第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)
2.ル・フロック神父、教皇、十字軍
アンリ・ル・フロック
1923年10月26日の夕に、長上神父は神学生たちを集め新学期最初の霊的講話をなさった 。長上であるアンリ・ル・フロック神父(Pere Henri Le Floc'h)は60才であったが知性の鋭い人であった。
1921年から1926年の間アンリ・ル・フロック神父の生徒であったベルト(Berto)神父の表現 によると、アンリ・ル・フロック神父とは成熟した素晴らしく力強いブルターニュの樫の木であった。背が高く、しっかりした図体、少し日に焼けた平らな顔には太い眉毛と細い鼻と唇、尊厳あるすらっとした頭、凝視する灰色がかった青い目、善良さに満ち、いつもはほとんど見えないがすぐに現れる笑顔のある落ち着いた様子、おろおろすることなく自身のある面持ち。アンリ・ル・フロック神父は尊厳と優しさに満ちた司祭であった。
更には、極めて大きな自信と自分のことを全く考えないということが混ざっていた。アンリ・ル・フロック神父は教会の奉仕者、真理の男、カトリック教義の男、神学者であり、それ以下でもそれ以上でもなかった。それと同時に、直感的に、何でも直ぐに、その精神は神学的議論の論理の階段をいちいち上ることなく結論の長上までひとっ飛びしていた。それはル・フロック神父が神学を理性による学問にすぎないと軽蔑していたのではなく、そのように神学を使っていたのではなかったからである。ル・フロック神父が信仰において不動であったように、彼は神学の母胎となる概念に深く浸透していた。
クロード・フランスワ・プラール・デ・プラスの精神――ローマの教え、教義に基づく敬虔
1902年シュヴィリー(Chevilly)で為した記念すべき講話の中で、ル・フロック神父は2つの修道会が1848年に統合した際の公文書に基づいて、次のことを示した。尊者リベルマンが聖霊修道会を再活性化し宣教精神を開始させたとしたなら、その反対に、天主の僕であるプラール・デ・プラスはこの修道会を創立した。まず1734年フランス王の勅令によってフランスの団体として認可された聖霊共同体は、1848年の統合の時まで存在し続けていた。それは聖霊修道会総長であったル・ロワ大司教がフランス政府の前で証明したばかりのことであり、ル・ロワ大司教はそうして、聖霊修道会が1901年8月フランスから「追放」されるのを防いだのだった。それ故に、クロード・プラールの創立の意向は固く有効である。従って、ローマのフランス人神学校は、この栄光ある聖霊神学校の遺産相続人であり、植民聖職者という狭い物差しを越えることである。
聖霊修道会の伝統はローマの健全な教えにピタリ付き従うことであり、この教義に基づいた深い敬虔を培うことであった。ル・フロック神父はこの伝統をサンタ・キアラに見つけたばかりでなく、これを発展させ、純粋な状態で再導入し、フランス人神学校の校則に刻み込んだ。
ル・フロック神父はこの伝統を昇華さえした。何故なら、3年に1度はオブリ神父(Pere J.-B. Aubry)の生涯を食堂で食事中に朗読して神学生らに読んで聞かせたからである。オブリ神父はフランス人神学校の卒業生であり、そこで神学研究への情熱と神学に基づく敬虔の味わいとを受けた司祭だった。彼はこう書いている。
「司祭職において敬虔と教義とを分離させるという「反神学」派を予防することだ。この派は敬虔を高めるという口実のもとに敬虔を壊してしまう感傷派だ! 霊性のない教義には教義のない霊性が対応する。これは干からびた教義、味気のない霊性、継続力のない不健全な感情だけに頼る、従って長続きしないものだ。真の司祭、霊的な人、使徒的な人を創り出すためにできるかぎり深い教義的な神学をする必要があるということを、この派は否定する。」
オブリ神父は強調する。ドグマは役に立たないから切り離して倫理神学だけを勉強するという人々もいるがそれは間違っている! と。そんなことをすれば「若き神学者たる司祭において、司祭的な霊魂、神学的感覚、原理と教義の男、力強い知性、高い精神を形成するのに役立つ全て 」を投げ捨てることになってしまう。
"Sentire cum Ecclesia" ――教会と共に考える
原理に基づく信仰、カトリックの真理がもつ実践的有用性における信仰、これがル・フロック神父が生徒たちに教えようとしていたことだった。1936年司祭叙階金祝の際に、フランス人神学校の卒業生たちはル・フロック神父から受けた養成に感謝して次のようなことを書いている。
