Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

宗教的寛容 :ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』より

2007年06月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

■ 宗教的寛容

 私たちは前章において、寛容一般に関する哲学的原理を説明し、この章で宗教的寛容に関する神学的原理を述べることもできました。ここでは私たちは寛容一般に関すること(哲学的原理)および個別に宗教的寛容に関すること(神学的原理)を全てひとまとめにすることを選びました。さらに「寛容」に関する神学的教理が十全な形で、すなわち教会が「正常」な状態と見なすところ―――カトリック社会ならびにカトリック国家―――に基づいて解説されます。かかる教理が宗教的多元主義もしくは非カトリックの国々においては実際適応し得ないとしても、これがカトリックの教理であることには変わりありません。
 ここで問題とするのは、悪(道徳的悪ないしは宗教的悪)に対する寛容です。
 これに関して、三つの具体的なケースが考えられます。

―――往々にして、寛容は物事の自然なあり方が求めるところのことです。
―――時として、悪に寛容を示してはなりません。
―――時として、逆に悪に寛容を示さなければならない場合があります。

- 物事の自然のあり方としての寛容
 個人の、また社会および教会の善に相反することから、悪は決して寛容の対象と名手はならないようにも思われます。
 しかしながら、悪を常に、あるいは少なくともそれが可能であるごとに阻止するのを望むことは天主による統治の計画に対立することとなり、また自らの生活を到底耐えがたいものとしてしまいます。
 このため、非常にしばしば、寛容は物事の自然本性が求めるところのものなのです。
 しかし、悪に対して寛容の態度を取ることは、決してこれを承認すると言うことを意味しないということを補足しておかなければなりません。
「御摂理において、天主ご自身も、限りなく慈悲かつ全能でありながら、世界中である種の悪が存在することをお許しになります。これは、或いはより大いなる善を妨げないため、或いはまたより大いなる悪が生じるのを妨げるためです。全ての個別的な悪を妨げることのおよそできない人間的権威は、天主の御摂理が正統に(悪を罰することによって)報復をなすべく及ぶところの数多くの事柄を許容し、罰さずにお金がならないのです。」
(聖アウグスティノ『自由決定能力論』第一巻第六章)

「しかしもし、このような状況において共通善のために(そしてこれのみが唯一の正当な理由付けとなりますが)人間の法が悪を容認することができ、またそうするべきであるとしても、それは[当の]悪をそれ自体として認め、あるいは望むことはできず、またそうすべきではありません。なぜなら悪はそれ自体として、善の欠如であり、あらゆる立法者が望み、力の及ぶかぎり保護すべき共通善に対立するものだからです。[ですから]、この点において人間の法は天主を模倣しなければなりません。聖トマス・アクィナスの教えるところに従えば、悪が世界に存在することをお許しになる際に、天主は『悪が為されることを望まれず、さりとてその悪が為されないことも望まれず、ただそれが為されることを許すことをお望みになるのであり、そしてこのことは善いことである。』この天使的博士の表現は、悪の容認についての教理の全体を簡潔なかたちで含んでいます。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 220)

 同様に、ピオ十二世も「悪を積極的なかたちで抑圧することは、常に義務となるわけではない」か否かの問題に対して次のような回答を与えています。

「先に私はまず、天主の権威を引き合いに出しました。天主にとって誤謬ならびに道徳的逸脱を抑圧することは可能かつ容易であるのですが、その天主は或る場合においてかかる悪を自らの限りない完全さと矛盾しない形で『阻止しない』ことをお選びになることができるでしょうか。一定の状況において、天主が、人々にいかなる戒律をお与えず、いかなる義務を課さず、偽りのこと、誤ったことを阻止・抑制するためのいかなる権利も与えない、ということがあり得るでしょうか。現実に目を注いでいるならば、肯定的な回答を出して差し支えないということが分かります。現実は、世界において誤謬と罪とが甚だ多く見受けられることを示しているからです。天主はこれらを排斥します。しかしそれらが存在することをお許しになります。ここから次のように結論することができます。『宗教的および道徳的誤謬は、それが可能な時、常に抑圧されねばならない。これに対して寛容を示すことは、それ自体で不道徳な事柄だからである』という命題は、絶対かつ無条件な意味では妥当しえません。他方、人間的な権威に対しても、天主はこのような絶対的・普遍的な戒律を信仰の領域においても、道徳の領域においても、お与えになりませんでした。そのようなことは、人々の共通の理解においても、キリスト教的良心においても、啓示の源泉にあいても、また公教会の実践においても見いだすことができません。ここでは、当の議論を裏打ちする聖書中の他のくだりは省略して、キリスト御自身が聖福音の中で述べておられることを思い出すに止めましょう。主は毒麦のたとえ話で、次の訓戒をお与えになったのでした。『いや、毒麦をぬき集めようとして、よい麦もいっしょに抜くおそれがある。双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。この世という畑においては、良い麦のために、毒麦も良い麦と共に育つに任せておけ。』従って、道徳的および宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 この最後の一文を通して教皇は、悪を抑圧する義務は、善一般ならびに社会の共通善の増進・保存という、より上位の原理に従属するものであるということをいわんとしているのです。後に示すように、この原理こそが寛容の正当性の根拠たり得るのです。

