、「もしも私が受けたこの御恵みと同じものをこの人たちが受けていたとしたならば、きっとこの人たちは私よりも、何百倍も、何千倍も、もっと良くなるに違いないだろう。」

では次に、第2の信心型を見ます。

この第2の間違いは、「小心家」94、95番です。「オドオド型」と書かれていますけれども。この「小心型、オドオド型」というのは、私の深く説明する必要のないものです。これは近代主義やプロテスタントがよく持っているやり方です。でもこの事についても、皆さん後で黙想して下さい。

第3の間違いは、表面的な、外見だけの信心(Les dévots extérieurs)です。

ここでは「チンドン屋型の信心家」と言われています。これは私たちが皆持っているものです。これは、「外的な態度の方が重要である」と信じてしまう間違いです。「質よりも量の方が大切である」と誤解する態度です。

「神父様、とても気分が良いです。昨日は27環ロザリオを唱えました。」
「あなたはカトリックですか?それとも仏教徒ですか?」

子供の頃、私は母に連れられて、夜通しの徹夜のロザリオのお祈りに行った事があります。この時に、私は子供ながらに、この誰も、私は誰も批判するのではないのですけれども、子供ながらに、このお祈りをする人たちが、この「めでたし聖寵充ち満てるマリア」と言いながら、頭の中では何も考えていなくて、ただ唱えているだけ、という風で、これは仏教のお坊さんの念仏と同じように思われました。

これには非常に大きな罠があります。もっともっともっとたくさん唱える為に、それを正当化します。巡礼に行って、徹夜のお祈りをして、このお祈りをして、という「ここで時間を使っているので、自分の生活を改める時間がない」という態度です。

この外的なものだけを強調する事によって、その内容とか、その意味を忘れてしまう危険があります。マリア様やイエズス様に大きな称号を与えますけれども、かといって自分の内面は全く空っぽで、空虚である危険があります。

例えば、たくさんの「王たるキリスト」に対するお祈りや、色んな様々な信心や、様々な歌があります。でも「王」というのは一体何なのか?とは考えた事も無い人たちもいます。その「王」という意味もよく分からないまま、「王」「王たるキリスト」と歌っても、それが何も実践できていないケースがたくさんあります。

例えば、「イエズス様は私の王」「マリア様は私の女王、元后」と言いながら、「実は王という意味は、イエズス様に従わなければならない、イエズス様のしもべである、イエズス様の御旨を果たすのだ」という事が理解できない人がいます。

もしもマリア様が本当に私たちの元后であり、女王様であるならば、例えば百貨店に、あるいはスーパーマーケットに行く時に、「女王様、私が一体何を買って、何を買うべきでないのか教えて下さい」と、「女王様の御旨は何ですか?」と聞かなければならない事を理解しているでしょうか?

男性の方は、もしも今日の1日のプログラムを作る時、あるいは休暇の計画を立てている時、あるいは何かの計画を立てる時に、「私たちの王の御旨は、王が何を御望みなのか?」という事を、いちいち1つ1つ聞くでしょうか?

この外面的で表面的だけの信心は今、癌のように広がっていて、特にこの感傷的で、この感情に訴えるカリスマ運動や、感情的なものだけの信心の危険があります。多くの人々が、「信仰生活というのは、フィーリングを感じる事である」とか、あるいは「たとえどのような犠牲を払っても、そのような感傷的に体験をするという事にある」と誤解している人がいます。

多くの人が、「神父様、私はもう天主様から愛されていません。なぜかというと、もうそのような感激を味わうことができないし、その何もフィーリングが無いからです。」

そのような感覚や、あるいはそのような感激が無くなってしまうと、もう祈りの生活をやめてしまいます。

第4は、この「ワンマン家」と書かれています。97番です。

これは、Les dévots présomptueux「本当の努力を避けて、天主様がやって下さる」と勝手に思い込む信心です。

101番には第5として「不安定な信心」 Les dévots inconstants があります。これは、満月の時には一生懸命お祈りするけれども、三日月の時にはあまりお祈りをしない、という、「気分に応じて信心をする」という事です。

第6は、「偽善的な信心」dévots hypocritesで、これは「信心」の名前に値しません。このショーを見せるだけの、劇をするだけの、見せかけだけの信心です。

でもこの事についてちょっと質問するのを許して下さい。この黙想会を司祭たちに指導する時に、この事をいつも司祭たちに質問します、「神父様たち、ここに黙想会に与っている神父様、あなたたちは、たくさん何千人もの前でミサを捧げる時と、たった一人でミサを捧げる時と、同じようにミサを捧げますか?」あるいはこの信徒の皆さん、ご自宅でお祈りする時の態度と、この他の皆さんと一緒にお祈りする時の態度とは、全く同じ態度でお祈り致しますか?皆さんは、他の方々が皆さんを見ている時には、皆さんは(敬虔な態度でお祈りしている様子)、一人の時は(ぞんざいな態度でお祈りしている様子)、皆さんもちろんこのようではないと思いますけれども、少しそのような傾向があるかもしれません。

私たちの原罪の為に、私たちは皆、劇を、この演劇をしている可能性があります。他の人々の前で私たちはショーを見せて、そして自分がどれほど信心深いか、という事を見せる傾向があります。

第7は、「自己利益を求める、エゴイスティックな信心」dévots intéressésです。必要な時にはお祈りします。お祈りする時は、何か「欲しい」。これはちょうど、お父さんが、「子供は私のことを愛していない」と文句を言うのと同じです。

でもこの子供は時々お父さんの方にニコニコしてやって来て、甘い声を出して、「お父さん、元気ですか?」するとお父さんは、「いくら欲しいのか?」子供はおこずかいが欲しくて、私たちは時々このような態度を取ります。天主様の名誉、天主様の御旨、というのはあまり興味がなくて、「私の利益、私の思いが欲しい、それの為にお祈りする」という事です。

では今から、92番から104番までの間違ったやり方をゆっくりお読みになって下さい。もしもこれを読んで、「あ、ここに、この点は私にちょっと似ているかもしれない」というところがあれば、そしたらそんな時はメモを取って、それをそれについて反省してみて下さい。そしてそれを、もしもそのような傾向があるなら、それを私たちが取り払う事ができるようになさって下さい。

では、どうしたらその誤りを取り払う事が、取り去る事できるでしょうか?それは、今から後に説明する、「まことの信心」を受け入れる事によってです。
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2016年聖母小黙想会 霊的講話【4】 8月11日 シュテーリン神父様「終末の時代のマリア様の役割」

2018年12月08日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【4】
同時通訳:小野田圭志神父


では、ますますインマクラータの神秘の中に深く入って行きましょう。特に終末の時代において、マリア様のなさる役割について、聖グリニョン・ド・モンフォールが何と言っているかを見てみましょう。

そこで、聖グリニョン・ド・モンフォールの終末に対する見方は、私たちがいつも考えている事とは少し違っています。終末の大災害について、私たちは否定的な観点で見るのが慣わしですけれども、そしてもちろんその事については間違ってはいけません、幻想を抱いてはいけません、恐れおののくべき時代が待っています。しかし、これが終末について最も深い見方であるとは言い切れません。

最も深い意味というのは、「終末に、最後に、私の御心は汚れなき御心は凱旋するでしょう。」これが本当の意味です。

天主様はこの終末の時代に、「マリア様が一体どなたであるか?」マリア様の力を全てに示そうと御望みです。天主様はマリア様に特別の役割を任命します。これは、「最後の戦いをリードする」という役割です。イエズス様は勝利しました。ですから「イエズス様と共に勝利者である」という事が、マリア様に預けられています。イエズス様はこの最後の勝利の冠をマリア様に、御母に与えたいと思っています。

聖グリニョン・ド・モンフォールは51番と52番において、マリア様が一体何をするか、なぜそうするのか、という事について説明しています。

罪がこの世に入ってから、この世は2つの陣地に分かれました。この世の、最初の罪が入ったこの世の瞬間に、天主様の約束がなされました。この約束は「呪い」という形でなされました。「マリア様が、この女が蛇の頭を踏み砕くだろう」という予言、約束です。

聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールはここで説明します。それは52番ですけれども、「天主は、1つの、和解する事ができない敵対を置いた」という事です。

戦いの陣地において、2つの陣があって、2つのリーダーが、2つの頭があります。キリスト教の陣地のリーダー、戦いを指導する人は、マリア様です。こうすると、なぜ悪魔がマリア様をそれほど憎んでいるかという事がよく理解できます。

なぜイエズス様ではなくて、マリア様が陣取るこの頭であるか?という事を説明します。

悪魔は絶望的に傲慢です。もしも悪魔がイエズス様と戦うなら、天主と戦うならば、「あぁ、天主様だから負けても仕方がない」と思うでしょう。

でも天主様は、「じゃあ、あなたは他の天使と戦いますか?」ルチフェルはきっとこう言うでしょう、「もちろん戦う!」大天使聖ミカエルがやって来るのです。そして大天使聖ミカエルは悪魔を天国から追放します。

「悪魔よ、一体お前は誰と戦いたいのか?」「人間の最も強い人と戦いたい。」「ではお前は、小さな貧しい女の子と戦え。」ゴリアテという巨大な男が巨人が、小さなダヴィドと戦うのと同じです。「おお、ここに小さな赤ちゃんがいるぞ。おお、ここにバカバカしいほど小さな女の子がいる。」

しかしこのマリア様は、小さなマリア様は、悪魔を踏み砕く時に、どれほど悪魔が屈辱を受ける事でしょうか。

54番では、1つの敵対ではなくて、複数の敵対について考えています。「悪魔の陣地とイエズス様の陣地の2つには、どれほどの敵対とどれほどの対立があって、和解する事ができない」という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは説明しています。悪魔とマリア様の対立も同じように、悪魔の軍隊とマリア様の軍隊の対立です。現代において、悪魔の軍隊はほとんど全能であるかのように力を付けています。

黙示録にはこう書かれています、「獣の軍隊は、この地上を全て支配している。全ての民族、全ての言語、全ての民を支配する。」(黙示録13章7節)マリア様のイエズス様の軍隊はますます小さくなって、ほんの残されたものだけしか残っていなくなります。預言者エリアが天主様に、「もう全ての人が皆バアルの方に行ってしまって、もうあなたを信じる者がいなくなった」と言う時に、天主様は、「7000人がまだ残っている。この7000人はまだ、このバアルの前に膝をかがめなかった人たちだ」(列王上19章18節)と言います。

士師ゲデオンが戦う時には、イスラエルが攻撃を受けた時には、ほとんどの軍隊が残っていませんでした。巨大な敵の数に比べてイスラエルは、ほんの数千人しか兵士がいませんでした。しかし天主は言いました、「それは多すぎる。『恐れる者はもう帰って良い』と言え。」(判事の書(士師記)7章2-3節)ものすごい敵の数に比べて、戦おうと思ったのは300名だけでした。

時の終わりも同じ事が起こります。謙遜なしもべたち、貧しい子供たちが残ります。この世の目には全く馬鹿馬鹿しい、考慮にも値しないような数です。「しかし、」聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「しかし、この小さな軍隊が、この世の勢力に対して勝利する。」人間の言葉で言えば、人間的な観点から言えば、私たちはもう負けたも同然です。しかしこの少数が、大きな悪魔の大軍に勝利を収めます。

では、それから教訓を得る事にします。マリア様の力がどれほど強いか、という事をこの世に見せつける為に、悪魔の破壊の装置が最高の度合いに達するのを、私たちが罪に陥るのを誘惑する度合いを最高度に増すのを許します。この世がかつて見た事がない、究極の最も悪魔的なサタン的な攻撃が私たちに行なわれるでしょう。しかしこれについてはもう、既にイエズス様も仰いましたし、何度も預言された事ですから、私たちはびっくりする必要はありません。天主様はこの最も深い時が来るのを許されます。全てが失われたと思われる時が来ます。それには1つの理由だけがあります。それは、「この闇に、真っ暗闇に光が、インマクラータの光が輝く、その対照を見せつける為」でした。

