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3.観想的な哲学の学生(続き その4) 哲学と観想

2006年02月28日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


3.観想的な哲学の学生(続き その4)


哲学と観想


 哲学3年生として勉学の熱意に燃えて、マルセル・ルフェーブルは1924年10月24日新学年のためローマに戻った。新神学生たちの中にはアイルランドの司祭、将来のダブリン大司教ジョン・チャールズ・マッケイド(John Charles McQuaid)がいた。聖年が始まっていた。11月にはマルセルはメリー・デル・バル枢機卿が「感動的な信心を込めて」ミサ聖祭を捧げているのを見ることができた。マルセルはその感動を両親あての手紙に書いた。母親はそれを次のようにメモしている。


「マルセルは私たちにローマの話しで持ちきりの手紙をたくさん書いてくれます。マルセルは聖年のためのさまざまな行事に全て与り、教会に属していることをますます幸福に思っています。 」


 グレゴリオ大学では、私たちの若き神学生マルセルの好きな科目はアッティリオ・ムンヅィ(Attlilio Munzi)神父の基礎神学論(Theodicee)であった。ついに哲学のこの頂点で新鮮な空気を少し吸うことができる。その虚弱性にもかかわらず、人間理性は天主の存在と天主の無限な完全性の観想へと道を見つけることができる。ところで、ムンヅィ神父の微妙なところは、そして神父の師であるカイェタヌス(聖トマス・アクィナスの大注解者)の微妙なところは、発見の喜びと知性の進歩のために、「簡単なこともほとんど難しくする」ことであった。何故そうするかと言えば「人は、難しいことだけを愛し、それだけを理解しようとするから 」だった。


 これがあまりにも「難しい」時には、若きルフェーブルはサンタ・キアラの哲学の「補習教師」であるジョゼフ・ル・ロエレック(Joseph Le Rohellec)神父 に質問しに言った。学生たちはル・ロエレック神父の部屋のドアの前で列を作って並んで待ち、必ず満足のいく返事が返ってきた。ル・ロエレック神父が聖トマス・アクィナスの厚い本を取り出し、その言葉を引用し、素早く(これはこの聖なる博士聖トマス・アクィナスをどれほど長い間親しく読み込んでいるかを示していた)それに対応する別の箇所を取り出し、それらを比較し、一方で他方を補い合わせ、師なる聖トマス・アクィナスの教えをわき出させる・・・のを見るのはすごいものであった。そして最後にル・ロエレック神父の顔に大きな笑顔が輝くのであった 。


 サンタ・キアラでは、ル・フロック神父の暗黙のうちのしかしあまりにもよく知られた承認により、同然のこととして、聖トマス・アクィナスに、しかも(その他の解説書や教科書ではなく)聖トマス・アクィナス自身が書いたテキストに、聖トマス・アクィナスの神学大全のテキストそのものに従っていた。これは聖ピオ10世教皇が1914年6月29日の自発教令『ドクトーリス・アンジェリチ Doctoris Angelici』で命令し注文した通りであった。ローマのフランス神学校ではトミズムの熱が支配していた。ベルト神父の証言を聞こう。


「5年間のこの教育体制により、本当の意味でトミストたちが作られるべきであった。私たちの受けた教育ではそれ以外の何ものに導くものでもありえなかったし、全てはそこに結びついていた。勿論、私たちをしてトミズム専門の神学者とするためではない、そんなことは馬鹿馬鹿しい主張だ。そうではなく少なくとも、神学におけるトミストとし、確信と勉学のトミストとするためだ。 」


 神学校でル・ロエレック神父が皆のために講義した「補習」の時に、マルセルは「教授が原理まで遡りその原理を以て全ての問題を解決するという習慣、創造の崇高な調和という考えを与えてくれる「在る」の一性、そして全てを「在る」ということの一性に還元するこのやり方 」の大切さを学んだ。


 神学生マルセルは最も統一性を与える原理の探究を始めた。マルセルは図書館係の神父にこの手紙を書いた。


「神父様、私は『哲学・神学雑誌 Revue des sciences philosophiques et theologiques 1909年4月号と、デル・プラド神父の『キリスト教哲学の基礎的真理 De veritate fundamentali philosophiae christianae』を読みたいと思います。ルフェーブル・マルセル 」


 マルセルにとって原理は単純だった。つまりそれはこうである。「被造物においては、本質と「在る」とには現実的な区別がある。」ここからすぐに出てくることは、天主のみが与えられたのではない「在る」である、ということだ。つまり天主はそれ自身で(a se)在る。それに引き替え私たちは、他者によって(ab alio)在る。私たちは在らしめられて在る。その上、それ自身で在るということ(自存性a-se-itas)は、天主自身がモーゼに「私はありて在るものである 」と言って与えた定義でもある。ここから私たちは、私たち自身による「在る」を持っていないということになる。マルセル神学生はそこで「私は無だ、私は天主無しには無だ、私は全て天主から受けている、従って、私は全てを、天主である私たちの主イエズス・キリストから受けている」という真理を黙想した。この真理は「天主を前にして私たちが何でもないことと私たちの「在る」と私たちの活動において天主に対して絶え間ない私たちの依存性を認識することという彼の根本的な心のあり方 」となった。


 そこでマルセル・ルフェーブルは哲学を本当に味わった。

(続く)

 


【メモ シャルドネの聖ニコラ教会のウェッブ・サイト】

2006年02月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
 パリで聖ピオ十世会が聖伝のミサを捧げている、シャルドネの聖ニコラ教会のウェッブ・サイトができたそうだ。
 
Eglise St-Nicolas-du-Chardonnet
23, rue des Bernardins - 75005 Paris
Tél.: 01 44 27 07 90 - Fax: 01 43 25 14 26
 
 

最近うれしいウェッブ・サイト

2006年02月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

【最近うれしいウェッブ・サイト】

 

 カトリック中央協議会のウェッブ・サイトhttp://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htmは、最近見ていてうれしいと思う。

 何故なら、「マニラの eそよ風」327号http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila327.htmlで一部翻訳して紹介し、

「マニラの eそよ風」326号http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila326.htmlで分析した、

「教皇ベネディクト十六世のローマ・クリアへのクリスマスの挨拶」が、「教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ」として、日本語に全文翻訳され、2月16日付けで掲載されているhttp://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message81.htmからだ

 これでこれからはこの日本語を参照して話を進めることができる。天主に感謝! カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳の方々に感謝! 