- 不寛容(ないしは抑圧)の義務

(a)  寛容と抑圧、この二つのどちらが優勢を占めるべきでしょうか。先に述べたことから、悪を抑圧する義務は一般的な仕方でかされることではなく、かえってただ一定の状況においてのみ適応するということが帰結します。
 他方、後ほど詳述するように、寛容の義務もまた、一定の状況においてのみ適応します。すると、抑圧の原理と寛容の原理とは、原理の序列において同等の地位を占めるということになるのでしょうか?
 形而上学から導き出される次の詳細な補足説明が示す通り、実際には全くそうではありません。
 道徳的な悪(もしくは誤謬)に直面した場合、(この悪というものの持つ特性に鑑みて)、本来(=ここでは「それ自体においては」という意味で、対応処置から生じてくる影響・結果などを取捨し、ただ純然に「悪」ということ)取られるべき態度は抑圧―――たとえこれが一般的義務でもなく、至高の原理でもないとしても―――であり、他方で寛容は、これが義務として求められるのは、偶然的な仕方(per accidens)においてのみです。この理由は簡単です。悪はそれ自体として常に悪、つまり或る特定の善の欠如であり、従って、欲求の対象ではなく、かえって逃避の対象或いはもし可能であれば抑圧の対象となります。また悪が「より小さな悪」となり、この意味において一つの善となるのは、ただ偶然的にでしかありません。従ってこの場合、当の悪は寛容によってこれを許容することによって回避しようとする、より甚だしい悪に比す限りにおいて善であるに過ぎないからです。従って、かかる悪が欲求の対象ではないにしても、少なくとも寛容の対象となるのは偶然的なことでしかありません。

(b) 抑圧の義務を課する状況
 どのような場合に、またいかなる権威をもって悪は抑圧されねばならないのでしょうか。
―――家庭においては、子供たちに真理を知らしめ、諸々の徳を獲得させることが関係してくるたびごとに、悪の抑圧が両親にとって、子供の教育上の義務となります。しかしながら、思春期の子供の場合、教育が良い結果を生むためには、これが自由の修練となる(=選択肢として提起されること)必要があり、しかるにこれはその性質上、抑圧よりも自己習得への呼びかけを促します。
―――教会においては、信徒の信仰ないしは聖寵の命が危険にさらされるたびごとに、不寛容の態度を取ることが義務になります。
―――最後に、世俗的社会においては、道徳的悪の抑圧が国家の義務となるのは、それによって国家がより良く共通善を保証できる場合です。また国家は、保証すべき共通善のため、あるいは教会に対する奉仕的役割のために、それぞれ国家の善、ないしは教会および人々の霊魂の善益を促進するために、宗教に関する誤謬を抑圧することが義務となります。

-寛容の義務、特に宗教的寛容

(a)原則:
 国家は寛容がより大きな善の促進に役立ちうる場合、常に悪または誤謬を許容することができ、またそうしなければなりません。
「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

(b)寛容を適用する権威:
 世俗的法律によって寛容政策を適応するのは国家ですが、「しかし宗教的および道徳的領域に関することがらについては、国家は教会の判断をも求めます」。該当国民における真の信仰の保護、さらには公教会の善益もが関わってくるため、教会はこの種の施策に第一に関係するからです。(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3042参照)

(c)寛容を正当化する状況:
 寛容が正当化されるのは、これによって教会ないしは世俗的社会における、より大きな善を促進することができるか、あるいはまた、より大きな悪を避けることができるという場合です。
「教会は、種々に異なった信教を真の宗教と同等の法的地位に置くことは許されないと判断するとしても、このために、より大きな善を実現するため、あるいはより大きな悪を阻止するために、実践上これら種々の信教が国家社会において一定の位置を占めることを許す国家元首を弾劾することはありません。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』 PIN 154)