このグリニョン・ド・モンフォールの最後の数行は、今現代、最後の時を生きている私たちに関わる事です。どうぞ55から59番を黙想するようになさって下さい。この講話が終わったら、ここの番号の55から59番を黙想なさって下さい。

この世が見た事がない、最も危険な時がやって来ます。ですから本当に驚くべきやり方で、マリア様は私たちを助けにやって来ます。厭わしいものの憎むべきものが、母なる教会をコテンコテンにしてしまいます。全ての国々が竜のイデオロギーに落ちてしまいます。この時こそ、マリア様の助けを必要としています。もしもマリア様への信心がないのならば、マリア様がいらっしゃらないならば、このような誘惑に、このような攻撃に、私たちは立ち留まる事ができません。

他の時代であれば色々な、私たちを助ける為に色々なものが存在していました。しかし終末では、マリア様しか残っていません。カトリックの時代のアイルランドとかポーランドとか、あるいはラテンアメリカの人は、皆が信心深いカトリックとして生きていました。それが普通の事でした。1日に3回、どこでも教会の鐘が鳴って、御告げの祈りをするようにと招いています。主日毎に誰もが彼もが教会に行ってミサに与ります。毎週告解に行くのは普通の事で、皆が行っています。

カトリックの国では、家族に関する法律もカトリック的でした。聖なる司祭、聖なる人々がたくさん生きていました。街を歩けば、この国の為に、あるいは地域の為に、献身的に働く修道者や信心深い方々がたくさん働いて、それを目にする事ができました。またカトリックの書籍や、この色々な書き物がたくさんすぐに手にとって、何でも読む事ができました。熱心な教区司祭、あるいは修道者たちは、長上等は「さぁ、もっと一生懸命働きなさい」と、そのような司祭たちを応援していました。しかしそのような環境においては、救霊はより簡単に、容易にする事ができました。

しかし終末の時代においては、カトリックの文明を根こそぎ破壊してしまって、そのようなものがもはや残らないようにしてしまっています。天主の掟に従った法律を守っている国がもう無くなってしまって、ただ人間、フリーメイソンの立てたような、人間の権利だけを主張する法律が支配しています。

この建物の中にも若い人たちがたくさんいます。この彼らの為にもお祈りして下さい。この学生さんたちは、一体何の為にこの自分が生まれて来たのか、創造されたのか、そのものすごい宝を全く知らないでいます。ただ物質の事だけ、そしてあるいはこの地上の快楽だけの事を考えて、そして動物と同じような感じで生活しています。もしかしたら私たちも昔は、同じような状況に生活していたかもしれません。この学生さんたちがマリア様を通して真理への道を見出すのは、本当に奇跡です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは「愛の炎の実り」という祈りを作ります。300年以上前に、聖グリニョン・ド・モンフォールはこう書いています、「彼らは天主の掟を破った。」聖グリニョン・ド・モンフォールは、かつてカトリックの恵みにあった国について書いています。「彼らは福音を打ち捨てた。邪悪の大きな波が世界を洪水で埋めてしまった。」「不信が玉座を占めてしまった。御身の至聖所は瀆聖された。厭わしいものの憎むべきものが聖なる所に立ってしまった。」

聖グリニョン・ド・モンフォールはおそらく、現代について何かビジョンを見たに違いありません。聖グリニョン・ド・モンフォールは18世紀の始めにこの本を書きます。1712年にこの本は書かれました。しかしこれが書かれて後150年間、これはどこかに失われてしまいました。もしも私の記憶が正しければ、この本は1859年に発見されました。

1846年に、マリア様はラサレットに御出現になります。ラサレットでマリア様は子供たちに秘密を教えます。この秘密は子供たちによって1853年に書かれました。この秘密はメラニーによって書かれました。1853年に書かれた秘密は教皇様に手渡されましたが、これは失われてしまいました。そこでラサレットの神父様たちは、「これは間違っている。これは嘘だ。これはでっち上げだ」と言ってしまいました。

ところで、1980何年かに、歴史資料としてバチカンのアーカイブを閉ざされた文章たちを公開する事を許した時に、1991年に発見された小さな紙があって、それは1853年に書かれたラサレットの秘密の文章でした。1853年にメラニーが書いた、この秘密が書かれた時には、彼女はグリニョン・ド・モンフォールのこの真の信心について知識があったはずはあり得ませんでした。

ところで、聖グリニョン・ド・モンフォールが書いた終末の時代の描写と、メラニーが書く終末の描写は、全く同じ言葉を使っています。この終末の時代については非常に大切な事です。

この終末の時代には全ては、全てのキリスト教的なものは破壊されてしまいます。多くの人々は自分の信仰を捨てて、それから目を背けてしまいます。多くの司祭はそれを、本当の宗教から遠ざかってしまいます。悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちさえも、天主から離させてしまいます。この盲目さはあまりにも大きいので、このような聖別された人でさえも、堕落した天使の精神を受け入れてしまいます。そして悪い本はどこもかしこにも広がって、悪い影響をどこにも与えています。これがラサレットのマリア様の言葉です。

ラサレットのマリア様によれば、「偽りの平和がこの世界を支配するだろう」と。「人々は自分の快楽の事しか考えないだろう。」「邪悪な人々は色んな種類の罪を犯す事を楽しむだろう。」「悪魔は空中に色々な不思議な業を行なうだろう。」「人々はますます邪悪になるだろう。」「しかし天主様は、忠実なしもべたちを打ち捨てないだろう。」

ラサレットのマリア様は、「イエズスとマリアの使徒たち」「私の使徒たち」という言葉を使います。これは聖グリニョン・ド・モンフォールが言ったのと同じ、「イエズスとマリアの使徒たち」という言葉を使っています。

終末の時代で、この事を理解して、この事を知った人は、多くの人々の中から選ばれた人です。日本において1億何千万人いる中で、ここにいる20人30名の皆さんは、特別に選ばれた召し出しを持っている方です。「マリア様を知る」という召し出しを持っている方です。

55番をご覧下さい。このような時代に天主様は、この事をお望みになっています。「おぉ、私の御母よ、御身は私を望んでいます。私があなたの事をますます知る事をお望みになっています。御身の事をますますをお愛しする事ができるように助けて下さい。かつてなかったほどに御身を崇敬する事を望んでいます。」このように選ばれた人たちは、自分をマリア様の元に奉献して、マリア様のものとして奉献致します。

では、この意味はどういう意味なのでしょうか?「マリア様、私はあなたがどなたであるか理解するお恵みを得ました。マリア様の信じられないほどの重要性を理解する恵みを頂きました。マリア様、あなたのパーソナリティ、そしてあなたの御心のその偉大さ、素晴らしさを私の前に明らかにして下さいました。イエズス様がその事を御望みなのですから、私は今、御身を選ばなければなりません。イエズス様は全ての事を、あなたを通して私に与えようと望んでいます。イエズス様は、御身が私の母である、また私の元后である、女王であるという事を望んでいます。ですから、私はただ1つの事をしなければなりません。これを受け入れる事です。」

「母親を受け入れる」とはどういう事でしょうか?つまり、お母様の子供として生きる、という事を受け入れる事です。

「誰かを女王として認める」という事はどういう事でしょうか?それは、この方の忠実なしもべとして、忠実な騎士として、忠実な奴隷として働く、という事です。

「聖母マリア様、御身は私に何をお望みですか?この恐ろしい時代に、あなたは私に何を下さろうと望んでいるのですか?」

“その時、私はマリア様の母性的愛の甘美さと慈しみを、ひしひしと実感するでしょう。御身は私があなたに愛し返す事を許す事でしょう。”

聖グリニョン・ド・モンフォールが、「彼らは」とか、「この人たちが」という時には、皆さんは「私が」と翻訳して、自分の事として読んで下さい。そしてこの終末の兵士たちが選ぶべき剣を頂いて生きる事になります。

では56番です。ではそのような選ばれたマリア様のしもべ、マリア様の子供はどのような人でしょうか?

まず、その数は多くありません。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「この人たちだけが救われる」とは言っていません。マリア様のしもべたちが、多くの人々の為の救いの為に祈って戦うので、多くの人が救われるでしょう。しかし、この最後の最後の瞬間に救われるような人というのは、マリア様の為にたくさんの事をしたというわけではありません。

皆さん、戦いに挑むの兵士の事を考えて下さい。戦いにおいて、皆さんは戦って、戦って、戦います。そして戦いの時に、戦って、戦って、多くの人々を捕虜にします。そしてこの捕虜、敵の軍隊として戦っている人たちを捕虜として、そのような人たちを敵の罠から救ってあげるのです。

それと同じように私たちも、戦って、戦って、彼らの為に祈る事によって、敵の手から救い出す事ができます。知らず知らずにして、このような人たちは悪魔の軍隊に属してしまっています。しかし皆さんマリア様の騎士たちが、そして多くの騎士たちが、この霊魂たちの為に祈り、戦う事によって、これらを救う事ができます。最後に回心の御恵みを頂く事ができるからです。そのような助けられた霊魂たちは、皆さんの幸せな捕虜です。彼らを殺す代わりに、彼らを永遠の命へと皆さんもたらすのです。

しかしこのような人たちが、この世の救いの為に戦うのではないのです。このマリア様の勝利の為に戦うのは、300名のゲデオンの兵士たちです。このような人たちはどのような人でしょうか?

「しもべ」、「マリア様の家来」、「マリア様の子供」です。これが他の人々と区別するしるしです。イエズス様のこのしもべたちが、主の召使いたちが受けるこのものは、ちょうど詩を読んでいるかのようです。

「私は、親愛の炎を、地上の至る所に転じて歩く人となる、燃え盛る炎を地上の至る所に。なぜなら私は、マリア様の忠実な道具となって、マリアが手にしておられる鋭い矢のようになるからです。これによって御自分のマリア様の敵を打ち倒す為に使われる道具となる。そして私は大いなるこの火で浄められる。」

これは美しい映画を見ているのではありません。美しい夢を見ているのでもありません。皆さんベッドに横たわって、こう夢を見ながらヒーローになるのではありません。マリア様に本当に属するのならば、マリア様は皆さんをヒーローとします。

はい、皆さんは大いなる苦悩の火で浄められるはずです。苦しみを通らずにして天国に行く人はこの世ではありません。マリア様は皆さんの心に愛の黄金を置きます。祈りの乳香を、精神を置きます。体には苦行の没薬を与えて下さいます。黄金と乳香と没薬、これは3人の博士がイエズス様に与えた贈り物でした。これは3人の博士たちが、マリア様にまず贈った贈り物でした。マリア様は今度は、この受けた贈り物を皆さんに返して下さいます。

なぜでしょうか?なぜかというと、皆さんの心の中に、イエズス様が生まれるのを望んでいるからです。マリア様は、皆さんの中で皆さんが生きるのではなくて、イエズス様が生きるのを望んでいます。皆さんがイエズス様の生きる神秘体の一部となる為です。イエズス様と一致すれば一致するほど、皆さんは黄金と乳香と没薬を受けるのです。皆さんは、このイエズスの芳しい香りを、貧しい人、小さな人々にもたらします。しかし皆さんは死の香りを、死の匂いを、この世の富んだ人たち、傲慢な人たちにもたらす事でしょう。

「どこによってでしょうか?私はいつも家の中にいて、ほとんど外に出る事はありません。私が知っている人はもう5本の指で足ります。私の話を聞くのは私の家の壁だけです。この世の富んだ人、偉い人、傲慢な人たちの名前さえも知りません。」

でも皆さんはそれをする事になります。それが皆さんの行動です。これが、皆さんが「祈り」をする時になさっている効果です。あるいは「小さな犠牲」を捧げた時の効果です。ここで出会うこの学生さんたちや子供たちに微笑んで、彼らの為にお祈りをする時の効果です。そうする事によって、芳しいイエズス様の香りが、この霊魂たちに入り込む事でしょう。

この57と58と59を見ると、マリア様のしもべがどうなるか、という事がますますよく分かります。57からは特に、イエズス様の司祭、あるいは修道者となる霊魂たちについて表現しています。しかし、皆さん一人一人は、「この使命の一部となるように招かれている」とは何でしょうか?“これは全世界を駆け巡る雲、雷を伴う雲のようなものでしょう。”どういう事でしょうか?