 さらに、「マニラの eそよ風」326号では、「12月8日、第二バチカン公会議の閉会四十周年には取り立てて何の記念行事もしなかった。これはベネディクト16世の大きなジェスチャーであった。ヨハネ・パウロ2世であったらまちがいなく第二バチカン公会議の成功を凱旋的に祝っていたであろう。ところがベネディクト16世は、その日たしかに導入部で第二バチカン公会議には触れたものの、本質的に天主の御母聖マリアに関する説教をしただけであった。 」
教皇ベネディクト十六世の「第二バチカン公会議閉会40周年記念ミサ説教(2005年12月8日)」 について言及した。

 はやり、これもカトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳の方々の努力のおかげで、日本語に全て訳され、2月20日付けで掲載されているhttp://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message82.htm。本当にうれしい。天主に感謝! カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳の方々に感謝!


 「マニラの eそよ風」333号http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila333.htmlでも触れたが、新しく枢機卿様たちが生まれる。
 2月23日付の記事で、その新しく任命を受けた15名の枢機卿様たちの名前も日本語で分かるようになっている。http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/news/index.htm#cardinals

 また、「教皇ベネディクト十六世の新枢機卿任命発表のことば」 も2月23日付で、日本語訳が掲載されているhttp://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message84.htm。本当にうれしい。天主に感謝! カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳の方々に感謝!


 特に、カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳の方々には、たいへんな仕事だとは思うけれども、是非ともがんばって頂きたい。心からの感謝と、声援を送りたい。主よ、願わくはこれらの仕事を祝福し給え!

 

 

 

 


【聖ピオ十世会について】

2006年02月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど


【ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会について】

 聖ピオ十世会について誤解されている方がおられるので、お知らせ致します。


 ◎ カストゥリヨン・オヨス枢機卿

「(聖ピオ十世会は)本当の離教ではなかった(it was not a formal schism -- non si tratta di uno scisma formale)

聖ピオ5世のミサは、廃止されたことはありません。(La messa di san Pio V non e mai stata abolita.)

[トレンタ・ジョルノ誌2005年9月号]
http://www.unavoce-ve.it/11-05-91.htm
http://www.30giorni.it/us/articolo_stampa.asp?id=9360



 ◎ カストゥリヨン・オヨス枢機卿「(聖ピオ十世会は)離教であるとは言えない(non si puo dire che ci sia uno scisma)。」 (11月13日に放送された、イタリアのチャンネル5(Canale 5)のインタビューで):

 「私たちは異端を前にしているのではありません。正しい、正確な、厳密な意味で離教があるとは言うことは出来ません。教皇の許し無く司教聖別をすることの中には、離教的な態度があります。しかし彼らは教会の内部にいます。・・・」

(Non siamo di fronte ad una eresia. Non si puo dire in termini corretti, esatti, precisi che ci sia uno scisma. C'e una attitudine scismatica nel consacrare vescovi senza il mandato pontificio. Loro sono dentro la Chiesa, ...)
http://www.unavoce-ve.it/11-05-93.htm



 ◎ 国際ウナ・ヴォーチェの会長であるラルフ・ジーベンビュルガー博士の証言

(カストゥリヨン・オヨス)枢機卿は、ルフェーブル大司教は、具体的に離教行為と考えられ得るような聖ピオ十世会の固有の組織を決して創立しなかった、ということを強調しました。(The Cardinal underlined that Archbishop Lefebvre had never founded a proper structure of his fraternity that could be considered as a concrete act of schism.)」


 フェレー司教
私たちは、ローマとは別の位階制度を構成するのではない、私たちは補いの司教に過ぎない(Nous ne constituons pas une hierarchie parallele, nous ne sommes que des eveques suppletifs.)」
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila230.html


 ◎ モンシニョール・ペルル(エクレジア・デイ委員会の事務局長

「厳密な意味において、聖ピオ10世会の司祭によって捧げられたミサに与って主日の義務を果たしたことができます。(In the strict sense you may fulfill your Sunday obligation by attending a Mass celebrated by a priest of the Society of St. Pius X.)」

「もしそのような(=聖ピオ十世会の司祭の捧げる)ミサに与るというあなたの第1の意向が、教皇様と教皇と交わりを共にするものたちとの交わりから離れたいという望みを表明するためであるのなら、これは罪になるかも知れません。もしもあなたの意向がただ単純に信心のために1962年版のミサ典書に則ったミサに与ることでしたら、これは罪にならないでしょう。(If your primary reason for attending were to manifest your desire to separate yourself from communion with the Roman Pontiff and those in communion with him, it would be a sin. If your intention is simply to participate in a Mass according to the 1962 Missal for the sake of devotion, this would not be a sin.)」

「このミサでの慎ましい献金は正しいこととされると思われます。(It would seem that a modest contribution to the collection at Mass could be justified.)」
(2002年4月15日の回答)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila087.html



 ◎ 「教会法の正当解釈のための教皇庁立委員会」の委員長カスチーヨ・ララ枢機卿(Castillo Cardinal Lara, J.C.D.)