「しかるに、教会は真に母親のような分別をもって、人間の弱さに由来する大きな重荷を推し量り、そして人々の心と行動とが今日において流されている方向をよく把握しています。このため、教会は真実で誠実なことがらの他はいかなるものにも一切の権利を認めないとは言え、公的な権威が真理と正義にもとることがらを、あるいはより大きな害悪を避けるため、あるいは[当の悪よりも]より大きな善を獲得し、保全するために容認することを禁じません。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 219)

「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 具体的には、避けるべき「より大きな悪」もしくは促進すべき「より大きな善」の例として次のようなことを挙げることができます。

◆ より大きな悪:
 正道に沿おうとしない者たちに加えられる迫害を目の当たりにして、義人が躓きを受けること。内線。誤った道にある者らが真の信仰に立ち返る妨げになること。(注意:これらの不都合は、いつも全て或いは同時に生じるわけではありません。)

◆ より大きな善:
 異なった宗教に属する市民の世俗的なことがらに関する協力、ならびに平和的な共存。(無論、これらが現実可能であるならば、という条件の下でのことです。またこの二つはあくまで相対的な善、すなわち国家における宗教上での完全な統一と市民社会における不和という両極の中間に位置する状態といえます。)教会が自らの超自然的使命を成就するに当たっての、より大きな自由(これは国家の介入がなければ、より効果的な働きができると教会が判断する、特殊な状況でのことです。「特殊な状況」と付言する理由は、本来、教会は国家の支持を受ける権利を有し、またこの支持は教会にとって有益であるからです。それゆえ国家の介入が教会の使命の完遂に障害となるのは、あくまでも偶然的なことです。)

(d)寛容の義務の限度:
 寛容は善よりも多くの悪を生み出す場合、その存在理由を失います。
「しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということ、そしてまた、政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、それを正当化する公共の福祉という目的が要請する程度までに厳しく制限されねばならないということです。したがって、もしこのような[悪の]容認が公共の福祉にとって有害となり、また国家にとってのより大きな悪を伴う場合、それは合法的なものではありません。そのような場合、[より大きな] 善のためという動機付けが欠けているからです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 寛容はまた、一時的に良いものであった後に悪いものになることがあります。
「また、昨今の尋常ならざる状況において教会がある種の現代的な自由をふつう認めているとは言っても、それはそういった自由をそれ自体として良しとしているからではなく、[ただ] 便宜上それらを容認することが適当だと判断するからであり、もっと良い時勢には自ら自身の自由を行使してきたのです。ですから、そのような時には説得ならびに勧告、そよび嘆願とにより、人類の永遠の救いを供給するという天主から託された、義務としての使命を果たすべく努めるのです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 もし私的な寛容で事足りるならば、公的な寛容、ましてや道徳的悪ないしは宗教的誤謬を助長する宣伝活動(プロパガンダ)の自由を与える余地はなくなります。たとえば個人的行動領域(for externe privé)として限定された寛容の例としては、スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条が挙げられます。(これらの条項は第二バチカン公会議の教義憲章『信教の自由に関する宣言』の適用によって廃止されるまで有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

(e)寛容に対する権利なるものは存在しない:
 寛容が義務となる場合、それはあくまでも共通善実現を見こした政治的賢慮の義務、および宗教上の正道からはずれた者たちに対する愛徳の義務としてであり、道を誤った者らに対する正義の義務では決してありません。
「政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、・・・厳しく制限されねばならないということです。」
(レオ十三世、回勅「リベルタス」)
「真の信仰の保全においては、キリスト教的愛徳ならびに賢慮の徳との求めるところにしたがってことを進めねばなりません。すなわち、一方では逆らう者たちが恐れのために教会から遠ざかることなく、かえってこれに惹きつけられるように、また他方で、国家社会と教会のどちらも一切損害を被らないように配慮する必要があるということです。従って、教会の共通善と国家の共通善とを常に念頭に置かなければなりません。」
(第二バチカン公会議草案)

 寛容の義務は―――かかる義務が存在する場合―――、正道を誤った者たちに対する正義(配分的正義)の義務ではないという点を再度強調しておかなければなりません。「賢慮の正義」と「愛徳の正義」とを区別する必要があります。従って、寛容の義務は寛容の対象となるところの人々において寛容を享受するいかなる権利の基盤とも成り得ません。権利というものは、他者の側における正義の義務を含意するからです。実際、寛容を被る権利とは、明らかに荒唐無稽なものです。そのような権利は、誤謬に固執するのを妨げられない権利、先に示したようにおよそ不合理な「権利」に等しいからです。既に指摘した通り、誤謬ならびに道徳的悪、またこれらに対する固執は、積極的であろうと消極的であろうとの別を問わず、いかなる権利をも有しません。以下に、この問題に対するレオ十三世教皇の極めて明快な文章を引用します。