教会参事会員タイヤード神父(ペルピニャンの大神学校校長)「私は今でも18歳の時の情熱・・・を持っています。私は神父様からその情熱を戴きました。私は生涯の喜びの源を作る原理を受けたサンタ・キアラにそれを負っています。」
ロジェ・ジョアン神父(セーの小神学校の教授、後に司教となる)「原理を強く生きるということを養成されたとは、何という大きな喜びでしょうか!」
サン・タヴィドのドン・アルベール神父(ソレムの修道士)「神父様は、私たちにそのままの真理を大切にすること、そして少しでも真理が隠されることを嫌うことを教えて下さいました。・・・私は神父様のお持ちになっていた、かくも完全な「父性」、尊敬を息吹かせ、心を勝ち取る「父性」を思い起こします。」
ジョアン神父は「愛徳の値の意味、神学の必要性、天主的に完成させられた哲学の必要性」をも語っている。ヴィクトル・アラン・ベルト神父はこう自問自答している。「その精神を定義できるだろうか? 奥深くではそれは Sentire cum Ecclesia (教会と共に考える)だった。ただしそこには如何なる汚れもなく、幾何学もなく『完璧主義』もない!」 "Sentire cum Ecclesia" とは、つまり、公会議と歴代の教皇の教えという光のものに、聖トマス・アクィナスに光のもとに、個人的な考えを全て脱ぎ捨てて、教会の考えをそのまま抱擁する、教会が判断するように判断する、これが神学校校長神父の精神だった。
啓示
ローマ神学校の長上ル・フロック神父にたいする感謝と尊敬と愛情とは、ルフェーブル大司教のお説教、また大司教がエコン神学校でした霊的講話の言葉からも良く見て取れた。1979年9月23日の金祝のミサの説教では、ルフェーブル大司教は喜んで「親愛なる尊敬すべきル・フロック神父、良く愛された父親、教皇様たちの回勅を注解しながらその当時の出来事をよく見ることを教えて下さった神父の素晴らしい指導 」を語った。ルフェーブル大司教は言う。「私は、この本当に特別な人を知ることを私に許して下さった天主に、感謝し切れません。」
ルフェーブル大司教は、ル・フロック神父の教えは自分にとって「啓示」であった、と説明する。
「教皇様たちがこの世界においてまた教会において何であったのか、また教皇様たちが1世紀半もの間教え続けたこと、つまり反自由主義、反近代主義、反共産主義、これらに関する教会の教えを私たちに教えて下さったのは、まさにル・フロック神父でした。ル・フロック神父こそが、今日私たちを脅かす自由主義、近代主義、共産主義などの災いから、この世界と教会とを保全するために教皇様たちが絶対的な継続性を持ってやり続けてきた戦いを、私たちに理解させそれを生きるように教えてくれたのです。ル・フロック神父の教えは私に取っては或る啓示でした。」
何においてこれは啓示だったのだろうか。トゥルクワンの学校で勉強した生徒であるルフェーブル大司教は私たちにはっきりこう言う。
「私の勉強が進むにつれて、私は、教会のこの戦いが教会とキリスト教世界にとってどれほど重要なものであるかが知らなかったと分かりました 。」「私は思い出します。・・・私は正確ではなかった概念を持って神学校に入学した、ということを。そして私は神学校時代にそれらを修正したということを。例えば、私は政教分離が素晴らしいことだと信じていました。本当に!私はリベラルだったのです。」
ルフェーブル大司教がこの告白をしたとき、エコンの神学生たちはそれを聴いて爆笑した。ルフェーブル大司教がリベラルだったとは! ではルフェーブル大司教はどうやって知的な回心をしたのだろうか? 大司教は単純にこう言っている。
「私は神学校の先輩の会話に耳を澄ましていました。私は先輩たちの反応を見て、また特に教授や長上が教えて下さったことに耳を傾けていました。そして私は多くの間違った考えを持っていたことに気が付いたのです。・・・私は真理を学び幸せでした。私は自分が間違っていたこと、またあることについての私の考え方を変えなければならないことが分かり幸福でした。このことは特に、私たちに現代の誤謬を全て示していた教皇様たちの回勅、聖ピオ10世とピオ11世までの全ての教皇たちのこれらの素晴らしい回勅を勉強することによって分かったことでした 。」
ルフェーブル大司教は強調する。
「私にとって、これは完全な啓示でした。その時、私たちの中には静かに私たちの判断を、教皇様たちの判断と一致させたいという望みが生まれていたのです。私たちは公自分に言い聞かせていました。教皇様たちは、その時代の出来事、観念、人々、物事などをどのように判断していたのだろうか? ル・フロック神父は私たちに、これらの様々な教皇様たちを導く主要概念は何であったのかを教えて下さいました。この概念は、教皇様たちの回勅において、いつも同じ、全く正確に同じでした。このことは私たちに、・・・どうやって歴史を判断しなければならないかを教えてくれました。・・・そしてこのことが私たちに今でも残っています 。」