 「教皇の許可無く司教を聖別する行為はそれ自体では離教行為ではない。」(La Repubblica, Oct 7, 1988)

(!POINT! 離教はなかった、従って破門もあり得ない)



 ◎ ミュンヘン大学神学部教会法学者のゲリンガー(Geringer)教授は「ルフェーブル大司教はこの司教聖別によって、いかにしても離教をするものではない」(1988年6月30日のラジオでのインタビュー)


 ◎ パリのカトリック学院教会法学部長パトリック・ヴァルドリニ(Patrick Valdrini)

ルフェーブル大司教は自分が新しく聖別した司教達にいかなる裁治権も領地も与えていないので、その聖別は離教行為を構成しなかった
「司教を聖別するから離教が生じるのではないのです。離教が起きるのはその司教に使徒的使命(mission apostolique)を与えるときです。」
(Interview in Valeurs Actuelles, Paris le 4 juillet 1988, et in L'Homme Nouveau, Paris le 17 Juillet 1988.)



 ◎ 1991年5月1日、ハワイのフェラリオ司教(Bishop Ferrario)は聖ピオ十世会を支持しそのミサに与っている六人の信者を破門しようとした。しかし、ローマはその決定は「根拠のないものであり従って無効」であると宣言した。
 フェラリオ司教がしようとした聖ピオ十世会の信者の破門の試みは、「教義と信仰に関する聖省」の長官ヨゼフ・ラッチンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)によって1993年6月28日覆された。

「教会法を基礎にすると、この場合の破門からは上記の勅令によって言及されている事実は離教の罪をなしていないのであり、厳密な意味における離教行為ではないと結論付けられる。従って、聖省は1991年5月1日の勅令が根拠がないものであり従って無効であると宣言する。」(Apostolic Nunciature, Washington D.C.)


 ◎ 「キリスト者の一致のための教皇庁立委員会」委員長エドワード・カッシディー枢機卿

 「某様、・・・1994年3月25日のあなたのご質問に関し、聖ピオ十世会は宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。この会の会員の状況はカトリック教会内の内部問題に過ぎないのです。聖ピオ十世会は、このリストの中でつかれて言う意味においての別の教会や別の教会的団体ではないのです。もちろん、この会の司祭によって執行されているミサは秘蹟は有効です。司教達は非合法ですが有効に聖別されています。」(1994年5月3日の手紙)



 ◎ フロレンス大学の元教会法教授、ネリ・カッポーニ伯爵
 「彼は(=ルフェーブル大司教が離教になるためには)もっと何かしなければならなかった。例えば自分の教会位階組織を作るとか、そうしたらそれは離教行為になる。しかし、事実はルフェーブル大司教は単にこう言っただけだった。『私は自分の司祭の品級が続くことが出来るように司教を作る。彼らはその他の司教らの席を取らない。私は別の教会を造っているのではない。』従ってこの行為はそれ自体で(per se)離教的ではない。」(Latin Mass Magazine, May-June 1993)


 ◎ ニューヨーク大司教区のジェラルド・マーレイ神父(Fr. Gerald E. Murray, J.C.D.)は、おそらく教会の中で最も権威のあるローマのグレゴリオ大学で1995年6月教会法の博士号を獲得した。その博士号獲得のテーマは「故マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会との平信者の教会法上の地位:彼らは破門されているか、或いは離教状態なのか」であった。

 「私は教会法の博士号を獲得しました。私の博士号論文のテーマとしてルフェーブル大司教の破門を取りました。・・・彼らは離教者として破門されていません。なぜならばバチカンは彼らが教会を離れたとは一度も言わなかったのですから。・・・ルフェーブル大司教彼自身破門せれていなかったと証明することが出来ます。ですからその他の人も誰も破門されていません。・・・私の結論は、教会法上、彼は教会法によって罰せられるべき離教行為を罪を犯していません。彼は教皇に対する不従順の罪を犯したかも知れません。しかし彼は教会法がその行為に対して自動破門の制裁をすることがないように行為したのでした。」

 「聖ピオ十世会の内部について、バチカンは一度もいかなる司祭も、平信徒も離教的である[教会を離れている]と宣言したことがありません。

 「聖座は、誰かが聖ピオ十世会の司祭が捧げるミサに与っただけで教会を離れたことになるなどとは一度も言ったことがありません。良い[カトリックの]教えを得るために聖ピオ十世会の教会や聖堂に行くことが出来るでしょうか?私にとってそうする方が、本当に異端的な説教、例えば地獄がないだとか、離婚し再婚した夫婦が聖体拝領できるだとかといった説教を聴くよりもよっぽどましだと思います。」(Latin Mass Magazine, Fall, 1995)



 ◎ その他 聖ピオ十世会について
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila016b.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila090.html

などをご覧下さい。


 

 ◎ 「司教聖省」長官であるガンタン枢機卿は、ルフェーブル大司教は教皇の許可無く四人の司教を聖別したので、「離教的行為」をなしたと誤って言ってしまった。そしてこう宣言した。「司祭信徒は・・・ルフェーブル大司教の離教を支持しないように、さもなければ破門という厳しい制裁が降るだろう」と脅した。


 ガンタン枢機卿は誤って教会法(1364条1項)を引用した。「離教的行為は自動破門となる」と。


 しかし1988年6月30日には如何なる離教行為もなかった。従って破門もあり得ない。


 翌日ヨハネ・パウロ二世教皇も、同じようなしかし何ら裁治権を行使しない声明を出した。

 「離教を支持することは天主にたいする犯罪であり教会法によって定められた破門の刑があることを誰も知るように」と。


 しかし、まず離教はなかった、従って破門もあり得ない。

 