「真の原則を解説・説明するに当たっての、あなたの正直さと率直さは称賛に値すると私は判断しました。これらの原則に則して、あなたは世俗的法制において当の原則に離反するものを弾劾し、またこれらの原則に則してあなたは、どのような意味でもし状況がそれを必要とする場合、規則に反することがらを黙認しうるかということを教えています。(あなたが教えているように)それらのことがらが黙認されるのは、それらがより大きな悪を避けるために採択される場合であり、またこの際、それらのことがらは権利の尊厳にまで高められてはなりません。正義の永遠の法に反する権利など一切有り得ないからです。願わくはこれらの真理が、良心の自由、信教の自由、報道の自由およびその他、前世紀末に革命家らによって宣布され、教会のたゆまぬ排斥の対象となってきた種々の自由に頑なに固執しつつあえてカトリックを自称する者らに理解されますように。また、かかる真理が、これらの『自由』に寛容を施される対象となりうる(=寛容の精神に基づいて黙認されうる)ものとしてばかりでなく、これらを権利として見なし、現代の社会状況ならびに進歩の歩みに必要なものとして助長・保護すべきものとして支持する者たちによっても理解されるますように。このような見解を取る彼らは、あたかも真の宗教に悖るもの全て、人間に自律(autonomie)を与えて天主の権威から解き放つところのもの全てが、またあらゆる誤謬ならびに風紀道徳の腐敗へと広く道を開くところのもの全てが諸々の民に繁栄と進歩、栄光を与えることができるかのように振る舞うのです。」
(レオ十三世 シャルル・ペラン氏宛の書簡 1875年2月1日付き PIN 3010-3011)

(f)宗教的寛容の立法上の表現:
 法律上の文書が根本的に道徳的かつ神学的な区別である、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を表現しうるでしょうか。またもし可能だとすれば、どのようにこの区別を表現できるでしょうか。
 この二つの問いは、種々の憲法の文面、またピオ十一世教皇の文書にその回答を見いだすことができます。

● スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条(この条項は第二バチカン公会議当時は有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

● 1848年3月4日に発布されたイタリア国憲法
 同憲法第一条において、カトリック教がイタリア国家の唯一の宗教と見なされ、他の宗教はただ容認されるに留まることが明言されています。

● 1929年6月24日発布のイタリア国法
「正当にも国家の宗教であるカトリック教に特別な法的立場が与えられている以上、いかなる現代国家も否定し得ない良心の自由の原則を尊重して、教理上、或いは祭儀上、公の秩序と風紀良俗に反さない限りでの、あらゆる信教の自由な活動を承諾せねばならない。」
(これはオッタヴィアーニ枢機卿によって書かれた著書 Institutiones juris publici ecclesiastici, Tomus II, P. 71 の中で引用されている文書。しかるにこの文書が法律自体のものであるのか、或いは公認の解説文であるのかは不明。)

● ピオ十一世の文書
「『黙認・許容・容認される』ところの諸宗教:言葉上の問題を提起するのは、この私ではありません。そもそもこの問題は、すでに『法令条文』と『順善に立法上の文書』との区別によって解決済みです。前者は、それ自体で見ると、より理論的かつ教理的であり、『黙認される』という言葉がより適しています。後者は実践を目ざしており、ここでは『許容・容認される』という言葉をそのまま残しておくことができます。ただし、これはその意味をしかるべく了解しての上です。すなわち、カトリック教が、またこれのみが、憲法および諸々の条約に従って国家の宗教である、という事実が、かかる憲法上の権利から導き出される論理的ならびに法律上帰結―――とりわけ布教の問題に関して―――がしかるべく了解され、またカトリック教が単にただ許容・容認されるところの宗教ではなく、かえって政教条約の文字と精神とが示す通りの存在であることが、これに劣らず明白にしかるべく了解された上でのことです。」
(ローマ聖座とイタリア王国との間で取り交わされた政教条約についてのピエトロ・ガスパリ枢機卿宛の書簡 1929年5月30日付け)

 第三番目に引用した文書に見られる「良心の自由の原理を尊重して」という、教会が認めることのできないくだりを除いて、これらの文書は、教会による様々に異なる評価の対象となりうるニュアンスの違いをそれぞれ含みつつも、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を法律上表していると言えます。


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