Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え! 聖ヨゼフの特別聖年(2020年12月8日〜2021年12月8日)

ロザリオでイエズスの聖心の憐みを黙想する|「私がおまえを憐れんだと同様に、 おまえもまた仲間を憐れまねばならない はずではなかったか」

2021年10月16日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月17日は聖霊降臨後第二十一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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ミサ聖祭を除けば、ロザリオの祈りが私たちがすることのできる最強の祈りである、という意味です。言い換えると、ロザリオの祈りは、天主が私たちにくださった最高の祈りの宝です。

2021年10月10日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月10日は聖霊降臨後第二十主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十主日の説教」の動画をご紹介いたします。

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天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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「天国とは、王が、子供の婚宴の宴会を開いたのと似ている」「私はミサに与ってイエズス様の招きに応える!」

2021年10月10日 | お説教・霊的講話

2021年10月3日(主日)聖霊降臨後第19主日のミサ(幼きイエズスの聖テレジアの祝日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の福音では、イエズス様は「天国とは何か」という例えをお話になりました。
「天国とは、王が、子供の婚宴の宴会を開いたのと似ている」と。

これは何かというと、天主三位一体の聖子が、天主の本性と人間の本性を、御自分のペルソナにおいて分かち難く一致させて、その一つとなった。天主と人間が一つになった。この一致はまさに、人間においては結婚・婚姻、「二人は一体となる」という、それに例えられるからです。

二つが、全く別のものであるものが一体となるという事です。そして決して離れないという事です。婚姻の神秘です。

この神秘に私たちが招かれている、そしてそれに与る、そしてそれに参与する、それに協力する、その目的は、「私たちも天主と一体となって、永遠の命、永遠の天国での婚宴に連なる」という創造の目的の神秘です。

これこそ、この天国の為に、この永遠の婚宴に連なる為に、私たちの人間本性が天主の本性と一致して、私たちがあたかも天主のようになるように、その為に私たちはここに生まれて来ましたし、創造されました。今ここでこうやって生きています。短い命、これは天国での永遠の為にあります。

この婚姻の席に屠られる肥えた動物というのは、その最も最大の屠られるいけにえとは、天主の聖子イエズス・キリスト御自身です。天主の子羊が私たちに食される為に、宴会のその為に、十字架の上で屠られました。そして私たちはそれに招かれています。イエズス・キリストのいけにえと一致するように。

この招きにユダヤ人たちは、イエズス・キリストの天主の本性と人間の本性が、イエズス・キリストにおいて一つになった、というこの招きを、この信仰を、残念ながらユダヤ人は受け入れませんでした。なぜ拒否したかというと、畑仕事があったり、ビジネスがあったり、ミーティングがあったり…、天主の聖子イエズス・キリストよりも、別のものを選んでしまったからです。そしてその為に滅ぼされてしまいました。

第2のポイントは、この婚姻の招きに寛大に応えた聖人たちがいることです。
多くの聖人がいますけれども、つい最近の例では、幼きイエズスの聖テレジアがあります。実は10月3日今日は、幼きイエズスの聖テレジアの祝日です。聖伝の典礼によると、今日が祝日です。

幼きイエズスの聖テレジアは、14歳の時に、7月のある主日、ミサに与った後に、祈祷書の中からイエズス様の十字架に磔られたその御影が、そのカードがはみ出ていたのです。そこで見えたのが、イエズス様の片手、十字架に付けられた片手でした。そこから御血が滴り落ちていました。

それを見た時に、「あぁ!」と思いました。「イエズス様は私たちを招いて下さっている。その愛に招いて下さっている!霊魂を救いたいと招いて下さっている。『私は乾く』と言って、そしてそれは霊魂に渇いている。霊魂を欲し、救いたいと渇いている、渇望している。そしてせっかくその渇望して流された血は、無駄にされて、誰もそれを気にかけない。地面にそのまま落ちて無駄になっている。何とかしたい。せっかくの御恵みをなんとかしたい。」

そこで幼きイエズスの聖テレジアは、「イエズス様のいつも十字架の足元にいたい。いつもそこに留まって、イエズス様の御血を全部受けたい。そしてその受けた御血を他の霊魂たちの為に配りたい」と思いました。

第3の点は、私たちも招かれていることです。
イエズス様は今日私たちの前に、片手だけではなくて両手を以って、「さぁ、おいで。この聖心の中においで」と開いて、十字架の前で、十字架の御像を見せて、私たちを招いておられます。「さぁ、ミサに与ってほしい。この御血の恵みを全て受けてほしい。私の愛が無駄にならないように、私の流した血が皆有効に使われるように。」

このミサでは、聖伝のミサは、単なるお食事、兄弟の食事会ではなく、最後の晩餐の記念でもなく、本当にイエズス・キリストの御体と御血が秘跡的に屠られて、そして私たちの上に降ります。

このいけにえこそが、私たちに本当の平和と、本当の祝福と、本当の文明と、本当の社会を築いてくれるものです。

もしもイエズス様の十字架のいけにえがなかったら、この社会は戦争と混乱と無秩序、私たちはおそらく人類は絶滅してしまうに違いありません。誰も信用できなくなり、お互いがお互いを敵と見て、そして恐ろしい世界が来てしまうでしょう。私たちは動物以下のように扱われてしまったり、あるいは何の正義も、何の尊敬も受けない世界が来てしまうかもしれません。

しかし人類の敵は、このイエズス様の本当のいけにえを地上から無くしてしまおうと、昔から計画を立てています。プロテスタントの改革は、マルチン・ルターによって始まりましたが、マルチン・ルターは、「教皇制度を破壊するには、ミサを破壊すれば良い」とよく見ていました。そこで、カトリック教会の破壊の為にまず手をかけたのが、「ミサを変える事」でした。フランス革命の時も最初に禁止されたのが、「カトリックのミサ」でした。カトリックのカテドラルは、理性の女神を崇める、人間の知性を理性を崇める神殿に、偶像崇拝の場所に変えられてしまいました。

人類の敵、悪魔は、人間の社会の為に一番利益になっているものは何かをよく知っています。それが、今この皆さんの与っている聖伝のミサです。

この聖伝のミサを、どうしても人類の救いの為に、人類の存続の為に守る事は、絶対に緊急で、絶対に必要な事です。これは、カトリックの信仰が私たちに教えています。

なぜかというと、唯一の天主イエズス・キリスト、王であるキリストは、この十字架のいけにえを以って、ミサを以って、私たちに御恵みを与えようと御望みだからです。世の終わりまでそうです。これを誰も変える事ができません。ですから、このミサをどうしても私たちは守り続けなければなりません。

皆さんがミサに与る事によって、最高の人類への奉仕が、教会への奉仕ができています。

ですから愛する兄妹の皆さん、どうぞ今日福音のイエズス様のその招きに寛大に答えて下さい。このイエズス様の御血を私たちが受ける事ができるように、ミサに与り続けて下さい。私たちをミサから遠ざけるようなものが誘惑があるかもしれません。どうぞそれに対して「いや、私はミサに与って、イエズス様の招きに応える!」と仰って下さい。

このミサに与る事によって、多くの霊魂を救うように、どうぞイエズス様に祈って下さい。

「イエズス様の御血を全て受けよう。御恵みを全て受けよう。そして私たちの隣人たちに、日本の為に、世界の為に、カトリック教会の為に、教皇様の為に、これを御捧げしよう」と思って下さい。私たちの日常の犠牲や辛い事なども、イエズス様と共に御捧げしましょう。幼きイエズスの聖テレジアのように、そして遂には天国の永遠の婚宴に多くの救われた霊魂たちと連なる事ができますように、諸聖人と喜びを分かち合う事ができますように、お祈り致しましょう。ロザリオのマリア様にも、それができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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2021年10月7日は、レパントの海戦の勝利450周年です。

2021年10月08日 | お説教・霊的講話
2021年10月7日は、レパントの海戦の勝利450周年です。


2018年10月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ

小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、

今回は特に、マリア様が私たちにロザリオを以て、どうやって異端に対して私たちを守って下さるのか、という事を黙想したいと思っています。

マリア様は特に聖ドミニコにお現れになって、アルビ派の異端に対して戦う為にロザリオを与えました。

イスラム教が侵入してきた時に、レパントの戦いで、1571年、ロザリオのお祈りを以て、キリスト教軍は大勝利を収めました。その勝利の記念に、この10月7日、ロザリオの聖母の祝日が定められました。1571年。

100年前にはファチマで、共産主義に対して、ロシアの誤謬に対して勝利を収める為に、その誤謬が世界に広まらないようにする為に、ロザリオを毎日祈る事、そして初土の信心をする事を、聖母の汚れなき御心に対する信心を行なう事を求めました。

ちょうどレパントの海戦でイスラム教が、トルコ軍がヨーロッパを侵略しようとしてきた時に、弱まっていたヨーロッパを侵略しようとした時に、ヨーロッパは実はプロテスタントの危機を迎えていました。そこでしかし、プロテスタントの異端が、マルチン・ルターがプロテスタントを始めた時に新しい宗教を作った時に、ロザリオの信心があった地域では、カトリック信仰が守られました。

そこで今回特に黙想を提案するのは、

⑴マルチン・ルターの主張が一体何だったのか?プロテスタントというのは一体カトリックとどこが根本的に違って、何がプロテスタントの核心の主張だったのか?

⑵そしてその主張の結果、一体そのそれから派生する結果は、結論は何なのか?

⑶それに対してロザリオは、そのロザリオを通してマリア様は私たちにどのような事を教えて下さって、どうやってカトリックの信仰を守ろうとされているのか?

4最後に、私たちはではどのような決心を立てなければならないか?という事を黙想したいと思っています。


⑴第1は、マルチン・ルターは何を言って、カトリックの信仰を破壊しようとしたのか?