これは、「聖霊が、皆さんをしてする事を望んでいる事だけを、皆さんがする」という事です。皆さんが今そうである利己主義がますます少なくなるように、マリア様は奇跡を行なって下さいます。皆さんはますます、今から何をすべきなのかはマリア様にお尋ねになる事でしょう。マリア様のお望み、マリア様のご意向をますます知るようになって、そしてそれを知ったらすぐに実行するようになるでしょう。もしも望みならば、マリア様の軍隊に属する人がどのようであるかを表現しています。

“いかなるものにも愛着せず、地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気を留めず、ただ天主の御言葉と、永遠の命の雨を、洪水のようにこの地上に降らせるでしょう。”

このマリア様との一致を、マリア様は皆さんに望んでいます。すると皆さんはますます自由になります。

皆さんが今まで長くそうであったのですけれども、この無である自分にあまりにも愛着しすぎる、という事が無くなります。皆さんのお金とか、皆さんの都合、皆さんの快楽とかというものから解放されます。皆さんの馬鹿馬鹿しいパーソナリティとか、この「私の何とか」というものから解放されるようになります。

そして皆さんは何ものにも驚きません。なぜかというと、皆さんはもう既に、最悪の事が何かを知っているからです。皆さんは既に、十字架と犠牲をする覚悟ができてるからです。

何も気を止める事もありません。なぜかというと、マリア様において慰めがあるからです。「全ての事は早く終わってしまう」という事を、マリア様が私たちに教えてくれるからです。

ですから、このように解放されると、洪水のように、天主様の御恵みをこの地上に降らせる事ができるようになります。するとマリア様は皆さんを、この地上に嵐の御恵みを下さる為に使う事ができるようになります。

悪魔は皆さんを恐れる事でしょう。幼きイエズスの聖テレジアはこのビジョンを見ました。悪魔は幼きイエズスの聖テレジアを見ると、それを恐れて逃げ去ってしまった、というのを見ました。聖人は悪魔にとって恐ろしい力を持っています。悪魔と悪の人々に対して何も、皆さんに悪をする事ができません。

この事をよく黙想して下さい。これはマリア様が皆さんになってもらいたい、という理想の姿であるからです。これは皆さんと私の生活のプログラムです。それを少しずつ実現するように望まなければなりません。

では、どうやったらこういう風に行動する事ができるでしょうか?

求めて下さい。でもこれを、マリア様が皆さんのところに実現する事を望んでいる、という事を知って下さい。皆さんの生活において、マリア様がなさるべきその役割だからです。マリア様は罪人から聖人に変える役割を持っています。マリア様は回心と聖化の御恵みを与える役割を持っています。

でも終末の時代には、マリア様は大聖人を作る事を望んでいます。59番をご覧下さい。本当に美しくて、慰めを与えて、力を与えてくれる言葉が書かれてます。本当のイエズス・キリストの弟子。

「マリア様、御身のおかげで、御身によって、私は本当にイエズス様の真似をする事ができます。私はマリア様のおかげで、福音に従って天国への狭い道を歩く事ができます。この世のことわざ、この世の知恵、この世の考え方に従ってではなくて、イエズス様の福音に従って、理想に従って、生きる事ができるようになります。私の気絶しそうな弱々しい心を強めてくれます。誰にも邪魔されずにこの道を歩む事ができるようにしてくれます。誰も恐れる事なく、世間体を恐れる事なく、右手には十字架像、左手にはロザリオを付けて、心にはイエズス様の御名と、マリア様の御名を刻んで。」

この言葉は、ぜひ皆さん覚えて下さい、「私の理想、私の人生は、右手には十字架像、左手にあるロザリオ、そして心にはイエズス様とマリア様の御名。」

私の心臓は毎瞬間、鼓動を打っています。「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救いたまえ。」「右手には十字架像、御受難のイエズス様、ミサの聖なるいけにえ。左手にはロザリオ。イエズス様の御生涯とマリア様の御生涯は、いつも私の心にある。ロザリオのこの鎖は、マリア様と私を結び付ける鎖であって、マリア様のしもべとして奴隷として、いつもくっ付いているロザリオ。」

聖ピオ十世会の本当の名前を知っていますか?外的な名称は、「聖ピオ十世司祭兄弟会」と言いますが、しかし本当の名前は、『イエズスとマリアの使徒の会』。ルフェーブル大司教様はこの名称を、「ラサレットのマリア様と、聖グリニョン・ド・モンフォールから取った」と説明しています。

このようなここに書かれた事を、実は私たちは皆さんに、行動で皆さんに示さなければなりません。ルフェーブル大司教様は、私たちがこの終末の使徒の生ける模範であるという事を望んでおられました。しかし私たちは、お互いに顔を見合わせて、「何という恥ずかしい事か。その理想から程遠い」と赤面するばかりです。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、これを300年前に書かれました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「一体この時がいつ来るのか、いつ実現するのか、私は待ち望んでいる」と思って書いた事でしょう。天国から聖グリニョン・ド・モンフォールは、「遂に時がやって来た。その終末の使徒たちがここに地上に生まれて来た!」という事を見て、どれほど喜んでいる事でしょうか。これが皆さんをして、マリア様が皆さんを使って、実現する事ができる理想の姿です。マリア様はこれをできるのみならず、マリア様は皆さんがこうなる事を望んでおられます。マリア様は、皆さんがこの終末の時代に生きる、という事をお望みです。マリア様は皆さんに奇跡を起こして、皆さんが聖伝の事を知る事ができるようにされました。聖グリニョン・ド・モンフォールが話しているこの宝物を、皆さんの前に今見せています。これはどうしても明らかな、マリア様からの皆さんへの呼びかけです。

マリア様はこのお恵みを、ただ捨てるだけに皆さんに与えたのではありません。これは小さなただ本を読む為だけのものではありません。マリア様の心からの皆さんへの呼びかけです、「我が子よ、我が娘よ、あなたの番ですよ。」

では、どうしたら終末のこのような使徒になる事ができるでしょうか?このここに書かれている理想像が、私たちにおいてどうやったら実現する事ができるでしょうか?

ここから続くページにおいて、その秘訣を聖グリニョン・ド・モンフォールが説明しています。その、どうやったらそういう風になる事ができるかは、明日から黙想する事にします。

今、皆さんの心には、ものすごい熱情と大きな望みでいっぱいのはずです。皆さんが今から黙想する事はそれほど多くありません。今からこの黙想は、この55から59を黙想して下さい。しかし夕方お休みになる前に、もう一度49から59番をお読みになって下さい。
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2018年10月21日 聖霊降臨後第22主日のミサ説教 「正義の徳について」

2018年12月07日 | お説教・霊的講話
2018年10月21日(主日)聖霊降臨後第22主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会のようこそ。
今日は2018年10月21日、聖霊降臨後第22主日です。

明日は7時からミサがあります。今日は14時半から公教要理がありますが、特に次のミサの為の聖歌の練習をしたいと思っています。16時からは晩課があります。

11月のミサは少しイレギュラーになっております。第一の主日と最後の主日になっています。


「チェザルのものはチェザルに、そして天主のものは天主に与えよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日ミサが始まると、聖歌隊は、“Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?”「もしも御身が邪悪に目を止めるならば、誰がそれに耐える事ができるでしょうか?」と歌いました。

ますます教会は、最後の審判について、私たちの人生の終わりについて、この世の終わりについて、黙想を深めるように招いています。あたかも、審判の裁きの座に入ろうとする霊魂の歌を歌っているかのようです。この地上の短い逐謫(ちくたく)の身において、私たちは天主の助けを求めたいと思います。

そこで、聖パウロは私たちに、「私たちが正義の実りの実に満ち溢れるように」と勧告し、そしてイエズス様は今日の福音で、「チェザルのものはチェザルに、王に属するものは王に、そして天主に属するものは天主に与えよ。」
つまり「正義」の事について話しています。私たちの義務について、私たちの聖徳について話しています。

そこで、特に、「チェザルのものはチェザルに与える、天主のものは天主に与える、という事は、一体詳しく言うとどんな事になるのか?」という事を黙想する事を提案したいと思います。

もちろん、「天主のものを天主に与える」という事は、これは「愛徳」です。しかし別の意味で、「天主のものを天主に返す」というのは、これは「正義」でもあります。

「愛徳」というのは、たとえそれが私たちの義務ではなかったとしても、私たちはそれを、その善を愛するが故に、その善を望むが故に、愛するものを追求する事です。しかし「正義」の徳は、それがなされて当然だから行ないます。

そこで今日私の提案するのは、特に天主に対して当然なされるべき「正義」の徳についての黙想です。

「天主を愛する、たとえ義務でなかったとしても愛する」をはるかに超えて、その土台にある、「天主に当然私たちが捧げなければならない、返さなければならない義務がある」という事です。

そこで今回は、ではその天主に当然返さなければならないものは「正義」と言われますけれども、

⑴その「正義」というものは一体何か?という事を簡単に黙想します。

⑵その次に、その正義を達成する為に、天主には一体どのようなものがなされるべきか?という事を黙想して、

⑶最後に遷善の決心を取る事に致しましょう。


⑴「正義」というのは、私たちがそのなさなければならないものを、他者に対して等しく変換する事です。等しく帰属させる事です。

例えば、「誰かが1万円を受け取らなければならない。なぜならば、1万円に相当する価値のものを私は受け取ったからだ。その為に私はその人に1万円を与える。」これが正義です。

もしもある人が、1万円の価値のあるものをもらったにも関わらず、私はそれを与えなかった、あるいはちょんぼした、不足して与えた、というのは、これは正義に欠ける事になります。不正をなす事になります。

そこで、正義の徳には2つの要素がある事を知って下さい。

1つは、「当然なすべきもの」という概念です。なされるべきもの。

もう1つは、「イコール関係、等合関係、等しいもの、それに等しい事」という事です。それを他者にする事です。負い目を、義務を、等しく正確に、それだけ、多くもなく少なくもなく、それだけ返す、それだけ与える、これが正義です。

ところで、この私たちの人間生活を送る中に、社会においては、その正義を等しく等号関係で与える、という事ができない部分があります。その等合関係ができないけれども、それにあまりにも不足しているけれども、それでもできる限りをする、というところに、その対象に、「天主」があります。

天主からは全てを受けているので、私たちは全てを返しても、まだそれでも足りません。そこで、天主と私たちの関係は、正義の関係ですけれども、完全な正義ではありません。完全な等合が成り立たないからです。ですからこのような関係の事を、「宗教の関係」と言います。

もう1つあります。それは「親子」の関係です。親から私たちは命を受け、教育を受け、色々な援助を受けました。それで親にはその事を感謝して、それにお礼をしたいのですけれども、お礼をし尽くす事ができません。そこでこの親子の関係は、孝行の関係であって、ラテン語では“pietas(ピエタス)”と言います。

実はまだあるのです。この社会が成り立つ為には、この社会に徳のある人たちが、良い人たちが存在しなければなりません。その良い人たちが当然受けるべき称讃とか、あるいは感謝とか、あるいは治世者、あるいは上に立つ人たちに対しては、敬意が払われなければなりません。