【ミサ聖祭に与るときの心構え】
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila168.html

 

 


【訳者のメモ】

2006年02月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言


【マルセル・ルフェーブル大司教の家族構成】


父ルネ(1879-1944)
母ガブリエル(1880-1938)


長男ルネ(1903)
長女ジャンヌ(1904)
次男マルセル(1905)
次女ベルナベット(1907)シスター・マリ・ガブリエルとなる
三女クリスチアンヌ(1908)シスター・マリ・クリスチアンヌとなる
三男ジョゼフ(1914)
四男ミシェル(1920)
四女マリ・テレーズ(1925)

 


3.観想的な哲学の学生(つづき その3)

2006年02月24日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


3.観想的な哲学の学生(つづき その3)


 一家族の中の二人の修練者たち


 マルセル・ルフェーブルは、かくも大きい手で至る所から豊かに与えられていた教えを霊魂の全ての触覚を使って自分のものとしていた。御降誕祭の後、両親に新年の祝いを送りながら、「主として完徳に前進すること」を願った【ルフェーブル夫人のマリ・クロチルド婦人への1924年ガンタンの手紙による】。マルセル・ルフェーブルに流れていた完徳への熱望は、兄や姉にも伝えられた。1924年の復活祭に、マルセルと頻繁に手紙をやりとりしていた母親から、姉のジャンヌがトゥルネ(Tournai)にある「償い者聖マリア会」の修練院に入ったと知らされた。兄のルネについては、ドゥエー(Doudai)で第一五部隊(15e R.A.C.)において兵役の義務を終えていた。同年8月には、ピレネー山脈のサンサヴァン(Saint-Savin)にてスータンを着た二人の兄弟(兄ルネと弟マルセル)とその姉妹が二人で会った。クリスチアンヌは、兵役から戻ったルネが聖職者としての尊厳を必ずしも取り戻していなかったということを語っている【マザー・マリ・クリスチアンヌが書いた「家族の記録」の手書きの記録より】。ルネはクリスチアンヌの前でアルハンブラの歌を鼻歌で歌ったりさえし、マルセルは兄をこう叱責した。

「ルネ、兵舎の歌を妹に教えちゃダメだよ!」【Mon Frere, onseigneur Marchel, souvenirs de Mere Marie-Christiane Lefevbre, supplement より】

 ところが、ルネはそうは見えなかったのだが、奥深いところでは、遅らせることなく、宣教師としての召命を実現させようと決心していた。彼は1924年10月5日、オルリーにある聖霊修道会の修練院に入った【マザー・マリ・クリスチアンヌが書いた「家族の記録」の手書きの記録より】。

 

(つづく)

 

 


【訳者のメモ】

2006年02月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

【ルフェーブル大司教の伝記に登場する名前に関するウェッブ・サイトなどのメモ】


聖霊修道会
http://www.spiritains.qc.ca/fr/Accueil.aspx
http://www.eurospiritains.org/


クロード・フランスワ・プラール・デ・プラス(Claude-Francois Poullart des Places)
http://www.spiritains.qc.ca/fr/historique.aspx?sortcode=1.26.26&id_article=327&starting=&ending=


リベルマン神父
http://www.spiritains.qc.ca/fr/historique.aspx?sortcode=1.26.28&id_article=332&starting=&ending=


シュヴィリー(Chevilly)の神学校
http://www.csspchevilly.com/


デニス・ファヒー (Denis Fahey)神父
http://www.sspx.ca/Angelus/2001_January/Fr_Denis_Fahey_Life_Work.htm
http://www.sspxasia.com/Documents/Catholic_Sermons/Fr-Denis-Fahey-and-Vatican-Secret-Society.htm


ゴドフロワ・クルトゥ (Godefroid Kurth)ベルギーの歴史家
http://www.servicedulivre.be/fiches/k/kurth.htm


イエズス会のビヨ神父
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bbillot.html


ピー枢機卿(Cardinal Pie)
http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bpie.html
http://www.sspx.ca/Angelus/2004_July/Cardinal_Pies_Declaration.htm
http://www.sspx.ca/Angelus/2004_May/Saint_PiusX.htm
http://www.newadvent.org/cathen/12076a.htm
http://www.vaxxine.com/pjm/cardpie.htm


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地名

ミネルヴァ広場(Piazza della Minerva)
http://www.romasegreta.it/pigna/piazzadellaminerva.htm
http://www.nycerome.com/sights-of-rome/pantheon-area/piazza-della-minerva.html


聖クララ通り(ヴィア・サンタ・キアラ Via Santa Chiara)のローマ・フランス神学校
Pontificio Seminario Francese
Via Santa Chiara, 42, 00186 Roma - ITALIA
http://www.seminairefrancaisderome.org/histoire_pieneuf.php


ロトンダ広場(Piazza della Rotonda)
http://www.romeartlover.it/Vasi25.htm
http://www.gpaed.de/bildergalerie/img261_english.htm


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3.観想的な哲学の学生(続き その2)

2006年02月23日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

3.観想的な哲学の学生(続き その2)



 聖トマス・アクィナス講話会


 神学校の内部で、天使的博士聖トマス・アクィナスの名誉のために「聖トマス・アクィナス講話会」という慎ましい催しが、哲学と神学を学ぶ神学生達のために、彼らが毎日のニュースになる問題を聖トマス・アクィナスと教皇様たちの教えの光に照らして考察する味をしめさせるために開かれていた。


 12月2日、カンブレの大司教ショレ大司教(Mgr Chollet)の列席の元で、ジョルジ・ミシェル(Georges Michel)は人権宣言の吟味を発表した。この講話は後述するように有名になった。神学部の神学生であったジョルジ・ミシェルの発表の終わりにショレ大司教はこう付け加えた。