それは今から約500年前、501年前、1517年10月31日に、ヴィッテンベルクという教会の門に、自分の95の主張をドアに張り付けた、そこから始まったとされています。これがマルチン・ルターのいわゆる宗教改革という革命であって、新しい宗教の始まりでした。

そしてその数年後には、たくさんのパンフレットやたくさんの小冊子を書いて、論文を書いて、それを自分の主張を言います。一体何が元々の、一体その主張の核心は何かというと、それは「人間がどうやって義化されるか、どうやって罪を赦されるか」というところにありました。

マルチン・ルターによれば、「人間は罪人であって(確かにこれは本当です)、そして原罪によって人間は堕落してしまった(確かに本当です)、」ところがマルチン・ルターの言うには、「あまりにも堕落したので、天主の聖寵によってそれを癒す事ができないほど腐敗してしまった。だから人間はどのような事があっても、天主はそれを癒す事ができない。人間は罪人であって、罪人のまま残る。だから『罪が赦される』というのは、『人間が浄くなる』という事ではなくて、ただ罪が赦された、という事にしよう。本当は罪人のままだけれども、あまりにも罪人だから、これは『外見的に、外部的に、罪を赦されたという事にする』という、内部からの(これを昔の用語で義化と言うのですけれども、義人とされる義化)内部からによる義化ではなくて、外見だけの外的な義化に過ぎない」と主張しました。

ここにマルチン・ルターの核心がありました。ですから彼によれば、「人間は同時に罪人であって、そうではない。内部で本当に腐りきっていて罪人だけれども、外見的には赦されたとされている事になっている。罪人であって、同時に罪人でないと」いう、それが彼の主張でした。

もちろんこれはカトリックの、イエズス・キリストの教えでもないし、イエズス・キリストから伝えられた使徒たちからの教えでもありません。

天主の教えは、「天主の全能は、その正義は、その憐れみは、極みまで行き、天主が人間となって、そして御血を流す事によって、罪の贖いを全て果たす事によって、私たちを内部的に浄めて下さった。聖寵を注いで下さって、そしてその聖寵によって、無限の功徳によって、本当に罪が赦される、全く浄められる」と教えています。

しかしルターによれば、天主の正義も、これによってただの紙切れ、ただの外見だけに歪められてしまって、そして本物の正義ではなくなって、本物の義化ではなくなってしまいました。


⑵その結果、その論理的な結果、何が起こったかというと、3つの点があります。

1つは、「天主が人間を外的に義化するので、人間が義人と認証されるか否か、というのは、天主とその人間との間の関係の事だけであって、そして他に仲介者は必要ない。だから人間は言ってみれば、全てが司祭である。洗礼を受ける事によって、全て天主によって外的に義化とされたと認められて、その他には司祭はいらない。」

次には、「人間はあまりにも腐敗しているので、良い行ないをする事ができないし、良い行ないをする、善行をして功徳を積む事などできない。」

最後には、「だから人間には、道徳というものは守る事ができない。何をしても、天主が『この人は救われる』と思えば救われるし、『救われない』と思えば救われない。」ですから「道徳というものはない。ただ救われたと信じれば良いし、そして信じれば救われる。善業などというものによって何か功徳を積むというのは、傲慢であって間違っている。イエズス・キリストが全てをしたので、私たちは何もする必要がない。私たちはいつまでも罪人のまま残るので、もしも救われたいなら、より強く罪を犯して、更により強く信じれば良い。」「信じる内容というのは、自分が思った事であって、そして唯一信じなければならないのは、自分が救われているという事だ。」

これがルターの主張でした。ですから彼は、自分は最初はアウグスチノ会の修道司祭でした。三つの誓願(清貧・貞潔・従順)を立てていました。ミサにも与っていたはずでした。ミサもサボっていなければ立てていたかもしれません。マルチン・ルターの伝記によると、あまりにも忙しかったので、聖務日課もミサも立てた事がなかったと思われます。

そしてその修道誓願を立てた司祭であったはずが、その革命を起こした後には、ある修道女と一緒に同棲をして、そして酒飲みの生活をして、冒涜と、口汚い、自堕落な生活を送って、死んでいきます。

最後には、あまりにも自分の教えによって多くの人々が常軌を外したような生活をしているのを見て、「これを救うには、世の終わりが早く来るしかない」と思っていました。

ルターにとって、「自分の教えとカトリック教会は全く違うものだ」という事をよく認識していました。そしてその「自分の教えが正しくて、そしてそのカトリックの教えが間違っている」という事を主張して、その間違いは『三重の壁』によって、ちょうどイエリコが、旧約聖書のイエリコの町が三重の壁によって守られていたように、「それを取り囲んで、それを壊してしまわなければならない」と思っていました。

そしてその教会を守っていた『三重の壁』というのは、「司祭職」であって、これが天主への礼拝への一致を守っていました。もう一つは「聖伝」であり、「教皇様」でした。「聖伝の教え」という客観的な教えは、信仰の一致を守っていました。また教皇様は、「不可謬の教え」によって教会の統治の一致を守っていました。

「これらを破壊しなければならない。」ですからミサに対して、あるいは聖伝に対して、教皇様に対して、非常な憎しみを持っていました。「聖書のみあれば十分だ」と主張するようになりました。


⑶ではカトリック教会の教えは、ロザリオによって、どのように守られたのでしょうか?

聖ドミニコが特にマリア様からのこのロザリオ受けた後に、多くの教皇様によって、ロザリオの祈りが勧められて励まされてきました。聖ピオ5世教皇様は特に、ロザリオの祈りを皆にお願いして、レパントの戦いでの大勝利を受けました。その後多くの教皇様たちによって、この祝日が特別な大祝日に高められいてきました。ますますロザリオが広がっていきました。励まされていました。

教会はいつも、公式な教皇様の声や、公会議の声を通して、私たちにどのようにするべきか、どのように祈るべきか、何を信じるべきかを教え続けてきました。

そのロザリオは私たちに何を教えるかというと、「イエズス・キリストの御業が、その御託身と贖いの御業によって、私たちの霊魂が内的に聖化される、義化される」という事です。

そして「その内的に義化される為に、まずマリア様がその業に協力された。その最初からマリア様が、『我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。』そして第2のエヴァとして協力された。それと同じように、ロザリオの神秘を通して、私たちも救いの御業に協力するように招かれている」という事です。

そしてマリア様の御生涯を通して、「善業というのには価値がある、功徳がある。そしてこの功徳の御恵みによって、私たちは御恵みを得る事ができる」と教えています。

ロザリオの特に喜びの玄義は私たちに、「この地上でイエズス様がその30年間、従順の生活をされた。清貧・従順・貞潔の生活をされた」という事で私たちに、「道徳、あるいは倫理、善業というものは存在する」という事を教えています。「私たちはそれを、掟を守らなければならない」という事を教えています。

苦しみの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の苦しみに自分の苦しみを合わせる事によって、自分の十字架を担って、イエズス様に付いて行かなければならない。私たちはシレネのシモンにならなければならないし、ベロニカにもならなければならないし、そしてヨハネ、マリア様のように、十字架の下に居なければならない」と教えています。

栄えの玄義によれば、「私たちは、イエズス様の復活と御昇天、そして聖霊の降臨、カトリック教会、聖母の被昇天などを信じなければならない。つまり教会の権威を信じなければならない」という事を教えています。「聖書のみではない」という事を教えています。


⑷では、私たちは一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

私たちは教皇様の、歴代の教皇様の仰ったように、ロザリオを毎日唱えましょう。教会が認めた御出現、例えばルルドや、あるいはファチマや、あるいは新潟の司教様が認めた秋田の御出現では、「ロザリオの祈りを唱えるように」と勧められています。これは、私たちが自分でそう思うから、この御出現が正しい、マリア様がそう言ったのだ、と私たちが決めたのではありません。教会が、司教様が、「そうだ」と言ったので、私たちはそれを信じるわけです。教皇様たちが「ロザリオを唱えるように」と仰ったので、私たちもロザリオを唱えようとするのです。

もしも私たちが聖伝のミサを捧げているのも、教皇様がそう仰ったからです。聖ピオ五世教皇様が、このレパントの教皇様が、「このミサは、永久に有効であって、全ての司祭がこのミサを立てる義務と権利を持っている。そして誰もこのミサを変えてはいけない。このミサにはいかなる誤りもない。」(1570年7月14日 聖ピオ五世教皇 大勅令『Quo Primum(クォー・プリームム)』)

もしも私たちが、「プロテスタントの教えが間違っている」と言うのは、「プロテスタントの義化の教えが間違っている」と言うのは、それは教皇様たちが、公会議が、そのように宣言したからです。昔からの教えがそうであるからです。

もしも「正教会が、フォチウス、あるいはミカエル、というコンスタンティノープルの総大主教によって始められた離教が間違っている」と言うのも、教会がそのように言ってきたからです。

もしも「イギリスの英国教会での司祭の叙階が無効である」と言うのは、それは私たちがそう考えついた、そう思ったからではなく、教会が客観的にそのように研究して、そう判断したからです、「叙階の秘跡の言葉が変えられている。有効性はあり得ない。」

私たちはルターの、「自分がそう思ったから、それが正しい」ではなくて、「カトリック教会の教えがそうだから、歴代の教皇様たちが公会議が教えているから、私たちはそれを信じる」という立場をとっています。

そしてロザリオの祈りは私たちに、そうするその教会の教えを信じる事がより良くできるように、助けてくれます。

ですから、私たちはもしも突然、ある時突然、2000年間の教えに、2000年間の教皇様たちの教えや声にいきなり反対するような事を誰かが言ったとしたら、私たちは戸惑ってしまいます。一体、一体マルチン・ルターは正しかったのか?あるいは間違っていたのか?イギリス英国教会の司祭は本当に有効な司祭なのか?司祭ではないのか?