「教皇様はどのように判断したか」つまり、ルフェーブル大司教が常に心がけたことは、教皇様たちの判断の一貫性の中に自分を染み込ませること、そして個人的な考えを1つも持たないこと、ただ単に「教会の教える真理、教会が常に教え続けた真理」に忠実であることだった。
私たちは常に十字軍を行っている
教会はいつも変わらず戦闘しながら教えていた。ルフェーブル大司教はこう言う。
「ル・フロック神父は、私たちをして教会の歴史の中に入り込ませ、それを生きるように教えてくれた。つまり、邪悪の勢力が私たちの主イエズス・キリストに反抗して進めるこの戦いの中に入り生きる、ということです。このために、邪悪な自由主義に対して、革命に対して、教会を転覆させようとする悪の勢力に対して、私たちの主の統治とカトリック国家、キリスト教世界全てを転覆させようとする悪の勢力に対して、私たちは戦時動員の召集を受けたのです。」
神学生たちの大部分はこの戦いを受け取った。その他の神学生は神学校を去っていった。ルフェーブル大司教はこう説明する。「私たちは選ばなければなりませんでした。もし私たちが同意しないなら神学校を辞めるか、さもなければ私たちは戦いに加わり前進するか、です。」しかしこの戦いに加わるとは、一生涯それを遂行することである。「私は、自分の司祭生活の全ては ---- そして司教生活も含めて ---- 自由主義に対するこの戦いによって性格付けられています 。」
この自由主義とは、リベラルなカトリックの自由主義でもあった。リベラルなカトリックとは、カトリックとは自称するものの「2重の顔を持ち」、「完璧な真理も、教会が誤謬を排斥することも、教会の敵どもを排斥することも、教会が常に十字軍の状態にいることも、我慢ならない」人々のことである。
ルフェーブル大司教は結論する。「その通りです。私たちは今、十字軍の状態、戦いを続けている状態にあるのです。」そしてルフェーブル大司教によればこの戦いは殉教さえも要求する 。
王かつ司祭たるキリストの御旗のもとに
デニス・ファヒー (Denis Fahey)の証言によれば、神学生たちに薦められた書籍、或いは食事中に食堂で朗読された本により、神学生たちは、ゴドフロワ・クルトゥ (Godefroid Kurth)と共に「キリストの神秘体は、ローマ帝国という異教社会を一変させ、司祭かつ王としての私たちの主イエズス・キリストの教えを承認するというますます大きくなる運動を準備した」ということを観想した。また、デシャン神父 (Pere Deschamps)と共に神学生たちは「多くの革命は王たるキリストの統治を排除したが、それはついには最高大司祭キリストのミサ聖祭と超自然の命を除去するためである」ことを理解した。イエズス会のビヨ神父(Pere Billot, SJ 後に枢機卿となる)の書いた「教会論 De Ecclesia 」は、神学生たちをして「キリストの王国の意味を理解させ、自由主義の恐ろしさを抱かせた」。ピー枢機卿(Cardinal Pie)の教えにそって、神学生たちは「主の祈りの『御国の来たらんことを』の十全な意味、つまり主の御国が個人的な霊魂の中と天においてのみ到来するのみならず、国家と民族とがイエズス・キリストの統治に従順となってこの地上でも実現しなければならないこと、天主をこの地上においてその王座から追いやってしまうことは、私たちが決して容認するべきではない犯罪であること」を学んだ。
ファヒー神父は言う。「ピオ9世のシラブスと最近の4名の教皇様の回勅が、キリストの王国について、またそれと司祭職との関係についての私の黙想の主要なテーマであった。」
マルセル・ルフェーブルとても同じ事であった。
聖ペトロ大聖堂を訪問したとき、ファヒー神父は「聖ペトロの信仰告白」(これは、聖ペトロ大聖堂の主祭壇の前にある地下に降りた所であり、聖ペトロの聖遺物があるのでこの名を持つ。)に留まり、そこで初代教皇に「師イエズス・キリストに関する真理を、聖ペトロとその後継者であるローマ教皇たちがそう教えることを望んでいたそのやり方で教えること」を約束した。
教皇たちの教えた光に照らされた、王でありかつ司祭であるキリストに関する真理、この真理に挑み対抗する勢力に対して闘いながら守る真理、これこそがマルセル・ルフェーブルもまた伝えようと決意した聖なる遺産であった。