「天主のみが純粋な権利であり、・・・私たちは元来、天主に借りがある。私たちに権利があるのは、その借りを満足させるためである。」


 これは権利の客観的本性をうまく言い表している。また共通善という概念は、フランス革命のリベラルな個人主義によって無視されるようになったが、これは共通善が古人の善よりも首位に立つことを断言した言い方だ。


 続いてピエール・ド・ラ・シャノニー(Pierre de La Chanonie)が思想及び良心と礼拝の自由を論駁した。ロベール・プレボ(Robert Prevost)は学生たちの間では「民主主義者」と渾名されていたが、政教分離の起源について短く発表した。ここでなされた講話の中には内部用の小冊子として印刷されたものもあった。中にはルル神父(l'abbe Roul)のように『カトリック教会と一般権利 L'Eglise catholique et le droit commun』という本として1931年に出版された。


(つづく)

 


聖伝のミサの予定 2006年2月

2006年02月14日 | 聖伝のミサの予定


聖ピオ十世司祭兄弟会

 聖ピオ十世司祭兄弟会は、ルフェーブル大司教によって創立され、1970年に公式に教会認可されたカトリック教会の一修道会です。聖ピオ十世会は、伝統的カトリックの信仰と典礼を守るために努力しています。


 日本では、東京と大阪で聖伝のミサ(伝統的ローマ典礼のミサ、トリエント・ミサ・トレント・ミサ、ラテン語ミサ、第二バチカン公会議以前のミサとも呼ばれている)を定期的に捧げております。


 兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。



     <2006年2月>


【お知らせ】
 2月には、聖ピオ十世会シンガポール修道院長のダヴィデ・パリャラーニ神父様が東京に来られます。


【大阪】
大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」


17日(金)午後5時半 聖伝のミサ
18日(土)午前11時 聖伝のミサ



【東京】
東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」


18日(土)午後5時半 聖伝のミサ
     午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://www.geocities.jp/cantusgregorianus/
     午後8時40分 グレゴリオ聖歌による終課

19日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
     午前10時半 六旬節の主日の聖伝のミサ
     午後2時半 公教要理
     午後4時半 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
20日(月)平日(4級)紫  午前7時
21日(火)平日(4級)紫  午前7時

 



【お願い】


 私たちは、私たちの主イエズス・キリストの愛の教えを特に大切にしたいと思っています。ですから、愛徳に背くような、信者の兄弟姉妹、また司祭や修道者(特に新しいミサをしておられる神父様や司教様などについて)についての人格を傷つけるような悪口や非難、愚痴、不平不満はご遠慮下さいますようにお願い致します。

 兄弟姉妹の皆様にお願いなのですが、どうぞ慎み深い服装をなさって下さい。
 ミサ聖祭に与るときは勿論ですが、男性の方も女性の方も、普段から是非慎み深い身なりを普段から守って下さい。
 女性は天主の御母聖マリア様に倣って、少なくとも膝が隠れるスカート(教皇様の教えによると椅子に座った時も膝が隠れなければなりません)、袖があり胸元を隠す服装を常時着用して下さい。
 体の線を見せるようなぴったりとした服装や、体が透けて見える服、袖が無く肩や脇を顕わにする服、膝が隠れないミニスカート、大胆に切り込みが入って足を見せて歩くスカート、ズボンやパンタロン、へそ出しルックなど慎みのないものは避けましょう。お願い致します!


「最も多くの霊魂たちを地獄に引き落とす罪は、肉の罪です。」(ファチマの聖母がヤシンタへなさったお言葉)


 兄弟姉妹の皆様の愛徳とご理解とご協力に感謝します。

 

 


ルフェーブル大司教様のローマにおける1974年11月21日の宣言

2006年02月11日 | ルフェーブル大司教の言葉



 私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。


 私たちは、しかしながら、第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。実に、これら全ての改革はカトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。


 たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。


 聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)


 これが今日、教皇様が私たちに繰り返し言われることではないだろうか。そしてもしも万が一、教皇様の言葉と行動において、また聖座の諸聖省の文書において、1つでも [過去の教導権との] 矛盾が現れるなら、その時私たちは、常に教えられていたことを選び、私たちは教会を破壊する革新に耳を閉じる。


 Lex credendi(信仰の法)を変更することなくles orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、新しい神学校、新しい大学、カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。


 この改革は、自由主義と近代主義とに由来するが故に、その全てに毒が含まれている。これは異端から生み出され異端へと辿り着く。良心的で忠実な全てのカトリック信者にとってこの改革を受け入れ、なにがしらであれそれに従うことは出来ない。


 私たちの霊魂の救いのために、教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、改革を受け入れることを断固として拒否することである。


 それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会に、教皇様に、そして未来の世代に、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。


 それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。


 天主の聖寵と、童貞聖マリア・聖ヨゼフ・聖ピオ10世の御助けによって、こうすることによって、私たちはローマ・カトリック教会に忠実であり、ペトロの全ての後継者に忠実に留まり、fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo(聖霊において私たちの主イエズス・キリストの玄義の忠実な奉仕者)となることができると確信している。アーメン。



童貞聖マリアの奉献の祝日
ローマにて、1974年11月21日

+ マルセル・ルフェーブル

 

 


3.観想的な哲学の学生

2006年02月04日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


3.観想的な哲学の学生


この良き古きグレゴリオ大学

 さて他者に伝える前にまず自分が養成されなければならない。11月5日はグレゴリオ大学がその門を開きlectio brevisと呼ばれる最初の授業が開始する。そこにはグレゴリオ大学近辺のありとあらゆる道を毎朝埋め尽くすことになる700名の若き聖職者たちの姿があった。ドイツ人神学生は赤い生地の服、スペイン・ポルトガル系の学生たちは青と黒、その他、様々の修道服を着ていろいろな色で染められた修道者たち。この最初の授業はラッザリーニ神父によって歌をうたうようなラテン語で為された。マルセル・ルフェーブルは数語しか分からなかった。彼はそれにほとんど失望した。しかし直ぐに慣れた。