あるいはその他色々な、教会の当局者であったとしても、あるいは空から来た天使であったとしても、何かイエズス様からの福音、あるいは教会の2000年間の教えに反対するような事、あるいは私たちがロザリオでこう唱えて、それから学ぶような、私たちの信じている事と反対するような事を主張するなら、私たちは何をするべきか、1つしかありません。

私たちは、マルチン・ルターを取る事もできないし、アルビ派を取る事もできないし、共産主義も取る事もできないし、イスラム教も取る事もできないし、教会が「異端だ」と排斥した教えを「21世紀では、それは昔の話になったから」と言って、排斥された異端を信じる事もできません。

ロザリオの祈りは私たちに、正しい、使徒継承の、聖伝の信仰を信じ、そしてそれを実践するように助けてくれます。

ですから私たちはこの初土にぜひ、10月の初土にぜひ、ロザリオの祈りをますます愛して、これを熱心に黙想しつつお祈りするように、その決心を立てる事に致しましょう。その為にも、ファチマのマリア様に、特別の御恵みをお願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







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【再掲】「ロザリオについて」聖なるロザリオの神秘と黙想:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2021年10月07日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ロザリオについて」のお説教(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 お説教「ロザリオについて」

親愛なる兄弟の皆さん、

十月はロザリオの月です。特に今月は、聖なるロザリオを唱えることを励ますのが教会の習わしです。教会は、今月毎日ロザリオを祈る習慣を持つことで、信者がこの聖なる習慣を一年中続けることができるよう望んでいます! 教皇レオ十三世はこの信心を励まし、多くの贖宥を与えましたが、この信心はレオ十三世よりもずっと前からあるものです。

聖なるロザリオは十三世紀の初め、聖母御自らによって聖ドミニコに与えられました。回心の恩寵、聖性の恩寵、罪に対する勝利の恩寵といった数えきれないほど多くの恩寵を得る手段でした。また、これによって、まことの信仰の敵、特にイスラムに対する有名な勝利を得たのでした。レパントの海戦やウィーン包囲での勝利、またその他の有名な勝利です。

聖なるロザリオの祝日自体は、教皇聖ピオ五世によって十月七日と制定されました。この日はレパントの海戦の勝利の記念日でした。最初は「勝利の聖母の祝日」と呼ばれ、のちには「いとも聖なるロザリオの祝日」と呼ばれました。

ファチマの三人の子どもたちが、彼らが見た美しい婦人にその名前を尋ねたとき、婦人は「私はいとも聖なるロザリオの婦人です」と答えました。ファチマの何回かのご出現は、一九一七年十月十三日の有名な奇蹟で頂点に達し、このことは、聖なるロザリオへの信心をさらに広めました。では、教会がこの信心をそれほど強く勧めているのはなぜなのでしょうか? 天主ご自身が、この信心を通じた奇蹟を起こしてまでこの信心をお勧めになるのはなぜなのでしょうか? それは、聖なるロザリオが、キリスト教的完徳を獲得し、私たちの霊魂を救うための素晴らしい手段であるからです!

実際、キリスト教的完徳の本質は、私たちのうちに生きておられる私たちの主イエズス・キリストにあるのです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。これは、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子ご自身が天から降りて来られた目的そのものです。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。その「豊かな命」とは、永遠に続く命、永遠の命のことです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。永遠の命の本質は、天主の知識と天主の愛にあります。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。

知識に天主の愛がない場合は、大変不十分な知識になるでしょう。なぜなら「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)からです。このため、聖ヨハネはこう言います。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。その天主の愛と知識を、私たちの主イエズス・キリストを観想することによって私たちは得るのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

観想とは、私たちの主イエズス・キリストへ愛に満ちた眼差しを向けることであり、私たちをイエズスとさらに強く一致させようと望み、私たちをイエズスの死の神秘においてイエズスと一致させようと望みます。そうすることで、私たちをイエズスのご復活の神秘においてもイエズスと一致させるようになるでしょう。実際、「私たちは天主の子である。私たちが子であるなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。ここには、ロザリオのすべてがあります。キリストにおいて「私たちは天主の子である」という部分、ここは喜びの玄義です。「その苦しみをともに受けるなら」という部分、ここは苦しみの玄義です。「キリストとともに光栄を受けるために」という部分、ここは栄えの玄義です。

同じように使徒信経にも、ロザリオのすべてがあります。つまり、ロザリオには使徒信経のすべてがあるのです。実際、使徒信経の中心は私たちの主イエズス・キリストへの信仰です。主は「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」―ここは喜びの玄義です―「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所に降りて」―ここは苦しみの玄義です―「三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に座し」―ここは栄えの玄義です。気を付けていただきたいのは、使徒信経は主の童貞聖マリアからのご誕生からポンシオ・ピラトの管下での主の御苦しみへ、つまり喜びの玄義から苦しみの玄義へと直接行くのであり、その間にいわゆる「光の玄義」はないということです。

さて、私たちの主イエズス・キリストのご托身を観想すること、そして特に主のご復活の神秘に一致するため、主のご受難と死の神秘を観想すること、これがロザリオのすべてです! その聖なる御母以上に私たちの主イエズス・キリストを理解した人はこれまで誰もいませんでした。聖母はこれらの偉大なる真理を観想、黙想なさいました。まさに福音書がこう証言しています。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。ですから、これらの偉大なる真理の正しい理解を私たちが見いだすのは、聖母の汚れなき御心においてなのです。聖母の汚れなき御心が、聖母が非常に深い段階にまで獲得されたその理解を私たちに与えてくださるのです。

特に、私たちが聖マリアの汚れなき御心に見いだすのは、罪に対する嫌悪と罪の償いへの望みです。聖母はファチマでそれを要求しておられます。そして現代世界には、そのような罪への嫌悪が本当に必要です。現代世界の特徴の一つは、罪という概念そのものを拒否していることです。現代人はこう言い張ります。「私は自分のしたいことを何でもすることができる。私にこうしろと言える人は誰もいない。天主でさえも!」。これは恐ろしい冒涜であり、最も忌まわしいいくつかの罪へ、特に現代世界の邪悪さの縮図である妊娠中絶の罪へと扉を開くのです。

しかし、私たちが、聖母とともに私たちの主イエズス・キリストを、お告げの日のご托身から十字架上の死に至るまで観想するならば、私たちは罪に対して絶対に「いいえ」と言うことができるだけでなく、天主に対して「はい」と言い、十字架上の私たちの主イエズス・キリストおよび十字架の下の聖母と一致して、罪を償うために自分をいけにえとして捧げることができるのです。まず自分自身の罪を償うため、そしてこんにちでは非常に増えているこの世の罪を償うために。

実際、お告げが示しているのは、天主が人間を気にかけてくださっていることです。私たちをお造りになった天主は、アダムの罪ののち私たちをお見捨てにならずに、救い主を送るという約束をしてくださり、その約束をお告げの日に実現させてくださいました。その福音書の一節は何と美しいことでしょうか! この第一玄義においては、すべてが聖で、すべてが清く、すべてが愛。年若い少女の前での天使の謙遜。天主の御母として選ばれてすぐ、主の奴隷、はしためとしてご自分を奉献した少女の謙遜。最後に、マリアの子となり、「奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされ、その外貌は人間のように見えた」(フィリッピ2章7節)天主の御子ご自身の謙遜。

天主は私たちのことを気にかけてくださっているだけでなく、非常に愛してくださっていますので、イエズスがマリアのふところにおられたときのように、私たちと最も親密な一致をお望みなのです。主はマリアのうちに生きておられたように、私たちのうちに生きたいとお望みです。天使のお告げはすでに、ご聖体という美しい神秘を告知しており、私たちはそのご聖体によってマリアと同じ恩寵を得るのです。つまり、主がマリアのうちに生き給うたようにイエズスが私たちのうちに生き給い、主が聖母を変容させ給うたように私たちを変容させ給うという恩寵を得るのです。次は美しい祈りです。「ああ、マリアのうちに生き給うイエズスよ、聖性の霊によって、御力の充満によって、御徳の真理によって、御道の完成によって、御神秘の一致によって、来りてしもべのうちに生き給え。御父の御栄えのために御霊によって、あらゆる悪意の力を抑え給え」(聖グリニョン・ド・モンフォール「聖マリアの秘密」)。

聖母のご訪問において、私たちは、天主への愛がいかに早く隣人への愛へと導くかを見ます。天主の御子で満たされて、聖母はすぐに従姉のエリザベトのところに行って手伝いをなさいます。私たちはまた、まことの隣人愛が彼らのところにイエズスをもたらすことにあるのも見ます。また、これはエリザベトの喜びです。「主の御母が私を訪問してくださったのですか。これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう」(ルカ1章43節)。エリザベトとその胎内にいる洗者聖ヨハネはどちらも、マリアのうちに生きておられるイエズスの現存によって聖化されます。エリザベトとザカリアの家がマリアが来られたことで聖化されたように、皆さんの家族は、家族で祈るロザリオによって聖母が来られるときに聖化されることになります。家族で毎日祈るロザリオは、家族全員にとって一日の最も重要な時間であり、数えきれないほど多くの祝福を得る源泉なのです。

主のご降誕において、私たちは、私たちの主イエズス・キリストに対してこの世が反対するのを見始めます。宿はマリアとヨゼフに対して門を閉ざし、その結果、イエズスが来られることによる祝福を得ません。私たちは決して心をイエズスに閉ざさないようにしましょう! むしろ、羊飼いたちのように、よく見張っていて、マリアの腕の中にいるイエズスのところへ行けるよう、守護の天使に従う準備をしておきましょう。「急いでマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。彼らはイエズスを見つけましたが、それはマリアを見つけたからでした。マリアは私たちをイエズスにお導きになります。三博士を案内した星のようです。「彼らは子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝した」(マテオ2章11節)。マリアは私たちに、私たちの主イエズス・キリストのご神性を、私たちが礼拝し、崇拝するにふさわしいご神性を教えてくださいます。私たちの主イエズス・キリストを礼拝するのを拒否する人々は天主を知らないのです。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。

主の神殿での奉献において、私たちはマリアとヨゼフが律法に従順であることをたたえます。お潔めを要求する律法から聖母を免除した条項がありました。モーゼであっても、このいとも聖なる童貞、童貞中の童貞に、不浄についての律法を適用することはできなかったでしょう。でも謙遜から、ご自分を目立たせないために、聖母は律法に服従し、律法に従って貧しい人々のいけにえである二羽の鳥のいけにえをお捧げになりました。すると、聖霊が年老いたシメオンを神殿へ導き、彼は私たちの主イエズス・キリストの栄光を歌いました。「異邦人を照らす光、御民イスラエルの誉れである」(ルカ2章32節)。しかし、彼はまた、マリアの心を貫くつるぎのことを預言し、こうして聖母を十字架の神秘へと導きました。これは聖母の第一の悲しみでした! これらの神秘は、典礼が歌うように「喜びと涙が混じって」いました。