ところがその私たちが、その善行や良い行ないに対して、それに等合関係の敬意を払い尽くす事ができるとは必ずしも限りません。私たちが与える事ができるのは、賞状とか、金メダルとか、その程度のものです。

ですからその等合関係が必ずしも成立していない、しかし正義は私たちに何かをする事を要求する、という事があります。

もう1つは、私たちがどうしてもしなければならない事であって、これは2つの種類があります。

「法律で決められているからしなければならない事」と、もう1つは、「法律で決められていなくても、私たちが誠実であるが為に、私たちが善徳を持っているが為に、私たちが徳のある人であるが為に、私たちが良識があるが為に、私たちが文化人であるが為に、道徳的にそうする必要性があるもの」です。

そして、その「法律でたとえ決められていなかったとしても、当然私たちがして為すべき」というものにはいくつかあります。

一番私たちがしなければならない義務というのは、「真実を語る事」です。

いつも、正確に、その事実通り、現実の通りに真実である、という事です。これは私たち皆が負っている義務です。

もしも私たちがその真実に現実に反する事を、「そうだ」と主張する事は、これは社会を崩壊させる事です。例えば、「人間はイヌと結婚するとかが当然の事である」とか等です。

あるいは「当然のものを受ける」ということです。

例えば、「善をした人は、これはその称讃を受けるべきである」とか、「悪をした人は罰せられるべきである」という事は、社会が成り立つ為に、真実を語ると共に必要な、私たちの正義をする為に必要なものです。「良いものには賞賛を褒美を、そして悪には罰則を。」これが正義です。

それほど厳しい義務、厳しく私たちが支払わなければならない、というわけではないけれども、しかし私たちが良ければ良い人であるほど、徳があれば徳があるほど、崇高であれば崇高であるほど、私たちが当然なさなければならないものもあります。必ずしもこれがなければ社会が成立せざるを得ない、というわけでもないのですけれども、しかし当然すべきものがあります。

それは、目上の人に対しては私たちは申しました、「孝行」とか「宗教」とかあるいは「敬意」などですが、同じ人には、「友情」とかあるいは「調和」とか「穏やかな関係」とか、あるいは目下に対しては子供たちに対しては、「愛情」とかあるいは必要であれば「援助」とか「助け」とか「救済」などが必要です。これが正義の徳ですけれども、特に『宗教』について私たちは見る事にします。


⑵「愛徳」は、天主を直接にその目的として愛す、それを天主を最高の善として愛する事を、その徳の行為とします。

ところが「宗教の徳」というのは、正義の徳の一部としての宗教の徳、宗教は、この全ての善の源であって、私たちが究極的に帰らなければならない、最高の究極の目的である天主へと私たちを秩序付けるものであって、そしてこの天主のその素晴らしさ、その憐れみ、その良さ善良さ、その正義、その大自然をはるかに超えるその崇高さに対して、私たちは当然なすべき感謝や、礼拝や、あるいはいけにえ、祈り、黙想などを捧げる事にあります。

ですから、「愛徳」と「宗教」の違いというのは、愛徳の直接の対象は「天主」であるとすると、宗教の直接の対象は「天主の素晴らしさ」にあります。そしてこれに対して当然なすべき礼拝を捧げる事にあります。

カトリック教会の教えの下で、全ては、法律も、経済も、社会も、教育も、家庭も、福祉も、全社会が、この天主を頂点とする秩序に基づいていました。そしてカトリック教会の教えによって、当然、「親に払うべきものは孝行。そして社会の長上に対しては敬意を。天主に対しては宗教を、真の宗教の礼拝を捧げるように。心と体を以て捧げるように。そして王でさえも、高貴な者も、貧しい者も、男も、女も、全て天主に捧げるように、礼拝を捧げるように」と指導してきました。

唯一の天主、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会の下で、人間は幸せに生活する事ができました。

しかし、もしもこの天主へのなすべき、この当然なすべきものをされないとしたら、それを最初に大きな運動として、しない事を始めたのは、マルチン・ルターでした。「ミサを廃止しよう。そして教会の代わりに聖書にすげ替えよう。そして聖伝あるいは教導権の代わりに、自分の理性で、自分の自由解釈ですげ替えよう、取り替えよう」としたところから、社会は不幸へと道を始めてしまいました。

結局は、「信仰から切り離された人間の理性が社会を作ろう」あるいは「人間の経済的な利益だけが、全ての測りだ。だから社会は、国家は、他の人が自分の利益に邪魔をしないように、自由を守るだけで良い」等として、その反動として、共産主義が起こったり、その他のイデオロギーが起こったのは、私たちはよく知っています。


⑶では、イエズス様は私たちに、この典礼暦の終わりに、何を教えようとしているのでしょうか?

この世の終わりの裁きの日には、そして私たちの人生の終わりにも、この正義について私たちは裁かれます、「天主に捧げるものを、捧げたか、否か。」

私たちの人生はどうだったでしょうか?

マリア様にぜひ御取り次ぎを願いしましょう。私たちが主を愛して、全てに越えて主を愛し、そして天主に捧げるべき、当然捧げるべきものをできるだけ捧げる事ができますように、最高の礼拝と、祈りと、感謝と、讃美と、そして罪の償い、祈りを、黙想を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2018年10月9日(火) 証聖者聖ヨハネ・レオナルドのミサ説教 「イエズス・キリストという本当の薬」

2018年11月25日 | お説教・霊的講話
2018年10月9日(火)証聖者聖ヨハネ・レオナルドのミサ
小野田神父説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年10月9日、証聖者聖ヨハネ・レオナルドの祝日です。

16世紀に、イタリアのルッカ共和国という所に生まれました。そこで1609年10月9日の今日、約400年前の今日、霊魂を天主に捧げました。

⑴この聖ヨハネは、どのような司祭であったのかを黙想して、

⑵私たちに、現代、どのようなメッセージを送っているのかを黙想致しましょう。

⑶そして私たちは、遷善の決心を立てましょう。


⑴聖ヨハネは、7人の子供の一番最後として生まれました。そして子供の頃から頭が良くて、薬剤師になる為に勉強しました。薬剤師の試験を受ける為に、その授業を一生懸命勉強して、非常に優秀な成績で薬剤師の資格を取るのですけれども、その時、資格を取ってそして薬局を手にして、しかしその時に、「本当に、私の人生はこれで良いのか?」と思い、祈りをしました。

「確かに薬は良いもので、病の人に必要である。しかし人類が最も必要としている薬は、イエズス・キリストだ。イエズス・キリストがなければ、人類は、本当に健康にはならない。イエズス・キリストにおいて、全ての薬が入っている、全ての解決策がある。イエズス・キリストがなければ、人類は本当の健康に至る事はできない。」

そこで、司祭職を目指す事にしました。「自分の目指している本当の薬剤師というのは、イエズス・キリストを与える薬剤師だ。」

晴れて司祭となり、そして初ミサを立てて、霊魂に薬を与えよう、本当の薬を与えようと、人生をその為に尽くしました。

聖ヨハネがいつも言っていた事は、「イエズス・キリストこそが、私たちの一番であって、中心であって、全てである。イエズス・キリストが人生の判断の基準でなければならない。私たちが何をするにも、何を考えるにも、イエズス・キリストを定規にして、イエズス・キリストを基準にして考えなければならない。」「この世では、イエズス・キリストか、そうではないか、その二つしかない。」

ところで、「イエズス・キリスト」という本当の薬を知らない、多くの病の人々が世界中にたくさんいる、という事を知った聖ヨハネは、「本当の薬であるイエズス様を霊魂たちに与える為に、本当の薬剤師として何をしなければならないのか? それは宣教だ。薬を全世界に送る事だ。薬剤師、本当の薬剤師をたくさん作る事だ」と言って、そしてヨハネ・バプティスタ・リヴェス司教とイエズス会士のマルティン・デ・フネスと共に、宣教をする会を、「天主の御母修道会」を創りました。

そして教皇様と共にローマと共に、プロパガンダ・フィデイ、宣教聖省を作り、また聖ウルバノ大学、宣教布教大学の創立にも全力を尽くしました。この宣教聖省、またウルバノ大学から、多くの司祭たち、宣教者たちが養成されて、殉教者も輩出しました、たくさん出ました。

ルッカ共和国のそのカテドラルには、イエズス様の御顔のイコンがあるのだそうです。聖ヨハネはいつも、そのイエズス様の御顔の下で、イエズス様という本当の薬を全世界に送るその事を、イエズス様の事だけを、イエズス様の栄光を、イエズス様の為の奉仕を、イエズス様の利益をのみ考えていました。

教会はその時、プロテスタントの宗教革命、改革と言いますが、それによって、「教会を改革しなければならない!」と叫ばれていた時期でした。その時に聖ヨハネは、「本当に私たちが改革するならば、私たちはまずイエズス・キリストを中心に置かなければならない。イエズス・キリストか、無か、そのどちらかだ。そしてこの改革は、トップから、長上から、上から始まらなければならない。」

聖なる司祭、聖なる修道者、それを、イエズス・キリストの為の司祭たちを追求しました。そして聖ヨハネは人類に、「イエズス・キリスト」という薬を、本当の貴重な薬をもたらしたのみならず、多くの司祭たちを生み出して、聖なる司祭たちを生み出して、教会を素晴らしく改革する為に大きく貢献しました。


⑵私たちには一体、どのようなメッセージを送っているのでしょうか?

聖ヨハネの人生は極端だったのでしょうか?そうではありません。21世紀のカトリック教会に必要とされているのは、まさに本物の薬であって、本物の改革であって、本物の聖なる司祭です。マルチン・ルターではありません、修道誓願を立てていながらも、修道女と同棲をした、酒飲みの冒瀆者ではありません。

イエズス・キリストの御旨と、その栄光と、その奉仕のみを考え、それだけに捧げられた聖なる司祭、修道者、聖職者です。


⑶願わくは、この聖ヨハネ・レオナルドの御取り次ぎによりて、そのような司祭たちが多く私たちに与えられますように、特に日本に与えられますように、そしてそのような司祭たちが日本に多く常駐しますように、お祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2018年10月8日(月) 寡婦聖ビルジッタのミサの前のお話

2018年11月23日 | お説教・霊的講話
2018年10月8日(月)寡婦聖ビルジッタのミサ ミサの前のお話
小野田神父


聖ビルジッタはスウェーデンで生まれました。まだ10歳の時、私たちの主のご受難の説教を聞いたその夜、十字架に付けられたイエズス・キリストが血にまみれたのを見ました。イエズス・キリストはビルジッタと共にご受難について語り合ったのです。その時以来、彼女はいつも御受難を黙想して、イエズス様との親しい祈りの生活が始まりました。

ウルフォンと結婚して、そして二人で夫婦で、スペインのコンポステラ、聖ヤコボコンポステラに巡礼に行って帰るとき夫が、非常に大きな病で、死なんばかりになりました。

そこで、一生懸命お祈りをすると、聖ディオニジオが現れて、「夫は治る。しかし、その後色々な事が起こる」という事を預言しました。そしてその通りになり、ますます夫とその聖ビルジッタは信心深くなり、遂にそして夫は修道生活、そして聖女は祈りの生活に入っていきました。

夫はシトー会の修道者となると、そのすぐ後に、亡くなりました。聖ビルジッタは寡婦として、善行、貧しい人を助けたり、あるいは祈り、苦行の生活をして、遂にエルサレムに巡礼して、ローマに帰ってくると、ご自分の霊魂を天主に返しました。祈りと、愛徳と、苦行の生活を閉じました。

聖ビルジッタについては特に、御受難の黙想の保護者として有名です。
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2018年10月7日 聖霊降臨後第20主日のミサ説教 「王官の息子が、今死なんとしている」この意味を黙想する