 彼は、哲学科の2学年の授業に入籍した。毎朝2,3時間の授業があり、夕方も同じく2,3時間の講義があった。

 宿舎のあるサンタ・キアラからミネルヴァ広場(Piazza della Minerva)を通り過ぎて神学校通り(via del Seminario)にあるボロメオ宮殿(Palazzo Borromeo)の高い門まで辿り着くには3分かかった。イタリア革命政府によって1870年コレジオ・ロマーノの建物が没収されて以来、グレゴリオ大学はボロメオ宮殿に移された。この大学の元来の名称は、その創立者である聖イグナチオがつけたように、ローマ大学(Collegio Romano)であった。

 グレゴリオ大学ではルイ・ビヨ(Louis Billot)が「生き返った聖トマス」divus Thomas redivivusの異名 を受けて、トミズムと近代主義及び自由主義に対する戦いを教えていた。ビヨ神父によると、自由主義には「その信奉者たちがなす原理と実践との対立ということによって完全に絶対的な矛盾がある、つまり、行動の実践的な規則にすぎないものとして認めると彼らが口先で言うその原理は、まさしく実践的を越える原理としては認めることを拒否している」と指摘した。彼は、1911年11月、聖ピオ10世によって枢機卿となり、1923年教えることを辞めなければならなくなったが、しかし理想的な師としてサンタ・キアラの司祭たち、神学生たちから敬慕されていた。



形而上学の乾燥、政治学の真理

 若き学生であったマルセルが「良識と現実との唯一真の哲学 」を味わうに至ったのは易しいことではなかった。シャルル・ボワイェ(Charles Boyer)神父が論理学と一般形而上学の授業でその「唯一の真の哲学」を教えていたが、マルセルよりももっと観想的な学生たちの精神を喜ばせていた。マルセルは7月2日にこの試験に合格したが "bene probatus" (普通)という評価だった。「信仰と関係なく純粋に哲学だけをしなければならない」のはマルセルにとって辛いことだった。何故なら哲学的原理のキリスト教的大通りが亡かったからだ。マルセルは考えた。しかし「哲学は私たちの主の支配する普遍の領域から出ることがない。哲学は神学の僕だからだ。」従って、「私たちの主の人間本性が天主の本性によって受け取られたように、哲学は聖寵によって受け取られている。 」

 ロレンゾ・ジャンムッソ(Lorenzo Giammusso)神父が倫理学の授業で教える政治学は、マルセル・ルフェーブルを熱中させた。この授業は、「民衆の意志」とか「諸個人の自由の調和」とかという革命の神話(の汚れ)から、真理を磨きだした。そして、市民社会は自然の創り主(=天主)によって構想されたものであり、従って、市民社会は公の礼拝儀式によって天主に崇敬を表さなければならない、これがこの政治学の結論だった。こうして哲学は王たるキリストの玉座となった。

(続く)

 

 

 


2.ル・フロック神父、教皇、十字軍

2006年02月01日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


2.ル・フロック神父、教皇、十字軍


アンリ・ル・フロック


 1923年10月26日の夕に、長上神父は神学生たちを集め新学期最初の霊的講話をなさった 。長上であるアンリ・ル・フロック神父(Pere Henri Le Floc'h)は60才であったが知性の鋭い人であった。


 1921年から1926年の間アンリ・ル・フロック神父の生徒であったベルト(Berto)神父の表現 によると、アンリ・ル・フロック神父とは成熟した素晴らしく力強いブルターニュの樫の木であった。背が高く、しっかりした図体、少し日に焼けた平らな顔には太い眉毛と細い鼻と唇、尊厳あるすらっとした頭、凝視する灰色がかった青い目、善良さに満ち、いつもはほとんど見えないがすぐに現れる笑顔のある落ち着いた様子、おろおろすることなく自身のある面持ち。アンリ・ル・フロック神父は尊厳と優しさに満ちた司祭であった。


 更には、極めて大きな自信と自分のことを全く考えないということが混ざっていた。アンリ・ル・フロック神父は教会の奉仕者、真理の男、カトリック教義の男、神学者であり、それ以下でもそれ以上でもなかった。それと同時に、直感的に、何でも直ぐに、その精神は神学的議論の論理の階段をいちいち上ることなく結論の長上までひとっ飛びしていた。それはル・フロック神父が神学を理性による学問にすぎないと軽蔑していたのではなく、そのように神学を使っていたのではなかったからである。ル・フロック神父が信仰において不動であったように、彼は神学の母胎となる概念に深く浸透していた。


クロード・フランスワ・プラール・デ・プラスの精神――ローマの教え、教義に基づく敬虔


 1902年シュヴィリー(Chevilly)で為した記念すべき講話の中で、ル・フロック神父は2つの修道会が1848年に統合した際の公文書に基づいて、次のことを示した。尊者リベルマンが聖霊修道会を再活性化し宣教精神を開始させたとしたなら、その反対に、天主の僕であるプラール・デ・プラスはこの修道会を創立した。まず1734年フランス王の勅令によってフランスの団体として認可された聖霊共同体は、1848年の統合の時まで存在し続けていた。それは聖霊修道会総長であったル・ロワ大司教がフランス政府の前で証明したばかりのことであり、ル・ロワ大司教はそうして、聖霊修道会が1901年8月フランスから「追放」されるのを防いだのだった。それ故に、クロード・プラールの創立の意向は固く有効である。従って、ローマのフランス人神学校は、この栄光ある聖霊神学校の遺産相続人であり、植民聖職者という狭い物差しを越えることである。