幼子イエズスの喪失と神殿での発見は、十字架の神秘へのさらなる序章です。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。この聖母の第三の御悲しみにおいて、聖母を苦しめているのはヘロデのような迫害者ではなく、私たちの主イエズス・キリストご自身です! 主はお二人から離れられました。主が聖母の苦しみの原因でした! なぜでしょうか? 聖母は主を非難なさらず、こうお尋ねになります。「なぜ、なぜこんなことをしたのですか」。すると、主のお答えは神秘に満ちていました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。「彼らにはイエズスの言われたことが分からなかった」(ルカ2章50節)。しかし聖母はこの教訓を学ばれ、のちに御子が再び聖母の最大の苦しみの原因になられたとき、すなわち聖母が十字架上に吊るされた主をご覧になったとき、聖母は再び「なぜ」と尋ねることはなさいませんでした。聖母はなぜなのかをご存じだったのであり、主が「父のことに従事している」こと、つまり十字架のいけにえによって世を贖っておられることをご存じだったのです。

こうして、この最後の喜びの玄義は苦しみの玄義へと私たちを導きます。これが、私たちの主イエズス・キリストが来られた目的です。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。第一の苦しみの玄義は非常に重要です。私たちはキリストの肉体の苦しみに目を向けがちですが、ゲッセマネの園において主は人間のあらゆる罪についての精神的な恐ろしさによってひどく圧倒されたため、主を本当に悶えに、血をしたたらせるほどの悶えに至らせました! ああ主よ、罪のまことの恐ろしさと、自分の過去の罪と世のあらゆる罪をまことに嫌悪する心を、私たちにお与えください。それによって、御身がなさったように、罪を償うべく私たちも自らを奉献することができますように! 天主がどれほど罪をお嫌いになるのか、罪を償うため十字架のいけにえへと御子をお送りになるほどに罪をお嫌いになるのかを、私たちが理解しさえできたなら! そしてイエズスは御父のご計画に完全に入っていかれます。主は苦しみたいと望まれます。罪の償いをなさりたいからです! 主はさらに完全に苦しむためにご神性を隠されます。聖母もまた、罪を嫌われます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖母は汚れなく、完全に罪がないお方だからです。私たちは、自分の霊魂を罪から解き放っておかなければなりません。そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、それは可能なのです! 主のご受難が常に目の前にあれば、私たちは決して罪を犯さないでしょう。主の御苦しみを、あえてさらに増やそうとすることができますか?! ですから、私たちの目の前にこの聖なるご受難を何回ももたらす聖なるロザリオは、罪を避け聖なる生活を送るための大変大きな助けなのです。

柱にくくられた鞭打ちは、特に不潔な罪に対する償いです。人々が肉の望むままにさせる一方で、主の肉体は、あらゆる不潔の罪の償うために、この鞭でひどく引き裂かれました。「信仰の創始者であり完成者であるイエズスに目を注ぐようにしよう。イエズスは差し出された喜びのために、恥も顧みずに十字架を忍」(ヘブライ12章2節)ばれました。聖骸布には、鞭打ちの痕が最も目立っています。学者たちの計算では、その数は百以上でした! 私たちが誘惑を受ける時には、このことを思い出しましょう。私たちは主を侮辱し、主のこれらの御苦しみをさらに増やそうとすることができますか? いいえ決してできません! 疑問の余地はありません! キリスト教的な清さに反するあらゆる侮辱に対して、マリア様の汚れなき御心とはまったく相いれない侮辱に対して、私たちはファチマの聖母とともに償いをいたしましょう。

茨の冠をかぶせられることは、特に全ての傲慢の罪に対する償いです。ここで皆さんは、いと高き至高の知恵である方が愚か者扱いされているのを見ます! とりわけ彼らは主の王権をあざけったのです。私たちの主イエズス・キリストは実際に王、最高の王でいらっしゃいます。しかし民は主の律法に服従することを拒否します。現代人はとりわけ人間の上に法があることを拒否しており、それによって事実上、すべての法を台無しにしています。現代人は天主から自由でありたいと望み、王たるキリストをあざけっています。現代人の傲慢は、天主を侮辱する権利、妊娠中絶をする権利、自然に反する悪徳を行う権利があるなどと主張するまでに至っているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストが来られたのは、そのご受難の屈辱によって、特に茨の冠をかぶせられることによる屈辱によって、この傲慢を償うためでした。主が私たちに、謙遜を愛する心と、主のために屈辱を寛大に受け入れる心を与えてくださいますように。謙遜は聖マリアの素晴らしい徳です。「主が卑しいはしために御目をとめられた」(ルカ1章48節)。

主が十字架を担われたことは、私たちに苦しみにおける忍耐と堅忍を教えます。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる。だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節)。聖母、聖ヨハネ、聖なる婦人たちとともに、最後までキリストに従いましょう! 無垢でありあたかも「緑木」のように贖いの神秘を成し遂げられ、その犠牲によって永遠の誉れを獲得なさっている主のことについて嘆くのではなく、むしろ、罪について、罪びとについて、まず私たち自身について嘆きましょう。なぜなら、これは真の悪であるからです。罪は悪の根っこです。罪とは、全力で避けなくてはならない唯一の悪です。肉体の苦しみは、もし罪を負っていないならば、贖いの原因になります。殉教者たちなら、罪を犯すよりもむしろ死を選びます。罪よりもむしろ死を望むという、この固い決心を更新しましょう。

十字架上の三時間と十字架上の主のご死去は、人類の歴史全体の中で最も荘厳で崇高な時でした。そのとき、この至高の犠牲が聖三位一体に捧げられ、天主はご自分にふさわしい誉れを受けられ、霊魂たちは汚れのない小羊の尊き御血によって贖われ、天主の御子はその神秘体の肢体として何百万もの聖人を獲得され、ご自身と一つにさせ、聖化され、また悪魔は打ち負かされ、罪はあふれんばかりに償われました。そして、この最も聖なる犠牲の効果を持続させるために、私たちの主イエズス・キリストは、その前日の最後の晩餐のときにいとも聖なるご聖体を制定されました。これによって、主ご自身が主の司祭たちの司祭職を通して、汚れなき小羊としてご自分をお捧げになり、主ご自身の肉と血によって私たちに食べ物を与えることを継続なさいます。その結果、私たちは主によって生きることができるのです! 聖母は、十字架の下におられて完全に主と一致され、そこで新しいエバ、すべての生きる者、すなわち私たちの主イエズス・キリストに属して生きる人々すべての母、私たちの母となられました。聖母が、この偉大なる玄義についての知識と、この玄義への愛を私たちに与えてくださいますように!

三日目に、主は死者の中から復活されました。死は罪の結果であるため、復活祭の死に対する勝利は聖金曜日の罪に対する勝利のあとに続きます。主のご復活は主の最も偉大なる奇蹟です。主は何回も使徒たちに現れ、彼らにご自分のご復活についてのたくさんの証拠を、彼らが主のために死ぬ準備ができるほどの証拠をお与えになりました。使徒たちは、死に至るまで主に忠実であるならば、自分たちも主とともに栄光を受けて復活するであろうということを知っていたのです。私たちは、洗礼によって主のご復活に一致します。実際、私たちはキリストとともに死に葬られ、その結果、私たちは主とともに新しい命へと復活するのです。ですから、「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。キリストは、ナインのやもめの独り子を死者の中から生き返らせたのち、その母にお返しになったように、やもめであり御独り子を失った御母にご自身をお返しになりました。主が御母のためになさったことは、あのナインのやもめのためになさったことより少ないはずがありません。

多くのご出現ののち、ご復活から四十日目に主は栄光のうちに天へ昇られ、全能の御父の右に座し給います。天使たちは使徒たちに、主が去られたときと同じ栄光のうちに再び来られることを確約しました。主は生ける者と死せる者を裁くために来られます。聖母が私たちを助けてくださり、私たちが次の美しい言葉を聞くにふさわしい生き方ができますように。「父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」(マテオ25章34節)。また、私たちがいつも絶対に罪を避けることによって、次の別の言葉を、最も恐ろしい言葉を聞かないで済みますように。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。天が開けて、主は聖ステファノにご出現になり、彼がたとえ死に至っても信仰を告白するよう励まされました。主はすべての殉教者を励まされます。主は、私たちがたとえ死に至っても、聖なる生き方、信仰とすべての掟に忠実な生き方をするよう私たちを励まされます!

使徒たちは、五旬節の日に聖霊が来られるまで聖母とともに九日の間、準備をしました。聖霊は彼らをその賜物で、とりわけ愛で満たされました。彼らは天主への愛で燃え上がり、主が以前お告げになったように、その愛で全世界に火をつけたいと願いました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。聖母の御心は大きくされ、私たちの主イエズス・キリストのすべての肢体を、教会の全ての肢体を抱くまでになりました。聖母は今や私たちの母でいらっしゃり、私たちに対して持っていらっしゃる望みのうち、私たちの救いほど大きいものは他にありません。聖母はまた、私たちが聖霊で、聖性の霊で、全てのものを超えた天主への愛の霊、天主のための隣人への愛の霊で満たされるよう望んでおられます。聖母は私たちに、自分の周りの人々への宣教者になるよう、自分の近くにいるすべての人々に同じ愛を燃え立たせるよう望んでおられます。

聖母は罪なくして御宿りになりました。聖母は罪なくして生きられました。悪魔に一歩も譲ることなく、天主とまったく矛盾することなく、いつも完全に聖霊に忠実でした。今や報いの時がやって来ました。罪を知ることのなかった聖母は、罪の結果、墓での腐敗を知ることはおできになりません。天主の御子に命をお与えになった聖母は、すぐに報いをお受けになることになります。その霊魂に対してだけでなく、その体に対しても栄光の被昇天によって。こうして聖母は、天主の報いは一つ一つの努力にふさわしく与えられ、地上のどんな喜びをも無限に超えるものであることの生ける証しとなられたのです。聖母の被昇天というこの偉大なる神秘が、私たちの心と霊魂を、過ぎ去っていつか消え去るこの世の喜びを超えて高く上げ、私たちの心を天国から離れないようにしますように!