2018年11月22日 | お説教・霊的講話
2018年10月7日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年10月7日、聖霊降臨後第20主日であり、ロザリオの聖母の記念も行なっています。

今日は月の最初の主日ですので、ミサの後に感謝の祈りをした後、御聖体降福式を致しましょう。特に今回は、聖母の連祷を御聖体の前で捧げたいと思っています。この意向は、平和の為に、日本でアジアで平和が続きますように。その次に、日本に、できれば東京に、聖ピオ十世会の修道院が建てられますように、司祭が常駐しますように。それから、日本から司祭や修道者たちがたくさん輩出しますように、という意向で、これを捧げたいと思っています。

次のミサは、10月21日と22日です。



“Domine, descende priusquam moriatur filius meus.”
「主よ、私の息子が死ぬ前に、どうぞ下りて来て下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日ミサで、このイエズス様が本当に2000年前になさった史実、歴史上の出来事を読みました。イエズス様がある王官に頼まれて、「子供が死ぬ前に、ぜひ来て下さい」とせがまれると、「私は行く必要はない。さぁ行け、子供は生きている」という、そしてその通りになった、という奇跡を読みました。

⑴一体なぜこの話が、この聖霊降臨後第20主日に起こっているのか?という事を一緒に黙想しましょう。

⑵そして、それは私たちにとってどんな意味があるのか?私たちは一体何をしなければならないのか?という事を黙想して、

⑶遷善の決心を立てます。


⑴私たちはこの前、ここでのミサの時に、「十字架のしるしが空に現れた。9月14日、十字架称讃の大祝日に、教会の空に大きく十字架がそびえるのを見た。世の終わりは近い。だから教会はこれから、私たちの霊魂を主の来臨に備えるように準備する」という話をしました。

その話が続いています。今日ここに出てくる「王官」というのは、教会の目から見ると「私たち」です。今日は「イエズス様がやって来られる」というのを聞いて私たちは、イエズス様に会いに、お願いしに来ました。この「王官の息子」というのは、大切な、私たちにとってのたった1つしかない「霊魂」の事です。

私たちの霊魂が今死なんとしている、死につつある、病にかかっている。多くの人はよく理解できていませんが、分かっている私たちには、理解できました。

なぜ病にかかって死につつあるかというと、天主の命が弱くなっているから。天主に対する渇望が、愛が弱まっているから。この地上の事を見て、背中が曲がって、天に目を上げる事ができないから。この世の泥沼の中に、罪の中に浸りきってしまっているから。鎖に縛れているようになっていて、息もできない、体が麻痺しているから。

それにもかかわらず、私たちがなぜこの病気で死につつある事を理解しているかというと、「主が早く、主が来る前に何とかこれを生かさなければならない。死ぬ前に、死んでしまう前に、何とか生かさなければならない」と気が付いたからです。なぜかというと、この福音書のすぐ次に奉献誦がありますけれども、私たちはシオンの街を思い出したからです。

私たちは今、この天の国から天のエルサレムから遠く離れた、このバビロンの河のほとりにいて、天国の事を思っています。天主様の御顔を、目と目を、顔と顔を合わせて、至福直観をする、その天主の栄光を見る、その直接に見る事のできるその日を待っています。

この世では、辛い事や、悲しい事、不正義、あるいは罪の誘惑、重い心持ち、あるいは不潔、その他の多くの邪悪がひしめいていて、何とか私たちは「そこを脱出したい」と思っています。

私たちの創られた人生の目的が完成された時には、どれほどの喜びがあるでしょうか。
お腹が空いた、喉が渇いたという時に、水を飲んだ、少しご飯を食べた、あるいは疲れている時に少し横になったら、どれほどすっきりするでしょうか。私たちが渇望している、私たちがそこに到達しなければならない所に、遂に到達した時にはどれほどの、どれほどの喜びと満足があるでしょうか。

聖ピオ十世会のフランス管区で、ビルコック(Billecocq)神父様という方が、公教要理をビデオで説教して下さっています。

ビルコック神父様に「是非これを訳したいという方がいらっしゃるので、原稿を下さい」とお願いしたら、「いや、私これ、あの、原稿なしに言っているので、原稿はない」と言って、その原稿はない割に、すごい深い内容を教えているなぁと思っていました。

そして今、素晴らしい訳によって、私たちはそれを見る事ができるのですけれども、そのそれを見た方からこんなコメントを聞きました。

「天主様が、アダムとエヴァの堕落の前に、どれほど素晴らしい状況で楽園の幸せを創ったのか、という事にびっくりした。自然は完成されていたし、超自然の御恵みもあったし、外自然の御恵みももらって、不死であって、疲れも、痛みも、病もなかった。怪我をする事もなかった。知識は与えられていた。意志は強かった。地球は温暖だった。全ては、人間が幸せに暮らすように創られていた。」

でも天主様が創ったこの地上での楽園も、私たちの故郷、帰るべきシオン、私たちの行くべき到達すべき天国と比べると、光と影のようです。泥水と、綺麗に澄んだ毬藻のある北海道の有名な湖のようです。大自然の高い山と砂山かのような違いがあります。例えアダムとエヴァが持っていた、そして今私たちが失ってしまった、その素晴らしい地上の、最初の原初の段階であったとしても、私たちの与えられるべき天国と比べたら、全く影の薄い、どんよりとした、ぼんやりとしたものに過ぎません。

私たちが待っている、私たちの故郷とするべきシオンは、天国は、私たちが目も見た事も、耳で聞いた事も、頭で想像した事も遥かに超える、壮大な幸せと、私たちの自然を全てを超える喜びが待っています。そしてその為に私たちは、この地上で生きています。

その事を思って私たちは今、私たちの霊魂は病んでいると思います。なぜかというと、そのような天国の事も、天主様の事も、超自然の事も、すっかりと忘れて、他の事しか考えていないからです。頭にある事は、憎しみとか、怒りとか、復讐とか、肉欲とかです。あまりにも動物的であって、私たちは「あぁ、病んでいるな」と思います。

「この霊魂の中から天主様への命が消えてしまう前に、何とかイエズス様に来てもらうように」と私たちは今日、イエズス様に会いに来ました。これが教会の第20主日の意向です。

するとイエズス様は、この王官に言うのです、「お前は、この世は、本当にしるしや奇跡を見ないと信じないのか。私が行ってそうやってものすごい大奇跡を起こさないと信じないのか」と言って嘆きます。そしてイエズス様は御自分の体を以て行く事を拒否します。「さあ行け。子供は生きている。治っている。」すると王官は素直に信じて、確かに、その仰った時に、「治る」というのを聞きます。


⑵イエズス様は私たちにとっては、もっとして下さいます。2つをして下さいました。

1つは、単に「大丈夫だ」と言うのみならず、本当に今日は、天から私たちの目の前に、御体を持って、御聖体としていらっしゃいます、降りて下さいます。それのみならず、私たちの霊魂を癒す為に、私たちの霊魂の中に入って、御聖体拝領で一致しようとして下さいます。御自身を私たちに与え尽くして下さいます。私たちは本当に、御聖体拝領の前に、「主よ、私はあなたを家に迎えるには足りない者です。一言仰って下さい、そうすれば霊魂は癒されるでしょう」と言わなければなりません。

その時に本当に私たちは、聖歌隊が歌うように、「あぁ、これこそ、私を慰めてくれる、この卑しい涙の苦しみの中において、私を慰めて下さるものだ」と歌わなければなりません。“haec me consolata est in humilitate mea.”

イエズス様は、御自分が直接、御体を以て私たちの元に降りて下さると同時に、今日は10月7日で、特別な形で、マリア様もこの地上に送って下さったかのようです。

ファチマでマリア様は100年前に、やはり10月13日に来られました。そして私たちに言いました、「毎日ロザリオを唱えなさい。」マリア様はファチマで御出現の度毎に仰いました、「毎日ロザリオを唱えなさい。お願いです、ロザリオを唱えなさい。」

秋田にも来られました。天から日本の地を選んで、「毎日ロザリオを唱えなさい。私だけがあなたたちを助ける事ができます。」

ロザリオを唱える事によって私たちは、私たちの霊魂の病が癒されます。なぜかというと、「天主が人となった」という事を教えて下さるからです、喜びの玄義によって。「天主は私たちの為に人となって、ベトレヘムにお生まれになって、30年間、人間としてマリア様の下でヨゼフ様の下で従われた」という事を黙想するからです。

苦しみの玄義で、「イエズス様が、人となった真の天主が、私たちの為に苦しんだ」という事を黙想するからです。そうする事によって私たちは、どれほど愛されているか、という事を知ります。どれほど天国への値が高かったか、支払われたか、という事を知ります。

そしてイエズス様の御復活と、御昇天と、聖霊降臨、またマリア様の被昇天を見ると、「あぁ、私たちも早く天国に行かなければならない。その為に、イエズス・キリストの復活、そして被昇天に従わなければならない」と掻き立てられます。

どれほど良い薬でしょうか。特に、病に打ちひしがれる私たちの霊魂にとって。

10月にはマリア様は、特別に悲しい顔をして仰いました、「もうこれ以上、罪を犯してはいけない。主はもうあまりにも多く犯され続けている。」


⑶では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

それはちょうど昇階誦、アレルヤにあるかのようです。

昇階誦では私たちは、「全ての目が、その一番良い時に食べ物を下さる主に、皆目を向いている。だからそして手を大きく広げて、私たちの主の祝福を受け入れる」と言うように、私たちも今日は、御聖体の時に大きく心を開いて主に、私たちの心を癒して下さるように、「どうぞ、私の心に降りて来て下さい。そして私が死ぬ前に治して下さい、霊魂を癒して下さい」とお願いする事に致しましょう。

第2は、アレルヤであるかのようです。アレルヤでは私たちは、「私の心はもう準備ができた。主の為に歌を歌う。」
私たちもやはり同じように、「私の心は準備ができた。10月はロザリオを唱える、アヴェマリアの歌を唱える」と。

そうする事によってこの今日、この王官のように、イエズス様に素直に従って癒しを得たこの人のように、私たちの霊魂もますます聖化されて、そして安心して家に帰って来る事ができます。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2018年10月6日(初土) 御聖体降福式での 「栄えの玄義―第5玄義黙想」

2018年11月20日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義第5玄義黙想
(2018年10月6日(初土)御聖体降福式にて小野田神父)



御聖体の秘跡の内に真に在すイエズス様の御前で、初土の15分の黙想を致しましょう。
今回は、マリア様が天と地の元后に立てられ給うた事を黙想致します。

マリア様は、10月13日、太陽の奇跡を起こされた時、まず聖家族の御姿で、次に悲しみのマリア様、そして最後にカルメルのマリア様、喜び、苦しみ、栄えの御姿で子供たちに姿を現しました。マリア様は御自分の名前を仰って、「私はロザリオの元后です。」そして、「戦争が終わるために、毎日ロザリオを唱えるように」とお願いになりました。

人類が罪を犯すのをご覧になり、非常に悲しい面持ちで、「これ以上、罪を犯してはならない。御子はもう既に犯され続けているから。これ以上天主の御稜威を傷付けてはならない」という事を、悲愴な顔でお願いになりました。

イエズス・キリスト、真の天主、真の人へと導く道。そして全ての危うい危険から私たちを守る避難所。私たちの愛すべき御母。私たちを愛してくださる御母。慈しみの母。このマリア様が、天と地の元后に立てられました。

マリア様の御稜威は燦然と輝き、あたかも太陽を着飾った婦人であるかのように、その御光は、威光は、まばゆいばかり。何千、何万、何百万もの天使たちの大群がマリア様を讃美して、この功徳を讃えて、多くの聖人聖女たちもマリア様のその愛の深さを讃えて、讃美の誉め歌を歌っています。天主御子はマリア様に、感謝と愛に満たされた祝辞と、讃美を捧げています。