 聖霊修道会の伝統はローマの健全な教えにピタリ付き従うことであり、この教義に基づいた深い敬虔を培うことであった。ル・フロック神父はこの伝統をサンタ・キアラに見つけたばかりでなく、これを発展させ、純粋な状態で再導入し、フランス人神学校の校則に刻み込んだ。


 ル・フロック神父はこの伝統を昇華さえした。何故なら、3年に1度はオブリ神父(Pere J.-B. Aubry)の生涯を食堂で食事中に朗読して神学生らに読んで聞かせたからである。オブリ神父はフランス人神学校の卒業生であり、そこで神学研究への情熱と神学に基づく敬虔の味わいとを受けた司祭だった。彼はこう書いている。


「司祭職において敬虔と教義とを分離させるという「反神学」派を予防することだ。この派は敬虔を高めるという口実のもとに敬虔を壊してしまう感傷派だ! 霊性のない教義には教義のない霊性が対応する。これは干からびた教義、味気のない霊性、継続力のない不健全な感情だけに頼る、従って長続きしないものだ。真の司祭、霊的な人、使徒的な人を創り出すためにできるかぎり深い教義的な神学をする必要があるということを、この派は否定する。」


 オブリ神父は強調する。ドグマは役に立たないから切り離して倫理神学だけを勉強するという人々もいるがそれは間違っている! と。そんなことをすれば「若き神学者たる司祭において、司祭的な霊魂、神学的感覚、原理と教義の男、力強い知性、高い精神を形成するのに役立つ全て 」を投げ捨てることになってしまう。


"Sentire cum Ecclesia" ――教会と共に考える


 原理に基づく信仰、カトリックの真理がもつ実践的有用性における信仰、これがル・フロック神父が生徒たちに教えようとしていたことだった。1936年司祭叙階金祝の際に、フランス人神学校の卒業生たちはル・フロック神父から受けた養成に感謝して次のようなことを書いている。


 教会参事会員タイヤード神父(ペルピニャンの大神学校校長)「私は今でも18歳の時の情熱・・・を持っています。私は神父様からその情熱を戴きました。私は生涯の喜びの源を作る原理を受けたサンタ・キアラにそれを負っています。」


 ロジェ・ジョアン神父(セーの小神学校の教授、後に司教となる)「原理を強く生きるということを養成されたとは、何という大きな喜びでしょうか!」


 サン・タヴィドのドン・アルベール神父(ソレムの修道士)「神父様は、私たちにそのままの真理を大切にすること、そして少しでも真理が隠されることを嫌うことを教えて下さいました。・・・私は神父様のお持ちになっていた、かくも完全な「父性」、尊敬を息吹かせ、心を勝ち取る「父性」を思い起こします。」


 ジョアン神父は「愛徳の値の意味、神学の必要性、天主的に完成させられた哲学の必要性」をも語っている。ヴィクトル・アラン・ベルト神父はこう自問自答している。「その精神を定義できるだろうか? 奥深くではそれは Sentire cum Ecclesia (教会と共に考える)だった。ただしそこには如何なる汚れもなく、幾何学もなく『完璧主義』もない!」 "Sentire cum Ecclesia" とは、つまり、公会議と歴代の教皇の教えという光のものに、聖トマス・アクィナスに光のもとに、個人的な考えを全て脱ぎ捨てて、教会の考えをそのまま抱擁する、教会が判断するように判断する、これが神学校校長神父の精神だった。


啓示


 ローマ神学校の長上ル・フロック神父にたいする感謝と尊敬と愛情とは、ルフェーブル大司教のお説教、また大司教がエコン神学校でした霊的講話の言葉からも良く見て取れた。1979年9月23日の金祝のミサの説教では、ルフェーブル大司教は喜んで「親愛なる尊敬すべきル・フロック神父、良く愛された父親、教皇様たちの回勅を注解しながらその当時の出来事をよく見ることを教えて下さった神父の素晴らしい指導 」を語った。ルフェーブル大司教は言う。「私は、この本当に特別な人を知ることを私に許して下さった天主に、感謝し切れません。」


 ルフェーブル大司教は、ル・フロック神父の教えは自分にとって「啓示」であった、と説明する。


「教皇様たちがこの世界においてまた教会において何であったのか、また教皇様たちが1世紀半もの間教え続けたこと、つまり反自由主義、反近代主義、反共産主義、これらに関する教会の教えを私たちに教えて下さったのは、まさにル・フロック神父でした。ル・フロック神父こそが、今日私たちを脅かす自由主義、近代主義、共産主義などの災いから、この世界と教会とを保全するために教皇様たちが絶対的な継続性を持ってやり続けてきた戦いを、私たちに理解させそれを生きるように教えてくれたのです。ル・フロック神父の教えは私に取っては或る啓示でした。」


 何においてこれは啓示だったのだろうか。トゥルクワンの学校で勉強した生徒であるルフェーブル大司教は私たちにはっきりこう言う。


「私の勉強が進むにつれて、私は、教会のこの戦いが教会とキリスト教世界にとってどれほど重要なものであるかが知らなかったと分かりました 。」「私は思い出します。・・・私は正確ではなかった概念を持って神学校に入学した、ということを。そして私は神学校時代にそれらを修正したということを。例えば、私は政教分離が素晴らしいことだと信じていました。本当に!私はリベラルだったのです。」


 ルフェーブル大司教がこの告白をしたとき、エコンの神学生たちはそれを聴いて爆笑した。ルフェーブル大司教がリベラルだったとは! ではルフェーブル大司教はどうやって知的な回心をしたのだろうか? 大司教は単純にこう言っている。