その後聖母は、天国で元后としての冠を受けられました。天主なる御子が聖母に、私たちの利益のための素晴らしい御力をお与えなりました。その御力は、聖母の御取り次ぎと母としての配慮によって、ここ地上の私たちを助けてくださるためのものです。聖母は、すべての天使をご自分の意のままになさり、彼らにご自分の命令を実行させられます! そして、天使たちはそれを喜んで行ないます。彼らはみな、聖母に与えられた恩寵と栄光の充満を敬っているからです。彼らは聖母の騎士であり、私たちもまた、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって聖母の騎士になることができ、またそうするべきです。マリアにお仕えすることによって、私たちがお仕えするのはイエズスです。主が王でいらっしゃるのですから! 私たちが天国へ行って永遠に聖母や諸聖人とともに、限りなく永遠に至るまで天主において私たちの喜びを得ることができるよう、この地上において正しい生き方ができますように!

皆さんお分かりのように、聖なるロザリオは、私たちの信仰に関する本質的な神秘を私たちに黙想させ、マリアを通して私たちの主イエズス・キリストの深い知識に私たちを導きます。聖なるロザリオは本質的に、二つの最も美しい祈りでできています。私たちの主イエズス・キリストご自身が教えてくださった「天にまします」、これはあらゆる祈りの中の最高の祈りであり、この中で私たちは主をお喜ばせするのに必要なすべてのことを順序だてて願うのです。また、「めでたし」も聖書の言葉からできていますが、前半だけでなく後半も、聖人たちによって一つにまとめられました。これらの祈りは、玄義を黙想しながら霊魂が息をするようなものになります。息の繰り返しが私たちの体の命に必要であるのと同じように、この祈りの繰り返しは私たちの霊魂の命に不可欠です。聖なるロザリオをうまく祈れば、私たちはマリアの汚れなき御心にもっともっと入っていくことができるでしょう。そしてこの最も聖なる道を通って、イエズスの至聖なる聖心に入っていき、そこで永遠の幸せを見いだすことになるでしょう。

私たちがロザリオを愛し、ロザリオを生き、私たちの主イエズス・キリストの国を広めるために、天国へ行くために、汚れなき御心への信心をもって、特に自分の家族にロザリオを広めることができますように! アーメン。



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守護の天使は存在しています。目には見えませんが守護の天使たちも一緒にミサに与って御聖体を礼拝しています。これは本当です。目に見えない事実、真理です。この事を知って下さい。

2021年10月05日 | お説教・霊的講話

2021年10月2日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ(守護の天使の祝日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お話の前にお知らせがあります。今日は10月の初土曜日で、守護の天使の祝日です。今日は初土曜日ですから、マリア様の汚れなき御心のミサを捧げています。

今日実は、私たちの兄妹姉妹であるダヴィドさんご夫婦が結婚10周年記念で、そして子供たちと一緒に愛徳と奉仕と、そしてこのイエズス様の婚姻の神秘を祝う為に、感謝しようと思っています。そこで司祭の退場の前に、二人は特別の祝福を受ける予定です。どうぞ皆さんもお祈り下さい。

今日は守護の天使の祝日です。ちょうど初土曜日とも重なりましたけれども、守護の天使について少し黙想致しましょう。

守護の天使は私たち一人一人に必ず与えられています。天使というのは、私たちよりも遥かに優れた存在です。私たちのような肉体を持っていない、まさに天主様に近い存在です。もちろん天主様は無限の存在ですが、天使は有限で、始めがあり、限りがあります。しかし私たちを遥かに超える霊的な存在です。

このような方が私たちの守護者として。ボディーガードとして、私たちを守るガイドとして、与えられました。これは、「天主三位一体が私たちをどれほど愛しておられるか」という事の表れです。

守護の天使は一体私たちに何を求めているでしょうか?それは、私たちがイエズス様を愛して、礼拝して、そして遂にはイエズス様から与えられる永遠の喜びを、自分と一緒に、天使たちと一緒に分かち合うという事です。3つ、実際に起こった事を話させて下さい。

1つは、聖ペトロの話です。聖ペトロは、ユダヤ人によって牢に押し入れられました。全教会は聖ペトロの為に、初代教皇の為に祈っていました。すると天主はイエズス様は、守護の天使を送って、聖ペトロを監獄から奇跡的に脱獄する事ができるように助けました。
天使が現れると、「さぁ、ペトロ、起きて俺について来い。」すると、鎖も解けて、鍵があったドアも開いて、そして無事に逃げる事ができました。
聖ペトロが我に返ってみると「あぁ、自分は助かっている!」という事がありました。

第2は、ファチマです。ファチマでポルトガルの守護の天使が子供たちに現れて、御聖体を持って、そして御聖体を宇宙に浮かせたまま、カリスを宙に浮かせたまま、額ずいて、そして、
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
これを子供たちに3回やって見せてお祈りをして、そして子供たちにやるように、私たちにもするように、と命じました。

第3は秋田です。秋田のシスター笹川は、ミサの時にミサに与っているシスターたちと一緒に、そのシスターたちや、あるいは司式司祭の守護の天使が跪いて、御聖体を礼拝しているのを見ています。

守護の天使は存在しています。今、私たちは目には見えませんが、皆さんの守護の天使たちも、皆さんと一緒にミサに与っています。そして御聖体を礼拝しています。これは本当です。目に見えない事実、真理です。この事を知って下さい。

ですから、もしも危険に遭った時、誘惑に遭った時、もしも苦しい時に、「守護の天使がいる」という事を決して忘れないで下さい。私たちを必ず助けて下さいます。危ない時にそこから救い出すことができます。

では、今日は守護の天使に、今まで守って下さった事を感謝しつつ、一緒になって御聖体を礼拝致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


喜びの玄義 第1玄義黙想
2021年10月2日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、その御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

今日は10月の初土曜日ですので、初土の信心として15分間、ロザリオの玄義の内の1つを黙想する事に致しましょう。

特に10月はロザリオの聖なる月ですので、喜びの第1玄義の、天使が御告げをマリア様になさり、マリア様が最初に天使のアヴェ・マリアの言葉を聞いた、天主の御母となる、という玄義を黙想する事を提案致します。

マリア様、マリア様は天使の御告げを受けた時に、「我は主の使い女なり。仰せの如く我になれかし」と仰いました。「救い主の母になる」という事は、「苦しみの連続だ」とご存知でした。しかしその苦しみを全て受け入れる事を表明されました。「仰せの如く我になれかし。」

マリア様、私もマリア様に倣って、主の御旨を果たす事ができますように助けて下さい。主の御旨として送られる十字架や苦しみを、マリア様と共に御捧げする事ができるように助けて下さい。それを霊魂の救いの為に使う事ができるように助けて下さい。

この言葉でマリア様はいつも、イエズス様を御胎内に宿されました。私もいつも、主と共にいる御恵みを与えて下さい。

お知らせ

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幼きイエズスの聖テレジアの燃える望み「霊魂の救い」|Sermon about Apostolic Zeal|Sermon sur l’esprit missionnaire

2021年10月02日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年10月3日は聖霊降臨後第十九主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十九主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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「起きよ。床を取って、家に帰りなさい。主の家に行きなさい。」「主の家に行こう」と言われて私たちは喜んだ!

2021年10月01日 | お説教・霊的講話

2021年9月26日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(名古屋)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の主日の福音を黙想する前に、お知らせがあります。

来たる9月29日は大天使聖ミカエルの大祝日で、これは日本の主要な保護者です。何故かというと、こんなことがあったからです。

聖フランシスコ・ザベリオは1549年8月15日に鹿児島に到着しましたが、大天使聖ミカエルの日に、その当時島津のお殿様に面会をする約束がありました。その面会をすると、「自由にやってもいいし、宣教してもらいたい。そしてもしも領民がカトリックになりたいのならば、自由になってもいい。全面的に協力する」と、とても良い返事を頂きました。そこで聖フランシスコ・ザベリオは日本の守護者として、大天使聖ミカエルを選びました。

ですからこの大天使聖ミカエルは、日本にとってとても重要な守護者です。聖ピオ十世会日本も今年創立したばかりですけれども、大天使聖ミカエルに私たちの信徒の方々、そのミッション、全てを、保護に委ねたいと、奉献したいと思っています。皆さんもお祈り下さい。

今日私たちの主は、福音の中で奇跡を行ないました。その奇跡を一緒に黙想致しましょう。

イエズス様がカファルナウムにいる時に、半身不随の中風の男が運ばれて来ました。中風、半身不随というは脳の病気で、手足が麻痺して、体を動かす事できない、誰かが助けてくれないと食べる事も、着替える事も、寝返りを打つ事も不自由だ、という人です。もう何年もこの病気で苦しんでいました。「イエズス様ならきっと治す事ができる」と周りの人が思って、運ばれて来ました。

イエズス様は彼を見ると、最初に仰ったのは、「子供よ、我が子よ、安心せよ。お前の罪は赦された。」

すると、周りにいた人が、「あ、何だこの人は。何でそんな事を言えるのか。罪を赦すのは天主しかする事ができない。なぜこんな事を言う事ができるのか。」

するとイエズス様は、御自分が天主としての罪を赦す事ができる力をお持ちになっている、とははっきり言いませんでした。御謙遜の為に。しかし、「実はそうだ」という事を別の形で示そうとされました。それは天主でしかできない、ただ言葉を以って、この病の者をあっという間に治癒してみせる事です。悪魔にはできません。

彼に、中風の男に言います、「起きよ。床を取って家に帰りなさい。」
すると男は、いきなりむくりと起き上がって、今まで寝ていた床を取って家に帰りました。

これは本当にあった事です。これを以ってイエズス様は、御自分が罪を赦す事ができるし、たった一言を以って病気を治す事もできる、という「天主のみの力を持っている」という事を表します。

これは事実ですけれども、一体何で教会は今日、この話を私たちに聞かせようとしたのでしょうか?一体何の意味があったのでしょうか?私たちはこれを聞いて何を考えれば良いのでしょうか?