マリア様の喜びと栄光はどれほど偉大でしょうか。マリア様の美しさと御光栄に比べると、この地上のいかなる栄光も、美しい花々も、金銀宝石も、どよんと濁った泥水のようにしか見えません。マリア様の御稜威はどのような美しい山々よりも高く、はるか天のはるかに及び、マリア様の御力は権威は、誰もこれを傷付ける事ができません。

このマリア様は私たちを愛するために、ナザレトで大天使ガブリエルに、「はい」と言い、「主の婢女である」と宣言し、謙遜に、清貧と貞潔と従順の生活を送られました。隠れた苦しみの生活、主を、主のみを愛する生活、主の御旨を果たす事のみに専念した御生活。

マリア様の御悲しみは、深海の最も深い、海の底よりもはるかに深く、御子イエズスと共に、その苦しみを分かち合いました。

私たちの、私たちを愛する御母。天地の元后マリア様。マリア様を信頼し、愛する理由は、あまりにも多くありすぎます。

「マリア様、いにしえより今に至るまで、御光を求めて御身に馳せ来たりたる者、一人として捨てられざりし事思い給へ。御言葉の御母、我これに信頼して御身に願い奉る。私の祈りを軽んじ給わず、全ての危うきより救い給え。天地の元后、我が母、私の拙い祈りを聞き入れ給え。天地の元后、御身のしもべはここにおります。御身は私に何をする事をお望みですか?」


では、初土の信心の要件の分は済みましたが、この黙想をロザリオを一連唱えて終える事に致しましょう。

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2018年10月6日(初土) 聖母の汚れ無き御心のミサ説教 「ロザリオと異端」

2018年11月19日 | お説教・霊的講話
2018年10月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年10月6日、10月の初土曜日です。聖母の汚れなき御心の随意ミサをしております。

今日のこのミサの後には、いつものように感謝のお祈りをして、それから聖時間を行ないます。初土の信心を行ないましょう。

そして次のミサは火曜日の夕方18時、そして水曜日の朝の6時半からです。また14日には夕方に、フォルティン神父様がここでミサをして下さいます。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、明日はロザリオの聖母の祝日で、主日と重なっているのでそのミサは捧げる事ができませんが、その記念をします。10月はロザリオの聖なる月ですので、ロザリオのマリア様について黙想致しましょう。

今回は特に、マリア様が私たちにロザリオを以て、どうやって異端に対して私たちを守って下さるのか、という事を黙想したいと思っています。

マリア様は特に聖ドミニコにお現れになって、アルビ派の異端に対して戦う為にロザリオを与えました。

イスラム教が侵入してきた時に、レパントの戦いで、1571年、ロザリオのお祈りを以て、キリスト教軍は大勝利を収めました。その勝利の記念に、この10月7日、ロザリオの聖母の祝日が定められました。1571年。

100年前にはファチマで、共産主義に対して、ロシアの誤謬に対して勝利を収める為に、その誤謬が世界に広まらないようにする為に、ロザリオを毎日祈る事、そして初土の信心をする事を、聖母の汚れなき御心に対する信心を行なう事を求めました。

ちょうどレパントの海戦でイスラム教が、トルコ軍がヨーロッパを侵略しようとしてきた時に、弱まっていたヨーロッパを侵略しようとした時に、ヨーロッパは実はプロテスタントの危機を迎えていました。そこでしかし、プロテスタントの異端が、マルチン・ルターがプロテスタントを始めた時に新しい宗教を作った時に、ロザリオの信心があった地域では、カトリック信仰が守られました。

そこで今回特に黙想を提案するのは、

⑴マルチン・ルターの主張が一体何だったのか?プロテスタントというのは一体カトリックとどこが根本的に違って、何がプロテスタントの核心の主張だったのか?

⑵そしてその主張の結果、一体そのそれから派生する結果は、結論は何なのか?

⑶それに対してロザリオは、そのロザリオを通してマリア様は私たちにどのような事を教えて下さって、どうやってカトリックの信仰を守ろうとされているのか?

4最後に、私たちはではどのような決心を立てなければならないか?という事を黙想したいと思っています。


⑴第1は、マルチン・ルターは何を言って、カトリックの信仰を破壊しようとしたのか?

それは今から約500年前、501年前、1517年10月31日に、ヴィッテンベルクという教会の門に、自分の95の主張をドアに張り付けた、そこから始まったとされています。これがマルチン・ルターのいわゆる宗教改革という革命であって、新しい宗教の始まりでした。

そしてその数年後には、たくさんのパンフレットやたくさんの小冊子を書いて、論文を書いて、それを自分の主張を言います。一体何が元々の、一体その主張の核心は何かというと、それは「人間がどうやって義化されるか、どうやって罪を赦されるか」というところにありました。

マルチン・ルターによれば、「人間は罪人であって(確かにこれは本当です)、そして原罪によって人間は堕落してしまった(確かに本当です)、」ところがマルチン・ルターの言うには、「あまりにも堕落したので、天主の聖寵によってそれを癒す事ができないほど腐敗してしまった。だから人間はどのような事があっても、天主はそれを癒す事ができない。人間は罪人であって、罪人のまま残る。だから『罪が赦される』というのは、『人間が浄くなる』という事ではなくて、ただ罪が赦された、という事にしよう。本当は罪人のままだけれども、あまりにも罪人だから、これは『外見的に、外部的に、罪を赦されたという事にする』という、内部からの(これを昔の用語で義化と言うのですけれども、義人とされる義化)内部からによる義化ではなくて、外見だけの外的な義化に過ぎない」と主張しました。

ここにマルチン・ルターの核心がありました。ですから彼によれば、「人間は同時に罪人であって、そうではない。内部で本当に腐りきっていて罪人だけれども、外見的には赦されたとされている事になっている。罪人であって、同時に罪人でないと」いう、それが彼の主張でした。

もちろんこれはカトリックの、イエズス・キリストの教えでもないし、イエズス・キリストから伝えられた使徒たちからの教えでもありません。

天主の教えは、「天主の全能は、その正義は、その憐れみは、極みまで行き、天主が人間となって、そして御血を流す事によって、罪の贖いを全て果たす事によって、私たちを内部的に浄めて下さった。聖寵を注いで下さって、そしてその聖寵によって、無限の功徳によって、本当に罪が赦される、全く浄められる」と教えています。

しかしルターによれば、天主の正義も、これによってただの紙切れ、ただの外見だけに歪められてしまって、そして本物の正義ではなくなって、本物の義化ではなくなってしまいました。


⑵その結果、その論理的な結果、何が起こったかというと、3つの点があります。

1つは、「天主が人間を外的に義化するので、人間が義人と認証されるか否か、というのは、天主とその人間との間の関係の事だけであって、そして他に仲介者は必要ない。だから人間は言ってみれば、全てが司祭である。洗礼を受ける事によって、全て天主によって外的に義化とされたと認められて、その他には司祭はいらない。」

次には、「人間はあまりにも腐敗しているので、良い行ないをする事ができないし、良い行ないをする、善行をして功徳を積む事などできない。」

最後には、「だから人間には、道徳というものは守る事ができない。何をしても、天主が『この人は救われる』と思えば救われるし、『救われない』と思えば救われない。」ですから「道徳というものはない。ただ救われたと信じれば良いし、そして信じれば救われる。善業などというものによって何か功徳を積むというのは、傲慢であって間違っている。イエズス・キリストが全てをしたので、私たちは何もする必要がない。私たちはいつまでも罪人のまま残るので、もしも救われたいなら、より強く罪を犯して、更により強く信じれば良い。」「信じる内容というのは、自分が思った事であって、そして唯一信じなければならないのは、自分が救われているという事だ。」

これがルターの主張でした。ですから彼は、自分は最初はアウグスチノ会の修道司祭でした。三つの誓願(清貧・貞潔・従順)を立てていました。ミサにも与っていたはずでした。ミサもサボっていなければ立てていたかもしれません。マルチン・ルターの伝記によると、あまりにも忙しかったので、聖務日課もミサも立てた事がなかったと思われます。

そしてその修道誓願を立てた司祭であったはずが、その革命を起こした後には、ある修道女と一緒に同棲をして、そして酒飲みの生活をして、冒涜と、口汚い、自堕落な生活を送って、死んでいきます。

最後には、あまりにも自分の教えによって多くの人々が常軌を外したような生活をしているのを見て、「これを救うには、世の終わりが早く来るしかない」と思っていました。

ルターにとって、「自分の教えとカトリック教会は全く違うものだ」という事をよく認識していました。そしてその「自分の教えが正しくて、そしてそのカトリックの教えが間違っている」という事を主張して、その間違いは『三重の壁』によって、ちょうどイエリコが、旧約聖書のイエリコの町が三重の壁によって守られていたように、「それを取り囲んで、それを壊してしまわなければならない」と思っていました。

そしてその教会を守っていた『三重の壁』というのは、「司祭職」であって、これが天主への礼拝への一致を守っていました。もう一つは「聖伝」であり、「教皇様」でした。「聖伝の教え」という客観的な教えは、信仰の一致を守っていました。また教皇様は、「不可謬の教え」によって教会の統治の一致を守っていました。

「これらを破壊しなければならない。」ですからミサに対して、あるいは聖伝に対して、教皇様に対して、非常な憎しみを持っていました。「聖書のみあれば十分だ」と主張するようになりました。


⑶ではカトリック教会の教えは、ロザリオによって、どのように守られたのでしょうか?

聖ドミニコが特にマリア様からのこのロザリオ受けた後に、多くの教皇様によって、ロザリオの祈りが勧められて励まされてきました。聖ピオ5世教皇様は特に、ロザリオの祈りを皆にお願いして、レパントの戦いでの大勝利を受けました。その後多くの教皇様たちによって、この祝日が特別な大祝日に高められいてきました。ますますロザリオが広がっていきました。励まされていました。

教会はいつも、公式な教皇様の声や、公会議の声を通して、私たちにどのようにするべきか、どのように祈るべきか、何を信じるべきかを教え続けてきました。

そのロザリオは私たちに何を教えるかというと、「イエズス・キリストの御業が、その御託身と贖いの御業によって、私たちの霊魂が内的に聖化される、義化される」という事です。

そして「その内的に義化される為に、まずマリア様がその業に協力された。その最初からマリア様が、『我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。』そして第2のエヴァとして協力された。それと同じように、ロザリオの神秘を通して、私たちも救いの御業に協力するように招かれている」という事です。

そしてマリア様の御生涯を通して、「善業というのには価値がある、功徳がある。そしてこの功徳の御恵みによって、私たちは御恵みを得る事ができる」と教えています。

ロザリオの特に喜びの玄義は私たちに、「この地上でイエズス様がその30年間、従順の生活をされた。清貧・従順・貞潔の生活をされた」という事で私たちに、「道徳、あるいは倫理、善業というものは存在する」という事を教えています。「私たちはそれを、掟を守らなければならない」という事を教えています。

苦しみの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の苦しみに自分の苦しみを合わせる事によって、自分の十字架を担って、イエズス様に付いて行かなければならない。私たちはシレネのシモンにならなければならないし、ベロニカにもならなければならないし、そしてヨハネ、マリア様のように、十字架の下に居なければならない」と教えています。

栄えの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の復活と御昇天、そして聖霊の降臨、カトリック教会、聖母の被昇天などを信じなければならない。つまり教会の権威を信じなければならない」という事を教えています。「聖書のみではない」という事を教えています。