「私は神学校の先輩の会話に耳を澄ましていました。私は先輩たちの反応を見て、また特に教授や長上が教えて下さったことに耳を傾けていました。そして私は多くの間違った考えを持っていたことに気が付いたのです。・・・私は真理を学び幸せでした。私は自分が間違っていたこと、またあることについての私の考え方を変えなければならないことが分かり幸福でした。このことは特に、私たちに現代の誤謬を全て示していた教皇様たちの回勅、聖ピオ10世とピオ11世までの全ての教皇たちのこれらの素晴らしい回勅を勉強することによって分かったことでした 。」


 ルフェーブル大司教は強調する。
「私にとって、これは完全な啓示でした。その時、私たちの中には静かに私たちの判断を、教皇様たちの判断と一致させたいという望みが生まれていたのです。私たちは公自分に言い聞かせていました。教皇様たちは、その時代の出来事、観念、人々、物事などをどのように判断していたのだろうか? ル・フロック神父は私たちに、これらの様々な教皇様たちを導く主要概念は何であったのかを教えて下さいました。この概念は、教皇様たちの回勅において、いつも同じ、全く正確に同じでした。このことは私たちに、・・・どうやって歴史を判断しなければならないかを教えてくれました。・・・そしてこのことが私たちに今でも残っています 。」


「教皇様はどのように判断したか」つまり、ルフェーブル大司教が常に心がけたことは、教皇様たちの判断の一貫性の中に自分を染み込ませること、そして個人的な考えを1つも持たないこと、ただ単に「教会の教える真理、教会が常に教え続けた真理」に忠実であることだった。



私たちは常に十字軍を行っている


教会はいつも変わらず戦闘しながら教えていた。ルフェーブル大司教はこう言う。


「ル・フロック神父は、私たちをして教会の歴史の中に入り込ませ、それを生きるように教えてくれた。つまり、邪悪の勢力が私たちの主イエズス・キリストに反抗して進めるこの戦いの中に入り生きる、ということです。このために、邪悪な自由主義に対して、革命に対して、教会を転覆させようとする悪の勢力に対して、私たちの主の統治とカトリック国家、キリスト教世界全てを転覆させようとする悪の勢力に対して、私たちは戦時動員の召集を受けたのです。」


 神学生たちの大部分はこの戦いを受け取った。その他の神学生は神学校を去っていった。ルフェーブル大司教はこう説明する。「私たちは選ばなければなりませんでした。もし私たちが同意しないなら神学校を辞めるか、さもなければ私たちは戦いに加わり前進するか、です。」しかしこの戦いに加わるとは、一生涯それを遂行することである。「私は、自分の司祭生活の全ては ---- そして司教生活も含めて ---- 自由主義に対するこの戦いによって性格付けられています 。」


 この自由主義とは、リベラルなカトリックの自由主義でもあった。リベラルなカトリックとは、カトリックとは自称するものの「2重の顔を持ち」、「完璧な真理も、教会が誤謬を排斥することも、教会の敵どもを排斥することも、教会が常に十字軍の状態にいることも、我慢ならない」人々のことである。


 ルフェーブル大司教は結論する。「その通りです。私たちは今、十字軍の状態、戦いを続けている状態にあるのです。」そしてルフェーブル大司教によればこの戦いは殉教さえも要求する 。



王かつ司祭たるキリストの御旗のもとに


 デニス・ファヒー (Denis Fahey)の証言によれば、神学生たちに薦められた書籍、或いは食事中に食堂で朗読された本により、神学生たちは、ゴドフロワ・クルトゥ (Godefroid Kurth)と共に「キリストの神秘体は、ローマ帝国という異教社会を一変させ、司祭かつ王としての私たちの主イエズス・キリストの教えを承認するというますます大きくなる運動を準備した」ということを観想した。また、デシャン神父 (Pere Deschamps)と共に神学生たちは「多くの革命は王たるキリストの統治を排除したが、それはついには最高大司祭キリストのミサ聖祭と超自然の命を除去するためである」ことを理解した。イエズス会のビヨ神父(Pere Billot, SJ 後に枢機卿となる)の書いた「教会論 De Ecclesia 」は、神学生たちをして「キリストの王国の意味を理解させ、自由主義の恐ろしさを抱かせた」。ピー枢機卿(Cardinal Pie)の教えにそって、神学生たちは「主の祈りの『御国の来たらんことを』の十全な意味、つまり主の御国が個人的な霊魂の中と天においてのみ到来するのみならず、国家と民族とがイエズス・キリストの統治に従順となってこの地上でも実現しなければならないこと、天主をこの地上においてその王座から追いやってしまうことは、私たちが決して容認するべきではない犯罪であること」を学んだ。


 ファヒー神父は言う。「ピオ9世のシラブスと最近の4名の教皇様の回勅が、キリストの王国について、またそれと司祭職との関係についての私の黙想の主要なテーマであった。」


 マルセル・ルフェーブルとても同じ事であった。


 聖ペトロ大聖堂を訪問したとき、ファヒー神父は「聖ペトロの信仰告白」(これは、聖ペトロ大聖堂の主祭壇の前にある地下に降りた所であり、聖ペトロの聖遺物があるのでこの名を持つ。)に留まり、そこで初代教皇に「師イエズス・キリストに関する真理を、聖ペトロとその後継者であるローマ教皇たちがそう教えることを望んでいたそのやり方で教えること」を約束した。


 教皇たちの教えた光に照らされた、王でありかつ司祭であるキリストに関する真理、この真理に挑み対抗する勢力に対して闘いながら守る真理、これこそがマルセル・ルフェーブルもまた伝えようと決意した聖なる遺産であった。


 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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