それは、実は私たちも今日、イエズス様の前にある意味で運ばれて来ました。そして実は、体が健康なようには見えても、実はこの中風の半身不随の男のように、実はこの地上の事で寝たきりで、自分で天に向かって歩く事もできずに、そしてこの地上の事にうずくまって、愛着して、罪の中にもがいていて、何の身動きもできない状態で、知らないうちに私たちはそうである、という事を教えたいのだ。

そしてイエズス様が私たちに、「子供よ、安心せよ」と優しい言葉をかけて下さっている、という事をお知らせしたいのだ、と。

そして同時にイエズス様は、天主としての力を以て、私たちを癒そうとしています、「さぁ、起き上がって、家に帰りなさい。」

「家に帰りなさい」というのは、実は「天主の家に行きなさい。主の家に行きなさい。」でもあります。「主の家に行こう」と言われて、私たちの心はどれほど喜んだことでしょうか。

これはミサの中に、入祭誦に書いてあります。
“Lætátus sum in his, quæ dicta sunt mihi : in domum Dómini íbimus.”

それのみならず、「さぁ、主の家に行こう」というのは実は、「ミサに行きなさい。起き上がってミサに行って、そして今までの日常の犠牲や、日常の苦しい事を捧げなさい。主日を聖化しなさい。主日にイエズス様に、私たちの全てを捧げなさい」という事だ、という事を教会は私たちに教えようとしています。

イエズス様は教会を通して私たちに、「さぁ、今日は主日だから、日曜日だから、イエズス様の元に行って、起き上がって、そして祈りを捧げなさい。ミサを捧げなさい。いけにえを捧げなさい。そして天国に行きなさい」と仰っています。

これは、私たちにとって非常に大切な言葉です。何故かというと、イエズス様は私たちに、単なるこの地上での健康を与えるのみならず、永遠の幸せを、永遠の喜びを与えようと思っているからです。

私たちのこの地上の生活は非常に短いものだからです。ですからイエズス様は私たちを、ぜひ天国の御自分の家に連れて行きたい、と思っています。

その為に、ただ口先で「あぁ、行きなさい」と言っただけではなくて、その私たちの為に、まず御自分が御血を以って、十字架の上で自分の血を流されて、全ての事をして下さいました。このイエズス様の愛を是非知って、このイエズス様の言葉に従って下さい。

もちろん今日の中風の人が、「俺、嫌だ!このまま寝てる!」と言えば、せっかくの奇跡の機会も、そのまま終わり。「あぁ、何であの時、お前起きなかったのか。何でそのまま起き上がって家に帰らなかったのか!」あるいはそのチャンスを逃した為に、「また一生そのまま寝転がっていなければならない。」イエズス様の仰った言葉に協力しなかったが為に、そのせっかくのチャンスを逃してしまう、という事があり得ます。

幸いに今日の男は、ちゃんと起き上がって家に帰りました。私たちもそうしなければなりません。今日から是非、主日にイエズス様の言葉を聞いて、そしてできればミサに、そしてもしもできない場合には霊的にロザリオを以って、あるいは霊的にミサに一致して、イエズス様の言葉に従って、主日を聖化するように致しましょう。

私共も聖ピオ十世会も、このミサを皆さんの主日の聖化の為に、これまで通り主日のこのミッションを続けたいと思っています。どのような事があってもこれを続けたいと思っています。ですから皆さんも是非、この主日の聖化の為に、イエズス様の喜びの為に、どうぞ協力をお願い致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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イエズスに信頼して招きに応えなければなりません。私たちも地上での罪への愛着から起き上がって、それをミサで御捧げして、天国へと向かわなければなりません。

2021年10月01日 | お説教・霊的講話

2021年9月26日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。
来たる9月29日は、大天使聖ミカエルの大祝日で、日本の守護者でもあります。これは、聖フランシスコ・ザベリオが最初に、島津のお殿様と面会した日がこの日で、1549年9月29日。その成功に、大天使聖ミカエルに日本を奉献する事を決意したからです。聖ピオ十世会日本もこれに倣って、私たちのミッション、皆さん、全てを、大天使聖ミカエルの保護に委ねようと思っています。どうぞ心を合わせてお祈り下さい。

今日の福音では、私たちの主が奇跡を起こしました。
半身不随の男を、まず罪を赦して、そしてそのイエズス・キリスト御自身が罪を赦す力をお持ちである、という事を証明する為に、この一言で彼の病を治します。
「起き上がれ。起きて、床を取って家に帰れ。」
するとその男は、その通り起き上がって、それまで寝ていた床を取って家に帰りました。

もちろんこれは歴史上あった本当の事で、これはこれだけで私たちに、「イエズス様が天主である」という事実を示しています。

ところで公教会がこの史実を、この歴史上の話を、出来事を、私たちに今ミサの中で聞かせているのは、「実は、これと同じような事が、このミサで起こりつつある」という事を、「この御恵みがミサで与えられる」という事を示しているからです。

この半身不随の男は、実は人類です。イエズス様は、私たちに憐れみの心を持って、この私たちを癒したい、赦したい、私たちを健康にさせたい、私たちを天国に連れて行きたい、という思いで近寄られて仰います。「子よ、信頼せよ。お前の罪は赦された。さぁ、床を取って家に帰れ。起き上がって家に帰れ。」

私たちは一体、何をしなければならないのでしょうか?

イエズス様に信頼して、そして子供として、イエズス様の仰る通りにしなければなりません。イエズス様の命令に、お招きに応えなければなりません。つまり私たちも、今までの地上での罪への愛着から起き上がって、それをまとめてイエズス様に御捧げして、ミサで御捧げして、そして天国へと向かわなければなりません。

イエズス様が、「さぁ、起きて、今までの地上の事はもう取って、家に、天国の方に歩きなさい」と言うのならば、「いや、もっと寝てた方が楽だから。もっとこうしていたい」と決して言ってはいけません。何故かというと、私たちは今こそ、この御恵みを掴むチャンスがあるからです。これを逃してはなりません。

ですからこの時に私たちは、「私は仕えません!」などと悪魔のようなサタンの言ったような事を言うのではなくて、「誰が天主に如(し)く者あるぞ!」「私はイエズス様の招きに応じます。イエズス様の御旨を果たします!」と応えるように致しましょう。

イエズス様の「霊魂を救いたい」というその愛の炎をご覧になって下さい。このこれを見ると、天主の掟の第二の掟、隣人愛についての掟も、私たちは思わざるを得ません。「隣人の霊魂を救いたい。隣人の霊魂を救う為に、これほどまでになっているイエズス様に協力したい」という思いです。

私たちもこのミサに与って、私たちのこの犠牲を捧げる事を、私たちの周りの多くの人々の霊魂の救いの為にも御捧げ致しましょう。家族の為に、同僚の為に、そして日本に住む、あるいは世界の全ての人々の為にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

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イエズスは、聖寵の超自然の御恵みで、御血を流された功徳によって、私たちに肥やしを与え、超自然の実りを付けるように全てして下さっている

2021年09月30日 | お説教・霊的講話

2021年9月25日(土)九月の四季の斎日 土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の福音では、2つの話が出ました。

1つは、畑に植えられたイチジクの木の例えです。主人がやって来て、「3年ここに木が植わっているけれども、全く用がない、何の実も付けない。切って捨ててしまえ。火にくべてしまえ!」すると、そこで使われてる人がやって来て、「ご主人様、お願いです。勘弁してやって下さい。私が周りに水を掘って、肥やしをやります。水をあげます。もう少し辛抱して下さい。きっと美味しいイチジクの実がなるでしょう。もしもそれでもダメだったならば、切って火にくべて下さい。」

これは、この「木」は、「人類」を表しています。天主の為に実を付ける事ができない、全く不毛の、役に立たない人類です。

しかし、イエズス様が聖寵を以って、御恵みを以って、超自然の御恵みで、特に御血の流された功徳によって、私たちに肥やしを与え、御恵みを与えて、そして何とか超自然の御恵みを、実りを付けるように、と全てして下さる。もしもこれでもダメならば、仕方がありません。

しかし人類は、イエズス様の世話、イエズス・キリストの流された御血という肥やし、その功徳、御恵みがなければ、全く用がなく、切り倒されて火にくべられるしか、価値のないものである、という事を教えています。私たちを生かして下さるのは、実を付けさせて下さるのは、イエズス・キリストしかおられません。

第2の話は、その直後に、18年間、病でサタンに縛り付けられていて、天に目を上げる事ができない、腰の曲がった婦人の話が出ます。18年間、よほど本当に大変だった事でしょう。腰が真っ直ぐにならずに、いつも上を見る事ができなかったのですから。

これもやはり、サタンに影響を受けて、地上の事しか目が向けられていない、私たち人類の悲しい姿を現しています。

しかし、イエズス・キリストがこの人類を癒して、天に目を上げる事ができるようにして下さいます。これをする事ができるのは、イエズス・キリストしかいません。なぜなら、イエズス様は、天から来た御方で、真の天主であるからです。

今日この福音で、「私たちは、イエズス・キリストだけに信頼するように、もしも私たちが実を結びたいのならば、天へと帰る事ができるようになりたいのならば、イエズス・キリストを通すしかない、イエズス・キリストに依り頼むしかない」と教えています。

私たちがそれをする事ができますように、イエズス様の御母、天主の御母マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

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マリア様は私たちの永遠の命の救いを望んでおられます。悪魔の奴隷状態から私たちが解放されるように望んでおられます。

2021年09月29日 | お説教・霊的講話

2021年9月24日(金)九月の四季の斎日 金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は九月の四季の斎日の金曜日と同時に、マリア様の記念日でもあります。贖虜のマリア様、メルセデスの聖母です。このマリア様の話を少し黙想致しましょう。

スペインはその当時、イスラム教徒によって大部分が占領されていました。イスラム教徒のもとにあったカトリック信者たちは、「信仰を捨てるか、あるいは殺されるか」等の脅迫を受けていました。そこで残念ながら、中には信仰を捨てて、命を選ぶという人たちもいました。