⑷では、私たちは一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

私たちは教皇様の、歴代の教皇様の仰ったように、ロザリオを毎日唱えましょう。教会が認めた御出現、例えばルルドや、あるいはファチマや、あるいは新潟の司教様が認めた秋田の御出現では、「ロザリオの祈りを唱えるように」と勧められています。これは、私たちが自分でそう思うから、この御出現が正しい、マリア様がそう言ったのだ、と私たちが決めたのではありません。教会が、司教様が、「そうだ」と言ったので、私たちはそれを信じるわけです。教皇様たちが「ロザリオを唱えるように」と仰ったので、私たちもロザリオを唱えようとするのです。

もしも私たちが聖伝のミサを捧げているのも、教皇様がそう仰ったからです。聖ピオ五世教皇様が、このレパントの教皇様が、「このミサは、永久に有効であって、全ての司祭がこのミサを立てる義務と権利を持っている。そして誰もこのミサを変えてはいけない。このミサにはいかなる誤りもない。」(1570年7月14日 聖ピオ五世教皇 大勅令『Quo Primum(クォー・プリームム)』)

もしも私たちが、「プロテスタントの教えが間違っている」と言うのは、「プロテスタントの義化の教えが間違っている」と言うのは、それは教皇様たちが、公会議が、そのように宣言したからです。昔からの教えがそうであるからです。

もしも「正教会が、フォチウス、あるいはミカエル、というコンスタンティノープルの総大主教によって始められた離教が間違っている」と言うのも、教会がそのように言ってきたからです。

もしも「イギリスの英国教会での司祭の叙階が無効である」と言うのは、それは私たちがそう考えついた、そう思ったからではなく、教会が客観的にそのように研究して、そう判断したからです、「叙階の秘跡の言葉が変えられている。有効性はあり得ない。」

私たちはルターの、「自分がそう思ったから、それが正しい」ではなくて、「カトリック教会の教えがそうだから、歴代の教皇様たちが公会議が教えているから、私たちはそれを信じる」という立場をとっています。

そしてロザリオの祈りは私たちに、そうするその教会の教えを信じる事がより良くできるように、助けてくれます。

ですから、私たちはもしも突然、ある時突然、2000年間の教えに、2000年間の教皇様たちの教えや声にいきなり反対するような事を誰かが言ったとしたら、私たちは戸惑ってしまいます。一体、一体マルチン・ルターは正しかったのか?あるいは間違っていたのか?イギリス英国教会の司祭は本当に有効な司祭なのか?司祭ではないのか?

あるいはその他色々な、教会の当局者であったとしても、あるいは空から来た天使であったとしても、何かイエズス様からの福音、あるいは教会の2000年間の教えに反対するような事、あるいは私たちがロザリオでこう唱えて、それから学ぶような、私たちの信じている事と反対するような事を主張するなら、私たちは何をするべきか、1つしかありません。

私たちは、マルチン・ルターを取る事もできないし、アルビ派を取る事もできないし、共産主義も取る事もできないし、イスラム教も取る事もできないし、教会が「異端だ」と排斥した教えを、「あぁ、でも21世紀は、何年になったから」と言って、それを信じる事もできません。

ロザリオの祈りは私たちに、正しい、使徒継承の、聖伝の信仰を信じ、そしてそれを実践するように助けてくれます。ですから私たちはこの初土にぜひ、10月の初土にぜひ、ロザリオの祈りをますます愛して、これを熱心に黙想しつつお祈りするように、その決心を立てる事に致しましょう。その為にも、ファチマのマリア様に、特別の御恵みをお願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2018年10月5日(初金) 御聖体降福式での 「栄えの玄義と御聖体の黙想」

2018年11月18日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義黙想
(2018年10月5日(初金)御聖体降福式にて 小野田神父)


『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』


私たちの主イエズス・キリストは、御聖体の内に、復活体を以て私たちと共に留まり給う。目にはパンのようには見えるけれども、真の天主、真の人であり、私たちの為に人となり、生まれ、苦しみを受け、復活されたイエズス様は、私たちの目の前に真に在し給う。イエズス様が御望みであれば、どのような奇跡も、回心も、たった一言で与えて下さる事ができます。

『栄えの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞い願わん。』

イエズス様は、御体を以て、御自分の天主の力で、被造物の最も高い所まで昇られました。天使たち、諸聖人をはるかに超える、天主聖父の右に座し、最高の高みまで、最高の名誉まで、御自分で上がります。そして私たちがイエズス様と共に永遠の至福を受けるのをお待ちになる、天主聖父の前で、私たちの為に取り次ぎをして下さっております。

それと同時に、奇跡的に秘跡の形で、この地上にパンの外見において、天に座し給う、聖父の右に座し給うイエズス様が、私たちと共に昼夜留まり給います。イエズス様の憐れみ、愛の大きさ、こうやって私たちが遂にイエズス様と共に天に上げられる日が来るのを、私たちを養い、愛し、準備して下さろうと思っております。それにもかかわらず、私たちはどれほど冷淡で無関心だった事でしょうか。


『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて聖霊の賜物を乞い願わん。』

イエズス様は、御自分の御体を私たちに全くお与えになったのみならず、御自分の霊である聖霊を、三位一体の愛の、第三位の位格を、聖霊を、私たちに賜物として、贈り物として、プレゼントとして、与えて下さいました。私たちがいつも聖霊の導きに、動きに、従って生きる事ができるように。

イエズス様は、ここまでして私たちを、私たちに恵みを、私たちの為に与え尽くして下さるイエズス様。その返礼に人類は、冷淡と、無関心、冒瀆でしか、お返しをしようとしません。少なくとも私たちがイエズス様をお慰めする事ができる、その特別の御恵みを下さいますように。

『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』

マリア様は、聖ヨハネの立てたミサによって、御聖体拝領をしてきました。マリア様にとって毎日の御聖体拝領は、どれほどの慰めだった事でしょうか。イエズス・キリストをお愛し申し上げる糧だった事でしょうか。

しかし、マリア様の愛は、イエズス様を慕う心は、イエズス様に対するその燃える愛は、もはや肉体がその霊魂をそこに留めておく事ができないほどでした。マリア様の霊魂は、肉体をどうしても離れて、天国に向かわざるを得ませんでした。

イエズス様は、マリア様の御体が腐敗するのを許しませんでした。イエズス様は、マリア様の御霊魂と御体が、天に昇られるのを御望みになりました。そして天と地の元后として、最も高き所に上げられるのを御望みになりました。御聖体に養われたマリア様、イエズス様の御体を造ったマリア様の御体は、いとも高きイエズス様のすぐ傍に上げられました。

願わくは私たちも、同じ御聖体に養われ、同じイエズス様をより熱く愛する事ができますように。


『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』

聖母は、私たちがイエズス様をますますお愛しする事ができるように、天で祈り、見守り、イエズス様の御元で取り次いで下さっています。マリア様は地上にも現れて、例えば100年前にもファチマにも現れて、私たちがイエズス様に対してどうやって償いを果たしたら良いのか、恐ろしくも侮辱を受けている御聖体に対して、どのような償いと祈りを果たすべきか、天使を送って模範を示して、私たちに特別の計らいで教えて下さっています。ロザリオを唱える、日常の生活の祈りと、犠牲を捧げるように。

願わくは、マリア様の御教えに素直に従って、マリア様の教えて下さるその秘密を、天国において最も効果がある祈り方を、償いの仕方を、私たちが実践する事ができますように。そして一番近道に、一番効果的に、イエズス様を御慰めして、この地上に多くの御恵みをもたらす事ができますように。
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2018年10月5日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心」

2018年11月16日 | お説教・霊的講話
2018年10月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年10月5日、10月の初金曜日のミサをしています。

10月は司祭の黙想会のある為、いつも予定されている19日と20日の、金曜と土曜のミサをここでする事ができなくなってしまいました。
しかし来週火曜の夕方と水曜日の朝に、ミサがここである事になりました。

イエズス様が「ミサがあるように」と計らって下さったのだと思っています。そこでミサが、明日と、それから火曜日の夜と水曜日の朝にあります。


「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金曜日です。聖時間を行ないましょう。
イエズス様の聖心の連祷の中に、こういう言葉があります、「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。」

「天主の御言葉と合体せる」とは、一体どういう事でしょうか?どのように合体しているのでしょうか?一体その合体する事によって、何が起こっているのでしょうか?それを今晩一緒に黙想して、イエズス様の聖心には、イエズス様の聖心は、真の人間の心臓、聖心であって、同時に、天主の心臓である、聖心である、という事を理解を深めたいと思っています。この事を理解する為に、少し難しい話をする事を許して下さい。

イエズス様は、真の人であり、真の天主であります。真の天主、真の人です。真の天主であるという事は、イエズス様は天主として、その天主の本性をひとつも変える事なく、ひとつも失う事なく、完全に保ちながら、完全な天主のまま留まりながら、人間となられた、という事です。

これはどういう事かというと、ここで少し、壁を見て下さい。壁は白い壁です。でも、壁が白いか或いは赤いかというのは、全く、壁であるか壁でないかには関わりません。

でも壁が白いという事には、これには壁のどんな所にも白さがあるのです。この壁の白さがあります。それでこの「壁の白さ」というのは分解する事はできません。

そしてその壁の所にはその白さというのがあって、ある壁はその「白さ」を持っていますが、ある壁は「赤さ」を持っているかもしれません。ある壁は「灰色さ」を持っているかもしれません。

それで、「壁である」という事と、その「どんな色が付いているか」という事は、別のものだという事が分かるのですけれども、しかしその「壁」というものが土台になって、色が付いているのだな、という事が分かります。

そしてこれを例えば人間に当てはめると、人間が、ある人は日本人だ、ある人は色が白い、ある人は太っている、色々なものがあるかもしれませんけれども、「人間」というものは、たとえどうであれ、どのようなものであれ、変わらないものが土台に残っています。

そしてこの「壁」とか「人間」とかいうものは、それを何とかを「壁たらしめているもの」、あるものを「人間たらしめているもの」を、「人間の本性」、「人間を人間たらしめているもの」とします。

「天主を天主たらしめているもの」もあります。それが「天主の本性」、あるいは日本語では「神性」とも言われています。天主の本性。神性。

ところで、ちょうど人間の本性に色々な、日本人であるという事や、あるいは背が高い事である事とか、あるいは太っている事であるとか、色々な、たまたまそうなっている、というようなものが、そのような性質があります。「たまたまそう有る」と言うので、難しい言い方をすると、「偶然」の「偶」に「そう有る」という事で、『偶有』(ラテン語でaccidentia)とも言うのです。でもその名前がどうであるかは問題ではありません。そのちょうど色々な偶有は、「何であるか」(substantia)という事を元に、そうあります。色が付いたりしている、という偶有がありますが、偶有の土台が「実体」(substantia)というのです。

ところで、理性を持った存在である、知性を持った存在、「人間」とか「天使」とか「天主」というのを、それが自立して存在している事ができる、その最も中核というものは何かというと、これを『ペルソナ』と言います。あるいは『位格』とも言われています。

ギリシャ語では“ヒュポスタシス”という言葉を使って、「自立して存在している、その基礎にあるもの」というものを表現します。例えば人間が、「私である」という、この「私」のこの中核にある、この「自立して存在している」という事です。これは、偶有の土台の「実体」(substantia)と似ているのですが、少しだけ違っている言葉です。

キリストの御托身の玄義において、このギリシア語の「自立して存在している」という「ヒュポスタシス」とか、あるいはラテン語の「ペルソナ」というのは、理性を持って知性を持った、意思を持った存在に付いている、その中核の土台の事を言います。

天主の第二のペルソナ、天主の御言葉のペルソナにおいて、それを土台にして、完全な天主の本性と、完全な人間の本性とが、そこで一致して、一つになって、合体している、とカトリック教会は教えています。