そんな時に、マリア様は二人の聖人を選んで、このような霊魂たちの永遠の救いの為に、修道会を創る事をお望みになっている、という事を知らせました。

その内の一人は、ペトロ・ノラスコで、マリア様からの特別の啓示を受けて、「御子イエズス・キリストとマリア様の御心にとって、イスラム教の奴隷となってしまっている信者たちの、カトリック信者の解放を望んでいる、その為に働く修道会が設立される事を望んでいる」と仰いました。

ペトロ・ノラスコはその時、聖レイモンド・デ・ピナフォールという聴罪司祭を持っていました。彼に相談に行きました、「このような啓示を受けた。」実は、全く同じ時に、全く同じ内容を、聖レイモンド・デ・ピナフォールも知らされていました。実はマリア様が、同じ事を望んでいるという事を彼にも教えた、と。そしてこの二人の聖人は、「確かにこれは、マリア様がお望みだ」という事が分かりました。

実はマリア様は同時に、その当時の王であったヤコボに同じ事をお願いしたのでした、「スペインの王が是非、この修道会を立てる事を王の権威によって認めるように。」そして1218年8月10日に、王ヤコボ・ハインは、このメルセデスの聖母の修道会の創立を、王の勅令によって認可しました。

この修道会は3つの従順・貞潔・清貧の誓願の他に、第4の誓願として、「イスラム教徒の奴隷の解放の為に働く」ということがありました。奴隷の解放の為には身代金を支払うのですが、普通は献金を集めたり、あるいは何か修道会の農作物などの利益を支払って解放されます。しかし、もしもその為に必要であれば、その身代金が手に入るまで、修道士がそのカトリック信者に代わってその仕事を、彼の代わりに奴隷となる、その保証になる、その人質に取られるという事を含んでいました。

そしてこの修道会は、マリア様の祝福によって、多くのカトリック信者をイスラムの手から解放しました。そして永遠の命の危険から救いました。

マリア様は今でも、私たちの永遠の命の救いを望んでおられます。そして今でも、悪魔の奴隷状態から私たちが解放されるように望んでおられます。私たちはその為に多くの事をする事ができます。メルセデスのマリア様の修道者がやっていたような事を、私たちも霊的にする事ができます。

今日その福音では、有名な非常に美しい福音の一コマが、歴史の一コマが読まれました。
悪魔の支配下から抜け出すには、痛悔が必要です。そしてその「愛」の身代金が必要です。その愛を捧げる事が、愛の黄金を支払う事が必要です。この罪の女、今日の福音の女性はそれをしました。涙を流して、そして主の御足に香油を塗って、痛悔の心を示して、それを示しました。

近くに隣にいたファリザイ人は、ただ人を裁いただけでした。外面を見て、「この女は何をしているのか。この人はおかしいんじゃないか。これがどんな人か知っているはずだ。」心は非常に冷たく、そして外面しか、そして人を蔑む事だけを考えていました。

私たちは是非、今日このメルセデスのマリア様に、この痛悔女聖マグダラのマリアに倣う恵みを乞い求めましょう。そして自分のみならず、愛の捧げものを以って、イエズスの様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心の無限の功徳によって、憐れな罪人の回心をぜひ乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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聖リノ教皇が私たちに教えている事は「聖ペトロと同じ信仰告白をした」ということ

2021年09月29日 | お説教・霊的講話

2021年9月23日(木)教皇殉教者聖リノのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。皆さんもご存知かもしれませんが、一昨日ミカエルさんがお亡くなりになりました。そこで明日、山形で葬儀のミサがあります。ミカエルさんの為にお祈り下さい。

今日祝う聖リノは、聖ペトロ初代教皇の後継者です。第2代教皇で、この名前はローマ典文の中にも書かれています。聖リノは特に有名なのは、「聖ペトロの命令をそのまま繰り返すだけだ」と言いながら、「女性は教会の中ではベールをかぶるように、頭に被り物をするように」と命じたということです。

ネロから始まった迫害時代でしたので、バチカンで殉教して、聖ペトロのお墓のすぐ近くに葬られました。

聖リノ、第2代教皇が私たちに教えている事は何か?それは、「聖ペトロと同じ信仰告白をした」という事です。

つまり教皇様の役割、教皇様が教皇様であるという事は、「イエズス・キリストこそが生ける天主の聖子であって、それ以外には私たちには救いがない。私たちが救われる名前は、永遠の命が与えられる名前は、この他にはない」と皆の前に宣言する事です。そして聖リノはこれを立派に成し遂げて、そして殉教していきました。

願わくは、私たちもこのような立派な多くの教皇様たちの声を聞いて、それに従う事ができますように、お祈り致しましょう。またマリア様の御取次ぎで、教皇様たちが、その後継者が、聖ペトロ、聖リノ、また聖クレメンテ等に従うものとなりますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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ラ・サレットのマリア様が涙ながらに訴えたのは主日を無視している事でした。その為に御子イエズスの手は重くなっている、と訴えました。

2021年09月29日 | お説教・霊的講話

2021年9月19日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

御説教の前にお知らせがあります。
来たる水・金・土は四季の斎日で、伝統的には聖伝によると大小斎を守る日でした。聖ピオ十世会の会員は大小斎を守りますけれども、皆さんにはその義務はありません。しかし、もしも一緒に大小斎を捧げたい、という方はどうぞ一緒になさって下さい。来たる水・金・土、四季の斎日です。

最後には、先日の9月15日、コロンビアのボゴタの修道院で働いておられた、まだ若い神父様、聖ピオ十世会の神父様、ユリアノ・デ・ソウサ(Juliano de Souza)神父様がお亡くなりになりました。どうぞその霊魂の為にお祈り下さい。また山形の信徒の方で、よく山形からこちらに来られていたミカエルさんも、今、癌でもう数日の命だ、との事です。お祈り下さい。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日福音でイエズス様は、ファリザイ人たちに問われました、「一番重大な掟は何か?」と。

「『全てを越えて、心を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。』これが最大で最高の第一の掟である。」(マテオ22:37-38)
私たちの主は、最大の、天主に対する愛の掟について思い出させて下さいました。

今日、175年前の今日9月19日、ラ・サレットでマリア様は同じような事を仰いました。フランスのラ・サレットというのは、本当に山の中にあって、人の誰もいないような寒村です。そこに二人の子供たち、メラニー・カルヴァと、マキシマン・ジローという二人の子供たちにマリア様がお現れになりました。そのマリア様の御現れになるその直前には、子供たちはお遊びをして、「天国」というものを作っていたのです。石で二階建ての家を作って、一階が人間の住んでいる世界、そして二階が天国だと遊んでいました。

すると、非常に太陽よりも眩しい光が近付いてきて、それに目を奪われると、その光が開いて、更にもっと美しい光がありました。その光の中には、非常に美しい女性の方が、高貴な御方が、今子供たちが作った天国の上に座って、天国に座して、そして両手で顔を覆って、非常に悲しんで苦しんでいるように、その御姿が見えました。光り輝いている美しい貴婦人でした。

子供たちがその方に気付くと、その方はマリア様は立ち上がって、子供たちに、「近寄っていらっしゃい。恐れる事はありません」と招かれました。

そこで子供たちがマリア様のすぐ近くに来ると、マリア様は目から涙をポロポロポロと流しながら、子供たちに訴えました。「御子の手は、非常に重くなっている。私はそれを支えていたけれども、もう支えきれないほど重くなっている。」

何を意味するかというと、「天主聖子はあまりにも世の罪によって犯されているので、侮辱を受けているので、どうしても正義によって罰をせざるを得ない、下さざるを得ない。しかしマリア様はそれを何とかして宥めて、お願いして、懇願して、それを食い止めている、今その瀬戸際だ。でも罪があまりにも重いので、手もあまりにも重くなって、もうマリア様でもどうしようもない。でもその人々は何も無関心でいる、という状態だ」という事をマリア様を仰るのです。

メラニーは後で手記を書いていて、そのマリア様のお言葉や、そのご様子を描いていますけれども、「母の、愛の母として、私たちに訴えられてこられたマリア様。このこれほど美しい、これほど良い、親切な、これほどのお母様が、涙を流しているのを見て、どうしてその慰めを、涙を流さないように自分ができる事をしないわけにいられるだろうか、と思った。そしてもう見れば見るほど、マリア様に吸い込まれて『お愛ししたい』という事でいっぱいになってしまった、何とかマリア様の為にしたい、と思った」と言っています。

「マリア様の胸には、イエズス様の御体が付けられた十字架がかかっていた」と言います。「ある時には、イエズス様は死んでおられるように見えて、ある時にはイエズス様は生きて、自分で自発的に十字架に付いておられるようだ」とも言っています。

そのマリア様が、「何故このように御子の手が重くなっているのか、その理由は二つある」と言います。「この二つの罪さえ何とかできれば、その罰から逃れる、軽くなる、何とかしてほしい」と。

それは、地球を汚すとか、あるいはプラスチックのリサイクルをする、とかいう話では全然ありませんでした。

マリア様が涙ながらに訴えているのは主日を無視している事でした。『主日を聖とする』という事を、人々は全く忘れている、労働をしている、自分の為に使っている、教会にミサに与りに来ない、その事の為に、この御子の手は重くなっている、と訴えました。

その次が、「冒瀆の罪」でした。

この175年前のマリア様の訴えは、特に現代ではますます当てはまると言わざるを得ません。特にミサが無視され、しかもミサを聖なるものとする、というよりは、御聖体が却って冒涜されたり、イエズス様よりも別のものが、人間が中心になっていたり、あるいは天主の礼拝よりも、自然環境が、あるいはその他の事が話題になっていたりしちるからです。ますます天主に対する直接の愛が横にやられ、天主を心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くし、精神を尽くして、全てに超えて主を愛する、という最高の第一の最大の掟がないがしろにされているからです。

その当時マリア様は、「収穫が無くなるでしょう。ジャガイモもブドウもみんな腐ってしまうでしょう」と仰いました。「飢饉が来るでしょう。食べ物がないだろう。子供が病気で死ぬだろう。そうやって償いを果たさざるを得なくなるだろう」と涙ながらに、「何とかしてこれを避けて欲しい」と訴えました。

私たちが何とかして苦しまないように、母の心でイエズス様を宥めて、宥めて、宥めて、祈りを捧げているにも関わらず、人類は私たちは、それをあまりにも軽々しく無視しているので、マリア様でももう支えきれない。

天主は私たちに七日の内に一週間の内に六日を下さいました。そして一日、御自分の栄光の為に、御自分の礼拝の為に、そして私たちの霊的な、そして肉体の健康の為に取っておかれました。「働く事はない」と、「私がお前を休ませよう。祝福しよう」と。

旧約の時代においては週の最初、天主聖父が全宇宙を、「光あれ!」と言って創造した、その最初の日でした。
また聖子イエズス・キリストが、超自然の命に、私たちに先駆けて復活された日でした。
また聖霊が降臨された日も、この週の最初の日、主日でした。

そして新約の時代からは、この主日が、聖なる日が、週の最初になりました。
「今後はこの主日を、聖なるものとしてミサに与って、イエズス・キリストからの多くの恵みを受けてほしい。」

ミサというものがどれほど高貴で、どれほど荘厳で、どれほど大切で聖なるものか、宝に、祝福に、御恵みに満ち溢れているものか、という事を、私たちは天国に行ったらびっくりするほど、「それほどだったのか!」という事を知った時に、感謝と讃美で永遠でも足りないほどのものが、私たちに主日にミサで与えられています。

何十億円の宝くじが当たるよりもものすごいものが、私たちの手に「さあ、さあ」と与えられようとしているのですけれども、残念な事に人類は「いやだ!」とそれを無視している、それこそが、イエズス・キリストとマリア様を悲しませる元となっているのです。

せっかくお母さんが、これほどの心を詰めて、子供の為にお弁当を作って、学校に行く前に、「さあ、今日この一週間、お小遣いとお弁当と、さあこれを持って、お前のみならず、その周りの全ての人々の為に十分なものを与える」と言うのにも関わらず、「いらない!」と言っているかのようです。

「主日にミサに与る事がどれほど大切か」という事を、マリア様は涙を流して話しておられます。

マリア様は今日も、おそらく涙を流されておられると思います。私たちはどうしたら良いでしょうか?何とかマリア様に、その御悲しみを慰めて差し上げる事はできないでしょうか?

もちろん今日このミサに与っていらっしゃる皆さんはその事をよくご存知で、だからこそ「万難を排しても、どうしても聖伝のラテン語のミサに与るんだ!」遠い所から何時間もかけて、そして予定をキャンセルして、毎週主日にミサに与っている事をもちろんよく知っています。

そしてもしもミサに与れない時には、公教会祈祷文の中にある「ミサに与るを得ざる時の祈り」を唱えて、ロザリオを唱えていらっしゃる方も、仕方がなくされて、心が苦しい思いを持っていらっしゃる事をよく知っています。

ですからこのようなお話は、皆さんではなくてその皆さん以外の方に本当なら言わなければならない話ですけれども、もしもお友達の中で、イエズス様ではなくて、「ああ、日曜日ぐらい、なんだ、俺の好きなようにしたい」という人がもしいたら、「ああ、どれほどもったいない事をしているか、どれほどイエズス様とマリア様を御悲しませしてるか」という事を教えてあげて下さい。

天主を、心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くして、精神を尽くして愛する、その直接の事が、ミサによって行なわれます。ミサによって果たす事ができます。週の最初に祝福の充満を受ける事は、何と素晴らしい事でしょうか。

ラ・サレットのマリア様に今日はお祈り致しましょう。そしてマリア様の涙、悲しみの涙を、私たちも慰める事ができるように、この主日をますます良く聖化する事ができるように、お祈り致しましょう。
「マリア様、どうぞ私たちが、マリア様の御悲しみのその深い原因をよく理解する事ができますように。他の方々に代わって、ミサにも与れない全世界の人々に代わって、ミサを無視するような人々に代わって、私たちがミサを、主日を聖化する事ができますように。イエズス様とマリア様をお慰めする事ができますように。マリア様と一緒になって御子の手を支える事ができますように、微力ながらマリア様に協力する事ができますように、お祈りを、そして御恵みをお願い致します。」

何故かというと、もしも私たちさえも何もしないならば、どれほど大きな恐ろしいことが私たちに迫っているか分からないからです。しかしマリア様の憐れみと、マリア様の御力と、私たちに対する愛に信頼致しましょう。

皆さんの寛大なご協力と、「主日を聖化したい」というその望み、そして多くのお友達を、「聖化をするように、主日を大切に過ごすように」と誘って下さる事によって、ますますマリア様もお喜びになると信じております。

では、ラ・サレットのマリア様に祈りつつ、私たちが主を全てに超えてお愛しする事ができるように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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「起きて、主日に、天主の家に行きなさい、ミサに行きなさい!」 まだ時のある間に聖伝のミサに与ってください。ミサ聖祭にまさるものは地上では存在しませんミサ聖祭にまさるものは地上では存在しません。

2021年09月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年9月26日は聖霊降臨後第十八主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十八主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

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罪の無かったマリア様は、想像をはるかに超えたような苦しみをお受けになりました。

2021年09月22日 | お説教・霊的講話

2021年9月18日(土)証聖者クペルチーノの聖ヨゼフのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、クペルチーノの聖ヨゼフのミサを捧げています。

しかしマリア様の七つの御悲しみの祝日がつい先日ありましたので、一緒にマリア様の悲しみについて黙想致しましょう。

マリア様は罪の無い御方でした。ですから私たちはともすると、マリア様は一生の間、平和に、何も苦労もなく、何も心配する事もなく、天主様から愛された方ですから、そのまま平安な喜びに満ちた、幸せな生活をされたに違いない、と私たちはつい想像してしまいがちです。

しかし、罪の無かったマリア様こそ、罪の無かったイエズス様と共に、私たちがおそらく経験する事もできないような、私たちの想像をはるかに超えたような苦しみをお受けになりました。マリア様の受けたその苦しみを、全世界の今生きている40億人の人にちょうど等しく分けて、その私たちの配分の、その等しく分けられたものの一つをもしも私たちが感じたとしたら、あまりにも辛い事なので、苦しくて、苦しいあまりに心臓が痛くなって、息もできないほど苦しくなって、もうそのまま気絶してしまうか、息を引き取ってしまうほどの苦しみだった、それをマリア様は更に集めて、御一人でイエズス様と共に苦しまれた、と言われています。

マリア様の七つの悲しみにまとめられるこの苦しみは、

1.まず、シメオンの預言。

考えても見て下さい。赤ちゃんが生まれたばかりの若い16か7になる若い、汚れの無いお母さんが、イエズス様を苦しみもなくお産みになって、そして初めてそのモーゼの掟の通り、40日目に初子を、初めての赤ちゃんを御潔めの式に与り、その時に老人が全てを知っていて、「この子は、イスラエルの全ての民の栄えと滅びの原因となる。この子によって全ての良心が明らかになる。イスラエルの栄光であって、異邦人を照らす光だ」とシメオンが預言します。「そしてあなたの心も、剣で刺し貫かれるだろう。悲しみで貫かれるだろう」と預言されました。

2.マリア様の第二の御悲しみは、エジプトに脱出しなければならなかった事です。

人類の為にお生まれになった天主の御言葉、御一人子、救い主が、地上の王によって命を狙われている。何という忘恩。

3.第三の悲しみは、イエズス様が神殿で12歳の時に行方不明になられた事です。

マリア様は、「もしかしたら自分のせいで、自分の過失で(そんな事はあり得ないのですけれども)もしかしたら、なぜイエズスはいなくなったのか。」3日間、暗黒のような暗闇のような気持ちで、イエズス様を探されました。

イエズス様を神殿に見出された時に、イエズス様は「何故あなたは、私が聖父の仕事をしなければならない事を知らなかったのですか?」とも言いました。マリア様はこの言葉がその時には分かりませんでした。ずっと汚れ無き御心の中に留めて黙想しておられました。イエズス様が十字架に付けられて3日目によみがえるその時に、その深い意味がお分かりになる事だった事でしょう。

残る四つは、「イエズス様の御受難だ」と言われています。

4.マリア様が、十字架を担って十字架の道を歩まれる、傷だらけの、血にまみれた姿の、目も当てられないイエズス様とお会いになった事。

どれほどの苦しみだった事でしょうか。

5.第五が、イエズス様の十字架での釘付け。

かつて殉教者の母が、自分たちの子供が殉教するのを励ましながら見た、聖なる母親たちがいました。マリア様はこのイエズス様の御苦しみの為に、血は流さなくとも、多くの殉教の苦しみを受けました。

今日書簡の中で、「聖クペルチーノの愛徳があまりにも熱烈だったので、その体さえも天に上げられた」という史実の、歴史の本当の話から、聖パウロの「愛」についてのコリント人への手紙が読まれましたが、「もしも私たちが、天主の成聖の恩寵の愛の状態になければ、全く虚しい」と聖パウロは言っています。「もし私が体を焼かれる為に与えても、自分の持っている財産を全て貧しい人々に施しても、天主への愛がなかったら全く空しい。」

マリア様がイエズス様の十字架の足元に立ったのは、この天主への愛に燃えていて、成聖の御恵みの、成聖の状態の極みにあったからです。天主の御母にふさわしい、ほぼ私たちが理解する事のできないほどの巨大な御恵みを持っていたからこそ、マリア様はそれほどの、イエズス様と共に苦しみを捧げる事によって、「共贖者」と、共同の罪の贖いをする事ができる方となりました。

イエズス様の苦しみとマリア様の苦しみは、分かち難く一つになりました。アダムとエヴァの罪が二人で犯されたように、第二のアダムと第二のエヴァの贖いの業は、二人で完成されました。

6.マリア様の第六の御悲しみは、その傷だらけの御子を胸に受け取られたこと。

7.そして第七に、お墓に葬られます。

このマリア様、このような苦しみを何故お受けになったのでしょうか?

それは、私たちを愛する為でした。イエズス・キリストと共に、私たちを愛する為でした。ですから、マリア様に是非、私たちにもマリア様の御心にある炎をできるだけ頂いて、そして私たちの日常の辛い事や苦しみを、御捧げする事ができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】