ですから、天主の本性は、その合体する事によって、人間の本性と混ぜ合わさって別のものに変化した、という事もないし、人間の本性も、天主の本性と混ぜ合わせて別の本性となった、という事もないし、また第二のペルソナ、天主の第二のペルソナと、人間のイエズス・キリストのペルソナ、という別のペルソナが二つあるのでもないし、たった一つのペルソナにおいて、その中核において、二つの本性が合体している、という事を表す為に、イエズス様の聖心の連祷では、「天主の御言葉と合体せるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え」と私たちに祈らせています。

これはどういう事かというと、「イエズス様の人間の御霊魂、御体、全ては、天主の本性と全く一致している」という事です。ですからイエズス様の御体、御血、あるいはたとえそれが、霊魂が離れてしまった御受難の時に亡くなったその御体であったとしても、天主の本性に充ち満ちておられた、という事です。

御聖体の中においても、御聖体においても、天主の本性とイエズス様の御体は全く一致している、天主の御言葉のペルソナにおいて、ヒュポスタシスにおいて一致している、どんなイエズス様の小さな御聖体のかけらにおいても、天主の本性の充満が、充ち満ちておられる。ですからイエズス様の聖心、御心臓においても、天主の充満が、天主の本性が充ち満ちておられて、完全な天主がそこに存在している、という事です。

それは私たちにどういう事を教えているかというと、「イエズス様の聖心というのは、真の天主の心臓であって、聖心であって、たとえその体の一部であったとしても、天主の本性に充ち満ちておられる。この全ての全宇宙を支配して、歴史を支配して、私たちの生涯を全て知り尽くしている、御恵みを下さっている創造主、全能の天主の聖心である」という事です。

そして「その同じ聖心は、御聖体の中にも、御聖体の外見の内におられる。そして私たちを無限の慈しみにおいて愛して、私たちの前に留まっておられる」という事です。

「真の天主、真の人なるイエズス・キリストは、そのたとえ御心臓の一部であっても、天主性の充満を持っておられる」という事です。

このイエズス様の聖心は私たちに、「我に来たれ。重いくびきを負い疲れた者よ、我に来たれ。そして私のくびきは軽く、そして私は心の柔和で謙遜な者であるから、我に倣え。」

天主の聖心は私たちに、その「天主の充満から倣うように」と招いておられます。イエズス様における二つの本性の一致を、深く私たちが理解できますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2018年9月24日(月) 贖虜の聖マリアのミサ ミサの前のお話

2018年11月16日 | お説教・霊的講話
2018年9月24日(月)贖虜の聖マリアのミサ ミサの前のお話
小野田神父

多くの聖人たちが修道会を創設して、イスラム教の奴隷となってしまったカトリック信者の解放のために、力を尽くしました。ある人の中には、自分が身代わりとなって、信者を解放させた聖人たちもいます。

願わくはマリア様が、罪に囚われた多くの人々、あるいは多くの誤謬の奴隷となっている異教の人々、特に日本の人々を解放して、イエズス・キリストの本当の子供として下さいますように。また日本に、私たちの修道会が、司祭が常駐するように、お祈り下さい。

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2018年9月23日 聖霊降臨後第18主日のミサ 「立ち上がって、床を取って、家に帰れ」の深い意味を黙想する

2018年11月12日 | お説教・霊的講話
2018年9月23日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年9月23日、聖霊降臨後第18主日です。

今日この午後は特別のプログラムがあります。聖ピオ十世会のシスターがいらしており、14時半からシスター会のどのような生活をしているか、という事をスライドショーで皆さんにお見せしたいと思っています。14時半からです。どうぞなるべく多くの方が、シスターの特別のご紹介にいらして下さる事を期待しています。よろしくお願いします。

そして今日は16時から主日の第2晩課があります。明日は休日ですが、7時からミサがあります。次のミサは、10月7日です。



“Surge, tolle lectum tuum, et vade in domum tuam.”
「起きて床を取りなさい。そしてお前の家に帰りなさい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日聖霊降臨後第18主日のこのミサでは、イエズス様が奇跡を行なった事を、この史実を読みました。なぜでしょうか?

なぜかというと、今日のこの福音書に出てくる中風の半身不随の人は、皆さんであり、私であります。私たちは今日、教会に運ばれて来ました。今日イエズス様と会って、イエズス様からこの言葉を聞かなければなりません、「さぁ、起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」

この奇跡が今日起こらなければなりませんが、

⑴なぜ一体、今日こんな話が出るのか?

⑵次に、この奇跡が起こる為には、私たちはどうしなければならないのか?一体何が起こるのか?という事を黙想して、遷善の決心を立てる事にします。


⑴では一体、今日何でこの話が出たのでしょうか?

なぜかというと、8月15日、聖母の被昇天、マリア様が天に上げられた祝日の次、9月14日、イエズス様の十字架が天高くに上げられて、称讃させられた事を見ました。教会はこの2つの祝日から、「主の来臨は近い。世の終わりは近い」としるしを、時のしるしを見ています。

なぜかというと、世の終わりには、人の子のしるしが、十字架のしるしが、空に現れるからです。なぜかというと、世の終わりには、十字架によって私たちは裁かれるからです。

ですから教会は既に、私たちの祖国である天国での、私たちの本当の家に帰る事を予感しています。ですから、私たちが天国に天の家に帰る事ができるように、私たちを既に準備させようとしています、「十字架のしるしはもう現れた。世の終わりは近い。さぁ、主の裁きを受ける準備をしなさい」と。

そこで今日この教会は、「教会」というのはつまり「天のエルサレム」の象りでもあります。「エルサレム」というのはヘブライ語で「平和のビジョン」という意味です。「サレム」というのは「平和」という意味です。「平和を、私たちがこの目で見る事。」つまり天主の至福直観を、顔と顔を合わせて見る事、天国の象りでもあります。

教会はですから、私たちが教会に入るやいなや、司祭が教会に入場するやいなや歌った、歌う歌が、「主よ、私たちに平和を下さい。平和のビジョンを下さい。本当の天国での至福直観の平和を下さい」と歌っています。「主の家に行こうと言われて、」つまり、「天国に行こうと言われて、天国での幸せを一緒に味わおうと言われて、私は喜んだ。」「あぁ、主の、天主の家に行くというのは、天国に行くという事は、どれほど嬉しい事でしょうか。」私たちは喜びに満ちています。

では、この事が起こる為に、一体教会は何を祈っているかというと、「主の憐れみの力がありますように。」“tuae miserationis operatio.”これがありますように、と言いますが、つまりこれは、「主の憐れみの働き」というのは、「ミサ聖祭」の事であります。

ミサ聖祭によって、私たちがイエズス様と出会って、イエズス様を目の前にして、イエズス様が私たちの現前に来られて、そして私たちの心の中にも、聖体拝領によって来られる、という憐れみの御業が行なわれるところだからです。

聖パウロは今日は、私たちが主の裁きを受ける準備をする事ができるように、2つの事を提案しています。

まず、「感謝」をする事。私たちが受けた全ての御恵みを感謝する事。

私たちがこの目で美しい世界を見る事ができるというのも、指がこうやって動く事も、健康である事も、この自然の御恵みだけでもものすごい御恵みです。私たちが生きているという事だけでも御恵みです。

しかしイエズス様は、それよりもはるかに超えた、超自然の御恵みを下さいました。洗礼の御恵み。罪の赦しの御恵み、告解の秘跡の御恵み。聖体拝領の御恵み。堅振の御恵み。この超自然の御恵み一つ一つは、大自然、全宇宙の創造全部の美しさをはるかに超える御恵みです。それを私たちは次から次へと受け続けてきました。

聖パウロは私たちの名前によって感謝しています、「私たちの受けた御恵みによって感謝する。これが、主の現れる日まで、最後の日まで、私たちがこの御恵みによって固められるように祈る。イエズス・キリストの御来臨の時まで祈る」と「固められるだろう」と言っています。

この聖パウロの2つの提案を受けて、「感謝」と、そして「最後までこの御恵みを守る」という事を「裁きの日まで堅忍する」という事を、2つの事を思うと、教会はあたかも聖パウロの話を聞いた言葉を、こだまして歌っているかのようです。

まずGradualでは昇階誦では、「あぁ、『主の家に行こう』と言われて、喜んだ。『天国に行こう』と言われて、喜んだ。『天主の家に行く』というのは、何という御恵みだろうか。感謝する。」

そしてその次に、「イエズス様からの裁きが来る。裁きの時には、私たちは御恵みを受けたけれども、しかし異邦人たちは、その裁きの主が来る時には恐れおののくだろう、震えるだろう。そしてこの世でどれほど力のある王であったとしても、その富と、その武力と、武器と、軍隊と、名声と、自分の頭脳に信頼していた、しかし天主に信頼していなかった王たちは、恐れるだろう。しかし私たちは喜ぶ。主の家に行こうと言われた。」これがアレルヤです。

私たちが天主のしるしを見て、主の来臨を準備する。これが為に今日は、私たちは教会に運ばれて来ました。

⑵なぜかというと、第2の点は、私たちは今、裁きを受ける、今、「主の家に行こう」と言われたとしても、その準備ができていないからです。

見て下さい。私たちは全身麻痺しているかのように、道端で動く事もできずに、家に帰る事もできずに、苦しんでいる状態です。なぜ家に帰る事ができないか、なぜ体を動かす事ができないかというと、自分の思う通りに「こうしなければならない」と思っても、体が動かないのです。手が震えてるし、動かそうと思っても動かない。精神は、「天に上がろう」と思っているのですけれども、肉体は地上の事だけを考えています。この地に這いつくばっているのです。その為に私たちは、家に帰る事ができずにいます。

そこでイエズス様は今日、私たちにこう仰って下さいます、人の子が罪を赦す事ができる事を示す為に、奇跡を行ないます、「起き上がって、床を取って、家に帰りなさい。」するとこの男はすぐ起き上がって、床を取って家に帰ります。

これは、過去の私たちの洗礼の象りでもありますし、そして今日この御ミサで、イエズス様が私たちの霊魂に働きかけて下さる事の象りでもあります。

今日では私たちはどうやったら、この起き上がって、床を取って、家に帰る事ができるのでしょうか?

それは、聖体拝領の時の聖体拝領誦に書かれているようです、“Tollite hostias, et introite in atria ejus: adorate Dominum in aula sancta ejus.”

私たちは麻痺していますが、なぜかというと、この地上の事で、天の事を、天を見ようとするのを嫌がっているからです。イエズス様の後に従う事を躊躇しているからです。イエズス様の近くに行く事を躊躇しているからです。でもイエズス様はどこにいらっしゃるかというと、十字架のもとにおられます。「もしも私に従いたいと思うならば、自分の十字架を取って、我に従え。」

ですから私たちも、自分の十字架を取って、いけにえを取って、イエズス様に従わなければなりません。イエズス様に会いに行かなければなりません。

第2には、これがちょうど「自分の床を取る」という事と同じではないでしょうか。そして「立ち上がって家に帰る」と。これはちょうど、「主の中庭に、主の家の中庭に入りなさい」という事と同じではないでしょうか。つまり「私たちは聖体拝領をする時に、主の十字架を取って、イエズス様のいけにいえに合わせて、私たちもいけにえとして自分を捧げて、そして私たちの心の中に主が、イエズス様が入って下さるように、私たちもイエズス様の聖心の中に入ろう。そしてイエズス様を礼拝する。」イエズス様を礼拝する、すなわちこれが天国への幸せの味見であり、前兆であります。

最後に、永遠にイエズス様を礼拝する事ができる為に、天国の家に行く事ができる為に、教会は今日、このリハーサルをするように、私たちを招いています。その時に私たちは、イエズス様からの声を聞くでしょう。最後に、「立ち上がって、床を取って、家に帰れ。」私たちはその時に復活して、そしてイエズス様の準備して下さった私たちの本当の家、天国に帰らなければなりません。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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